− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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〔十六〕中野ナツの目撃証言(二回目以降)
 
 赤堀政夫は、佐野久子を連れて駅前に出てから、その先のことについて、次のように供
述調書の中でふれている。

第四回供述調書(29・5・31相田兵市員調)
 私は幼稚園を出る折から大井神社や学校は人間が多いから大井川のグランドあたりでこ
の子をものにしてやろうと考えたのです。そして私は駅前の広場を通り駅西のガードの所
へ参りましたが、ガードは子供が恐がるだろうと考へ、ガードの入口で子供をおぶいまし
た。ガードを通ってからは子供を歩かしたり時々おぶったりして真直に東海パルプ横井工
場の所に出、大井川の旧堤防を横切り横井グランドの中に入りグランドを突切って川原の
畠に出ました。
 そしてやるによい所はないかと思いましたが、畠の下の河原は大きな石がごろごろして
いるし、又旧堤防かち丸見えなので新堤防の向うはよい所があるかもしれんと新堤防へ上
ったのです。所が新堤防の西側はすぐ川になっており、おりられんので其のまま子供を負
って新堤防の石垣の上を端の方を向いて歩きましたのです」
 第六回供述調書(29・6・2相田兵市員調)「ガードの中を通る時子供をおぶった事は
前申した通りですが、ガードを出て一度子供をおろし又製材の所からおぶったのですが、
そのまましばらく歩き又おろしました。そして東海パルプ横井工場の所へ出る前に又おぶ
い其のままグランドを横切り新堤防の端を下った所迄参り又砂地の所で子供をおろし川原
を歩かせました。
第十回供述調書(29・6・8相田兵市員調)
 幼稚園から現場へ行く迄の私がつれていった女の子の様子を申し上げます。幼稚園から
ガードの北側からは私が遊びに行こうと言う事につられ私のあとへちょこちょこついてき
ましたが、ガードの入口でおぶい、ガードを通り南の出口から少し行ったところでおろし
ましたがその時小さい声でおじちゃんおうちへ行きたいようと言いました。私はいい子だ
ねすぐおうちへいくから泣くのは(不明・当字)およしねとなだめました。その外は余り
言いませんが蓬莱橋を渡って──。
第一回供述調書(29・6・12阿部太郎検調)
 それで私はその女の子の手は引きませんでしたが一緒にお寺の門を出て門前の道を真直
ぐにアスファルトの旧国道に出て右に曲り十字路を左に曲って島田駅前広場に出て駅に向
って右手の道を行き駅西方の狭くて低いトンネルの様なガァードの前に行きました。ここ
まで歩いて来るのに私は人になるべく顔を見られない様に俯向いて歩き女の子は私の直ぐ
後に殆んど並ぶ様にして来ましたが小さい女の子の足ですから時間は相当かかったと思い
ます。
第二回供述調書(29・6・13阿部太郎検調)
 昨日私は女の子を連れて私が一足先になって歩き島田駅西方のガアードの所まで来た事
を申上げましたが此のガアードは上に東海道線の線路がありますが、昼でも薄暗いので子
供は恐がるだろうと思いガアードの前で女の子を背負い女の子が履いて居た女物の大人の
下駄を背負った手で後手に持ち其のガアードを通りぬけ橋を渡って少し行ったところにあ
る一文菓子屋の前で女の子を背中から下して一緒に歩き暫く歩いてから背負ったりまた歩
かせたりしながら其の道を行き東海パルプ横井工場のコンクリート塀にそった道を右に進
み大井川の旧堤防を横切り横井グランドの右手の小路を通らずに真直ぐにグランドの中を
突き切り河原に出たのであります。
 そして此の辺で女の子をやろうかと思いましたが大きな石がごろごろしているし旧堤防
の方からまる見えだので新堤防の向ふ側にいい場所はないかと思って新堤防の上に女の子
を背負った侭上りました。
 ところが新堤防の南側は河の水が流れて居り下りる事も出来ませんので石垣の様になっ
て居る新堤防の上を大井川下流の東に向って歩きました。其の時私は南の河向うを見ると
人気のない山なのであの山の中なら人にも見られず旨くやれると思い蓬莱橋を渡って山の
中に行く事にしました。そして新堤防を下りて河下に向って女の子と一緒に歩いたり背負
ったりしながら河原を歩き巾十米位の流れを女の子を背負って横切りました。

 以上が、赤堀政夫が供述調書の中で触れた内容である。ところが、家の前で、快林寺か
ら出て来た犯人と佐野久子をたまたま見ていた中野ナツは、その後、家を出て大井川の河
原にある畑へ向かって歩いて行く。そして、その途中、東海パルプ横井工場の前まで来た
所で、中野ナツは、この日、犯人と久子の二回目の目撃をするのである。中野ナツは、そ
の時の様子を、取り調べた警察官に次のように語っている。

中野なつ第一回供述調書(29・3・12山下馨員調)
 私は表通りを東に行って本通り四丁目の大黒屋洋服店の角を曲って大井町を通り島田駅
東の横井ガードの下を通り横井町のグランドへ行く道を真直ぐに行ったのであります。島
田市横井町の鈴木金苗さんの前まで私が歩いて行った時であります。同家の前にコンクリ
ートの橋がありますが、その橋の処で前に私方の家の前で見た女の子を連れた男の人と再
び出会ったのであります。
 此の時私はこの寒に此の人達は何処まで行くのかと思って見たのであります。此の人達
は私の歩いておる道に西方から来て一緒になったのであります。此の時に私の方が先で子
供を連れた人は子供を歩かして私の後を歩いて来たのであります。
 私は堤防へ出て少し東に下り開墾畑に行ったのでありますが、子供を連れた男の人はグ
ランドの西側を大井川の川原の方へ行く道がありますがその道を通って川原の方へ行った
様であります。私が仕事に掛かってからであります。何気なく川原の方を見ると此の男の
人は連れておった女の子を背負って新堤防を東に向って歩いておるのをみたのであります
が、それから先此の人達は何処へ行ったのか私も気に止めて見ておりませんでしたから知
りません。私共が仕事をしておる付近は通りませんでした。
 最初私方の前で見た時には女の子はセロハン紙の袋に入ったお菓子を一個持っておりま
した。中のお菓子は『オコシ』の様でありました。二度目に会った時には持っておりませ
んでした。
中野なつ・第二回供述調書(29・3・21山下馨員調)
 私は当日(本年三月十日)おひるのサイレンがなる少し前頃に横井グランド下の畑に仕
事に行くため家を出たのだが前にも申上げた通り家を出る時と東海パルプ横井工場の前と
で二回緑色の服を着た女の子をつれている二十五、六歳の男の人に会っておりパルプの横
井工場の処では私の方が先になったので其のまま私は旧堤防に出てグランドの北を川下に
下りまして土手の下の家の畑へ入り先に行っておった私の夫が馬鈴薯の植付をしていたの
で私も一緒になって植付を致したのであります。
 私は一寸して何気なく南の方を見ると新堤防の上を西の方から先程申上げた男の人が女
の子をおぶって東の方へ歩いて行くので見ました。私は其の男の人が堤防の端から十四、
五米位の地点から東へ四米位(十足位)歩いたことは知っていますがその後のことは気に
も止めませんのでそれからどっちの方へ行ったのか存じません。私はその日は寒い曇った
日でしたからあの人は子供をつれてこの寒いのにどこに行くのかと思って見たのでありま
す。その時女の子は別に泣いている様子もなく、遠くのことでよくも判りませんがおとな
しくおぶさっていた様子でありました。

 これに加えて、中野ナツは、二十九年八月六日の第一審第二回公判の時にも次のように
法廷で語っている。

問(阿部太郎検察官)それで証人はどうしたか。
答(中野ナツ)私は東海道を左に曲り、更に右に曲って横井を通って畠の方へ真直ぐに行
  きますと、東海パルプ工場の所の丁字路の所で又その男と女の子の二人に会ったので
  す。なおその時は女の子は歩かせておりました。それから私が大井川の土手にのぼっ
  て畠へ行くと、今度はその男が女の子をおぶって新堤防を通るのが見えました。
問 結局、証人はその日、女の子を連れた其の男の人を何回見ているのか。
答 三回見ている訳です。第一回目には私の家の前を通って行くのを見て、第二回目には
  東海パルプ工場の塀の付近で見て、第三回目には、新堤防をおぶって通るのを見まし
  た。
問(大蔵弁護人)何か、ものを言っておったか。
答 別に話もしていず、何にもものは言ってなかったと思います。しかし、横井のパルプ
  工場の前で見た時には、女の子は大分からだが疲れているようでした。
問 そうすると、パルプ工場のそばで見た時には、女の子も歩いておったのか。
答 そうです。
問 男の人は、ずんずん先に歩いて行くのか。
答 並んで歩いておりました。

 また、第六回公判(29・12・15)の検証時の尋問で、中野ナツは、矢部孝裁判長の質問
に次のように答えている。

問(矢部孝裁判長)横井グランドの所の大井川の新堤防はその当時と変っておるかどうか
  。
答(中野ナツ)新堤防中、西端の方が十四号台風の時に切れてしまって現在もその侭にな
  っておりますので、その点が当時とは変っておるだけです。
問 証人が新堤防の上を歩いて行く子供連れの男を最初に見た時は、その男はどの辺を歩
  いていたか。
答 先程検証の時にも申し上げましたが、横井グランド東方の旧堤防寄りの畠の所から私
  は見たのですが、そこと新堤防の間に松が二十本位並んで生えており、その一番右側
  の松の木を見通した線上の新堤防の上を川下に向って歩いて行く姿を見た訳です。
  そうして最初に見たのは、その地点より下手のやはり堤防上で、二十本ばかりある松
  の左即ち下手から五本目の松を見通した新堤防の上を歩いているところでした。それ
  からは何処へ下りたのか、全然姿は見ておりません。
問(阿部太郎検事)その子供連れの男が旧堤防から新堤防へ出る時にはどの道を通って行
  ったか、証人は見ておらない訳か。
答 それは見ておりません。どこを通って新堤防へ出たかということは判りません。
問(大蔵弁護人)証人が東海パルプ会社の所の橋の付近で子供連れの男と会った時、その
  男達はもう橋を渡っておったのか。
答 まだ橋は渡っていませんでした。私は直ぐこちら側の道におって、その男と子供はま
  だ橋にかかっておりませんでした。
問 その時、女の子をおぶっていたか。
答 おぶってはおりませんでした。連れて歩いておりました。
問 証人は畠へ行く時、手に鍬か何か持っておったか。
答 畠の土を叩く「オオ」を持っておりました。
問 「オオ」とはどういうものか。
答 「かけや」の小さいようなもので、かけやよりももっと柄が長いものです。それを一
  本持っておりました。
問 子供連れの男が新堤防の上を歩いていた時には証人は畠仕事をやっていたのか。
答 仕事をやっておりましたが、寒いので手を休めて、ひょっと見たのです。

 以上が、中野ナツの第一審の第二回公判(29・8・6)と第六回公判(29・12・15)の
検証時の尋問における証言である。
 中野ナツは、始め(第一回供述調書29・3・12山下馨員調)では「同家の前にコンクリ
ートの橋がありますが、その橋の処で前に私方の家の前で見た女の子を連れた男の人と再
び出会ったのであります。此の時に私の方が先で子供を連れた人は子供を歩かして私の後
を歩いて来たのであります」と、警察官に語っていた。中野ナツは、この時犯人と久子が
どこら辺を歩いていたのか正確には証言していなかった。
 ところが、中野ナツは第一審の第二回公判(29・8・6)になって、「東海パルプ工場
の所の丁字路の所で又その男と女の子の二人に会ったのです。なおその時は女の子は歩か
せておりました。(そうすると、パルプ工場のそばで見た時には、女の子も歩いておった
のか)そうです。(男の人は、ずんずん先に歩いて行くのか)並んで歩いておりました」
と、証言している。
 さらに、第六回公判(29・12・15)の時には、「(証人が東海パルプ会社の所の橋の付
近で子供連れの男と会った時、その男達はもう橋を渡っておったのか)まだ橋は渡ってい
ませんでした。私は直ぐこちら側の道におって、その男と子供はまだ橋にかかっておりま
せんでした。(その時、女の子をおぶっていたか)おぶってはおりませんでした。連れて
歩いておりました」と答えているのである。
 ところが、赤堀政夫は、この時「東海パルプ横井工場の所へ出る前に又おぶい其のまま
グランドを横切り新堤防の端を下った所迄参り又砂地の所で子供をおろし川原を歩かせま
した」(第六回供述調書29・6・2相田兵市員調)と証言している通り、東海パルプ横井
工場の橋へ出る前におぶい、そのままグランドを横切って歩いて行ったとしているのであ
る。
 この点について赤堀政夫は、その後の第二回供述調書(29・6・13阿部太郎検調)でも
証言を変えておらず、「暫く歩いてから背負ったりまた歩かせたりしながら其の道を行き
東海パルプ横井工場のコンクリート塀にそった道を右に進み大井川の旧堤防を横切り横井
グランドの右手の小路を通らずに真直ぐにグランドの中を突き切り河原に出たのでありま
す」と供述している。
 繰り返すまでもなく、中野ナツが、犯人と久子を東海パルプの前の道で見た時、二人は
「私は直ぐこちら側の道におって、その男と子供はまだ橋にかかっておりませんでした」
という状態で、橋の手前付近まで来ていて、まだ橋にかかっていない二人を中野ナツは目
撃したことになる。ちなみにこのコンクリート橋の長さは、多めに計って約三メートル五
十の長さであった。そして、「私の後を歩いて来たのであります」というように、この時
の中野ナツの後を歩いて行った犯人と久子の距離は数メートルと離れていなかったことに
なる。しかもこの時、赤堀政夫が言うように、久子は犯人におぶわれていたのではなく、
犯人と並んで歩いていたのである。
 つまり、橋を渡った犯人と久子は、中野ナツの数メートル位後を歩いていくのである。
ところが赤堀政夫は、数メートル先を歩いて行く、「オオ」を持ったおばあさんの姿を記
憶していない。そのおばあさんが、快林寺小路で会った人だということが、例え分からな
かったとしても、目の前を「オオ」を持って歩いているおばあさんがいたという事実は、
伏目がちに歩いている者であっても決して見落とすものではない。しかし、ここでも赤堀
政夫は、いくつもある供述調書の中で、中野ナツの後姿を見たということにひとこともふ
れていない。
 中野ナツは、赤堀政夫の逮捕前に警察官に調べられた時には、「此の時に私の方が先で
子供を連れた人は子供を歩かして私の後を歩いて来たのであります」、「パルプの横井工
場の処では私の方が先になった」とこの時の状況をおおまかに述べていただけである。そ
して、中野ナツが犯人と久子を東海パルプの前の道で見た時、二人は「まだ橋にかかって
おりませんでした」と証言しているだけであり、橋の手前付近まで来た時、犯人が女の子
を連れて歩いていたことを明らかにしたのは、これもまた、二十九年十二月十五日の第一
審第六回公判になってからのことである。
 したがって、「久子と並んで歩いて、中野ナツの少し後を歩いて行った」事実に関して
も、赤堀政夫は、警察官の誘導訊問に会うことなく供述できた事実になる。ところが、こ
の事実もまた、赤堀政夫の供述調書ではふれていない。それどころか、中野ナツが目撃し
た時、犯人は佐野久子と並んで歩いていたにもかかわらず、赤堀政夫は、佐野久子を東海
パルプ横井工場の橋へ出る前におぶい、そのままグランドを横切って歩いていったと、全
く正反対の事実を供述している。
 ちなみに、二つのコースをほぼ同じ早さで一人で歩いて東海パルプの合流地点に着くま
での時間を計ると、中野ナツの歩いたコースよりも、犯人と久子の歩いたコースの方が一
分多くかかった。このことから当時、犯人と久子には、快林寺を出て東海パルプのところ
まで歩いて行く途中で、どこかに寄ったりする時間的余裕がまったくなかった。
 また、犯人と久子がお昼のサイレンが鳴る前に快林寺を出て、大井川の河原まで歩いた
コースを同じように歩いて費やした時間は、お昼をすませて大井川の堤防のところへのぼ
ってきた人が犯人と久子を目撃した時に証言した十二時四十五分頃という時間とほぼ一致
した。
 

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