− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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V 赤堀政夫裁判と島田事件の真相
 
〔二十〕赤堀政夫の自白と裁判所の判断
 
 赤堀政夫が自白した犯行に関する供述調書を検討してきて、これまでに確認した事柄を
整理してみると、次の通りになる。

(1)快林寺へ行った動機が二転三転していて、始め「家の様子を聞こう」と町へ出て快
林寺墓地を通ったことになっていたのに、墓地に入ってから供物を探したとか、食物を探
しに快林寺へ行ったとか、墓地に来た時に供物を探そうと思って墓地に入ったとか供述し
ており、家の様子を聞きに行こうとしたことなどすっかり消し飛んでいる。
(2)草色の戸に関して始め赤堀政夫は「快林寺に入ろうとしたところ境内入り口に草色
の戸がしめてあり入れなかった」(29・5・31)と自供していたのを、前回供述したこと
は嘘で「ほんとは戸のみえる所迄行かない中に戸がしめてあるだろうなあと思って」引き
返したと自供(29・6・2)していた。この点に関して原審裁判所は「後日それが事実と
相違することを指摘されて、前記のごとくその供述を訂正した」と判断したが、29・5・
31付の捜査報告書では「快林寺の西入口手前まで行ったが引返し」と供述したことが確認
されており、この判断には根拠がなかったことが明るみになった。
(3)境内へ入ったとする赤堀政夫が供述した時間(午前十時頃)では、田代いとに犯人
として目撃されることが不可能であり、しかも、田代いとの目撃した犯人は、赤堀政夫の
供述通りに「大きな木(楠)」の所に行っていない。
(4)赤堀政夫は、境内で十五、十六人の園児を見たといっているが、田代いとや太田原
松雄が見た園児は大勢ではなかった。そして、事件発生当時、境内にいたことが裁判で明
らかになった園児は、実際には四人しかいない。
(5)赤堀政夫は供述では、講堂の中は「八分目位の見物人」がいて、「人が一杯で人と
人の間から覗きました」と述べているが、橋本富美子は「未だたいして父兄は来ていなか
った」旨証言している。
(6)赤堀政夫は、「私が遊戯の中で覚えているのは四、五人の女の子がしゃがんだりし
て踊るもの丈」であったと、強調して供述しているが、田代いとが目撃した「子供が遊戯
を終って支度部屋の方へ来るとそっちへ行ったりして」犯人が見た具体的な事実を、供述
調書の中でふれていない。田代いとはこの事実を第二審第一回公判になって初めて明らか
にしている。
(7)犯人が二人の園児に声をかけて佐野久子を連れ出す時、鈴木鏡子本人だけでなく太
田原松雄もその証言ではっきり鈴木鏡子が始め犯人に返事をしていた事実を述べており、
赤堀政夫が鈴木鏡子に声をかけたが返事をしなかった旨の供述は事実と違っている。
(8)犯人が久子を伴って快林寺小路を行く時、中野ナツの家の前を通り過ぎたその直ぐ
後で、お昼のサイレンが鳴った事実(中野ナツの第一審第二回公判の証言)があるにもか
かわらず、赤堀政夫は、久子を連れ出した時間を「正午少し前」、「昼少し過ぎ頃」と曖
昧な供述をしているだけで、お昼のサイレンが鳴ったのを聞いたという具体的な事実を述
べていない。
(9)長谷川睦や小林和夫が快林寺小路や駅前通りで犯人と久子を見かけた時、人の通り
は少なかったと証言しているにもかかわらず、赤堀政夫は人通りが多かった旨供述してい
る。この時、汽車の発車時間から九分後以降に犯人は久子を伴って駅に着くことになり、
駅からの人の出入りは少なくなっていた状況をうかがい知ることができる。
(10)小林和夫は久子に「パンやさん」、「おにいさん」と声をかけられた事実を証言し
ているが、久子の直ぐ傍、一メートルと離れていない距離を歩いていたはずの赤堀政夫は
、久子が小林和夫に声をかけたこの事実を具体的に述べていない。
(11)中野ナツが二度目に見かけた時、犯人は久子を歩かせていたが、赤堀政夫は久子を
おぶっていた旨供述している。なお、中野ナツの調書は29・3・12山下馨員調になってお
り、赤堀政夫の供述調書は、相田兵市員調であった。
(12)松野みつが河原で目撃した、犯人が久子の手を引いて歩いていた事実(第二審第一
回公判で明らかになった)について、赤堀政夫は供述していない。これは、捜査官の知り
えなかった事実であり、赤堀政夫が犯人であるなら、任意に供述できた事実であるにもか
かわらず、赤堀政夫の供述調書ではふれていない。
(13)赤堀政夫は、蓬莱橋の橋銭について「大人が十円小人が五円」だった旨供述(阿部
太郎検調)しているが、蓬莱橋の橋銭は昭和二九年三月の事件当時、「大人が五円小人が
三円」だった。橋銭が「大人が十円小人が五円」になったのは二九年四月からのことで、
赤堀政夫は橋銭が四月になって値上げされた事実を知る状況になかった。
(14)赤堀政夫は橋番に声をかけられた時、川下を向いて返事をしたとしているが、鈴木
鉄蔵が第一審第二回公判で具体的に述べた証言によると、川上の蓬莱橋の右手の山を犯人
は自分の右手で指差しながら返事をしていたのである。この点も赤堀政夫が任意に供述で
きた事実であるが、述べていないだけでなく、川下を向いていたという正反対の事実を供
述しているのである。
(15)赤堀政夫は、佐野家の八百屋の店が、北川ポンプ店の二、三軒隣りにあったと供述
(阿部太郎検調)しているが、事件当時、佐野家の八百屋の店と公会堂は、道路(幸町通
り)を隔てた斜め向かいに位置しており、供述では赤堀政夫はその八百屋の店の前へ向か
ってしばらく歩いて行ったことを述べているにもかかわらず、その八百屋の店に気が付か
なかったというのである。

 以上が、赤堀政夫の自白と目撃者の目撃事実や客観的事実、佐野久子の死体の鑑定結果
などと食い違うところである。ところが、これ程、客観的事実と食い違っている赤堀政夫
の自白調書の証拠価値を認定している目撃者の証言に対する評価を、第一審の裁判所は次
のようにしている。

(一)証人鈴木鉄蔵の証言は、被告人が本件犯行の犯人であることを認定せしめる証拠と
  しては、かなり有力であるといえる。その供述に関し、弁護人は、同人が本件犯行直
  後司法警察員に対し、犯人は土地の人ではないと考えられる旨供述している点(二九
  ・三・一二、員調)を指摘してその証明力を争っている。
   しかし、鈴木鉄蔵は、男が橋番の前をだまって通ったという事実から、橋銭を払う
  ことをしらぬものではないかと推測し、それから推論された意見として、右のように
  司法警察員に述べたものと認められるから、このことを以て、同人の証人としての供
  述が信用できないと論断するわけにはゆかない。
(二)証人太田原ます子は犯行当日犯人を目撃し、面通しをした太田原松雄の行動を証言
  している(三公)。その供述には、誇張のきらいがないわけではないが、太田原松雄
  が犯人を目撃したこと、同人が昭和二十九年六月六日警察署で被告人をその犯人であ
  ると指摘したこと、その他の十名位の容疑者や百余枚の写真に写されている人物につ
  いては、いずれも犯人と異る旨答えた事実は、真実であると認めざるを得ない。
   ところで、太田原松雄が、被告人を犯人であると指摘した事実から、直ちに(すな
  わち、いかなる事実に基き、被告人と犯人との同一性を認めたかということに関する
  太田原松雄の供述を得ることなしに)、被告人が犯人であると認定することは、伝聞
  法則に反するといえるかもしれないが、太田原松雄は、当公判廷では当時の記憶を喪
  失していて、右の点に関する充分な供述をなし得ないことでもあるし、右に認定した
  ように、他の場合には、同人が見せられた容疑者または写真の人物が犯人と異る旨を
  供述していることにかんがみると、これら一連の事実から、同人が被告人を犯人であ
  ると指摘したことには相当の理由があるものと認めることができ、従って被告人が、
  太田原松雄の目撃した犯人であると認定することも、不当であるとは解し得ない。
   もっとも、太田原ます子の供述によれば、太田原松雄を被告人に面通しさせる際、
  捜査官が「久子らゃんを連れ去った犯人が捕まったからその顔を見せに行く」旨を述
  べ、松雄に或る程度の暗示を与えたことがうかがえるけれども、同人が被告人を犯人
  であると指摘した状況や前段認定の事実に照し、その暗示が松雄に不当な先入観を与
  えたものとも思われない。
(三)中野ナツが当公判廷で供述したところと、同人が本件犯行直後(三月十二日)司法
  警察員に対し供述したところとは、かなり相違する点もあることは認めなければなら
  ない。しかも、司法警察員に対する供述も、鈴木鉄蔵の供述などと対比すると、正確
  な記憶に基くものとは認められないのであって、結局、中野ナツの犯人の服装、容貌
  に関する印象、記憶はあいまいであるが、その供述は、犯人の横顔が被告人と似てい
  ることや、犯人の歩いた経路を証明するにたるものである。
(四)証人松野みつ、同橋本秀夫、同橋本すえの供述も、犯人の歩いた経路を明らかにす
  ることができる。

 つまり、「犯人の歩いた経路」は赤堀政夫の自白調書と一致すること、犯人として警察
で見せられた赤堀政夫は目撃者が見た犯人と似ていたことを以て、事件の目撃者の証言を
評価したのである。ところがこの時、目撃者は、犯人(赤堀政夫)を捕まえたから確認し
てくれと警察官にいわれて見せられていた。しかも、第一審の法廷で検察側が提示した目
撃者の調書は、中野ナツ、鈴木鉄蔵、長谷川睦の警察での供述調書だけである。だから、
第一審の裁判官が、赤堀政夫を逮捕した時に捜査官が「犯人の歩いた経路」をすでに知っ
ていたことに気付かなかったということも可能である。
 だが、赤堀政夫を逮捕した時、捜査官が「犯人の歩いた経路」をすでに目撃者の供述に
よって知っていたことは、三月二十五日付『捜査報告書』や目撃者の各証言によって明ら
かである。だから、「犯人の歩いた経路」が目撃者の証言と一致することを以て、「秘密
の暴露」に当たるとすることはできない。しかも、赤堀政夫の自白調書の証拠価値を認定
した第一審の裁判所は、その判断を各目撃者に目撃された犯人の行動と一致している事実
に基づいて示したわけではなく、次の通りの裏付けのないものであった。

 なるほど、被告人の記憶は日を遂って統一されてはいないけれども(このことは、被告
人の智能程度が低く軽度の精神薄弱であることにゆらいするものと認められらる)、その
供述は、概して何等かの機会に表象し、または体験した事象にかかわるものであって、こ
とさら虚構したあとが見受けられない。のみならず、本件犯行に関する供述の内容や態度
には、誇張されたところはあるにしても、真に迫ったものが見受けられる。それであるか
ら、被告人の供述が捜査官の暗示により虚構されたものと認めるのは困難であって、特に
印象の強い、また日常生活の連鎖から離れた本件犯行についての供述は、明確な記憶に基
く信憑性の高いものであるが、その周辺に生起した通常の浮浪生活については、特長のあ
る部分(たとえば、大磯警察での取調べを受けたことなど)を除き、その記憶(特に日時
の点に関する記憶)があいまいであって思いついたままを供述していると認めるのが相当
である。
一、本件犯行は先に認定した通り、白昼、誰しもそのような場所でかような犯行がなされ
 ようとは夢想だにしない。人家の密集したしかも幼稚園の中において、未だ七才にも満
 たない無垢な、何の罪咎のない幼女を甘言を以て誘い、これを人里離れた通常誰もが行
 くことすらはばかる山中に連れ込み、そして恥ずかしめ殺害したものである。
二、しかもその殺害方法たるや、姦淫した上、もがいて泣き叫ぶ幼女に腹を立て、その胸
 部を石で強打し、更に両手を以て扼殺している。かような行為は、恐らく通常の人間に
 は、よくなし得ない悪虐、非道、鬼畜にも等しいものであるといわざるを得ないであろ
 う。
三、被告人は先に認定した通り智能程度が低く、軽度の精神薄弱者であり、その経歴を見
 ると殆んど普通の社会生活に適応できない。これは被告人の性格にのみ基因するもので
 はなく、人格形成期における家庭、社会の環境に影響されたことが重要な原因となって
 いるのであろうことは、推察し得るが、さりとてこれらの事情を本件について被告人の
 有利な情状として考えるには、本件はあまりにも大胆な、そして計画的、残虐な犯行で
 ある。

として、第一審の矢部孝裁判長は、赤堀政夫に死刑判決を言い渡したのである。
 しかし、赤堀政夫の自白は、まず、・具体性に乏しいこと〔6、8、10、12に示した自
白に関する検討後の結論の通り/以下同じ〕は、目撃者の目撃証言との比較の上から言え
る。それだけでなく、・目撃者の目撃事実と違うこと〔3、4、5、7、9、11、13、14
の通り〕が挙げられる。更に、・客観的事実と違うこと〔2、3、4、5、7、8、9、
11、13、15の通り〕が指摘できる。そればかりでなく、赤堀政夫が逮捕され、捜査官の取
り調べを受けていた当時、・目撃者が公判の証言に立った時、初めて具体的に証言に及ん
だ捜査官が知り得なかった目撃事実〔6、8、11、12、14の通り〕を任意に自白していな
いことから、いわゆる「秘密の暴露」にあたる事実が、一切、存在しない自白になってい
る。しかも、・取り調べ捜査官が目撃者から聞き込んで知っていた事実と違う供述〔4、
5、7、9、13、15の通り〕をしていた。その上、・動機が二転三転としていることが特
徴になっている。
 これらの赤堀政夫の自白の特徴のうち、特に・捜査官が知り得なかった「秘密の暴露」
にあたる事実を具体的に供述していない、や・取り調べ捜査官が、目撃者から聞き込んで
知っていた事実と違う事柄を供述している、が十一項目に及んで指摘できることからいっ
て、赤堀政夫に供述させた取り調べ警察官や検察官は、自分が知識として持っていた事件
像通りの供述を赤堀政夫に迫っていたことを指摘できる。つまり、取り調べた警察官や検
察官の認識にあった事件像と食い違っていなかったから、目撃者の証言や客観的事実と食
い違っていても、これらの事実は、変更されることなくそのまま赤堀政夫の調書に真実と
して述べたことにされてきたのである。
 そして、目撃者の証言や客観的事実と食い違っていることに、捜査官が気付いた点につ
いて、赤堀政夫は供述を変更させられたのである。このことを端的に物語っているのが、
相田兵市が赤堀政夫に供述の変更をさせた「草色の戸」である。五月三十一日付の第四回
供述調書と捜査報告書で赤堀政夫が供述したとする事実が食い違っていたことは、このこ
とをあからさまに示している。これらの調書で捜査官は、それぞれ異なった事柄を真実で
あると供述させて、食い違う事柄はそれぞれ「うその事実」であると赤堀政夫に自白させ
ていた。したがって、赤堀政夫が「草色の戸」で供述変更した理由にあげた原審裁判所の
判断には根拠がなかったことが、五月三十一日付『捜査報告書』で赤堀政夫が「草色の戸
」に関して異なった事柄を供述していた事実によって明るみ出たのである。
 そこで、赤堀政夫が犯行後自分の陰部を拭いた(29・5・31相田兵市員調)という供述
を二日後(29・6・2相田兵市員調)になって変更した事実を、原審裁判所が「後始末を
しなかったというと体裁が悪いので、ズロースで始末したように述べたものと供述(29・
6・2員調)しており、この理由が全く不可解なものとはいいきれないし、また、実際行
わなかったことを行ったように述べたとしても(しかも、被告人は前記のごとく、後始末
したように思うと述べているのである)、通常行われる習慣的な行為を附加的に述べたに
すぎないと解すべきである」と認定したことにも疑問が生じてくる。
 なぜなら赤堀政夫は、ほかに六個所にわたって供述した「うその事実」(捜査官も知り
えた客観的事実に反する事実)は、いまだに真実であるとされているのである。だから、
「ズロース」の点だけを「全く不可解なものとはいいきれない」として理解することはで
きない。実際は、かつて第一審で弁護側も主張したように、一度は赤堀政夫にズロースで
始末したように供述させたが、ズロースに血痕が付着していなかったことに、後から気が
付いた相田兵市によって、あわてて供述変更させられたと見るのが自然である。
 したがって、赤堀政夫はこれらの諸点で、あくまでも目撃者の証言や客観的事実と違う
事実を述べているわけであり、赤堀政夫の自白調書は、真犯人として赤堀政夫が本当に経
験したことを具体的に供述したものであると認定することはできない。赤堀政夫の自白調
書に「草色の戸とズロース」の点を除いてもまだ六つの客観的事実と違う事柄が、そのま
ま変更されることなく供述調書に盛り込まれていても、その後もなんの矛盾も起こさなか
ったのは、取り調べた警察官や検察官が自分たちの思い描いていた事件像通りに赤堀政夫
に犯行を自白させた調書が作られたからである。しかも、赤堀政夫の調書は、捜査官の暗
示により虚構された赤堀政夫の自供を通り越して、捜査官の想像の産物ともいえるありも
しない事柄で構成されて作られているのである。
 事実は、島田市署で赤堀政夫を取り調べた捜査官が、当初から犯行のストーリーに強い
影響力を働かせて赤堀政夫に供述させていた。しかも、その後も赤堀政夫は島田市署に勾
留されていて、検事や裁判官のところへ連れて行かれ、取り調べを受けていたのである。
だから、検事や裁判官の前で赤堀政夫が自白を維持し続けていたことを理由に、自白の強
制はなかったとすることはできない。
 むしろ、赤堀政夫の警察での自白と検事に対する自白に、ほとんど差異がないところか
らすれば、警察で赤堀政夫に自白を強要した捜査官の影響力の強さをうかがうことができ
る。しかも、赤堀政夫の警察官に対する自白が、検事や裁判官の前でもそのまま維持され
ていたことからして、赤堀政夫は自白を維持し続けざるを得ない精神状態に常に追い込ま
れていたことを見て取ることもできるのである。
 したがって、「このことからして被告人の陳述がすべて虚構のものであるということは
できない。さらに、被告人が相田警部に指摘されてその陳述を訂正したことは、供述の経
過に照らし、明らかであるが、そうだからといって被告人の供述に強制や不当な誘導が加
わったと推測することはできない」と原審裁判所が認定したことは、事実誤認に基づいて
いるといえる。
 だから、第一審の決定で矢部孝裁判長が、赤堀政夫の犯行に関する自白を真実であると
認定し、「かような行為は、恐らく通常の人間にはよくなし得ない悪虐、非道、鬼畜にも
等しいものである」と述べた理由も、「本件はあまりにも大胆な、そして計画的、残虐な
犯行である」として赤堀政夫の犯行とした根拠も存在していなかったことになる。その点
に関して、第四次再審請求差戻審の高橋正之裁判長は、この原審決定をくつがえした『再
審開始決定』(61・5・29静岡地裁)の「八 請求人の自白の任意性、信用性について」
の中で次の判断を示している。

3 確定判決は、請求人の自白調書に信用性を認め得る根拠として、(一)請求人が、昭
 和二九年五月三○日夜島田警察署留置場保護室内で、当直副主任であった警察官松本義
 雄に対し、「大罪を犯してしまいました」と述べたこと及びそのときの態度(原第一審
 証人松本義雄の供述)、(二)請求人が、同月三○日、捜査官清水初平に対し、本件犯
 行を自白したときの状況(原第一審証人清水初平の供述)、(三)請求人が同月三一日
 以降、司法警察員相田兵市に対し、本件犯行を自白したときの態度及び証拠物たる被害
 者の着衣等を示されて、「もう見せないでくれ。警察署付近で遊んでいる子供の声を聞
 くとあの子が生き返ってくるような気がしてならない。早く刑務所に送ってくれ」とい
 って顔色を変えたこと(原第一審第四回公判における証人相田兵市の供述等)、を掲げ
 ている。しかしながら、前記のとおり請求人が捜査官に自白するに至った事情、経緯に
 つき請求人の心理的傾向等に関連して前述の事情があったのではないかと考えられなく
 もないことを考慮すると、取調べ当時請求人に右の言動、態度があったとしても、それ
 をもって直ちに請求人の自白が真実であることの決定的な証左であると断ずることは躊
 躇されるうえ、そもそもこれらの言動、態度があるからといって、先に指摘した自白内
 容の重大な疑点等が解消させ得ないまま、右の言動、態度をもって、請求人の自白調書
 (勾留質問調書も含む)の信用性を肯定する理由とはなし難いものといわなければなら
 ない。
4 右のとおり、確定判決の指摘する諸点は、請求人の自白調書の信用性を根拠づける理
 由としては十分でないうえ、差戻決定も指摘するように、犯行後の足どりに関する請求
 人の自白調書の中には、明らかに客観的事実に反する供述がある。
  例えば、神奈川県大磯地区警察署の警察官であった原第一審証人千田啓及び同山本典
 太の各供述等によれば、昭和二九年三月一二日夜右警察官らが当直勤務中、管内の大磯
 町高麗の祠でぼやが発生した旨の通報を受け、現場に駆けつけたところ、一見して浮浪
 者風である請求人と岡本佐太郎なる者が提灯等を燃やして暖をとったというので、両名
 を右地区署に連行して取り調べ、いずれも本籍照会等により本人と確認したが、翌朝微
 罪として釈放した事実が認められる。しかるに、請求人の自白調書には、右の事実に触
 れた記載が見当たらず、かえって、請求人の検察官に対する昭和二九年六月一五日付(
 第四回)供述調書によると、同日は日坂から島田方面に戻り、その夜静岡大学島田分校
 寄宿舎裏の農小屋に泊まった、という虚偽の供述をしていることは、同供述が犯行状況
 に関するものではないとしても、差戻決定が指摘するとおり、請求人の自白調書の真実
 性に疑問を投ずる一つの徴憑ともなっている。確定判決も、請求人の捜査官に対する供
 述は、本件犯行日の行動については終始ほぼ一貫しているのに対して、犯行日前後の行
 動に関する供述は再三変化しており、とりわけ、本件犯行後の行動についての供述は、
 三月一二日請求人が大磯地区警察署で取調べを受けたという事実と全く相容れないもの
 であることはこれを認めなければならないとしている。
5 右のようにみてくると、これまで検討してきたところも含めて、請求人の自白内容に
 はその信用性、真実性に不審を抱かせる幾つかの点が指摘されるのであり、このような
 不審点がありながら、なおも犯行に関する請求人の自白に十分な信用性、真実性がある
 とするためには、自白が具体的、詳細であるとか、迫真力があるとか或いは請求人を犯
 人と窺わせるようなその他の言動が存するというだけでは不十分であって、あらかじめ
 捜査官の知り得なかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたいわゆる「秘
 密の暴露」が存する等、前述の不審点を克服して有罪の心証を形成できるほど高度の真
 実性を担保するものがなければならないというべきである。本件においては、先に説示
 したとおり、被害者の左胸部の傷が請求人の供述によって初めて本件石で殴打したこと
 によるものであることが判明したとの点については、いわゆる「秘密の暴露」にあたら
 ないし、その他の自白の真実性の吟味にたえ得る具体的な事実についての請求人の「秘
 密の暴露」にあたる供述が存する等高度の真実性を担保するものはみあたらないという
 べきである。
  そうだとすると、確定判決が、請求人の本件犯行に関する供述の内容や態度に、誇張
 されたところはあるにせよ、真に迫ったものが見受けられるから請求人の供述が捜査官
 の暗示により虚構されたものと認めるのは困難であって、特に印象の強い、又、日常生
 活の連鎖から離れた本件犯行についての供述は、明確な記憶に基く信用性の高いもので
 ある旨判示したのは、たやすく支持し難いところといわなければならない。

 つまり、真実は、赤堀政夫の自白調書が、・具体性に乏しいこと、・目撃者の目撃事実
と違うこと、・客観的事実と違うこと、・捜査官が知り得なかった「秘密の暴露」にあた
る事実を一切具体的に供述していないこと、・取り調べ捜査官が目撃者からの聞き込みな
どによって知りえた事実と違う事実を供述していること、・動機が二転三転としているこ
とからいって、赤堀政夫はまさに「強制や不当な誘導」によって自白させられていたとい
えるのである。
 したがって、第一審の確定判決が「判示のごとき被告人の性格に徴すれば、被告人が意
識的に犯行日前後をあいまいに供述しているとみることは困難である。むしろ、被告人が
判示のごとく、習性として諸処を放浪している事蹟にかんがみれば、いつ、どこを放浪し
ていたかということについて明確な記憶をもっていなかったとみとめることが判示のごと
き被告人の智能程度に照しても、自然なことである。
 しかし、かような生活歴においても、本件のごとき重大事件につき、被告人が相当鮮明
な記憶をもっていたとしても怪しむにはたらない」
「そこで、被告人の供述の真実性が問題となるのであるが、この点に関しては、まず、被
告人が軽度の精神薄弱者であり、心因反応もおこし易いこと、従って、捜査官の誘導によ
って暗示にかかり易いこと(林×、鈴木喬鑑定人作成の三○・一二・五鑑定書及び九公鈴
木喬の供述)を考慮しなければならない」と認定してきたことも成り立たず、赤堀政夫の
自白に真実性は存在していない。
 そして、唯一の一致点が、原審裁判所も指摘したように、犯人が久子を連れ出すのに歩
いた道筋(経路)だけであった。しかし、赤堀政夫が取り調べを受けた五月二十四日以前
に捜査当局がこの事実を目撃者の供述によってすでに知っていたことはいまさらいうまで
もない。だがら、犯人の歩いた経路だけが、赤堀政夫の自白と一致していることは、捜査
官の「強制や不当な誘導」があった事実を物語っていることになる。
 だから、『再審開始決定』がもう一方で、

2 まず、原第一審において取り調べた関係各証拠によると、請求人が本件犯行を自白す
 るに至った経過は、次のとおりである。
  請求人は、本件の容疑者の一人であったが、昭和二九年五月二四日、岐阜県下で職務
 質問にかかり、翌二五日島田警察署に任意同行されて同年三月一○日前後の行動につい
 て取り調べられ、その間に窃盗の犯行を自白した。同月二五日夕刻から同月二八日朝ま
 での間は不拘束のまま金谷民生寮に寄宿し、同日朝右島田警察署で窃盗罪により通常逮
 捕され、自白調書を作成されたうえ同月二九日島田区検察庁に送致され、同日勾留され
 た。そして、同月三○日夜に至り、司法警察員清水初平に対し本件についての最初の自
 白をなし、同日簡単な自白調書が作成された。翌三一日、本件についての詳細な自白調
 書が作成され、同年六月一日窃盗罪については釈放のうえ殺人罪等で再逮捕された。同
 月三日、静岡地方検察庁へ送致され、勾留請求のうえ同日勾留されたが、その後も警察
 官、検察官に対して詳細な自白をしており、捜査段階においては、本件について初自白
 以降否認に転ずることなく自白を維持した。
  以上のとおりであるが、請求人は、公判段階に至って捜査段階での自白を全面的に翻
 して本件犯行を否認し、以後一貫して、前記自白が捜査官の誘導、強制等の取調べによ
 るものであり、任意性、信用性がない旨主張しているところ、差戻決定も指摘するとお
 り、請求人の取調べにあたった捜査官らの原第一審又は原第二審における供述等の関係
 各証拠に徴しても、明らかに違法とすべき取調べが行われたものとは認め難いが、これ
 まで検討し、述べてきた重要な諸点につき、自白内容と新旧各証拠を総合して認められ
 る客観的状況とが符合しないところがあること等の点に照らすと、請求人が、軽度の精
 神薄弱者であり、感情的に不安定、過敏で心因反応を起こしやすく、したがって、捜査
 官の誘導によって暗示にかかりやすい傾向があること等を併せ考慮すると、捜査官によ
 る長時間の追求を受け、想像や推測をも交えて、捜査官の想定した状況に迎合する供述
 をしたのではないかと考えられなくもない。これが直ちに自白の任意性を失わせるか否
 かはともかくとして、右の事情は、自白の信用性の判断にあたって看過し難いところと
 いわなければならない。

と述べていることは、根拠を持っていないことが指摘できる。しかも、『再審開始決定』
に「請求人が、軽度の精神薄弱者であり、感情的に不安定、過敏で心因反応を起こしやす
く、したがって、捜査官の誘導によって暗示にかかりやすい傾向があって、供述したと考
えられなくもない」(傍線筆者)とまで影響を及ぼしている第一審の確定判決が認定した
、赤堀政夫は「生来智能程度が低く、軽度の精神薄弱であって、学業もふるわなかった」
という判断で赤堀政夫の自白を推論したことは、赤堀政夫の自白調書を検討してこれまで
にえた結論からいって妥当性を欠くものだったことが明らかになっている。
 だが、赤堀政夫は「生来智能程度が低く、軽度の精神薄弱」があったから、このような
「恐らく通常の人間には、よくなし得ない悪虐、非道、鬼畜にも等しい」犯行をしたとす
ることには理由がないのである。また、赤堀政夫の自白が、「生来智能程度が低く、軽度
の精神薄弱」であったから、これまで検討してきた通りの自白調書になっていたとするこ
ともできないのである。だから、この裁判で、「鑑定人林×、同鈴木喬作成の鑑定書及び
第九回公判調書中証人鈴木喬の供述記載部分」に、原審決定に言う意味は何一つ存在して
いなかったことになる。したがって、赤堀政夫の真犯人説を認定する根拠に、原審の裁判
官が「鑑定人林×、同鈴木喬作成の鑑定書及び第九回公判調書中証人鈴木喬の供述記載部
分」を挙げて証明しようとしたことも、いまや根拠をもたない。

  〔二一〕アリバイの主張と裁判所の判断
 赤堀政夫の供述に関連して、赤堀政夫が主張したアリバイについて、原審裁判所が認定
した根拠を検討してみよう。
 第一審の矢部孝裁判長は、「被告人の犯行後の情況を考察するに、被告人は警察検察庁
においては一貫してその犯行を認め、悔悟の様子も見られなかったわけではないが、当公
判廷においては終始その犯行を否認し、弁解してやまない。これを被告人にのみその責が
あると考えることはできないが、主として被告人自身いまだその犯罪の重大さと、罪責の
深さを認識することはなく、言をかまえて罪を免れようとする態度に外ならず、誠に遺憾
という外なく、ここに至って、裁判所は更に被告人の反省を促すものである」と述べてい
る通り、赤堀政夫が公判になってから自白をひるがえし、その後、アリバイを申し立てた
ことに関して、「言をかまえて罪を免れようとする態度」だと決めつけてきた。
 だが、赤堀政夫の自白には真実性がなく、「秘密の暴露」に当たる事実も存在していな
いことは、これまで見てきた通りである。したがって、赤堀政夫がアリバイを主張したこ
とが「言をかまえて罪を免れようとする態度」だと、原審裁判所が認定してきた根拠はす
でに成り立たない。赤堀政夫は「犯人ではない」からである。
 したがって、第一審の公判になってから赤堀政夫がアリバイを主張したことは、罪を免
れるためにしたものではなく、赤堀政夫の主張通りに、まさに身のあかしを立てようとし
て、必死に過去のうすれた記憶を思い起こしながらなされたものである、ということにな
る。だから、その記憶に曖昧さがあるから、間違っているとすることは最早できない。曖
昧であろうとも、赤堀政夫がアリバイを申し立てて主張したことは、すべて真実に基づい
ていたことのである。
 ところが、第一審の公判で、検事は、赤堀政夫の「昭和二十九年三月三日に家を出て、
東京までいったん出たあと、再び西を目指して放浪を重ね、名古屋まで出て、名古屋から
岐阜にかけて放浪していた」というアリバイ主張をつぶすために、赤堀政夫を三月十日の
事件前の三月七日頃と三月九日にそれぞれ島田市とその近郊で見たという、松浦武志と小
山睦子の二人の目撃証人を事件後に登場させた。
 これらの諸点に関して、一定の判断を示した『再審開始決定』(61・5・29)は、「請
求人のアリバイ主張を積極的に否定する証拠をみると、確定判決が掲げた松浦武志の供述
については、前記新証拠である農林省茶業試験場作成の昭和二九年二月、三月の各気象表
写によって、同人が請求人と会ったのが昭和二九年三月七日とする同人の供述の信用性に
疑いを入れる余地が生じたが、同月九日島田市近郊で請求人に会ったという原第一審にお
ける証人小山睦子の供述及びこれを裏付ける各証拠が存在し、これについては新証拠の提
出がなく、原第一審裁判所の判断をかえるべき特段の事情はない。
 したがって、以上の検討からすると、新証拠によって松浦武志の供述の信用性に疑いが
生じても、なお、請求人のアリバイの主張を肯認することはできず、その他請求人のアリ
バイに関する主張を裏付けるために弁護人から提出された各証拠を検討してみても、右の
認定に影響を及ぼすものはないというべきである」と認定している。
 そこで、次に、事件前に赤堀政夫を見たとする事件後の目撃者の証言に対する裁判所の
判断と実際に目撃者の証言を検討して問題がないのかどうか詳しく検討してみることにし
よう。
 

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