− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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〔八〕快林寺へ行った動機
 
 最初はまず、三月十日のこの日、犯行を行なったとされた赤堀政夫が、「快林寺へ行っ
た動機」について自白調書で供述しているところから検討してみることにしよう。
 赤堀政夫は、昭和二十九年五月三十一日の最初の自白(第四回供述調書/相田兵市員調
)で「私はぶらぶら家の様子を聞こうと町へ出た」道順として、快林寺墓地(この時の供
述では墓地で供物があったら食べようと思っていない)から境内へ出たと述べている。
 その後、赤堀政夫は、昭和二十九年六月二日の第六回供述調書(相田兵市員調)では、
「草色の戸」に関する供述変更をした上で、「快林寺の墓地に入りました。私は墓地をぐ
るぐる廻って供物の菓子でもあったら食べようと思いましたが何も食べるものがないので
本堂西側の墓地入口から本堂前広場(幼稚園)へ出たのです」と述べている。赤堀政夫は
、ここでは墓地に入ってから、供物の菓子でもあったら食べようと思っている。
 ところが、昭和二十九年六月二日の裁判所書記官補・松島林の質問調書で、赤堀政夫は
、「家を出たのが三月三日で三月六日に島田に帰りましたが、家へは帰りませんでした。
三月十日まで島田市の町やそのあたりに居りました。快林寺へ行ったのは食物を探しに行
ってついでに幼稚園に行きました」と、もう家の様子を聞こうと町へ出たことなどケロッ
と忘れてしまい、はじめから食物を探すのが目的で快林寺へ行ったと、「快林寺へ行った
動機」が何時の間にか変わっているのである。
 さらに、昭和二十九年六月二日の第一回検事調書(阿部太郎)では、「翌十日朝八時半
頃だと思いますが前の晩残した薩摩藷四個を食べ、其のお宮さんの賽銭箱から二十三円取
ってそれを持って島田市に向って其のお宮さんを出掛けました。左手に野菜畑を見て真直
ぐ行き仮橋を渡って川にそって左手に行きもう一つの橋の所から右の方に行き新国道に出
てから更に右の方に行き第四小学校小使室の前を右の方に行き中河町を通って第三小学校
の講堂と付属中学のある所を突き当って左に行き更に煙草屋の角を右に曲って幸町通りを
行きますと左側に公会堂があります。其の隣が、快林寺墓地でありますが私は其の時墓地
の中にはお供え物か何かあがって居るだろうと思ったので墓地の中に這入ろうと思いお寺
の裏門まで行ったが戸が閉って居り押しては見なかったが多分鍵がかかって居り這入れな
いと思ったので引返して公会堂の右傍通路から右手の墓地内に這入りました。そして墓地
内をぐるぐる歩き廻ってお供物の菓子か何かないかと探したのですが、一つも見当たらず
あきらめて墓地から続いている快林寺の境内に這入りました」と、今度は、赤堀政夫は墓
地まで来た「其の時」墓地の中にはお供え物か何かあがって居るだろうと思ったので墓地
の中に入って探したと述べているのである。
 このように、赤堀政夫は、快林寺へ赴いた動機を二転三転させているにもかかわらず、
第一審の判決で矢部孝裁判長は、この事実にひとこともふれていない。それは第二審判決
(35・2・17尾後貫荘太郎裁判長)においても同様である。いくら快林寺へ行った犯行前
の動機が供述の中で二転三転していても、疑うまでもなく赤堀政夫の自白には、真実性や
信用性があるのだと、この事件を担当した裁判官の目には映ったらしい。その結果、この
日、赤堀政夫は、漠然と快林寺へ行ったことになっているのである。
 ちなみに、新たに出てきた捜査資料の中の、昭和二十九年五月三十一日付『捜査報告書
』では、赤堀政夫は「翌三月十日は午前八時三十分頃農小屋を出て家の様子を見に行こう
と思って市内に来り、幸町の公会堂の前から快林寺境内を通って行こうとした処空腹のた
め快林寺裏の墓地に何かあげものはないかと思って快林寺の西入口手前まで行ったが引返
し、同所の公会堂の横を通り墓地内に入りあげものを探して快林寺本堂の前広場に行った
」と自供したと報告している通り、公会堂の前から快林寺境内を通って行こうとした処空
腹のため快林寺裏の墓地に何かあげものはないかと思って「墓地」へ行ったという。
 けれど、これでは「墓地」にあげものがあったかどうかについて、ひとこともふれてい
ない。
 それ以上に不可解なのは、阿部検事の昭和二十九年七月二日付『冒頭陳述』である。こ
れによると、犯行当日の状況として「翌十日朝右薬師庵の賽銭箱から現金二十三円を窃取
、同庵を出て島田市に向い午前十時頃同市幸町快林寺墓地に到り墓地内の供物(菓子等)
を物色したが手に入らず同墓地から隣接する快林寺境内に赴いた」とあるだけで、赤堀政
夫が快林寺へ行くに至った動機「家の様子を聞こう(見にいこう)と思って」が全く述べ
られておらず、検事によって問題にすらされていない事実を何と解釈すればいいのか。赤
堀政夫は供述調書では快林寺へ行った動機をいくつも述べているにもかかわらず、検事は
、赤堀政夫が動機もなしに快林寺へ行ったことにしてしまうのである。

  〔九〕草色の戸
 赤堀政夫が犯行を具体的に供述した最初の自白は、昭和二十九年五月三十一日の第四回
供述調書(相田兵市員調)からである。これによると「十日の朝午前八時半頃起きました
。そして私はぶらぶら家の様子を聞こうと町へ出たのでありますが、道順は幸町公会堂の
所を通り山岸ラムネ屋の北を快林寺へ入ろうとした所、境内入り口に草色の戸がしめてあ
り入れませんので戻って公会堂と墓の間の道を通り石垣を越して墓地の間を抜け、快林寺
本堂の西へ出ました。大体これは、午前九時半頃と思います」と快林寺に入った経路を述
べている。
 ところが、昭和二十九年六月二日の第六回供述調書(相田兵市員調)では、「山岸ラム
ネ屋の北の幼稚園入口の草色の戸が締めてあったので公会堂横から快林寺墓地へ入ったと
前回申しましたがそれは嘘でほんとは戸の見える所迄行かない中に戸がしめてあるだろう
なあと思ったので引返し公会堂の南の道を東に向いて入り公会堂建物の東南辺から快林寺
の墓地に入りました。私は墓地をぐるぐる廻って供物の菓子でもあったら食べようと思い
ましたが何も食べるものがないので本堂西側の墓地の入口から本堂前広場(幼稚園)へ出
たのです」と、赤堀政夫は、この日は、草色の戸の見えるところまで行かなかったと供述
変更している。
 つまり、第四回供述調書で,「道順は幸町公会堂の所を通り山岸ラムネ屋の北を快林寺
へ入ろうとした所、境内入り口に草色の戸がしめてあり入れませんので」と述べたことは
「嘘でほんとは戸の見える所迄行かない中に戸がしめてあるだろうなあと思ったので引返
し」たのだ、というのである。これは五月三十一日に取り調べた相田兵市が、その後、供
述調書を検討してみたところ、三月十日のこの日、園児の原田計治が三輪車に乗ってこの
草色の戸のある入口を通り抜けていたり、また太田原松雄や太田原ます子もここから出入
りしていたことに太田原松雄の証言(29・3・16山本清作員調)などで気付いて、早速六
月二日になって赤堀政夫に事実と違う点として追求し、その供述変更を迫ったものである
ことは想像にかたくない。
 ちなみに、園児の太田原松雄は、事件後の証言(29・3・16山本清作員調)のなかで、
「僕はラムネ屋の三輪をいれる方の道から幼稚園の広場に入りました」と、草色の戸を通
って幼稚園に入ったことをはっきりと言明している。また、第一審第九回公判(31・3・
22)の証言でも草色の戸に関して、太田原松雄は、次の通り述べている。

問(鈴木主任弁護人)証人の家から幼稚園へ行くには、どこを通って行くのか。
答(太田原松雄)公会堂の所を通ってラムネ屋の所を曲って行きます。
問 いつもラムネ屋の所を入って行って居ったのか。
答 そうです。
問 そこには門はなかったか。
答 門は閉まっていなかったと思います。
問 ラムネ屋の横の道は、いつでも誰でも通れるか。
答 通れます。
問 二回目に行く時にも、ラムネ屋の所を通ったのか。
答 そうです。
問 そうすると、ラムネ屋の所の門が閉まっているということはない訳だね。
答 黙っていて答えない。
問 ラムネ屋の所辺りに、草色の門があったのではないか。
答 ありませんでした。(筆者注・これは太田原松雄の記憶違い)いつも通れました。

 それにもかかわず赤堀政夫は、六月十二日の検事調書(阿部太郎検調)で、「更に煙草
屋の角を右に曲って幸町通りを行きますと左側に公会堂があります。其の隣が、快林寺墓
地でありますが私は其の時墓地の中にはお供え物か何かあがって居るだろうと思ったので
墓地の中に這入ろうと思いお寺の裏門まで行ったが戸が閉って居り入れないと思ったので
引返して公会堂の右傍通路から右手の墓地内に這入りました。そして墓地内をぐるぐる歩
き廻ってお供物の菓子か何かないかと探したのですが、一つも見当らずあきらめて墓地か
ら続いて居る快林寺の境内に這入りました。大体午前十時頃と思います」と、今度は「お
寺の裏門まで行ったが戸が閉って居り入れないと思ったので引返して」公会堂の右傍通路
から右手の墓地内に入ったと、裏門までは行ったが草色の戸は閉まっていたと、またまた
供述を変更する始末である。
 だが、太田原松雄の「ラムネ屋の三輪を入れる方の道」という証言からもうかがい知る
ことができる通り、この日、自分の三輪車をもって幼稚園に遊びに行っていた、原田計治
もこの草色の戸の裏門を通って、幼稚園に入っているのである。
 この太田原松雄の証言からだけでも、赤堀政夫の供述「しめてあり入れませんので戻っ
た」(第四回供述調書29・5・31相田兵市員調)や「戸が閉って居り押しては見なかった
が多分鍵がかかって居り這入れないと思ったので引返して」(第一回供述調書29・6・12
阿部太郎検調)の自白内容が事実に反していて、真実でないことは明らかである。
 この点に関して、弁護側は、第一審において三十二年十月二十二日付『弁論要旨』で、
「昭和三十一年十一月十六日受命裁判官による検証調書中、立会人五藤大善(住職)は草
色の戸はあったが閉めるのは夜だけだと言っており、常時鍵はかけないと言っている。太
田原松雄は当時朝からその道を通り何度も境内に入っているが戸が閉まっていなかったと
証言している。これからみて、被告人が草色の戸が閉じていたという供述は亦、当時の客
観的事実に符合しない」と、赤堀政夫の供述が真実でないことに言及した経過がある。
 これに対して第一審の矢部孝裁判長も、その判決文で「被告人は、翌三月十日午前十時
頃島田市幸町に在る快林寺の墓地に赴き、同所で供物を捜したが見当たらないので、墓地
から本堂前の広場に赴いた」認定の理由の中で「被告人は、捜査官に対し、右草色の戸が
閉まっていて入れなかった(二九・五・三一員調(記録五六五丁以下の分)、戸の見える
所まで行かないうちに戸が閉めてあるだろうと思って引返した(二九・六・二員調)、閉
まっていて押してはみなかったが、多分鍵がかかっていると思って引返した(二九・六・
一二検調)と供述してあり、その供述が一貫性を欠くのみならず、受命裁判官による検証
(三一・一一・一六施行)の結果や、太田原松雄の供述によって明らかになった。当時右
草色の戸は鍵もかかっておらず、開かれていたという事実と相違する。
 しかし被告人がしばしば快林寺付近を徘徊していたであろうことは、被告人の日頃の行
動にかんがみ、たやすく推認し得るところであり、その際、たまたま右草色の戸が閉って
いたことがあったので、このことを混同して戸が閉っていて入れなかったと供述し、後日
それが事実と相違することを指摘されて、前記のごとくその供述を訂正したともうかがえ
るので、このことから直ちに被告人の供述がすべて真実性に乏しいと断定することはでき
ない」として、赤堀政夫がそれまでに「しばしば快林寺付近を徘徊していたであろうこと
は、被告人の日頃の行動にかんがみ、たやすく推認し得るところであり」と推定した上で
「その際、たまたま右草色の戸が閉っていたことがあった」と確認できてもいない事項を
事実として盛り込んだ上で、かってに赤堀政夫が「このことを混同して戸が閉っていて入
れなかったと供述」したと、事実認定する始末である。
 ところが、新たにその存在が明らかになった二十九年五月三十一日付『捜査報告書』の
中で、相田兵市以外の取調官、清水初平と山下馨は赤堀政夫が次のように自供したと島田
市警察署署長の鈴木喜代平に報告しているので、この捜査報告書の「草色の戸」に関連す
る部分を引用してみよう。

一、捜査状況
──更に歩いて此の日(筆者注・三月十日)掛川の駅通りより西にある警察署の窓口を訪
れ自分は犯罪をやっておるから処分して貰いたいと申出で取調を受け釈放されたる旨自供
したるにつき該事実に基いて西小笠地区警察署に調査方依頼した処この事実はあるが三月
十日に非らずして三月二十日なることが判明した。ここで赤堀政夫は本件犯行の有力な容
疑者と認められる状況になったので更に追求して三月三日後の行動について捜査取調べを
為すに容疑者赤堀政夫は午後八時頃に至り本件犯行の一部を自供し初めるに至ったもので
ある。

 と、申し述べたあとで、「自供によると──翌三月十日は午前八時三十分頃農小屋を出
て家の様子を見に行こうと思って市内に来り、幸町の公会堂の前から快林寺境内を通って
行こうとした処空腹のため快林寺裏の墓地に何かあげものはないかと思って快林寺の西入
口手前まで行ったが引返し、同所の公会堂の横を通り墓地内に入りあげものを探して快林
寺本堂の前広場に行った」と赤堀政夫が自供したとして、五月三十一日付供述調書とは異
なる内容をこの捜査報告書には記載しているのである。
 ここで問題になってくるのは、第一審の判決で矢部孝裁判長が述べている「被告人がし
ばしば快林寺付近を徘徊していたであろうことは、被告人の日頃の行動にかんがみ、たや
すく推認し得るところであり、その際、たまたま右草色の戸が閉っていたことがあったの
で、このことを混同して戸が閉っていて入れなかったと供述し、後日それが事実と相違す
ることを指摘されて、前記のごとくその供述を訂正したともうかがえるので、このことか
ら直ちに被告人の供述がすべて真実性に乏しいと断定することはできない」判決理由であ
る。
 これまでは、赤堀政夫は六月二日の相田兵市に対する供述で、五月三十一日に自供した
ことは嘘だったと、五月三十一日付供述調書の「草色の戸」に関する供述が間違っていた
と供述変更していた。ところが、この供述をする前に赤堀政夫は、すでに「快林寺の西入
口手前まで行ったが引返した」ことを取調官、清水初平と山下馨に対して述べていたとい
うのである。この事実からして第一審判決で矢部孝裁判長が述べた「草色の戸」に関して
「後日それが事実と相違することを指摘されて、前記のごとくその供述を訂正したともう
かがえる」という判断理由は、全く根拠を持ってなかったことが明らかになる。
 つまり、五月三十一日の時点で赤堀政夫は、草色の戸をめぐってすでに二通りの供述を
していた。そして、それにはそのどちらも真実であるとなっている。それに対して、五月
三十一日に相田兵市が作成した赤堀政夫の調書は、赤堀政夫が「草色の戸がしめてあり入
れませんので」と供述した事柄を事実であるとしていたことになる。これは、矢部孝裁判
長が言うように「被告人がしばしば快林寺付近を徘徊していたであろうことは、被告人の
日頃の行動にかんがみ、たやすく推認し得るところであり、その際、たまたま右草色の戸
が閉っていたことがあったので、このことを混同して戸が閉っていて入れなかったと供述
し、後日それが事実と相違することを指摘されて、前記のごとくその供述を訂正した」も
のでなかったことを明らかにするのである。
 そればかりか、五藤大善が第二審第一回公判(33・10・29)になって、法廷で改めて証
言したところによると、

問(大蔵弁護人)二十九年三月十日頃山岸ラムネ屋の所から境内に入る道に草色の戸の扉
  があったか。
答(五藤大善)ありました。
問 その扉は何時頃迄あったか。
答 三十年十二月頃迄ありました。
問 扉のあった位置、大きさはこの図にあったとおりか。
  この時昭和三十一年十二月三日付作業に係る原審検証調書添付図面のイを示す。
答 そうです。位置及巾はそこに記載してあるとおりでした。当扉は板製のもので、ペン
  キを塗ってあり上部には有刺鉄線を張ってありました。
問 扉は鍵をかけるようになっていたのか。
答 そうですが使用しておりませんでした。扉は一方開きのもので自動式にしまるように
  なっており墓地側に開くようになっていたのです。
問 快林寺として時間的に扉をしめに行く事があったのか。
答 その扉についての責任者としては特におりませんでしたので気がつけばしめておりま
  したが普段はしめたりしめなかったりでした。然し私は必ず七時か七時半には開けに
  いっておりました。
問(鈴木主任弁護人)草色の戸のあったところから毎日出入りする園児は相当あったか。
答 ありました。それで毎朝扉をあけに行ったのです。

と、毎朝、住職の五藤大善は草色の戸を七時か七時半には開けに行っており、しかも扉の
鍵はかけるようにはなってはいたが「使用しておりませんでした」と答えており、矢部孝
裁判長がいう「被告人がしばしば快林寺付近を徘徊していた」時、「たまたま右草色の戸
が閉っていたことがあった」かも知れない可能性さえも否定する証言になっている。
 これらの事柄は、赤堀政夫の供述調書がこの「草色の戸」に関して一片の真実も述べて
なかったことを表している。
 

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