− 自らのいのちに感謝し、いのちを生かし、支え合う社会を−
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自らのいのちに感謝し、いのちを生かし、支え合う社会を
                白砂 巌
一、旅先にて
二、手紙にかえて
三、これまでの私
はじめに
1) 肉体的限界への挑戦──山登り
2) 障害をめぐる社会的理解と制約への挑戦


この記事は、写真と組み合わせて本として出版出来るか、あちこち打診中です。
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一、旅先にて

出会ったのは、2008年5月27日の午後4時のこと、
八百年も生きてきた杉の巨木(きょぼく)も繁る森の神社だった。

私のかたわらで、同じように生きてきたであろう近くの杉の大木(たいぼく)を抱きしめ
て若い彼女は、
「(巨木の)パワーをもらいに来たの」と話した。
「どうかしたの?」と私。
「人間関係で落ち込んでいるの」と彼女。

そこで、私は私のことを話し始めた。
「(私を)見ていて歩くのヘンだったでしょ」
私は自分の左足を見せながら
「小さい時、小児マヒという病気でこの(左)足が短く細い足になってね」
「子供の頃は、この足のことで、周りの大人から“足が悪いけど(勉強して)頭でがんば
れば普通の人にまけないんだから頑張れ”と言われたけど、“悪い足”なんて言うのはと
んでもなくて、実は“すごい足”なんだよね。この力の弱い足が、60年近く私の歩みを支
えてくれているんだから」

《この時私は、彼女にナマ足を見せた訳ではなく、はいていたジーパンの裾をめくって、
左足の膝から下を見せたのですが、18歳の時、整形外科の手術で左足のかかとの軟骨を削
って関節をギブスで固定した時、向きが斜めにかしいでいたため、足の裏面が平坦に接地
しなくなりました。それでどんな靴も左足にあわず、足も靴に合わせられないまま靴を履
いて、普段は、右足と短い左足の段差を和らげるために、左足の靴に中敷を入れて歩いて
います。》

「実は、この足で、先週(5月20日)、水俣にいる友人の堀傑君・芳美さん夫婦(※注1
)と屋久島へ行ってね、奥さんの芳美さんと5月21日、健脚の人が10時間で行って帰って
くるところを、この足は悲鳴をあげながら11時間かけて縄文杉まで登って、その先の山小
屋に泊まり、翌日、9時間かけて下りてくるという山歩きをしてきたんだよ」
「彼の方は、10年ちょっと前、脳の出血の後遺症で杖をついて歩くようになって、山歩き
ができない体になってしまったので、宿で待っててもらってね」
「ここの杉もすごいけど、屋久島の杉はもっとすごいよ」といって、私はデジタルカメラ
で写してきたの縄文杉の写真を見せながら、話をすすめた。

※注1 堀君夫妻と知り合ったのは、私が、1976年の全障連(全国障害者解放運動連絡会
議)の結成で取り組むことになった1954年3月に静岡県島田市で起きた幼稚園児の佐野久
子さんが誘拐・殺害された事件で、精神障害を理由に死刑判決を受け、無実を訴えていた
赤堀政夫氏の救援運動にのめり込んだ縁で、他の冤罪事件に関わっていた人とお互いに知
恵を巡らせて協力し合う関わりが生まれて、土田・日赤・ピース缶事件で犯人にされた人
を支援をしていた堀君夫妻と知り合いました。
 傑君は、土本典昭さんが水俣の映画「水俣─患者さんとその世界」(1971)を撮った時、
助監督として関わったことがあり、また12年ほど前には、脳の出血で半身不随の後遺症に
見舞われて、当初は寝たきりを余儀なくされたけれど、職場復帰をはたし、定年まで勤め
ました。その後の人生をどう生きるか考えた時、堀君夫妻は水俣への更なる思いを果そう
と移住することにしました。
その堀君夫妻が水俣へ出発する前の2007年9月に会った時「水俣から屋久島は近いよ、
いっしょに行こうか。行こうよ」という話になり、また、芳美さんとは縄文杉まで登ろう
と話していました。
※屋久島までの経過については、「三、これまでの私」にまとめました。

《私にとって、健脚の人が10時間で往復してしまう所を、11時間かけて登り、9時間かけ
て戻ってきたことは、自慢の種で誇りに思って人に話しています。実際、東京に戻って、
ちょっとした用事で出かけて家に戻るたびに、同じような足の疲れを感じて、後は寝ころ
んでいる始末で、普段の外出でもこんな足の状態なのに、よく縄文杉まで行って帰ってこ
れたと、つくづく思います。
 現に、荒川登山口から歩き始めて程なく、左の靴に中敷を入れたまま歩き出したことも
災いして、トロッコ道をいくらも歩かないうちに出た、左足のかかとに痛みをカバーして
歩いたので両足に筋肉痛が出て、小刻みに休みながら歩いていきました。10kmはあるので
はと感じた 5.5km表示のトロッコ道を歩き終えた時、疲労で歩けなくなった私は横になっ
て休ませてもらい、40分ほどしたら、改めて歩く気力が出たので、もう少し先へ行けるか
もしれないと芳美さんに伝え、険しい登山道の大株歩道へ足を進めたのです。三代杉・翁
杉・ウイルソン株へと休み休み歩き、ここまで来たらもう引き返せない、先へ行くしかな
いねと最後の力を振り絞って、大王杉・夫婦杉・縄文杉へと歩き続け、高塚小屋へ辿り着
けば野宿しないですむからと、最後の登りを歩いていきました。こうして、11時間かけて
くたくたになりながらも、ようよう私を山小屋まで運んでくれたのが私の左足でした。》

《疲れで私が翌日に山を下るのは無理かもしれないので二泊してその間に、芳美さんは宮
之浦岳に登って来て、三日目に山を下りるつもりで出掛けた山登りでしたが、翌22日、山
小屋で一緒になった人がラジオの天気予報を聞いて、三日目には雨が降ると教えてくれた
ので、私たちも一泊で切り上げてその日に山を下りることにしました。けれど、私の後を
歩いていた芳美さんが、絶えず私の足元も見て足運びの頼り無さに二人だけで山下りをす
るのが心配だからと、山小屋で一緒になった、東京から来ていた加藤さんに、大株歩道だ
けでもいっしょに下りてくれるようお願いして、また、朝食を済ませてこれから下るとい
う時に、新高塚小屋から下りてきた若い中島慧君にも同行をお願いして、私は芳美さんと
二人の男性のサポートを受けて山を下りて行きました。》

《山を下る時、私がバランスを崩して足を踏み外しそうになったその度に、同行してもら
った中島君や加藤さんが手を差し延べ、見守ってくれたので、幸い怪我をすることなく大
株歩道を下り切ることができました。同行してもらったお二人は、白谷雲水峡を廻って下
りるというので、トロッコ道の始まるところで別れ、このあと私たちは、ヒイヒイ言って
休み休み歩く私のペースに合わせて、車を置いていた荒川登山口まで結局9時間かかって
下ったので、縄文杉まで往復するのに健脚の人の倍の時間がかかっていました。けれど、
道の途中で運良く屋久鹿や屋久ざるに出会って気分転換しながら、70kgを前後する体重を
支えて、悲鳴をあげながらも、それでも全行程を無難に、ほんとうにけなげに私の左足は
私を運んでくれました。》

「屋久島の杉は、ここの杉よりも(生きるのに)条件が厳しいのに、中には千年二千年と
生きて、縄文杉に至っては七千年も生きてきたと言われている」
「人間の場合、生きるのに条件が厳しいと、長生きできるとは限らないけど、10代の頃に
“あなたは心臓が悪いから長生きできない”と言われて、80歳を迎えて生きてこれた女性
〔青地君子(さちこ)さん〕に、2、3年前にその話を聞いたけど、その人の心臓、実は
“すごい心臓”だよね」
「この縄文杉の場合も、枝がもがれても、それでも生きている」
「実際、すごいと思う」
「だから、小児マヒという病気になって私のいのちは傷ついたけれど、それでも私を支え
てくれてる自分のいのちに、いまではすごく感謝しているし」
「それに、自分のいのちを誇りに思ってるよ」

《私の場合1歳と4か月の時、40度の熱で4日間寝込んで、直後に歩けなくなったと聞い
ています。神経の一部がマヒして萎えた左足でしょっちゅう転びながら歩いていた私は、
健常者と比べて不利で劣っている所があるから、少なくとも負けないために「頑張れ」と
言われて、周りの大人や子供に「足が悪い」「びっこびっこ」と言われるたび嫌な思いを
し、反論できずに反発して母親には「なんでこんな体に生んだんだ」と酷なことを言って
せめたこともありました。反面「自分は足が悪いんだ」と劣等感をつのらせて、自分の障
害からは逃れられないという脅迫観念に囚われていました。けれど、私の「小児マヒの力
の弱い細い足」は隠せないものであり、健脚の人と比べれば圧倒的に劣っている現実から
逃れようがありません。それなら、自分の障害から逃げずにそれを引き受けて生きようと
決めたのが、27歳ごろのこと。その後、37歳の時に、人が否定的なことを言っても、自分
が否定することはなかったのだから、自分のいのちを肯定して、いのちを生かして生きよ
うと決断しました。そして、60年の歳月を障害と共に生きてきた現在の私は、私やほかの
障害者のいのちも、これまでさまざまな困難に出会って傷つき、体の機能が失われたり低
下しても、けなげに自分を支えてくれてるのだから、少なくとも自分のいのちには誰もが
感謝と誇りを持てるはずだと考えるようになりました。》

《実は姪の娘が2歳のある日、40度近くの熱で4日間ほど寝込んだことがありました。こ
の時、手足を自分で動かせなくなり、最悪の時は首から下の身動きが全くできなくなって
いた彼女は、熱が下がって動けるようになったので、病院に行かず病名も不明でしたが、
少し足をふらつかせて歩いていていました。このふらつきが消えるまで半年近くかかった
ことから、彼女は、小児マヒを引き起こすウイルスに冒され、その後、神経の損傷が回復
できたと私は見ています。だから、お多福風やはしか同様に、すべてのいのちが、小児マ
ヒのウイルスやハンセン病のらい菌や結核菌など他の伝染病にも一度は接触して、ほとん
どの場合、たまたま免疫がまさって発病しなかったり、発病してもいのち(免疫)の力が
まさって後遺症に見舞われることなくやり過ごせたから、無事でいられると、私は理解し
ています。だから、本来なら、健常の体を維持してもらっている健常者であればある程、
健常の自分を支えてくれているいのちに、障害者の何倍も感謝し誇りを持っていいはずな
のに、そういう声をこれまでどうして健常者から聞けなかったのか、私は不思議でなりま
せん。》

《実際、戦前・戦後を通して、小児マヒやハンセン病を発病したり、仮死状態で生まれて
家族に障害者が出現すると、誤った知識や無知から当時の人は、その家系に遺伝病がある
といって、本人以外に家族も差別したので、家族によっては重度の障害者や精神障害者を
座敷牢に入れて、世間から隔離して生涯を送らせたこともありました。また、能力が劣っ
ているといって、他人からさげすみの対象にされ、自力で歩いて学校へ通えない障害者は
、就学免除という名目で公教育から排除される不利益も被っていました。加えて戦時中の
障害者は、国のために兵士として戦場で戦えない役だたず=穀潰しとされ、敗戦が濃厚に
なった混乱期には、いつ死んでもいいと青酸カリを渡された人もいたと聞いています。こ
うした社会状況を経て、戦後も家族の誰かが障害を負うと、本人以上に夢や希望を持てず
に将来を悲観して、子殺しや一家心中に手を染める親がいなくなることはなかっし、現代
も形を変えて引きずっている始末です。》

《若い時に、他人から「お前はダメだ」といわれて「自分はダメ」と思い込んだり、自分
で「自分にはダメなところがある」とダメ出しして、自分のいのちのありようを自分で否
定しているから、本来なら誰もが、劣っているマイナスだとされる部分があっても、無難
に健常の自分を支えてくれている自分のいのちに感謝できたはずなのに、まるごと自分を
引き受けて、自分を支えてくれるいのちに感謝と誇りを持とうとしなかったのです。それ
ばかりか、人が障害を負うことは能力に劣るマイナスなことで、そうした運命を背負うの
はかわいそうなことで、障害を負った自分の姿は想定外でありえない、あってはならない
ことと思っている人が、歳をとって杖をついて歩くようになると、愚痴をこぼす人が少な
くないのが実情です。》

「それに引換え、大抵の人のいのちは、小児マヒやハンセン病という病気を引き起こすウ
イルスや細菌に出会っても発病しないで、これまで曲がりなりにもその人が自由に歩いた
り、見たり聞いたり、しゃべったり考えたりすることを支えてくれている。だから、ほん
らいなら、私やほかの障害をもった人の何倍も自分のいのちに感謝してもいいはずだと思
うけど、あなたは、自分を支えてくれる自分のいのちに感謝している?」
「う〜ん。感謝する気持ちは持っている」と彼女。
「ほんとう?」
「ほんとうに自分のいのちに感謝しているの」
「だったら、自分のいのちも誇りに思えるよね」
「・・・」彼女は少し考えていた。

     無題 まだできることがあるのに
        まだ生かせる自分がいるのに
        自分のいのちに感謝しないのはなぜ
        
        光を感じるのに喜べないのはなぜ
         耐えがたい光景しか見ないから
         満開の桜に包まれたことはないの
         満点の星空を眺めたことはないの
        音が聞こえるのに喜べないのはなぜ
         耐えがたい音しか聞かないから
         鳥のさえずりに耳を傾けることはないの
         心に響く言葉に出会うことはないの
        
        声を出せるのに喜べないのはなぜ
         耐えがたい言葉をしゃべるから
         悔いのない思いを話せばいいじゃない
        手が使えるのに喜べないのはなぜ
         後ろめたいことに使っているから
         悔いのない物を形にすればいいじゃない
        
        何処へでも行けるのに喜べないのはなぜ
         耐えがたい道しか歩かないから
         悔いのない道を歩けばいいじゃない
        支えられてるいのちに感謝しないのはなぜ
         自分をみじめだと思っているから
         悔いのない時を過ごせばいいじゃない
        
        まだできることがあるのに
        まだ生かせる自分がいるのに
        
        感謝しない人生を不安と苦しみの色が染めている

《あなたも言いかけたように、周りの人の手助けや自然の恵みを実感して「自分は生かさ
れている」と気付いて感謝する人や、日本人という属性を誇ったり肩書を誇りにする人も
います。でも、こうした感謝や誇りが、自分自身のいのちへの感謝と誇りを持つことに直
結しているなら、事故や急な病気でいのちが損なわれない限り、頭が良くないことや世渡
りべたを愚痴ることなく、頭の回転がにぶくて世渡りがへたでもそんな自分を引き受けて
、一所懸命自分を支えてくれているいのちなのですから、自分に何ができてもできなくて
も、人はどんなことにぶつかっても難なく乗り越えていけると私は思います。でも、自分
はダメなところもあるけど、いまは何かができているから感謝し自分に誇りが持てると思
ったり、何かで自分を勲章のように着飾れるからまだましだと思い込んでいると、病気や
怪我で体に障害や後遺症を負ってこれまで通りに動けなくなって、それまでの社会的地位
や個人的立場を失うと、改めてダメな自分に戻って「何も悪いことをしていないのに、な
んで自分がこんな目にあうんだ」と嘆くことになるのです。》

《つまり、自分のいのち以外の何かに感謝したり、いのち以外のものを誇りにしても、自
分のいのちに感謝し誇りを持つことに結びつかないから、自分が主人公として自分のいの
ちに真っ正面に向き合い、そのいのちを丸ごと生きているという実感を持てないのです。
だから、自分で自分を律(自律)しているという自覚も持てず、自分はまわりの状況に支
配されていると思い込み、すべては人のセイだから自分の行動に責任を持とうとしなくな
り、律することができない自分を他人に守ってもらおうとしたり、自分以外の何かに依存
して安心を得ようとします。けれど挫折を重ねていくと、自分はダメだという思いをこう
じさせ自暴自棄に陥って自死を招いたり、他人や社会(政治)のセイにして逆恨みし、逆
恨みをこうじさせて他人に矛先を向けて、理不尽な通り魔殺人と呼ばれる事件や家族内の
殺人が起こしているのだと私は思います。つまり、自分を支えてくれるいのちに感謝しそ
のいのちを誇りにしないで、自分のいのちを生かせないので、いのちを否定しあって人の
いのちも生かすことができないので、人を殺すことまで繰り返されていると私には思える
のです。》

《また、自分のいのちに感謝し誇りを持っている人は、他人の姿や能力が自分より劣って
いるからといじめて喜ぶ必要はないので、そもそもいじめようなんてことはしないでしょ
う。でも、自分に自信もなく、自分が人より優位にたっていないと気が済まなかったり、
過去に「自分はダメな人間だ」と思い込んで劣等感にさいなまれた経験があって、自分を
支えてくれている自分のいのちに感謝することなく、自分のいのちを誇りにできないから
、人を落とし込めて、「ざまあ見ろ」といっていじけた感情を発散させて優越感や喜びを
感じる人がいじめをすると私は思っています。逆に、いじめられる人が、自分を支えてく
れるいのちに感謝し、そのいのちを誇りにできることを発見していれば、自分に自信を持
てて不安にならないので、いじめがいじめとして成立しなくなると私は思っています。だ
から私は、いじめの関係に引き込まれないために、自分を支えてくれる自分のいのちに感
謝し、そのいのちを誇りにして、自分に真っ正面に向き合い、自分がいままた何かできる
ことに感謝して、いのちを丸ごと生かすことを意識し、他人ともいのちを生かし合うこと
を念頭に生きるよう、自分に言い聞かせています。》

これから熊本まで帰るという彼女に、私は結論を急いだ。
「自分のいのちを誇りに思えるなら、それだけでいいんじゃない」
「自分に自信をもって生きていけるんだから」
「でも自分に自信がないから、まわりに振り回されて自分を見失って、不安に思ったり、
いやな思いをしたり、自分をダメだと思い込んで悩むんだから」
「ちゃんと、自分のいのちにも感謝して、自分のいのちに誇りをもっていけばいいだけじ
ゃない・・自分のいのちを生かして・・」

別れ際に握手を求められた時の彼女の手は力強かった。

 
二、手紙にかえて

 その後、あなたが、心晴々と、元気でやっていればいいのですが。
 あの時できるものなら、あなたの話をもっとじっくり聞いて、話したかったけれど、そ
の時間がなかったのが残念でなりません。しかし、あなたが改めて何かで悩むようなこと
があれば、あなたの手助けになればと思い、あなたに読んでもらいたいことを書いておき
ます。

 人のいのちは、誕生の瞬間から、化学物質や放射線・紫外線に曝されたり、細菌やウイ
ルスに接しても、自らを維持するためにいのち自身で対処して、大方の場合、運良く傷つ
かずに無難にやり過ごします。だが、時には体や神経の一部が傷ついて、その機能を損う
後遺症に見舞われるいのちもあります。けれど、多くの人は、いつの間にか自分のいのち
は自分の意思で自由にできると思い込み、いのちに支えられていることを忘れ、いのちへ
の感謝と誇りを見失っています。それでも少年の頃に、自分を支えてくれるいのちに感謝
して生きれることを、誰かに気づかされていたら、どんなによかったろうといまでも私は
思います。しかし、そうした機会に恵まれなかったからといって、誰も他人を恨むことは
できないと私は思っています。すべての人が生まれてこの方、始めての世界に飛び出て、
初体験を繰り返して歳を重ねて生きていくのですから。でも、こんな歴史をこの先も繰り
返してほしくないと私は思っています。
 だから、考えてみてほしいことがあります。それは、お世話になった屋久島のユースホ
ステルで、たまたま大阪からご自身の母親といっしょに旅行にきていた同年輩の女性とテ
レビを一緒に見ていて少し議論になったことです。その時のニュースは、ある事件の加害
者に「死刑」の判決が出たか、死刑にされたことを伝えていたので、そうした死刑に賛成
か反対かという話になりました。 その女性の言い分は、「人を殺したのだから死刑にな
って当然だ」「死をもって償うべきだ」「自分の家族が殺された時、私なら犯人を殺すわ
」というものでした。確かに理不尽に人を殺すことは許されない。でも、だから殺す(死
刑だ)というのでは、死刑にするから、幾らでも殺していいよと言っているように聞こえ
、理不尽な殺人をなくすことにならないと私は考えています。実際死刑を言い渡す基準を
どんどん下げて、死刑の刑罰を増やしても理不尽な殺人事件はなくなっていません。逆に
、どうせ死刑になるなら一人殺すも二人殺すも同じだ、また自分一人では死ねなくてそれ
でも死にたいから、道連れに人を殺すから死刑にしてなんて考える人を繰り返し登場させ
ている始末です。
 これとは別に、証拠を捏造されたり誤った判断で死刑にされることが日本でも起こって
います。こういう人が実際に死刑にされた時、こうした過ちをどのように誰が償うのでし
ょう。以前、九州で人違いで人を殺した事件がありました。冤罪による処刑も人違い殺人
に変わりはない訳で、こうした事件に関わった警察官や検事、また、この人は死刑でもし
ょうがないと思い込んで死刑に賛成した裁判官や弁護士・一般の人も含めてどう罰を受け
るのでしょう。理不尽な処刑を行わせた人は、同じように死刑に該当しないのですか。こ
れでは「もともと、理不尽な人殺しを無くしたいと思わないし、殺したら殺す社会をこの
まま続けたいから死刑制度に賛成するんだ」と勘繰りたくなります。

 一方で、人間の活動で大気中に吐き出される炭酸ガスなどが、地球の温暖化による気候
変動を招いている実態が知られるようになっても、相変わらず日本の多くの都市の自治体
を通して私たちは、生活で出す生ゴミだけでなくプラスチックゴミも、燃やして処分しよ
うとしています。東京都区内の場合、この時のゴミ焼却場の熱利用率は12%に過ぎないし
、これを将来、上げる計画でも熱利用率は20%に向上するだけといいます。したがって現
在のところは、88%の量の炭酸ガスと熱を、ただ撒き散らしていることになります。
 その結果、ゴミを燃やし続ける私たちの生活が、日々、温暖化による気候変動を加速さ
せるマッチポンプの役割を果しています。そして、台風などの暴風雨を強力な爆弾低気圧
に変えたり、都会の放射熱がゲリラ豪雨を多発させて、その被害で亡くなる人を増加させ
てしまうのです。

 いまのままの私たちの「天に唾する」生活が、「ロシアンルーレット」のように誰かを
傷つけるのに、私たちが何もしないでいることは、これからも起こる無差別の大量殺人を
黙って見過ごすことにつながるのです。ところが、大阪の女性の言い分は「自分は決めら
れた通りゴミの分別をやっている」「だから自分に責任はない」「あとは政治(行政)の
責任だ」というものでした。
 でも、巨大台風やゲリラ豪雨に襲われて亡くなる被害者からすれば、大多数の人の一人
として自分も加害者になりながら、責任の所在を特定できないで加害責任を誰にも問えず
にいるのですから、個人が個人を殺害する事件よりタチの悪い、悪質な殺人といえるでし
ょう。殺人事件に死刑がつきもので、報復の刑罰が正しいのなら、気候変動を通した人殺
しに手を貸している私たちは、自分で自分を死刑にされても仕方ない存在に追いやってい
ると言えませんか。

 この温暖化という気候変動を促進させている生活から、私たちが一人一人が自分の責任
を感じて、行動を起こさないで、人ごととして、大企業や国のセイにしていては、いのち
を生かし合う社会を実現することはできません。
 そこで、私たちが生活から出す生ゴミの焼却処分をやめ、生活排水と生ゴミをメタン菌
で発酵させ、発生したメタンガスでガスエンジンを動かして電気を起こし、余熱を温水に
して活用する方式に転換することから始めたいと私は思っています。こうした設備を、私
は、障害者や高齢者が多世代の人と住む集合住宅に併設して運営することで実現したいと
考えています。こうした生ゴミ処理設備を設けた集合住宅を一定の地域ごとに建設するこ
とで、生ゴミを集めて遠くへ運ぶという余計な労力を減らせるうえ、発電した電気や排熱
からの温水や雨水などをろ過することで、大地震などの災害時に、電気や水の供給が止ま
って生活に支障をきたしても、地域で電気や水を確保しトイレの処理もできる支援拠点と
して、生ゴミを出した地域の人が活用できることになるのです。こんなにメリットのある
災害対策や温暖化対策が他にあるでしょうか。(詳しくは「支え合う集合住宅」のホーム
ページに「企画書」案を掲載しています)

 だがいまさら「いのちを生かし合う社会」なんて実現する必要がない、また出来っこな
い、理想論だといって何もしないでいると、人と人のエンドレスな殺し合いを加速させる
役割を、私たちは果たし続けることになるのです。あなたが自分だけ楽しくやり過ごせれ
ばいまのままでそれでいい、というのであれば、これからも自分や自分のいのちを否定し
続け、不満があっても変えられずにいる社会の仕組みをそのまま引き継いで、自分の世界
に閉じこもり、ひとりよがりに人のいのちをかえりみない生活を続ければいいでしょう。

 しかし、もうこんな生き方や社会は御免だ、やめようというのであれば、私たちだけで
なくあなたも、この先、例え自分の心や体がどんなに傷ついたとしても、まずは自分を支
えてくれる自分のいのちに感謝することと、自分のいのちを誇りに生きることを頭の片隅
に置いて、自分のいのちを生かして生きることをやりとげてください。それをしないと、
いのちを生かし合う人と人の絆は成り立たないし、また、それをしないでいるから、理不
尽な逆恨み殺人や家族の中の殺し合いをいつまでも繰り返すことになるのですから・・。

 
三、これまでの私

 はじめに

よちよち歩き始めていた私がかかった病気は、両親も含めてなんの病気にかかったのか
判らなかったようで、子供がよく発病して運動神経のマヒをもたらしたので、小児マヒ(
ポリオ)といわれました。物ごころついた時に、劣っている左足のことで他人から嫌な思
いをさせられた私は、足がもつれたり小石につまづいてよく転び、とっさに地面についた
掌に小さな石つぶが食い込んだ痛みに、身に振りかかった障害から逃れられないという脅
迫観念にとらわれて、その思い込みから解き放たれる答を求めてさまよい歩きつづけてき
たのが、これまでの私の人生の時間でした。

 1) 肉体的限界への挑戦──山登り

この私や「転ぶとあぶないから止めなさい」と私の行動に事あるごとにストップをかけ
ていた母に、小学3年の担任の水田和秀先生が、何でもやってみることを勧めてくれてい
て、中3の年の1963年の年賀状では「今年もしっかりやってください。足が不自由でも何
でもやれるだけの事をどんどんやってゆけばよいと思います」という言葉を贈ってくれて
いました。けれど、中1の時、中3の姉と従兄弟が、大人と一緒に「甲斐駒ヶ岳」へ登っ
たが、私にとって山登りは夢のまた夢のかなわぬ夢でしたから、高校生になってクラスの
遠足で八王子の陣馬高原へ行き、歩き通せたことで、私にもそれなりの山なら歩けると自
覚してから、山登りは、歩く限界への私の挑戦になりました。
そして、山梨の三ツ峠へ友達と出かけたのを皮切りに、時々、山へ出かけました。また
、劣等感との格闘で精神的に耐えられなくなると、私は一時休戦して日常の生活から離れ
て、一人で登ることになっても山へ行きたくなり、この時は、伊豆の天城山(万二郎・万
三郎)に登ってきました。このあとも、同様の精神的な葛藤で、自分が直面している現実
から避難したくなると一人で山へ出かけていました。けれど、18歳になって、軟弱なかか
との関節が重くなった体重に耐えきれず、疲労から学校を休みがちになり、板橋の整肢療
護園で整形外科医の五味さんの執刀で、左足のかかとを固定する手術を受けました。この
時、ギブスの足の甲の向きが傾いて、足の裏が地面に対して斜めに固定されたので、後に
、グループで冬の赤城へスケートに行った時、私はスケート靴を履いて氷の上を歩けなか
った。それでも、通常の靴では歩行できたので、4年かけて高校を卒業するまでの間に、
九州を旅行したり、友達と日光の鬼怒沼へ行ったり、また一人で上高地へ出かけ、山で出
会った人に同行して西穂高から奥穂まで歩いてきたこともありました。
 20歳を過ぎても、左足の血流が悪く骨の芯まで冷たかったので、梅雨あけまで股引きが
手放せなせず、見ず知らずの人の視線が自分に向いていると意識すると、自意識過剰にな
りよく顔を赤らめていた。また当時は、心の中では自分の障害を嫌なものと思い、自分の
障害から目をそむけていたから、同じ障害の女性に出会うと目をそらせて歩くこともあり
ました。
 24歳になって、写真植字の仕事で自営して、家の中で多くの時間を過ごすようになった
時も、久しぶりに外出して電車に乗ると他人の視線だ気になって顔を赤らめていました。
けれど、25歳の頃には「人から見られていても自分も他人を見てるじゃないか」、また「
人に見られたからといって自分を覚えてる人はいない。現に自分がそうじゃないか」と自
分に言い聞かせ続けたので、他人の視線が次第に気にならなくなり、顔を赤らめることも
なくなりました。
 山梨生まれの私は、甲斐駒ヶ岳に自分も登りたいと思うようになり、29歳になっていた
1976年7月末、北沢小屋に一泊して、駒津峰で雷鳥の親子づれに出会ったりして駒ヶ岳に
一人で登りました。この時は、精神的な葛藤で行き詰まることもなくなって、この年以降
、60歳になって屋久島へ行くまで、私は精神的に行き詰まることもなくなり、富士山を5
合目から7合目先の山小屋まで同行の青年と日帰りで歩いてきた以外に、単独の山登りを
しなくなりました。
 そこへ11月に入って、ガンを発病して15年に及ぶ治療生活の途上で、54歳の誕生日を迎
えられずに妹が亡くなりました。
その妹が生まれる時、姉と私と妹の三人は、男の子がいい女の子がいいと言い合い、母
を訪ねた産院で生まれたのは女の子よと教えられた私が、男の子が生まれたとついた嘘が
嘘に見えない赤ちゃんでした。幼い頃は、ケーキを食べ残して大事にタンスの自分の引出
しにこっそり隠してカビらせたこともあったエピソードを持っていて、会社勤めをしてか
らは貰った給料をいくら貰っているの聞いても誰にも言わず秘密にしていました。九州へ
行く私について行くという妹に、何かあったら助けられないかも、それでもいいと私と出
掛けた旅。前原(まえばる)から唐津・呼子へ、年の瀬の壱岐へ渡り正月の長崎で食べた
ちゃんぽん。そこから妹の旅は始まり足跡はスイスの山にも続いています。
 結婚して二人の子が生まれ、子供がまだ幼い15年前の乳ガンの出現に始まった治療日々
に、傷ついていくいのちの悲鳴に、妹は、私たち家族の前で耐えていました。骨まで蝕ん
だガンの痛みにモルヒネも効かなくなった治療の末、飲めず食えずの生活がひと月続いた
あと、再会した妹は目に見えて衰えていました。意識不明におちいり緊急入院した病室で
意識を取り戻した時「私死んじゃうの」ともらした妹に、返事ができる家族はいませんで
した。「ごめんねごめんねと伝えて」「こんなつもりじゃなかったのに。悔しい悔しい」
ともらした妹との別れに、一つや二つではなかった妹の人生に及ぼした私の言動が、妹に
とって良かったのか悪かったのかいまは知るよしもありません。また、妹への家族の思い
と行動が病を癒せなかったのは事実。でも妹は、見事に自分のもてる力を存分に生き抜い
てくれました。妹の死後、自転車で転んだ私が、左足のかかとを自転車と地面に挟んで、
始めて味わうかかとから脳天に走り抜けた激痛がしばらく続いてその場に立ちすくんだ時
、こんな激痛に妹も襲われていたなら・・妹のこらえていた痛みに改めて頭の下がる思い
をしました。
これまで悔いを残さない生き方をしてきたつもりの私ですが、あの永訣の日々に見せた
妹の悔しさに、まだできる時間があるのに、まだやりたいことがあるのに、それをしない
でいると必ず悔いを残すと思い、2007年7月にインターネットに立ち上げたホームページ
『支え合う集合住宅』のメッセージの書き加えが、翌年に一段落したことから、60歳を迎
えた私は、妹との別れの後、左足のかかとを痛めたことも忘れ、運動不足も解消せずに、
2008年5月に屋久島へ行き、改めて山登りに挑むことにしました。でも、縄文杉まで歩き
通せるかどうかわからない私は、行けるところまで行って限界がきたらそこで野宿するか
引き返そうと芳美さんとは話していました。
屋久島へ旅立つ時、登山の荷物や旅行中の着替えなどの運搬を考えて、悩んだ末に、屋
久島行きの日程の前後に余裕をもたせ、これまで調べた系図や資料で見聞きして行って見
たいと思っていた場所や雲仙普賢岳の噴火跡や吉野ケ里遺跡なども行き帰りの道中に訪ね
歩くことにして、車で家を出たのが5月12日の朝。その日は大津の手前で一泊して、次の
日、源義経が元服した鏡神社の池や圓城寺(おんじょうじ=三井寺)近くに甲斐源氏の祖
となった源義光の墓があるのを目にして立ち寄って、逢坂の関の古い街道筋の街並みを車
で抜けて京都に入り、九州へ向けて車を走らせ宿をとれない時は車の中で一夜を明かし、
山口県の徳山から国東半島の竹田津へ行くフェリーで九州入りし、宇佐使が通った宇佐神
宮に寄って別府の鉄輪温泉に宿をとりました。4日目は、別府の千二百年前の火山の噴火
跡の地獄めぐりをして、滝連太郎の「荒城の月」の岡城跡に寄り、宮崎県椎葉村を経由し
て、その日の夜に水俣の堀宅に辿り着きました。その後、堀君夫妻やフェリー会社の日程
の都合で、5月20日に鹿児島から車で屋久島へ渡って、縄文杉までの登山を終え、24日に
水俣へ戻り、その後、車で九州各地を一人で廻る旅を続けていたのです。

 2) 障害をめぐる社会的理解と制約への挑戦

 1974年4月20日〜6月10日、東京で絵画・モナリザの展覧会が文化庁の主催で開かれた
時、「障害者や子供連れの人は展覧会への来場お断り」と障害者を締め出す広告を出した
文化庁は、抗議を受けて、障害者デーを一日設けて障害者や子供連れの人に開放すること
にした。が、障害者デーを設けることは隔離にあたると、開催初日に会場の中に入って、
絵をおおっていたガラス面にカラースプレーでインキを振りかけて抗議した人や、会場の
外で抗議した人たちがいた。当時、写植の仕事をしながら、社会問題を扱う雑誌作りに関
わっていた私は、会場へ抗議に駆けつけることはなかった。しかし、この時のモナリザス
プレー事件で東京高等裁判所が、翌年6月の私の誕生日に出した「展覧会場の混乱が予想
されたため公共の福祉のために障害者や子供連れの人は展覧会を締め出す処置も止むをえ
ない」という判決に改めていきどおりを覚えた私は、被告の米津知子さんに連絡をとり、
彼女の裁判を支援していた渋谷の金子精宏さん(脳性マヒの彼は若い時、綱で引っ張って
もらって両手両足を駆使して南アルプスの北岳の登山をした経歴の持ち主)をはじめとす
る人たちの会の活動に加わり、「公共の福祉のためには止むをえない」として障害者への
理不尽な扱いを正当化する行政府を問題にして、上告文を最高裁へ提出するために、米津
さんらとスウェーデンや国内の障害者の実情を調べ歩いて行動したのが、私の障害者の社
会的課題に取り組む第一歩でした。
この後、私は、障害者同士が意見交流をして、共通認識を高める必要性を感じて、1975
年11月(〜80年2月まで)はがき大の『障害者新聞』を仕事の合間に作って配り始めた。
この年の12月、山口県で障害者が地域で生活する共同住宅を運営していた「土の会」の木
村浩子さんが東京に出てくると聞き、会って話を聞いて「土の会」に興味を持ち、その年
の暮れから正月にかけ山口県周東町の「土の会」を訪ねた。そこで出会ったのが、福井の
施設を出て暮らし始めたばかりの堀勝子さんでした。彼女は、いのちの次に大切にしてい
るという詩を書きためた大学ノートを、私に見せてくれた。自分の障害から逃げて真正面
に言葉にすることをためらってきた私に比べ、自分の障害を真正面に見据えて言葉にして
いる彼女の詩に衝撃を受けた私は、いつか彼女の詩集を作ろうと思っていました。1976年
8月全国各地で独自にさまざまな運動をしていた障害者関係のグループが集まって作った
全国障害者解放運動連絡会議(全障連)に私も参加した。この時、堀さんが岐阜への転居
を希望していたこともあって、岐阜から来ていた戸田二郎君に彼女の希望を伝え、翌年5
月、岐阜で生活を始めることになった彼女の介助者集めのかたわら、詩集作りを企画して
、福井の施設時代からの大阪の友人や岐阜や愛知の介助者だけでなく東京からも人が参加
して、詩を編集していく作業の中から、詩集『心をしばってください』を1978年4月に本
にしました。この頃の私は、木村さんの「土の会」に倣って、都会でも障害者が地域で生
活できる場作りが必要だと考えていました。
1976年当時は、関西「青い芝」を中心に「そよ風のように街に出よう」をモットーに、
行き場のなかった在宅の障害者と共に家の外へ出る活動が行われ、全国各地にひろがって
いきました。また、当時は、障害者が車イスでバスに乗車することは想定外のことで、し
ばしば乗車を拒否されていた。これに抗議して取り組んだのが、横塚晃一さんや横田弘さ
んを始めとする神奈川「青い芝」の会。この行動が、こんにち、当たり前の権利としてバ
リアフリーを実現する要求につながっていきます。また養護学校義務化によって、障害児
は地域の普通学校への通学を拒否されたが、孤立することがあっても、地域の学校へ自分
の子供を通わせようと要求して立ち上がった親や障害者が、不充分ながらも現在の統合教
育への道を切り開きました。また堀勝子さんが地域での生活を目指した頃は、障害者は何
か課題をもって活動する意味を求められていました。
 そんな中、堀勝子さんのように施設を出て生活したいと、福井の施設の別の仲間をたよ
って尾道で生活を始めたのが伊吹重代さん。しかし、彼女は残念なことに、42歳の時、電
動車イスの前輪を踏切のレールの隙間に取られて、そこへ貨物列車が走り込んできたため
、心ならずもいのちを落してしまう。当時私は、障害者自身が何をしたいかはっきりさせ
それを実現することで、障害者も意義ある人生をおくれるようにしたいと考えていました
。障害者の場合、やれることが限られている人ほど、それしかできないということで、や
りたいことは鮮明になる。ところが健常者の場合、何でもいつでもできるという思い込み
でぐずぐずしている間に、やりたいことを何が何でも実現しようと思うことなく、自分の
満足を、物を所有する所有欲を満たすことで代用し、それにはと、手っとり早くお金を手
に入れることを目的化して、ますます自分が何をやりたいのか判らなくなっているのが現
状で、このことがいまも大きな問題になっています。
1976年8月の集まりで出会った須田雅之君に、小田急線の梅ケ丘駅を車イスで利用でき
るスロープの取り付けを要求して行動した光明養護学校の卒業生を中心に世田谷で「グル
ープたびだち」という会を始めたと聞いて、後日、須田君の案内で会で集まる日に養護学
校を訪ねて出会ったのが同世代の遠藤滋氏でした。仮死状態で生まれた彼は、脳に運ばれ
る酸素が一時遮断されたために脳神経の運動機能障害(脳性マヒ)を負って、当時、光明
養護学校で教職についたばかりだった。その後、頸椎を傷めて休職した時、臨時教員が補
充されなかったことから、彼が正規の教員枠の採用でない枠外採用という不安定な身分で
あることが判り、全身性の障害で教職をまともにこなせないと見られた彼は障害の体にム
チ打って教職をこなした上で、採用上の差別をなくすよう同僚の芝本博志さんと共に要求
して行動することを余儀なくされました。この辺の事情は「苦海をいかでかわたるべき(
上・下)─都立光明養護学校での六年間」遠藤滋・芝本博志(1982年2月・社会評論社)
に詳しい。
1970年5月に障害児を殺した母親の裁判で減刑運動が起きたことから、障害児は殺され
てもいいあってはならない存在なのかと問い掛け、減刑運動への疑問を呈した神奈川「青
い芝」の会は、何でもうまくできる能力を備えた健常者並みになることが善で、健常者並
みに近づく努力をしない、またできない障害者は、社会から捨ておかれ、教育や仕事の場
から排除されて当然とされた社会にあって、全身性の障害のために行き場のなかった重度
の脳性マヒの障害者の社会的立場をふまえた行動綱領で「われら脳性マヒ者であることを
自覚する」と書いて、健常者に近づくことで社会に認めてもらうのではなく、改めて自ら
が脳性マヒの障害を引き受けて、脳性マヒ者として生きていく術を社会に求めました。私
が「自らの障害から逃げないで、障害を引き受けて生きればいい」と確信したように、こ
の綱領に接した健常者を、何でもうまくできるようにならなければいけない(これを当時
「健全者幻想」と呼んだ)という脅迫観念から解き放ち、うまくできないところがあって
もいまのままの自分を引き受けて生きればいいんだという自覚をもたらし安心感を与えま
した。しかしこの自覚は、人はそれぞれ自分を引き受けて生きればいいというもので、健
常者は健常者の世界で、障害者は障害者の世界で生きるものという常識までは打ち破れま
せんでした。また、「他人に迷惑をかけることはいけないこと」という固定観念も打破で
きずに、介助する側の都合で障害者の生活が決められていくという介助する側と介助され
る側との間の溝を埋められませんでした。
「障害者が障害者であることを自覚する」とは、とりあえず降って湧いて身に振りかか
った障害を否定も肯定もしないけれど、やむなくであっても自らの障害は自分で引き受け
て生きることを意味していました。それに引換え「障害者も健常者も同じ人間」という健
常者は、能力のなさに悲哀を感じていじめられたことへの嘆きや愚痴を吐き出すことはあ
っても、能力に劣るところがあったり完全ではない自分や、いじめの理由を自分が引き受
けて生きるという律し方をしていなかったので、差別を受けている障害者といじめを受け
る健常者が同じだという意見に違和感をいだいて、私たちはそれぞれの場で生きていまし
た。その二人が久しぶりに再会した1984年10月、彼は頸椎の変形による二次障害で歩けな
くなって学校を休職し、私は写植という仕事をぼちぼちやめたいと思っていました。そん
な戦後生まれの二人が障害者として生きて実感してきたことなどを突き合わせて、自分た
ちでも文章にすることにしたのです。
 このやりとりの中で遠藤滋氏が、脳性マヒの障害の安倍美知子さんが30歳の時、それま
で書いていた詩や文章をまとめて『ピエロにさよなら』(1984年千書房刊)という本にし
た後、書いた文章(『だから人間なんだ』の「ありのままの命を」で載録)を見せてくれ
ました。ここで安倍さんは、「いつもニコニコと明るくひとに好かれる可愛らしさを身に
つけた『ピエロ』になっていた自分」にさよならして、「わたしは自分のありのままの命
を肯定したい。そのためにはこの世にひとつでも否定された命があってはいけない。すべ
ての価値はありのままの命そのものにあって欲しい。何かを為すことによって初めてその
ひとが評価される基準をわたしは壊して行きたい」と書いて、いのちに現れた自分の障害
を、自分からは否定しない、肯定したいと始めて踏み込んだ自己決定をしていました。
 それを受けて私と遠藤滋氏は、「肯定したいというなら、それを願望にとどめるのでは
なく一層のこと肯定しちゃおう。障害者が、障害を伴うことを、劣っていると他人や社会
から否定されても、自分から自分の存在を否定することはなかったのだから、自分のあり
のままのいのちを、その時々どんな姿をしていても、もう自分からは否定しないで肯定し
て生きていくことにしよう」という考えに行き着いたのです。このことが、私たちが「障
害を肯定する」世界の扉を開け放し、障害から逃れられないという脅迫観念から私たちを
解き放ってくれました。それが、1984年10月から1985年7月にかけて、心に残る障害者の
文章も収録してまとめた『だから人間なんだ』の本づくりでした。
 こうして私たちは、せっかく障害者になれたんだから、これからの人生二人で何をして
いこうか話した時、とにかくやりたいことをやろうと決め、その上で親に死別して一人に
なる障害者の行き場が、施設しか選択肢が残されていないような世の中は御免だから、ど
んな障害者でも地域で生きていける集合住宅のモデルケースをまずは創ろう、というのが
二人の結論だったのです。
 また、自然と関われる場所がほしいと、伊豆に土地を探し、南伊豆町に在住した馬場さ
ん(故人)と伊浜の齋藤さん(故人)の助力で1990年二人で購入したのが、西伊豆松崎町
の甘夏のみかん山でした。このみかん山は、段々畑として開墾された山林だったので、平
らな場所もほしいし、寝泊まりできる施設も作ろうということで、バックホーという機械
を手に入れ、甘夏の産地直送をしながら、私は山を削り谷を埋める開墾作業を始めました
。一方、寝たきりの生活を余儀なくされた遠藤滋氏の生活は、立教大学時代の友人伊勢真
一さんによって1999年ドキュメンタリー映画『えんとこ』によって紹介されました。
 一方、伊豆での作業中に転んで腰を痛めていたこともあって、屋外での活動を控えて時
間に余裕があった1998年夏に、父を亡くした私は、山梨の父の家で言い伝えられてきた話
を、市販の系図や『甲斐国志』をもとに個人的に調べていました。この時、罫線を引くこ
とで親子関係を表記している系図を、それまでとは異なる表記法で表すことを思いつき、
系図のデータをワープロにその表記法で記録していくと、図書館で紹介された『尊卑分脉
』という系図の本に登場する人物の経歴に歌人とあり、古今(『古今和歌集905 紀貫之』
)や千(『千載和歌集1187藤原俊成』)などの記載があったので、いっそこれも調べて経
歴に書き加えて本にすることで集合住宅の資金作りの足しにしようと立教大学で国文学を
学んだ遠藤滋君と相談して作業を進めました。そして、『万葉集』と8冊の勅撰和歌集の
歌を調べて選んで経歴に書き足していたら8年の歳月を費やしていました。
 その間に私は、改めて自分がこれから先もどうしたいのか問いなおした時、「いのちを
否定するのではなく肯定して生きるには、いのちを生かし続けるしかない。それには自分
のというだけでなく、他人との間でもいのちを生かしあって生きることだ」と考えたこと
を『障害者が語る現代人の生きざま─あなたのいのちが世界を開く』(2004年10月明石書
店)にまとめました。この後、私は「私のいのちは、小児マヒという病気で左足が細くか
弱い足になっても、けなげに私の歩みを60年も支えてくれた。この事実だけでも自分のい
のちに感謝できるのに感謝しない手はない。またこんなけなげないのちの他に誇りにでき
るものがあるのか」という思いを一層強くしたのです。この後、2007年3月、系図のデー
タを編纂して八百頁×3冊の『記録の中の日本人/時空を旅した日本の家族』を作りまし
た。けれど私は、それまでの生活で、底知れない運動不足に陥っていたのです。

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