平林寺山内にある

是照院開基の墓

 

 

本尊釈迦牟尼佛
開山石院祖薀禅師
開基是照院月江宗清居士
中興開基松平右京太夫輝貞公

開山 石院祖薀禅師

道号 石院、諱 祖薀。俗姓酒井氏。慶長八年(1603)に生まれ、幼年より岩槻平林寺の雲峰宗怡禅師、随圓宗器禅師に侍し、長じて妙心寺の愚堂東寔禅師,甲府の恵林寺等に掛搭して、諸方の叢林を歴参し、再び平林寺に帰参して幽巖祖岑禅師に嗣法。萬治三年(1660)に平林寺の住持となったが、寛文三年(1663)に平林寺は岩槻から現在の野火止へ移転、本師である幽巌祖岑(ゆうがんそきん)禅師と共にこれを成し遂げた。この年、実弟の酒井源兵衛友俊が小石川戸崎町の屋敷地を石院に寄せ、兄の隠棲の地として寺社奉行に願い出、新寺建立並びに坪数等を願の通り相済まし、山号を天長山とし、父四郎左衛門友完の法名是照院月江宗清居士に因んで是照院とし、開基とした。

以後再び平林寺に在ったが、寛文九年三月一日に勅を奉じて妙心寺に出世する。しばらく平林寺に居した後、後席を黙雲禅宜に譲り是照院に退いた。 貞享四年(1687)正月八日に示寂する。世寿八十五歳、法嗣に黙雲禅宜、一山祖第がある。 是照院第二世には一山祖第、三世を関霊祖関(かんれいそかん)が後席を継いだ。

 『独妙禅師年譜補注』の正徳三年の条、「石院」の注に次のようにある(原漢文。龍吟社版『白隠和尚全集』第1巻89頁)。

諱は宗薀。久しく愚堂に侍し、其の蘊奥(うんのう)を究む。後に武の平林に住し、大いに宗乗を唱う。鉄堂、鉄髄、州府臨済の喝首座、濃の均首座等、師の門に出づ。師、辛辣にして当たり難し。一日、衆皆な起単す。鉄堂諌めて曰く「和尚辛厳にして、人の住まり得る無し。乞う、省みて慈を加えよ」と。師、咄して曰く「龍門千仭、豈に蝦蜆{かけん}の輩{ともがら}を留めんや」。平生垂語して曰く、「向イ通ルハ清十郎ジヤ無イカ、笠ガ能ク似タ莎笠ガ」。二十年、其の機に契う者無し。

石院宗薀は、白隠が参じた菩提樹院の頂門和尚や、宝泰寺の澄水、伊豆松崎禅海寺の鉄髄、若狭円照寺の鉄堂の師匠で、白隠より二世代上の人だから、石院の「清十郎節」のことは白隠も聞き知っていたはずである。白隠の『碧巌録秘抄』でも二箇所にこの歌がでる。

 「向ひ透るは清十郎じやないか、笠がよふ似た菅がさが」は、すべての人が清十郎に見えるところ、すなわち平等無差別のところをいう。それに対して「笠が似たとて清十郎であらば、御伊勢参りは皆清十郎」は、平等無差別の否定、平等の中の差別をいう。

いま白隠が観音賛に「笠がよく似たすげがさが」とつけるのも、平等無差別に済度する観音菩薩の大慈悲のこころをいうのであろう。

●高崎藩松平家との関係

関霊祖関禅師が在住していた享保六年(1721)と十年(1725)の度重なる小石川戸崎町界隈の大火によって当院は類焼した。伽藍の復興のないまま、関霊祖関、心田禅苗の二代は間口三間、奥行二間半の仮堂にあって、弟子養成の期間もなく法系が断絶した。その後平林寺の霊峰禅魯の法嗣石梯義亨が入寺し、桐峰祖梁の弟子江天義北が移って中興開山となり、石梯義亨の法を嗣いで平林寺法流を復興する。 

高崎藩大河内松平家の藩主大河内松平右京太夫輝貞公の援助の下、間口七間奥行五間の本堂を再興し、ついで仏間三間奥行二間 玄関二間奥行一間半、中玄関同前表裏廊下五間、庫裏七間奥行二間半、土蔵三間に二間半、表門三間に一間半、中門、霊屋二間に一間半などを造営し、慈徳庵という塔頭を伴い秘仏の千手観音像を安座し、加えて稲荷疱瘡神を祀ってこれを鎮守とした。 爾来、輝貞公正室の長慶院殿の塔所となったのをはじめ、裏方子女の香華所として、右京太夫家高崎藩藩士の菩提寺として護持されてゆくことになり、右京太夫輝貞公が中興開基となった。

寺紋も高崎藩大河内家の家紋である高崎扇と定められている。その後当院は平林寺の子院として、平林寺の江戸方面の寺院に対する中継所的な役割を果たすことになってゆく。

●三遊亭円朝との関係

歴代の住職の中で十五世永泉玄昌禅師は、かの初代三遊亭円朝の義兄であり、円朝晩年の禅への傾倒の端緒を付けた人物として知られている。永泉玄昌の実母なかが円朝の実父初代橘家圓太郎と再婚し、産まれたのが円朝である。

円朝は、二代目三遊亭円生のもとに入門し、前座名 小円太として7歳で初高座を務めた。実母は、円朝を一時は紙屋の丁稚奉公に行かせ、芸の世界から足を洗わせようとしたのだがそれになじまず、また寺子屋にも行かずに芸の世界にのめり込んでゆくのを見て、彼の将来を悲観したという。

玄昌が谷中南泉寺の弟子となり、京都東福寺で修行生活を行い、帰山して南泉寺に戻ってからは小円太と度々会ったりしたようである。暫くして南泉寺の法縁の寺である同じ谷中の無住の寺であった長安寺を看護することになり、実母と小円太とを長安寺に引き取って3人での生活を始めることになる。

そのころには小円太は長安寺の本堂でひとり本尊と向き合い、ここでもひたすらに落語の稽古を積んでいた。そんな義理の弟の真剣な様を見るたび、玄昌も母もとうとう彼が芸の道に進むことを認め、ついに大円朝と呼ばれるほどの人物となってゆく基礎を作っていったということである。

やがて玄昌は小石川是照院の住職へという拝請を受けて当院に住職することになるのだが、就任後半年を待たずに病に倒れ、母と二人で根岸のしもたやで闘病、行年32歳という若さで示寂した。

円朝は少年期の多感な頃に義兄玄昌より内面的な多くの影響を受け、後年、山岡鉄舟との交流に端を発し、参禅に勤しむこととなる。 玄昌が是照院に住したころには円朝も何度か足を運んだことは想像に難くない。

当院の寺紋が前述の通り高崎扇であったのを見た円朝は自身の家紋として使うことを思いつき、高崎藩大河内家おそらく大河内輝聲(てるな)に許可を得たのである。藩主から羽織を拝領し、自らの家紋として高座着に附けるようになったのである。

●明治以降

その後大正期には十九世宗春和尚が寺院の再建に乗り出し、本堂を再建するも戦災にて廃塵に伏し、ただ観音堂のみを残すこととなった。二十世宗悦和尚により昭和57年に本堂が再建され、ようやく今日の輪奐を整えた。


TOP 是照院について 供養 禅と仏教 坐禅会 Favorite ブログ LINK 案内地図 

Copyright(c)2002-2012是照院. All rights reserved