− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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T 事件の発端
 
〔一〕三月十日の快林寺(島田中央幼稚園) 
  

 一九五四年(昭和二十九年)三月七日(日曜日)から三月十日(水曜日)の日程で、静
岡県島田市幸町にある快林寺の住職・五藤大善が経営する島田中央幼稚園(快林寺境内に
ある/園長は他にいた)では、卒園記念のお遊戯会が開催されていた。事件が起きたのは
その最終日の三月十日のことであった。この日朝から(時間は正確にはわかっていない)
お遊戯会が開かれていた幼稚園のある快林寺境内で遊んでいた園児の中から佐野久子(当
時六歳三カ月)という一人の女の子が、若い男に連れ去られ、行方不明になる事件が持ち
上がった。いわゆる島田事件は、こうして発生した。
 事件当時の幼稚園の状況については、快林寺の住職で、島田中央幼稚園の経営者でもあ
る五藤大善が、第二審第一回公判(昭和三十三年十月二十九日=以下33・10・29と表記す
る)で証言している。そこでまず、この住職の証言を追ってみよう。

問(大蔵弁護人)寺の境内で幼稚園を経営しているのか。
答(五藤大善)二十五年四月八日から島田中央幼稚園をやっております。
問 園児の通う地域範囲はどうか。
答 島田一円です。
問 二十九年三月当時、何人か。
答 二百人位です。
問 当時の通う地域は。
答 通うのに三十分位の距離範囲で、先生が迎えに行ける程度のところでした。
問 証人の処の幼稚園では二十九年三月十日遊戯会をやったか。
答 やりました。
問 何日間やったか。
答 二日間ですが十日は何日目であったか記憶しておりません。
問 遊戯会はどんな事をするのか。
答 講堂でレコードを使って遊戯をやるのです。
問 お遊戯会には子供は着飾ってくるのか。
答 園服を着てきて出番になると仕度をしていた。
問 父兄も見に来たのか。
答 大体、講堂一杯に入っておりました。
問 当日は売店を設けたのか。
答 そうです。園として売店を設けた他、一般の露店も出ておりました。
問 売店のあった位置はどの辺になるか。
答 ──これは幼稚園側のもので、おでん、すし、菓子、ラムネ等を高さ二尺位の台の上
  に置き一間位の板を二つ位敷きその上で売っていたのです。
問 一般の露店等はどこで、どんなものを売っていたのか。
答 旧山門の外側でタイ焼、綿菓子等を売る店が、四・五軒出ておりました。
問 遊戯会には園児は皆来るのか。
答 出る組は午前午後に分けておりましたが、一日分の園児は皆来ておりました。出る者
  以外は自由にしてあったのです。
問 当日、境内はかなり混雑するのか。
答 そうです。
問 園側の売店に出ている母親等は何人位いたのか。
答 記憶しておりません。
問 当日昼一寸前に佐野久子がいなくなった事につき、佐野久子を見た人、連れ出した男
  の事につき調べたりしなかったか。
答 私は講堂内の責任を持っていたのでそのような事は知りませんでした。久子の出番の
  時、呼び出しをしたのですがいなかったのでそのまま遊戯を続けていたのです。
問 呼び出したのは何時頃であったか。
答 午後一時からの遊戯に呼び出したのですが、呼び出したのはずっと前です。
問 呼びだしたがいなかったので騷ぎになったのではなかったか。
答 その時は別に騷ぎにはなりませんでしたが、会が終わって後、午後五時に久子の母親
  がきて久子がいないというので騷ぎになったのです。
問(鈴木主任弁護人)遊戯会の時昼食はどうするのか。
答 午前の部が終わってから幼稚園で食べておりました。
問 遊戯の開催中寺の境内は人でごたごたしていたか。
答 そうです。
問 久子がいなくなって騷ぎになった時久子を見たとかいうような人があったか。
答 ありました。
問(堀判事)佐野久子は何組か。
答 当時園児の事についてはわたしの他に園長がおりましたので私は知りません。
問 太田原松雄という子供が同じ組にいたのを知っているか。
答 知りません。

 住職のこの証言は、事件後四年以上経過していることから、お遊戯会をやった期間を二
日間と答えるなど一部に記憶の薄れている点もあるが、この事件の起きた昭和二十九年三
月七日から十日にかけて開かれたお遊戯会のことや開催当日の境内の様子について、全般
的な状況を伝えている。そしてこの証言は、事件当日も父兄が「大体、講堂一杯に入って
おりました」と答え、また「境内はかなり混雑するのか」の質問に対して、「そうです」
と答えている。だが、この日、出番のない園児は幼稚園に来たり来なかったりしていたと
いう。
 しかし、次の証言(二人の証人の警察官に対する供述や第一審の法廷の証言)は、住職
とは違う事実を述べている。
 この日、朝から講堂の中でお遊戯会を見ていた橋本富美子は、昭和二十九年三月二十四
日の調書(小島行夫員調/第二審第八回公判になって法廷に証拠提出された)で、「私が
行った午前十時頃には未だたいして父兄は来て居りませんでした。夫れで私は講堂の前の
方の中央付近に席を取り子供の踊りを見て居たのであります」と、午前十時頃にはたいし
て父兄が来ていなかったことを証言している。
 さらに、昭和二十九年九月十七日の第一審第三回公判で証言した太田原ます子も、大蔵
弁護人の「その日(三月十日)、快林寺の境内は非常に賑やかだったか」という質問に答
えて、「その日はもうお遊戯会の四日目でしたから、余り人は(境内に)居りませんでし
た」と言明している。
 この日、講堂の中で犯人らしい男を目撃した橋本富美子、桜井ゆきの二人の父兄と他の
父兄や園児を除けば、事件当時、境内に誰がいて、それぞれどういう経過をたどって幼稚
園に来ていたのか簡単にふれてみることにしよう。
 事件を目撃した園児(太田原松雄)の証言から、事件発生当時、快林寺境内には、鈴木
鏡子(としこ=とし子とも表記)、原田計治、太田原松雄と佐野久子の四人の園児がいた
ことがわかっている。また、他に講堂入口の売店で店番をしていた父兄の太田つや子と、
幼稚園の講堂の外から窓越しにお遊戯会を見ていた園児のおばの田代いとがいた。
 このうち、園児の鈴木鏡子は、十日の日は朝から幼稚園に行って遊んでいたという。こ
の点に関しては、鏡子の母親・鈴木きんの証言(29・3・16山下馨員調/第二審第八回公
判になって法廷に証拠提出された)がある。
 また、この日、原田計治は自分の三輪車を持って、幼稚園に遊びに来ていたことは確か
だが、朝の何時頃から幼稚園に来ていたかについては、裁判記録でもふれられておらず、
他の資料でも明らかにできない点である。けれど、この事件の犯人である若い男が、快林
寺の境内に入って来た時、すでに原田計治は太田原松雄と三輪車で遊んでいたことが、太
田原松雄や太田原ます子の証言によってみることができる。
 太田原松雄は、第二審第八回公判になって法廷に証拠提出された調書(29・3・16山本
清作員調)で、

 久子ちゃんが連れて行かれたのは、お遊戯会の終わる日で、僕は出なくてもよい日であ
ります。家の近所でペッタン(筆者注・めんこ)をやって遊んでおりました。ペッタンに
は負けてしまいました。おばあちゃんに、ペッタンばっかやっていると、おこられました
。お昼前位に中央幼稚園に遊びに行きました。(そして)広場で原田計治さんと計治さん
が持ってきた三輪に乗って遊んで居った。僕が三輪で遊んでいる時、お兄ちゃんが(来て
とし子と久子に「おいで」と誘っていた。すると久子がついて行った。そして、お菓子を
買って貰って)久子ちゃんはお兄ちゃんと出て行って仕舞ったので、僕は「ノロンノロン
」家に帰りました。途中、おばあちゃんと逢ったので、又幼稚園に踊りを見に行きました


と、述べている。また、祖母の太田原ます子は、この日の太田原松雄の行動について、第
一審第三回公判(29・9・17)において次のように証言している。

問(阿部太郎検事)証人は、本年三月十日に佐野久子という子供が行方不明になって殺さ
  れたという事件を知っているか。
答(太田原ます子)知っております。
問 その事件はいつ頃判ったか。
答 三月十日の夕方、久子ちゃんがいなくなったということで、近所の人達が騷いだので
  判りました。
問 証人の孫で太田原松雄という者があるか。
答 はい、あります。私の孫で現在小学校一年生ですから、数え年八つになる子供です。
問 本年三月十日の日に、松雄はその幼稚園へ行っておったか。
答 その日は朝一寸私が叱ったので、直ぐ松雄は幼稚園に遊びに行ってしまい、お昼頃ま
  で幼稚園で遊んでおりました。
問 松雄はいつ頃帰って来たか。
答 お昼頃帰って来ました。
問 久子という女児がいなくなったことについて、松雄は何か関係がないか。
答 その日幼稚園に遊戯会がありまして、松雄は久子ちゃんと一緒に出て「月の砂漠」と
  いう遊戯をやりました。
問 その他にはどうか。
答 午後になってから、久子ちゃんがいなくなったと騷いだ時、松雄は「早く久子ちゃん
  を探しに行きましょう、探しに行きましょう」と言ってお父さんにすがりついたので
  「久子ちゃんは七丁目に居ったそうだから安心しろ」とだまして、その侭過ぎたので
  すが、夜分になって騷ぎが大きくなったので、私共は佐野さんの家に御見舞に行きま
  した。
問 それだけか。
答 十日の日は、それですんでしまいましたが、翌十一日の朝になって松雄が「昨日久子
  ちゃんを連れて行ったお兄さんを見た」と言ったのです。それでお父さんが一応その
  ことを帳面に書きとめ、警察に届けようかどうか迷いましたが、結局幼稚園へ出かけ
  ていって、そこで警察の人に届けました。
問(大蔵弁護人)証人の家から快林寺は近いか。
答 近いです。歩いて三分か四分位です。
問 証人の家の門口に立てば快林寺は見えるか。
答 一寸表に出なければ見えません。
問 三月十日に、松雄は一人で幼稚園へ遊びに行っておったのか。
答 そうです。一人です。
問 友達は居らなかったのか。
答 快林寺の中へお友達が行って居ったから、そのお友達と一緒に遊んで居ったです。
問 証人の家の者は誰か一緒に行かなかったのか。
答 行きません。
問 松雄は何時頃快林寺へ行ったか。
答 九時頃には行って居ったと思います。私が遊戯会を見に行こうと思って午前十一時過
  頃に(筆者注・実際には十二時のサイレンが鳴ったすぐあと)快林寺の方へ行きます
  と、途中で松雄が帰って来るのと会ったのです。それで松雄はそこから又私について
  快林寺へ行った訳です。
問 快林寺には何時頃までいたか。
答 午前十一時半頃までに午前の部が終りました(筆者注・実際に午前の部が終わったの
  は十二時半頃である)ので、松雄と二人で一緒に帰って来ました。
問 その日快林寺で遊戯会があったのか。
答 そうです。快林寺の幼稚園で子供の遊戯会が催されていたのです。そしてその遊戯会
  の終り頃に久子ちゃんの出る筈になっていた遊戯があり、先生が久子ちゃんを呼び上
  げたのですが、その時はもう久子ちゃんはおりませんでした。
問 その日、快林寺の境内は非常に賑やかだったのか。
答 その日はもうお遊戯会の四日目でしたから、余り人は居りませんでした。
問 店屋などは出ておったか。
答 売店が出ておりました。
問 それは園児の父兄が開いた売店かどうか。
答 そうです。父兄の開いた売店です。
問 何軒位出て居ったか。
答 何軒でしたか、とにかく境内の中では父兄の人達が売店を出し、境内の外には一般の
  売店がありました。
問 そうすると、境内には父兄の者の誰かがいた訳か。
答 そうです。
問 その日松雄は何をして遊んでおったか。
答 快林寺へ行く前は家でペッタンをやっておりました。それでペッタンをやると汗をか
  いて風邪をひくからいけないと、予てから注意してあったのに、言いつけを聞かずに
  やったということで私が叱り、今日は小遣銭もくれてやらないと言うと、松雄はしょ
  んぼりして快林寺の方へ行きました。そして三輪車で遊んでいた子供と一緒に遊んで
  おったようです。それから暫くして遊び疲れ、大きな木の根元の所へ腰を下ろしてお
  ったら(筆者注・太田原松雄の証言によると、正確にはその木に寄りかかっていた)
  、犯人が来て久子ちゃんを連れて行ったということでした。

 これとは別に太田原松雄は、第一審第九回公判(31・3・22)に証人として立った時、
次のように証言している。

問(矢部孝裁判長)遊戯会の一番終りの日に久子ちゃんがいなくなったということはおぼ
  えておるか。
答(太田原松雄)それは覚えております。久子ちゃんのいなくなったのは遊戯会の一番終
  りの日でした。
問 その日も久子ちゃんと一緒に遊戯をしたのか。
答 久子ちゃんがいなくなったその日は、僕は久子ちゃんと一緒にはやりません。
問 その日はずっと幼稚園に居ったのか、一度家に帰ったのか。
答 一度帰って、それで又出掛けて行ったです。
問 二度目には誰と行ったのか。
答 僕一人で出掛けて行きました。
問 二度目に幼稚園へ行って何をして居ったのか。
答 幼稚園の入口に太い木がありますが、その木の根っこの所で一人で(筆者注・実際に
  は園児の原田計治と)遊んで居りました。
問 そこには、他にも幼稚園の園児等が遊んで居ったか。
答 遊んでいませんでした。僕一人だけそこにおりました。
問 それからどんなことがあったか話して下さい。
答(黙っていて答えない)
問 証人は三輪車で遊んで居ったのではないか。 
答 そうです。
問 三輪車で遊んで居って、それからどうか。
答 覚えておりません。
問 その近所に、久子ちゃんは見えていなかったか。
答 見えておりません。
問 それから久子ちゃんがどうしたか覚えていないか。
答 覚えていません。
問 久子ちゃんが男の人と一緒に行ったとか、行かなかったというようなことを覚えてお
  るか。
答 覚えておりません。
問 それで証人は何時頃家に帰ったか、覚えて居るか。
答 時計を見なかったから分りませんが、お昼に家に帰りました。
問(阿部検察官)証人は幼稚園の木の所で三輪車に乗って遊んで居ったか。
答 そうです。
問 原田計治という人と一緒に遊んで居ったのではないか。
答 そうです。
問 その時、久子ちゃんと、とし子ちゃんがそこに居ったのではないか。
答 僕と遊んでいたのではないが、別の方で久子ちゃんととし子ちゃんと遊んでおりまし
  た。
問(鈴木主任弁護人)証人は、久子ちゃんがいなくなった時には、一回幼稚園へ行って、
  それから家に帰って、又三輪車を持って幼稚園に遊びに行ったのか。
答 三輪車は持って行きません。

 以上、見てきた証言を比較してみれば、祖母の太田原ます子(29・9・17第一審第三回
公判)は、三月十日、「孫の太田原松雄が朝から家の近所でペッタンをやっていたので、
叱ったところ、直ぐ幼稚園に遊びに行ってしまった。それは九時頃だった。」と言ってい
る。一方、太田原松雄は、昭和二十九年三月十六日に警察官の山本清作の調べに、三月十
日のこの日は、「お昼前位に中央幼稚園に遊びに行きました」と語っていた。さらに、事
件から二年後の第一審第九回公判(31・3・22)で太田原松雄は、この日朝から幼稚園に
行っていたのではなく、「一度(家に)帰って、それで又出かけて行ったのです」と、こ
の日の午前中は一人で二度幼稚園に行ったことを証言している。
 この第九回公判での松雄の証言は、事件の他の事実関係に関しては、忘れてしまってい
たり、質問に答えられなかったりしている場面もあるので、そのまま信頼していいかどう
か迷うところであるが、この日は朝から幼稚園へ行きっぱなしではなかったことを、はっ
きり述べている点から、ほぼ松雄の証言通りだったと見て差し支えないものと思う。
しかし、細かな検討を加えることもなく、この程度の論拠で「松雄の証言通りだった」
と断定してしまうには、事件を再検討する作業としてはあまりに不充分である。だから、
太田原松雄がこの日、快林寺へ何時頃から行っていたのかということは、その目撃内容と
併せて真相解明の重要なポイントになるので、あとで改めて検討することにしよう。
 けれど、太田原松雄が証人に立って述べていることからすると、太田原松雄が供述調書
(29・3・16山本清作員調)で三月十日の午前中の自分の行動に触れていないのは、三月
十六日に松雄を取り調べた警察官・山本清作が、松雄の午前中の行動ついて特に本人から
聞かなかったからだろうと思われる。
 いずれにしても、三月十日のこの日、太田原松雄は、お昼前位には再び中央幼稚園へ遊
びに行って、原田計治と遊んでいた。すると、久子が若い男と連れ立って売店に立ち寄っ
り、快林寺山門を出て行ったのを見た太田原松雄は、自分も家へ帰って行った。この時、
松雄は、「時計を見なかったから分かりませんがお昼に家に帰りました」(第九回公判)
という。そして、家へ帰る途中で、幼稚園へ行く祖母の太田原ます子に会うのである。
 太田原ます子は、この時、十一時過ぎに快林寺へ行ったと言っているが、松雄が快林寺
を出て家に向かったのは、久子が若い男と連れ立って快林寺を出て行ったあとである。快
林寺から出て来た犯人と久子を見ていた中野ナツは、二人が家の前を通り過ぎて、そのす
ぐあとにお昼のサイレンが鳴ったのを聞いているから、それは、十二時頃であった。そし
て、幼稚園から帰ってくる松雄に会い、そこから二人で幼稚園に行って、お遊戯会を午前
の部が終わるまで見た、と述べている。
 なお、園児の鈴木鏡子については、母親の鈴木きんが「十二時のサイレンが鳴ってから
昼ご飯に帰って来た」と、昭和二十九年三月十六日に山下馨員調で証言している。
 また、この日、売店で店番をしていた父兄の太田つや子は、境内の講堂の出入口前に設
置されていた父兄の運営していた売店の状況について、第二審第一公判(33・10・30)の
検事の質問に対して次のように証言している。

問(杉本覚一検事)その日(筆者注・三月十日)、証人は、何をしていたか。
答(太田つや子)その日、快林寺境内の幼稚園で遊戯会があったのです。私は、売店の係
  に居りました。
問 何日間、その会が開かれたのか。
答 四日間です。
問 十日と云うと、何日目か。
答 最後の日です。
問 売店の係を毎日したのか。
答 左様です。
問 快林寺のどの辺に売店を置いたのか。
答 本堂に向って左側の処です。
問 証人の他にも同じ係員が居たか。
答 おりました。
問 証人の売店は、如何なるものを扱ったのか。
答 食品で、キャラメル、アメ類、大福丈です。
問 園児の父兄とも思えない様な人が、何か買いに来た模様があったか。
答 ありました。
問 それは、何時頃だったか。
答 十二時前後でなかったかと思われます。
問 その時の模様はどうだったか。
答 金も十円か二十円だったと思いますが、「ヒョッ」と金を出して何か買って行った様
  に思います。
問(大蔵弁護人)その他にも売店があったか。
答 幼稚園としての売店は私の処、一ヵ所だけです。
問 売る品物は先程述べたものだけか。
答 その他に「おでん」を扱ったと思います。
問 駄菓子類はどうか。
答 扱いません。
問 「おこし」類はどうか。
答 扱かいません。殊によると、袋入れはあったかも分りません。
問 証人の他に、同じ係員は何人いたか。
答 一人か二人です。
問 その日証人が自宅を出かけたのは何時頃か。
答 午前十時三十分頃だったと思います。

 久子が若い男に連れ去られる時、この売店に太田つや子の他に父兄がもう一人いたこと
は、園児の太田原松雄の調書(29・3・16山本清作員調)からも、うががい知ることがで
きる。

 僕はラムネ屋の三輪を入れる方の道から幼稚園の広場に入りました。広場に入ると直ぐ
大きな木が植えてありますが、その木に寄りかかって講堂の方を見ていました。このとき
講堂の前にあるおばさん達が売屋をやっているところで久子ちゃんは兄ちゃんにお菓子を
買って貰っていました。大きな木から売店までは、僕の家の玄関から裏の硝子障子まで(
約二十米位)位離れていました。売屋は講堂の方を向いて(東向き)いました。(傍線筆
者)

 太田原松雄は、ここではっきりと「おばさん達」と、父兄が複数いたことを証言してい
る。この証言が、事件発生から六日後になされたことから見ても、間違いない事実だと言
っていいだろう。
 詳しい話は後に譲るとして、事件の起きる三月十日午前十一時半過ぎに、快林寺の境内
にいた園児は、裁判の記録上からは四人しかいない。また、大人は、父兄を含め三人(ひ
ょっとすると四人いた可能性もある)で、後は、講堂の中でお遊戯会を見ていた父兄や園
児がいただけであった。
 そういう状況にあった快林寺の境内に、裏口の方から若い男が入ってくるのである。そ
して、この日、快林寺境内にいて、この若い男をはじめに目撃したのが、講堂の外から窓
越しにお遊戯を見ていた田代いとであった。田代いとは、この時の目撃事実を、第二審第
一回公判(33・10・29)で次のように証言している。

問(杉本検事)証人は二十九年三月十日島田市中央幼稚園から佐野久子が行方不明になり
  殺された事をしっているか。
答(田代いと)知っております。
問 その日証人は幼稚園に行ったか。
答 行きました。姉の子が幼稚園に行っていたので、その日行われた遊戯会を見に行った
  のです。時刻は昼一寸前頃で、私は講堂の外、本堂よりの窓際で見ていたのです。
問 その頃証人は父兄とは違うような変な人を見なかったか。
答 見ました。私が行って間もなく若い男の人が幼稚園の裏口の方から入って来て、私の
  傍であちこち見ておりました。
問 それからその男はどうしたか。
答 近くをうろうろしておりました。その時本堂の階段の処で幼稚園の子供が少し遊んで
  いるのを見たのですが、それから後はしりません。
問 証人は佐野久子を知っているか。
答 知りません。
問 階段の処で遊んでいた子供を連れて行ったのは見なかったのか。
答 見ませんでした。
問(大蔵弁護人)当日の天気はどうであったか。
答 雨降り後の様でしたが雨は降っていなかったと思います。
問 証人が遊戯会を見ていた時硝子窓は開いていたのか。
答 少し開けてありました。
問 証人が窓際にいたのは何時頃迄か。
答 正午過迄で約一時間位その場におりました。
問 男はそのうちいなくなったのか。
答 男が本堂の階段の方へ行くのを見たのですが、その後は知らぬのです。
問 男がうろうろしていたのはどれ位の時間であったか。
答 約三十分位のものかと思います。
問 男が子供に話しかけたりしたのを見なかったか。
答 話しかけたのは見ませんが子供が遊戯を終って支度部屋の方へ来るとそっちへ行った
  りしておりました。

 以上が田代いとが若い男を目撃した時の状況とその内容である。この日、田代いとは昼
一寸前、幼稚園へ行き「私が行って間もなく若い男の人が幼稚園の裏口の方から入って来
て私の傍であちこち見ていた」。それから「(子供が遊戯を終わって支度部屋の方へ来る
とそっちへ行ったりして)近くをうろうろしておりました」。男がうろうろしていたのは
「約三十分位のもの」で「その時本堂の階段の処で幼稚園の子供が少し遊んでいるのを見
たのですが、それから後は知りません」というのが、だいたいの目撃状況である。
 このあとを受けて、この若い男を目撃したのが、園児の太田原松雄であった。太田原松
雄が事件後の三月十六日に警察官の調べ(山本清作員調)で述べたこの時の証言を時間を
追って整理してみると次のようになる。

 お昼前位に中央幼稚園に遊びに行きました。僕はラムネ屋の三輪を入れる方の道から幼
稚園に入りました。広場で、原田計治(黄三組)さんと、計治さんが持って来た三輪に乗
って遊んで居った。僕が三輪で遊んでいる時、お兄ちゃんが、久子ちゃんと、とし子ちゃ
んが遊んでいるところへ来て、手で招いて「おいで」と言ってとし子ちゃんは「やだ」と
言いました。この時、お兄ちゃんは「二人ではお金がかかる」と言っておりました。
 三輪に乗って遊んで居ったので、顔に汗が出て、持っていたハンケチで、大きな木に寄
りかかって拭いていたのであります。その木に寄りかかって講堂の方を見ていました。こ
の時講堂の前にあるおばさん達が売屋をやっているところで、久子ちゃんはお兄ちゃんに
お菓子を買って貰っていました。
 久子ちゃんは僕の方から見ると、お兄ちゃんの向側(快林寺の正門側)にいてお菓子を
買って貰っていましたが、何をいくら買ったか知りません。僕もお菓子を「欲しいなー」
と思って見ていました。久子ちゃんがお菓子を買って貰うときは、幼稚園の子供は、大勢
はいませんでした。
 久子ちゃんはお兄ちゃんと出て行って仕舞ったので、僕は「ノロンノロン」家に帰りま
した。「ノロンノロン」家に帰ったのは、僕もお菓子を食べたいと思って、おばあちゃん
にお金を貰うつもりでありました。
 途中、おばあちゃんと逢ったので、又幼稚園に踊りを見に行きました。

 こうして久子が若い男と出て行った後、園児の松雄も鈴木鏡子も家へ帰っていく。ただ
松雄は途中で祖母の太田原ます子と会って、再び幼稚園へ行き、今度はお遊戯を見て、午
前の部が終わる十二時半頃、太田原ます子、松雄、そして田代いと達が家に帰って行った
のである。この時、原田計治はどうしたのかわかっていない。
 以上が、二十九年三月十日の事件当時の快林寺境内(島田中央幼稚園)のおおよその状
況であった。
 ところが、事件を取り調べた警察も検察も、この日、若い男に連れ去られた佐野久子の
幼稚園へ行く前の行動については、ほとんど関心を払わなかったようである。その結果、
検察側は、まず、赤堀政夫を起訴した段階(起訴状)でも、この点についてはひとことも
ふれていない。また、冒頭陳述においても「そこで境内で遊んでいる女児を物色したとこ
ろ快林寺本堂石段付近で本件被害者佐野久子他一名の女児を発見した」とふれているだけ
であり、佐野久子がこの日、快林寺に出かけて事件に巻き込まれる間、どのように行動し
ていたかについては、遂にふれずじまいに終わっていた。
 それだからという訳でもないだろうが、第一審の矢部孝裁判長は判決の中で「そこで、
被告人は、付近を見回したところ、たまたま本堂石段付近で他の女児と遊んでいる佐野久
子を見つけ」連れ出した、としているだけであり、ほとんど何の関心も払わなかったこと
がうかがわれる。佐野久子が快林寺から連れ出された後のことは、事件にかかわることで
もあるし、確かに、赤堀政夫の自白や検事の冒頭陳述でもふれている。
 そして、これについては第一審の判決文でもある程度反映させて「認定した事実」とし
て語っている。ところが、この事件の被害者である佐野久子のこの日の行動や、自白にも
冒頭陳述にもない、事件そのものの全体像、また、事件の発生した時間帯にその場に居合
わせた人たちのこの日の行動とその目撃内容について、第一審の裁判所としては、その判
決の中で具体的な検討を加えることもなく、赤堀政夫の自白はおおむね真実を述べたもの
であると判断してきた。
 さらに、第二審の裁判所は、第一回公判で母親・佐野すゞを証人として訊問しても、肝
心の若い男に連れ去られた久子が、この日、午前中どのような状況にあったのかという事
柄に関して、何も検討しなかった。
 このような経過を改めて振り返ってみると、要は裁判官は、島田事件の中で事実がどう
展開しようと、そうした事実関係にかかわりなく、目撃者の何人かが赤堀政夫は犯人に似
ているという証言をしたことに裏付けられて、赤堀政夫が自白した犯行に関する事柄の真
実性を判断できると考えたからであろう。けれど、裁判官は「自由心証主義」を根拠に、
具体的な事実関係に何も照らし合わせることなく、自白が真実であるかどうかを判断して
いいということにはならない。
 そこで、遅ればせながらわたしたちは、これまでに手にしている五点の捜査資料(以前
に検事から弁護側にもたらされた)や新聞記事なども参考にしながら、裁判記録に基づい
て、島田事件の事実関係を再現しながら、赤堀政夫が自白で述べた事柄がどこまで真実で
あるのかどうかを、これから検討していくことにしよう。
 

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