〔十二〕三月十日の境内と講堂のようす
この日の境内と講堂の様子について、赤堀政夫は、第四回供述調書(29・5・31相田兵
市員調)で「幼稚園にはブランコの所や校舎の近くで子供が十五人位遊んでいました。私
は子供が大好きなので本堂の西南の大きな木の所で子供を見ていました。境内で二、三十
分ぶらぶらして子供を見ていると其の内、講堂で遊戯が初まりました」と述べている。ま
た、第一回検事調書(29・6・12阿部太郎検調)でも、「子供の『ブランコ』や『すべり
台』等があり、幼稚園の生徒らしい子供が十五、六人遊んでいました。私は子供が好きで
すから本堂の前の大きな樹の傍で子供の遊ぶのをながめていますと其の中に幼稚園の校舎
の方で人が大勢集って、何かやり始めた様でした」と境内の様子についてふれている。
赤堀政夫は、この日、快林寺の境内では「十五人位」ないし「十五、六人」の遊んでい
る園児を目撃したといっている。さらに、講堂の中には「八分目位の見物人がいました」
(29・5・31相田兵市員調)、「自分は講堂の入口の角から見ていました。講堂の中は人
が一ぱいで人と人の間から視きました」(29・6・2裁判所書記官補松島林質問調書)、
「それで私は校舎の入口の所から中の方を見ましたが見物人が大勢居て女の子が、四、五
人歌に合わせて立ったり座ったりする遊戯でした」(29・6・12阿部太郎検調)と講堂の
中の様子を述べている。
阿部太郎検事はそれを、二十九年七月二日の冒頭陳述で「同日は同寺境内にある島田中
央幼稚園の遊戯会が催されて居り講堂では園児の遊戯を父兄等が観覧中であった。被告人
は同境内で幼児の遊んでいるのを眺めたりし乍ら講堂入口付近に至り女児の遊戯するのを
見ている内に劣情を催し、幼女を誘拐の上姦淫しようと決意するに至った」と言及したに
とどまっている。
これを受けた第一審の裁判長矢部孝も、その判決文で「同所にある島田幼稚園講堂で遊
戯会が開催されていたので、その入口付近に行って女児の遊戯を見ているうち、にわかに
情欲にかられ、幼児を連れ出して姦淫しようと考えるにいたった。そこで、被告人は、付
近を見廻したところ、たまたま本堂石段付近で他の女児と遊んでいる佐野久子を見つけ─
─」と、罪となるべき事実の中で、事実認定しているだけである。
ところが、第四次再審請求審の静岡地裁・伊東正七郎裁判長は、五十二年三月十一日の
『棄却決定文』の〔第三の所論(・)〕に於いて、「特に、裁判官の請求人(筆者注・赤
堀政夫)に対する勾留質問調書は、それまでの被告人(筆者注・赤堀政夫)の司法警察員
や検察官に対する供述調書に表れていない佐野久子の穿いていた下駄は案外軽かったとか
、講堂の中は人が一杯で人と人の間から覗いたとか、という事実まで供述しており、その
供述の任意性に欠けるところのないことはいうまでもないところである」(傍線筆者)と
、赤堀政夫が供述した事柄を検討することなく事実であったと認定している。
その上で、〔第三の所論(・)の(二)の4〕では、「しかも、請求人は当時裁判官か
ら調べられることは分っていたという。(原記録三○三丁)そして、それまでの捜査官に
対する供述調書に表れていない久子の穿いていた下駄は案外軽かったとか、講堂の中は人
が一杯で人と人の間から覗いたとかいう事実まで供述しているのである」と、いきなり、
講堂の中は人が一杯で人と人の間から覗いたことが赤堀政夫の自白の真実性を証明する重
要な事実の一つとしてあげている。そして「兎も角、請求人が裁判官に対し裁判官である
ことを知りながら、佐野久子に対する犯行の犯人が自己であることを認めたのは重要であ
る」と結論づけている。
この第四次再審の静岡地裁の伊東正七郎裁判長の結論は、快林寺住職・五藤大善の第二
審第一回公判(33・10・29)での証言と食い違っておらず、一見事実に沿って結論づけて
いるかのように認められる。しかし、この時の五藤大善の証言をよく検討してみると、こ
の証言は、どうもこうした事実認定の裏付けにはならないようである。
問(大蔵弁護人)証人の処の幼稚園では二十九年三月十日遊戯会をやったか。
答(五藤大善)やりました。
問 何日間やったか。
答 二日間です(筆者注・実際は四日間であった)が十日は何日目であったか記憶してお
りません。
問 父兄も見に来たのか。
答 大体、講堂一杯に入っておりました。
問 遊戯会には園児は皆来るのか。
答 出る組は午前午後に分けておりましたが、一日分の園児は皆来ておりました。出る者
以外は自由にしてあったのです。
問 当日、境内はかなり混雑するのか。
答 そうです。
以上が住職の講堂や境内の状況に関する証言である。この証言は、事件後四年以上経過
していて、五藤大善は、お遊戯会をやった期間を二日間と答えている点で事実と食い違っ
ているが、その他のところはだいたいお遊戯会当日の幼稚園の様子を述べているものと見
て差し支えないだろう。
つまり、この証言は、三月十日の事件発生当日の午前十一時半過ぎから十二時までの事
件発生時間の快林寺の境内ならびに講堂の中はどうだったのかという、事件発生時間帯の
状況を特定して述べたものではない。これは、あくまでもお遊戯会が催された当日の四日
間にわたる全般的な状況に関して質問されたことに、「お遊戯会の当日は──」と全般的
に答えているという性格のものであることは言うまでもない。だから、次の質問ならびに
証言に( )内の注を入れてみると、それがよりはっきりと読みとれるようになる。
問(お遊戯会の当日は)父兄も見に来たのか。
答(お遊戯会のあった四日間の当日は)大体、講堂一杯に入っておりました。
問(お遊戯会の四日間)当日、境内はかなり混雑するのか。
答 そうです。
という意味に解釈した方が自然な証言なのである。五藤大善の証言のこのような性質に
ついては、大いに注意を払う必要がある。だから、五藤大善の公判での証言をもって、境
内には園児が「十五、六人」いたとか、講堂の中は「八分目位の見物人」がいて、「人が
一ぱいで人と人の間から覗きました」というように赤堀政夫が述べた事実が正しかったと
する証言の裏付けにすることはできない。
三月十日の事件が発生した時間帯に限っていえば、この日の事件発生時間帯に境内や講
堂に居合わせた人の証言の方が、五藤大善の証言よりもこの時間帯の事情をより正確に伝
える証拠価値を持っている。そこで、三月十日の事件当日、お遊戯会を見に行って講堂に
いた人や境内にいた人は、一体どのように証言していたのか、改めてその証言を引用して
検討してみよう。
この日、最初に犯人を目撃した田代いとは、「(若い男が)近くをうろうろしておりま
した。その時本堂の階段の処で幼稚園の子供が少し遊んでいるのを見たのですが、それか
ら後は知りません」と、遊んでいた園児を見た時少ししかいなかったことを証言(33・10
・30第二審第一回公判)している。
そして、田代いとのこの証言を裏付けるかのように、太田原松雄が事件直後の三月十六
日の証言(山本清作員調)であげている園児の名前は、自分の他は原田計治、鈴木鏡子、
佐野久子の四人であることは既に見てきたところである。そして、太田原松雄は、「久子
ちゃんがお菓子を買って貰うときは、幼稚園の子供は、大勢はいませんでした」とも証言
している。この日、太田原松雄が幼稚園にいたとして名前を上げている園児は、赤堀政夫
が見たと言っている園児「十五人位」ないし「十五、六人」の内の、わずか四人である。
これまでの境内での犯人の目撃者たちは、誰一人としてこの、後の十一,二人の園児を
見たということを証言していないし、また、それらしい園児がほかにいた形跡すら見てい
ない。そんなに広く入り組んでもいない、見通しのよい境内のことで、田代いとや太田原
松雄には見えなくても、赤堀政夫にはこの十一、二人の園児が見えたというのだろうか。
それとも、当時の捜査当局は、この十一、二人の園児の所在を明らかにしているが、あえ
てそれらの資料を法廷に出さなかっただけなのか。
いずれにしても、この日、快林寺の境内で「十五、六人」の園児が遊んでいたという赤
堀政夫の供述の裏付けになる客観的な証拠を、検事側は、これまで法廷で示していない。
こうした事情から考えると、赤堀政夫の「十五、六人」の園児が境内で遊んでいるのを見
たという供述は、真実として証拠によって裏付けられた事柄を述べたものではないことが
明らかになる。そればかりか赤堀政夫は「十五、六人」の園児は見ても、実際に自分の傍
にいて三輪車で遊んでいた原田計治と太田原松雄には気が付かないという、不可解な供述
をしているのである。
また、この日講堂の中にいて犯人を目撃した父兄の一人、橋本富美子は、二十九年三月
二十四日の小島行夫員調で講堂の中の様子を次のように証言している。
中央幼稚園では本年三月七日より十日迄の四日間卒園記念のゆうぎ会がありまして、私
は最終日の十日に見に行きました。場所は幼稚園の講堂でありまして私が行った午前十時
頃には未だたいして父兄は来て居りませんでした。夫れで私は講堂の前の方の中央付近に
席を取り子供の踊りを見て居たのであります。未だ幼稚園のお昼になりませんから十一時
少し過ぎと思ひます。舞台では子供が踊りをして居りましたが私は何気なく講堂の北側の
外を窓越しに見ました処、講堂の北側に当る本堂の方より子供の父兄にしては少し変な年
頃二十五、六才位の頭の毛を長く延ばした面長の顔色は青黒い一見病人風の男が講堂の中
をのぞき乍ら行ってしまいました。私は此の時別に気にも止めて居りませんでしたが、後
で中央幼稚園に行って居る佐野久子ちゃんが此の日誰かに連れ出され殺されたと云ふこと
を聞いて、若しかしたら私が見た男ではないかと思った様なわけであります。
と、この日、橋本富美子は、午前十時頃には父兄はたいして来ていなかったことを証言
している。またこの日、講堂の中にいて犯人を目撃したもう一人の父兄の桜井ゆきは、二
十九年三月二十日の小島行夫員調で次の通り証言している。
久子ちゃんが連れだされた日に私は中央幼稚園で変な男を見かけましたが、若しかして
犯人ではないかと思われますので申上げます。本月十日、中央幼稚園に行って居る長男の
喜久男が演芸会で踊りをすると云うことですので、午前八時半頃、子供と一緒に幼稚園に
行ったのであります。遊戯会の場所は幼稚園の講堂でありまして、私は前の方に席を取っ
て子供の踊りを見て居りました。昼の御飯が終ってからでありましたから、十二時頃と思
ひます。私は何気なく講堂の北側の窓の外を見て居りますと、職員室の方から年の頃二十
七、八才位の髪の毛の長い細面で頬のこけた一見病人上りの様な男が来ました。私は子供
の父兄にしてはどうも変だしおかしな人だと思って見て居りますと講堂の窓から中をのぞ
き込み、其の時私の視線と会ってしまいました。
と、桜井ゆきは述べている。また、桜井ゆきは、第二審第一回公判(33・10・30)の証
人に立った時「幼稚園に行ったのは何時頃か」という質問に対して「午前九時頃で会は未
だ始まっておりませんでした」と答えているくらいで、この日の講堂の中の様子について
は何も述べていない。
さらに、犯人が久子と快林寺を出て行ってしまってから、幼稚園へお遊戯を見にいった
太田原ます子は、途中で会った太田原松雄と一緒にお遊戯会を午前の部の終わりまで見た
時の境内の様子について次のように述べている。(第一審第三回公判29・9・17)
問(大蔵弁護人)その日、快林寺の境内は非常に賑やかだったのか。
答(太田原ます子)その日はもうお遊戯会の四日目でしたから、余り人は居りませんでし
た。
問 店屋などは出ておったか。
答 売店が出ておりました。
問 それは、園児の父兄が開いた売店かどうか。
答 そうです。父兄の開いた売店です。
問 何軒位出て居ったか。
答 何軒でしたか。とにかく境内の中では父兄の人達が売店を出し、境内の外には一般の
売店がありました。
問 そうすると、境内には父兄の者が誰かがいた訳か。
答 そうです。
問(矢部裁判長)証人は遊戯会の行われておる間に快林寺へ行ったことがあるか。
答 はい、行きました。
問 売店をやっておった父兄は大勢あるのか。
答 その時には、早く遊戯を見たいと思って夢中で入って行きましたもんですから売店な
どは気がつきませんでした。
と、太田原ます子は答えている。この日、講堂でお遊戯会を見た上での証言であるとこ
ろから、境内と同じように講堂の中も余り人は居なかったと見ていいだろう。しかし、太
田原ます子の証言は、あくまでも境内の状況について聞かれたことに対して証言している
だけなので、講堂の中のことは含まないとしても、この日の幼稚園の講堂の中が、赤堀政
夫の供述通りに、「八分目位の見物人がいました」(29・5・31相田兵市員調)、「幼稚
園では、バザーをやっているようすで講堂の中の舞台で洋服を着た子供が、四、五人踊っ
ていました。自分は講堂の入口の角から見ていました。講堂の中は人が一ぱいで人と人の
間から視きました」(29・6・2裁判所書記官補松島林質問調書)という状況ではなかっ
たことは、橋本富美子が、はっきり証言している。
こうした事実に加えて、赤堀政夫の境内に関する供述が、事実も真実も述べたものでは
ないことを窺わせる重要な事実が、田代いとの証言(33・10・30第二審第一回公判)の中
に出てくる。それは、「男が子供に話しかけてたりしたのを見なかったか」の質問に「話
しかけたのは見ませんでしたが子供が遊戯を終って支度部屋の方へ来るとそっちへ行った
りしておりました」と述べているところである。この田代いとの証言は、第二審第一回公
判の大蔵弁護人の「お遊戯会には子供は着飾ってくるのか」の問に、五藤大善が「園服を
着てきて出番になると支度をしていた」と答えている証言によっても裏付けられる。
ところが、赤堀政夫の数ある供述調書の中で、この「支度部屋の方へ行って、そこで何
かを見た」という事実について、赤堀政夫はひとこともふれていない。以下、その個所を
まとめて引用してみよう。
第四回供述調書(29・5・31相田兵市員調)
境内で二、三十分ぶらぶらして子供を見ていると其の内、講堂で遊戯が初まりました。
講堂の中は八分目位の見物人がいました。私は講堂西側入口に立って踊りを見たり北側の
窓から中を覗いて見たり致しました。私は子供の歌や踊りには余り興味を持ちませんので
何をやったか覚えてはいませんが、子供はお化粧していましたのできれいだなあ、と思い
ました。このように講堂を覗いたり境内をふらついたりしていましたが私はきれいな女の
子供を見ると、おまんこをやりたいと云う気分が強くなり我慢が出来んので、いい子供は
いないかなあと、境内を探して歩いたのです。
質問調書(29・6・2松島林裁判所書記官補)
幼稚園では、バザーをやっている(筆者注/これは事実と違う)ようすで講堂の中の舞
台で洋服を着た子供が、四、五人踊っていました。自分は講堂の入口の角から見ていまし
た。講堂の中は人が一ぱいで人と人の間から視きました。
第六回供述調書(29・6・2相田兵市員調)
幼稚園の中での事は前申した通りですが私が遊戯の中で覚えているのは四、五人の女の
子がしゃがんだりして踊るもの丈であります。
第一回供述調書(29・6・12阿部太郎検調)
私は子供が好きですから本堂の前の大きな樹の傍で子供の遊ぶのをながめていますと、
其の中に幼稚園の校舎の方で人が大勢集って、何かやり始めた様でした。それで私は校舎
の入口の所から中の方を見ましたが、見物人が大勢居て女の子が、四、五人歌に合わせて
立ったり座ったりする遊戯でした。六、七才位の女の子でお化粧をして奇麗な顔をしてい
ました。
私は此の女の子の遊戯を見て居る中にどうしても女と関係したいと云う気持ちになり体
中がかあっと厚くなる様な気持ちで其の事で頭が一杯になりました。大人の女とやるには
金もいるしそれに私は人相が悪いので女には好かれないが子供はこちらで大好きなせいか
子供から割に好かれるのであります。そこで私は此の辺に遊んで居る女の子を連れ出し大
井川の河原にでも行って関係しようと思いました。そして境内をうろうろして、いい女の
子はいないかなあーと物色したのであります。
また、捜査報告書(29・5・31清水初平・山下馨)でも、赤堀政夫は「同日幼稚園講堂
で遊戯会をやっており運動場には、十四、五名の子供が遊んでおったので初めは境内の大
きな木の処で見ておったが境内をぶらぶらして講堂の北側の窓の付近で遊戯会を見たりし
て一時間位おり遊戯会を見ている中にきれいな女の子が踊っているのを見てたまらなくな
り、むやみに女の子をやりたくなり見ると本堂の上り段の処に二人の女の子がまま事をし
て遊んでおるのを見かけたので、その中の草色の新しい上下つながった服を着て駒下駄の
大きなのを穿いた女の子の側にいっておじさんが飴玉を買ってやるからいこうと云って誘
い出し山門の中側の売店で飴玉を二十円買って女の子に渡し遊びに行こうと云ってその女
の子を連れ出し快林寺小路を通り本通りに出て──」と述べたとしているだけである。
赤堀政夫は、以上述べていることの他に調書の中で何一つ供述していない。ところが、
田代いとは、「子供が遊戯を終って支度部屋の方へ来ると(犯人は)そっちへ行ったりし
ておりました」と証言している。そこで、赤堀政夫が犯人として真実を自白したのであれ
ば、この時の犯人の行動ならびに目撃内容も当然印象に残っているわけだから、「私が遊
戯の中で覚えているのは四、五人の女の子がしゃがんだりして踊るもの丈であります」と
供述したことは不自然なことになる。
ところが、田代いとがこの「(若い男)が支度部屋の方へ行った」事実を明らかにした
のは、第二審第一回公判の三十三年十月三十日になってからである。田代いとは、この時
、ほかに杉本検事から、二十九年六月六日警察で調べられたことについて質問され、さら
に鈴木主任弁護人からも関連質問をされ、次のように答えている。
問(杉本検事)証人は二十九年六月に赤堀政夫がやったのだという事を知ったのか。
答(田代いと)知りました。そして警察で赤堀がいるから見に来いとの事で一度警察え行
きました。そして外にいる赤堀を部屋の中から硝子窓越しに見たのです。
問 その男は証人が快林寺で見た男と似ていたか。
答 私が警察で見た男は髪を刈っておりましたが、顔の輪かくと鼻の格好が似ておりまし
た。
問 証人は二十九年六月六日警察で見た状況につき調べられ、述べているが、その時述べ
た事は間違ないか。
答 間違ありません。
問(鈴木主任弁護人)証人が警察で男を見せられたのは一回丈か。
答 そうです。
問 警察で男を見た事につき聞かれた事があるのか。
答 事件後、調べに来られました。
問 警察の誰に会ったのか。
答 高砂町派出所の鈴木という人が警察にいてこの男をつかまえたが前に見た男と似てい
るかどうか見て貰い度いと云っておりました。
この二十九年六月六日の田代いとの調書は、検事によって法廷に証拠として出されなか
ったので、他にどんなことを述べているのか分からないが、少なくともこの公判での田代
いとの証言からすると、犯人として逮捕され、自白したとされた赤堀政夫が、田代いとの
見た若い男に果たして似ていたかどうか、という点についてだけ調べられたようである。
その理由としては、事件の核心部分についての警察での赤堀政夫の取り調べは、六月五日
の第七回供述調書(相田兵市員調)の作成をもって既に終わっており、改めて田代いとか
ら事件の裏付けになる証言を得る必要を、捜査当局が感じていなかったことがあげられる
。
この六月六日は、捜査当局が、田代いとのほかに太田原ます子や太田原松雄、長谷川睦
(長谷川睦の供述調書は証拠資料として法廷に出されている)などの目撃者に、犯人とし
て捕まえた赤堀政夫が目撃した若い男に似ているかどうかの面通しをして捜査した日であ
った。
そこで、田代いとの目撃内容は、取り調べ捜査官の誘導によって、赤堀政夫の供述調書
に盛り込むことができなかったのである。しかも、この田代いとの証言した、「(若い男
は)子供が遊戯を終って支度部屋の方へ来るとそっちへ行ったりしておりました」という
事実は、第二審第一回公判の三十三年十月三十日になってから、始めて明らかにされたの
である。逆に言えば、赤堀政夫は犯人として「支度部屋の方へ行った」事実を、警察官の
誘導訊問にあうこともなく、自分の体験に基づいて、まさに任意に供述できたはずである
。
しかし、赤堀政夫はこの「支度部屋の方へ行って、目撃した事実」を供述しないで、講
堂の周りをうろうろしていた時に「私が遊戯の中で覚えているのは四、五人の女の子がし
ゃがんだりして踊るもの丈であります」とわざわざ強調して、それ以外の体験はしなかっ
たことを供述している。赤堀政夫が真犯人として、実際に体験したことを任意に供述した
というのであれば、赤堀政夫は「支度部屋の方へ行って、目撃した事実」を、決して忘れ
ることのできない体験として、取り調べ段階で供述するのが自然であろう。
それにもかかわらず、この「支度部屋の方へ行って、目撃した事実」を赤堀政夫が供述
の中でふれなかったことは、赤堀政夫の供述調書が、実際に自分で体験した事実に基づい
て自分から任意に「自白」した、供述ではなかったことの証になる。しかも、取り調べ官
の誘導に曝(さら)されることなく任意に供述できた事柄や、赤堀政夫が講堂の所へ行っ
た一時間後に田代いとが講堂の所に来たことを、赤堀政夫が供述していないことは、赤堀
政夫の供述調書そのものの真実性や任意性を疑わせる根拠になる。
また、赤堀政夫の供述調書をこれまでに検討してきたことに加えて、任意に供述できる
事柄を任意に供述していない事実があるということは、赤堀政夫の警察官や検事に対する
「自白」が任意になされたものではなく、取り調べた警察官・特に相田兵市の先入観によ
って作られた事件像の影響にさらされていたという疑いをわたしたちに抱かせる。
田代いとが「本堂の階段の方へ行くのを見た」あとを受けて、太田原松雄が「久子ちゃ
ん、とし子ちゃんの遊んでいるところへ来て」二人に話しかけている犯人を、今度は目撃
することになる。
〔十三〕佐野久子を連れ出す時の犯人
赤堀政夫の供述(第四回供述調書29・5・31相田兵市員調)によれば、この後、「頭の
中でその事(おまんこをやりたいということ)だけを考へ一時間近くも境内をうろうろし
て歩きましたが其の内本堂の上り口の石段の所に草色の新らしい上下つながった洋服を着
て女の駒下駄の大きいものを履いた女の子(六つ位)ともう一人同じ年位の洋服を着た女
の子の二人が何かを持って遊んでいました。近くに大人はいませんし、丁度よいと思って
そばへ行って、おじさんが飴玉を買ってやるからおいでな、と言うと、一人の子は私の顔
を見て黙っていましたが、草色の服を着た子は、ふん、と返事をしました」という。
また、阿部太郎検事調書(第一回供述調書29・6・12)によれば、赤堀政夫は「すると
本堂の上り口の石段の所に六、七才の女の子が二人手に何か持ってままごと遊びらしい事
をやって居るのが目にはいりました。丁度付近は誰も大人はいませんでしたから二人の女
の子の傍に行き、おじさんが飴玉を買ってやるからおいでな、と云いますと一人の女の子
はきょとんとして私の顔を見て居り黙っていましたが緑の色の服を着た女の子は、うん、
と返事をしました。そして立ち上って私の傍に来ました。」と述べており、本堂の所で赤
堀政夫は二人に声をかけたが、鈴木とし子は返事をしないで黙っていたというのが、赤堀
政夫の供述した事実である。
そして、その後、「私は先にたってお寺の門の内側に臨時らしい売店が出て居て菓子等
を売って居たので其の売店でオブラート包の紅白の飴玉を十円出して買い袋の侭私の傍に
来た其の女の子に渡してやりました。それで私はその女の子に、いいとこへ連れて行って
やろうか、と云いますと女の子は、うん、と言いました」と言って、赤堀政夫は佐野久子
を快林寺から連れ出したとしている。(傍線筆者)
阿部太郎検事は、冒頭陳述で「そこで境内で遊んでいる女児を物色したところ快林寺本
堂石段付近で本件被害者佐野久子他一名の女児を発見したので、『飴玉を買ってやる』等
甘言を以て被害者を誘い、菓子を買い与えた上『いい所へ連れていってやる』等と言って
同女と共に徒歩で島田市内を通過して──」、佐野久子を連れ出したことを事実としてあ
げている。
それを受けて第一審の矢部孝裁判長も、その判決文で「そこで、被告人は、付近を見廻
したところ、たまたま本堂石段付近で他の女児と遊んでいる佐野久子(昭和二十二年十一
月二十二日生、当時六才三カ月)を見つけ、右講堂前に出されていた売店で菓子を買い与
えたうえ、『いいところへ連れて行ってやる』と誘い、同日正午頃同女を伴って──」行
ったと、事実認定している。
ところが、第二審第八回公判(34・9・9)になって明らかにされた、鈴木鏡子が事件
後に警察官に述べた調書(29・3・16山下馨員調)で、鈴木鏡子は「此の間、お友達の久
子ちゃんと二人で中央幼稚園のお寺の方の階段で遊んでおるとおにいさんが来てハイヤに
乗してやるから駅へ来てと云ったが、私はいやだと云ったのであります。そしたらそのお
にいさんは久子ちゃんにハイヤに乗してやるで駅に来てと云って久子ちゃんはおにいさん
と一緒について行って了ひました。そのおにいさんは歩くにとても早い人だったから久子
ちゃんは飛んでついていったのであります。その時久子ちゃんは私に紙の切抜とハンカチ
を置いて行きました。行く時お兄さんにすぐ来る──と聞きますと『うん』と云ひました
」と証言している。(傍線筆者)
また、第二審第七回公判(34・7・10)で鈴木鏡子が証言したところによると、
問(子原一夫検事)証人は久子が幼稚園で遊んでいる時、誰かに連れて行かれたのを見た
か。
答(鈴木とし子)見ました。
問 その連れて行った人は若い男だったか。
答 お兄さんでした。
問 何と云って連れて行ったのか。
答 忘れてしまいました。
問 お兄さんは証人にも何か云ったか。
答 忘れました。
問 ハイヤーに乗せてやるから駅迄来てくれと云わなかったか。
答 云いました。始めに久子ちゃんを乗せ、昼から私を乗せてくれると云って連れて行っ
たのです。
と、鈴木鏡子は、犯人と鈴木鏡子、佐野久子との三人の間でやりとりがあったことを明
らかにしている。この点については、鈴木鏡子の母親・鈴木きんも、娘の鏡子から聞いた
その時の状況を、次のように鈴木きんの供述調書(29・3・16山下馨員調)の中で語って
いる。
鏡子と久子さんと二人で中央幼稚園のお寺の本堂前の階段の処で紙の切抜きになったお
ひな様の絵を竝べて遊んでおった処どっちから来たか判らないが後ろをふり向くと知らな
い男の人が玄関の処に立っておって初め私の処の鏡子にハイヤへ乗してやるから駅に来て
と云ふので鏡子は嫌だと云って断ったとのことでありました。するとその男は久子さんに
仝じ様なことを云ったので久子ちゃんはついて行ったと云ひます──此の若い男の人は歩
くに早い人だったから久子さんは飛んでついて行ったが出て行くにはお寺の正門の方を出
て行ったとのことでありました。ついて行く時に久子さんは鏡子に先程申上げた紙の切抜
になったおひな様の絵と白の木綿のハンカチ一枚を渡し持っていてと云ふので鏡子は預っ
て家に持ち帰ったのであります。出ていく時に鏡子はその時男の人に直ぐ来る──と聞く
と男の人は『うん』と云って出ていったとのことでありました。
この鈴木きんの供述調書も第二審第八回公判(34・9・9)になって始めて法廷に出さ
れたものである。同じように、鈴木きんも第二審第七回公判(34・7・10)で、証人とし
て法廷に出てきた時に、その時の状況について、次のように語っている。
問(子原一夫検事)その日の夕方久子の母が証人の処え来たか。
答(鈴木きん)来ました。他の人と一緒に来て久子の事を鏡子ちゃんが知っているという
から、何処え行ったか聞きに来たとの事で余り皆が騷ぐので鏡子は私のせいではない
と云ってかくれてしまったのです。私は鏡子をなだめすかして色々事情を聞いたとこ
ろ、久子ちゃんと二人で幼稚園の本堂の処で遊んでいたら、知らないお兄ちゃんが来
て私にハイヤーに乗せてやるから駅迄行こうと云うので私はいやと云うと今度は同じ
事を久子ちゃんに云い、久子ちゃんは行くと云って私に直ぐ帰るからこれを持ってて
と先程申した物を渡されたと云っておりました。
また、事件発生直後の二十九年三月十二日の『静岡新聞』では、犯人が鏡子と久子の二
人に話しかけた時のことを『島田で幼女誘拐さる 若い男自動車に乗せてやると』の
見出しの記事の中で「──近所の製粉業鈴木金平(45)さんの二女鏡子(6つ)ちゃんと
快林寺本堂前の軒下で遊んでいたところへ見知らぬ若い男が現われ鏡子ちゃんにハイヤ
ーに乗せて駅まで連れて行ってあげようと言い寄ったのを鏡子ちゃんがイヤと断っ
たところ、その男は久子ちゃんに同じようなことを言ったのを久子ちゃんが連れて行っ
てと持っていたオモチヤを鏡子ちゃんに預けその男と立ち去った」と伝えている。
また、鈴木鏡子と佐野久子に話しかけた犯人を目撃した園児の太田原松雄は、山本清作
員調(29・3・16)で「僕が三輪で遊んでいる時、お兄ちゃんが、久子ちゃんと、とし子
(鏡子)ちゃんが遊んでいるところへ来て、手で招ねいて『おいで』と云ってとし子ちゃ
んは『やだ』と云いました。この時、お兄ちゃんは、『二人ではお金がかかる』と云って
おりました」と、その時の様子を述べている。
一方、太田原松雄の祖母・太田原ます子は、孫の太田原松雄から聞いた話を第一審第三
回公判(29・3・17)で、次のように語っているが、犯人と鏡子・久子の三人のやりとり
については、何も聞かなかったようである。
問(阿部太郎検事)その他にはどうか。
答(太田原ます子)午后になってから久子ちゃんがいなくなったと騷いだ時、松雄は『早
く久子ちゃんを探しましょう。探しに行きましょう』と言って、お父さんにすがりつ
いたので、『久子ちゃんは七丁目に居ったそうだから安心しろ』と、だましその侭過
ぎたのですが、夜分になって騷ぎが大きくなったので私共は佐野さんの家へ御見舞い
に行きました。
問 それだけか。
答 十日の日は、それですんでしまいましたが、翌十一日の朝になって松雄が『昨日久子
ちゃんを連れて行ったお兄さんを見た』と言ったのです。それでお父さんが一応その
ことを帳面に書きとめ、警察に届けようかどうかと迷いましたが、結局幼稚園へ出か
けて行って、そこで警察の人に届けました。
問(矢部孝裁判長)それで、松雄は、快林寺境内において、三間半か四間位の距離のとこ
ろで犯人を見ているというのか。
答 そうです。後に私が快林寺の現場へ行って松雄にいろいろと説明させたところによる
と、快林寺の本堂のところの庭に段々があって、その下に石の段があり、更にその下
にドブにかかったコンクリートの橋があるのですが、その所の大きな木の根付近で松
雄が腰を下ろしておると、犯人がそのドブの橋の所まで来て久子ちゃんを連れて行き
売店へ行ってお菓子を買って、外へ出て行ったところまで見たと言っておりました。
また、昭和二九年五月三一日の『捜査報告書』では、赤堀政夫は「初めは境内の大きな
木の処で見ておったが境内をぶらぶらして講堂の北側の窓の付近で遊戯会を見たりして一
時間位おり遊戯会を見ている中にきれいな女の子が踊っているのを見てたまらなくなり、
むやみに女の子をやりたくなり見ると本堂の上り段の処に二人の女の子がまま事をして遊
んでおるのを見かけたので、その中の草色の新しい上下つながった服を着て駒下駄の大き
なのを穿いた女の子の側にいっておじさんが飴玉を買ってやるからいこうと云って誘い出
し山門の中側の売店で飴玉を二十円買って女の子に渡し遊びに行こうと云ってその女の子
を連れ出し快林寺小路を通り本通りに出て──」と供述したとしている。
また、この日、売店にいた父兄の一人・太田つや子は、三十三年十月三十日の第二審第
一回公判で証言した時に、不審な男に何かを売った時の状況を、
問(杉本覚一検事)証人の売店で如何なるものを扱ったのか。
答(太田つや子)食品で、キャラメル、アメ類、大福等です。
問 園児の父兄と思えない様な人が、何か買いに来た模様があったか。
答 ありました。
問 それは、何時頃だったか。
答 十二時前後でなかったかと思われます。
問 その時の様子は、どうだったか。
答 金を、十円か二十円だったと思いますが、「ヒョッ」と金を出して、何か買って行っ
た様に思います。
問(大蔵弁護人)おかしな男に、何を呉れと云われたのか。
答 記憶がありません。金を受け取った事は憶えております。
問(中野保雄裁判長)品物を手渡した事は憶えているか。
答 記憶がありません。
問(大蔵弁護人)金額は、どの位だったか。
答 十円か、二十円です。
問 他に誰か連れがある様に見えたか。
答 それまで、気が付きませんでした。
と語っている。以上の証言ならびに新聞記事を総合すると、佐野久子を連れ出す時の犯
人は、次のように鈴木鏡子と佐野久子の二人に声をかけている。
犯人(手で招いて、鏡子に向かって)
「ハイヤーに乗してやるから駅に来て(行こう?)」
鏡子「いやだ」
犯人(手で招いて、久子に向かって)
「ハイヤーに乗してやるから駅に来て(行こう?)」
久子「行く(連れて行って?)」
鏡子「直ぐ来る──」
犯人「うん」
久子「直ぐ帰るからこれをもってて」
このあと、鈴木鏡子の証言によると、犯人は「始め久子ちゃんを乗せ、昼から私を乗せ
てくれる」といって久子を連れて行ったという。また、犯人は「二人ではお金がかかる」
とこの時いっていた(太田原松雄証言)というのが、犯人と鈴木鏡子、佐野久子との三人
の会話であった。
ところが、赤堀政夫の供述では、
赤堀政夫 「おじさんが飴玉を買ってやるからおいでな」
鈴木鏡子 (黙っていました)
佐野久子 「ふん」
(そして売店で飴玉を買って、久子に渡しました)
赤堀政夫 (久子に)「いいとこへ連れて行ってやろうか」
佐野久子 「うん」
と言ったことになっているのである。
改めて、比較するまでもなく、赤堀政夫の供述内容は、鈴木鏡子や太田原松雄の証言し
た犯人と鏡子、久子との三人の会話のやりとりと違うだけでなく、園児の証言は、赤堀政
夫の供述調書を否定する内容になっている。赤堀政夫が述べた「鈴木鏡子が返事をしなか
った事実」を、当の鈴木鏡子ばかりか太田原松雄も、鈴木鏡子から話を聞いた母親の鈴木
きんも、一様に否定している。
そして、これは、事件後の三月十二日の当時の新聞記事『静岡新聞』でも確かめること
ができる。さらに、売店にいた太田つや子も、犯人が久子に向かって「いいとこへ連れて
行ってやろうか」といったのを聞いてはいない。
赤堀政夫の供述調書を否定するこんなにも明白な証拠が目の前にあるにもかかわらず、
第二審の裁判長・尾後貫荘太郎は、その判決文で、赤堀政夫の自白調書を、「犯人を目撃
した者の捜査官に対する供述によってうかがわれる犯人の行動と符合していて、原判決が
詳細に説明するごとくその任意性を疑う余地はないばかりでなく、犯行についての自白の
特異性からみてもその真実性が肯定されるのであって」と、結論づけた。これまで赤堀政
夫の供述調書を検討してきたところから言っても、この結論が誤っていることはいうまで
もない。
その上で、第二審の裁判長は、「その自白の内容も顕著な客観事実と矛盾し、条理に反
し信憑性を欠くと見るべき跡はなく──、動かしがたいその他の諸点に強いて目を閉じて
有罪の言渡をしたものとは認められない」と、赤堀政夫の自白の内容のこのように顕著な
客観事実との矛盾や、条理に反し信憑性を欠くと見るべき跡や、動かしがたいその他の諸
点に強いて目を閉じて、有罪の言渡を改めてしたのである。