〔十八〕蓬莱橋の目撃者・鈴木鉄蔵
赤堀政夫は、このあと蓬莱橋を渡る時の模様について、次のように述べている。
第四回供述調書(29・5・31相田兵市員調)
それから堤防伝いに蓬莱橋へ揚りましたが其の折は子供をおぶっていました。蓬莱橋は
橋番がいて金をとると云う事は知っていましたが、私も橋番を少しは知っていますし、橋
番の子供の啓ちゃん、修ちゃんは良く知っていますので、体裁も悪いし又持っていたお金
も二、三円しかないので、だまって通ろうと思いまして顔をみられぬ様に少し横をむいて
橋番小屋の前をスッと通りました。橋番の前を二、三米過ぎて橋へかかった時、橋番のお
じいさんが私を見つけ、おいおい、お前お金をおいてけ、と申しました。私はしまったと
思いましたが、仕方がないので態(わざ)と顔をみられぬように反対側(川下)に首を廻
して振返り乍ら、帰りに払ってくでのう、と云ったままドンドン歩くと、橋番は何も云い
ませんでした。
第二回供述調書(29・6・13阿部太郎検調)
それから女の子と一緒に歩き蓬莱橋の橋番小屋の手前で女の子を背負いました。蓬莱橋
は番人が居て大人が十円小人が五円の橋銭を取りますが番人のじいさんは私の父と懇意で
あり又じいさんの倅と私とは友達で家に遊びに行った事もありじいさんも私の顔を知って
居る筈ですから私が女の子を背負って橋番小屋の前を顔を横にそむけながら足ばやに通り
過ぎて橋を渡り始め約一町位行ったところ橋番のじいさんの声がかかり、おいおいお金を
置いて行けよ、と云うので私はしまったと思い女の子を背負った侭後を振り向き、帰りに
払って行くでのう、と云い捨てて其の侭足早に橋を渡って仕舞いました。(傍線筆者)
第三回供述調書(29・6・14阿部太郎検調)
次に私は昨日は『女の子を背負って橋番小屋の前を顔を横にそむけ乍ら足早に通り過ぎ
て橋を渡り始め約一町位行ったところ後から橋番のじいさんの声がかかり』橋銭を置いて
行けと云われた事を申上げましたが私の申上げた『一町』というのは、十間『三百十尺』
の計算で申したのではなく畳を二つ位縦に合せた位の長さであります。つまり私の歩いた
歩数にして十二、三歩位であります。その位橋の上を歩いた時に橋番のじいさんから声を
かけられたのであります。
一方、この日、橋番小屋にいて犯人と佐野久子を目撃した鈴木鉄蔵は、その時の様子を
次のように語っている。
山下馨員調(29・3・12)
一昨十日の午後二時頃だったと思われます。蓬莱橋の北端にあります番小屋で私が橋番
を致しておりますと、多分大井川の堤防を上から来たのではないかと思われますが、私が
番を致しておる小屋の前を通り、橋銭を支払わずに渡ろうとする女の子を背負った男の人
がしりましたので、私が呼び止めたのであたます。私が呼び止めたのでその人は立ち止っ
たから、そこで私は橋銭を貰いたいと云ったのであります。するとその男の人は、金の持
合せがないというので、更に私は何処へ行くだと聞くと、指を南の方を指して、あっちに
親父がいるで貰ってかえりに払うと言いますので、私はそれ以上は聞かずに橋を通らした
のであります。此の人は同日私が七時半頃まで橋番致しておりましたが、遂に帰来なんだ
のであります。
此の男でありますが、口のきき方から態度からして私は土方ではないかと思いました。
私のおる橋番の前をだまって通って行く処を見ると、橋銭を払うことを知らない人ではな
いかと思われます。したがって土地の人ではないかと考えられます。橋銭は大人が五円、
子供が三円であります。(傍線筆者)
ここで、蓬莱橋の橋銭をめぐって、赤堀政夫と鈴木鉄蔵の二人の証言が食い違っている
ことにあなたも気がつかれたことだろう。ここのところを、詳しく説明している証言が、
次の第一審第二回公判(29・8・6)の鈴木鉄蔵の証言にある。
問(阿部太郎検事)証人は橋番と言ったが、どこの橋番をやってるのか。
答(鈴木鉄蔵)蓬莱橋の橋番をやっております。
問 いつ頃からやってるのか。
答 昭和十八年から、約十年間もやっております。
問 蓬莱橋は、蓬莱橋利用組合がやっておって橋銭を取るのか。
答 そうです。
問 証人は毎日そこへ行くのか。
答 そうです。毎日朝四時半から夕方八時頃までそこへ橋番に行きます。
問 本年三月中に、榛原郡初倉村で戦死者の招魂祭があったことを記憶しておるか。
答 おぼえております。それが三月十日です。
問 其の時も証人は橋番をやっておったか。
答 やっておりました。
問 その日、橋銭を払わずに通って行った人があるか。
答 あります。子供を背負っていた人で、金を払わずに通った者があります。
問 その時の模様を述べて下さい。
答 蓬莱橋の袂に橋番小屋がある訳ですが、その橋番小屋は前が窓になっておって外は良
く見える訳です。それで本年三月十日午後一時頃私が橋番小屋で薪を切る鋸を研いで
おりますと、からだの小さい痩せがたの男が子供を背負ってその前を通ったのです。
普通の人は止まらずに行くので私が頭を上げてよく見ると、一間位先をどんどん行く
ので「おいおい」と言って呼び止め、「この橋を渡るには金が要るから、金を払って
行け」と言うと、その男は私の所から五間位先の橋の上で止まったのですが、こちら
をも振り向かずにうつむいた恰好で、後に久子ちゃんが殺されていたことが判った二
、三百間位離れた山林の方を指さして、「親爺がそこに仕事をしているから帰りに金
を払う」と言ったのですが、その指さした時に、私はその男の横顔を見ました。それ
で私も帰りに払って行くだろうと思って、橋銭をとらずそのまま渡してやりましたら
、その男はずっと初倉村の方へ渡って行きました。
問 証人はその日何時頃まで橋番をやっておったか。
答 日が短い時だったので、七時頃までいたのですが、私が帰るまでには、その男は帰っ
て来ませんでした。
問 その日は、初倉村の方から来る人、島田の方から行く人で橋の往来はあったか。
答 その日初倉村に招魂祭の余興か何かがあって、初倉の人達は島田の方へは渡って来ま
せんでした。
問 島田の方から渡って行く人はどうだったか。
答 その子供を背負った男が通った前後には、通った人もありました。
問(大蔵弁護人)蓬莱橋というのはいつ頃できたのか。
答 明治十二年に、現在の所よりも二、三丁川上へできまして、明治三十八年に現在の所
へ移転した訳です。
問 渡し銭をとるようになったのはいつか。
答 明治十二年にできた時からずっと渡し銭を取っております。
問 証人が橋番になったのはいつからか。
答 昭和十八年の十二月です。
問 本年三月頃の渡し銭はいくらか。
答 五円でありました。しかしその後四月になって十円に値上げになっております。
問 渡し銭は、行きも帰りも取るのか。
答 本年の三月頃は、片道三円、往復五円でありました。
問 大体橋を通る人は、一日に何人位通るか。
答 最近は、十円宛で二千円位になります。だから一日二百人位かと思いますが、雨降り
の日は通りません。
問 証人が子供を背負った男を見たのは、昼食後か。
答 お昼を食べた後です。
問 証人は鋸を研いでおったというが、後向きになって研いでおったのか。
答 そうです。鋸の目立てをしていた訳です。それで大抵の人は私の所で止るのですが、
その男に限って黙って通り抜けたのです。
問 橋を渡る所には、渡し銭を取るということが書いてあるか。
答 書いてあります。
問 男が指をさしたというのは「あそこに行く」と言ってさしたのか。
答 「あそこに親爺がいる。親爺に会いに行くだで帰りに払う」と言ったと思います。
問 どこそこと、所の名前は言わなかったか。
答 言わなかったです。
問 証人が呼んだのは聞えたか。
答 聞えました。それで女の子の方がびっくりして私の顔をジロジロ見ておりました。し
かし、男はずっとうつむいておりました。
問 「親爺に会いに行く云々」と言った言葉は静岡弁か。
答 静岡弁も島田こどばでした。
問 年令は何才位に見えたか。
答 横顔を見ただけですから二十六、七才位じゃないかと思って見ました。なお、おぶっ
ている子供がその人の子供ではないことは認めました。
問 証人は、その男は一見土方ふうと思ったか。
答 一寸顔の色が黒かったし、その男の指さした方で土方が石拾いをしておりましたので
これは土方の人足が、親方に会いに行くのかと思った訳です。
問 その男は、橋銭を払うということは知らなかったのではないか。
答 私は、その男はソラをつかって(とぼけて)通ったじゃないかと思いました。それで
呼び止めたのです。
問 相手の男は、金を払えと言われた時、いくらかと聞かなかったか。
答 聞きません。非常に急いでおりまして、行ってしまいました。
問 証人は久子ちゃん殺しの事件について、何か警察で調べられたことがあるか。
答 七回位警察へ行ったと思います。
問 一番最初に行ったのはいつころか。
答 三月十二日頃に藤枝の警察へ行ったと思います。
問 その際証人は「三月十日に橋銭を払わないで通った子供連れの男は、どうもよその土
地の者だ」という趣旨のことを述べたのではないか。
答 そういうことを述べたおぼえはありません。私は、近くの土地の者だと思っておった
し、警察でもそのように述べたと思います。大体「払いは帰りにしてもよい」などと
言うのは土地の者だけです。
問 証人は三月十日子供連れの男を見かけた日は七時頃家へ帰ったというが、橋銭を払わ
ずに通ったその男のことは気にならなかったか。
答 私が七時頃までいても帰らないので、招魂祭のお客として初倉へ泊って今日はもう帰
らないのだと思ったのです。
問 証人はその日特別早く帰ったかどうか。
答 そんなことはありません。私はいつも七時頃帰っておりました。
問 警察で犯人という者を見せられたと言ったが、それはいつ頃か。
答 六月十日頃と思いますが、よきおぼえておりません。
問 そのように犯人という者を見せられたことが何度もあるか。
答 あります。七、八回見ましたが、その度に、私が目撃したのと似た人がいなかったの
です。
問(鈴木主任弁護人)橋銭を取ることは、厳重にやっておるか。
答 橋の修理に費用が要るから、橋銭を取ることはやかましくやってくれと組合の方の要
望がありますし、やかましくやっております。それですから島田から向うの人達は、
蓬莱橋に橋銭を取るやかましい爺さんがいるということは評判になっております。
問 証人は子供連れで橋を通る男を見た時、知ってる人ではないかと考えなかったか。
答 顔を見せないようにして通る位だから知ってる人だと思いました。
問 人相や声でなく、顔を見せないようにして通ったから自分を知ってる人だなと思った
訳か。
答 そうです。
問 久子ちゃんが殺されたということで初めて藤枝の警察へ呼ばれた頃、橋を通った男は
証人の知ってる人ではないかと聞かれなかったか。
答 聞かれました。
問 その時には、証人としては通った人が誰か思いつかなかったのか。
答 思いつきませんでした。
問 証人の家にケーちゃんとかシュウちゃんとか言う人があるか。
答 あります。ケーちゃんと言うのは私の孫で箱屋をやってる二十二才の人です。シュウ
ちゃんは、私のあととり息子で、四十才位の人です。
問 それらの人と、被告人政夫と懇意にしておったことは知らないか。
答 そういうことは聞いておりません。
問(矢部孝裁判長)橋番は一人だけでやってるのか。
答 そうです。私一人で年がら年中、毎日やっております。
問 証人は、家は常に空けておる訳か。
答 空けております。
問 そうすると、証人の留守に被告人が来たかどうかということは判らない訳か。
答 そうです。判りません。
問 鋸の目立は坐った侭の姿勢でやってるのか。
答 はい、橋番小屋で坐ってやっております。
問 橋銭を払って行けと行って問答した時も、証人は坐った侭か。
答 その時は立って言いました。その時初めて私が立上りました。
問 その日太陽は照って居ったか。
答 その男が通った時は、雲が出て曇っており、陽は出ておりませんでした。
問 その男は、証人と顔を合せることを嫌っている様子であったかどうか。
答 ただ、横顔だけしか見せませんでした。
問 その横顔を見た時、特別に顔について、特徴というようなものを記憶しておるかどう
か。
答 特徴というものはありませんが、顔が一寸長顔で、頬骨が高くて顔がこけた横顔であ
りました。
問 島田の警察で見せられた男は、近くで見たのか。
答 やはり五間口ばかり離れた所で見ておる訳です。
問 この図面を見て、大体位置的関係は判るか。〔この時裁判長は、昭和二十九年三月十
三日付司法警察員の検証調書添付の図面第一図(記録第一三七丁)を示した。〕
答 判ります。
問 子供連れで通った男が指さしたというのは、どの辺を指さしたか。
答 その図面に赤×印で殺人現場と標示してある所がありますが、大体その方向を指さし
たのですが、そこよりももう少し上手の田沢の所辺を指さしました。
問(阿部太郎検察官)その橋を渡った男は、証人に顔を見られてはまずいという様子であ
ったのか。
答 そうです。
問(鈴木主任弁護人)五間口も先きへ行ってから指さしたのでは、顔はよく見えないので
はないか。
答 後ろから横顔が見えた訳です。
問(矢部孝裁判長)橋番小屋は、橋より上手か下手か。
答 一間位上手です。橋の上手の欄干より三尺位離れております。
また、第二審第一回公判(33・10・28)の証人として鈴木鉄蔵が証言した時には、次の
ように述べている。
問(杉本覚一検事)証人は、蓬莱橋の橋番を何時頃までしていたか。
答(鈴木鉄蔵)昨年の十月まで、橋番をしておりました。
問 証人は、昭和二十九年三月十日に、島田幼稚園の女の子が行方不明になった事を知っ
ているか。
答 知っております。
問 その日に、その男らしい人が橋を渡ったか。
答 渡りました。
問 その日の、何時頃だったか。
答 私が昼食を済ませた後です。
問 証人が、その男を呼び止めた時、その男は、どうしていたのか。
答 女の子をおぶっておりました。私は、その男に、金を払って行け、と云うと、帰りに
して呉れ、と云っておりました。
問 その件について、以前、静岡の刑事が、橋番小屋で、証人に聞いているが、その時、
答えた事に間違いないか。
答 間違いありません。
問(大蔵弁護人)当時、橋番小屋の近所に飯場があったか。
答 ありました。日進紡(注・日清紡の誤記)の飯場です。
問 人夫は何人位居たか。
答 五、六人位です。
問 その人夫達は、橋を渡るか。
答 めったに、渡りません。
問 のこぎりの目立てを、後を向いてやっていたのか。
答 違います。前を向いて、うつ向いて仕事をしておりました。
問 その時、電燈をつけていたか。
答 つけておりません。
問 証人が、呼び止めた時、その男は、何か持っていたか。
答 子供をおぶっておりましたから、手に何を持っていたか分かりません。
問 証人が橋番を辞めて帰るのは何時頃か。
答 六時半頃です。
問 その後の通行人は、無料なのか。
答 左様です。
問 その当時、通行人は、一日に何人位あるのか。
答 五、六十人位です。
以上が、蓬莱橋で犯人と久子を見た時の模様を述べた鈴木鉄蔵の証言である。蓬莱橋の
橋銭の他に、ここでも赤堀政夫の供述内容と明らかに異なる点がいくつかある。
赤堀政夫は、まず、橋番の鈴木鉄蔵が、「おいおい、お前お金をおいてけ」(第四回供
述調書)、「おいおいお金を置いて行けよ」(第二回検事調書)と言った、と言っている
のに対して、鈴木鉄蔵は、「橋銭を貰いたい」(山下員調)、「おいおい」と言って呼び
止め、「この橋を渡るには金が要るから、金を払って行け」(第一審第二回公判)といっ
ている。
それに答えて、赤堀政夫は、川下に首を廻して振り返りながら、「帰りに払ってくでの
う」(第四回供述調書)、後を振り向き「帰りに払って行くでのう」(第二回検事調書)
と言って、そのまま歩いて行ってしまったという。しかし、鈴木鉄蔵の目撃した犯人は、
「『金の持合せがない』と言うので、更に私は『何処へ行くだ』と聞くと、指を南の方を
指して『あっちに親父がいるで貰ってかえりに払う』と言いますので、私はそれ以上は聞
かずに橋を通らしたのであります」(山下員調)、「こちらをも振り向かずにうつむいた
恰好で、後に久子ちゃんが殺されていたことが判った二、三百間位離れた山林の方を指さ
して、『親爺がそこに仕事をしているから帰りに金を払う』と言った」(第一審第二回公
判)といっている。
赤堀政夫は、川下に首を廻して振り返ったと言っているのに対して、鈴木鉄蔵の見た犯
人は、後に久子ちゃんが殺されていたことが判った二、三百間位離れた山林の方、つまり
川上の方(対岸の右手)の山林を指さして答えたという。しかし、この時、犯人が右手で
川上の山林を指さしていたのか、それとも、左手で川上の山林を指さしていたのか、鈴木
鉄蔵の公判の証言では明らかになっていない。そこで、この点について、少し考察してみ
ることにしよう。
この時、犯人が、赤堀政夫の供述通りに川下に首を廻して振り返っていたとして、まず
左手で川上の山林の方を指さしていたとすると、犯人は自分の首をしめるような恰好で自
分の真後ろを指さすことになり、こういう動作は子供をおぶって右手で支えている犯人に
とっては、最も不安定な動作であり、鈴木鉄蔵にも不自然に見える。
また、この時、川下を向きざまに右手を使って川上の山林を指さすとすると、犯人は、
目標を見定めて山林を指さすことができなくなる。もっとも、この時、橋番小屋が、川下
の方にあれば、こうした動作をする人間がいることもありえるが、そういう時は、話す相
手を自分の対象にする時であり、この時、相手と自分は面と向かって話をする時にのみと
る行動となる。しかし、この時の犯人は、鈴木鉄蔵の方を振り向かずに話をしている。し
かも、橋番小屋は、川下にあるのではなく、川上の方にあるのである。したがって、犯人
が、右手であろうと、左手であろうと、川下に向いて川上の山林の方を指さすことはあり
えない。
そうなると、この時少なくとも犯人は、川上の方を向いていたことになる。ところが、
川上の方を向きながら、この時、左手で川上の山林の方を指しながら鈴木鉄蔵に返事をす
ると、体の正面は、自然に橋番小屋の方を向くことになる。すると、自然に犯人の首は、
鈴木鉄蔵の方を向きかねない姿勢になり、顔を見られたくないと行動していた犯人の心理
と正反対の動作をすることになる。
したがって、この時、犯人は、右手で川上の山林の方を指しながら、川上の方に首を廻
し、振り向きかげんに、鈴木鉄蔵に返事をしていたことになる。けれど、公判では、鈴木
鉄蔵は、「こちらをも振り向かずにうつむいた恰好で、後に久子ちゃんが殺されていたこ
とが判った二、三百間位離れた山林の方を指さして、『親爺がそこに仕事をしているから
帰りに金を払う』と言った」(第一審第二回公判)と述べているだけであった。しかし鈴
木鉄蔵立会いの現場検証(第一審第六回公判29・12・15)の検証写真によると、犯人は、
まぎれもなく、右手で川上の山林の方を指さしながら、川上の方に首を廻して振り向きか
げんの姿勢をとっている。
だが、鈴木鉄蔵は、警察官・山下馨の調べの時(29・3・12)に、犯人が「山林の方を
指さして」返事をした事実を供述していなかった。そこで、赤堀政夫がほうとうに犯人で
あれば、この事実も、自分の体験に基づいて任意に供述できたことである。しかしながら
、赤堀政夫の調書には、この川上の山林の方を右手で指さしながら、橋番の鈴木鉄蔵に返
事をしたという事実が述べられていない。つまり、ここでも任意に自白できた事柄を、赤
堀政夫はひとことも供述調書の中でふれていない。むしろ、鈴木鉄蔵の見た犯人の姿勢と
は全く逆の姿勢で、赤堀政夫は鈴木鉄蔵に返事をしたと自白していたのである。
さらにここには、赤堀政夫の自白が任意に真実を述べたものでないことを裏付ける決定
的な事実がある。それは、橋番の鈴木鉄蔵が、山下員調で「橋銭は大人が五円、子供が三
円であります」と供述している事実があるにもかかわらず、赤堀政夫は、第二回検事調書
(29・6・13阿部太郎検事)で、「蓬莱橋は番人が居て大人が十円小人が五円の橋銭を取
ります」といっているところである。
鈴木鉄蔵の第一審第二回公判の証言によると、蓬莱橋の橋銭は、「(本年三月頃)五円
でありました。しかしその後四月になって十円に値上げになっております。本年の三月頃
は、片道三円、往復五円」だったという。つまり、赤堀政夫がいう「大人が十円小人が五
円の橋銭」は、二十九年四月になってから変更された橋銭だったのだ。
しかも、検事は、事件後の四月から六月までの間に、再び赤堀政夫が蓬莱橋に行ったと
いう証拠を法廷で明らかにしてはいない。また、蓬莱橋の橋銭が四月から「大人が十円小
人が五円」になった事実を、赤堀政夫が知らなかったことは、赤堀政夫の供述調書のアリ
バイ部分や公判でのアリバイ主張によって明らかである。赤堀政夫は、二十九年三月当時
の蓬莱橋の橋銭がいくらであったかを知っていた事実があっても、四月から値上げされた
橋銭のことまでは知らなかったのだから、赤堀政夫がほんとうに犯人であるなら、蓬莱橋
の橋銭は、事件当時、「大人が五円、子供が三円」だったと自白しているのである。
ところで、橋番の鈴木鉄蔵は、三月の事件当時に蓬莱橋の橋銭が「大人が五円、子供が
三円」であった事実を山下員調(29・3・12)で供述していた。だから、取り調べに当た
った警察官や阿部太郎検事もこの事実を知りえなかったわけではない。もっとも、赤堀政
夫は、二十九年五月三十一日の第四回供述調書(相田兵市員調)で供述しているわけでは
ないので、警察での取り調べも同様だったというわけにはいかないが──。
いずれにしても、蓬莱橋の橋銭は「大人が十円小人が五円」であったと、本人の知らな
い嘘の事柄を赤堀政夫に阿部太郎検事がいわせるわけである。しかも、事件のあった三月
当時の事実と違う誤った事柄を供述させるわけだから、阿部太郎検事が、赤堀政夫にむり
やり供述させていなければ、本来こういうことは起こらない。このことは、ここで検事が
何らかの強制力を働かせた誘導訊問をおこなって、赤堀政夫に自白させる橋渡しをした事
実を物語っている。
〔十九〕赤堀政夫は公会堂前に行ったのか
ここで、もう一つふれておきたい問題がある。それは、赤堀政夫が第五回検事調書(29
・6・15)でふれている「ここで一寸前申上げた事に付け加えたいと思いますが、私が殺
して仕舞った女の子は私の勤めた事のある市内幸町の北川ポンプ屋の二軒か三軒目の八百
屋さんの娘さんで、久子ちゃんと云う事を警察へ来てから山下部長さんから話され、八百
屋の女将さんも主人も私の知って居る人で其の人の娘さんを此の様にして殺して仕舞った
事は何とも申訳がないと思います」と述べているくだりについてである。
『告訴調書』にもあったが、佐野家の八百屋の店が「北川ポンプ屋の二軒か三軒目」に
あったのは、二十九年一月末までのことである。そして、佐野家が、現在の住まいのある
場所に店を移したのは、二十九年二月からのことである。
ところが、赤堀政夫は供述調書で、九時半、あるいは十時頃に公会堂の敷地から快林寺
の墓地に入って、境内に出たというのである。この時間は、佐野家では、とうに店を開け
ていた。しかも、赤堀政夫は、快林寺裏門の入口まで行かなかったと供述している六月二
日の第六回供述調書(相田兵市員調)でさえ、「戸の見える所迄行かない中に戸がしめて
あるだろうなあと思ったので引返した」というのである。
赤堀政夫は、いずれも公会堂を通り過ぎて、快林寺の裏門の方へ歩いて行ったことを供
述している。すると、この時、赤堀政夫は佐野家の店の前を通り過ぎなかったとしても、
佐野家の八百屋の店に限りなく近づいて歩いて行ったことになる。なお、この公会堂と佐
野家とは、同じ道(道幅は六メートル七六)ぞいの斜め向かい、約十七メートル五十の位
置にある。
快林寺の墓地の塀ぞいに歩いて行く右手に八百屋の店が、何時の間にか新しく出現して
しているのである。例え、この店が佐野家の八百屋の店だと知らなかったとしても、自分
の知っていた八百屋の目と鼻の先にできた八百屋のことを何の興味も抱かずにやり過ごす
ことはまずないといっていいだろう。
しかも、真犯人は、十一時三十二分以降に快林寺の裏門の方から境内に入って行ってい
る。赤堀政夫が、供述調書に言う通り、「草色の戸」が閉まっているだろうと思って引き
返したにしても、快林寺へ入って行った時間(十一時三十二分過ぎ以降)は変わらない。
原審裁判所が認定した赤堀政夫の「十時頃快林寺境内に入った」は、事実にそぐわないか
らである。だから、赤堀政夫が真犯人であったすると、境内に入る三十分前の十一時頃、
墓地に寄ったことになる。そして、さらにその十分位前に、赤堀政夫は快林寺の墓地の塀
ぞいを「草色の戸」に向かって歩いていたことになる。
一方、この時間帯には、佐野久子はちょうど店先で遊んでいたし、母親の佐野すゞは店
に出ていた時間である。ただ、この時の可能性としていえることは、久子が家を出る前に
店先か店の中で母親からふかしたさつま芋をもらって食べかかる時間でもあった。
逆に、この時の赤堀政夫は、空腹を癒すため、これから快林寺の墓地に供物を探しに行
こうとしている人間である。赤堀政夫が、本当に公会堂の前に行っているのであれば、食
料品を扱っている新しい店の存在に気がつき、その店に目をやるというのが自然の成り行
きである。
そしてそこで、八百屋の店先にいた佐野すゞやふかしたさつま芋を食べている佐野久子
を見て、佐野家の店がここに移ったことに気づくのが自然の成り行きである。知らない人
間ならいざ知らず、赤堀政夫は、「八百屋の女将さんも主人も私の知って居る人」だった
といっているのである。だから、この日、赤堀政夫がほんとうに快林寺の裏門の通り(幸
町通り)に行っていたのであれば、赤堀政夫は、この時いつでも佐野久子や佐野すゞの存
在と佐野家の店の存在を認識できる状況にあった。そして、新しく出現した佐野家の八百
屋の店に気が付いて、赤堀政夫は八百屋が移転していることを知り、「市内幸町の北川ポ
ンプ屋の二軒か三軒目の八百屋さんの娘さん」を連れ出したなどという、事件発生日の現
場状況とちがう事柄を供述することはなかったのである。
これが、赤堀政夫が自供し始めた頃の調書なら、まだ、嘘をいっていたと自由に解釈す
ることも可能だろう。だが、このことを供述(29・6・15阿部太郎検事調書)した時期に
は赤堀政夫はさんざん犯行を認めて供述を繰り返しており、赤堀政夫にとって、今さら嘘
をいってみても、すでにどうにもならない状況にあった。だが、現場の地理に精通してい
ない検事のことゆえ、事実と違う供述を赤堀政夫にさせて、そのまま見過ごしてしまった
ともいえる。
けれど、このことが、赤堀政夫にとっては真実以外の何ものでもないから、この調書に
赤堀政夫は述べているのである。しかし、いかに尤もらしく赤堀政夫に犯行を自白させる
ことができても、真実は隠せないものである。はからずもこの赤堀政夫の阿部太郎検事に
対する供述内容は、赤堀政夫が、快林寺の裏門の通り(幸町通り)の状況に関して、昭和
二十九年一月末までの事情しか知らなかったという真実を明らかにしているのである。