◆『空軍司令官ゲーリングの妄想』  小柄で機内燃料が少ないMe109は、終始、飛行距離の不足に苦しんだ。戦場へ辿り着いた途端、帰りの燃料が心配になる有様で、満足に戦えなかった。これでは勝てない。E型の場合、機内タンクは座席の後ろに1つで、容量も333リットルに過ぎないのだ。この基礎設計からして大きな誤りだった。第2次大戦に登場した多くの戦闘機が、胴体や翼に、3つから4つの燃料タンクを備えたが。
 設計主務のメッサーシュミットは、戦闘機を競争自動車と混同したか? スピードを競う自動車の場合、小さく軽くスマートに作れば、空気抵抗とエンジンへの負荷が小さくなるので、高速で疾走したろう。燃料が怪しくなれば、ピットへ滑り込んで補充すれば良い。ピットは「給油やタイヤ交換」など行なう整備所のこと。但し、モーター・スポーツの競技場と異なり、大空の戦場には給油所など存在しない。敵地上空でガス欠に陥ったら、どうする積もりか?
 限定された紛争――国境付近での局地戦なら、短距離の飛行で間に合う為、そうした問題は起こらない。近場の基地へ戻り、直ちに給油して、再び出撃すれば良いのだ。ところが、世界大戦は、地球の大半を呑み込む広域戦争となる。遥かな彼方まで侵攻し、戦って、戻らねばならないのだ。これも車に置き換えて考えよう。近所での買い物に使うなら、寧ろ、小型のタウン・カーが好ましい。小回りが利くし、狭い路地裏も楽に走り抜ける。車庫入れなどの扱いも簡単だろう。が、欧州全域を旅行するなら、反対のグランツーリスモ(長距離走行車)が必要になる。略称GTだ。大型で余裕があるし乗り心地も良い。何より燃料をたっぷり積めた。
 反対に、僅かな燃料しか積めない小型スポーツ・カーで出かけると、至る所でガス欠を起こし、立ち往生する。スタンドを探して歩き回らねばならない。ドライブを楽しむどころか、怒りの発作を起こすと思われる。「この役立たず!」最後は車を蹴飛ばすのだ。これと同じで、ドイツ空軍が「世界大戦=広域戦争」へ乗り出すなら、まず、長距離戦闘機を開発すべきだが。
 その意味で、短距離戦闘機を抱えて大戦に乗り出したドイツ空軍は、最初から勝利に見放されていた。穿った見方をするなら、勝利を蹴飛ばして開戦したのだ。敗北戦争への船出となる。短距離しか飛べないと、敵が遠方で戦力を掻き集め、大反撃の準備をしていても、ただ漫然と、待つことしか出来ない。先制攻撃が出来ないと、大軍に攻め込まれて、狼狽えるばかりとなろう。
 但し、ドロップ・タンク(落下式増櫓)を追加すれば、こうした欠陥を多少なりとも補えた。機内燃料が乏しいので、劇的な効果は望めないが、ないより増しには相違なかった。
 劇的効果が望めない? Me109各型の中で最も洗練されたF型で補説しよう。ソ連侵攻作戦に合わせて登場したF型の機内燃料は400リットルだ。仮に1000リットルの増櫓を懸架できても、機内タンクへ移せるのは400リットルまでだ。敵機が現れたら、邪魔な増櫓は切り離して戦うので、残り600リットルは捨てるしかない。遠い基地へ移動する時は、補充を繰り返しつつ、飛び続ければ良いが。しかし、交戦が必至となる戦場では、お荷物は真っ先に捨てねばならない。重量や空気抵抗が足を引っ張って、思うように動けず、返り討ちに遭うからだ。また、増櫓の中に残量があると、これが激しく流動する問題も起こった。スロッシング(液体の跳ね返り)が負荷を掛け、懸架装置を壊して、増槽が脱落したろう。一番恐ろしいのが、残量が多い状態で、増槽に焼夷弾を受けた場合だ。ハイオク燃料が発火して、瞬時に乗機を火達磨にしたろう。パイロットはコックピットの中で火葬される。
 次にペイロード(可搬重量)と燃費の問題があった。重苦しくなって、燃費が悪くなると、懸架しても効果が薄いのだ。そうした問題も含めて、Me109の増櫓は250リットルが適切だった。機内燃料400リットル+増櫓250リットルで、合計は650リットルとなる。しかし、これでは1000qほど飛ぶのが精一杯だ。
 対極に立つ米軍の巨漢戦闘機〈サンダーボルト〉Dだと、機内燃料1420リットルに加え、増櫓410リットル×2を懸架したので、合計では2230リットルになり、最大航続距離3170qを実現した。効率としては、余り良くないが、これは全備重量が6580sもあるせいだ。
 しかし、ないより増しの増櫓でも、早くから装備して、少しでも飛行距離の延伸を図るべきだろう。ドイツにはなかったのか? いや『スペイン内戦』(1936〜39年)で、ハインケルの複葉単座戦闘機He51Bが使っている。増櫓を抱えて飛ぶ写真も残っているのだ。He51のA型は、初期生産のモデルで、B型が増櫓を使える距離延長型、C型が対地攻撃モデルだった。開発が始まったのは20年代後半で、最初はスポーツ機だった。ドイツの軍備を規制する『ヴェルサイユ条約』への配慮である。新たに独裁者となったヒトラーが、条約を破棄してから、戦闘機に変身した。部隊配備が始まるのは1933年で、正式採用は35年だった。生産数はおよそ1000機である。

 この投下式タンクには別な使い途もあった。近場の敵を攻撃する場合だが、未だ燃料が残っているタンクを敵地へ叩きつけ、破裂させて、飛び散ったガソリンに銃弾を浴びせるのだ。火災が発生するので、軍需品の集積所を攻撃する時などに、大きな威力を発揮した。燃料や弾薬に火が回れば、次々に誘爆し、手が付けられなくなった。手間暇かけた備蓄努力も無に帰した。この場合、機銃の弾帯に、焼夷弾を混ぜて置く必要があるが。尤も、通常弾の他に曳光弾、焼夷弾、徹甲弾を配列することは、前大戦から常態化していた。
 曳光弾を開発したのは英国で、第1次大戦の前である。また、長い弾帯の最後に、曳光弾だけ並べることもあった。ギラギラ光る弾丸が、連続発射されるので、パイロットに「撃ち止め」を教えた。こちらは発展的応用となる。弾丸を撃ち尽くしたら一目散に撤退すべきだ。弾丸を持たない戦闘機で戦場をうろつくのは自殺に等しい。
 そして、第1次大戦が始まると、直ぐ、焼夷弾や炸薬弾も開発された。最初は飛行船や気球の破壊に用いた。1917年6月16日のツェッペリン飛行船L48の撃破が有名だ。正しくは硬式ひ飛行船で、Lは海軍の所属を表す。ドイツは発火性の高い水素ガスを使ったので、派手に爆発し、炎上した。不活性の単原子ガスたるヘリウム(He)を使えば燃えにくいが、ドイツにはなかったのだ。そこで、アメリカにヘリウムの輸入を申し入れるが、戦時禁制品として販売を断られてしまう。

 さて、ハインケルのHe51は、全般的に性能が低く、人民戦線が使うソ連製の戦闘機に歯が立たなかった。BMW6 73Z液冷12気筒エンジンは、750馬力を発揮してまずまずだが、機体側の問題点――複葉と固定脚が大きな抵抗を生み、最大速度を330q/hと、低く抑えていた。
 他方、ソ連が左翼勢力を後援する為、スペインへ送ったポリカルポフI-16〈モスカ〉は、こちらもエンジンはシュベツォフM-25の750馬力だが、単葉形式で引き込み脚を採用し、空気抵抗を減らしていた。この威力で最大455q/hの速度を発揮した。馬力は同じでも速度が120q/hも速いのだ。また、He51が搭載する機銃は2挺だが、I-16(24型)は2倍の4挺を搭載した。He51で〈モスカ〉に戦いを挑むのは自殺行為になった。
 また、ツポレフ(アルハンゲリスキー)SB双発爆撃機も、960馬力のクリモフM-103×2で、最大450q/hを発揮したので、330q/hのハインケルHe51では、追撃不能になった。爆撃機に追いつくことの出来ない戦闘機になってしまう。「これでは戦えない!」第88戦闘飛行隊は悲鳴を発した。そこで新鋭のMe109B〈ベルタ〉、並びにMe109C〈ツェーザー〉が応援に向かった。36年末である。この時にMe109のパイロット達が増櫓を目にしたろう。「Me109にも装備して欲しい」と思わなかったか?
〈モスカ〉はスペイン側の呼称で「蝿」のこと。ソ連では〈イー・シヂスャート〉と呼んだ。革命後のソ連の航空機開発は、ニコライ・ジュコーフスキー教授が創設した〈中央航空力学研究所〉で行なわれ、ここにポリカルポフやツポレフなどの俊才が集結し、開発に凌ぎを削った。教授が他界した1921年に、航空部隊が編成されているが、この段階では輸入機の寄せ集め状態だった。が、25年頃から国産化が始まり、30年代後半になると、主要な設計者を長とする、〈航空機設計局〉が誕生する。イリューシン、スホーイ、ミコヤンとグレビッチ、ヤコブレフ、ラヴォチキンなどが、それぞれ独自の設計局を運営したのだ。蛇足になるが、社会主義の国には民営企業は存在しない。
 また航空機の名称も改変された。それまでのI(戦闘機)、SB(中距離爆撃機)、DB(長距離爆撃機)、R(偵察機)、PS(輸送機)、UT(練習機)などの符号を冠する方式は廃止され、設計局のイニシャルと番号を用いることとされた。例えば、Yak3の場合、ヤコブレフ設計局が3番目に設計した機体となる。改造型は末尾にアルファベットを添付した。Yak3Kは、45oの機関砲NS45を搭載したモデルとなる。尤も、大口径の機関砲は扱いにくく、採用は見送られるが。
『スペイン内戦』の勃発は1936年7月だ。左派の人民戦線と右派の反乱軍が衝突した。この頃、Me109の生みの親、ウィリー・メッサーシュミットは、BFW(バイリシェ・フルークツォイクベルケ)社に在籍したので、Bf109と呼ばれた。が、1938年7月、メッサーシュミットは独立し、「メッサーシュミット株式会社」を興す。名称もMeに変わった。また、ナチス・ドイツの軍用機は、社名2文字を用いて識別した。ハインケル=He、アラド=Ar、ユンカース=Ju、ドルニエ=Do、フォッケウルフ=Fw、フィーゼラー=Fi、ブローム・ウント・フォス=BV、バッヘム=Ba、ヘンシェル=Hsなどである。従って、メッサーシュミットはMeとなる。Bfは存在しない。

 話は変わって、1940年4月、ドイツ軍はノルウェーに侵攻した。ここではユンカース社の急降下爆撃機Ju87Rが300リットルの増櫓を追加して、中・長距離の作戦を行った。翼内にもタンクを追加し、航続距離を1530qに伸ばしている。この飛行距離は初期のJu87Aの1.5倍に相当した。増櫓の導入がノルウェー侵攻を可能にしたのだ。この時、30機のMe109、70機のMe110も出動している。

 いずれにしろ、落下式増櫓の有効性は疑うべくもない。670qしか飛べないMe109Eには、是非とも欲しい装備だろう。もっと早く足を延ばしていれば、前進基地の建設に追われた空軍設営隊の困苦も、かなり減らせた筈なのだ。物資の輸送に駆け回った補給部隊も同じ。不時着機の元へ駆けつける機体回収班の苦難も、やはり縮減できたろう。
 その意味で、メッサーシュミット教授の短距離戦闘機は、「支援隊に大迷惑を及ぼした」と言える。小型化して空気抵抗を減らす設計理念は、確かに合理的だし、小さく作ることで戦争資材も節約したろう。しかし、運用に係わる分野で非合理を極め、多方面に無駄な苦しみを与えている。煎じ詰めれば、「小さな合理」と「大きな無駄」の鬩(せめ)ぎ合いだが、到底、採算が合ったとは思えない。戦闘機には「局地戦闘機」、「長距離戦闘機」、「双発複座戦闘機」、「夜間戦闘機」など、様々な種類があるが、Me109は「迷惑戦闘機」だったのではないか。ちょっと手厳しい?
 が、Me109が「迷惑戦闘機」でも、落下式増櫓を追加すれば、多少なりとも不備を補えたのだ。元来、機内タンクの容量が乏しく、増櫓を追加しても1000qしか飛べないが――その3倍も飛ぶ長距離戦闘機には歯が立たない。しかし「ないより増し」には違いなく、一刻も早く増櫓を使えるよう、改造すべきだったろう。

 ところが、この問題の前へ、空軍総司令官ゲーリングが立ちはだかるのだ。「長距離作戦なら、その為に開発したMe110〈ツェルシュテラー〉がある」として――お得意の尊大さに諂(へつら)う取り巻き連中も巻き込みつつ、「Me109への増櫓追加など無駄な努力」と笑い飛ばすのだ。「遠出する爆撃機の護衛が必要なら、双発のMe110に任せれば良い」と壮語し、ドイツの命運に係わる大問題を、笑止千万と切り捨ててしまう。単発のMe109E〈エミール〉が、増櫓を抱えて飛ぶ姿は、最初から空軍総司令官の眼中になかったのだ。これではどう仕様もない。
 では、開発者のメッサーシュミット教授は、この問題をどう考えたのだろう。総司令官は「長距離作戦ならMe110に任せれば良い」と専決したが、実際は役に立たなかったのだ。日米英などの、多くの戦闘機設計者も、「不細工で鈍重……双発複座のMe110は役に立たない。俊敏な単発戦闘機に襲われたら、忽ち撃墜される」と主張したろう。メッサーシュミット教授も猛反対すべきではないか。「閣下、Me110はそうした目的には使えません」と。いや、この御仁は、近年、戦闘機を作り始めたばかりの素人だった。ずっと民間の航空会社に居て、民間機ばかり設計したので、軍事とは無縁だったのだ。
 1934年夏に始まった戦闘機の競争試作に、Bf109を出品し、ここから空軍と係わりを持ち始めるのだ。当時、ミュンヘン工科大学教授でもあったが。この頃、教授は、ナチの統合政策により、BFW社に取り込まれていた。

 ゲーリングは高笑いしたが、その根底で、周辺世界に対する蔑視が渦巻いていた。ドイツの技術は世界最高で、他国の製品は二流、または三流――と、頭から卑下していた。「世界最優秀のゲルマン民族が作る製品が、下等種族の製品に負ける道理がない」と独善し、傲慢の泥沼で溺れたのだ。しかし、その驕(おご)り高ぶりは、1940年夏、『イングランド航空戦』の開始とともに凍りつき、亀裂が走って、砕け散った。ドイツは世界最優秀? 愚物に陶酔していたら世話はない。尤も、英空軍以外は、実際に二流、若しくは三流で、全く歯が立たなかったが。
 そんな元帥閣下が溺愛する双発複座のMe110〈ツェルシュテラー〉は、全備重量が7t近くあり、重苦しかった。3t以下で俊敏、且つ、軽快に飛翔する〈スピットファイア〉や〈ハリケーン〉戦闘機に翻弄されて、片端から撃墜されてしまう。
 実際、英本土上空で空戦を始めると、愚鈍なMe110は、機動性に優る英戦闘機に追い回され、追い詰められて、銃弾を浴びるばかりだった。血塗れになった乗員とともに墜落し、大地に叩きつけられたのだ。武装はそれなりに強力で、機首上部にMG17×4(弾薬各1000発)、その下部にMGFF×2(弾薬各60発)を備えたが。集中射撃の威力は強烈だ。しかし、運動性が悪く、敏速な英戦闘機の背後を奪うことが出来ず、全くの無意味だった。強力な武装を備えても、「発砲する機会は滅多になかった」のだ。
 これでは機首へ集めた機銃×4、機関砲×2も、飾り物に過ぎない。縦しんば、この2倍の兵装を備えても、結果は変わらなかったろう。俊敏な戦闘機を攻撃する機会など無に等しいからだ。反対に捕まり、撃ち砕かれて、燃え落ちたのだ。
 もっと辛辣(しんらつ)に評すなら、Me110〈ツェルシュテラー〉は、2人乗りの空飛ぶ辛櫃(からひつ)だった。税金で作る高価な金属製の棺(ひつぎ)となる。この「空飛ぶ棺桶」を宛がわれた口の悪い飛行士は、Me110を「自殺機」と呼んだ。英軍飛行士たちは「俎上(そじょう)の肉」と呼んで、寧ろ、来攻を歓迎した。後は包丁を振り下ろすばかりだからだ。暴れる猛牛と異なって、簡単に料理できたのだ。撃墜用の餌食だったのである。
 この件に付随して、意味深長な出来事が事前にあった。『英本土航空決戦』(1940年夏)が始まる少し前――スイス国境地帯に於ける小競り合いだ。大戦前のスイス空軍は、ドイツからMe109C〜E型、およそ80機を購入していた。他日、進路を誤ったMe109Fが2機、国内へ迷い込んだので、同国はこれを鹵獲し、我が物とした。領空侵犯による没収となる。大戦の後半には、Me109Gが2機、やはり悪天候で進路を誤り、スイスへ飛び込んで来た。これもスイスの所有物となり、戦闘機隊へ編入された。
今日では、他国へ迷い込んだ軍用機は、所有国へ返還する決まりになっている。
 ところで、最新鋭の戦闘機を外国へ輸出すれば、性能などの軍事機密を知られて、不都合ではないか? いや、その前に、横暴無比な独裁者が支配する第3帝国は、深刻な外貨不足に陥っていた。スイスだけでなく、ソ連、ユーゴ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、そして日本へもMe109を売却して、外貨を稼いだのだ。販売数は300を超えた。

 ドイツ軍のフランス侵攻が始まったのは、1940年5月10日だ。ヒトラーは戦前に結んだ『独仏善隣協定』(1938年)も踏み倒す。調印した時は、相互不可侵を共同宣言し、にこやかに握手したが。ヒトラーはポーランドと結んだ『独ポ不可侵条約』(1934年)も蹴飛ばした。英国と結んだ『英独海軍協定』(1935年)も反故にしている。続いて『独ソ不可侵条約』(1939年)も破棄するが。ヒトラーは条約破りの常習犯だった。
ただ、本来の対仏侵攻は1月17日と定められていた。ところが10日の夜、ドイツ軍の連絡機Me108〈タイフーン〉が、ベルギーへ不時着する。この時、第2航空軍の連絡将校ヘルムート・ラインベルガー少佐は作戦計画書を携えていた。4人乗りの〈タイフーン〉を操縦したのはエーリヒ・ヘーンマンス少佐だ。悪天候で針路を誤ったらしい。アルグスの270馬力エンジンも故障した。本来、作戦計画書は列車で運ぶ予定だったが、ラインベルガー少佐は乗り遅れた為、私用でケルンヘ向かうヘーンマンス少佐の機に同乗させて貰ったのだ。
 捕まって、国境の検問所へ連行されたラインベルガーは、隙を見て書類をストーブへ突っ込むものの、焼却には失敗した。一方のベルギーは、「作戦計画書は焼却された」こととし、ドイツを油断させつつ、オランダやフランスに警告した。
 いずれにしても、その後の展開から判るように、どれほど警戒や準備をしても、近代的なドイツ軍には歯が立たなかったろう。この頃、時代遅れになっていた各国のポンコツ軍隊が惨敗するのは、火を見るより明らかだったのだ。
 しかし、苦々しいヒトラーは用心し、『黄色作戦』を延期した。尚、前年のポーランド侵攻は『白作戦』だった。その前のチェコ侵攻は『緑作戦』である。但し、チェコ侵攻は、英仏伊が駆けつけて協議した『ミュンヘン会談』により、折り合いがついたので、中止されている。
 さて、情報漏洩に立腹する総統は、第2航空軍司令官フェルミー大将と、参謀長のカムフーバー大佐を解任した。ドイツ国防軍は、作戦計画書は焼却されたと受け止め、「大事ない」としたが、ヒトラーは『シュリーフェン計画』を危ぶんで、マンシュタイン将軍が提案した『マンシュタイン計画』を採用する。
シュリーフェンは帝政時代の軍人アルフレート・フォン・シュリーフェン元帥のこと。1905年に対仏侵攻作戦を立案している。第1次大戦のドイツ軍は、この計画に従って攻勢に出たのだ。尤も、小モルトケが少し修正したが。ドイツ軍はベルギーやルクセンブルクから攻め込み、仏軍を圧迫する。しかし、マルヌ河畔で食い止められて、作戦は頓挫するのだ。他方、第2次大戦のマンシュタイン将軍は、アルデンヌ森林地帯の突破を提唱した。
 結局、西欧も大戦に巻き込まれる。西部戦線が殺気立ったのは5月1日だ。ベルリンのオランダ公使、ベルギー大使が、ドイツ外務省へ呼び出されて、「英仏の攻撃から両国を守る為、軍事進駐する」と言い渡されている。英仏の攻撃から守ってやる? その為に進駐する? 物は言いようだが、滅茶苦茶な話だろう。
「ふざけるな!」と、怒鳴り返したいが、オランダやベルギーなどの小国は、泣き寝入るしかなかった。事態は逼迫した。英仏両軍はドイツ軍の侵攻に備え、臨戦態勢を敷いた。世界は固唾を呑んで発火の瞬間を見守った。
 ドイツの大軍が一斉に動き出したのは5月10日だ。瞬く間にネーデルラント(低地の国々)を席巻し、フランスへ雪崩れ込んだ。この時、ドイツ空軍は、実戦稼働機3500を動員して、あらゆるものを呑み尽くした。さながら荒れ狂う暴風雨だった。一部はスイス国境にも出現した。スイスの空軍力や防空体制に関心があったらしい。
 最初に領空を侵犯したのは、ユンカースの双発爆撃機Ju88で、スイス北端のバーゼル付近に出没した。スイス空軍はMe109戦闘機を緊急発進させ、警戒に当たった。スイス空軍の国籍標識は「白く太い十字」だった。他方のドイツ空軍は「黒く太い十字」を機体に描いていた。こちらは標識が浮き上がって見えるよう、白で縁取りしてあった。この黒十字の淵源は、12世紀の後半に登場したチュートン騎士団である。正しくは「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」と言う。
 事情はどうあれ、「領空侵犯機は撃退する」のが国際的な慣例だ。スイス空軍のMe109が急接近すると、泡を食ったJu88は雲の中へ飛び込み、行方を眩ました。が、続いてハインケルHe111が姿を現した。やはり、スイス空軍のMe109が緊急発進し、He111に一連射を浴びせた。退去を示唆する威嚇射撃で、本気で撃墜する積もりはなかった。片方のエンジンに軽い損傷を負ったHe111は、白煙の尾を引きながら国境の外へ逃れた。これを見たスイス空軍のMe109も、直ぐに翼を翻し、基地へ戻った。

 ほぼ1週間後、またもやHe111が現れた。ドイツ空軍も意固地になったらしい。意図的に領空を侵犯して、スイスを挑発した。それとも踏み込んだ調査だったか? 対象国の防空体制を知るには、或る程度、リスクを冒さねばならない。手前で引き返したら、緊急発進もしないので、調査にならないだろう。防空体制を知るには領空侵犯が不可欠となる。例によって、スイス空軍はMe109を出動させ、ドイツ機を威嚇した。が、今回のHe111は、搭載する機銃――口径7.92oのラインメタルMG15を使い、激しく応戦した。交戦許可を得ていたか? それとも乗員の過剰反応か? いずれにしろ、退去命令に従わず、射撃も止めないので、スイス戦闘機も本気で攻撃し、このHe111を撃墜した。
「何、撃墜された……おのれ!」ドイツ空軍は激昂した。更にHe111を送り込んで、挑発行為を繰り返した。スイス空軍も反撃し、更に2機のHe111を血祭りに上げた。暦(こよみ)が6月に変わると、He111を護衛して、双発複座のMe110〈ツェルシュテラー〉が飛来した。ダイムラー・ベンツのDB601A1175馬力×2で、最大540q/hを発揮するC型である。乗員は2名だ。武装は7.92o×4(弾薬各1000発)、20oのMGFF×2(弾薬各60発)だった。尚、縦列の後部座席に、アラド式自在銃架に据え付けた7.92oのMG15単装機銃(弾薬750発)があった。これは後ろ向きに座る銃手が手動で操作した。再三、述べるように、司令官ゲーリングが贔屓(ひいき)にする機体である。贔屓偏頗(ひいきへんば)と言うべきか。戦前、ゲーリングは、自ら駆逐戦闘航空団の編成にも携わったのだ。適当な人材を見繕い、担当させれば良さそうだが、自身で行っている。また、人員確保の為、戦闘機隊からパイロットを引き抜いて、戦闘航空団を慌てさせたりした。

 来るべき『イングランド航空戦』の予行演習になった。緊急発進したスイス空軍のMe109は、ドイツ空軍のMe110と戦い、2機を叩き落とした。返り討ちに遭ったMe110は、破片を散らし、炎上して、アルプス山中へ墜落した。報告を受けたゲーリングは激怒し、駆逐戦闘航空団に断固とした報復を命じた。「小癪な奴等に吠え面を掻かせてやれ!」
 ここからドイツ空軍は、再三に渡り、Me110を送って、スイス空軍を挑発した。或る時など、32機で押しかけて、スイス空軍のMe109を1機撃墜し、もう1機を追い回した。Me110が如何に凡庸でも、32対2なら勝てるだろう。
「ジュラ山脈上空にドイツ機多数……救援を乞う!」残る1機は必死で逃亡しつつ、無線で助けを求めた。この報告を受けたスイス空軍は、新たに12機のMe109を緊急発進させ、32機のMe110に立ち向かった。これまでで最大の空中戦が展開された。場所はアルプス山脈の西端である。
 Me110〈ツェルシュテラー〉は「円を描く」奇妙な戦法を採った。運動性に難がある双発複座機は、敏捷な単発戦闘機に背後を奪われ、撃墜される。大きく重いので、動きが鈍くても仕方ないが。そこで1番機の背後へ2番機、2番機の背後へ3番機、その背後へ4番機が張り付く格好でサークルを描き、互いの背面をカバーし合ったのだ。下手に間へ割り込むと、集中弾を食らい、吹き飛んだろう。
 飛行士たちはこれを「防御隊形」とした。が、ゲーリングは「攻撃隊形と呼べ!」と、向きになった。ところで、これは上策と言えるのか? 水平に円を描く戦法が? 生憎と大きな欠陥があった。直ぐ判ることだが、下方と側面は無防備なのだ。スイス空軍のMe109戦闘機は、下から突き上げるか、横から襲えば良かった。むざむざと輪の中へ入り、撃破される謂れなどなかろう。
 結果、ドイツ側は更に4機のMe110を失った。撃ち砕かれ、火を噴き、主翼や双尾翼、血塗られた風防天蓋、車輪などを飛ばしつつ、ジュラ山脈に落下して、爆発炎上した。地形が険しいので不時着は無理だ。山脈の上空で撃墜されたら、斜面に激突して爆発するか、落下傘で脱出する以外にない。舞い降りても無事に人里へ辿り着ける保証はないが。アルプス周辺の森林へ降下すれば、木々に鞭打たれ、枝に引っ掛かって、降りることもままならない。また、鬱蒼たる樹海で迷子になると、行き倒れになり、白骨化した。
 他のMe110は泡を食って逃げ去った。救援に向かったスイス空軍の12機は全て無事だった。吠え面を掻いたのはドイツ空軍の方である。
 間もなくフランスとの戦いも終わった。1940年6月22日、フランスがパリ北東80qにあるコンピエーニュの森で、休戦条約に調印したので、ドイツ軍も矛を収めた。大陸での戦火が収まり、尚、スイスを挑発し続ければ、今度はこちらのニュース――「永世中立国への侵犯」が国際問題になったろう。
 奇妙なのが、この小競り合いの期間中、ドイツ側が単発のMe109E〈エミール〉を、1機も出動させなかったことだ。ドイツ空軍のMe109がスイス空軍のMe109と戦う場面は、とうとう見られなかった。総司令官ゲーリングは、自分が溺愛する双発複座のMe110〈ツェルシュテラー〉ばかり送って、結局、6機も撃墜されてしまうのだ。
 Me110の能力を試す積もりだったか? それなら「役立たず」を見事に実証したろう。そもそも、大きく重く動作の緩慢な双発複座機は、慧敏(けいびん)な単発戦闘機の敵ではない。それは常識とも言える。それにしても、こんな代物を戦場へ投げ込めば、「死者が増えるだけ」と判ったろうし、また、判らねばならなかった。繰り返すが、「双発の複座機は単発戦闘機の敵ではない」のだ。多くの場合、「愚鈍と俊敏」の戦いになり、双発複座機の方が撃破された。実際、第2次大戦中、大量の双発複座機が、単発戦闘機の餌食になっている。このタイプで優秀と絶賛できるのは、英空軍の〈モスキート〉くらいで、他は全滅に近い惨状だった。
「こんな物、兵員の死傷を増やすのみ。資材も無駄……製造反対!」と、良識ある人々が声を上げて、生産を止めさせるべきだろう。ただ、後日、夜間戦闘や対地攻撃へ回されて、或る程度の活躍を見せている。敵の戦闘機に襲われない状況があると、相応に働けたのだ。
 にも係わらず、このあと『イングランド航空戦』が始まると、ドイツ空軍はMe110の戦隊を英国へ送って、スイス空軍に痛めつけられた時の失敗を、なぞるように繰り返すのだ。「おやおや……」の展開だが、この司令官閣下は、どう仕様もない大馬鹿野郎だったか? この元帥の甥に当たるハンス・ヨハヒム・ゲーリング中尉も、〈ツェルシュテラー〉で出撃した為、7月11日、第87中隊の〈ハリケーン〉戦闘機に撃墜されている。場所はドーセット州ウェイマス湾のポートランド港だった。
「叔父貴の馬鹿野郎!」甥っ子ハンス・ヨハヒム・ゲーリング中尉は、絶叫しつつ、港湾へ突っ込んだのではないか。これでは戦死しても浮かばれない。
「やれやれ……汚名返上どころか汚名倍増だな」の声が聞こえそう。これを格言にしたらどうか。
「愚かな真似して汚名倍増!」
 他方、もう1人の甥っ子ペーター・ゲーリングは、ガーランドの第26戦闘航空団へ編入されていた。こちらは単発のMe109E4で戦った。E3の改訂版で性能が少し向上している。E3は1100馬力で570q/hだが、E4は1150馬力で574q/hを発揮した。操縦席が装甲防御され、風防の形も少し変わり、視界が広くなった。他方、装填不良や腔発(こうはつ)など、故障の多いモーター・カノンが撤去され、火力は弱くなった。兵装は機首に7.92o×2(弾薬各500発)、主翼に20o×2(弾薬各60発)だ。1940年11月13日、ペーターは英仏海峡上空で、双発のブリストル〈ブレニム〉爆撃機を追撃中、撃破と同時に被弾して、無念の戦死を遂げてた。相討ちである。

 双発複座機は、どうしても機体が大きく重くなるので、必然的に速度や運動性が劣化した。これを軽快かつ俊敏な英空軍の〈スピットファイア〉や〈ハリケーン〉に対抗させようとしたこと自体、無茶な話だった。元来、長距離飛行には大量の燃料が必要だが、燃料の運搬機に化けやすい機体は、必然的に大型化し、重量化した。特に、単発機に大量の燃料を積むと、エンジンに負担が掛かり、性能が低下した。尤も、目的地上空までの飛行で、燃料を半分消費すれば、「そこから先は身軽」とも言えるが。肝心なのは空戦を始める段階で、燃料を満タンにして、基地で蹲っている状態ではない。
 さりながら、基本としては重苦しくなるせいで、ここから双発形式へ走りたくなった。双発にすれば馬力が2倍になる。但し、エンジンを2基装備すると、機体が大型化し、摩擦係数(空気抵抗)も大きくなるのだ。重量も大幅に増えた。馬力を2倍にしても、マイナス効果も大きくなるので、速度も運動性も、拍子抜けするレベルに止まった。単発機の場合でも、理論上「速度は馬力の3乗根に比例する」ので、出力を2倍に上げても、速度は26%しか増えない。

 こうした問題が隘路となり、双発機を活躍させようと目論んでも、結果は低速で運動性の悪い「自殺機」に化けたのだ。英本土へ侵攻した駆逐機〈ツェルシュテラー〉も、スイス空軍に叩きのめされた時と同様、英空軍に撃砕された。繰り返すが、直前にスイス空軍に痛めつけられた、貴重な戦訓があったのだ。到底、座視し得ない問題で、恐ろしい目に遭った搭乗員たち、設計者のメッサーシュミット、これを大々的に投入しようと企てるゲーリングが討議の場を持って、喧々諤々(けんけんがくがく)、意見を戦わせるべきだろう。
 が、そうした反省も対策もなく、「空飛ぶ棺桶」を敵地へ送り、被害を続出させるなら、ドイツ空軍も総司令官も設計者も、救いようのない唐変木となる。ただ、彼等は戦争無知の素人だった。ゲーリングは、先の大戦では戦闘機パイロットとして活躍し、連合軍機22機を撃墜して、「レッド・バロン」亡き後の「リヒトホーフェン編隊」の隊長など務めたが、戦後はヒトラーと知り合って、ナチ運動や政権奪取に荷担した。軍務から離れるのだ。ヒトラーが1935年に再軍備宣言し、空軍が発足した時に、献身への褒美として総司令官に就任するが、最早、時代遅れの門外漢になっていた。近代空軍を運営できる器ではなかったろう。
 その前は国会の議長だったし、秘密警察〈ゲハイメ・シュターツ・ポリツァイ・アムト〉の長官だったこともある。ゲシュタポはハインリヒ・ヒムラーのSS(親衛隊)麾下として名高いが、創設したのはゲーリングで、1933年4月26日である。SSへ移管されたあと、灰青色の瞳が謎めく、ミュラーSS中将の手により、4万人の職員を抱える恐怖組織に変貌するのだ。しかし、1936年まで、ゲーリングが長官を勤めたのである。
「ゲハイメ・シュターツ・ポリツァイ・アムト」のややこしい名を略し、「ゲシュタポ」の符丁をつけたのは、ベルリンの郵便局員だ。郵便物を取り扱うには、簡単な名前の方が便利だからだ。恐怖の代名詞として、全欧州を震え上がらせる、遙か以前のこと。その郵便局員だが、「ゲシュタポ」の名が、歴史を揺るがす恐ろしい名前になるとは、夢にも思わなかったろう。

 ゲーリングには、そのまま国会議長、プロイセン首相、空相などを専任させれば良かった。議長時代の1934年1月30日、代議士たちを前に行なった弁舌が振るっている。「諸氏が選任されたのは、無条件で総統に従うと、有権者が確信したからだ。諸氏の能力によってではない!」
 言い換えるなら「総統を支持すれば犬でも猫でも構わない」となる。完全な馬鹿呼ばわりで、一部の議員たちを憤慨させた。尤も、33年11月に選出された議員はナチ党員ばかりだった。また、ヒトラーが同年3月23日、『授権法』を通過させ、独裁権を手にしたので、そもそも国会など必要なかったのだ。が、暫くは国民を宥める手段として、欺瞞国会が運営された。
 最後のまともな選挙は3月5日だった。ナチ党が288、社民が120、共産が81議席を獲得した。その他の泡沫団体は割愛しよう。いや、ナチスは、その泡沫の1つ――アルフレート・フーゲンベルクのDNVP(国家人民党)を取り込んで、連立を利用し、『授権法』を可決に持ち込むのだ。これでドイツ国指導者が生殺与奪の全権を掌握した。後は遣りたい放題になった。
 党の執行部は、ヒトラーを独裁者に祭り上げた件に関し、「政党間の争いをなくす有益な決定」と宣伝した。旧来の民主主義は、「凡百の能無しが集まって井戸端会議を繰り返す愚物」と扱き下ろした。副総統へスに至っては、ヒトラーを「肉化した純粋理性」と呼んで、死体のような絶対服従を求めた。死体のような絶対服従? 総統命令に従っていれば間違いない――と言うことらしい。間もなく他の政党は解散に追い込まれた。6月22日、これに反対した〈社会民主党〉は、政党活動の禁止を命じられた。続く27日、議会で3分の2の票を取る為に手を貸した〈国家人民党〉も、やはり解党を強いられた。地方議会も運命は同じだった。こちらは翌年1月30日の『国家改造法』により廃止された。序でに労働組合も禁止された。この時、SA(突撃隊)が各地の組合支部へ乱入し、破壊と略奪を働いた。主な役員は逮捕され、強制収容所――拷問と死の巣窟へ送られた。反ナチ派の多くがここで虐殺されている。
 こうした環境下で、『国際連盟脱退』(1933年)、『ロカルノ条約破棄』(1936年)、『オーストリア併合』(1938年)が、97〜98%と言う驚異的な支持率を叩き出すのだ。ドイツ国民の殆どがヒトラーを崇拝する印象を醸した。無論、ナチ党の演出である。実際には、市井(しせい)にヒトラーを嫌う者、支持しない者が、少なくとも3割は居た。しかし、こうした声が掬い上げられ、取り沙汰されることはなかった。また新聞や雑誌にも載らなかった。宣伝省を司るゲッベルスが、完全管理し、不都合は握り潰したからだ。結果、外からドイツを眺めれば、ナチス一色に染まって見えたろう。民族全体がヒトラーに心酔し、恍惚となっている印象を与えた筈である。「ハイル、ヒトラー!」
 その欺瞞国会をゲーリングが管掌したのだ。だったら、そのまま議長の座に縛り付け、再建された近代空軍の運営は、ハンス・イェショネクやエアハルト・ミルヒなど、「本物の才人」に任せれば良かろう。その方が効率良く運営され、連合国を苦しめた筈である。
 ただ「魔道を突き進む第3帝国の滅亡を速める」観点に立つなら、話は違って来る。しゃしゃり出る頓珍漢が足を引っ張って、地獄へ蹴り込むのが1番だからだ。
 ところで国民を宥める欺瞞国会だが、1937年と1939年の2度、『授権法』を延長した。先述したように、ドイツ国の指導者ヒトラーに、あらゆる特典を授与する悪法である。「馬鹿法」と呼ぶか「発狂法」と呼ぶべきだろう。独裁を容認するなど狂気の沙汰である。実際、独裁者が発狂したらどうする積もりか? 過去に無数の独裁者が血塗れの暴政を司っている。
 全てが悪いとも言わないが、概ね、独裁者は狂人と五十歩百歩だ。これは周知の事実と言える。
 一方のヒトラーは、独裁者として世界大戦を始めると、用済みになった烏合の衆は解散させた。専権横暴の総仕上げとして。
 騙された国民に残されたのは、「戦場へ出て死ぬこと」だけだった。

 それは兎も角、ゲーリングが空軍総司令官だったお陰で、第3帝国は「予定より速く滅びた」と断言して良い。多くの失策を演じてくれたからだ。辛辣家は「ドイツか、連合国か、どっちの味方か判らん」と評した。
 戦前、この御仁は、「アメリカ人は車や冷蔵庫は作れても、飛行機は作れまい」と嘯(うそぶ)いた。その数年後、ゲーリングは、『ニュールンベルク裁判』(1945〜46年)の被告席に座っていた。罪科はヒトラーに協力して戦争を指導した罪である。判決は死刑だった。軍人らしい銃殺刑を望んだが、容れられず、10月15日22時45分、隠し持っていた青酸カリのカプセルを噛み砕いて自殺した。遺体は火葬され、遺灰はドナウ川支流のイザール川へ散布された。
「ゲーリングさん、連合国の勝利に貢献してくれて有難う」大勢が感謝したろう。
 他方のヒトラーは、地獄で苦虫を噛み潰していよう。