近代日本における西洋文化の受容

-食文化を中心として-

目次

序章
第一章・・・・・・・・・・・・・文明開化による肉食の台頭
第二章・・・・・・・・・・・・・外国人ホテルから始まった西洋料理
第三章・・・・・・・・・・・・・西洋料理の和風化
終章・・・・・・・・・・・・・・・これからの西洋料理
参考文献一覧

序章

 1853年7月8日、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航した。17世紀のポルトガル、スペイン追放以来、2世紀にも及んだ鎖国がついに打ち破られたのである。この黒船来航がやがては幕府のを崩壊させ、明治維新をもたらし、文明開化への幕開けとなるのである。

 明治政府は開明主義的路線を選び、諸外国の文化文明を積極的に導入することとし、生活、政治、経済などあらゆる分野で文明開化が花開いた。その影響はもちろん食生活にまで及んだ。そこで人々はみな、西洋文化の特徴を顕著に表す食文化の導入を大いに喜び、迎え入れた。
 
 日本では675年の天武天皇の時代に仏教の教えに従い摂政禁断の詔(みことのり)を出され、国民は人間の営みである獣肉食の忌避し続けてきた。それは後の元正天皇、聖武天皇の時代にも受け継がれ、肉食の禁忌は宮中から始まり、次第に上流の貴族階級に浸透し、時と共に一般庶民の食生活にも大きな影響を及ぼしていった。さらに1687年の徳川5代将軍綱吉の出した「生類憐れみの令」の極端な殺生肉食禁断戒律の厳重な励行により、一般庶民の間に、生き物を殺して食べるとその地域社会に不安と不幸をもらすという迷信が広がるに至った。時代は幕末に移っても人々は、一部では牛を食べると角が生えるとまで伝えられていた。

 明治の時代を迎え、国民は長く続いた封建社会から解放され、国民の知的レベルは向上していった。しかし、そうした迷信のために、文明開化の波が押し寄せてきた際にも肉食が不可欠である西洋料理にはなじむことが出来なかった。さらに付け加えるならば、もともと料理とは「おふくろの味」の言葉の通り、土着性、伝統性の強いものである。故郷の土地や自然に密着し、そこで育まれた食習慣や味覚はなかなか変えられなく、食文化とは豊かな地方色と伝統に守られているといってよい。確かに料理というものは絶えず変化しているものではあるが、文明開化のブームに押されて、安易に和食から洋食へと移り変わったとは考えにくい。

 また、日本人は外来文化を取り入れる際、そのままの形で受け入れるということをしない。多くの場合、日本に入ってからの長い歴史的過程の中で、徐々に日本人の使い勝手の良いように形を変化させ取り入れるのである。

 文字を例に説明を加えると、日本は中国から漢字を取り入れた。しかしその漢字を全て使っているわけではないし、漢文のようにそのまま使ってもいない。漢字を崩し、ひらがなを作り、一部を取り出しカタカナを作り出して日本人の使いやすいように変化させている。このように日本人は外来文化を独自の形にして取り込む能力に長けている民族といえる。

 この例で分かるとおり、外来食が日本に入ってきたからといっても、そこにはいくつかの段階があった。明治維新前後にいきなり外来食の全てが入ってきたわけではない。日本は異文化の食をかなりランダムに受容した。受容したもののすぐに定着したわけではないのは前述したとおりである。受容したとはいっても定着しないまま取り残されたものもあっただろう。そして、受容されたものがそのままの姿では定着せずに、それは変容するのである。外来食のある要素を加えたり変えたりすることによって融合され、新しい食品や調理、食べ方などを生むのである。つまり和洋折衷が行われるのである。

 必ずしも全ての外来食がこのような変化や段階を踏むというわけではないが、日本人の嗜好に合った形に料理自体を変化させる過程において多くの場合にこうした傾向が見られるはずである。

 本文ではそれらの考えをくみ取り、どのようにして西洋文化が日本に受け入れられ。またどのように形を変えてきたのかを食文化を中心にして考えていきたい。

第一章
文明開化による肉食の台頭

 長く続いた封建社会から一般庶民は解放され、新時代の発展に伴って国民知識が向上していくと、それまで生活習慣の中に根強く横たわっていた種種の迷信や古いしきたりも徐々に消滅していった。食事のうえでの最も著しい変化は、当然のことながら獣肉食の自由化であった。仏教の殺生戎の影響による肉食禁忌は、一種の迷信化して長く日本人の食生活を縛っていたが、明治元年(1868)の神仏分離令の公布により、肉食が解禁されると肉食は欧米文化に欠かせないものであり、それが開国とともに我が国に知らされたために、今度は進んで肉食を行うこととなった。

 その進み具合を見ると明らかに他の外来の食よりも普及率が早いように思える。それは明治の人々の間にあった、獣肉食に対するためらいや忌避の感情が大きく左右する。当時の人々が屠殺するとなると大騒ぎで、穢れぬようにと、青竹を4本立て、それに御弊を結び、注連(しめ)を張る中へ牛を繋ぎ、掛矢で撲殺してから、ほんの上肉だけを取り、残りは皆土中に深く埋め、坊さんがお経を上げるという始末であった。このことからも分るとうり、そのころは、もっぱら「穢れ」ることを恐れ、憐れみや慈悲の心情という感情は大きく働かなかったようである。慈悲の心は建前の上からでも捨てにくいであろうが「穢れ」の感憾は慣れてくるうちに薄れて行くものであろう。

 明治維新が起こり、政府は一転、文明開化論者となったわけではあるが、それにともない天皇は外国使臣の謁見を許さない訳にはいかない。天皇は、文明国の取るべき態度として断髪のうえ洋装にして、和食をフランス料理に変えている。『新聞雑誌』の記事によると、明治天皇がこのようにして新政府の肉食奨励の方針にそって1200年に渡る肉食の禁を破り肉膳につかれたのは1872年の正月のことであった。天皇の名の下に僧侶の肉食、妻帯、蓄髪が公認されると、国民も肉食に対する偏見を改めるようになってきた。

 しかし、なんといっても肉食の普及に大きく頁献したのは、福沢諭吉や、仮名垣魯文などの知識人による肉食の啓蒙である。その啓蒙の特徴は、文化的、風俗的な料理や食習慣よりはむしろ実質的な栄養、衛生面が強調された。福沢によると日本人にとって、肉は薬であり、それを用いずに虚弱であるのはすなわち一国の損亡であり、一軒の家で、病人が多いのはわが家系だとして薬を用いないのが腎明だといえるか、と説いている。

 仮名垣魯文は明治4年(1871)に出版された『安愚楽鍋』の中で肉食を賛辞している。「士農工商老若男女、腎愚貧福おしなべて、牛鍋食はねば開化不進奴」の一文に示されているように、文明開化にあこがれる人々は牛肉食をあたかもその象徴のように信じて、徐々にではあるが「穢れ」の意識も薄れていった。

 文久2年(1862)の横浜に居酒屋を営んでいた「伊勢熊」が始めて牛鍋屋を開業した。しかし、牛鍋屋を開くにあたり女房と相談すると、あんなものを商売にするなら夫婦別れをしてくれと言われ、やむを得ず店を二つに仕切り、一方では女房が居酒屋を続け、もう一方を牛鍋屋にすることにした。始めは牛鍋屋には客が来なかったが、よい匂いがするので居酒屋の客がしだいにその匂いに引かれ集まり、ついには女房も折れて、中仕切りを取り払い、仲良く牛鍋屋の家業に専念したと伝えられている。そうして、牛肉を食べないものは文明人ではないといわれる世の中になっていった。

 肉食解禁の時期を正しく定めるならば、それは、1858年、「日米修好通商条約」を締結したのが引き金となり、このあとオランダ、イギリス、フランス、ロシアとも通商条約を絵び、鎖国体制が決定的に崩壊したこの時からはじまったといえるだろう。

 まず最初に牛肉を食べ始めたのは横浜などの居留地の外国人や、駈屯していた兵士たちであった。

 当初、外国人たちは、付近の農家から牛を購入しようと試みたが、農民たちは、食用にされることを知って牛を売ることを拒んだためあきらめざるを得なかった。そのため中国や朝鮮、あるいはアメリカから仕入れ、居留民に売ったりしていたけれども、外人の渡来が多くなるにつれ牛肉の需要が増えてくると、それだけではとても間に合わなくなって来た。やがて、近畿地方や、中国地方が和牛の産地であり生産量も多いことを知ると、これらの土地の家畜商に依頼して、神戸から横浜へ輸送させ供給を満たした。

 このようにして外国人の手によって始められた牛肉商売は、強い需要を背景にしだいに盛んになり、やがて日本人からも牛肉商売を手懸けるものがあらわれた。

 英国公使館の御用達をしていた中川屋喜兵衛という人物が江戸での屠牛を思い立ち、幕府の外国掛の役人に相談して許可を得た。
 そして1867年5月、幕府の天領だった荏原郡白金村の名主、堀越藤吉の邸内の畑を一部借り受けて、そこに屠牛場を作ることができた。しかし、それからほどなくして大森梅岸のほうに移転したという。近くの農民から苦情が出たせいだ。これが東京における屠牛場の開祖だといわれる。 また、中川は白金村の屠牛場を開いたとほぼ同時に、高輪の英国公使館前の汲止場側に、牛肉屋「中川屋」を開業した。1867年6月の『萬石新聞』には、同店のことが紹介されていて、牛肉は虚弱な人や病身の人、また病後の人が食すれば、気力を増し、心身を壮健にするという効能や、図解による牛肉の各部位の名称と等級の解説、その料理法などが説明されていた。

 この牛肉屋「中川屋」が繁盛していたことは、同年の暮れに早くも江戸柳原というところに支店を出していたことからもうかがえる。

 翌年1868年中川は牛肉屋から身を引き、掘越藤吉が店の権利を譲り受けて、牛鍋屋を開いている。この屠牛場とともに牛肉店を開業し、さらに牛鍋屋というパターンは築地の居留地にも共通するものであった。牛肉の需要は急速に高まりつつあったとはいえ、まだマーケットは小さく、加えて肉の安全な保存方法がまだなかったことを考えれば、屠牛場、牛肉販売店、牛鍋屋という三つの施設の組み合わせは極めて有効な牛肉流通システムだったといえるだろう。

 このようにして幕末期に、屠牛場、牛肉。販売店、牛鍋屋が、ほば同時期に江戸の町で旗揚げしたわけだが、牛肉食の普及は牛鍋屋の繁盛によってしだいに確立されていった。

 幕末から明治の始めにかけて、江戸の町で流行した牛鍋屋としては、元祖といわれる「中川屋」につづいて、京橋の「三河屋」、神田橋の「桃林舎」などの開業が知られる。

 また、以前から獣肉屋として繁盛していた四谷の「三河屋」、東両国と鍛冶町の「秦屋」、鍛冶橋外の「尾張屋」などが牛肉食の解禁ということで争って兼営したり、牛鍋屋のくら替えをしたという。 牛肉は当時の他の獣肉より安く、食べてみればおいしいし、滋養に富んでいるとして評判が高まる一方だったことや、長い間の獣肉禁制が、この幕末になって緩みかけていたことなども、「牛鍋屋」の大いに繁盛した背景だったのだろう。

 当時の人々は、牛肉食という、そのころの日本にはまだみられない食習慣に当惑していたが、牛鍋料理は、その外来文化の匂いを消してくれる料理であったといえる。その食べ方を『魯文珍報』所載、八百屋八兵衛による「牧牛論」にみてみると、  

 『葱を五分切りにして、まづ味噌を投じ、鍋鍋ジャジヤ、肉片はなはだ薄く、少しく山椒を投ずれば、臭気を消すに足るといへども、炉火を盛んにすれば、焼きつけの憂ひを免れず。そこで大あぐらで、一杯傾けるから、姉さん、酌を頼みますと、半熟の肉片、未だ少しく赤みを帯びたるところ五分切りの自葱、全く辛味を失わざる時、何人にても、一度箸を入るれば、鳴呼、美なる哉、牛肉の味はひと、叫ばざるもの殆ど希なり候。』

と記してある。
 
 仮名垣魯文の『安息楽鍋』の挿絵をみると、客がひとりずつ一人前の鍋を前においてあるのが分かる。

(挿し絵の行方が分からなくなり掲載出来ませんでした)


 これは西洋料理のようにみんなで食卓を囲まず、ひとりひとりの前に別々に膳が運ばれてくるという、すこぶる日本的な食事法であったことを示している。つまり和洋折衷の料理であった。すなわち「牧牛論」にみられるとうり肉を味噌や山椒や醤油などで味付けをして葱と一緒に煮る牛鍋は日本人の嗜好を根幹に据えた料理であり、しかもひとりで鍋に向かうという食事法もまた、極めて日本的であったことから、牛鍋は急速に普及した。

 そして明治維新以後、政府は、近代国家の建設を目指し、政治、経済、社会、文化など、すべての分野で近代化を促進してきた。そのうちの一つとしていくつかの肉食奨励策がある。

 まず一つ目は、幕府が経営していた雉子橋内の厩舎と房州嶺岡の牧場とを接収(1868年)して、民部省の所管とし改造拡張に努め、翌年、1869年9月大蔵省通商司は、築地に牛馬会社を設立し、廃藩置県、禄制廃止に伴う失業士族の救済を含め、これにあたらせた。そのため募末に江戸の白金村と築地居留地にできた民間の屠牛場は廃止させられ、個人による屠殺を一切禁止した。この牛馬会社は、役員から従業員までが元武士であったものたちだったためか横柄な商法により、一年足らずでつぶれてしまったが(笑)、政府が率先して屠牛業、搾乳業に取り組んだことは肉食の普及の面で大きな効果をもたらしたのである。

 二つ目は、政府の揚げた大きな目標である「富国強兵」の「強兵」策の一環として肉食が採用されたことである。これは前述した通り、牛肉が滋養に富んでおり、食べたものは気力が増し、心身を壮健にするということを認めたものでもあった。

 最後に、維新政府通商司は、洋種の牛豚及び製乳機器などをイギリス人より購入し、洋種牛輸入第一号を迎えた。これは、中央農務機関により育成した種牛を、各府県や民間の牧場に繁殖用として貸与することを目的としていたのである。

 そのほかでいえば、明治4年(1871)8月には、戸籍法改正により、ハン称廃止の布令を発し、穢多非人の称を廃して、身分職業をすべて平民と同様に取り扱うことを指令した。このことによって、従来獣畜の屠殺や皮革業に従事していた人々を含むおよそ四十万人の人々が、これまでの差別待遇から解放され平民となった。

 このハン称廃止の布令には、長い間肉食を穢れとしてきた理に適わない思想と偏見に対し、これによって制度的に終止符を打とうという意図が込められているのである。

 こうした政府の肉食奨励政策の結果、肉食は国民の間に広く定着し、屠殺業、牛肉屋、牛鍋屋などに職を求めるものも多くなり、どこも繁盛するようになった。その背景には価格的な問題もあり、そのころできた西洋料理店での一人前の料理が三十〜五十銭だったのに対して、牛鍋屋「たむら」の品書きによると牛鍋一人前四銭とあり、非常に安く、当時日当五十〜六十銭程度の一一般庶民は、おのずと、慣れないうえに高価な西洋料理よりも、日本的であり、しかも安い牛鍋を選ぶようになったのである。そうして明治8年の時点で牛鍋屋の数は百軒を越え、肉食もますます普及するようになった。                                     

第二章
外国人ホテルから始まった西洋料理

 牛鍋の発展は肉食の解禁、肉食の啓蒙、値段の問題などや日本人の嗜好に合っていたことから加速度的に伸びていったが、それとほぼ同時期に日本に受容された西洋料理はどのような発展をしていったのだろうか。

 幕末以前から、西洋料理を食べていた日本人はいたようだが、それは唯一外国との窓口である出島に出入りしていた一握りの人間だけであった。公に西洋料理を食べれるようになったのは、幕末のころの外国人居留地に設けられていた長崎や横浜などの開港していた港町に誕生したホテルであった。もっともこれらの施設は当初日本人客を相手にしてつくられたものではなかった。

 横浜では、安政6年(1859)横浜開港の年、「横浜ホテル」という初の洋風ホテルがオープンしているが、これは外国人向けのホテルで、経営者はフーフナーゲルというオランダ人であった。外国人の間では経営者の名前そのままにフーフナーゲル・ホテルとも呼ばれていた。このホテルは平屋のごく普通の日本家屋だったが、ベーカリーを擁して洋食を提供しバーやビリヤードまで備え繁盛していた。
 
 こうした先駆けの成功に勢いづいて、その後いくつかのホテルが誕生した。例えば、文久3年(1863)、同じ横浜に「クラブホテル」、「アングロサクソンホテル」が共にイギリス人によりオープンしている。また、明治6年(1873)フランス人ボン・ナが料理長ミュラウールの協力を得て「グランドホテル」をオープンしている。ホテル経営もオランダ、イギリス、フランスと、各国の経営者で成り立っているので、それぞれの国柄を表す料理やデザートが提供されたのだろう。(あくまで推測)
 1864年には「コマーシャルホテル」、「ホテル・ド・ヨーロッパ」「大君ホテル」、「ナショナルイン」、「オリエンタル・イン」などが矢継ぎ早にできた。      

 「横浜ホテル」は、レストランに力を注いでいたようで、当時の新聞には西洋料理の広告を盛んに出していた。だが、日本人客はほとんど無かったといわれ、もっぱら在留外国人が利用していたのである。

 肉食が普及し、西洋料理を受け入れる態勢が整い出した幕末の時期ではあるが、食習慣の違いで食の様式や作法の勝手が分からない日本人も時とともに西洋料理を口にするようになった。初めは外国人による外国人のためのものであったホテルだが、その繁盛ぶりをみた日本人が同じようにホテルを建て、料理人を雇い西洋料理を提供していった。

 このようにして長崎や横浜で種を蒔かれ、芽を出した西洋料理は、明治時代を過ぎると首都東京に舞台を移した。だが東京の場合でも、西洋料理の発祥の地は幕末の1867年に設置された築地の外国人居留地であった。

 この築地居留地にはアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなど各国の商館が開業し洋館の住宅が立ち並び、教会や屠場が設けられ、築地病院や、聖パウロ学校も開かれた。その居留地の隣接地区に、東京で初めての外国人向けホテルとして「築地ホテル」が建設された。その他「海軍兵学校」、「牛馬会社」、「築地商社」(三井物産の前身)などが立ち並び、欧米文化のエッセンスが具現化された、新首都の中心街であり文明開化の発祥の地でもあった。

 この「築地ホテル」は明治元年(1868)清水組(清水建設の前身)二代目清水喜助により建設され、明治維新政府が経営に手を貸し、半民半官で運営されたが明治4年政府は手を引き、民営ホテルに切り替わった。このホテルは支配人はルール、料理長はベギューという二人のフランス人によって運営され、そのせいか欧米の最高級ホテルに匹敵する見事なホテルであり食事もおいしいといわれていた。ところが、翌1872年、京橋、築地一帯を襲った大火により焼けてしまったのである。

 しかし、東京は都市の規模が大きく、また人口も多かったため、築地居留地に芽生えた西洋料理はたちまちのうちに他の既存の繁華街に広がっていった。

 最初の西洋料理店が開店したのは『北海道西洋料理沿革史』によると、「伝えるところによると、安政六年六月箱崎森町の重三郎という人物は幕府の許可を得て西洋料理店を開業したという。これは、西九州長崎に福屋という西洋料理店が官許開業したのと同年同月である。この二軒が日本における近代洋食のナンバー1である。どんな料理を出したものか残念ながら文献はない。」
 とあるところから1859年のころからぽつぽつ登場しはじめたのが分かる。

 本文中に出ている「福屋」という西洋料理店は純オランダ料理を食べさせる店であったが同じ1859年6月に長崎で中村とめが開いたともいわれていて、浜崎国男の『長崎異人史』には 「小島郷(現中小島町)に福屋という料亭があった。ここは、明治15〜16(1882〜83)年頃、中村藤吉が開業した純オランダ式の料理を提供する、長崎三大西洋料理店の一つであった。」
 と記され、開業者、開業の時期に食い違いがあるが、開業者は中村とめで、文中の長崎三大西洋料理店といわれるうちの一つの『自由亭』の開業が1863年であることから開業の年は重三郎の店と同じく1859年が正しいだろうと思う。 「福屋」は、日本建築に洋風な改造を施し、明治八年には新たに洋風建築を建て、これには風鳴館という百畳の大広間があったという。

 また「福屋」は、長崎丸山の遊郭、松月楼に洋食の仕出しをしていたとも伝えられ、子供のなかった先代藤七は、松月楼主人の弟、萩原鱗代平を養子に迎える。明治14、5年のことである。藤七は明治16年に没している。「福屋」はこの養子によって再興され、養父が41歳の若さで世を去ってからは、フランス料理に転向して、明治23、4年頃、その全盛期を迎えた。

“牛の頭”料理 (『阿蘭陀人図』神戸市立南蛮美術館蔵)

(これも見つかりませんでした)


 「福屋」の名物料理は、”牛の頭”であって、当時、ようやく牛肉を食べるようになってきた日本人にとって驚嘆すべき料理だったに違いない。牛の頭を一日がかりで煮込み、よく磨いた角を取り外し可能にして元のように付け、毛にはつやつやとブラシをかけて、大皿に盛って出す。これを眉間のところに穴をあけて脳みそをスプーンですくって食べるのである。この料理は、幕末の出島オランダ人の宴席を描いた図には必ず書き添えられるというのだから、西洋人の好みの料理だったようである。現代でもしりごみするような料理であるから、当時においては言わずもがな、西洋料理を敬遠する気持ちも分からなくもない。

 長崎三大西洋料理店の内の一つである「自由亭」は、現在グラヴァー邸園内に建物が移築されていて、その傍らには、「西洋料理発祥の地」の石碑が建てられている。石碑には、次のように記されている。

  
わが国西洋料理の歴史は、16世紀中頃ポルトガル船の来航に始まり、西洋料理の味と技は鎖国時代、唯一の開港地長崎のオランダ屋敷からもたらされた。1800年代にいたり横浜、神戸、函館などが開港され、次第に普及し、更に東京を中心に国内に大きく輪を広げ、日本人の食生活に融和され現在の隆盛となった。ここに西洋料理わが国発祥を記念してこの碑を建てる。


 この「自由亭」は草野丈吉が文久3(1863)年に五代才助に進められて開いた料理店、「良林邸」(のち自遊亭と改称)の後身である。草野丈吉は長崎郊外の百姓の家に生まれたが、安政4年(1857)に長崎に出て、オランダ人オセスマン家に住み込みボーイとして雇われた。オセスマン家の雑用係として勤務することとなった丈吉は、このオランダ人の家庭で、西洋料理を見様見真似で会得したらしく西洋料理店を開いて独立することを考えるようになり、その経験を生かして料理店を開いたのである。この店は草葺きの小さな小屋で、店内は六畳一間で、コックもおかず丈吉一人の店であった。しかし、五代才助の援助もあり長崎奉公から外国人接待のために料理を作るように命じられたりして、店を繁盛させた。だが、明治2年になると、大坂の川口居留地外国人止宿所(現在のホテル)の司長に任命されたために、長崎を離れなくてはならなくなった。

 大阪に移った草野丈吉は宮仕えの身にいつまでも甘んじている気持ちがなかったため、明治3年には独立して「欧風亭」という名のホテル兼西洋料理店を経営することになった。この店は大坂府知事に就任した後藤象二郎により大坂府御用達の料理店となった。

 翌4年、丈吉は大阪梅本町に新しい店を開き、これに「由由亭」という名前を付けた。

 明治10年になると丈吉は長崎に戻り、かねて「自遊亭」と名付けていた西坪料埋店を「自由亭」と改め、その経営に専念することとなった。丈吉は京都にも手を広げ、廃業した祇園二軒茶屋にある藤屋買い取り、明治九年の京都博覧会開催に備えて、外国人止宿所兼、西洋料理店を開業している。 また、明治14年には大阪中之島に「自由亭ホテル」を開業するに及んで、当時の日本西洋料理界の大物となったのである。しかし、先程の「福屋」全盛期時代の明治23年の頃には、すでに「自由亭」は廃業していたとのことである。

 元治2年(1865)2月には「藤屋」も西洋料理店を開業する。「藤屋」の店主藤屋長之助の一族である松尾清兵衛が北京で習い覚えたフランス料埋の技法を長之助に云えたのがきっかけとなり「藤屋」は他の店とは一味違った本格派として評判をとった。

 明治期になってすぐの1869年には、長崎出身の大野谷蔵が西洋割烹官「崎陽亭」を、また、これが日本人経営者による最初の西洋料理専門店といわれる「洋陽亭」が、相次いで横浜に開業しているが、いずれも当初は外国人客相手の西洋料理店だった。西洋料理店には日本人客はなかなか寄り付かなかったのである。その理由には、やはり西洋料理が牛鍋に比べると、料理としてすぐに親しめなかった点や、また、食事作法が日本のそれとはまるで勝手が違って難しいといったことからだと考えられる。

 東京における西洋料理店の草分け的存在だったのが、北村重威の開いた「精養軒」である。北村は准門跡沸光寺の使用人であったが、維新の際に岩倉具祖に仕え、明治元年に従い東京に上った。岩倉外遊の年の4年、北村はそのころの宮内省には大膳部のもうけがなく外国人を接待するにあたり西洋料理は横浜から取り寄せていたのに目をつけた。北村は西洋料理店の開業を岩倉に相談すると、社交上、外交上、ぜひ必要ということで賛同を得、三条実美、大久保利通、後藤象二郎などの政府高官、財界の援助を得て、明治5年(1872)2月丸の内馬先門前に「精養軒ホテル」を開業した。フランスから料理長を招き、フランス料理を売り物にする予定であったが、開業当日、会津屋敷の大火で類焼してしまった。仕方なく翌年、京橋の妥女ヶ原に新たに建て直し営業を始め。新しい「精養軒ホテル」には、あらたに料理長チャリスとコック一人の計2名のフランス人が雇い入れられ、正式な西洋料理としてその名が知られたが、その料理は非常に高価だったため一般客には敬遠されたようである。明治9年に上野公園に支店を出して、現在では精養軒というとこちらのほうを指す。チャリスは数年後、独立して築地にフランスパン専門の店「チャリ舎」を開業し繁盛させた。

 明治4年に東京にもようやく日本人による本格西洋料理店が開業した。三河屋久兵衛が創業者で名前を「三河屋」という。最初、外神田の佐久間町に、次いで神田永富町に移り、神田多町に店開きをした後、三河町一丁目に移転した。関東大農災(大正12年9月1日)によって閉店してしまったが、当時は福択諭吉などの知識人や、上流階級の人々が多く出入りし、繁盛していたという。

 引札(チラシ広告)を柳川春二に書いてもらい、久兵衛がそれにローマ字で「Mikawaya」とサインを添えている。その引札にあるメニューには

 
 
 御一人前   上  金二百疋(五十銭)
                        肉四品ソップ、、菓子附料理一式、御進物
 
                   中  金百五十疋(三十七銭五厘)
             肉四品一式

  御折詰     並  金百疋(二十五銭)
             肉三品一式

  御重詰      右之他之部御好次第出来仕候
      (おこのみしだいしゅったいつかまつりそうろう)

     西洋酒類、ブドウ洒、ビヤ洒、シャンパン酒

  其他御好次第
      西洋御菓子類


とある。

 これが明治4、5年のメニューであり、明治10年になると、並三十銭、中等五十銭、上等七十五銭の三通りで、その他に一品料理としてスープ八銭五厘、牛肉鳥類八銭五厘、サラダ五銭、ライスカレー十二銭五厘、コーヒー二銭、コーヒーーミルク入り三銭、パンニ銭、パンバター付二銭五厘菓子類は一個三厘から二銭五厘までがあった。

 本格的な西洋料理の店とはいっても、はじめのメニューには日本的な発想である折詰や重詰などが存在している。時が下ると、さらにはライスカレーなどの一品料理が加わっている。やはり、時代が経つにつれて日本人の嗜好にあったものがメニューに名を連ねていくのだということが分かる。(ここ重要です)

 西洋料理は外国人のほかに日本人の上流階級で珍重されていたのだから、どんなに高かろうとそれなりに儲かった。それで、幕末に出島で料理人を勤めていたものが一儲けをもくろみこの種の料理店を開港場近辺で始めるというケースが当時少なくなかった。


第三章
西洋料理の和風化

  明治時代も半ばごろになると、文明開化の波もしだいに落ち着きを見せるようになるが、時とともに西洋料理店は数を増していった。

 『近代日本食物史』によれば、明治15年から20年にかけて東京には10軒の西洋料理店が開業している。しかしこれは正式の西洋料理を出したわけではなく、ナイフとフォークを使って食べる西洋風の一品料理を出したものと思われる。コースにそって料理を出す店は東京市内でも2、3軒に限られたものだろう。その2、3軒とは「精養軒」「三河屋」「富士見軒」あたりであろうか。
 「富士見軒」とは、明治12年「横浜グランドホテル」のビリヤード部で飲食サービスを担当していた後、九段上に開いた西洋料理店である。

 そうした本格的西洋料理は明治時代にあっては主に上流階級のためのものであり庶民にとっては高根の花であった。このことは浅草のような下町には明治30年になっても1軒の西洋料理店もなかったことに端的に示されている。西洋料理というと牛鍋を指すのが庶民の感覚であった。

 しかし、そうはいってもすべてが牛鍋を指していることもなく、西洋料理はしだいに洋食というものに姿を変え庶民の間に浸透していくのであった。

 1871年の浅草瓦町では西洋茶漬屋という触れ込みの「會円亭」が人気を呼んでいた。この店の特徴は、「御膳付一人前六匁五分、オームレットは玉子焼、ビフパンは日本牛鍋」とあり、卵、牛肉を材料にした和洋折衷の料理であった。そうした料理をお膳や弁当の形式で提供した点が人気を得た理由であろう。

 それもそのはずで、半ばごろになったといっても西洋料理にお目にかかる機会はほとんど無く、正しい食事作法の分らない一般庶民には、お膳や弁当形式がうってつけなのである。上流階級で、西洋料理に接する機会の多い人々でさえ、アイスクリームにソースをかけてしまう時代なのだから。

 西洋料理店が増えたとはいっても牛鍋屋の急成長に比べるとその成長率は決して高いといえるものではなかった。その原因として前述した食事作法が分らないなどの欧米と日本との食文化の違いが大きく関係しているだろう。

 当時の食習慣の差異を何とかなくそうと、東京博文館刊行の『賓用料理法』という本の西洋料理の項に“洋食の心得” という文がでている。

これは24項目で成り立っているが、その中からいくつか抜粋すると

    一、食物の口中にある時談話すべからず

    一、食卓上の薬物を他所にもちさることなかれ

    一、食しながら犬猫に戯ることなかれ

    一、食しながら口中に指を入れ又歯などほることなかれ

     一、他人の笑柄になるやうに一物を貪り食ふことなかれ

     一、食事中談話にうかれ包丁にくさしなどをふるひ手まねものまねなどをすることなかれ


などがある。食べ物が口にあるときはしゃべるなとか、テーブルの上のデザートを他所に持ち出すな。食べながら犬や猫と遊んではいけない。口の中に手を入れて歯をほじってはいけない。おいしいからといって一つの物ばかり貪り食っては笑われるなどとあり、そのほとんどが当たり前で常識のうちなのだが当時は本当に分っていなかったように思われる。西洋料理を食するにあたり、ナイフやフォークが云々よりも、このレベルから話を始めなければならなかったのであろう。

 また、大野谷蔵の「開陽亭」の話で当時の客はスープを飲もうとして胸から膝までこばしてしまったり、肉をナイフで刺して食べようとして唇を切ってしまったりしたのが常であったとあり、その戸惑いこそが西洋料理の普及を遅らせた重要な点であることは言うまでもない。

 それが証拠に明治20年になっても、東京の市内で流行しているのは、前述の「曾円亭」が元となっている西洋一品料理だとか、お手軽西洋料理といった触れ込みの大衆的な洋食店で、明治30年頃には1500〜1600軒にものぼっていたと推定される。

 明治6年10月頃の『新聞雑誌』156号に、「其人口に胎灸せるもの一、二を記す」として、次のような店が挙げられている。

 西洋料理は采女町「西洋軒」(精義軒の誤記)、築地「日新亭」、茅場町「海陽亭」。洋酒は入船町「伊勢輿」、芝神明前「東花堂」。精牛は通り三町目「平庸」。鳥類は小田原町「東園屋」。牛肉割烹は数寄屋河岸「千里軒」、黒船町「鱗亭」、参河町「三ッぼし」、上野「釜甚」などいろいろあるが、どこも料理にはさほど優劣はなかったようだが、この頓になると、評判の店というのはいくつか決まっていたようである。

 こうした流行は、国民の大半を占めている一般庶民にでも気軽に食べられるように西洋料理がある程度、和風にアレンジされ、洋風料理法やその材料が和食に加味され始め、定着してきた表れであるように思う。

 そして、この頃から洋食を食べるのにめんどうなナイフやフォークをやめて箸で食べるということを始めたのではないだろうか。肉食を和風に考案した牛肉めしや肉うどんなどのようなものも登場し、中でもカツレツは明治期の料理の傑作とまでいわれるほど牛肉の、フライ式料理は庶民の米食の副食としてなじみ深いものとなった。

 したがって以前の外国人居留地などに向けて作られた「横浜ホテル」などのレストランの本格的な純西洋料理店よりも、既存の西洋料理を和風にアレンジした西洋料理風の一品料理の洋食のほうが日本人には早く受け入れられたようである。

 明治38(40年とも)年東京丸の内に「中央亭」を開いた渡辺鎌吉は、10歳のころ、母親のすすめにより横浜にでて外国人居留地内のオランダ公使館に庸丁として勤めるようになった。そこの調理場ではオランダ人の料理人の指図の下に何人もの日本人がすでに働いていた。やがて西洋料理に興味を抱くようになった鎌吉は、その調理場に出入りするようになった。雑用をこなして行くうちに、しだいに調理場専属の下働きになっていった。

 明治13年オランダ大使館が東京に開設され、鎌吉も大使舘づきの料理人として東京に移り住んだ。明治16年の鹿鳴館完成のときに、そこの料理長として推薦されたが、これを辞退し、明治22年華族会館の料理長として招かれた。この華族会館時代に、鎌吉の料理は多くの人に愛され、またそれらの中から鎌吉の料理の腕前を高く評価し、支援するものに、松方正義、桂太郎、岩崎弥之助などが現れた。

 明治23年、陸軍用地だった丸の内一帯を岩崎弥之助が買い占めオフィスビルの元祖である赤レンガづくりの建物を立ち並べ、その8号館に鎌吉の店として「中央亭」を開店させた。この時、多くの優れた料理人が鎌吉の名声を聞き、集まった。初代料理長の大平茂左衛門、その弟子の林玉三郎、長崎で料理を学んだ前田誉次郎、松方家の書生であった小薗四郎、岩掘房吉などである。

 この頃の丸の内はまだ人もまばらだったため出張料理などが主な仕事だったが、明治の末になると「精養軒」「三河屋」「富士見軒」などと肩を並べるほどの一流レストランになっていた。

 この「中央亭」で働いていた大平や林は後に「東洋軒」に移っていった。このように西洋料理を作る料理人が他の店に移り、その輪を広げていった。

 日本人の西洋料理の料理人はどこから輩出されるのか、と言うといまの例のように、初め長崎や横浜の外国人居留地などで、外国人のもとで指導を受け、その腕前が上がるにつれて支援者がつき、その支援を受けて店を開く。さらにその下で働いていた料理人が独立してほかの店を出す。これが調理学校などのなかったこの時代の一般的な増え方だったのだろう。

 現存するレストラン「五島軒」は明治12年(1879)4月に函館の末広町八幡板下でロシア料理とパンの店として開業した。創立者の若山惣太郎は初代料理長の五島英吉を得て店を開けたといっていい。五島は本当の姓は不祥だが、長崎県五島の出身で、函館戦争に参加し、敗れた後、残党狩りの難を逃れるためにハリスト協会に身を寄せ、そこでロシア料理とパン、ケーキの作り方を学んだという。また、その後の明治22年から五島英吉は横浜に移り「グランドホテル」に勤めている。

 また、元来パン職人であった井上浅五郎は明治15年に麹町三丁目に弁当屋を開き、次いで17年、平河町に洋食屋を始めた。これが「宝亭」であり、この「宝亭」からは有能なコックが輩出し、全国に散らばっていった、と伝えられている。その後、万世橋に「万代軒」、浅草に「ぱんりゅう軒」、両国に「芳梅亭」、銀座と神田に「三橋亭」、芝に「三縁亭」、神田に「亀田」、四谷に「宝来亭」などが明治20年代までに開業し、さらに明治31年になると、それまではサンドウィッチと喫茶を扱っていた洋菓子の「風月堂」も本格的に西洋料理を出し始め、当時、外国人が最上のレストランと考えるほど評判がよかった。

 大阪では、灘屋万助の「灘万」は上方料理の店として知られていたが、四条流の奥義をきわめた正吉と正助の二人の板前が、明治10年頃には西洋料理法の書物を紐解いて工夫をこらし、これを日本料理に応用したと伝えられている。

 このように明治の中頃には多くの洋食屋が現れ始め、その後も勢いは増すばかりである。西洋料理が伝えられて間もないころ、外国人に指導してもらっていた料理人も、自分の店を構える事ができて、下働きとして迎え入れた若い世代のものに、その技術を学ばせるのである。そうして始めは上流階級のものでしかなかった西洋料理が市内のあちこちに出来だしてきて、より一般庶民に親しみやすい形で提供されるようになってきた。

 明治中期から大正、昭和にかけての代表的食べ物として「ホールクコットレット」、いわゆるカツレツがある。「ホールク」は豚肉、「コットレット」はロース肉の事であり、英語の「カットレット」と一緒くたになりカツレツと呼ばれるようになった。 このカツレツの考案者は明治28年に銀座で開業した「煉瓦亭」の主人である木田元次郎であった。木田は従来のカットレットの作り方を日本のてんぶらのように油で揚げてみたら、油の始末も面倒くさくないし、1度に2枚、3枚と揚げられるので早くつくることができるはずだし、されにそれに添える野菜もキャベツにしたら肉料理にぴったりするのではないかと考え、それを試みたところ大評判となり、その後ほかの店にも顔を出すようになった。

 フランス料理にみられる、肉の炒め焼きというつくりかたではなくて、十分に油で揚げるつくりかたに変化したところに日本化、すなわち外来の文化を受容した後におこる変容を見ることができる。カツレツは大正10年になるとさらに日本化が進み、カツ丼になる。日本人は米飯のおかずとしてカツレツなどを受容したのだが、味付け、調理法などに手を加え日本人の嗜好、食習慣にあった独特の料理に改まったとさ、カツ丼は広く洋食屋のみならずそば屋などでも出されるようになるのである。この「カツレツ」を、とんかつと呼ぶようになったのは昭和初頭のころで、宮内省大膳職で働いたことのある現在東京上野にある「元祖とんかつぽん多」の創業者である島田信二郎がその名をつけたからであった。

 明治9年4月に「精養軒」の上野支店が開業すると大勢の人が集まり、その中に柳橋の芸者が4人達れで箱屋を引さ連れあらわれ話題になった。芸者に西洋料理は珍しいということで、注文のほかにビールを1本ごちそうしたという。これ以後猫も杓子も西洋料理を食べることになるだろうという当時の人の考え通り、その後上流階級の人々から一般庶民の間にまで西洋料理は、あるときは洋食というものに形を変え人々の中に普及し定着していくこととなった。


終章


 こうした洋食屋が明治の中頃を過ぎて数多くできてきたわけであるが、今まで和食しか食べていないで、ましてや西洋料理をつくったことのない人達が、いきなりポークカツレツやビーフステーキをつくれるはずがない。それができるのは、外国人居留地などに出入りして料理を教わったり、「横浜ホテル」や「精養軒」などの西洋料理店で下積みを積んで以後、独立した一握りの人達である。そういった人々がさらに人に教える、という具合に徐々にではあるが、しかし確実に、西洋料理を学んだ料理人が増えていくことになった。しかし外国人に指導を受けるのとは違って教えるほうも教わるほうも同じ日本人同士で、食べてもらう客も日本人、以前に学んだ純粋の西洋料理に固執する必要は全くない。そういった所から、より日本人に親しみやすいようにと、西洋料理ではあるけれど、日本人の嗜好や食習慣にあった、味噌や醤油での味付けや、箸を用いるなどして日本風に手を加えていったのだろう。

 もともと日本人というものは、今日の我々の社会に目を向ければ分かる通り、日本独特の文化というものを持ちえていない。文化がないということではなく、世界各国の文化を取り入れつつもその文化をそのまま受け入れるのではなく、日本の土壌にあった形に変化させ、自らを合わせ、融合させる。そんなニュアンスの文化の発展を繰り返してきている。元来日本人とはそうした周りに合わせ自分を変えつつも、その周りのものも次第に変えていくことのできる民族のようである。

 そのため自らの都合のいいように、日本人自身を西洋料理になじませながら、西洋料理自体を日本風にアレンジしていくというのを、おこなっていったのである。

 開港以後の決定的な変化として、明治元年(1868)の神仏分離令の公布により、193年間続いた仏教の殺生肉食禁止の戒律が空文に帰して、日本人のすべてが自由に肉、乳、卵食にしたためるようになったことがあげられる。明治以後から現在に至るまでの間に、相当高い水準に達した食生活の洋風化は、じつはこの仏教戒律の撤去に由来しているのであって、新しいタイプの食文化の成長発展の原因もここにあるのである。

 だれも開港から100年以上経った現在にパンや麺などの粉食が、古い伝統をもった米食の3分の1を占めるところまで伸びるとは思いも及ばなかったに違いない。それは、明治初頭につくられた「バカの番付表」のトップに「米があるのにパンをくう日本人」があげられているという事実だけで十分わかる。

 しかし現実には、米食にとって変わる存在ではないにしろ、粉食がない食生活も今では考えられないほどである。まわりを見てみるとフランス料理、中華料理のほかにイタリア、イギリス、ドイツ、スペイン、朝鮮、インド、ロシア、ブラジル、台湾、メキシコ、ペルー、地中海、などなど、とてもすべてはあげられないほど各国の料理が、食べたいと思えばすぐに食べにいけるほど、氾濫している。

 これほどまでに日本の食生活は多岐多様化してきたのも、前述してきた通り、日本人は外来文化を日本風にして受け入れる能力に長けているからであり、今現在でもその能力が失われたわけではない。明治、大正時代に登場した西洋料理、洋食が当時の一般庶民に役々に浸透していったように、これからの日本も世界の料理を休むことなく受け入れ続け、日本的にアレンジして、現在の日本人のニ−ズに適った新しい折衷料理をつくりあげ成長発展を繰り返していくことだろう。



参考文献一覧

江戸たべもの歳時記 浜田義一郎 中央公論社
江戸のあじ東京の味 加太こうじ 立風書房
江戸の料理史 原田信男 中公新書
外来の食の文化 猪倉巧夫・石毛直道 ドメス出版
宮廷柳営豪商町人の食事誌 児玉定子 築地書館
近代日本食物史 昭和女子大学食物学研究
近代日本開化期文学集
グルメは文化である 富田仁・内海あぐり 白馬出版
食生活世相史 加藤秀俊 柴田書店
食生活の歴史 瀬川清子
食からみた日本史(下)
食卓を変えた肉食 宮崎昭 日本経済論社
食の歴史人類学 山内昶 人文書院
食文化の国際比較 飽戸弘 日本経済新聞社
西洋菓子彷徨始末 吉田菊次郎 朝文社
西洋料理がやってきた 富田仁 東書選書
西洋料理事始 中央亭 三浦印刷
たべもの語源考 平野政章
たべものと日本人 河野友美 講談社
たべもの日本史総覧 新人物往来社
渡来食はじまり紀行
にっぽん洋食物語 小菅桂子 新潮社
日本型の食生活の歴史 安達巌 農山漁村文化協会
日本食生活史 渡邉寛 吉川弘文館
日本食生活文化史 大塚力 農山漁村文化協会
日本食物史 せ口清 柴田書店
日本食肉文化史
日本人と西洋食 村岡寛 春秋社
日本の食物史 安達巌 同文書院
日本の東西「食」気質 山口米子
パン食文化と日本人 安達巌 新泉社
ホテル料理長列伝 岩崎信也 柴田書店
和風たべもの辞典 小野重和 農山漁村文化協会

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