− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
[戻る]

 
〔十七〕大井川河原の目撃証言
 
 赤堀政夫は、佐野久子を伴って新堤防から大井川の河原に出て、さらに旧堤防に上り、
蓬莱橋へ歩いて行くまでの状況について、次のようにそれぞれ供述している。

第四回供述調書(29・5・31相田兵市員調)
 その折、私は南の大井川向う岸を見ると山許りですからあそこへ行って山の深みならゆ
っくりやれると考へ、蓬莱橋を渡ろうと決心しました。そして新堤防の端から北の河原に
下り一度負った子供を下して歩かせました。そして大井川の河原を川下に向かって子供を
歩かしたり負ったりして参りましたが道々子供と話をし乍ら歩いたのです。河原を六、七
丁歩いて堤防へ上がりましたが河原から堤防へ上る間に一番深い所が二十糎位の巾八、九
米位の小さい流れがありましたので私は半長靴を履いていたので水の中をジャブジャブと
渡りました。そして堤防へ上がってから子供を下して堤防の上で北(町の方)を向いて小
便をしたのであります。この近くには松の木が並んでいました。それから蓬莱橋へ参りま
したがその折は子供はおぶっていました。
第六回供述調書(29・6・2相田兵市員調)
 河原の途中で又子供がつかれた様に見えたので、前申した通り堤防に上った所迄おぶっ
たのです。堤防の上で私は小便がしたくなったのでおろして小便をし堤防上を歩かせまし
た。そして橋番の小屋にかかる前に又おぶいそのまま山の中の現場迄行ったのです。私は
子供をおぶう度毎に其の子の履いていた下駄を自分の手に持ったのです。
第二回供述調書(29・6・13阿部太郎検調)
 ところが新堤防の南側は河の水が流れて居り下りる事も出来ませんので石垣の様になっ
て居る新堤防の上を大井川下流の東に向って歩きました。其の時私は南の方の河向うを見
ると人気のない山なのであの山の中なら人にも見られず旨くやれると思い蓬莱橋を渡って
山の中に行く事にしました。そして新堤防を下りて河下に向って女の子と一緒に歩いたり
背負ったりしながら河原を歩き巾十米位の流れを女の子を背負って横切りました。
 私は由比町で掻払ったゴムの半長靴を其の日も穿いて居たので水の中を其の侭歩いたの
です。そして堤防の上にあがり女の子を背中から下ろして松の樹が並んで居る付近で北の
方へ向いて立小便をしました。それから女の子と一緒に歩き蓬莱橋の橋番小屋の手前で女
の子を背負いました。

 これに対して、この日、大井川の河原で砂利取りをしていた松野みつ、橋本秀夫、橋本
すえの三人は、家へ昼食を食べに行って仕事場の大井川の河原に戻る途中、旧堤防に出た
ところで偶然、犯人と久子を目撃した。また、河原の砂利採取場へ行ってからも、旧堤防
に上って、大きな松の木の所で立小便をしていた犯人が、その後、久子を伴って蓬莱橋の
方へ歩いていくところを三人で目撃していた。この時の犯人と久子の目撃状況について、
この三人は、それぞれ次のように語っている。

松野みつ供述調書(29・3・17山下馨員調)
 先日、親子と思われない人が女の子を連れて大井川の川原を西の方から歩いて来るのを
見たのでありますが、そのことについて申し上げます。本月十日の日であります。時間は
午後0時四十分頃でありました。私は毎日弁当持で参りまして、昼飯は橋本秀夫さんの家
で喰べるのであります。
 砂利採取は橋本さんと橋本さんの弟の嫁さんであります、すえさんと三人でやっており
ます。此の人達もそれぞれ自宅に昼飯を喰べに行きますので、私も一緒に行くのでありま
す。昼飯は午後零時頃から一時頃までの間に喰べるのでありますが、此の日は少し早かっ
たのであります。
 私は昼飯を喰べ終って、午後0時三十分頃と思いましたが橋本さんと二人で橋本さんの
家を出て、大井川の堤防の方に来たのであります。橋本すえさんは、家が違いますので、
私共と一足遅れて来たのであります。
 橋本さんの家は、大井川北側堤防の北方二百五十米位の処で、同家の東の方に堤防に出
る広い道がありますが、私共はその道を来たのであります。砂利採取場所は、堤防に出た
処の上下の川原であります。
 私共が堤防上に出た時であります。大井川原の西南百米位の処を私共の方を向って若い
男の人が女の子を背負って歩いて来るのを見掛けたのであります。その内に背負っておる
子供をおろしました。私共は石掛けの堤防を川原におりたのでありますが、川原におりて
少し行った処に川が流れており、その川を渡って採取現場に行くのであって、私共が川原
へおりて東へ行った処に小さい橋をかけてあり、その橋を渡って現場に行ったのでありま
す。
 私共が川を渡ってからでありますが、堤防の上を見ますと、川原を歩いて来た此の人達
は既に堤防に上って東方の蓬莱橋の方を向って子供さんを背中からおろして歩いておった
のであります。その時は、百五十米位離れておりました。
 此の人達は、前申し上げた通り、蓬莱橋の方を向って行きましたが、私共は直ぐ仕事に
取り掛かったので、後はどうなったか判りません。

 また、松野みつは、証人として第一審第二回公判(29・8・6)に立った時に、次のよ
うに証言している。

問(阿部太郎検察官)証人は大井川で砂利採取をやっていたことがあるか。
答(松野みつ)あります。本年二月頃から三月一パイ位まで砂利採取をやっておりました
  。
問 本年三月中に証人が砂利採取をしている時、子供連れの男が大井川を歩いているのを
  見たか。
答 見ました。
問 それはいつかおぼえておるか。
答 はい、三月十日でした。
問 どうして十日ということをおぼえておるか。
答 久子ちゃんがいなくなったということを十二日に聞いたのですが、その二日ばかり前
  に見たから十日という訳です。
問 どんな様子をして歩いているのを見たか。
答 私は、子供がジミできれいな服を着ていたので、いい服を着ているなと思って見たの
  ですが、その時男の人も一緒にいたのです。
問 証人はどの位離れた所から見たのか。
答 百五十メートル位離れておりました。だから顔などは判りませんでした。
問 どちらからどちらへ歩いて来たのか。
答 大井川の川原の中を、西の方から東北の方へ向って斜めに横断して堤防へ上り、蓬莱
  橋の方へ行きました。
問(大蔵弁護人)証人が、その子供連れの男を見たというのは何時頃か。
答 昼の十二時三十五分か四十分頃と思います。
問 どうして時間が判るのか。
答 昼食を食べて、仕事に行こうと思った時ですから、その頃です。
問 証人はどこから見たのか。
答 私が旧堤防へ出て参りました時、川原を女の子をおぶって西方から歩いて来るのを見
  ました。
問 そうすると、証人は上から下を見た訳か。
答 そうです。上から斜めに見た訳です。
問 その時人通りはあったか。
答 人通りは全然ありませんで、その子供連れの人だけでした。
問 証人は、その人達を見て不審の気持を持たなかったか。
答 別に何とも思わなかったです。
問 その子供連れの人は、川を渡って新堤防の上に上ったか。
答 いいえ、新堤防ではありません。新堤防は途中から切れて居って、そこから下りた所
  に川原があって、一寸水が通っている所があるのですが、そこを女の子をおぶって渡
  って行ったのです。
問 証人が見た時は、ずっと子供をおぶった侭か。
答 一寸下ろして歩かせ、又おぶっておりました。
問 おぶったのはどの辺か。
答 石がゴロゴロしているような所で、おぶったのではないかと思います。
問 どの位の間おぶったか。
答 はっきり判りません。私としては怪しいとも思わなかったから、はっきり見ませんで
  した。
問 証人は堤防に上った時にその二人連れを見かけた訳か。
答 初めて見た時は、私が堤防におる時でしたが、川原に下りてからも見ました。
問 ずっと見ておるのか。
答 方角が変っておりますからずっとは見えません。
問 証人が見たのは、どの位の時間か。
答 判りません。
問 何分位か。
答 記憶がありません。
問 子供連れの男は川を渡ったのか。
答 おぶって渡りました。
問 川を渡る手前でも、おぶっておったのか。
答 そうでした。
問 川を渡ってからも、ずっとおぶっておったか。
答 堤防へ上がる時には見えなかったけれども、堤防に上った時には子供を下ろしており
  ました。川を渡る大分前から子供をおぶっておったことは事実です。
問 その時、子供のはきものなどは判らなかったか。
答 歩く時にチラッと見ましたが、大きい大人用の下駄をはいておりました。
問 どこでそれを見たのか。
答 川を渡る一寸手前です。
問 そうすると、子供連れの人は、川上から川下へ歩いたのか。
答 そうです。川上から川下へ向って歩いて来たのです。
問 川を渡ったというが、そこは誰でも渡れる所か。
答 長靴なら渡れる所であります。
問 証人も渡っておった所か。
答 はき物によっては渡りません。別に渡れるような施設がある訳ではなく、渡ろうと思
  えばどこでも渡れる訳です。
問 子供連れの人が渡った所は、特に渡れるように設備してあった所ではないか。
答 そうではありません。
問 証人は、その人達が渡った近くで砂利を取っておった訳か。
答 そうです。
問 その近所に踏石が置いてある所はないか。
答 飛石が置いてある所はありますが、その子供連れが通ったのはその飛石のところより
  ちょっと川上の所を歩いたと思います。
問 女の子や男の人の服装、或いは態度から、特異に感じはしなかったか。
答 女の子はきれいな服装をしているのに、連れている男の人は余りきれいでないものを
  着ておったので、一体どうした訳だろうかと思って見ました。
問(矢部孝裁判長)大井川にかかる蓬莱橋を知っておるか。
答 知っております。
問 証人が先ず土堤で見たという位置は、蓬莱橋より上流か下流か。
答 上手です。
問 どの位上手か。
答 相当です。蓬莱橋から百メートルや二百メートルでなく、もっとずっと上です。
問 ここに図面があるが、証人が見た位置はこの図面でいうとどの辺になるか判るか。
答 位置については、はっきり判りません。
問 十二日に久子ちゃんがいなくなったということを聞いたその二日ばかり前に子供連れ
  の男を見ている訳か。
答 私が見た時は、一緒に来た橋本秀夫という人と橋本すえという人と三人で見ておりま
  すから、その人達にも聞いて頂けばはっきりすると思います。なお、橋本すえさんは
  自分達よりも一寸遅れて、私達よりも寧ろと近くで見ている筈です。
問 証人達は、その子供連れを見た日に、三人でそのことについて話合っておるか。
答 子供の着ておった服のことについて、「色がジミだが、小さい子にもジミな服もいい
  もんだね」ということを、その日橋本すえさんと話しました。
問 橋本という、その日一緒に見た人は、何才位の人か。
答 橋本秀夫という人は四十四才で、橋本すえという人は二十六、七才です。
問 証人としては、その日見たことを他の人に話さなかったか。
答 話しませんでした。ところが、十二日になって、橋本秀夫さんの親から、「久子ちゃ
  んがいなくなったそうだが、お前らが見たというあの二人連れが、久子ちゃんが連れ
  て行かれるところだったのだ」ということを聞いたのです。
問 橋本及び証人の三人は、近所同士か。
答 いいえ、離れています。砂利採取の仕事に一緒に行くのです。
問 証人は、その後そのことについて警察の人から聞かれておるか。
答 聞かれました。
問 最初に聞かれたのはいつか。
答 三月十四日だったと思いますが、島田市署の人に聞かれました。そうして今日ここで
  証言したと同じようなことを話しております。
問 聞かれたのは、その一回だけか。
答 いいえ、代る代る毎日のように来て聞きましたが、何辺言っても同じことだと言いま
  した。
問 先程弁護人の質問について答えておるようだが、蓬莱橋の上手の方に飛石の置いてあ
  る所もある訳か。
答 はい、その当時ありました。しかし、その人達が通ったのはそれより一寸川上の方だ
  ったと思います。
問 どの位川上か。
答 直ぐそばでしたが、自分の見かけた時にはちょっと川上であったと思います。
問 証人は、その二人連れを見かけてからずっと川原におったのか。
答 十二時過に見かけてから四時まで川原に仕事をしておりました。
問 その後には見かけなかったか。
答 その後には全然見ません。
問(大蔵弁護人)証人はその日以後にもずっと仕事をやっておったか。
答 三月一パイやっておりました。
問 三月十一日には仕事をしたか。
答 十一日はやりません。前の晩雨が降ったりして、それに家であばあさんの念忌をした
  ので休みました。
問 十一日は雨が降ったか。
答 朝のうち降っておりました。朝仕事に行こうと思ったら、うんと降っておりました。
問 子供連れの人が渡ったという川はどんな川か。
答 大雨の後はピチャピチャしているが、二、三日経つと乾いてしまいます。
問 証人は十二日は仕事をしたか。
答 十二日も法事のため休みました。十一、十二、十三日は休みました。
問 川の流れは雨が降ると水が出るか。
答 雨が降ると水が増えます。しかし川幅がふえるだけで、仕事ができなくなるようなこ
  とはありません。
問 三月十一日の朝は、傘なしでは歩けない位大降りであったのか。
答 そうです。
問 その後に警察の人と一緒に川原へ行って足跡を探したようなことはあるかどうか。
答 私達は、足跡を探しに行ったようなことはありません。
問 橋本秀夫、或いは橋本すえはどうか。
答 その人達も足跡を探しには行きません。ただ見た位置などを警察官に話しただけで、
  足跡を探しには行きません。

 と、松野みつは、犯人と久子を目撃した時の模様を証言している。また、松野みつの第
一審第六回公判(29・12・15)の検証時の証言では、

問(佐藤裁判官)証人がその子供連れの男を見た日の天気はどうだったか。
答(松野みつ)その晩方は雨が降った位ですから晴れてはおりませんでした。又風もあり
  ませんでした。
問(阿部太郎検察官)子供連れの男は土堤へ上ってから何をしていたか。
答 大きい松の木の所で、子供は歩いており、男は松の木の根本付近に北向に立っており
  ました。
問(大蔵弁護人)子供連れの男が、堤防へ上るところは見なかったか。
答 上ってからを見ておるので、上るところは見ませんでした。

と、語っている。更に、松野みつが、第二審第一回公判(33・10・28)において証言した
時には、次のように述べている。

問(杉本覚一検事)証人は昭和二十九年三月十日、大井川原え砂利採取に行く途中、堤防
  上で、川原を歩いてくる女の子を連れた若い男を見た事につき、原審で証言している
  が、その時述べた事は間違ないか。
答(松野みつ)間違ありません。
問 その日は証人は、橋本秀夫と二人で橋本すえより先に堤防に行ったのか。
答 そうです。
問 その時見た女の子を連れた男の様子はどんなであったか。
答 川原を女の子の手をひき歩いておりましたがそれから子供を背負ったのを見ました。
問 当時、堤防下の川原は流れになっていたのか。
答 そうです。その時女の子は奇麗なグリーン色の服を着ておりました。私は流れを渡っ
  て砂利取り場に行ってから見た時は、男は女の子を背負って瀬を渡っていたのです。
問 男は川を渡ってからどうしたか。
答 堤防上に上り、松の木の根本で立小便をしてから川下の方え行きました。
問 証人は三月十七日警察で調べられたか。
答 調べられました。
問 その時述べた事は間違ないか。
答 間違ありません。
問(大蔵弁護人)証人は当日見た男の事につき松野等三人で話し合った事があるか。
答 女の子の服装の事につき話しました。
問 当日証人は男を特に怪しいとか思わなかったか。
答 子供は別に泣いてもおりませんでしたので、そのようには感じませんでした。

と述べている。また、松野みつの直ぐ後を歩いていて、犯人と久子を目撃したのが橋本秀
夫である。橋本秀夫は、この時の状況を次の通り証言している。

橋本秀夫第一回供述調書(29・3・14鈴木正次員調)
 当日、私は、私方の使用人であります松野みつさんと、義妹に当たる橋本すゑの三人で
大井川に於て砂利を取って居り、丁度昼飯に家に帰り、午後の仕事に出て参り、私家より
約三百米位南の堤防の処へ来ると、川上の方から、先程申した、服を着た女子を背負った
男が歩いて来るのを見たのでありました。私達は堤防を川へ降りる頃、丁度、其の男は、
堤防際の浅瀬(深三・三寸、巾六、七検位)の飛石を渡って子供さんを負んだ侭、石垣を
上って堤防の上(藁科組事務所より東へ約三百米位で、工事中の処の東の外れから約五十
米T字になって居る当り)へ出て、一旦其処で子供を下して本人は小便して居りました。
それからは子供さんは、其の男の傍を歩いて東へ行く様でありました。
 女子さんの服は、緑色でした。堤防へ上って歩いて行く時、大きな下駄で行くのが見え
ました。当時、私達と其の男とは約五十米位離れて居りましたので、これ以上の事は良く
判りませんでした。
橋本秀夫第二回供述調書(29・3・17永野正夫員調)
 当日は、私と、弟の嫁橋本すえ(当二十五才)と、市内新田町より私方に砂利篩として
来ています松野みつ(当四十五才)さんの三人でいつもの通り蓬莱橋上の川原で、砂利を
取っていました。
その日は、平常より少し早目に昼食を食べに家に帰りました。私宅は大井川の堤防より
北側に約二百米か、二百五十米位はなれた所で、その間は、田圃になっています。
 そして昼食を食べ、いつも通り十二時三十分まで昼休みをやり、時間が来ましたので、
私は松野みつさんと二人で家を出ました。義妹は私方より約百米位、西の家に弟と住んで
いる関係で、同じ時間に家を出ましても、私達とは少しおくれて来ました。
 私達が家を出て、家の南側を通っている道を通り、原坪の天理教の教会より堤防に出る
道を歩いて行って、堤防の上まで来ますと、堤防より西南約百五十米位(堤防より約百米
位はなれた川原)を、とても良く目だつ緑色の服を着た小さい女の子を背負った若い男の
人が、私の立っている方向に向って歩いて来ました。私達はそのまま堤防の石垣を降りて
川原に出、いつも渡っている渡場に向って歩いて行きました。渡場は東寄りにありますの
で、東を向いて歩いていますので、その男が、私達の跡のどの辺を歩いていたか判りませ
んでした。
 そして午前中より仕事をしていた場所(堤防より約百五十米位の処)に来て堤防の方を
向いて砂利篩いを始めますと、その若い男は、もう堤防の石垣を上って堤防に上っていま
した。
 そしてその男は大きな松の木が二本ならんでいる所に子供を下ろして、松の木のそばで
北を向いて(私達の方に背を向けて)小便をしている様でした。子供はその男の傍でうれ
しそうに飛びはねている様でした。小便が終るとその男は、東(橋の方向)に向って堤防
の上を歩いて行きました。又、子供はその男のそばをちょこちょこととぶ様にしてついて
行きました。
 私達は、飯場の土方が子供を連れて川原に遊びに来たものと思っていました。
 只今申しました通り、女の子を背負っていました若い男は、私達が川原に降りる前に堤
防の上より見ましたのと、砂利篩いをしながら堤防の上を歩いて行くのを見ましただけな
のですから、はっきり覚えはありません。
 女の子は幼稚園に行く年位で、緑色の服を着て、大人の下駄をはいていました。
 その男は子供を連れて蓬莱橋の方向に向いて歩いて行きましたがその後どうなったか知
りません。
 私は次の日の朝、新聞を見まして、連れていかれた女の子が、市内幸町、佐野八百屋さ
んの子供さんである事を知りました。

 また、橋本秀夫は、第一審第六回公判(29・12・15)の検証時の証言では、次のように
語っている。

問(矢部孝裁判長)証人は本年三月上旬頃は何をしておったか。
答(橋本秀夫)砂利バラスの採取をやっておりました。
問 三月十日も、やはり砂利採取をやっておったか。
答 やっておりました。十日は、午前中もやったし、昼食をしに家へ帰ってからも再び午
  後からやっております。
問 午後は何時頃からやったか。
答 十二時四十分頃に、先程検証の時に指示した旧堤防の所へ出て来た訳です。
問 そのときに、河原には人がおったか。
答 他の組の人が二、三人まだ仕事をしておりました。
問 其の他には人はおらなかったか。
答 他にはおりませんでした。
問 全然おらなかったか。
答 その他にはおりませんでしたね。但し子供をおぶって来た人を見かけたです。私が北
  側の道から土手の上の道路へ出た直ぐの時に、川原を青いような緑色のようなきれい
  な服を着た子供をおぶった人が来るのを、約二百メートル前方に見かけた訳です。
問 子供の服の色はその時判ったのか。
答 そうです。はでなちょっと変った色だもんですから、その服に目がついたのです。
問 それから証人は河原へ下りたのか。
答 そうです。河原へ下りて砂利を取る仕事場へ行ったです。そうして仕事場で北の方を
  向いたら、もう子供連れの男は堤防へ上っておりました。
問 堤防のどの辺におったか。
答 私が見かけた時は、大きな松の木の所におりました。もう子供は背中から下しており
  男は松の木のそばにおって北側を向いて小便をしているような恰好に見えました。
問 最初堤防の上から見た時と、河原から見た時と、どちらがはっきり見えたか。
答 大して気をつけて見る訳ではありませんから、はっきりおぼえていませんが、大体同
  じようなものでした。
問 当時の河原の様子は、現在と大分変っておるか。
答 変っております。
問 現在は堤防の直ぐ下の所に水流があるが、当時はどうだったか。
答 当時は堤防の直ぐ下の所には水流はありませんで、それよりももっと河原の中心に近
  い方に、二十メートル幅位に浅く水が流れておりました。そしてそこは飛石伝いに渡
  れるように小さい飛石が並べてありました。
問 その飛石はどの辺にあったか。
答 先程検証の時に指示したとおり、大きな松の木の所へ北方から来る道がありますが、
  その道から堤防を横切って河原へ下りて、稍々左へ行った所に斜めに飛石が並べてあ
  りました。
問 飛石が置いてあったのは、その一ヵ所だけか。
答 一ヵ所だけでありました。尤もそこは、水流の一番浅いような所へ子供が飛石を並べ
  たのかも知れません。
問 もう少し上流の方に飛石が置いてあった所はないか。
答 ありませんでした。
問 飛石のあった位置は、堤防の大きな松から言ってどの辺か。
答 大きな松の木の所より、まだ五十メートル位上手でしたね。
問(大蔵弁護人)その日の天気はどうだったか。
答 晴れていたと思います。
問 風はどうだったか。
答 風はありませんでした。
問 子供を連れた男は、証人が見た時は髪がボサボサしておったというが、手入が悪くて
  ボサボサしているようであったか。
答 離れている所で見たですから、判りません。
問 風に吹かれてボサボサしておったか。
答 そうだったと思います。
問 飛石のあったところは、証人が堤防を横切って来た所から言って川上か川下か。
答 丁度その正面辺りでした。
問 証人はその日松野みつとか橋本すえという者と一緒に仕事をしておったのか。
答 そうです。砂利取の仕事は三人共一緒にやりました。
問 三人共昼食を食べに行ったか。
答 そうです。そうして昼食後三人共一緒に午後の仕事に出掛けたのですが、妹のすゑは
  子供が幼稚園へ踊を見に行くのを送るというので、すえだけちょっと遅れて来たので
  す。
問 すゑはどの位遅れたのか。
答 ほんのちょっと遅れただけです。それで私と松野みつさんは一緒に仕事場へ行ったの
  です。
問 子供連れの男を二度目に見た時は、証人はもう仕事にかかっていたのか。
答 仕事にかかろうとした時だと思います。
問 子供連れの男は、どこから堤防に上ったか判らないか。
答 判りません。

 さらに、第二審第一回公判(33・10・28)の橋本秀夫の証言は、次の通りであった。

問(杉本覚一検事)証人は昭和二十九年三月十日昼頃、大井川原で砂利採取の仕事をして
  いたか。
答(橋本秀夫)しておりました日は大体その頃です。
問 その頃証人は小さい女の子を連れた若い男の通るのを見たか。
答 見ました。
問 その事につき原審で証言しているが、その時述べた事は間違ないか。
答 間違ありません。
問 警察でも二十九年三月十四日と十七日の二回に亘り調べられた事があるか。
答 あります。
問 大井川原を通るのを見た時の、子供連れの二人の様子はどうであったか。
答 女の子を背負って旧堤防下の川を渡り旧堤防上に登り、若い男は松の木の処で立小便
  したのを見たのです。
問 証人が二人連れを一番近くの距離で見たのはどの位の処であったか。
答 大体二百米位でした。
問 顔、形などは分からなかったか。
答 それは分かりませんでしたが、子供は派手な青い服だったので、印象が深かったので
  す。
問 証人が堤防下の瀬を渡り、女の子を背負った侭堤防上に出て行ったのを見たというの
  か。
答 私が砂利採取場に行って見たところ、男が浅瀬を渡るのを見たのです。
問 その時見た男と、後で逮捕?された赤堀とが同一人かどうかにつき、警察で面通しさ
  れた事があったか。
答 ありました。然し、私が川原で見た男は離れていたので、赤堀と同じであったかどう
  かは、分からなかったのです。
問 証人は、赤堀という男を知っているのか。
答 知りません。
問(大蔵弁護人)男を見た時刻は。
答 私は正午には昼食をして、それから堤防上に行った時見たのですから、十二時四、五
  十分頃であったと思います。
問 当時、日清紡の飯場は何処にあったのか。
答 橋番小屋の下流三十米位の堤防上にありました。
問 そこには、土方、人夫が沢山泊っていたのか。
答 そうです。
問 その人達は他地の人か。
答 そうです。
問 飯場は長い期間あったのか。
答 現在でも少し残っております。

 以上が、橋本秀夫の証言した目撃内容である。さらに、この時、松野みつや橋本秀夫の
二人より少し遅れて歩いて来て、犯人と久子の二人を目撃したのが、橋本すえであった。
 橋本すえは、その時の状況を次のように語っている。

橋本すえ供述調書(29・3・17山下馨員調)
 私方の本家であります橋本秀夫さんの処では農業の傍ら砂利の採取業を致しております
ので、農業の暇を見て私も手伝っておるのであります。
 先日、私は親子と思われない若い男の人がきれいな女の子を背負って大井川の川原を歩
いて来て堤防に登り、蓬莱橋の方へ歩いて行くのを見たのでありますが、そのことについ
て申し上げます。私は此処暫くの間、農業の方が暇でありますので、前申し上げた通り本
家の義理の兄さんがやっております砂利の採取を毎日手伝って来ておるのであります。
 本家の兄さんは私共の家から南に当たる大井川の堤防へ出た処の川原の上、下付近で砂
利を採取を致しておるのであります。それで私が此の子供さんを背負って歩いておるのを
見たのは、本月十日の日であります。採取場が遠くないので、私共は昼飯に家に帰ってく
るのてあります。昼飯は十二時から一時までの間に致すのであって、此の日も私は十二時
頃に昼飯を喰べに家に帰って来たのであります。
 昼飯を喰べ終って採取現場に行く途中であります。私方から大井川の堤防まで約二百米
位あります。
 同日午後零時四十分頃と思いますが、私が家を出て前申し上げた原坪地先の堤防上に登
りますと、北側の堤防に近い大井川原から東に向って女の子供さんを背負って歩いて来る
若い男の人を見かけたのであります。
 私は現場へ行く為に石掛けの堤防を川原におりたのであります。堤防からおりて少し行
くとそこに湧水の流れておる、水の浅い川があるのであります。その川を渡って採取現場
に行くのでありますから、私は堤防からおりて東に行くとその流れを渡るために小さい橋
が渡してありましたので、私はその橋の方に行ったのであります。渡る前に私は立ち止っ
て、この人達を見ておったのであります。
 私の位置と此の人達が歩いておる処とは、二、三十米しか離れておりませんでした。
 女の子供さんは、きれいな子で、よい服を着ており、背負っておった若い男の人は、服
装も悪く、不にあいでありますので、変に思い、丁度此の日は、南幼稚園に遊戯会があっ
た日でありましたので、飯場の親方の子供さんが使われておる人に連れられて川原の方に
でも遊びに行って来たのではないかと思ったのであります。
 私が見ておりますと、此の若い男の人は女の子供さんを背負ったまま、その川の中を渡
って堤防よりの方に来たのであります。そして石掛けを登って堤防上に上って、若い男の
人は背負っておりました女の子供さんを背中からおろしたのであります。おろしてから此
の若い男の人は、堤防上で北を向いて小便をして、子供さんを歩かして堤防上を蓬莱橋の
方に行ったのであります。それで私は砂利採取場に行って了いましたので、後は判りませ
ん。
 私の他に十間位離れて義の兄さんや、一緒に働いておった松野みつさん四十四、五才の
女の人も歩きながら見たのであります。
 若い男の人も、連れて負った女の子供さんも知らない人であります。

 また、橋本すえは、第一審第六回公判(29・12・15)の検証時に証言したところによる
と、この時の状況を、さらに詳しく次のように証言している。

問(矢部孝裁判長)本年三月十日午後砂利採取に行ったことがあるか。
答(橋本すえ)はい、砂利採取に行きました。
問 十日は午前も午後も砂利採取をやったか。
答 午前も午後も砂利採取をやりました。一度昼食に帰ってそれから午後又出掛けた訳で
  す。
問 橋本秀夫と証人はどういう関係か。
答 秀夫は私の義兄です。
問 十日に昼食後河原に来る時は秀夫達と一緒であったか、別別(ママ)だったか。
答 私は少し遅れて河原へ来ました。
問 証人が堤防まで来た時、秀夫はどの辺におったか。
答 もう河原へ下りて、相当向うまで行っておりました。しかしまだ仕事場までは行きつ
  いておりませんでした。
問 その時秀夫以外にも河原に人がおったか。
答 松野みつさんという人がやはり私達と同じ場所で仕事をしていましたので、その時も
  兄秀夫と一緒に歩いておりました。
問 他に変った人を見なかったか。
答 子供を連れた人を見ました。
問 子供を連れた人をどこから見たのか。
答 私が家の方から来て堤防へ上り堤防から河原の方を見たら、河原のずっと向うの方へ
  子供をおぶった人が見えたのです。
問 その子供をおぶった人は、どんな恰好をしておったか。
答 五才か六才位に思える子供をおぶっていますので、ちょっと変だと思って見た訳です
  が、その男は河原を斜めに私の方へだんだん近寄って来た訳です。
問 それから証人はどうしたか。
答 私は堤防から下りたのですが、堤防を下りた直ぐの所即ち先程検証の時に指示した位
  置に行く時、その子供連れの男が右手の方の幅一間位の水流を渡る所を見ました。
問 その時、男の着ている物とか、はいている物はどんな様子に見えたか。
答 水流を渡る時に、長靴をはいているということは気がつきました。あそこには飛石が
  置いてありましたから飛石を渡って来ると思っていたら、飛石を渡らずわざわざ水の
  中を渡ったので、その時長靴をはいているということに初めて気がついた訳です。し
  かしどんな物を着ておったかということについてはもう日も経ってるしはっきりしま
  せん。白っぽいような茶色っぽいような物を着ていたような感じがしますが、それ以
  上は判りません。なお頭の毛がボサボサしているということはその時判りました。
問 子供の方は、はっきり判ったか。
答 子供の方は、青いというか竹色のような鮮やかな色のきれいな物を着ておりましたか
  ら、子供の方にばかり気をとられておった訳です。しかし男の方も小柄な人で、から
  だ恰好が幾分前かがみのような感じのする人だということは判りました。
問 子供を背から下ろしている時も前かがみか。
答 後から子供を下ろして歩いて行く恰好を見た時も、前かがみのような恰好に見えまし
  た。
問 飛石のあった位置は大体どの辺だったか。
答 金谷の方から堤防に向って斜めに飛石があったのですが、その位置は北方から堤防に
  出て私が下りた所よりも少し上手でありました。
問 子供をおぶった男が渡ったというのも、その飛石の近くの所か。
答 そうです。
問 その次に証人が見たのはどこか。
答 次は、私が仕事場へ行った時に、どの辺へ行くかと思って見たら、その男はもう堤防
  の上の、松の木の辺に立って北側を向いており、子供はその辺をブラブラ歩いており
  ました。
問 それからどうしたか知らないか。
答 私は仕事を休んで、兄の秀夫と松野さんと三人で一緒に暫くその男達を見ておったの
  です。そうしたら子供も歩き男も歩いて東方蓬莱橋の方、つまり川下へ向って歩いて
  行きました。
問 それから。
答 それから後のことは判りません。
問(鈴木主任弁護人)その日風があったかどうかおぼえておるか。
答 はっきりおぼえていませんが、どんよりした天気でした。
問 子供をおぶった人が水流を渡った所は飛石の所の近くというが、飛石よりも上流か下
  流か。
答 その点、はっきり判りません。
問 その男が、堤防の上に上るところは見なかったか。
答 上る所は見ませんでした。
問 上ってから松の木の所におるのを三人で見たというが三人共同じ所から見たのか。
答 そうです。一緒の所から見たのです。子供が余りきれいな服だったし、男の方は子供
  の服装に似合わない服装だったもんですから、ここの飯場の人が日清紡の子供を連れ
  て来たのかと思って見ていた訳です。
問(佐藤千速裁判官)子供の着ていた服装のことで、松野みつと話合ったことはないか。
答 四才になる私の子供に作ってくれたいような着物だということで松野さんと話をしな
  がら見ておったのです。
問 結局、証人達三人のうちでは証人が一番近い距離で見ておったことになるのか。
答 私は兄達よりも少し遅く家を出ておる関係で、幾分か近い位置で見たことになると思
  います。
問(矢部孝裁判長)仕事へ行ってから三人共同じ位置で見たが、途中で見た時は、証人一
  人で見ている訳か。
答 そうです。

 さらに、第二審第一回公判(33・10・28)で橋本すえは、次の通り証言している。

問(杉本覚一検事)証人は昭和二十九年三月十日昼頃、大井川原え砂利を取りに行く際、
  川原で女の子を連れた若い男の通るのを見た事があったか。
答(橋本すえ)ありました。
問 その点につき証人は原審で証言しているが、その際述べた事は間違ないか。
答 間違ありません。
問 その日証人は橋本秀夫、松野みつより少し遅れて堤防上に行ったのか。
答 そうです。
問 道から堤防上に上った時、松野等は何処にいたか。
答 堤防下の浅瀬を渡った位の処におりました。
問 女の子を連れた男は何の辺にどのようにしていたか。
答 女の子を背負って堤防下の浅瀬に向って来るのを見たのです。
問 証人は立止ってそれを見たのか。
答 そうであったと思います。
問 男が浅瀬を渡るのを見たのか。
答 私が見たのは、浅瀬に入るところです。私はその侭川原に行く為、瀬を渡ったのです
  が、渡ってから見た時は男は瀬の中におり、砂利採取場に行ってから見た時は男は堤
  防上にいたのです。
問 証人が男を一番近くに見た時の距離はどれくらいであったか。
答 約三十米位でした。
問 その時、顔つき等は分ったか。
答 分かりました。
問 女の子の服装は派手であったか。
答 派手なグリーン色の服を着ておりました。
問 男の服装はどんなであったか。
答 私は女の子の方ばかり目についたので、判然した記憶はありませんが、黒か茶のよう
  なジャンバーを着ていたような感じがします。そしてゴムの半長靴を穿いておりまし
  た。
問 男は瀬を渡る時キョロキョロしていたか。
答 下許り見ておりました。
問 証人は男を見た事について、二十九年の三月十七日と六月六日の二回警察の調べを受
  けたか。
答 日は忘れましたが二回調べられました。
問 警察で男を見せられた事があるか。
答 あります。
問 その時の男は、証人が川原で見た男と同じであったか。
答 身体つきや横顔が似ているように思いました。
問 証人は赤堀は前から知っているのか。
答 知りません。
問(大蔵弁護人)証人が警察で男を見せられたのは六月の時一回丈か。
答 その前にも色々の人をみせられましたが、皆私の記憶にない人でした。
問 証人が川原で見た男の身長は大体どれ位と見たか。
答 五尺二寸弱ではなかったかと思っております。

 以上が、大井川の河原を歩いていた犯人と佐野久子を見かけた、松野みつ、橋本秀夫、
橋本すえ、の三人の証言である。
 この三人の証言は、松野みつが、第一審第二回公判でも言っているように、「代る代る
毎日のように来て聞きましたが、何辺言っても同じことだ」という程、警察官もよく調べ
に行ったらしく、赤堀政夫の供述もこの三人の証言に驚く程よく似ているので、果たして
どんなことになっているのか、あえて問題にするようなことも出てこないだろうと思って
みていると、意外にここでも、あとの公判になって詳しく証言した目撃内容に、赤堀政夫
が供述でふれていないことが出てくるものだから、かえってあきれてしまう。
 ここで、ざっと三人の目撃事実を振り返ってみよう。まず、この三人に中で最初に堤防
に上って来た松野みつは、「川を渡る大分前から子供をおぶっておった」(第一審第二回
公判)と証言していたが、第二審第一回公判になって証言した時には、はじめ男は久子の
「手をひき歩いて」いた。「それから子供を背負ったのを見ました」、次に砂利取り場へ
行ってから見た時、「男は女の子を背負って瀬を渡っていた」という。
 そのあとから堤防に上って来た橋本秀夫は、川上の方から、女の子を背負った男が歩い
て来るのを見た。そして、堤防を川へ降りる頃、女の子を背負ったままその男は浅瀬を渡
っていた。
 最後に橋本すえは、堤防上に上ると、河原を女の子を背負って歩いて来る男を見かけて
いる。そして、堤防を降りて、水の浅い川にかけてある小さい橋を渡る前に立ち止まって
見ていると、男は女の子を背負ったままその川の中を渡って堤防よりの方に来た。この時
の橋本すえと犯人の距離は二、三十米メートルしか離れていなかったという。
 松野みつが仕事場へ行ってから、また見た時には、犯人はもう堤防に上っていて、子供
を背中からおろして歩いていた。また、橋本秀夫が仕事場へ行って見た時には、男は堤防
の上に上っていた。そして、橋本すえが仕事場へ行って、今度は、三人いっしょに見た時
には、男は松の木の辺に立って北側を向いて立小便をしていた。
 そして、三人が三人とも、堤防を降りたところで犯人と久子の二人連れを見た時に、こ
の二人は、自分のいる方へ向かって真っ直ぐに歩いて来るところを見ているのである。逆
にいって、犯人から見れば、自分が河原を歩いて行くと、真正面の堤防上を次々に三人の
人が、河原に降りて来て砂利に採取場へと向かうのである。
 しかも、三人目の橋本すえは、自分の二、三十メートル先で行きちがうわけだから、た
とえ最初の二人に気が付かなかったとしても、三人目の橋本すえには気が付くことになる
。橋本すえは、浅瀬を渡らずしばらく立ち止まって自分の方を見ていたのである。けれど
、赤堀政夫の供述調書には、この三人の存在ならびに河原の砂利取り場でずっと砂利取り
をしていた他の組の二、三人の人達の存在(橋本秀夫第一審第六回公判の証言)にもひと
こともふれていない。
 また、目撃者の捜査官に対する証言には、どこからどこまで歩いたとか、歩いていて何
があったからそこでおぶったとかいう具体的な目撃内容が述べられていなかった。それだ
からという話でもないのに、赤堀政夫も供述で、ただ単に、河原を歩かせたり負ったりし
て行ったと述べるにとどまっていて、具体的に、久子と河原を歩いて行った時、どういう
状況があったからこうしたんだ、というような供述をしておらず、赤堀政夫の供述内容が
この三人の警察官に対する証言と妙に符合しているというのもまたおかしな話である。さ
らに、赤堀政夫は、供述調書で、大井川の河原に降りて久子を歩かせていた時、久子の手
を引いて歩いていたことを、おくびにも出していない。
 また、赤堀政夫の第十回供述調書(29・6・8相田兵市員調)によると、赤堀政夫は、
佐野久子を「ガードを通り南の出口から少し行ったところでおろしましたが、その時小さ
い声でおじちゃんおうちへゆきたいようと言いました。私はいい子だね、すぐおうちへい
くから泣くのはおよしねとなだめました」というのである。
 赤堀政夫の供述通りに、佐野久子が、家へ帰りたいといって泣いているのを、赤堀政夫
が無理やり連れ歩いていたのだとすると、佐野久子は、中野ナツに二度目に会った時や、
大井川の河原で松野みつ、橋本秀夫、橋本すえの三人に行きあった時に、助けを求める機
会はあったのである。特に中野ナツは、東海パルプの塀ぞいの道で数メートル先の所を歩
いていたわけだし、橋本すえにしても二、三十メートルの所で行きあっているのだから、
久子が「助けて」と声を出せば橋本すえに聞こえたのである。しかし、久子は、この間、
行きあった人に助けを求めなかったばかりか、堤防に上って犯人が立小便をしていた時、
「うれしそうに飛びはねている様でした」(橋本秀夫第二回供述調書29・3・14鈴木正次
員調)という印象を、橋本秀夫に与えるような仕種をしていたという。
 そうすると、赤堀政夫の供述にある、久子をなだめながら歩いたという状況も、裏付け
のない事柄になるのである。
 

[戻る]