はじめに
一九五四年三月三日、静岡県島田市に住んでいた当時無職の二十四歳になる一人の青年
が、兄から東京方面に行ってどこでもよいから住み込みが出来る所を探すように言われ、
兄と妹から合計五百円のお金をもらって家を出た。
彼は名前を赤堀政夫といい、一九二九年五月十八日静岡県島田市に生まれ、小さい頃に
脳膜炎をわずらい、学校で学ぶことは苦手だったが、小さい子とはよく遊んだやさしい少
年で、「マーちゃん」と呼ばれていた。彼は太平洋戦争末期、自宅座敷牢に閉じ込められ
ていた人を、裏窓の格子越しに尋ねては、そっと声をかけることもあった。戦後、土方な
どをやったが、工事が終わると解雇され、お金のない時に仲間と鶏や野菜などを盗んで金
に替え、窃盗罪で三回捕まり、少年院や刑務所に入ったこともあった。静岡刑務所にいた
時、悲観して自殺をはかったり、暴れたりしたことから精神病院に入れられた。
名古屋刑務所にいた時、母親が死亡、兄弟姉妹だけの家族になってしまった。一九五三
年七月に名古屋刑務所を出て、職安の紹介などで仕事に就くがどれも長続きせず、職探し
に歩いて放浪したり、一九五四年一月には日活の調布撮影所の工事に人夫として雇われた
が二日で飛び出し、歩いて島田に帰ったこともあった。
結婚して妹と一緒に暮らしていた兄から、自活するように言われ職を求めて家を出た彼
は、とりあえず島田駅から静岡駅まで汽車に乗った。静岡駅で汽車を下りて由比駅まで歩
いた彼は、由比駅で持っていた風呂敷包みを鉄道便で実家に送り、東海道を歩いて東へ向
かった。三日後、物貰いをしながら平塚駅に辿り着いた彼は、上野までの切符を買い、東
京に出た。
上野に着いた彼は、二日程、上野駅周辺で野宿し、上野で知り合った男性についてバタ
屋の見習いとして鉄屑ひろいをして神田常磐公園で二日間過ごすが、春先とはいえ雪にも
見舞われる天候の余りの寒さに耐えかねて、三月十日、故郷へ帰る決意で西へ向かって歩
き出す。その夜は横浜の保土ヶ谷にある外川神社に潜り込み、十一日は藤沢市内の稲荷神
社のお宮(妙善寺正宗稲荷)に泊まり、十二日は大磯にある高來神社近くの祠で、茅ガ崎
消防署前で行き合って意気投合した岡本佐太郎さんと焚火をし、近所に住む人からの通報
で失火騷ぎとなり、その夜は大磯警察署で取り調べを受けた。翌十三日に、微罪というこ
とで釈放された二人は、名古屋に行こうと、東海道を西に向かって歩いて行った。
その後、途中で岡本佐太郎さんとはぐれた彼は十九日に島田市内の実家まで来たが、置
き手紙を残して静岡大学寄宿舎裏の農小屋で寝て、二十日は掛川署に賽銭を盗んだので取
り調べてもらいたいと出頭するが、微罪ということで返される。その時、彼は警察へ行け
ば、食べることに困らないだろうと思って出頭したという。それから、更に西へ行き、再
び、岡本佐太郎さんと再会し、名古屋まで出たようである。
しかし、再び岡本佐太郎さんと別れた彼は、四月二十五日頃まで名古屋駅を根城にバタ
屋をして食いつないでいた。この間、名古屋で知り合った人といっしょに今度は仕事を探
しに福井へ歩いて向かっていたところ、五月二日に大垣市内で職務質問を受けたが釈放さ
れた。だが、この時の島田署への身元照会がきっかけで、彼は岐阜県警から手配されるこ
とになる。
彼が家を出た七日後の三月十日に、地元の島田市では、幼稚園から園児の佐野久子とい
う女の子が若い男に連れ去られ、三日後の十三日午前九時四十分頃に死体となって発見さ
れるという事件が起きていた。彼はこの殺人事件の容疑者の一人として捜査当局からリス
ト・アップされていたのである。その後、五月二十三日に美濃太田で職務質問を受け、そ
して二十四日には、岐阜県稲葉郡鵜沼町の犬山橋で職務質問され、稲葉地区署に連行され
、連絡を受けた島田署の刑事が迎えに行って、彼は捜査当局に身柄を拘束され、二十五日
午前三時頃島田署に着き、警察で取り調べられた。この事実をスクープした中部日本新聞
は、何の証拠もない状況で、いきなり彼の実名をあげて「ひさ子ちゃん殺し犯人捕る」の
報道をした。
始め彼は窃盗を自供し窃盗罪で起訴されるが、いったんこの日の夕刻には釈放される。
そして、警察で紹介された金谷の民生寮に宿泊し、五月二十八日朝、再逮捕されるまで、
彼はそこで過ごしていた。彼は事情も判らぬまま、再び島田事件の犯人として警察に逮捕
され、その後は事件の犯人として各紙から報道されることになる。彼は、再逮捕後、アリ
バイの裏付けが乏しいこと、アリバイの申し立てに間違いがあったことを根拠に、捜査官
から久子ちゃん殺し事件の自白を迫られた。そして、彼は犯行を認めたとして検察から起
訴される。ところが、彼は、第一回公判から無罪を主張し、自白は強制された旨申し立て
、アリバイを主張したが、ことごとくしりぞけられた。
彼は、裁判官から、『被告人は、翌三月十日午前十時頃島田市幸町に在る快林寺の墓地
に赴き、同所で供物を捜したが、見当たらないので、墓地から本堂前の広場に赴いたとこ
ろ、同所にある島田幼稚園講堂で遊戯会が催されていたので、その入口付近に行って女児
の遊戯を見ているうち、にわかに情欲にかられ、幼児を連れ出して姦淫しようと考えるに
いたった。そこで、被告人は、付近を見廻したところ、たまたま本堂石段付近で他の女児
と遊んでいる佐野久子(昭和二十二年十一月二十二日生、当時六才三カ月)を見つけ、右
講堂前に出されていた売店で菓子を買い与えたうえ、「いいところへ連れて行ってやる」
と誘い、同日正午頃同女を伴って島田駅前道路から、同駅線路下のトンネルを経て、大井
川旧堤防を越え、横井グランドを横切って大井川新堤防に出、同女を姦淫するに適当な場
所を捜したが見当たらないので、河原を下流に向って旧堤防に登り、同女を背負ったまま
、蓬莱橋を渡って右折し、さらにその道の途中から山林に立ち入って、静岡県榛原郡初倉
村坂本沼伏原四千九百二十五番地の人目につかぬ山林にいたった。
被告人は、ぼんやりしている佐野久子をその場に降すや、情欲を抑えることができず、
やにわに同女をその場に押し倒し、泣き叫ぶ同女の下半身を裸体にし、その上に乗りかか
って姦淫し、その結果、同女に外陰部裂創等の傷害を負わせたが、同女がなおも泣き叫ん
で抵抗し、意のままにならぬのでひどく腹をたて、同女を殺害し、併せて前記犯行の発覚
を免れようと決意し、付近にあった拳大の変形三角形の石を右手に持って、同女の胸部を
数回強打したうえ、両手で同女の頚部を強く締めつけ、同日午後二時頃同所において窒息
死させた』と事実認定された。
そのうえで、静岡地裁の裁判官は、赤堀政夫は「智能程度が低く、軽度の精神薄弱者で
あり、その経歴を見ると殆んど普通の社会生活に適応できない」人間として、「通常の人
間にはよくなし得ない悪虐、非道、鬼畜にも等しい」「大胆な、そして計画的、残虐な犯
行」を犯したと、死刑判決を言い渡した。以後二十八年にわたって、赤堀政夫は、いつ死
刑執行されるかわからない不安のなかを、死刑囚としての生活を強いられてきた。
一九六○年十二月十五日最高裁で死刑確定後、再審請求を申し立て、四度目の再審請求
で一九八六年五月三十日、静岡地裁の『再審開始決定』を見るに至った。しかし、彼の自
白の犯行に関する部分は、犯行順序などの殺害に関するところを別にすれば、事件の目撃
者の証言や客観的事実と照らし合わせて具体的に検証されたこともなく、おおむね真実を
述べたものと裁判官からは認定されて今日に至っている。
だが、ほんとうに赤堀政夫の自白には真実性・任意性・信用性の裏付けがあったのか、
また、これまで信じられてきた事件像(三月十日の午後二時頃殺害された)は、果たして
正しかったのか、という事件の根底にふれて、裁判所が認定した事実を検証することが本
書の目的である。そして、彼の無実を明らかにする意味からも、遅れ馳せながら事件の実
像に迫り、再検討することにしよう。
なお、本文中の目撃者の証言や供述調書などの公判記録、ならびに新聞記事は、その都
度、関連する部分を引用していく。また、登場する人物の敬称は、すべて省略することを
断っておきたい。
白 砂 巌