MAKI'S GALLER Y
コロンボ・シリーズ
 No.13〔ロンドンの傘〕

【13】『ロンドンの傘』DAGGER OF THE MIND(一九七二年)
原案リチャード・レビンソン&ウィリアム・リンク 製作ディーン・ハーグローブ 共同製作エドワード・K・ドッズ 脚本ジャクソン・ギリス 監督リチャード・クワイン 撮影ジェフリー・アンスワース/ハリー・ウルフ 編集ロナルド・ラヴィン 音楽リチャード・ベネディクティス セット製作ジョン・マッカーシー・Jr 美術アーチ・J・ベーコン 衣装グレーディ・ハント

 ロンドン南西チェルシー、スローン・スクエアに佇む〈ロイヤル・コート・シアター〉の歴史が染みた舞台で、ニコラス・フレーム(リチャード・ベイスハート)とリリアン・スタンホープ(オナー・ブラックマン)の俳優夫妻が、『マクベス』の稽古に励んでいた。公演が目前に迫り、リハーサルは熱を帯びた。
 シェークスピアが『マクベス』を執筆したのは一六〇六年頃と言われる。スコットランド王マクベスの正式名は、ややこしい「マックベタッド・マックフィンレック」で、舌を噛みそうになる。在位は一〇四〇〜五七年で、勿論、実在した。従兄のダンカン一世を倒し、王位を奪っている。その王位を脅かす者、継承者となり得る者を次々と抹殺して、保身を謀った。
 が、やがて償いの時を迎える。自業自得、因果は巡るだ。一〇五四年、身の危険を感じてイングランドへ避難していたマルカム三世(ダンカン一世の子)が、軍勢を率いて舞い戻ったのである。すっかり成人したマルカム三世は、恨み骨髄のマクベスに、父親の弔い合戦を挑んだ。一〇五四年、『スクーンの戦い』で大敗させ、五七年の『ランファナンの戦い』で止めを刺す。最後の決戦に敗れたマクベスは討ち死にし、首を刎ねられた。八月一五日だった。享年五二。五〇歳を過ぎれば合戦も辛い? 長剣を振り回す戦いの最中、息切れして、討ち取られたかも知れない。
 復讐を果たしたマルカム三世は、スコットランドの支配権も回復した。ところがイングランドとの仲が拗れ、紛争は続いた。一〇九三年一一月一三日、五度目の侵攻作戦で敗北したマルカム三世も、とうとう戦場の露と消える。
 夜、篠突く雨を突いて、リリアンの後援者ロジャー・ハビシャム卿(ジョン・ウィリアムズ)の高級車がスクエアに現れた。ロールス・ロイスか? いや、そっくりだが〈ベントレー〉だった。サー・ロジャーは愛車を劇場の脇へ滑り込ませた。楽屋へは裏口から入った。傘は傘立てに入れて。
 老貴族の古い鞣革みたいな顔は怒気に歪んでいた。憎からず想う女優リリアンに誑かされていた──と、判ったのである。それは公演の資金を巻き上げる腹黒い計略だった。黒幕は夫ニコラスに違いない。
「これはこれはサー・ロジャー、良くお出で下さいました」リリアンは戸惑いながら出迎えた。驚きつつも、精々、諂って見せた。が、見るからに不機嫌な老人は、冷淡に女優を見返した。瞳の奥には蔑みの色があった。不意に彼女のネックレスを毟り取ると、床へ叩きつけた。乳白色に輝く真珠が四方へ飛び散った。舞台用の小道具で安物だが。
 ハビシャム卿は怒りを露わにした。「誰がお前なんか後援するか! 間抜けなパトロン役を演じるなど、願い下げだ。芝居は中止する!」公演の出資を拒んだ揚げ句、即時中止まで宣言した。
 口論を小耳に挟んだ夫が、心配になって、楽屋へ顔を出した。すると「貴様の差し金だろう!」と、卿は憤怒の矛先をニコラスに向けた。「わしから金を巻き上げる為に、女房を差し出すとは、呆れた亭主だ!」と、暴言を吐いた。ハビシャム卿の怒りは収まらなかった。「淫売と大根役者に謀られるとは……ああ情けない。よくも私を虚仮にしてくれたな。ただでは済まさんぞ。お前たちの下劣な役者生命など、立ち所に抹殺してくれる!」と、上流貴族とは思えない悪口雑言を連発して、手に負えなかった。
「邪推だ!」ニコラスも興奮して怒鳴り返した。宥め役に回りたいが、口汚く罵られると、大人しく引き下がってなど居られない。さりとて、中傷合戦に嵌り込んだら埒が明かないし、この騒ぎを他の者に聞かれても拙かった。「サー・ロジャー、落ち着いて下さい。兎に角、冷静に話し合いましょう」ニコラスはひとまず事態の鎮静化に努めた。が、頑固一徹で、忠言など耳に入らぬハビシャム卿は、「うるさい。公演は即時中止だ。皆に伝える!」と息巻いた。老貴族は二人を無視して舞台へ向かおうとした。
 慌てたニコラスは老人を引き止めようとした。初日は目前だった。土壇場で中止されたら困却する。また、突然、中止したら、マス・コミが騒ぎ出し、騒動の原因を突き止めようとしたろう。三角関係を面白おかしく書き立てて、スキャンダルになったに違いない。それでは二人の役者生命まで危うくなる。
 リリアンも険阻な雰囲気に呑まれた。「ニック、早く止めて!」感情を統御できなくなって叫んだ。化粧台のコールド・クリームの大瓶に手が触れた時、思わず投げつけた。白い大瓶はハビシャム卿の頭部に命中し、跳ね返った。化粧品に痛撃された老人は、呻き声を発して倒れ込んだ。恰も命数が尽きた枯れ木のように。
 コールド・クリームの大瓶は床に落ち、「ごろり」と音を立てて転がった。騒ぎの後の静寂が不気味だった。雷鳴のような静けさだった。雷鳴の静けさ? この言い回しはシェークスピアだ。「有り得ない事象」と文句を言っても仕方ない。意図的に相反する語句を組み合わせ、劇的な響きを醸そうとしたのである。
 そうした静寂の中に、老人が一人、だらしなくのびていた。まるで打ち捨てられた古い人形みたいに。この老翁を車に準えると、廃車寸前だったので、脳だか心臓だかのくたびれた部品が壊れて、永久停止したに相違ない。ニコラスも事の重大さに気づいた。「何てこと……」ぐったりした老人の上に屈み込んで、容態を調べた。間もなく、ニコラスは上体を起こし、青ざめた表情でリリアンを見上げた。その瞳は「ハビシャム卿を殺したぞ」と語っていた。リリアンは再び「はっ」と息を呑んだ。
 それにしても、この醜態は何としたことか。ハビシャム卿は名プロデューサーと謳われ、シェークスピア演劇の普及に情熱を注いだ偉人ではなかったのか? 今回、『マクベス』の公演を賛助したのは、もしかして、女優リリアンが目当てだったのか? 彼女は人妻だった筈だが。痴情の縺れが絡んで殺されるようなら、「ろくでもない人物」と酷評されても仕方なかろう。高貴な聖人君子なら、最初からこんな事件に巻き込まれたりしない。
 いずれにしろ、楽屋に老いぼれの死骸を転がしては置けなかった。それは確実で、誰かに見られたら、その瞬間に万事が休した。難儀な立場になった俳優夫妻は、当面の処置として、ハビシャム卿の死体を衣装箱へ押し込んだ。その一方で『マクベス』の舞台稽古も続けた。
 衣装箱が気がかりなリリアンは、稽古の合間を見つつ、頻繁に楽屋へ戻った。「誰かが中を覗いたら大変……」と思っている所へ、「暖房の修理をしなきゃ」と、ぼそぼそつぶやく楽屋番のジョー・フェンウィック(アーサー・マレット)が現われ、リリアンの心臓を縮み上がらせた。
「役者に風邪を引かせちゃ申し訳ない。楽屋番の名折れ」ジョーは暖房機の修理を始めようとした。そんなジョーの目が、作業の邪魔になる衣装箱に転じられた。「はっ」としたリリアンは、咄嗟に機転を利かせ、どすんとその衣装箱に腰を降ろした。どっかと座って、指一本、触れさせない態勢を取った。「楽屋でうろうろされたら気が散るわ。稽古に身が入らないのよ。暖房機の修理なら明日にして頂戴!」と、頭ごなしに申しつけた。
「そう、言われても……」ジョーは不服そうにリリアンを見返した。故障している暖房機を修理したかった。さもないと、劇場の支配人から怠けていると見做される。単に叱られるだけでなく、解雇される恐れだってあった。だが、女優リリアンの剣幕に気圧されたジョーは、不服ながらも修理を諦めた。支配人に小言を言われたら、女優に責任を擦り付ける手もある。
 一方のリリアンは安堵した。のろまの楽屋番が、「死にかけた亀」みたいにとろくさい修理を始めたら、何時、終わるか、判ったものではなかった。冬が終わるまでに直せたかどうかも疑わしい。楽屋が寒いのも困りものだが、今は人騒がせな死体を他人に見られたくなかった。対する楽屋番のジョーは、不満げな顔をしつつ、「雨の中、わざわざやって来たのに」と、ぶつくさ言いながら引き揚げて行った。この時、傘を取り違えてしまう。
 俳優夫妻は平静を装って稽古をこなした。すっかり終わって帰る頃には雨も上がっていた。死体を詰め込んだ衣装箱は裏口から運び出し、ニコラスの愛車〈モーガン〉に積み込んだ。サー・ロジャーが乗って来た〈ベントレー〉はリリアンが運転した。二人はロンドンの北五〇キロにある、広壮で古風な老貴族の屋敷へ向かった。夜更けにサー・ロジャーの死体を運び込み、二階へ通じる階段の下へ転がして、如何にも足を踏み外して転落したように見せかけた。ハビシャム卿は高齢だった。棺桶に片足を突っ込んで──いや首まで浸かっていたので、唐突に立ち眩みを起こして階段から転落しても、別に不自然ではないと思われた。
 使用人たちは居室が遠く、執事は庭園を挟んだ離れに住んだので、勘づかれる心配はなかった。出資の勧誘を目当てとして、リリアンは幾度かこの旧邸を訪ねたことがあった。勝手知ったる他人の家だ。帽子、コート、傘は、リリアンがクロゼットの所定の場所へ戻した。他方、書斎へ赴いたニコラスは、読書机に書棚から抜き取った本を一冊、伏せて置いた。チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが一八六五年に出版した『不思議の国のアリス』だった。こうして置けば直前まで読書をしていたように見えるだろう。この後、水でも飲みに階下へ降りようとして、足を踏み外し、転落死したことになる。「気の毒に、サー・ロジャーは運が悪かった」の一言で片付けられる。
 事故死の偽装を済ませて引き払う時、「あいつ、ヒヒ爺だった」と、リリアンが吐き捨てるように言った。それにしても、過失致死、家宅侵入、転落死の故造を助け合うとは、呆れた鴛鴦夫婦である。全く希有なアンサンブルだった。
 翌朝、コロンボ警部の姿が、ジェット・エンジンの唸りが木霊するヒースロー国際空港にあった。ヒースローはロンドン西郊に鎮座する英国最大の空港で、国際線の利用客は世界一と言われる。
 珍しい今回の海外出張は、〈ニュー・スコットランド・ヤード〉に赴いて、先進の科学捜査を学ぶことだった。研修の使命を帯びた公務である。ところが空港に到着する早々、荷物を紛失したり、置き引きと間違えられたりで、散々な目に遭う。勘違いする女性(フラン・ライアン)はレインコート姿のアメリカ人を犯人扱いした。税関職員(ヘドリー・マッティングリー)がやって来て、強制連行されそうになった。公用で乗り込んだと言うより、旅慣れない田舎の旅行者――御上りさんが、不細工な失敗ばかり畳みかける風情だった。
 丁度、この場へ来合わせた、空港税関保安課のオキーフ刑事(ジョン・フレイザー)に、助けられる。本庁から連絡があったので、LAの客人を捜していたのだ。さもないと、どんな目に遭ったか、判ったものではなかった。オキーフ刑事の案内で、どうにか無事にロンドンへ到着すると、バッキンガム宮殿や衛兵のパレードなど、印象深い光景をカメラに収めた。ボーイ・スカウトの弟から借りたカメラを使っての、お定まりの観光挨拶だった。
 この後、オキーフ刑事は、コロンボ警部をウェストミンスターのブロードウェイ街へ案内し、〈ロンドン警視庁〉の綺麗な建物を紹介した。「新しく建て直したので、ニュー・ニュー・スコットランド・ヤードになります」彼は駄洒落を飛ばしつつ、英国警察機構の総司令部を紹介した。すると、カイゼル髭が厳めしい大柄な男が一人、正面玄関からぬっと現れた。強面で睨みを利かすのは、犯罪捜査局のアーサー・ダーク(バーナード・フォックス)刑事部長だった。「オキーフ……二時間前に到着している筈だぞ」と、どすの利いた声を響かせつつ、遅延を叱った。が、こちらも突発した不祥事を抱え込んで、警察大学を見学する初日の予定を、いきなり狂わせてしまう。「恥ずかしながら、大きな事は言えないのです。親戚に不幸がありまして……先にそっちへ寄っても宜しいか?」ダーク部長は済まなさそうに尋ねた。コロンボ警部が快く譲歩して、二人はロンドン北郊へ向かった。客人送達の役目を終えたオキーフ刑事は、本来の職場となる空港へ戻って行った。
 死体で見つかったハビシャム卿は刑事部長夫人の縁者だった。「五親等で縁遠く、ろくに会ったこともないのです」部長は他人事みたいに語った。
 サー・ロジャーの屋敷には、頼りない風体の巡査が居て、事故現場を保守していた。階段から転落した遺体はすでに片付けられていた。ちょび髭が間抜けな印象ばかり与える駐在はチャーリー(ジョン・オーチャード)と名乗った。チャップリンに似ていなくもなかった。この田舎警官は地方訛り丸出しで喋った。「えーと、殿様はですな、外出着で死んでおりやして……」彼の言説は聞き取りにくかったが、「外出着」の言葉が警部の耳に残って、好奇心を擽った。「古風な貴族なら夜間はナイト・ガウンに着替えていそうなもの。外出着で死ぬのは異例ではないか?」だが、ここはLAから遠いロンドンだった。管轄外の事件に首を突っ込んでも仕方なかった。
「あちこち見物しては如何ですかな。ここは由緒ある建物で、一見の価値がありますぞ」刑事部長は手持ち無沙汰なコロンボ警部を慮って、屋敷の見学を勧めた。「はあ、では、そうさせて頂きます」警部は彼等と別れ、古色蒼然たる中世建築の様式、造作などを見物して回った。この間にダーク部長はチャーリー巡査から詳しい説明を受けた。
 建物は古臭かった。あちこちに物の怪でも潜んでいそうな雰囲気があった。淋しい夜には時代遅れの幽霊が出たかも知れない。ところが本能の為せる業か、詮索の虫の蠢動か、建築様式などそっちのけで、警部は細かな疑点を拾い出してしまう。どうやら警察官の目は観光や遊覧に向かないらしい。
 故人の部屋に飾った舞台女優リリアンの写真は別にして、読書机の上に乱雑に放置された『不思議の国のアリス』の初版本がまず奇異に映った。非常に高価な骨董で、市場では二〜三〇〇〇ポンドの値がついたのだ。出版は一八六五年七月四日だが、最初の二〇〇〇部は品質が悪く、回収を余儀なくされてしまう。作り直した『不思議の国のアリス』は、その年の一二月、改めて出版される。
 それは兎も角、骨董価値を知り尽くす貴族が、滅多に手に入らない希書を、開いたまま伏して置くとは考えにくかった。これでは背表紙を痛めるし、元々くたびれている古書が泣き別れる誘因となる。バラバラになったら値打ちは大暴落する。当然、家宝のように大切に扱った筈だが。おまけに高齢者の読書に欠かせない老眼鏡も見当たらなかった。警部がふと見つけた呼び鈴の紐を、興味本位に引くと、驚く勿れ、ディーン・タナー(ウィルフリッド・ハイド=ホワイト)なる本物の執事が現れた。
「失礼、呼び鈴は、ただの飾りかと思って……お宅、本物の執事さん?」警部は目を見張った。初めて対面する本場の執事に興味津々だった。が、老眼鏡の一件も忘れず尋ねた。「老眼鏡? それでしたら、何時も御主人様の胸ポケットに収まっておりますが……」タナーは丁寧な言葉遣いで答えた。老眼鏡は壊れてもいなかった──これは後で判る。
 後日、コロンボ警部はダーク部長のお供をして、サー・ロジャーの舞台葬に参列した。荘厳な告別式は故人所有の劇場で行われた。黄泉の国へ旅立ったサー・ロジャーは、生前、演劇をこよなく愛したので、告別の儀が舞台で執り行われれば本望だったろう。警部はここで女優リリアンと会った。彼女が棺に取り縋って、人目も憚らず大泣きの芝居を見せた直後だった。同情して彼女にハンカチを差し出した時、故人の部屋に飾られた写真が脳裏に蘇った。すでに写真でリリアンを見ていたので、初対面の気がしなかった。
「二人はどんな関係だろう?」興味津々の警部は、挨拶をした序でに、『マクベス』公演の初日の切符をねだった。リリアンは勘違いし、「新聞社の方なら切符は手に入るでしょ」と答えた。「違います。私はアメリカから来た火消しでね」警部はそう説明した。「犯罪捜査局刑事部長の腰巾着みたいなものでして」とも告げた。他意などなかったが、後ろめたいリリアンの方が勝手に驚き、「殺人課が捜査に乗り出した」と杞憂を募らせた。ロンドン警視庁の「犯罪捜査局」は殺人を扱う部局だ。殺人課と呼ばれる独立したセクションはない。
 急いで楽屋へ戻ったリリアンは、ニコラスの見栄を詰った。「最初に話があったアガサ・クリスティの芝居に出ていれば、こんなことにはならなかったのよ!」
「何を今更……私にあんな田舎芝居が出来るか!」ニコラスも癇癪を破裂させ、遣り返した。「第一、お前が殺したんじゃないか!」と、責任回避の発言までした。「ま、何ですって? 貴方が気取ってシェークスピアなんかやりたがるからでしょ!」腹立たしい妻も牙を剥いた。擦った揉んだの見苦しい悶着となってしまう。しかし、今は内輪で争っている場合ではなかった。犬も食わない夫婦喧嘩など後回しにして、まず危急存亡の秋──殺人容疑で摘発される危機を乗り切らねばならなかった。
「待て待て、良い考えがある」ニコラスはリリアンを伴ってサー・ロジャーの邸宅へ急いだ。
「故人に貸してあった『マクベス』の本を取りに来た」ニコラスは出迎えた執事のタナーにそう告げた。狙いは捜査の妨害だった。「アーヴィング卿の名著で、余白に演技の参考になる覚え書きがあるんだ。公演に是非とも入り用でね」ニコラスは嘘っぱちを言い、執事にある筈もない本を探させた。
 ヘンリー・アーヴィングは一九世紀の希代の名優だった。演出家としても一流で、シェークスピア芸術の神格化に絶大な貢献を為し、サーの称号を賜っていた。そのアーヴィング卿が手ずから加筆した書なら、優に二〜三万ポンドの高値がついたろう。執事は真剣に邸内のあちこちを探した。しかし希書は見つからなかった。「変ですね。見当たりません」執事は無念そうに肩を竦めた。
 ニコラスの魂胆は、後刻、この一件を、執事の口から警察に語らせることにあった。が、折しも、居合わせたダーク部長が偽りの紛失騒ぎに気づき、首を突っ込んで来た。ダーク部長もニコラスの嘘に引っ掛かかった。「アーヴィング卿の名著が盗まれた……すると、泥棒が入ったのか? サー・ロジャーは、泥棒と争って、階段から突き落とされたのか?」部長は推理を迷走させた。
 一方のコロンボ警部は、こうした空騒ぎには巻き込まれず、現実的な捜査の目を故人の愛車に向けた。使用人が洗い始めたばかりの高級車〈ベントレー〉に、雨に濡れた水玉の痕があったのだ。「これはおかしい」の警部のつぶやきに攣られて、ダーク部長は、こちらにも首を突っ込んで来た。「何がだね?」と警部に尋ねた。警部は応えた。「昨晩、この地域に雨は降らなかったでしょ」
「はっ」としたダーク部長は、直ちに使用人に洗車を止めさせ、「車には手を触れぬように!」きつく申し渡した。
 確かにそうだった。昨晩の降雨はロンドンと、それ以南だった。五〇キロ北のこの地域には、雨は降らなかったのである。警部はつぶやいた。「なのに、どうして故人の愛車が濡れたのだろう? 昨晩、サー・ロジャーは、ロンドンへ出かけたのではないか?」警部は〈ベントレー〉が深夜に屋敷へ戻ってくる場面を想像した。「外出着で死んでいたことから推して、被害者が殺されたのはシティで、すでに死亡した状態で屋敷へ運び込まれた……」警部はそう推理した。死体が車から降ろされる情景、何者かの手で邸内へ運び込まれる様子、階段の下へ転がされる場面などを思い浮かべた。「きっと犯人が死体を階段の下へ転がしたんですよ。胸ポケットに仕舞った老眼鏡が壊れなかったのは、遺体をただ置いたからです。もし階段から転げ落ちていたら、胸ポケットの老眼鏡は飛び出すか潰れたでしょう」
「ふむ……」ダーク部長は考え込んだ。
 このあと『マクベス』公演が初日を開けた。事前にハビシャム卿の死亡が公表されたこともあり、追悼気分の観客が蝟集して、公演は大盛況となった。熱気に充たされた舞台が跳ねると、俳優夫妻の知人などが楽屋に詰めかけ、押すな押すなの大混雑になった。ここでは称賛の嵐が飛び交った。
 同じく楽屋を訪問したコロンボ警部は、祝辞を述べる客でごった返す中、床に転がってキラリと光る真珠の一粒を見つけた。切れたネックレスから散逸したものだ。ここで諍いがあったと思われた。「事件当夜、被害者が楽屋を訪れた」を前提として、雨のこと、アメリカ公演の話、散逸した真珠のことなど取り混ぜつつ、警部がニコラスとリリアンのそれぞれに尋ねると、経験豊富な俳優たちは近似した台詞で受け答えをした。通常の事情聴取では、証言の食い違いに悩まされるが、彼等の答弁は念入りに稽古を積み重ねたようで、称賛に値するほど合致していた。実際に口裏を合わせる稽古を積んだのである。警部にその点を指摘された二人は、冷水を浴びたような顔を見合わせた。苦労して疑いを深めたら世話はない。
「何てことだ。全く、ついてない!」ニコラスは唸った。失意の夫妻は家路に就いた。すると、愛車〈モーガン〉を停めた界隈で待ち伏せていた楽屋番ジョーが歩み寄って来た。「名優に車のドアなど開けさせられない」と、専横なご託をほざいて、ただドアを開けるだけのサービスで、図々しくチップをせしめた。ただ、この御陰で、ニコラスはジョーが手にする雨傘を、間近で見ることが出来た。その一瞬に、紫檀の柄と銀の装飾金具が網膜に焼きついた。ハビシャム卿が愛用した傘だ。それを楽屋番が持っている。
「おい、リリアン、楽屋番がサー・ロジャーの傘を持ってるぞ!」ニコラスは愛車に乗り込むと、驚愕の表情で吠えた。「まさか……そんな」助手席に座り込んで、考え事をしながら否定するリリアンだが、事件があった夜、「暖房を修理する」と言いながら、ジョーが楽屋へ現れたことを思い出した。邪険にし、追い返したが、帰る時に取り違えたのだ。「そうだわ。ま、何てこと!」やっと気づいたリリアンも目を剥いた。「早く取り返さないと大変よ!」彼女も慌てた。
「糞っ、世話を焼かせおって!」腹立たしいニコラスは車を降りた。捕食獣みたいに楽屋番を尾行した。ジョーは劇場の近くにあるパブに入った。せしめたチップで酒を飲む肚だった。ニコラスも追って酒場に入り、「日頃、世話になる礼だ」と称し、楽屋番のジョーに酒を奢った。ダーツ(投げ矢)の相手もした。最後は酒場に居た全員に気前良く酒を振る舞った。一同が大いに盛り上がった隙を突いて、ニコラスはまんまと傘を盗み出した。
 夜は雨になった。そぼ降る雨の中、コロンボ警部は楽屋番ジョーの行方を探した。事件の夜、「老貴族は楽屋を訪れたに違いない」と考えて、彼から当夜の様子を聞こうと思ったのだ。劇場の近くまで来た時、偶然、パブから帰るジョーと出会した。雨は次第に強くなり、舗道に無限の水飛沫を上げた。夜の街を鮮やかに飾る七色のネオンも、今は鈍く煙った。道路を走る車も、車体に降りかかる雨水を撒き散らしながら走った。次々と現れては消えて行くヘッド・ライトが、そんな雨を銀色の針みたいに輝かせた。
「傘を盗まれた……」濡れそぼつ楽屋番が、半べそを掻きながらつぶやいた。如何にも興醒めした風体だった。「ついさっきまでフレームの旦那と飲んでいた。気前よく奢って貰った」と付言したが、傘を盗んだ張本人がニコラスとは夢にも思っていない。「フレームさんに酒を奢って貰い、傘を盗まれたのか。なるほどね……」相槌を打つ警部も傘は持って居ず、ぐっしょりと濡れた。しかし、ジョーの話から、俳優夫妻への疑念が一層強まった。ジョーは頼りなげな感じの男だが、こうしたタイプは馬鹿正直が取り柄で、嘘をついたりしない。
 他方、傘を奪ったニコラスとリリアンは、雨を蹴散らすように黄色の〈モーガン〉を素っ飛ばし、ロンドン北郊を目指した。傘を取り替えれば一件落着となる。これで安心――と、思ったが、老貴族の屋敷へ到着して見ると、意外な事態が待っていた。「それが、演劇の発展に寄与したサー・ロジャーの身の回りの品は、蝋人形館に陳列されることになりまして、帽子にコート、傘なども、とっくに運び出されました」と、応対の執事が慇懃な態度で説明した。
「何てことだ……」ニコラスは唸った。「蝋人形館に楽屋番の傘を陳列されたら拙い。遅かれ早かれ、サー・ロジャーの知人や縁者が、傘が違うことに気づく。そうなると、事件当夜、サー・ロジャーが楽屋へ来たことが露見する」
 またもや慌てふためく夫妻は、急遽、都心へ引き返した。今度は相携えて〈ロンドン・ワックス・ミュージアム〉へ急行し、倉庫へ忍び込んだ。悪行は止まる所を知らない。滑稽とも言えるが、そうした夫妻の奇妙な行動は、一癖ありそうな執事のタナーに、ただならぬ猜疑心を抱かせた。このあとコロンボ警部まで傘の問い合わせに来たので、老執事はますます夫妻への疑惑を強めた。「旦那様を害したのは俳優夫妻に違いない」と、タナーは手応えを掴んだ。一見するとお人好しらしく見えるが、この執事も存外に強かだった。
 警部も傘に振り回される格好で、蝋人形館の倉庫へ向かった。タナーにも同道を頼んだ。サー・ロジャーの傘を確認して貰う為である。生憎と俳優夫妻が取り替えた後になってしまうが。
 夜中に呼び出されたダーク部長、同じく引っ張り出されたジョーンズ館長(ロナルド・ロング)は、半信半疑で警部の所作を見守った。傘の確認を求められたタナーは、ここに保管されている傘を、「亡き主人のものに間違いありません」と、一同の面前で公言した。
「変だな……そうか、すでに交換されたんだ」警部はタクシーで老貴族の邸宅へ向かった時、荒っぽい運転の〈モーガン〉とすれ違ったことを思い出した。俳優夫妻が乗り回す黄色い車で、危なく接触事故を起こしそうになったのである。「私が訪問する前、誰かが傘のことを問い合わせに来たでしょう」警部がタナーに問うと、老執事は鉄面皮で「誰も来ませんでした」と口を拭った。途中で擦れ違った黄色の〈モーガン〉のことを持ち出すと、「ああ、あの車種ですか。あれは英国に多いのです。何しろ英国製ですから……ハハハ」ぬけぬけとほざいた。
〈モーガン・モーター・カンパニー〉は一九一三年に設立された老舗だ。創業者の一族が今も手作りのスポーツ・カーを製造している。本社はイングランドのマルヴァーンにあって、社員は一五〇人余りだ。購入には手付け金が必要で、製品の完成まで一年近く待たされることもある。それでも小粋な〈モーガン〉を乗り回したい人が、後を絶たないと言う。
「おかしい……」首を傾げる警部は、この時、倉庫に入り込む隙間風を肌に感じた。誰かが窓を開け、きちんと閉めなかったようである。この隙間から冷たい夜風が入り込むのは、何者かが侵入した形跡だった。すると、ダーク部長がまどろっこしさに痺れを切らし、嫌味を飛ばした。「アメリカ式の堂々巡りも、たまには雰囲気が変わって良いわ」と。捜査の迷走を遠回しに皮肉った。コロンボ警部は沈黙した。
 翌朝、高級アパートの一室。ベッドの俳優夫妻は新聞の劇評に有頂天だった。各紙ともフレーム夫妻の演技を絶賛していた。「この調子なら我々の未来は薔薇色だ。アメリカ公演だってやれる。不運なサー・ロジャーはくたばったが、これだけ評判になれば、出資者は幾らでも集まる」ニコラスは得意顔で大風呂敷を広げた。玄関のチャイムが鳴るとリリアンは祝電の到着と思い込んだ。「早くお祝いの言葉を聞きたいわ!」と胸を躍らせ、夫を促した。「解った。解った」ベッドを出たニコラスが、ガウンを羽織りながらドアを開けると、そこには電報の配達人ならぬ執事のタナーが立っていた。
 ニコラスは面食らった。「こ、こんな時間に何しに来た?」唖然としながら用向きを尋ねると、諂いが商売の執事は、微笑みながら、〈ガーディアン紙〉とクロワッサンを差し出した。「劇評は概ね好意的なようです。それから焼き立てのクロワッサンなど如何でしょう。サー・ロジャーも朝食に良く召し上がりました」と言いながら、厚かましくアパートへ入り込んだ。「主人亡きあと失業しても困りますので……この歳になりますと、別口を探すのも大変で」さりげなく老貴族の謀殺を匂わせた。執事はこれを餌に使って安泰な生活を釣り上げる魂胆だった。
「幾ら欲しいのよ!」リリアンは激昂し、声を荒げた。「はは、無粋な話は御食事のあとで宜しいでしょう。早速、朝食の支度を致します」執事は楽しそうに朝食の仕度に取りかかった。
 俳優夫妻は呆れた顔を見合わせた。面倒が後を絶たなかった。公演の出資を引き出そうと老貴族を嘲弄したが、これが思いもかけぬ殺人に発展し、死体の処理、傘の奪回となり、蝋人形館の倉庫へ忍び込んでの掏り替えまでやって、どうにか安堵したと思ったら、今度は老執事の恐喝だった。芝居の公演を打つにはスポンサーが必要だが、ここに端を発した犯罪狂詩曲は、二転三転しつつ、殺人者たちをこれでもかと苦しめていた。あたふたすればするほど困却が増えた。惨憺たる目に遭いながら、次の困苦を引き出していた。骨折り損の草臥れ儲けに過ぎないのか?
 犯罪はやはり間尺に合わなかった。しかし覆水盆に返らずで、一旦、暴走を始めたら、後は徹底して遣り遂げるだけだった。遮二無二、災禍を乗り越え、突き進んで行くのみである。慮外者が立ちはだかるなら、殺害して、墓場へ叩き込むだけだった。その趣意に則って、ニコラスは不遜な執事も縊死に見せかけて殺害した。
 帰国の日、警部が公園のベンチで新聞を読んでいると、オキーフ刑事が現れた。「空港までお送りしましょう。紛失なさった手荷物は空港警察が見つけてあります」彼は懇到この上ない刑事だった。「帰国か……」研修の日程を使い果たした以上、警部としても、アメリカへ帰るしかなかった。折角、ロンドンを訪れたが、事件に遭遇したせいで、旅愁に耽る暇すらなかったことを悔やみつつ。とは言え、老貴族の事件が気になって、このまま帰任する気になれなかった。執事タナーに誑かされたことが癪だったし、犯人も野放し状態だった。このまま引き揚げたら大きな痼りを残したに違いない。
 新聞が「老貴族の殺害犯は執事!」の、扇情的な見出しを掲げていた。これも気になった。「五〇万ポンドに相当する主人の蔵書を着服した。譴責した主人を殺害したが、後で恐ろしくなり、首を括って自殺した」と、解説を加えていた。無論、警部の判ずる所は違った。傘を巡る一連のドタバタ劇で、俳優夫妻の犯罪を嗅ぎつけた老執事タナーは、強請ったせいで口を封じられたのだ。「五〇万ポンドの蔵書を着服したって? 違う、本なんかじゃない。それは犯人の偽装工作だ。事件解決の鍵は傘だ」と言う警部は、レンズの焦点を絞るように、一連の出来事を振り返った。
 事件当夜、ロンドンは雨だった。天気予報でこれを知ったサー・ロジャーは、傘を持ってチェルシーの劇場へ向かった。女優や後援のことで争いが起こり、老貴族は死に至った。困った俳優夫妻は死体を屋敷へ運んで事故死に見せかけた。ところが一つ手違いが生じた。暖房器具の修理に来た楽屋番ジョーが、追い出された時に、間違ってサー・ロジャーの傘を持ち帰ったのである。ここから犯人たちの計画が狂った。さもなければ、ニコラスが危ない橋を渡ってまで、傘を取り戻そうと奮闘する筈がなかった。一連の騒ぎから、執事タナーは真相に気づき、犯人の俳優夫妻を強請った。そして、激怒した犯人の手で、消されたのである。
「今回の事件は傘を中心に展開している。サー・ロジャーの傘が楽屋にあったことを証明すれば、真犯人を逮捕できる」警部はそう結論した。他に使えそうな小道具は見当たらないし、俳優夫妻の犯罪を暴くには、傘を利用するのが一番に思えた。「問題はどうやるかだが……」思索を練りつつ新聞に目を走らせると、蝋人形館の広告が目に留まった。演劇界に貢献したサー・ロジャーの蝋人形を公開するらしい。ここからある妙案を捻り出した警部は、開演前の蝋人形館にフレーム夫妻を招くよう、オキーフ刑事に熱願した。「ダーク部長に上申して貰えないか。頼むよ」
 一足早い公開に招待されたニコラスとリリアンは、着飾って蝋人形館を訪れた。一般客も相当数が〈ロンドン・ワックス・ミュージアム〉の前に参集した。行列は刻々と長くなって行った。正規の開演時間まで余り間がないので、手早くやっつけねばならなかった。陳列場所へやや遅れて登場したコロンボ警部が、最後の仕上げに取りかかった。「まずは蝋人形を拝見しましょう」警部の掛け声で、この場へ引っ張り出された館長が除幕した。一足先にハビシャム卿の偉業を称える蝋人形が公開された。「薄気味悪いわ」リリアンは人形の生々しさにぞっとした。髪が逆立つ悪寒を覚えた。
 警部は途中で買って来た蝙蝠傘を使い、謎解きを始めた。「事件があった夜、ロンドンは雨でした。サー・ロジャーは雨傘を持って出かけたでしょう。ところで、濡れた傘は窄めて雨水を切り、傘立てに立てかけます。しかし、乾くまではきちんと畳まないので、中に雑多な物が紛れ込む。葉巻の灰とかね……」警部は意味深長に講釈した。「次に楽屋に真珠が散らかっていたのは、リリアンさんの首飾りが切れたせいです。被害者と争いましたから」と言いつつ、劇場の衣装係から貰って来た真珠をポケットから取り出し、一同に見せた。芝居に使う小道具で安物だった。「おっと失礼」ここで大袈裟に咳払いした。
「違う。ネックレスは夫婦喧嘩の時に切れたんだわ!」リリアンは強弁した。警部の意図を察したダーク部長が、館長に「蝋人形が手に持つ傘を調べるよう」命じた。飛び散った真珠の一つが傘の中へ紛れ込んだかも知れない。相槌を打つ館長は、手早く傘を通路側へ持ち出し、一同の面前でゆっくりと開いた。すると、白く輝く真珠の一粒が、対称的に真っ赤な絨毯の上へぽとりと落ちた。衝撃が走った。乳白色の淡い光彩がその場を支配し、衆目を一点に集めた。
「……」ややあって、黙したまま、徐にこれを拾い上げたダーク部長は、警部が手にする真珠と対比して、「同じだ。同じ代物だ」劇的な響きを込めながらつぶやいた。
「そんな、嘘よ。嘘だわ。これは罠よ。私たちを陥れる陰謀よ!」リリアンは泣訴した。顔から血の気が引いた。涙が溢れ、アイ・シャドーが滲み、マスカラも乱れた。他方、「殺人の動かぬ証拠を突きつけられた」と早呑み込みするニコラスは、「アハハ」と、出し抜けに自虐の高笑いを飛ばした。次の瞬間には芝居っ気を起こし、「明日。ああ、明日と言う日が……」と『マクベス』に準え、我が身の不運を大袈裟に呪った。
 一方のダーク部長は、俳優夫妻に冷たい軽蔑の視線を投げた。瞳の奥では怒りの火花が散った。五親等で縁が薄いとは言え、ハビシャム卿は部長の親族だったのである。
「明日、明日、ああ、明日と言う日が……」芝居に準えて嘆きを発するニコラスは、犯行を認めたも同然だった。追い詰められたリリアンは刑事部長に泣きついた。「あ、あれは事故だったの。本当よ、わざとじゃないわ!」
 ついに事件の全容が明らかになった。「詳しいことは本署で伺いましょう」ダーク部長は夫妻にきっぱりと申し渡した。少し離れた位置に待機する刑事や警官たちを呼び、二人の拘留を命じた。勿論、容疑は殺人である。うなだれる夫妻は部長の部下たちに連れ去られ、蝋人形館の前で待機する警察車両へ押し込められた。
「大変結構でした」館長は満ち足りた表情で賛辞を呈した。犯人の逮捕劇は蝋人形より面白い演し物だったかも知れない。彼は踵を返した。開演に備えて立ち去った。
 劇的な余韻が去ったあと、「それにしても、真珠が傘の中から転がり出るとは……運が良かった」ダーク部長が天佑に託けながら感服した。しかし、果報を寝て待つタイプではないコロンボ警部は、頭を振った。折り曲げた人差し指の中央にポケットから取り出した真珠を乗せながら言った。「子供の頃、好きな女の子の気を惹く時、良くやったもんです」と言いながら、これを親指で弾いて見せた。真珠は警部が狙った灰皿の中へ見事に飛び込んだ。
「そうだったのか……やったな」刑事部長は思わず唸った。先ほど警部が大仰に咳払いした場面を思い浮かべた。その隙に真珠を飛ばし、傘の中へ放り込んで、犯人たちに一杯食わせたのである。

◆蝋人形は英国を代表する名優サー・ローレンス・オリビエを彷彿とさせる。犠牲者のサー・ロジャーには余り似ていない。共通するのは禿頭のみだ。これもご愛敬か。倉庫でこの蝋人形の頭を棚から落とし、床に転がすものの、流石に踏みつけたり蹴飛ばしたりはしなかった。かと思うと、リチャード・ベイスハートに「アガサ・クリスチイの田舎芝居など出来るか!」と言わせる場面もある。これらは事あるごとにアメリカを風刺したがる英国への鞘当てか? それとも気の回し過ぎか。
◆リチャード・ベイスハートは、アメリカ・オハイオ州の出身。映像の魔術師フェリーニの『道』(一九五四年)で演じた旅芸人の役が著名。『白鯨』(一九五六年)、『カラマーゾフの兄弟』(一九五八年)などに出演し、一九六四年から始まったTV『原子力潜水艦シービュー号』で、主役のネルソン提督を演じた。原版は二〇世紀フォックスの『地球の危機』(一九六一年)だ。映画では提督役を『わが谷は緑なりき』(一九四一年)や『ミニヴァー夫人』(一九四二年)、『雨の朝巴里に死す』(一九五四年)のウォルター・ピジョン(一八九七〜一九八四年)が演じた。他には『恐怖の叫び』(一九四七年)、『夜歩く男』(一九四八年)、『山のロザンナ』(一九四九年)、『秘密指令』(一九四九年)、『暁前の決断』(一九五一年)、『タイタニックの最期』(一九五三年)、『善人は若死にする』(一九五四年)、『崖』(一九五四年)、『女』(一九五九年)、『黒い肖像』(一九六〇年)、『荒野の愚連隊』(一九六一年)、『太陽の帝王』(一九六三年)、『サタンバグ』(一九六五年)、『第三帝国の興亡』(一九六八年)、『The Andersonville Trial』(一九七〇年)、『海底都市』(一九七一年)、『激怒』(一九七二年)、『さすらいのガンマン』(一九七二年)、『チャトズ・ランド』(一九七二年)、『Mansion of the Doomed』(一九七六年)、『テロリスト・黒い九月』(一九七六年)、『ドクター・モローの島』(一九七七年)、『チャンス』(一九七九年)、『伝説のマリリン・モンロー』(一九八〇年)、『新ナイトライダー2000』(一九八二年)などに出演した。一九八四年夏、LAオリンピックで、閉会式のアナウンサーを勤めるが、およそ一か月後の九月一七日、脳卒中で死去した。享年七〇。
◆英国でロケした作品の為、英国俳優が多数登場する。オナー・ブラックマンは生粋のロンドンっ子だ。『四重奏』(一九四八年)で映画デビューし、『帰郷』(一九四八年)、『ガラスの檻』(一九五五年)、『SOSタイタニック』(一九五八年)、『A Matter of WHO』(一九六一年)、『アルゴ探検隊の大冒険』(一九六三年)などに出演し、『007/ゴールドフィンガー』(一九六四年)で脚光を浴びた。『帰郷』(一九四八年)、『その日その時』(一九六五年)、『砂漠の潜航艇』(一九六八年)、『シャラコ』(一九六八年)、『おませなツインキー』(一九六九年)、『The Virgin and the Gypsy』(一九七〇年)、『最後の手榴弾』(一九七〇年)、『テキサス大強盗団』(一九七一年)、『恐怖の子守歌』(一九七一年)、『三銃士』(一九七三年)、『悪魔の性キャサリン』(一九七六年)、『秘密組織』(一九八二年)、『フィビー・ケーツのレース』(一九八四年)、『タロス・ザ・マミー/呪いの封印』(一九九八年)、『To Walk with Lions』(一九九九年)、『ブリジット・ジョーンズの日記』(二〇〇一年)、『ビーンストーク ジャックと豆の木』(二〇〇一年)、『アイ・アム・キューブリック!』(二〇〇五年)などに出演した。
◆ジョン・ウィリアムズは、バッキンガムシャーのチャルフォントで生を受けた。『麗しのサブリナ』(一九五四年)と『ダイヤルMを廻せ!』(一九五四年)が有名。『オペラハット』(一九三六年)、『The Goose Steps Out』(一九四二年)、『パラダイン夫人の恋』(一九四七年)、『モナリザの微笑』(一九四八年)、『東方の雷鳴』(一九五二年)、『皇太子の初恋』(一九五四年)、『泥棒成金』(一九五五年)、『あの日あの時』(一九五六年)、『純金のキャデラック』(一九五六年)、『ロック・ハンターはそれを我慢できるか?』(一九五七年)、『日の当たる島』(一九五七年)、『情婦』(一九五七年)、『都会のジャングル』(一九五九年)、『誰かが狙っている』(一九六〇年)、『底抜け宇宙旅行』(一九六〇年)、『ダブル・トラブル』(一九六七年)、『脱走大作戦』(一九六八年)、『パリの秘めごと』(一九六八年)などに出演した。一九八三年五月五日に没。八〇歳だった。
◆ウィルフリッド・ハイド=ホワイトは、イングランド南西部グロスタシャーの出身。『描かれた人生』(一九三六年)、『カラナグ』(一九三七年)、『月のかなたに』(一九三九年)、『暁の決闘』(一九四七年)、『四重奏』(一九四八年)、『第三の男』(一九四九年)、『文化果つるところ』(一九五二年)、『ギルバートとサリバン』(一九五三年)、『古城の剣豪』(一九五五年)、『北西戦線』(一九五九年)、『泥棒株式会社』(一九六〇年)、『恋をしましょう』(一九六〇年)、『ダイナミック作戦』(一九六一年)、『マイ・フェア・レディ』(一九六四年)、『殺しのエージェント』(一九六五年)、『恐怖の蝋人形』(一九六六年)、『野良犬の罠』(一九六八年)、『マジック・クリスチャン』(一九六九年)、『ポンペイ殺人事件』(一九七〇年)、『宇宙空母ギャラクティカ』(一九七八年)、『ザナドゥ』(一九八〇年)、『類猿人ターザン』(一九八一年)、『若草のふくらみ/ファニー・ヒル』(一九八三年)などに出演した。一九九一年五月六日、心不全で死去。八七歳だった。
◆バーナード・フォックスはウエールズの出身。港町のポート・タルボットで生まれた。名優アンソニー・ホプキンスもそう。前者は一九二七年で後者は一九三七年生まれだ。『Blue Murder at St. Trinian's』(一九五七年)、『贋札団急襲』(一九五七年)、『SOSタイタニック/忘れ得ぬ夜』(一九五七年)、『史上最大の作戦』(一九六二年)、『秘密殺人計画書』(一九六三年)、『南極ピンク作戦』(一九六四年)、『お熱い出来事』(一九六五年)、『怪物家族大暴れ』(一九六六年)、『The Bamboo Saucer』(一九六八年)、『スター!』(一九六八年)、『一〇〇万ドルの血斗』(一九七一年)、『あひる大旋風』(一九七一年)、『ビアンカの大冒険』(一九七七年)、『ラブ・バッグ/モンテカルロ大爆走』(一九七七年)、『プライベート・アイズ』(一九八〇年)、『エイティーン・アゲイン/これで2度目の18歳』(一九八八年)、『タイタニック』(一九九七年)、『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(一九九九年)に出演。TV『奥様は魔女』ではドクター・ボンベイに扮した。ディズニーのアニメ『ビアンカの大冒険〜ゴールデンイーグルを救え!』は声だけの出演。
◆舞台は霧の都ロンドン、物語の背景に『マクベス』が登場するので、重厚で格調高いサスペンスが展開しそうな雰囲気もある。が、主役は庶民派のコロンボ警部なので、そこまでは無理。反面、犯罪を暴く決定的な局面で、警部らしい真価を発揮する。山場で長ったらしい講釈を繰り広げられると冗長だが。小説、映画、舞台などでは、探偵の長広舌――事件の解説が延々と続き、大半の観客が失神するか、発狂する。
 その点、警部は真珠を親指で弾いて、簡潔に済ませる。この茶目っ気もコロンボ警部の真骨頂で、拍手喝采を送る場面になっている。速攻で歯切れ良く終了するのは、放映時間が限られたTVドラマゆえか。「多少、物足りなさを覚える」と言ったら贅沢だろう。主演のピーター・フォークは「LAの警官がロンドンへ行くのはおかしい。必然性がない」と危惧したらしいが、筆者は好きな作品。LAの事件で「やたら陳腐な展開になる」方が、よほど深刻な問題だろう。肝心なことは物語の構造式がしっかりして、隙がなく、洒落た味付けを施してあること。ロンドンでは驟雨に打たれるので、よれよれ羊毛色の雨外套も役に立つ。
◆老貴族を死に至らしめたのは過失致死か殺人か? 切羽詰まったリリアンは、「事故だったの。わざとじゃないわ」と、ダーク刑事部長の前で泣訴する。脳死の問題まで含めれば、死んだかどうか不確かな老人を、衣装箱に詰め込んで放置し、豪邸へ搬送して、偽装工作まで行っている。ひとまずその場凌ぎの言い逃れを吐くとしても、実質的には夫と二人して、被害者の生存を断つ、無慈悲な行為を畳みかけている。もし、裁判で「不可抗力」などと主張すれば、被害者が悲憤に猛って化けて出たろう。ただ過失致死のシーンは珍妙で、ニコラスが老貴族を壁に押しつけている背後から、リリアンがコールド・クリームの大瓶を投げつける。命中の瞬間は画面で見せず、解釈に悩むが、これでは夫君の後頭部に命中する危険の方が大きい。作品作りに関しては、おかしな場面を作らないと気が済まないようである。また「早く止めて」と言いながらクリームの大瓶を投げつけるのも疑問。相手は朽ち果てそうな枯れ木──いや死にかけた老人なので、ずっと若い夫妻が二人がかりで抑え込めば制止できたろう。ここは「淫売め」とでも罵られて逆上し、衝動的に大瓶を投げつけるのが正解だ。
◆警部は研修に来た筈だが、そうした場面は微塵もない。確かに事件が起こり、そっちへ首を突っ込むが、普通は両方を描くだろう。それとも放映時間が足りなかったか? あと、老貴族の階位くらい、はっきりさせて貰いたい。爵位には公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵があるが、番組を見ても判然としないので、文中では大雑把に「卿(総称)」とした。
◆ちょっと脱線するが、「シェークスピアは実在しなかった」と主張する人々が居る。「直筆の手紙や原稿が見当たらない」と言うのが不在説の憑拠のようだ。さりながら、四〇代後半に田舎のストラトフォードへ引き籠もり、五二歳で没したことは間違いない。すると、素晴らしい物語の数々──邪な人間の底知れぬ罪業などを、驚嘆すべき若さで描いたことになり、これが新たな謎を生む。「天才と言えど若年で人間心理を究めるは難しいだろう」と。また、これだけ大成したなら、叙勲して貴族の地位にでも列せられ、国家的な規模で演劇や文学の発展に寄与すれば良さそうなもの。光栄も盛名も恣に出来る立場を手にしつつ、なぜ若くして田舎へ引き籠もったのか? シェークスピアに謎めいた面があるのも確かである。
◆彼の生きた時代は華麗なエリザベス王朝だった。女王は洗練された美人で才女、古典にも通じた。この王朝が最大の危機を迎えたのが一五八八年七月で、『無敵艦隊』を要するスペインのフェリペ二世と対決した。この時シェークスピアは二一歳だった。無関係? いや、とんでもない。スペインとの国運を賭けた戦争は、彼の将来をも左右する一大事だった。ここで大敗したら様々な運命が激変したろう。この時、英海軍は劣勢で、極めて悲観的な状況だった。ところが海賊上がりのドレーク提督が、古式に縛られない奔放な戦術を駆使し、当時、最強と謳われたスペイン艦隊を撃破する。フェリペ二世は愕然としたろう。もと海賊に決戦を任せたのも驚きだが、スペインの脅威を除いた大英帝国は、ルネサンス文化が咲き誇る典雅な時代へ向かう。シェークスピアもこの繁栄に浴し、演劇界の頂点へ上り詰めて行った。そして、エリザベス女王が四五年の治世を終えて去った時、シェークスピアは三九歳になっていた。この数年のちに遁世し、一六一六年に五二歳で他界する。日本では前年の一六一五年に『大坂夏の陣』が起こり、豊臣氏が滅亡している。
◆歴史的な視点で見るなら、希代の天才は時代の節目を感じたかも知れない。エリザベス王朝を引き継いだスチュアート王朝に愛想を尽かした可能性もある。ジェームズ一世(即位一六〇三年)は出来損ないで、新教の弾圧など含め、国民と激しく対立した。国内には混乱が拡がった。新王は国宝級のシェークスピアを大切にし、便宜を図ったが、国民一般には横暴な態度で臨んだので、ここに芸術の翳りを見たかも知れない。次のチャールズ一世が王位に就くと、王と国民の関係は更に険阻となった。チャールズが議会を潰そうと企んだので、怒ったロンドン市民が武装蜂起に訴えた。『清教徒革命』の勃発は一六四二年だ。動乱は共和制を訴えるオリバー・クロムウェル(一五九九〜一六五八年)が、国王を引っ捕えて処刑する大波乱となった。そのクロムウェルも急進的な思想を嫌われ、反対派やフランスの干渉に引きずり回された。この外因がもとで英傑クロムウェルも壮絶な過労死を遂げる。マラリアに倒れたと言う説もあるが。シェークスピアが没した頃は余りひどくもなかったが、やがて国内が大荒れとなるので、文学や演劇どころの騒ぎではなかったろう。シェークスピアが絶頂期を過ぎた頃から、演劇の流れが軽妙な風刺劇、喜劇へと変遷したこともある。これは「悲劇の流行」に対する反動だった。最高傑作の『リア王』は観る者の魂を打ち砕き、宥恕しないが、次々と悲劇を畳みかけられる観客は、神経が持ち堪えられなかった。これに反発する喜劇の流行は、シェークスピア自身が撒いた種と言えそう。
◆ロンドン警視庁が〈スコットランド・ヤード〉と呼ばれるのは、建造された場所がスコットランド王の居住区域「スコットランド・ヤード」に近かったからだ。ヤードには長さの単位の他に、庭や操車場などの意味がある。創立は一八二九年で、「スコットランドの王様が住む場所」に近い──と言う形で用いられている内に、何時しかロンドン警視庁と同義語になった。
◆事件の舞台となる〈ロイヤル・コート・シアター〉の開設は一八八八年だ。第二次大戦後の一時期、衰退するも、一九五六年五月、劇作家ジョン・オズボーン(一九二九〜九四年)の『怒りをこめて振り返れ』が上演され、爆発的な人気を呼んだ。名声は世界に知れ渡った。