− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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〔十五〕長谷川睦・小林和夫の目撃証言
 
 佐野久子を伴って快林寺小路を歩いて行く犯人は、中野ナツの家の前で中野ナツに目撃
された直後、お昼のサイレンが鳴ったのを聞き、本通りに出る前、かね万酒店の裏口付近
で、自転車に乗った長谷川睦とすれちがい、長谷川睦に目撃されている。そして、本通り
に出てから右に曲がって歩いて行くのであるが、この時中野ナツは、大井川の河原にある
畑に行くため「オオ」という畑で使う道具を持って家を出た。
 そして、中野ナツが本通りへ出て来た時には、犯人と佐野久子は、静岡銀行島田支店西
隣の八百屋さんの前付近を西を向いて歩いていた。本通りへ出た中野ナツはここから左へ
向かって歩いていく。一方、犯人と佐野久子は駅前通りへ出て左に曲がり駅に向かって歩
いて行った。そして、この駅前通りですれちがい、佐野久子から声をかけられて久子を目
撃したのが小林和夫であった。
 赤堀政夫は、快林寺小路からこの駅前通りへ久子を伴って歩いて行く状況について、供
述調書(相田兵市員調)や阿部太郎検事調書で述べた内容は次の通りである。

第四回供述調書(29・5・31相田兵市員調)
 私は本通りへ出て三丁目角を左へ曲り駅前へ出ました。人通りは仲々多かったのですが
私はこんな子供をつれて歩く事が気がとがめ少しうつむいて割合早く歩いたのです。
第六回供述調書(29・6・2相田兵市員調)
 私が幼稚園から連れ出した子供を歩かせて駅(島田駅)西ガード迄参りましたがこの間
は私の方が先に立って歩き子供は少しおくれてついてきました。私は人通りの多い本通り
や栄町通り(筆者注・駅前通り)を歩くのに、子供をつれていたずらをしようと思って出
かける事が歩いている人に判る様な気がして恥ずかしいので、うつむいて他人に顔を見ら
れぬ様に歩いたのです。早く人通りのない所へ行きたいと一生懸命でした。
第一回検事調書(29・6・12阿部太郎検調)
 それで私はその女の子の手は引きませんでしたが、一緒にお寺の門を出て門前の道を真
直ぐにアスファルトの旧国道に出て右に曲り十字路を左に曲って、島田駅前広場に出て駅
に向って右手の道を行き、駅西方の狭くて低いトンネルの様なガードの前に行きました。
ここまで歩いて来るのに私は人になるべく顔を見られない様に俯向いて歩き女の子は私の
直ぐ後に殆んど並ぶ様にして来ましたが、小さい女の子の足ですから時間は相当かかった
と思います。

 一方、この日、犯人と久子を快林寺小路と駅前通りで目撃した長谷川睦と小林和夫の二
人は、赤堀政夫が逮捕される前の事件直後の三月十五日と三月十一日に、警察官・山下馨
の調べに対して、その時に状況をそれぞれ次のように語っている。

長谷川睦第一回供述調書(29・3・15山下馨員調)
 先日私は、得意先であります、島田市幸町の佐野さんと云ひます八百屋さんの子供さん
で久子さんと云ふ子が知らない男の人と一緒に歩いておるのを見たのでありますが、その
ことについて申上げます。それは本月十日の日であります。時間の点はよくも覚えがあり
ませんが、おひるの十二時を過ぎた頃と思ひます。東方面の配達に出まして最後に本通り
五丁目の清水さんと云ふ家へ配達をして帰る途中でありました。
私は市内本通りを自転車に乗って箱と函を付けて走って来り三丁目のかね万小路を入っ
て帰ろうと思ひ、同家の横から路地に入ったのであります。私が同小路の玉突の手前付近
に行った時であります。前方快林寺の方から先程申上げた佐野八百屋さんの久子さんと云
ふ女の子と、その先を一米位離れて男の人と一緒に歩いて来るのと行き違ったのでありま
す。私は久子さんが親戚の人に連れられて一緒に映画かお菓子でも買ひに出掛けるのでは
ないかと思って別に気にも止めなんだのであります。
隨って私は行違ったけれども言葉はかけませんでした。此の時久子さんは女下駄の大き
なのを履いておったことは覚へております。
久子さんの家は得意先でありますので毎日の様に配達に行っておりますから久子さんの
顔はよく知っており話をしたこともよくあります。毎日三回乃至四回位行っております。
此の男の人は、私はこれまで見たこともない人であります。何処の人か判りません。

小林和夫(29・3・11山下馨員調)
 私は本年二月一日から志太郡高洲村兵太夫の松開堂パン店に雇はれて、島田市内へパン
の配達をしております。昨日、得意先であります、島田市幸町の佐野さんの子供さんと駅
通りの藤見亭旅館の前で行合ったのでありますが、その時の状況について申上げます。
 昨日午後一時見当と思います。時計を持っておるのではないので、はっきりしたことは
申し上げられません。或いは、一時前だったかもしれません。
 島田市栄町のめぐみ屋という菓子屋さんの裏を借りて、松開堂では、毎日パンを送り届
けて来るのであります。そこから私は市内の得意先に配達するのであって、昨日私は、前
申上げた時間頃に同家からパンを自転車の荷掛に箱に入れて荷造りして配達に出掛けたの
であります。
 栄町の駅通りをめぐみ屋を出て、本通り三丁目の方に向って来ますと、藤見亭旅館の前
付近を、駅の方に向って歩いておる佐野さんの女の子と会ったのであります。
 私は自転車で走っておったので、気が付かずにおると、女の子が私を見付けてパンヤさ
んと云って呼ばれたのであります。見ると、得意先であります佐野さんの処の女の子であ
りますので、私はどこへ行くのと声を掛けてそのまま通り過ぎて了ったのであります。
 私は毎日佐野さんの家にパンの配達に行っておりますので、子供さんは良く知っており
子供さんの方でも私をよく知っておるのであります。子供は此の時、私は気が付きません
が一人で歩いておったと思います。
 そして私は最初に配達した処は佐野さんの家で、同家では昼食を食べておりました。本
日佐野さんの家の子供さんが何処かへ行って了った話を聞いて喫驚したのであります。

 その後、長谷川睦は、警察官の二回目の調べがあった(第二回供述調書29・6・6山下
馨員調/赤堀政夫の逮捕後に赤堀政夫を犯人として見せられた)時には、「私は本年三月
十日の日の十二時少し前頃に市内快林寺小路で、二十五、六才の男の人が、六、七才の女
の子(佐野久子ちゃん)を連れて快林寺の方から本通りの方に向って歩いて来るのに、行
会ったのでありますがこの事については、前申し上げた通りであります」とふれただけで
あった。だが、長谷川睦が、裁判の公判で証人に立った時(第一審第十四回公判32・3・
11や第二審第一回公判33・10・29)の証言では、犯人と久子に出会った時の状況について
少し詳しく語っているので、次にそれを引用して見てみよう。
まず長谷川睦が、第一審第十四回公判(32・3・11)の証言で語ったところによると、

問(矢部孝裁判長)証人は昭和二十九年二、三月頃は、どこに住んでおったか。
答(長谷川睦)やはり現在と同じで、大津通りの増野という豆腐屋の店員をしておりまし
  た。
問 そこと快林寺との位置的関係は。
答 余程離れております。
問 証人は昭和二十九年頃、豆腐屋の店員をしておって、外に出回るようなこともあった
  か。
答 豆腐の配達に出回ることはありました。
問 証人は、久子ちゃんという女児がいなくなったのを知っているか。
答 知っております。
問 久子ちゃんがいなくなったという日、証人は快林寺の前の小路の方へ行ったことがあ
  るか。
答 はい、その日のお昼か、大体お昼近くの頃だったと思いますが、島田市六丁目の大住
  という家へ豆腐を置きに行って帰りに、国道からかね万という酒屋の角を右に曲って
  快林寺の小路へ入って行った訳です。
問 その時、証人は、歩いておったか。
答 自転車に乗っておりました。
問 そこの小路を通るのが、証人が増野方へ帰る順路か。
答 そうです。だからその時も、帰りがけにそこを通った訳です。
問 そこの小路の道幅は。
答 快林寺小路は、道幅は七尺位と思います。とに角、一間そこそこの広さです。
問 その日、証人が通る時、快林寺小路は人通りは多かったか。
答 そんなにありませんでした。
問 天気はどうだったか。
答 天気は良かったと思います。
問 そこの小路を通る時、証人は誰かと会わなかったか。
答 久子ちゃんという女の子と会いました。
問 どの辺で会ったのか。
答 かね万という酒屋の裏口が快林寺小路に面して三つあるのですが、私がかね万の角を
  曲ってその裏口の二つ目か三つ目の間辺りまで行った時に、久子ちゃんを連れた男の
  人に会った訳です。
問 その人達は、どちらの方へ行ったのか。
答 快林寺の方から来て、旧国道の方へ向って歩いておりました。
問 連れられていた女児というのは、何才位だったか。
答 七、八才でした。
問 証人は、それ以前から、久子ちゃんを知っておったか。
答 知っておりました。
問 いつ頃から知っておったか。
答 久子ちゃんの家が、八百屋である関係で、私は豆腐を卸しに行っておりましたから、
  知っておった訳です。
問 久子ちゃんと話などをしたこともあったのか。
答 ありました。
問 その日、快林寺の小路で会った時は、二人連れだったのか。
答 そうです。男の人と二人でありました。
問 その男の人は、どんな感じの人であったか。
答 ちょっと見たところ、親戚の人のように話をしておりました。
問 どちらから話をしておったか。
答 どちらともなく話していました。
問 二人は、くっついて、歩いておったか。
答 ちょっと離れて歩いておりました。それで私は自転車に乗った侭、ただ行き会っただ
  けです。
問 会った時、証人は言葉を交わしたか。
答 交わしません。
問 立ち止りもしなかったか。
答 立ち止りもしません。
問 久子ちゃんと一緒に歩いておった男の様子について記憶があるか。
答 二十四、五才の男に見えました。
問 一見してどんな人のように見えたか。
答 職業などは分りませんが、馴れ馴れしく話をしているような状態から、久子ちゃんの
  親戚の人のように見えました。
問 快林寺小路で、久子ちゃんと一緒に歩いていたその男も、その時、初めて見る人だっ
  たのか。
答 そうです。
問 久子ちゃんがそのような男と歩いて行くのを見掛けた時に、変だなという感じは受け
  なかったか。
答 そういう感じでは全然起しませんでした。
問 証人はそこで行き会って、それからどうしたか。
答 ただそこですれ違っただけでその侭増野豆腐店へ帰った訳です。
問 帰った時、大体何時頃であったか。
答 お昼ちょっと過ぎか、お昼頃だったと思います。
問 久子ちゃん達と行き会った所から、増野方までどの位かかるか。
答 自転車で十五分位です。
問 その後、久子ちゃんがいなくなって騷ぎ出したことを知っているか。
答 知っております。
問 証人は警察の方から聞かれたようなことはないか。
答 あります。
問 いつ頃か。
答 久子ちゃんと会った、その三月十日の夕方、五、六時頃だったと思いますが、私が久
  子ちゃんの家へ集金に行ったら、久子ちゃんがいなくなったと大騒ぎをしており、私
  に「知りませんか」と聞くので、私は、お昼頃に快林寺小路で見たことを話した訳で
  す。それで警察から聞かれた訳です。
問(高島裁判官)三月十日に快林寺小路で会った時、その男の顔は見えたか。
答 瞬間的に見たから、はっきりは分かりませんが、頭の毛がボサボサで、面長というよ
  うな印象だけでありました。
問 その男は、顔は起こしておったか、うつむいておったか。
答 ちょっと前かがみであったように思います。
問 久子ちゃんとは大きな声で話しておったかどうか。
答 余り大きな声ではありませんでした。とに角、その男の人が久子ちゃんに話かけて行
  くようにしておったように思います。
問(大蔵主任弁護人)かね万の角を曲った時に、直ぐ久子ちゃんだということが分かった
  か。
答 分かりました。
問(鈴木弁護人) 快林寺小路で会った時、久子ちゃんに気がついたのは、行き会うどの
  位前か。
答 はっきり分かりませんが、見えた時、直ぐ、久子ちゃんが来たなと分りました。

 また、長谷川睦が、第二審第一回公判(33・10・29)で語ったところによると、

問(大蔵弁護人)証人は昭和二十九年三月十日、佐野久子が殺された事を知っているか。
答 知っております。
問 証人は前から佐野久子を知っているのか。
答 知っております。私は豆腐屋で働らいておりましたので、佐野の家には卸しに行って
  いた関係で両親も子供も知っているのです。
問 証人は当日快林寺から旧東海道方面に出る路上で久子に会ったのか。
答 そうです。快林寺山門から真すぐに東海道え出られますが、その東海道の角にあるか
  ね万酒屋の裏木戸のあたりの路上であったのです。
問 その時の久子の様子はどうであったか。
答 親戚か知合の人と行くように話ながら通りました。
問 証人は男を怪しいと思わなかったか。
答 別にそうは思いませんでした。
問 証人は声をかけなかったのか。
答 声はかけませんでした。
問(鈴木主任弁護人)証人は擦れ違う時に久子に気がついたのか。
答 私は東海道から自転車に乗って快林寺山門に通ずる露地に入った時、直ぐ擦れ違った
  のです。
問(杉本覚一検事)久子と男と何れが先に歩いていたか。
答 久子の方がやや遅れておりました。

 一方、小林和夫が、第一審第十四回公判(32・3・11)で証言したところによると、

問(矢部孝裁判長)昭和二十九年三月頃、証人はどこで何をしておったか。
答(小林和夫)現住所と同じ所に住んで、お菓子の卸しをやっておりました。それで、小
  売店へ私自身配達して歩く仕事をしておりました。
問 昭和二十九年三月十日はどうか。
答 それは久子ちゃんという女の子がいなくなった日ですが、やはりその日も同じように
  菓子の配達をやっておった訳です。
問 主としてどちら方面をやっておったのか。
答 島田市内全般をやっておりました。
問 三月十日のお昼頃は、どこをやっておったか。
答 島田駅前通りの方面をやっておりました。
問 その時、久子ちゃんという女の子が歩いているのを見たことがあるか。
答 久子ちゃんから呼ばれたので、私が返事をしたことはありました。
問 その場所はどこか。
答 私が島田駅前通りを、駅の方から旧国道の方に向って道の左側を自転車に乗って通行
  して来たら、旧国道と駅前通りと交わる床屋の角から二十メートル位駅の方へ入った
  所から、その女の子が呼んだのです。
問 その時、その女の子は証人からどの位の距離の所におったか。
答 少し離れておりました。五メートル位か、その位は離れておったと思います。
問 その時、女の子はどうしておったか。
答 やはり、駅の方に向って歩いておりました。
問 証人は、その女の子は前から知っておったか。
答 商売上、その女の子の家へもお菓子を卸しに行ったりしておったので、知っておりま
  した。それで、前からその女の子と話をしたこともありました。
問 女の子は、証人に対して何と声を掛けたのか。
答 「にいさん」と呼んだのです。それまで私は気がつかなかったです。
問 それで証人はどうしたか。
答 呼ばれて気がついたが、振返って見て、その侭どんどん行きました。
問 通り過ぎてから、声を掛けられたのか。
答 通り過ぎてからでしょうよ。
問 女の子は一人で歩いていたのか。
答 一人ではありませんでした。
問 その時、その辺は、通行人が大勢あったか。
答 そんなに大勢もありませんでした。余り通行の激しい時ではありませんでした。
問 女の子は一人ではなかったというが、何人だったか。
答 小父さんみたいな人と二人で、駅の方へ歩いて行きました。
問 女の子と、その小父さんみたいな人との間隔はどの位だったか。
答 そこまでは覚えがありません。
問 小父さんみたいな男の人は、やはり証人の方へ顔を向けておったか。
答 よく分かりません。誰か小父さんみたいな人が一緒にいるということは分りましたが
  その男の様子については、はっきりと記憶がありません。
問 女の子から声を掛けられたのは何時頃か。
答 記憶がありません。
問 久子ちゃんという女の子がいなくなって騷いだということは、その後知ったか。
答 新聞で知りました。
問 駅前通りは、人通りが激しい訳でもないのか。
答 汽車の発着の時は、非常に人通りが多いが、それ以外の時間には、そんなに人通りの
  多い所ではありません。

 また、小林和夫の第二審第一回公判(33・10・29)での証言によると、

問(大蔵弁護人)証人は昭和二十九年三月十日佐野久子が殺された事を知っているか。
答(小林和夫)知っております。
問 証人は佐野久子を知っているのか。
答 知っております。私は当時パンを久子の家え卸していた関係で知っているのです。
問 証人は当日久子にあったのか。
答 あいました。場所は東海道から駅前に通ずる通りにある「花風車」という喫茶店付近
  でした。私は自転車に乗って駅から東海道に向って来たのですが、その時「オイ、オ
  兄チャン」と私を呼んだ声にふり帰って返事をした時に久子を見たのです。
問 その時男の人はいたか。
答 気がつきませんでした。
問 証人が振り返って久子を見た時、距離はどれ位あったか。
答 記憶しておりません。
問(鈴木主任弁護人)証人はおじさんのような人と二人で駅の方え行くのを見たと述べて
  いるがどうか。
答 そう云われれば連れがあったような気がします。
問 特に変な人と歩いているという印象は受けなかったか。
答 背の低い人という感じがします。
問 その時一人で歩いていたか連れがあったかの点聞かれなかったか。
答 傍に人がいたような気がしました。
問 当時久子の近くには他に人通りは多かったか。
答 余りいませんでした。
問(中野保雄裁判長)証人がふり返って見た時久子との距離は五米位と原審で述べている
  がどうか。
答 それ位の距離でした。

 と、その時の様子について述べている。
 赤堀政夫が、本通りから駅前通りを通って行った時、「人通りは仲々多かった」、「人
通りの多い本通りや栄通り(筆者注・駅前通り)を歩くのに、──恥ずかしいので、──
早く人通りのない所へ行きたいと一生懸命でした」と述べているのに対して、快林寺小路
での目撃者・長谷川睦は、「その日、証人が通る時、快林寺小路は人通りは多かったか」
という質問に対して「そんなにありませんでした」と答えている。
 また、小林和夫も駅前通りで久子から呼びとめられた時、「その時、その辺は、通行人
が大勢あったか」という質問に「そんなに大勢もありませんでした。余り通行の激しい時
ではありませんでした」と答え、また「駅前通りは、人通りが激しい訳でもないのか」の
質問に対しては、「汽車の発着の時は、非常に人通りが多いが、それ以外の時間には、そ
んなに人通りの多い所ではありません」とも答えており、二人とも快林寺小路や駅前通り
がそれぞれ「この時の人通りは少なかった」ことをはっきりと証言している。
 ちなみに、二十九年三月当時、犯人と久子が駅前通りを歩いて行く正午過ぎ前後の島田
駅を通過する列車の発車時間は次の通りである。(交通博物館所蔵の時刻表による)
  ────────────────┬────────────────┐
  │上り 島田発富士行 10・58島田発│下り 東京発大阪行 11・05島田発│
  │   米原発東京行 13・11島田発│   東京発浜松行 11・58島田発│
  │                │   東京発京都行 13・23島田発│
  └────────────────┴────────────────┘
 ほかに、下り午前十一時五十八分と午後十三時二十三分の列車の間に、大阪行急行『つ
ばめ』が島田駅を通過するだけである。したがって、事件のあった三月十日の駅前通りの
人通りに影響を与えた列車は十一時五十八分島田発の浜松行のひと列車だけであった。そ
の列車も十一時五十八分には島田駅を発ったことになっている。列車が島田駅に到着する
のはそれ以前であり、列車に乗る人が通常駅に向かう時刻は、それよりも前である。そし
て、島田駅から下車する人がホームの一番はしから歩いていくとしても、列車出発の二分
三十秒後には駅の改札に出ることになる。
 ところで、犯人と久子が快林寺を出た時間は、なるべく早く駅に到着するように設定し
ても、中野ナツの家の前を通り過ぎて直ぐにお昼のサイレンが鳴って、十二時になったと
いう事実は動かせない。この時間を遅らせて、快林寺小路を大分本通り寄りのかね万酒店
の家沿いに行ってから鳴ったようにしても、本通りへ出て犯人と久子が右に曲がって行く
時には、中野ナツが家を出て堤防へ向かうことになるが、お昼のサイレンは中野ナツが家
を出る前に鳴っている。
 ところが、犯人と久子が、快林寺を出て駅前通りを通って駅にたどり着くまで、通常の
大人の普通の早さ(それ以上に早く歩くと大人の駒下駄を履いて歩いている久子が犯人に
ついていけなくなる)で歩いたとして、いったいどれくらいかかるだろうか。わたしたち
が一九七九年三月十一日に行なった現地調査(この時の調査の条件は、二人の子供〔三才
九カ月と三才六カ月〕を伴って、履物は運動靴を履かせていた)では、駅にたどり着くの
にかかった時間は、早足で歩いて八分三十秒、普通に歩いて十二分であった。
 しかも、快林寺本堂前を出て快林寺小路を本通りに出る所まで歩く時間を、改めて計っ
たら、早くて三分五秒、普通に歩くと三分十五秒かかった。また、中野ナツの家の前から
本通りに出るのに一分五秒かかる位置にある。さらに、駅前通りを通って島田駅に着く時
間は、早足で歩いたとしても六分三十秒、普通に歩くと約十分かかっている。(わたしが
一人で歩いても六分かかった。)そこで、十二時になってから本通りに出るまでにかかっ
た時間をとりあえず三十秒に短縮して計算しても、十二時七分頃にやっと島田駅に着くこ
とになる。この時間でさえ、汽車が発車してからすでに九分たっている。
 しかし、この設定は、犯人と久子が早足に近いかたちで歩いたとして計算した時間であ
り、実際は、この時間から三分三十秒後までの時間のあいだで歩いたことになるだろう。
でも仮に、犯人と久子が、十二時七分に駅に着くように駅前通りを歩いたことにする。
 そうすると、十一時五十八分に島田を発った浜松行の列車を下りて駅前通りを歩いて来
る人と駅前通りの中間よりも本通り寄りのところで、犯人と久子は駅から歩いてくる人と
すれちがったことになり、この場所は小林和夫のいう、旅館藤美亭と花風車の間である。
そうすると、この日、小林和夫は、自転車に乗って駅から歩いてきた人たちを追い抜きな
がら、犯人と久子にすれちがったことになる。
 ところが、赤堀政夫は、「私はこんな子供をつれて歩く事が気がとがめて少しうつむい
て割合早く歩いたのです」(第四回供述調書)、「早く人通りのない所へ行きたいと一生
懸命でした」(第六回供述調書)と述べているのに対して、第一回検事調書では「小さい
女の子の足ですから時間は相当かかったと思います」と述べており、始め早く歩いたこと
にしていたのを、検事調書では、時間がかかったといっている。
 小林和夫が、駅前通りで久子から呼びとめられた時、通行人は「そんなに大勢もありま
せんでした。余り通行の激しい時ではありませんでした」としている。
 そこで、赤堀政夫が、供述している「本通りも駅前通りも人通りは多かった」という事
柄は、この時に限っていえば、存在していた可能性はさらに少なくなる。
 しかも、乗客が列車をおりる時間は実際には、列車が発車する十一時五十八分よりも一
、二分前ということになる。それに、駅に向かう人は一点に集中することになるが、駅で
列車をおりて歩いて来る人は分散することになる。またこの時、これから駅に向かおうと
する人に会う可能性はさらに少なかったといえる。
 だから、三月十日の正午すぎの快林寺小路の人通りは、「そんなにありませんでした」
という長谷川睦の証言や、駅前通りは、「汽車の発着の時は、非常に人通りが多いが、そ
れ以外の時間には、そんなに人通りの多い所ではありません」という小林和夫の証言の方
が、この時の現場状況に合っていることになる。そして、快林寺小路や駅前通りの人通り
が少なかったから、目撃者は二人しか現れなかったともいえる。
 さらに、長谷川睦が目撃した時、犯人と久子の二人は「ちょっと見たところ、親戚の人
の様に話をしていました」、「馴れ馴れしく話をしているような状態から、久子ちゃんの
親戚の人のように見えました」、「余り大きな声ではありませんでした。とに角、その男
の人が久子ちゃんに話かけて行くようにしておったように思います」という状況だった。
それにもかかわらず、赤堀政夫の供述調書では、快林寺小路で佐野久子に話しかけたこと
をひとことも述べていない。
 また、駅前通りで犯人と久子を目撃した小林和夫は、久子と擦れ違った時、久子から特
に「パンヤさん」、または「にいさん」、あるいは「オイ、オ兄チャン」と呼びかけられ
ていた。だが、小林和夫が振り返った時、犯人の姿は目に入らなかったというのである。
だから小林和夫が、「どこへ行くの」(29・3・11山下馨員調)と久子に声をかけていて
も、犯人がこの小林和夫の声を聞き逃すことも充分ありえることである。だから、赤堀政
夫が佐野久子に呼びかけた小林和夫の声を、供述調書に述べていないからといって、それ
をもって、赤堀政夫の供述調書が、真実を述べたものではないとすることはできないかも
しれない。
 しかし、繁華街とはいえ人通りの少ない静かな通りを、佐野久子は赤堀政夫と一メート
ルと離れていない距離(女の子は私の直ぐ後に殆んど並ぶ様にして来ました)で、突然、
自分以外の人に声をかけるのである。気がとがめながら歩いていたという赤堀政夫にとっ
て、これは、ビクッとするような突然の出来事になる。ところが、赤堀政夫は、佐野久子
が小林和夫に声をかけた事実を供述調書の中でひとこともふれていない。
 小林和夫が山下馨員調で述べている久子に「パンヤさん」といって声をかけられた事柄
を除く、長谷川睦と小林和夫によって明らかにされた事実もまた、赤堀政夫の取り調べ段
階で、警察官が知り得なかった事実になる。また、小林和夫が久子に「パンヤさん」とい
って声をかけられたことを述べた調書の作成には、山下馨が当たっており、一方で、赤堀
政夫の供述調書を作成したのは、相田兵市であるところからして、赤堀政夫の取り調べに
あたった相田兵市が、この事実を見落としていたということもある。
 だが、取り調べの時の捜査官のミスが、そのまま赤堀政夫の阿部太郎検事調書に反映す
る始末。しかしこれも、赤堀政夫が犯人であるならば、警察官の誘導を受けることなく、
任意に供述できた事実なのである。それにもかかわらず、赤堀政夫は、これらの事実を、
取り調べ官たちに供述していないばかりか、検察官の取り調べの時においてさえ供述して
いない。
 かつて、弁護側も第一審の弁論において、「被告人は島田市で育ったものであるから、
佐野久子を伴い、白昼人通りの多い駅前通りを通ったことは不合理であり、また快林寺境
内には相当人が出ていた(筆者注・これは、赤堀政夫の供述調書や五藤大善の証言に基づ
いている)はずであることゆえ、被告人を面識しているものが一人もないということは、
条理上あり得ないという」と、第一審の裁判長・矢部孝もその判決文の中で留意した主旨
の弁論を行なった。ところが、これに対して矢部孝裁判長は、「しかし、犯人が判事のご
とき経路で佐野久子を犯行の場所まで連れ歩いたことは、各目撃証言の供述によって明ら
かである」と、犯行にあたって佐野久子を連れ歩いた経路が一致していることをあげて、
各目撃者の証言と赤堀政夫の自白が矛盾していない根拠にしただけであり、具体的な事実
がどうであったか、という点については何も検討していない。
 だから、各目撃証人が目撃した犯人と久子の行動が、赤堀政夫の自白と違っていること
をこれまでも述べているにもかかわらず、赤堀政夫の供述した細かな状況描写が、そのま
ま真実であったかのような錯覚を、この後も裁判官たちは持ち続けることになる。そのい
い例が、第四次再審の棄却決定文を書いた静岡地裁の裁判長・伊東正七郎であった。この
伊東正七郎は、「講堂の中は人が一杯で人と人の間から覗いた」ということを事実である
として信じてしまい、疑いを差し挟む余地を持ってなかったものだから、この時の目撃者
の証言と照らし合わせた上で赤堀政夫の供述調書が事実であったかどうかを認定すること
すら怠っているのである。
 だが、いままでのところ、赤堀政夫が久子を伴って歩いた経路以外のことで、赤堀政夫
の逮捕後に明らかにされた目撃者の証言内容に一致するような事実を述べた個所は、自白
の中に見当たらない。赤堀政夫は、自白調書で犯人なら知りえた「秘密の暴露」に当たる
事柄を、具体的に何一つ述べていない。
 ところが、赤堀政夫が、この後、佐野久子を伴って島田駅線路下のトンネルを通って行
ったことを供述していることをあげて、第一審の裁判長・矢部孝は、その判決の中で「犯
行の場所として判示の場所を選んだこと、そこに通ずる道として、島田駅線路下のトンネ
ルを通る道があることを知っていることは徴すれば、その犯人が島田市及びその近郊の地
理に明るいものであるといわなければならない」という根拠にしている。
 しかし、この後、犯人と久子が「島田駅線路下のトンネル」を通って行くほかに道がな
かったことは、すでに、目撃者からの聞き込みで捜査当局が知りえていた(70頁29・3・
25付『捜査報告書』を参照)のである。けれど、赤堀政夫が久子を連れ歩いた経路や「島
田駅線路下のトンネル」を通ったいうことだけが目撃証言と一致して、ことさらのように
、「秘密の暴露」として赤堀政夫が供述調書の中で真実を述べた事柄としてあげているこ
とは、逆に、取り調べ捜査官の誘導があったことを物語る事実にもなりかねないことなの
である。赤堀政夫は自白で、取り調べ捜査官が知らなかった事実をこの後も何一つ述べて
いないからである。
 

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