− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
[戻る]

 
〔十四〕昼のサイレン
 
 犯人が佐野久子を伴って快林寺山門を出て行くのを見届けた太田原松雄は、二十九年三
月十六日に山本清作員調で「広場に入ると直ぐ大きな木が植えてありますが、その木に寄
りかかって講堂の方を見ていました。このとき講堂の前にあるおばさん達が売屋をやって
いるところで久子ちゃんはお兄ちゃんにお菓子を買って貰っていました。久子ちゃんは僕
の方から見ると、お兄ちゃんの向側(快林寺の正門側)にいてお菓子を買って貰っていま
したが、何をいくら買ったか知りません。僕もお菓子を『欲しいなー』と思って見ていま
した。久子ちゃんはお菓子を買って貰って、お兄ちゃんの横について、お寺の門の方に出
て行きました。久子ちゃんはお兄ちゃんと出て行って仕舞ったので、僕は『ノロンノロン
』家に帰りました」と、その時の様子について語っていた。
 また、鈴木きんは、鈴木鏡子から聞いた話として「此の若い男の人は歩くに早い人だっ
たから久子さんは飛んでついて行ったが出て行くにはお寺の正門の方を出ていったとのこ
とでありました」と、二十九年三月十六日に山下馨員調で証言している。
 こうして、犯人は佐野久子を伴って快林寺山門を出ていくところを、鈴木鏡子と太田原
松雄に見届けられて、快林寺をあとにするのである。そして、鈴木鏡子は、「十二時のサ
イレンが鳴ってから昼ご飯に(家に)帰って」(母親の鈴木きん29・3・16山下馨員調)
行くのである。また、太田原松雄も、「久子ちゃんはお兄ちゃんと出て行って仕舞ったの
で、僕は『ノロンノロン』家に帰りました」(29・3・16山本清作員調)、「時計を見な
かったから分かりませんがお昼に家に帰りました」(31・3・22第一審第九回公判)。そ
して「途中、おばあちゃんと逢ったので、又幼稚園に踊りを見にいきました」(29・3・
16山本清作員調)と述べている。
 ところで、赤堀政夫は、佐野久子を連れて快林寺を出た時間に関して、次のように供述
調書の中でふれている。

第四回供述調書(29・5・31相田兵市員調)
 私はそこで山門をくぐり快林寺小路を本通りへ出ましたがその女の子は私の後をちょこ
ちょことついて来ました。快林寺小路で女の人に行き合った様な気がしますが気がせいて
いてよく記憶がありません。私が子供をつれて幼稚園を出たのは正午少し前ではなかった
かと思います。私は本通りへ出て三丁目角を左へ曲り駅前へ出ました。人通りは仲々多か
ったのですが私はこんな子供をつれて歩く事が気がとがめ少しうつむいて割合早く歩いた
のです。
第六回供述調書(29・6・2相田兵市員調)
 私が幼稚園から連れ出した子供を歩かせて駅(島田駅)西ガート迄参りましたがこの間
は私の方が先に立って歩き子供は少しおくれてついてきました。私は人通りの多い本通り
や栄町通りを歩くのに子供をつれていたずらをしようと思って出かける事が歩いている人
に判る様な気がして恥ずかしいのでうつむいて他人に顔を見られぬ様にして歩いたのです
。早く人通りのない所へ行きたいと一生懸命でした。
第七回供述調書(29・6・5相田兵市員調)
 私は今年の三月十日の昼少し過頃、初倉村の原(蓬莱橋を渡ったところ)で島田市快林
寺にある幼稚園から子供をつれ出しいたづらをした上石で殴り首をしめて殺しましたこと
は今迄に申し上げましたが──。
第十回供述調書(29・6・8相田兵市員調)
 私が本年三月十日の昼少し過頃、快林寺の幼稚園から女の子を連れ出し地獄沢の松林の
中でいたずらをして首をしめて殺した事については今迄申し上げた通りでありますが──

第一回供述調書(29・6・12阿部太郎検調)
 それで私はその女の子の手は引きませんでしたが一緒にお寺の門を出て門前の道を真直
ぐにアスファルトの旧国道に出て右に曲り十字路を左に曲って島田駅前広場に出て駅に向
って右手の道を行き駅西方の狭くて低いトンネルの様なガァードの前に行きました。ここ
まで歩いて来るのに私は人になるべく顔を見られない様に俯向いて歩き女の子は私の直ぐ
後に殆んど並ぶ様にして来ましたが小さい女の子の足ですから時間は相当かかったと思い
ます。

 以上が、赤堀政夫の供述調書にふれた事実である。ところが、快林寺小路の中程にある
家の前で、快林寺から出て来た犯人と佐野久子をたまたま見ていた中野ナツは、取り調べ
た警察官に次のように、その時の様子を語っている。

中野なつ第一回供述調書(29・3・12山下馨員調)
 一昨十日の日でありますが、親子にしては少し年が若過ぎると思はれる男の人が女の子
を連れて通ったのを見たのでありますがそのことについて申上げます。私方は島田市本通
り三丁目のかね万酒店横の路地を入って中央幼稚園に行く途中であります。それで一昨十
日の午後○時少し前頃であります。此の日おじいさんが島田市横井町の大井川の開墾畑に
農良仕事に行っておりましたので私も手伝いに行こうと思って支度をして家から表に出た
のであります。
 私方の孫が私について行きたくて表に出て来ましたので私は表で立って止めておったの
であります。その時何気なく中央幼稚園(快林寺)の方を見ますと男の人が女の子を連れ
てかね万小路を私方の方を向って同幼稚園の門の処から出て来る処でありました。
 此の人達は私が未だ家の前におる時に私の前を通って表の方に歩いて行ったのでありま
す。此の人達がかね万酒店横の樽の置いてある付近を歩いておる時に私も家を出掛けたの
であります。そして私が本通りのかね万酒店の処に出た時でありました。此の人達は静岡
銀行島田支店西隣の八百屋さんの前付近を西を向いて歩いておったのであります。
 最初私方の前で見た時には女の子はセロハン紙の袋に入ったお菓子を一個持っておりま
した。中のお菓子は『オコシ』の様でありました。二度目に会った時には持っておりませ
んでした。
 最初私が見た時には中央幼稚園に劇があった日でありますので内の人と一緒に来て帰り
だと思ったのであります。履いておった下駄は幼稚園でかへられて大人の下駄を代りに穿
いて来たと思ったのであります。男の人は私の見た処では労働をする人の様には見へなく
て勤め人か何かの様に見へました。連れておった女の子も私は初めて見た子で何処の子か
知らない人だのでありますが、後で話しを聞いて幸町の佐野さんと言ふ八百屋さんの子供
さんが此の日見へなくなったとのことであって、此の時の子供さんがそうであったかと思
って喫驚したのであります。
中野なつ・第二回供述調書(29・3・21山下馨員調)
 私は当日(本年三月十日)おひるのサイレンがなる少し前頃に横井グランド下の畑に仕
事に行くため家を出たのだが前にも申上げた通り家を出る時と東海パルプ横井工場の前と
で二回緑色の服を着た女の子をつれている二十五、六歳の男の人に会っておりパルプの横
井工場の処では私の方が先になったので其のまま私は旧堤防に出てグランドの北を川下に
下りまして土手の下の家の畑へ入り先に行っておった私の夫が馬鈴薯の植付をしていたの
で私も一緒になって植付を致したのであります。

 これとは別に中野ナツは、二十九年八月六日の第一審第二回公判で次のように語ってい
る。

問(阿部太郎検察官)証人の家の近所に快林寺というお寺があるか。
答(中野ナツ)はいあります。そしてそのお寺は幼稚園になっております。
問 証人の家とは、どの位離れておるか。
答 半道もない位で極く近いです。
問 快林寺というお寺の門は、証人の家の入口の所から見えるか。
答 見えます。
問 本年三月十日に、お寺の門から若い男と女の子供が一緒に歩いて出たのを見たことが
  あるか。
答 はい見ました。丁度快林寺の幼稚園で子供の遊戯会があった日ですが、若い男と女の
  子供がお寺の門を出て私の家の前を通ったのを見ました。
問 見たのは何時頃か。
答 見た後で直ぐお昼のサイレンが鳴りましたから、十二時でした。
問 証人の家の前を通るのを見たのか。
答 そうです。二十五、六才位の男の人と七才位の女の子が通ったのです。
問 その人達は、証人の家の前を通ってどちらの方へ行ったか。
答 私の家の前を通って東海道へ出ました。それで私も畠へ仕事に行くため、その人達の
  後について行きました。ところが東海道へ出たところで、その人達は右側へ曲って行
  きました。
問 結局、証人はその日、女の子を連れた其の男の人を何回見ているのか。
答 三回見ている訳です。第一回目には私の家の前を通って行くのを見て、第二回目には
  東海パルプ工場の塀の付近で見て、第三回目には、新堤防をおぶって通るのを見まし
  た。
問(大蔵弁護人)証人は、いつ頃から島田市におるか。
答 空襲後に島田に行ったのですから、まだ島田の人はよく知りません。私は静岡市に長
  く居って、空襲後に島田に行ったのです。
問 証人は何をしているのか。
答 畠が少しばかりありますから、その方の耕作をやっております。
問 証人の家におじいさんもあるか。
答 あります。
問 三月十日に幼稚園で遊戯会があったというが遊戯会は何日間あったか。
答 連続五日間位あって、十日の日が最終日でありました。
問 遊戯会では寺の境内に店も出ていたか。
答 店も相当出ていました。
問 証人は、女の子を連れた男を自宅の前で見たと言ったが、どうして見たのか。
答 うちの孫が遊戯を見に行きたいとだだをこねて、私がよせよせと言ってだましている
  時に家の前を通ったのです。
問 証人は、孫も畠に連れて行ったのか。
答 いいえ、寒いから孫は家へ置いて行きました。
問 女の子と男の人は、歩いて通ったのか。
答 歩いて行きました。
問 最初見た、証人の家の前を通った時女の子は何を持っておったか。
答 飴玉か何か入ったセロハン紙の袋を持っておったと思いますが、中がすけて見えてお
  りました。
問 手はつないでおったか。
答 その時は、まだ手はつないでおりませんでした。
問 男の方はなにか持っておったか。
答 男は何も持っていなかったと思います。
問 女の子は、喜んでついて行くようであったか。
答 ヒョコヒョコついて行きました。
問 何か、ものを言っておったか。
答 別に話もしていず、何にもものは言ってなかったと思います。しかし、横井のパルプ
  工場の前で見た時には、女の子は大分からだが疲れているようでした。
問 そうすると、パルプ工場のそばで見た時には、女の子も歩いておったのか。
答 そうです。
問 男の人は、ずんずん先に歩いて行くのか。
答 並んで歩いておりました。
問(鈴木弁護人)証人が家の前で女の子と男の人と行くのを見たというのは、どの位の距
  離から見たか。
答 私は家の出入口に居って、その人達は前の道を通ったのですから、狭い所ですし、ほ
  んの私の目の先を通るのを見たのです。しかし、子供の方ばかりに目をつけておった
  のです。
問 証人の家の前の道を行くとかね万という屋号の酒屋があるか。
答 あります。そこの所で本通りへ出る訳です。
問 そこの所を曲って行ったのか。
答 そうです。その男と子供はそこから右に曲って西の方へ島田駅の方向に歩いて行き、
  私は反対の左側へ曲って更に本通りを右に曲って、横井のグランドの方向へ行く道を
  行った訳です。
問 横井のグランドの方へ行くには、,かね万のところをどちらへ曲って行った方が人通
  りが多いか。
答 右に曲って駅の方を通って行く方が人通りが多いです。私が行った左に曲って行く道
  は、畠へでも行く人が通る位で普通は淋しい道です。ただし夕方は工場の帰りの人が
  通ります。
問 横井のグランドの方へ行くには、どちらの道を通って行く方が近いか。
答 私が通った道を行った方が近いと思います。
問 証人が、久子ちゃんがいなくなったということを聞いたのは、その子供を連れた男が
  通るのを見た日か。
答 いいえ、久子ちゃんがいなくなったということを聞いたのは十一日で、その男の人を
  見たのは十日の日です。
問(矢部孝裁判長)証人の家にも幼稚園へ行っている子供があるか。
答 五才ですからまだ幼稚園へは行っておりませんが、近い所にあるもんですからしょっ
  中遊びには行っております。
問 子供を連れた男が証人の家の前を通るのを見たと言うが、その時証人の居った場所と
  通った場所とは距離にしてどの位か。
答 大体一間位と思います。とにかく男の人はうつむいて通りました。
問 その時男を見たのは、うつむいた横顔だけか。
答 そうです。
問 顔を上げたところは見なかったか。
答 見ませんでした。だから私はその男のかおを真正面からは見ていない訳です。
問 歩き具合はどんなふうであったか。
答 余り急いではおりませんでした。お母さんの下駄をはいている子供を歩かせておった
  早さでした。
問 その男は、特に証人に顔を合わせたくないような様子であったか。
答 やはり肩身が狭かったせいか、顔は上げませんでした。東海パルプの塀のところで会
  ったときも下を向いていました。
問 証人はその日三回見たというが、家の前で見た時が一番近距離だった訳か。
答 そうです。ですから着ているものとか男の様子等もその時が一番よく判った訳です。
問 下駄の鼻緒の色もおぼえておるか。
答 色はおぼえておりませんが、母親のものをはいているな、という印象が残っておりま
  す。とにかく連れている男の人が、その女の子のお父さんにしては若いなと思って見
  たことはおぼえています。

 また、第六回公判の検証時(29・12・15)の尋問で、中野ナツは、矢部孝裁判長の質問
に対して次のように答えている。

問(矢部孝裁判長)証人が本年三月十日に最初に若い男と女の子供が一緒に歩いて行くの
  を見たというのは、どこから見たのか。
答(中野ナツ)私は自分の家の表入口の戸に寄り掛かって快林寺の山門の方を向いておっ
  たのです。そうしたら、山門の方から女の子を連れた男の人が来て私の家の前を通っ
  て行ったのです。
問 その時、証人は一人で見ておったのか。
答 いいえ、私が入口の戸に寄り掛かって立っている右裾の辺に孫が泣きながら、くっつ
  いて立っておりました。
問 その時通った子供を連れた男の人はどんなふうであったか。
答 私の家の前の道の向う側の端、つまり、向いの家に近い方の側を本通りの方向へ向っ
  て歩いて行きました。
問 その姿を証人も証人の孫も見ておるのか。
答 そうです。それで私も孫に「あのねえちゃんもお前みたいにあんなに大きい下駄をは
  いて通るよ」ということを言っております。
問 証人は畠へ行く時、手に鍬か何か持っておったか。
答 畠の土を叩く「オオ」を持っておりました。
問 「オオ」とはどういうものか。
答 「かけや」の小さいようなもので、かけやよりももっと柄が長いものです。それを一
  本持っておりました。

 以上が、中野ナツの第一審の第二回公判と第六回公判の検証時(29・12・15)の尋問に
おける証言である。中野ナツは「丁度快林寺の幼稚園で子供の遊戯会があった日ですが、
若い男と女の子供がお寺の門を出て私の家の前を通ったのを見ました。見た後で直ぐお昼
のサイレンが鳴りましたから、十二時でした」と、犯人と佐野久子が家の前を通ったのを
見た後で、直ぐお昼のサイレンが鳴ったことをはっきりと記憶しているのである。
 ところが赤堀政夫は、佐野久子を快林寺から連れ出した時間について、「正午少し前」
(第四回供述調書)、「昼少し過頃」(第七回供述調書・第十回供述調書)と、極めてあ
いまいな供述をしている。検事調書に至っては、快林寺を出た時間について気にも止めて
いない始末である。
 その一方で、赤堀政夫は、佐野久子を連れ出した時の自分の心理状態については、「人
通りは仲々多かったのですが私はこんな子供をつれて歩く事が気がとがめ少しうつむいて
割合早く歩いたのです」(第四回供述調書29・5・31相田兵市員調)、「私は人通りの多
い本通りや栄町通りを歩くのに子供をつれていたずらをしようと思って出かける事が歩い
ている人に判る様な気がして恥ずかしいのでうつむいて他人に顔を見られぬ様にして歩い
たのです。早く人通りのない所へ行きたいと一生懸命でした」(第六回供述調書29・6・
2相田兵市員調)、「ここまで歩いて来るのに私は人になるべく顔を見られない様に俯向
いて歩き女の子は私の直ぐ後に殆んど並ぶ様にして来ましたが小さい女の子の足ですから
時間は相当かかったと思います」(第一回供述調書29・6・12阿部太郎検調)と述べてい
る。
 赤堀政夫の「気がとがめ少しうつむいて割合早く歩いた」という心理状態で、快林寺小
路を歩いて行ったというのである。実際に犯人もそれと同じような心理状態で歩いて行っ
たと思われる。このような心理状態で、久子を伴って中野ナツの家の前を通り過ぎてしば
らく行った時、突然、お昼のサイレンが鳴り渡るのである。さぞかし犯人は、びっくりし
てこのサイレンを聞いたことだろうと思う。
 だが、中野ナツには強烈な印象を残したお昼のサイレンも、「気がとがめ少しうつむい
て割合早く歩いた」という赤堀政夫は、聞き漏らしたというのである。赤堀政夫の供述に
は、ただ「快林寺小路で女の人に行き合った様な気がしますが気がせいていてよく記憶が
ありません」とあるだけで、このお昼のサイレンを聞いたという事実についてはひとこと
もふれていない。
 ところで、赤堀政夫は、供述調書の各所において、時間に関しては、驚く程まよいなく
語っている。
 以下の通り、「夜の十二時頃迄、午前六時少し過頃」(第一回供述調書29・5・28)、
「午前六時頃、午前十時頃、午後一時少し前頃、午前十時少し前頃、午後一時頃、午後一
時少し前に、午前十一時頃であり、午後一時半頃の事」(第三回供述調書29・5・31)、
「午前十一時半頃、午後五時近く、朝午前八時半頃」(第四回供述調書29・5・31)、「
午後五時五分」(第六回供述調書29・6・2)、正確には判りませんが本年三月三日──
午前九時頃、午前十時頃」(第十二回供述調書29・6・9)という具合に語っている。
 また、同様に、検事調書においても「午前九時近い上り列車、午後二時頃、翌六日朝五
時半頃」(第一回検事調書29・6・12)、「(五月二十四日)午後八時ころ、其の晩確か
午後九時三十一分発の、午前三時頃、五月二十八日朝午前五時半頃」(第四回検事調書29
・6・15)という具合に語っている。
ところが、事件に関係する時間になると、赤堀政夫は「午前九時半頃と思います。二、
三十分、一時間近く、正午少し前ではなかったかと思います、午後八時半か九時頃、翌日
私は朝六時頃」(第四回供述調書29・5・31)、「翌十日午前六時頃」(第六回供述調書
29・6・2)、「三月十日の昼少し過頃」(第七回供述調書29・6・5)、「三月十日の
昼少し過頃」(第十回供述調書29・6・8)としている。
 また、同様に、検事調書においても「午後十一時頃と思います。翌十日朝八時半頃だと
思いますが、大体午前十時頃と思います」(第一回検事調書29・6・12)、「午後四時半
頃だったと思いますが、約十分位、それで時間はどの位たったか判りませんが、翌十一日
は朝から雨が降って居りました」(第二回検事調書29・6・13)というように、とたんに
「──時頃だと思いますが」と、時間を推定しはじめる始末。
事件以外のことでは、極めてまようことなく時間を特定して供述している、この赤堀政
夫にして、佐野久子を快林寺境内から連れ出した事件にかかわる前後の時間になると、突
然あやふやになり、迷い出すのである。真犯人であれば、三月十日のお昼のサイレンを間
違いなく聞いているにもかかわらず、赤堀政夫はその自白で、佐野久子を連れ出した時間
を「正午少し前」とか、「昼少し過頃」とか、極めてあやふやな供述している。これは、
赤堀政夫が犯人であるなら考えられないことである。
 この時、赤堀政夫は、すでに自分が犯人であるとして犯行を認めており、今更、この時
間についてウソを言う必要はなかったわけだし、お昼のサイレンを聞いたことについて隠
す必要もなかったのである。だが、赤堀政夫は、佐野久子を連れ出して快林寺山門を出た
のが、お昼少し過頃だったという、誤った供述もしている。赤堀政夫が供述調書の中で述
べている、事件に直接かかわる時間の性質からいって、赤堀政夫の「自白」は、実際の体
験に基づいて証言したものであるとは、とてもいえない。
 それにもかかわらず、第一審の阿部太郎検事は、これに対して、二十九年七月二日の冒
頭陳述で「菓子を買い与えた上『いい所へ連れていってやる』等と言って同女と共に徒歩
で島田市内を通過して──」と言及しているだけであり、検事調書の中では、赤堀政夫が
佐野久子を連れ出した時間についてさえ、赤堀政夫から任意に聞いてはいない。
 そして、第一審の裁判長矢部孝もその判決文(33・5・23)で「同日正午頃同女を伴っ
て島田駅前道路から、──」と、ふれているだけで、中野ナツが証言したこの「お昼のサ
イレンを聞いた」事実を、赤堀政夫がその供述調書でひとこともふれていないという矛盾
については何も言及していない。
 しかも、もっと興味深いことに、中野ナツは、「お昼のサイレンを聞いた」事実を、赤
堀政夫が逮捕される前の警察官・山下馨の調べの際に述べておらず、山下馨が作成した二
通の供述調書(29・3・12と29・3・21)には記載されていない。中野ナツが、この「お
昼のサイレンを聞いた」事実を明らかにしたのは、二十九年八月六日の第一審第二回公判
になってからのことである。
 したがって、赤堀政夫が犯人として任意に事件の供述をしたのであれば、この「お昼の
サイレンを聞いた」事実も、田代いとが第二審第一回公判(33・10・30)で証言した「支
度部屋の方へ行って見ていた」事実とともに、取り調べ官に誘導されることなく、正に任
意に供述できたはずである。任意に供述することができた、取り調べた警察官も知りえな
かったこれらの事実を、赤堀政夫が任意に供述していないということは、赤堀政夫の供述
調書が、犯人なら知りえた事実の「秘密の暴露」をしたものではないということの証にな
ることはいうまでもない。
 ちなみに、中野ナツの二通の供述調書が法廷に出されたのは、第二審第八回公判になっ
てからのことである。したがって、第一審段階で、矢部孝裁判長が、不用意にこの事実を
見落としたとしても、第二審の裁判官が、この事件の事実関係をきちんと調べる意思を持
っていさえすれば、気が付いたことである。
 それとも、裁判というものの中で、裁判官は、犯人(赤堀政夫)が佐野久子を伴って快
林寺を出た時間に関する供述が、極めて曖昧なままである事に何の疑問も持たないで、そ
の事実の裏に隠された真実を解明しなくてもよいというのであろうか。それが、裁判官の
「自由心証主義」というものであると、もし、裁判官たちが考えているのだとしたら、わ
たしたちは、幾つ体があっても、一度犯人として名指しされ「自白」したことを認めさせ
られたら、物的証拠がなくても、犯行したことにされ続けてしまう。
 

[戻る]