− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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〔十〕園児が幼稚園に現れた時間
 
 この日、園児が幼稚園に現れた時間を明らかにするには、まず四人の園児や犯人の最初
の目撃者の田代いとが、どういう順序で幼稚園に来ていたかを手がかりにすればよい。
 最初の犯人の目撃者・田代いとは、若い男が「近くをうろうろしておりましたその時、
本堂の階段の処で幼稚園の子供が少し遊んでいるのを見たのですが、それから後は知りま
せん」と証言(第二審第一回公判33・10・30)している。つまり、田代いとが幼稚園に行
って、そのあとで若い男が裏口の方から入ってきて、近くをうろうろしていたその時、鈴
木鏡子と佐野久子の二人の園児はすでに本堂で遊んでいたことになる。ここでは、田代い
とは、若い男が境内へ入ってきてから、園児が幼稚園に入ってきたという、反対の事実が
あった可能性を残す証言はしていない。
 しかも、園児の太田原松雄は、原田計治と三輪車で遊んでいる時に、本堂にいた鈴木鏡
子と佐野久子の二人の所へ犯人が歩いてきたのを目撃している。したがって、この日、田
代いとが幼稚園へ行った時、すでに鈴木鏡子、佐野久子、原田計治、太田原松雄の四人の
園児は幼稚園にいて、境内で遊んでいたことになる。だから、この日、四人の園児がそれ
ぞれ幼稚園に来た時間をはっきりできれば、犯人が境内に入って来た時間も一層明らかに
なる。そこで、この点について検討してみることにしよう。
 この日、鈴木鏡子は、母親の鈴木きんの証言(29・3・16山下馨員調)によると、朝か
ら幼稚園に行って遊んでいた。しかし、原田計治に関しては、彼が朝の何時頃に自分の三
輪車に乗って、幼稚園に遊びに行ったのか、裁判記録でも、他の資料でも明らかにできな
い。けれど、太田原松雄が快林寺の境内へ遊びに来た時に、原田計治は三輪車を持って境
内で遊んでいた事実は、太田原ます子の証言「快林寺の中へお友達が行って居ったから、
そのお友達と一緒に遊んで居ったです」(29・9・17第一審第三回公判)から裏付けられ
ている。
 さらに、祖母の太田原ます子は、その証言(29・9・17第一審第三回公判)で、事件の
あった日、孫の太田原松雄は、朝から家の近所でペッタンをやっていたので、ます子が松
雄を叱ったところ、直ぐ幼稚園に遊びに行ってしまった。それは九時頃だったと言ってい
た。そして、今度はます子がお遊戯会を見に行こうと思って快林寺の方へ行くと、十一時
過ぎ頃に幼稚園から帰ってくる松雄に会い、そこから今度は二人で幼稚園に行って、お遊
戯会を午前の部が終わるまで見た、と述べていた。
 一方、太田原松雄が、二十九年三月十六日に警察官の山本清作に語ったところによると
、松雄はお昼前位に幼稚園に遊びに行っている。これに加えて、事件から二年後の第一審
第九回公判(31・3・22)では、この日朝から幼稚園に行っていたのではなく、「一度(
家に)帰って、それで又出かけて行ったのです」と、この日の午前中は二度幼稚園に行っ
たことを証言している。しかも、この二度目の時も松雄は一人で行ったとはっきり述べて
いた。
 さらに、三月十日のこの日、太田原松雄は、二十九年三月十六日に警察官に述べた通り
、お昼前位には中央幼稚園に行って原田計治と遊んでいた。その時、久子が若い男にお菓
子を買って貰って、その男と快林寺を出て行った。そして、中野ナツの第一審第二回公判
証言(29・8・6)では、この二人が快林寺山門を出て、中野ナツの家の前を通りすぎた
直後にお昼のサイレンが鳴ったのを中野ナツは聞いていたである。ちなみに、園児の鈴木
鏡子は、「十二時のサイレンが鳴ってから昼ご飯に帰って来た」と母親の鈴木きんが二十
九年三月十六日に山下馨員調で証言していた。
 また、太田原松雄は、第一審の第九回公判では「時計を見なかったから分かりませんが
お昼に家に帰りました」とも述べている。だからおそらく、太田原松雄もこのサイレンを
聞いてお昼になったことを知り、家へ帰える気になったと思われる。そして、その途中で
幼稚園へ行く祖母の太田原ます子に会ったので、再び幼稚園へ行き、午前の部が終わる正
午過迄(田代いと33・10・30第二審第一回公判の証言)お遊戯を見て帰って行ったという
のが、三人の園児の動きであった。
 ところが、肝心の若い男に連れ去られた佐野久子が、三月十日のこの日、家を出て幼稚
園に行ったのは何時なのか、第一審の裁判官は遂にひとことも言及することなく終わって
いる。この点について、この事件の裁判ではじめて言及したのが、事件後四年半を経過し
た第二審第一回公判(33・10・31)に、久子の母親・佐野すゞが証人に立って証言した時
である。この時佐野すゞは、次のように証言している。

問(杉本覚一検事)証人は、佐野久子の母親か。
答(佐野すゞ)左様です。私の長女です。
問 昭和二十九年三月十日、島田幼稚園え、久子は何時頃出かけたのか。
答 午前十一時頃、私の下駄を、つっかけて出ました。
問 遊戯会に出る番は、午前中だったか。
答 午後の部なのです。
問 証人は、久子に何処え行ったものと思っていたか。
答 私に、幼稚園に行くからと言って、家を出たものですから、私もそのつもりでおりま
  した。
問 行方不明になった事は、何時頃、気付いたのか。
答 出番になっても本人が居ないので、早速近所をさがしてみましたが、何処にも居ない
  のです。その頃は、もう午後三時頃になっておりました。私も、その頃から何となく
  胸さわぎがしておりました。それから間もなく、豆腐屋の長谷川ムツミさんと会いま
  した。私は、何処かで久子を見かけないものかと思って尋ねてみたのです。すると、
  久子ちゃんと何処かの男の人と一緒に歩いていたのを見たと、言うのです。私は、こ
  の事を聞いて誘拐された、と直感しました。それから直ぐに警察に届けました。

 事件後四年半を経過しているこの二審の公判の佐野すゞの証言では、久子は午前十一時
頃家を出て幼稚園へ行ったとしている。けれど、このあと再びこの事件の裁判で、この点
に関して問題にしたことはどうもないようである。しかし、これだけの話で納得していて
は、事件の過程で具体的に展開した事実と赤堀政夫の供述調書を比較検討しようとする時
に、改めて論議することもできなくなってしまうので、一つここで、当時の新聞では、久
子がどんな状態で家を出て幼稚園に行っていたと報道したか、見てみることにしよう。
 ここでは、久子が家を出る時の状況を報道していた新聞として、とりあえず目についた
三紙を引用する。
 二十九年三月十一日付「静岡新聞」夕刊は、母すゞさんの話として「お遊戯があるので
それを朝のうち見るというのでおそくなってから家を出ましてお昼もまだ食べておりませ
ん。」
 三月十二日付「静岡民報」は、「久子ちゃんは十日午後幼稚園の卒園記念のブレーメ
ンの音楽劇に出演することになっていたもので、この日午前十一時半ごろ、ひる御飯を
前に実母すず(27)さんがふかしたおイモを食べながら、グリーンのワンピースを着、茶
色のストッキングに白の網織のソックスをはき、すゞさんの桃色ハナオのゲタをはいて
すぐ帰ってくるからと言って幼稚園に遊びに行った」と伝えている。
 三月十四日付「毎日新聞」静岡版は、「──久子ちゃん(7っ)は、十日十一時自宅で
さつま芋を食べ、百・離れたところにある中央幼稚園のブレーメンの音楽隊の遊戯に
出るため母親すゞさんのゲタを突っかけ元気に出ていった」と伝えている。
 これら三点の新聞やその前に引用した母親・佐野すゞの証言からすると、久子は、この
日午前十一時ないし十一時半頃には幼稚園へ行ったことになる。そして、それはまだお昼
ご飯を食べる前で、(新聞報道では)十一時さつま芋を食べ、ないし十一時半頃ふかした
お芋を食べながら快林寺境内(幼稚園)へ出かけて行ったという。
 ところが、これらの点を一層解明してくれる捜査資料が、新たに出てきた。次の二十九
年三月十日付『報告書』ならびに二十九年三月十一日午前十時三十分佐野すゞ方で作成さ
れた『告訴調書』がそれである。この捜査資料は、事件発生前後の事情を具体的に伝えて
いるので、まず全文引用して見てみることにしよう。

『報告書』
 昭和二十九年三月十日午後五時頃本職が当直勤務中公衆電話より島田市幸町○○番地
青果業 佐野すゞより 長女久子当七年(人相丈三尺二、三寸位丸顔オカッパで両側に少
しパーマをかけている着衣はグリーン色ワンピースに靴下を穿いている)が午前十一時頃
より午後0時頃迄の間に、島田市幸町快林寺境内に於いて丈五尺一、二寸位、年齢三十年
前後、面長、色浅黒く頭髪長い、黒又はネズミ色の上衣、同様ズボン及び靴を穿いた一見
土方風の見知らぬ男と一緒に、本通り三丁目かね万酒店東側小路を本通りに向け歩いてい
るのを見たと、島田市大津通り 長谷川睦当十八年より話が有り探して見たが見当たらず
夕方になるも帰って来ない為其の男に誘拐されたのではないかと思われるので捜査願いた
いと言う連絡が有りましたから報告致します。
   昭和二十九年三月十日        島田市警察署 司法巡査 大村辰夫
 島田市警察署長 司法警察員 警視 鈴木喜代平殿

『告訴調書』
           住所 島田市幸町○○
           職業 青果物商 氏名 佐野すゞ 当○○歳(満○○歳)
右の者昭和二十九年三月十一日午前十時三十分供述人方において本職に対し誘拐被疑事件
につき左の通り供述して告訴した。
一、私は只今申し上げた 佐野すゞであります、昨、昼 島田中央幼稚園から知らない人
に誘拐された佐野久子 満六年 は私の実子であります。中央幼稚園は私方の東南約一丁
位しかありませんが、昨日は遊戯の日であったのですが、久子は午後三時頃の劇へ出る事
になっていたので家で遊んでいました。
 午前十一時半頃の事ですが私が店で仕事をしていますと、久子が表から私の処へ来て、
幼稚園へ劇を見に行ってくる、と申しました。私は丁度昼食前でありましたし、午後の劇
へ久子が出る関係もあったので、昼御飯に来た折り御化粧をしてやるから早く帰っておい
で、と云ふと、すぐ来るよ、と返事をして幼稚園の方へ行きました。服装はうす緑の化繊
生地のワンピース、茶色の長靴下に白のソックス、桃色の緒のすげてある女物大人下駄、
でした。久子は、体は小柄の方(九五糎位)丸顔オカッパでパーマをかけ前歯は黒く可愛
らしい、眉毛は少し下がり眉毛、体は中肉で、下着は桃色メリヤスシャツ、あづき色スフ
毛糸のシャツ、純毛桃色毛糸セーター(首と手首裾に白線が二本宛入っている)黄色と赤
の格子ネルズロース、白木綿ズロースでした。
二、私は久子が午後0時半頃になっても帰って参りませんので、幼稚園へ行って探しまし
たが見当たらず近所の友達の家を捜して見ましたがおりませんので、又、午後二時半頃、
幼稚園に戻りマイクで読んで貰いましたがいなかったのであります。久子の出る劇は初ま
って仕舞いましたが久子はとうとう見当たらず私は仕方なく家に帰りましたが、今日南幼
稚園でも遊戯会だ相だからことによると友達と南幼稚園へでも行ったのかもしれぬ、と思
ったのです。それから私は止むを得ない用事で、電報電話局、税務署へ行き午後四時半に
帰宅致しました。私が家へ来るといつも私方へ為泉の豆腐を卸しに来る市内大井町、増沢
豆腐屋の小僧さんが集金に参り私に、久子ちゃんは今日親戚の人と映画を見に行ったか、
と聞きました。私は心当たりがないので、どこで会った、と聞き返すと、今日の十二時半
頃久子ちゃんが、年頃三十前後、頭髪を伸ばしたよごれたジャンバーを着た中背の男の人
と一緒に金万小路を南を向いて歩いていったので親戚の人に映画につれて行って貰ふのか
と思った、と申しました。私は其の様な人には全然心当たりもありませんし、誘拐された
と思って早速警察へ電話でおしらせ致した次第であります。
三、久子は昨年四月に幼稚園に上がりましたが大へん幼稚園が好きでパンの弁当を持って
毎日通っており、大変人なつこく誰とでも話しをし人嫌いをしないたちでした。遊戯は大
変好きで家へ帰ってもいつも歌ったり踊ったりしており、幼稚園でもほめてくれる程でし
た。
四、私方の家族は、父 辰平 六十二年 夫 輝男 三十六年 二女 礼子 四年 長男
正吾 一年 女中 市内大井町 鈴木みき 三十六年と今度行方不明になった久子 昭和
二十二年十一月二十二日生 及私の七人暮らしであり家は前から現在の所ですが、本年一
月末日迄は、町内曽根鉄次さんの店を借りて営業し二月から只今の家へ店を移したのであ
ります。
五、(略)
六、只今考へて見るに久子をよそに連れて行く様な人は全然心当たりがなく又他人に恨ま
れて子供を連れ去られる様な心当たりもありません。私としては子供を誘拐してサーカス
にでも売る様な人が連れて行ったのではないかと思はれますが何にしても可愛い人の子供
を連れて行く様な人は世の中の為に厳重に処罰をして戴きたいと考へ告訴致します。
                               佐野すゞ
 右録取し読聞かせたところ相違ない旨申立て署名指印した。
 前同日   島田市警察書 司法警察員 警部 相田兵市

 『報告書』には「午前十一時頃より午後0時頃迄の間」に「一見土方風の見知らぬ男と
一緒に、本通り三丁目かね万酒店東側小路を本通りに向け歩いているのを見たと、島田市
大津通り 長谷川睦当十八年より話が有り、捜してみたがいなかったので、誘拐されたの
ではないかと届け出た」とあり、久子が家を出て行った時間については明らかにならない
が、もう一方の『告訴調書』では「午前十一時半頃の事ですが私が店で仕事をしています
と、久子が表から私の処へ来て、幼稚園へ劇を見に行ってくる、と申しました。私は丁度
昼食前でありましたし、午後の劇へ久子が出る関係もあったので、昼御飯に来た折り御化
粧をしてやるから早く帰っておいで、と云ふと、すぐ来るよ、と返事をして幼稚園の方へ
行きました」と、久子が午前十一時半頃に家を出て行ったことを、母親の佐野すゞは述べ
ている。
 この『告訴調書』が事件発生の翌日に作成された捜査資料であるところから、これまで
のどんな資料よりも信頼性の高い資料であり、久子が家を出て行った時間は「午前十一時
半頃」であったと追認して問題はないだろう。したがって、久子が家を出た時間を仮に十
一時半とすると、久子が快林寺境内の本堂の階段に着く時間は、遅くともその二分後の十
一時三十二分頃のことである。(ちなみに佐野家から快林寺境内本堂の階段前まで実測約
六十一メートルある。)
 そうすると、快林寺の境内に四人の園児が出そろう時間は、午前十一時三十二分頃のこ
とになる。このあと田代いとが幼稚園に(昼一寸前頃)行って、間もなく犯人は幼稚園の
裏口の方から入って来たことになる。

  〔十一〕境内への経路とその時間
 赤堀政夫は、この日、墓地から境内へ入った経路について次のように供述している。

第四回供述調書(29・5・31相田兵市員調)
 公会堂と墓の間の道を通り石垣を越して墓地の間を抜け、快林寺本堂の西へ出ました。
第六回供述調書(29・6・2相田兵市員調)
 公会堂の南の道を東に向いて入り公会堂建物の東南辺から快林寺の墓地に入りました。
私は墓地をぐるぐる廻って供物の菓子でもあったら食べようと思いましたが何も食べるも
のがないので本堂西側の墓地の入口から本堂前広場(幼稚園)へ出たのです。
第一回供述調書(29・6・12阿部太郎検調)
 公会堂の右傍通路から右手の墓地内に這入りました。そして墓地内をぐるぐる歩き廻っ
てお供物の菓子か何かないかと探したのですが、一つも見当らずあきらめて墓地から続い
て居る快林寺の境内に這入りました。

 と、いずれも本堂脇にある墓地の入口を通って境内に入ったという。これは、「私が行
って間もなく若い男の人が幼稚園の裏口の方から入って来て私の傍であちこち見ておりま
した」(33・10・30第二審第一回公判)という田代いとの証言と、一見、矛盾がないよう
にも見受けられる。
 ところが、赤堀政夫はこの日、境内に入って行った時間を「午前九時半頃と思います」
(相田兵市員調・第四回供述調書)、「大体午前十時頃と思います」(阿部太郎検調・第
一回供述調書)と、二通りの供述をしている。そして、これに対して、第一審の矢部孝裁
判長は判決で、「翌三月十日午前十時頃島田市幸町に在る快林寺の墓地に赴き、同所で供
物を捜したが見当たらないので、墓地から本堂前の広場に赴いたところ──」と、事実認
定し、赤堀政夫が境内に入った時間を「午前十時頃」であると、判断している。
 この赤堀政夫の自白や第一審の裁判所の判断が「真実」であるなら、赤堀政夫が境内に
入った時間が午前十時頃でも何も問題は起こらない。ところが、この日、園児の太田原松
雄が、「九時頃には行って居ったと思います」という太田原ます子の証言通りに快林寺へ
行っていたとすると、赤堀政夫は、太田原松雄が幼稚園に行ってから一時間後に、幼稚園
に入ったことになる。つまり、午前九時頃から幼稚園に行っていた太田原松雄は、赤堀政
夫が境内に入った午前十時から犯人を目撃していたことになる。
 また、境内に入った赤堀政夫は、始め「大きな木(筆者注・境内にあった楠)」の所で
十五〜六人の園児が境内で遊んでいるのを見ていたという。そして、「境内で二、三十分
ぶらぶらして子供を見ていると其の内、講堂で遊戯が初まりました」(29・5・31相田兵
市員調)ので、赤堀政夫は、そこで、講堂の方へ行ったという。そうなると、田代いとが
幼稚園に来て講堂の所へ行く一時間も前の午前十時半過ぎには、赤堀政夫は講堂の周りを
うろついていたことになる。
 ところが、赤堀政夫の供述調書には、自分が講堂の周りをうろうろして一時間後に、田
代いとが自分の傍に来たことを述べていない。
 佐野久子が午前十一時三十二分頃から快林寺に行って本堂の所で遊んでいる所へ、田代
いとが境内に入って行って講堂の窓際でお遊戯を見ていた所に、犯人が「幼稚園の裏口の
方から」入って来たのである。つまり、田代いとは、一時間も前から講堂の周りにいた赤
堀政夫を、目撃しなかったことになる。
 そこで、赤堀政夫の供述に沿うように田代いとに目撃されるようにするには、赤堀政夫
は裏口の方から入って来てすでに境内にいたとしても、犯人が田代いとの傍へ行ってうろ
うろするまでの間は境内を歩き回っていなかったことにしなければならない。そしてこれ
を、田代いとの目撃事実通りにつじつまを合わせ、赤堀政夫が「大きな木」の所にいて、
それを田代いとが「裏口の方から」歩いて来たことに見間違えたと事実認定することも一
見不可能ではない。
 つぎに、この日、田代いとがほんとうに「大きな木」の所にいた赤堀政夫を見たことに
してみる。すると、田代いとが来るまでの十時からの一時間半の間、とりあえず、赤堀政
夫はこの「大きな木」の所で「十五、六人」の園児を見ていたことになる。
 しかし、こうした状況の中では、田代いとは境内を歩いて行く時、「大きな木」の所に
いる赤堀政夫に気付くのが自然だし、その結果、若い男が「裏口の方」から入って来たの
を見たと証言するのではなく、「私が幼稚園に行ったら『大きな木』の所に若い男がいて
自分の傍に来た」とか、「私が幼稚園に行って間もなく『大きな木』の所にいた若い男が
自分の所に来て、私の傍であちこち見ておりました」と証言が変わっていいはずである。
ところが、田代いとは、第二審第一回公判の証言で「大きな木」の所にいたはずの赤堀政
夫を見た状況を述べてはいない。
 しかも、この日、午前九時から幼稚園に行って、この「大きな木」のそばで原田計治と
三輪車で遊んでいて、汗が出た時に持っていたハンケチで「大きな木」に寄りかかって拭
いたりしていた太田原松雄は、当然この犯人にされた赤堀政夫の存在に気付いていいはず
である。また、赤堀政夫も、三輪車で遊んでいた太田原松雄と原田計治の存在に気づくの
が自然である。少なくとも、太田原松雄と原田計治と赤堀政夫の三人は、同じ「大きな木
」の周辺の数メートルと離れていない距離の場所に、午前十時頃から十一時半過ぎまでの
約一時間半の時間をほとんど一緒にいたことになるのだから──。
 ところが、太田原松雄の犯人の目撃状況は、事件直後の三月十六日に警察官の調べ(山
本製作員調)に

 僕が三輪で遊んでいる時、お兄ちゃんが、久子ちゃんと、とし子ちゃんが遊んでいると
ころへ来て、手で招いて「おいで」と言ってとし子ちゃんは「やだ」と言いました。この
時、お兄ちゃんは「二人ではお金がかかる」と言っておりました。三輪に乗って遊んで居
ったので、顔に汗が出て、持っていたハンケチで、大きな木に寄りかかって拭いていたの
であります。その木に寄りかかって講堂の方を見ていました。この時講堂の前にあるおば
さん立ちが売屋をやっているところで久子ちゃんはお兄ちゃんにお菓子を買って貰ってい
ました。久子ちゃんはお兄ちゃんと出て言って仕舞ったので、僕は「ノロンノロン」家に
かえりました。

 と述べている通りで、犯人が自分のいた「大きな木」の傍の数メートルと離れていない
距離の場所に「一時間半もいっしょにいた」ということはひとことも出てこない。
 しかも、田代いとが目撃した犯人は、赤堀政夫の自供通りに「裏口の方から出て来て、
『大きな木』の所にしばらくいて講堂の方へ行きました」という行動をしておらず、この
日、田代いとは、赤堀政夫の供述通りの犯人を目撃していない。
 そこでこの時、田代いとが、「墓地の入口」から境内に入って来た赤堀政夫を「裏口」
から入って来たように混同したと仮定しても、若い男も赤堀政夫も自分が見ている所から
真正面に見渡せる場所を自分の方へ向かって歩いて来るのである。だから、「大きな木」
の所に立ち寄って、それから自分のいる講堂の方へ向かって歩いて来る赤堀政夫と、「私
が行って間もなく幼稚園の裏口の方から入って来て私の傍であちこち見ていた」若い男を
見誤ることはまずないといっていいだろう。
 そこで、赤堀政夫の供述の内「境内に入った時間に関する供述が間違っているとか、嘘
を言っていた」と事実認定し直して、この日、赤堀政夫が午前十一時三十二分過ぎに幼稚
園に行ったとしても、太田原松雄も、幼稚園に「お昼前位(午前十一時三十二分前)」に
は行っていて、犯人が境内に入って来る前に境内にいた事実は変わらない。しかも、赤堀
政夫は太田原松雄のいた「大きな木」の所から始まって、供述にある二時間近くの行動を
、約三十分に満たない時間にすべてやり遂げたことになる。
 そして、太田原松雄が、この赤堀政夫の供述通りの若い男を見たとすると、松雄の証言
に「自分のそばの大きな木の所で見ていた若い男が講堂の方へいった」とか「久子を連れ
出した若い男はその前大きな木の所にいた人だ」といった事柄が盛り込まれていいはずだ
し、しかもこの時、赤堀政夫も、自分の傍にいて三輪車で遊んでいた太田原松雄と原田計
治の姿を自分の目で見ることになるのに、赤堀政夫は、「十五、六人」の園児は見ても、
自分のそばで三輪車で遊んでいた二人の園児の姿をさっぱり見ていないというおかしな話
になっているのである。
 しかも、赤堀政夫の供述調書では、赤堀政夫が幼稚園に行って「境内で二、三十分ぶら
ぶらして子供を見ていると其の内、講堂で遊戯が初まりました」(29・5・31相田兵市員
調)、「私は子供が好きですから本堂の前の大きな樹の傍で子供の遊ぶのをながめていま
すと其の中に幼稚園の校舎の方で人が大勢集って何かやり始めた様でした」(29・6・12
阿部太郎検調)と述べているのである。つまり、赤堀政夫が快林寺境内へ入って行って(
午前十一時三十二分を過ぎた時間=昼一寸前)から二、三十分たってお遊戯が始まったこ
とになってしまう。そうすると、赤堀政夫の供述では、この日のお遊戯会は、十一時五十
分か十二時になってからやっと始まったことになる。
 ところが、犯人を最初に目撃した田代いとは、すでに講堂でやっているお遊戯会を講堂
の外から見ていたのである。そこで、田代いとが「若い男の人が幼稚園の裏口の方から入
って来て」と証言した事実は、赤堀政夫の自白にある犯人(赤堀政夫)を見たという証明
にはならないのである。
 逆に、赤堀政夫の供述が真実で、赤堀政夫がこの日、快林寺境内にいたとしても、赤堀
政夫は田代いとが幼稚園に来る前から境内の「大きな木」の所にいたことになるから、田
代いとは犯人として赤堀政夫を目撃しないで、全く別人の若い男が「裏口の方から」入っ
て来るのを見た可能性もあるといえるのである。
 そうなると、田代いとが述べた「若い男の人が幼稚園の裏口の方から入って来て」とい
う事実と、赤堀政夫の「本堂西側の墓地の入口から本堂前広場(幼稚園)へ出たのです。
そして『大きな木』の所にしばらくいて講堂の方へ行きました」という供述が、同一視で
きる可能性を客観的に裏付けて、「同じことを言っている」と結論づけられる一致した事
柄を、何一つ確認することはできなくなる。
 これらの状況を考えあわせると、太田原松雄が午前九時からずっと幼稚園に行っていた
とする太田原ます子の証言も、赤堀政夫が午前九時半頃か十時頃に幼稚園に行ったという
供述調書も、どちらも客観的事実と符合していないことが明らかになる。しかも、墓地の
入口から境内に入って「大きな木」の所にいたとする赤堀政夫の供述内容は、田代いとや
太田原松雄の目撃証言と大きく食い違っているのである。
 何故こんなことになっているのかと言えば、事件直後に捜査官に証言している太田原松
雄は、犯人が、快林寺境内に入って来るところを見ていなかったので、赤堀政夫を取り調
べた捜査官が、太田原松雄の証言を参考に赤堀政夫に自白させていても、この証言は、田
代いとの目撃事実を裏付ける参考にはならなかった。しかも、犯人が境内に入って来ると
ころを目撃した田代いとが、捜査官が赤堀政夫を取り調べる間に、捜査官に犯人の目撃状
況を証言する機会もなかった。
 田代いとが三月十日に目撃した事実は、三十三年十月三十日の第二審第一回公判で、田
代いとが証言するまで、捜査官も検察官も裁判所も知らなかった事実である。だから、田
代いとの目撃証言を参考に、捜査当局は、島田事件の核心部分の供述調書を作り終える二
十九年六月五日までに、赤堀政夫が犯人として「大きな木」の所へは行かなかった事実を
赤堀政夫に供述させることが出来なかったのである。
 赤堀政夫の自白と目撃者の目撃事実が一致しない事柄が、早くも出てきたことで、赤堀
政夫の自白の真実性は、事件の最初の部分で崩れることになる。このあとわたしたちは、
さらに赤堀政夫の自白を検証していくわけだが、赤堀政夫の自白調書に真実性や任意性が
実際にあったかどうかをしっかりと見極めていくことにしよう。
 

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