− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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〔二三〕第四次再審請求と検察官
 
 (1)有ケ谷百合子の証言
 佐野久子の母親・すゞは二十九年に赤堀政夫が逮捕されて、いく日も経たない日の夕方
三時頃に、有ケ谷信一から二十九年三月九日の夕方、島田の御陣屋稲荷境内(快林寺正門
に向かって右の奥隣にある)の階段の所に犯人赤堀政夫がいたのを見たと教えて貰った事
があるということを、昭和五十四年七月十三日になって東京高等検察庁の長尾喜三郎検事
、中島正昭検察事務官に、島田区検察庁で供述している。佐野すゞは供述調書で、

 当時有ケ谷さんは私の今居る家の二軒置いて裏に住んで、ジャリトラの運転手をしてい
ました。
 教えて貰った日は、犯人赤堀が捕まっていく日も経たない日の夕方三時頃だったと記憶
しています。その当時は私の家は八百屋をしていました。
 私が一人で家の前に立っていたら有ケ谷さんが一人で通りかかって私に話しかけてきま
した。その内容は、犯人が捕まったけど
「赤堀という奴はどうしようもないやつだよ」
「やったのはあれに決っているよ」
「あいつは刑務所に入ったり出たりしていて、刑務所の中でもお釜なんかやるし、鼠小僧
 みたいな奴だ」
「橋の下へ潜って逃げたりし、そういう事に関してはベテランだ」
「お稲荷さんの九日の晩に赤堀がお稲荷境内の階段の所にいたもんで何んだお前は、今島
 田にいるだか、と聞いたら笑って『うん』と云っていた」
という話しでした。
 只今お稲荷さんと云ったのは御陣屋稲荷の事で九日の晩というのは昭和二九年三月九日
のことです。
 信一さんは私にその話しを聞かせてくれてすぐ別れました。私はこの話しはその後、じ
っと自分の胸一つにとって誰にも話しませんでした。
 と申しますのは一つには、赤堀が犯人と決まり死刑囚と決まったので、云う必要はない
と思っていたからでした。処が赤堀が死刑と決まっていいかげんたってから島田市議会議
員の森源という方が赤堀無罪説の本を書き、その本を読んでみたところ赤堀は事件当時島
田にはいなかったという風に書いてあったので私は信一さんから聞いた話しとは違うと思
い、信一さんは三月九日御陣屋稲荷の境内で赤堀政夫のいるのを見たと云っているので、
この事をいつかその機会を見つけて話しをし、赤堀が当時島田にいた事を知らせようと思
って待っていたところ、検事さんが見えてくれたので話しをしたのでした。
 警察に申し出なかったのはもう警察から手がはなれて「死刑囚になった事件であり警察
に話しをしてもしかたがないと思い、正直なところ誰に云ったらいいかまよい、その機会
を待っていたところ検事さんがきてくれたので話しをしたのです。

 と述べている。佐野すゞに話したとされた有ケ谷信一は、同じ日の検事の取り調べに答
えて次の通り供述している。

 実は私は見た事はないのですが、私の家内が私と長男真と一緒に島田の御陣屋稲荷のお
祭にお参りに行った時に、その境内で赤堀政夫に出会ったという事を家内から聞いた事が
あるのです。家内が赤堀に会ったという日は御陣屋稲荷の本祭が昭和二九年三月一○日と
いうならば、その日の夕方か、或いはその前日の夜宮に行った時に赤堀が居て子供を見て
にやにや笑っていたというのでした。
 私がこの事を家内から聞いたのは赤堀が、久子ちゃん殺しの犯人として捕まった時に聞
いて知りました。私は気がつきませんでした。
 この話しを殺された久子ちゃんの母親である佐野すゞさんに話しをした事はなかったか
のお尋ねですが、話しをしたかどうか記憶にありません。当時私は佐野すゞさん方の裏に
住んでいて、すゞさんの家は八百屋をしていて私はすゞさんの事をすうちゃんと呼んでい
ました。
 そして私の長男とすゞさんの長男正吾君とは同級生で親しくしておりました。ですから
すゞさんがそう話しを私から聞いたと云っているなら或いは赤堀が犯人として捕まってか
ら、やはり赤堀が犯人だったのか、悪い奴だという事で話しをしたのかも知れませんが、
現在では話しをしたかどうか記憶にありません。
 私の家内は赤堀と同じく本通り○丁目に住んでいて赤堀とは同級生でありますから、赤
堀の事を良く知っており、家内が御陣屋稲荷の境内で赤堀を見たと云っている事は間違い
ないと思うのです。

 そして、当の有ケ谷百合子は、同じ日の検事の調べで、御陣屋稲荷の夜宮の日に赤堀政
夫を見た時のことを次の通り供述している。

 私が赤堀政夫さんを島田の御陣屋稲荷の境内にいるのを見た事があるので、申し上げま
す。それは久子ちゃん殺し事件のあった昭和二九年三月の事で、日は記憶していませんが
本祭りがその年の三月一○日だとすればその前日である九日の夜宮の時です。
 時間は夕方でまだ明るかった頃ですから午後五時頃でした。長男真を連れて主人信一と
一緒に御陣屋稲荷にお参りに行きました。その時赤堀に会ったのです。私は赤堀とはクラ
スは違いますが、第四小学校の同級生で、所も同じ本通り○丁目に住み、赤堀さんの家は
下駄屋をしていて良く買いに行ったりしていたので、赤堀さんの顔は良く知っているので
す。
 赤堀さんと会ったのはお参りを済ませて階段を降りてきた所、この図面の□印の所で赤
堀さんが四〜五人の子供を連れて遊んでいるのに出会ったのです。
赤堀は私達を見つけてにこにこ笑っていました。その子供達は四才から五才で赤堀さんの
周りにくっついていました。私の知らない子供達でした。私達は、別に言葉もかわさない
で通り過ぎてきました。その時主人はお酒を一杯呑んで御機嫌が良かったのです。赤堀さ
んが久子ちゃん殺しの犯人として捕まった時に主人に夜宮の時に赤堀さんと会った事を話
しをした処、主人はその時知らなかったと云っていました。
 一杯呑んでいたので気ずかなかった訳です。
 私が、夜宮で赤堀さんと会った時は普通のなりきの格好をしていました。なりきの格好
というのは余りきれいでないという事です。背広姿ではありません。髪はいつも短くして
いるのでその時も短くしていたと思います。
 私は赤堀さんに会った話は主人に話しただけで誰にも話しませんでした。話しをしなか
ったのは太田原松雄君等私より久子ちゃん殺し事件の事を良く知っている人が警察の方に
話しをしているというので夜宮で会った程度の事を話すまでもないと思って云いませんで
した。

 東京高等検察庁の検察官検事・黒瀬忠義は、この三人の供述調書を元に一年後の五十五
年七月十日、東京高等裁判所第三刑事部宛に事実取調請求を出した。立証事項は、「昭和
二九年三月九日午後五時ころ請求人(赤堀政夫)が島田市柳町の快林寺(筆者注・御陣屋
稲荷の誤記か)にいたこと」であった。
 もし、この証言が真実であると、三月三日、家を出て放浪していたので島田にはいなか
った、と主張していた赤堀政夫にとって、小山睦子の証言同様、状況証拠として不利なも
のになったはずである。だから、前任者の清水安喜検事から島田事件の担当を引き継いだ
黒瀬忠義検事は、この事実取調請求を出したことで、弁護側の「石は凶器ではない、石で
胸の傷はできない、石は現場にはなかった、犯行順序が違う、三月十日は横浜の戸川神社
にいた、したがって、赤堀政夫は犯人ではない」という主張に一矢むくいることができる
と、ひそかにほくそ笑んだことだろう。
 その頃すでに、赤堀政夫を支援する運動の中にいて、この検察側の動きを知ったわたし
も、新たな目撃証言の出現には驚いたものである。しかし、この検察側の立証事項に対す
る弁護側の反対立証の調査は、島田事件対策協議会の仲間の手によって、たちどころに完
了した。そして、それは、弁護側の五十五年九月二十六日付『証拠調請求書』として東京
高等裁判所に提出された。
 それは、五十五年七月十六日に御陣屋稲荷の『稲荷神社祭典奉納帳』を調査して、二十
九年三月の本祭は何日に行なわれていたのかを確認して、日時に関する事実関係を明らか
にしたというのがその内容である。そして、調査によると、二十九年の本祭は三月三日に
行なわれていたことが明らかになった。したがって、その夜宮(宵宮のこと)は、三月二
日だったことが判り、はからずも、赤堀政夫が家を出る前日の三月二日の午後五時頃、赤
堀政夫は御陣屋稲荷の宵宮に行って遊んでいた事実が、二十六年の時間を超えてよみがえ
ることになった。

 (2)石の発見経過と捜査資料の提出拒否問題
 同じ日の五十五年七月十日に東京高等裁判所第三刑事部宛に出された事実取調請求書で
、東京高等検察庁の検察官検事・黒瀬忠義は、さらに、五十四年七月十三日付石沢岩吉の
検察官に対する供述調書を元に「佐野久子の死体発見直後、死体付近に石塊が落ちていた
こと、佐野久子の死体があった付近に、石があった事実」を立証しようとした。事件当時
、石沢岩吉は、静岡民報島田通信部の記者をしていて、佐野久子の遺体が発見された現場
に直行し、その遺体あった現場を見たという。石沢岩吉はその供述調書で、

 私が遺体の現場に直行したのはその日、消防団員の協力を得て山狩り捜査をしていると
いうので島田署の紅林時次郎さんと一緒に島田署の車に同乗して出かけました。時間は古
い事ではっきりしませんが多分午前一○時から、一一時頃迄の間ではなかったかと思いま
す。
 蓬莱橋の左岸側のたもと迄来た所、橋の向うから男の人がかけてくるのが見えました。
それを見て私は一人先に車から降りて行き橋を三分の二位渡って行った所でかけつけてき
た人と出会い、その人は島田署の鈴木しげお刑事さんでした。
 刑事さんは血相をかえて飛んできて、遺体を発見したというので一人でかけて行き橋の
右岸たもとから山に登った約一○○米の所に被害者の遺体がこの図面に書いたような状態
でおかれてありました。
この時、図面一図を差し出したので本調書末尾に添付した。
 遺体の約二○米手前の所で消防団員と島田署の飯田巡査部長の二人が現場に立ち入らせ
ないよう見張っていました。遺体は仰むけの状態で左ほほが野ネズミか狐にかまれたよう
な傷になり左の胸には楕円形の黒ずみ、すなわち内出血があり、スカートはめくり上って
性器は破れ両足は一面に鳥肌がたっていました。
 そして頭の左横五○センチ乃至六○センチ離れた所に大人の握拳で握れる程度の長さ約
一○センチ、直径にすれば四センチの楕円形の石一個が落ちていました。
 その石は総体的に山土が少しついていました。今の記憶では頭の上部約一米離れた所に
一般にサービスに出すマッチを一周りした大きさの石が一個落ちていたと思っています。
 それから翌日か翌々日の多分正午前ですが、島田署の刑事部屋に入って行った所、机の
上に石が一個置いてあり、それは私が遺体の現場で遺体の頭の左横にあった石とにている
ので聞いたところ「この石が兇器だ」と教えてくれました。
 尚、遺体の現場で写真を撮りましたが当時感度がSしかなかったので鮮明に写らず写真
としては使用できませんでした。

 と述べている。検事側の申し立てによれば、これまで凶器とされてきた石は、赤堀政夫
の自供によって初めて発見されたのではなく、死体発見現場に石は始めからあったし、死
体発見後も刑事部屋で見たというのが、石沢岩吉証言である。したがって、石は凶器に間
違いないというのが、検察側の見解である。
 ところが、有ケ谷百合子の証言も含め、ここに引用した四証人の事実取調請求を検察側
は、五十七年七月二十八日に事実取調請求撤回申立書(東京高検・検察官検事・増田豊)
を出して撤回してしまった。また、検察官増田豊は同じ日の意見補充書で、即時抗告審申
立以降に検事側も新証拠の事実取調請求をした事実に目をふさぎ、「即時抗告審申立以後
提出された各証拠は即時抗告審における判断資料にしてはならない」と述べている。その
後、五十八年五月二十三日に東京高裁は、五十二年三月十一日静岡地裁が出した『再審請
求棄却決定』に対し、原決定を取り消し、静岡地裁に差し戻す決定を出した。
 そこで弁護側は、静岡地裁に五十八年九月三十日付で事実の取調請求書を出して、赤堀
政夫逮捕後に警察で凶器とされた石の鑑定をやったかどうか照会を出し、やったとすれば
その鑑定結果を、やっていないとすればその理由を明らかにすることを要求し、死体発見
現場の検証調書の写真のネガフイルムと未提出の写真とそのネガ、請求人(赤堀政夫)以
外の被疑者の本件についての自白調書、捜査経過を記録した捜査日誌、その他未提出、未
開示の証拠物、証拠書類など関係記録の一切の提出を求めた。加えて、検察側が取り消し
た石沢岩吉を証人申請し、改めて石の発見経過について事実調べをするよう静岡地裁に請
求した。これに対して、静岡地裁の高橋正之裁判長は、五十八年十一月二十九日に石沢岩
吉を証人として尋問した。
 だが、静岡地検は、五十八年十一月二十九日付回答書で、「石について鑑定した事実は
なく、その理由は不明である。未提出写真とネガは調査した限りでは残存しない。赤堀政
夫以外の被疑者で、捜査官に対し、事実を認めるかのごとき供述をした者もいたが、関係
人のプライバシイーを侵害するおそれがあるので、この件については一切明らかにするこ
とはできない。捜査日誌も同様の理由で、提出する意志はない。関係記録一切という提出
要求には応じ難い」と、弁護側の要求を拒否した。
 しかし、この検察の主張は、裏を返せば、これまで捜査当局が島田事件の捜査過程でさ
んざんプライバシイーを侵害(警察の捜査状況を参照)してきた事実に目にあまるものが
あったということであり、また、赤堀政夫以外の被疑者の供述調書や捜査記録を明らかに
してしまうと、赤堀政夫の自白と同様の自白をさせた事実が明るみに出て、赤堀政夫の自
白に真実性などなかったことが明るみに出てしまうから公開できないということである。
赤堀政夫の自白がどんなものであったかをすでに検討してきた今、わたしたちとしては、
検察側の本心を、かく読み取ることができる。
 またこの日、検察側は、石沢岩吉証言を潰すために事件当時の警察官・北条節次(静岡
市池田三八七五番地の三七)と山田正義(浜松市河輪町四○○番地)を証人申請し、事実
の取調を請求して、この証人尋問は、北条節次が五十八年十二月二十日に、山田正義が五
十九年二月十七日に行なわれた。そして、同じ二月十七日に検察側は、事件当時、島田署
の巡査であった森山實、鈴木茂男、平田行男の三名の検察官に対する供述調書を提出し、
さらに事実調べを請求したが、これについては、裁判官によって却下された。
 その後、静岡地裁の高橋正之裁判長は、『再審開始決定』(61・5・29)で、「物証と
されてきた石では胸の傷はできない。石に血痕反応などが存在した形跡がないがこれによ
って左胸部の成傷用器でないといえない。が、捜査官の相田兵市は赤堀政夫を現場に連れ
て行かないでこの石を発見していること、その後、石の血液鑑定などをして客観的事実に
よる裏付けがあれば石は『秘密の暴露』になるが、当然あるべきはずの客観的証拠による
裏付けを欠いているもの」として、石の発見は『秘密の暴露』とはいえないと結論してい
る。また、石の発見経過については、「証拠としての明白性は認められない」とした。
 しかし、この石の発見経過については、捜査記録や赤堀政夫以外の被疑者の自白調書の
内容が明るみになれば、石沢岩吉証言とも関連した新たな事実として、真相が明らかにな
るはずである。

 (3)初期鑑定の言い替え(鈴木完夫証言)
 差し戻し審で検察側は、鈴木完夫の静岡地検・高井新二検事に対する供述調書(59・3
・29)を元に事実調べを請求(59・4・6)し、それを受けて静岡地裁は、四月二十三日
に鈴木完夫を証人として尋問することに決定した。鈴木完夫の供述ならびに尋問の内容は
、例えば、死体解剖の時は胸の傷の下を見なかったからあのような鑑定書を書いたのだ、
見ていたら出血はあったかも知れない、だから、胸の傷は生前にできたものだという物的
な裏付けのないものであった。あまりにもいい加減なので、ここでは引用しない。
 しかし、物的証拠のあるなしにかかわらず、初期の鑑定書に基づいて起訴し、有罪にし
た証拠の鑑定結果をくつがえす供述ならびに証言を根拠に改めて赤堀政夫の有罪を立証し
ようとしたことは、原審の判決が認定の根拠にした鑑定書は間違っていたという主張を検
察側はしたことになる。
 しかも、原審裁判所が赤堀政夫に対して、その間違っていたとする鑑定で有罪を申し渡
したことも誤りだったと、検察側は申し立てたことになる。つまりこの段階で検察側は、
実質的には裁判のやり直しを一方的にしていたのである。だから、この差し戻し審の段階
で検察側が、初期鑑定を変更したことは、いたずらに、再審開始の決定が出るのを引き延
ばそうとするものにしかならない。
 しかも、検察は、捜査記録などの資料を公開を拒むことによって、すでに、事実関係を
裏付けのある証拠物で争わない姿勢を取り続けていたのであるから、『再審開始決定』が
出た後に、東京高裁に対して即時抗告するという行為には論拠がなく、早期に再審公判を
開こうとする動きを妨害して、単に引延しをはかったにすぎない。
 ちなみに、検察が論じている即時抗告理由は、六十一年五月三十一日の『読売新聞』夕
刊によると、

 協議は、前田宏・東京高検検事長、藤永幸治・同次席検事を中心に、最高検、地元静岡
地検からも担当検事が加わって、赤堀政夫元被告(57)の自白の信用性を否定し「確定判
決の有罪認定に合理的な疑いが生じた」と判断した決定内容を詳細に検討した。
 決定は、争点となっていた赤堀元被告のアリバイや凶器とされた石の発見経過、現場近
くの足跡などについて弁護側の主張を退けており、検察当局では「評価できる」とした。
しかし、犯行順序や胸の傷の凶器の石について、決定が検察、弁護双方の提出した法医学
鑑定のうち、検察側新鑑定を「法医学の常識に矛盾する」などと退け、弁護側鑑定のみを
採用したのは、「理由に説得力がなく、証拠評価の誤りであり、結果として事実誤認を犯
した」との判断に傾いた。さらに仮に「乱暴─胸を殴打─扼殺(やくさつ)」という確定
判決が認定した犯行順序に狂いが生じたとしても、一連の犯行は五分間の出来事で、赤堀
元被告のアリバイなど証拠を総合的に判断すれば、赤堀元被告の有罪は揺るがない──と
いう意見が大勢を占めたといわれる。

 というものであるという。しかし、この検察側の抗告理由には何の根拠となる理由がな
いことは、すでに赤堀政夫の自白と事件の目撃証言を再検討して明らかにしてきた通りで
ある。
 だが、担当検察官としては、弁護側と対決姿勢を取らなければ負を認めたことになり、
それでは自分の出世や成績にも響くから、引延しに過ぎなくても弁護側と争う姿勢(とい
っても物的証拠をもって総合的な判断をつけるというものではない)を取り続けるという
ものでしかないだろう。検察当局が、ほんとうに総合的判断に基づいて裁判で決着をつけ
るというのなら、検察当局は前提となるすべての捜査記録を公開して事実関係を明らかに
するというのが、ものの手順というものである。

 

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