− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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〔二五〕久子の死は食後二時間後
 
 ・ 佐野久子の死亡前の体の状況
 三月十三日、死体となって発見された佐野久子の死体解剖は、その日の午後二時から蓬
莱橋の初倉村よりの大井川の下流五十メートルの河原で、午後三時五十五分にかけて行な
われた。執刀医師は、国家地方警察静岡県本部刑事部鑑識課勤務、国家地方警察技官・医
師、鈴木完夫(さだお)である。この時の鈴木完夫の二十九年三月二十五日付『鑑定書』
によると、佐野久子の死亡した時の体の状態は、次の通りであったという。

4.考察
 ・ 傷害としては左口角部(記録5)、眉間部(記録4)、前頚部(記録8)、左胸部
  (記録9)、外陰部(記録12)に認められるが、左口角部、左胸部の損傷には出血等
  の生活反応が全く認められない事により、死後のものと考えられる。左口角部のもの
  は鼠等の動物の咬傷によるものと認められるが、左胸部のものは鈍器とのみ判定され
  るが、それ以上は判定困難である。眉間部の傷は鈍器による座礁で擦過傷と認められ
  る。前頚部の傷は皮下に出血(記録26)を認める事より生前のものと判定され、右前
  頚部の短い線状の表皮剥脱は爪の痕跡と思われ、扼殺の際に生じたものと思われる。
  外陰部の裂創は出血が認められるが周囲の生活反応が殆んど無く、付近に外傷が認め
  られない事より、本創が生じた際に被害者の抵抗は殆んど無かったと推定される。損
  傷の程度は高度で膣穿隆部に迄達し膣壁は穹隆部迄、裂創を起こしている事より細長
  い鈍器を無理に挿入して生じたものと思われる。右大陰唇の部分には比較的鋭利なる
  創が認められることより、尖端の比較的固い鈍器にても生じたものと推定される。本
  裂創よりの出血は放置すれば相当量有るものと考えられるが、致命的なる大出血を来
  することは稀であると思われる。
 ・ 成傷用器は左口角部は動物の咬傷、眉間部の鈍器の先端、例えば木の枝の先端様の
  ものにより、擦過傷前頚部は手指外陰部は指先、或いは陰茎様のものと推定されるが
  左胸部のものは判定困難である。
 ・ 死因としては漸進症状として稍々蒼白で、貧血症状が認められるが血液の暗赤色流
  動性、溢血点等より窒息死が最も妥当と思われる。血液に少量の凝血があるがこれは
  窒息してより死亡するまでにある程度時間が経過せるものと推定される。外陰部の裂
  創よりも出血はしたが致命的大出血とは思われない。
 ・ 死後の経過時間としては硬直が既に解けつつあり、角膜も混濁している事より三昼
  夜位経過せるものと推定される。胃の内容物より食後二時間位と推定される。
(注・なお内部検査の項目で胃の状態に関して、次の通り述べられている。
 22、胃は膨満し外表に異常なく切開するに内容物は約2百乃至3百瓦で米麦飯と甘薯を
  認め、米麦飯は胃液と充分に混同するも完全に原形を保ち甘薯は殆んど原形を保って
  いない。腸管内には全般に少量の固形内容物を認め小腸内には蛔虫2匹を認める。大
  腸内にも少量の固形糞便を認める。)
 ・ 情交関係の有無については現在のところ精虫は発見されていないが、検査続行中で
  あり不詳である。
 ・ 本屍の血液型は記録27の(ロ)(ハ)の如くO型の反応を示している。膣内容物も
  O型の反応を示し、膣内に現在のところA、B、AB型の傾向は発見されない。
5.鑑定
 ・ 傷害は左口角部、眉間部、頚部、左胸部、外陰部にあり、左口角部、胸部のものは
  死後のものと推定される。眉間部のものは擦過傷で軽微である。頚部の傷は傷として
  は軽微なるも扼頚なるため致命傷と考えられる。外陰部の裂創は高度であるが致命的
  なる出血をきたす程のものとは思われない。指或いは陰茎様のものを深く無理に挿入
  したものと認められる。
 ・ 成傷用器は左口角部は動物の咬傷、眉間部は木の先端等、前頚部は指、外陰部は指
  等のものと推定されるが左胸部のものは判定出来なかった。
 ・ 死因は窒息死と推定される。
 ・ 解剖開始の時を以って死後三昼夜と推定される。
 ・ 犯行当時の情交関係は現在のところ不詳で検査を続行中である。
 ・ 血液型はO型の反応を示した。
 ・ 特記すべき疾病は認められない。
 ・ 身体の発育、状況は稍々良好である。
 ・ その他参考事項としては食後二時間位経過せるものと推定される。

 以上が、鈴木完夫の鑑定書の鑑定結果であった。胃には「約2百乃至3百瓦で米麦飯と
甘薯を認め、米麦飯は胃液と充分に混同するも完全に原形を保ち甘薯は殆んど原形を保っ
ていない」、しかも、胃の内容物の消化状況からして、佐野久子の死亡時間は、「食後二
時間位経過」している、と明記している。だが、佐野久子が「食後二時間後」に亡くなっ
たということについて、この島田事件の裁判では、これまであまり問題にされてこなかっ
た。そこで、わたしたちは、改めて、ここで検討してみることにしよう。
 赤堀政夫が、佐野久子を連れ出した経過を述べた点については、これまで見てきた通り
だが、その後、佐野久子を殺害に及ぶまでの経過について、赤堀政夫は次のように自白し
ている。

第二回供述調書(29・5・30清水初平員調)
 今年の三月十日の日に、島田市幸町の快林寺の中央幼稚園から、六、七才位のおかっぱ
の可愛いい顔をした女の子を欺まして連れ出して幼稚園の正門を出て中野歯医者の前を通
って東海道の広い通りへ出て其処を西へ曲って暫らく行ってから駅通りへ出て駅の西のト
ンネル式のガードを通って真直ぐに南へ出て東海パルプの横井工場の塀に突き当って右手
へ折れて少し行くと大井川の堤防に出て堤防の真下の横井グランドの真中頃を過って(引
用文ママ)畑の中を通って新堤防へ出て河原でやろうと思ったが其処では石が多くて出来
なかったのて堤防の東端の所から河原づたいに歩いて行って蓬莱橋の手前より道路へ上っ
て蓬莱橋の橋を渡って渡ると右側の細い坂道を登って行って山の途中から右側の山の中へ
入って松林の中で其の子供を強姦して殺して仕舞いました。子供が死んだので私ではどう
にもならなかったため死体は其のままにして来ました。詳しいことは後程申し上げます。

第四回供述調書(29・5・31相田兵市員調)
 子供は山の中で背中からおろされ、キョトンとして立っていましたが私は、そこへすわ
んなと云うと言う通り座りましたのて私は足を引張って伸ばし其の子の横に座り其の子の
顔をつくづくながめましたが、色が白く目鼻立ちのよい少し長めのオカッパにしたとても
可愛い子で私はもうどうにも我慢が出来なくなり其の子の正面から肩を押し山の高い所へ
頭を向けて仰向けに倒しました。すると女の子はびっくりして、無きべそをかきましたの
で、まづいなあと思いましたが、どうにもたまらなくなり子供のズロースを下から手を入
れて下に引下げました。子供は、おうちへいきたい。かあちゃんと言って泣き出しました
。私は自分のズボンを下げ右足はズボンからぬいてその子の上になり女の子のズロースを
片足抜いて又を開かせ余り騷ぐので左手で子供の口を押さえ乍ら自分の大きくなった陰部
を女の子のおまんこにあて右手で持って押しあて腰を使ってグイと差入れました。半分入
ったと思います。女の子はもがき乍ら、痛いおかあちゃん、と力一杯泣くのて左手では押
へ切れなくなり私は構わず腰をつかいましたが余り暴れるので思う様に出来ず私はやっき
りしておまんこをやめて足の所にあった、握り拳一つ半位の岩石の先のとがったのを拾い
腹立まぎれに女の子の左胸辺を二、三回力一杯尖った方で殴って仕舞いました。
 子供は私が腹立ちの余り石で二、三回殴ると相当にひどかったと見へて泣くのが止りフ
ーフーと息をし乍ら目をつむり黙っていました。私は気持ちが悪くなり、一そ殺して仕舞
へと思い両手を女の子の首にあて力一杯押へつけました。そして四、五分して手を離すと
もうぐったりしていました。
第十回供述調書(29・6・8相田兵市員調)
 蓬莱橋を渡って坂の入口にきた所、おうちへ行きたいよう、おかあちゃんとしくしく泣
き出したのです。私は困りましたがすぐおうちへおじちゃんが連れてくでね泣かんとおよ
しねと言ってだましたのです。坂の入口から現場迄この様な言葉をくり返しくり返し乍ら
歩いたのです。現場で子供をおろしたら子供はしょんぼりして大井川の方を向いていたが
ここで前申した様に裸にしておまんこをやり暴れる子供を石で殴り首をしめて殺したので
す。
質問調書(29・6・2裁判所書記官補 松島林)
 久子ちゃんの死体は頭の方に何か着ていたものをかぶせた記憶があります。
第二回検事調書(29・6・13阿部太郎検調)
 橋を渡り終ると坂道になって居りますが二手に分れた左手の道は巾の広い道で人通りも
あると思い見られては工合が悪いので右手の細い方の坂道をとって上って行きました。此
の山道を上って行く時背中の女の子は急にしくしく泣き出し、おじちゃんおうちへ行きた
い。お母ちゃんのとこへ行きたい。と何遍も云うので私は、直ぐおうちへ行くからね。泣
くのはよしなね、いい子だ、いい子だ。などとなだめすかしながら約三町位歩いて行くと
右手に細いあるかないか分からない様な山道があったの雑木のはえて居る所をくぐりぬけ
る様にして約一町位行きました。
 すると狭い場所ですがいくらか平になって居る様な場所があったのでそこへ女の子をお
ろしました。其の辺は松の樹や雑木がはえて居り又笹などもはえていました。私と女の子
は其の場所へ並んで腰を下ろしました。女の子の両足を持って伸して座らせたのでありま
す。女の子はたいして泣きもせずぼんやりした様子できょろきょろして木の間をすかして
前方の河の方を見る様な様子でした。私は其の女の子の横で顔を良く見て居るうちに女と
関係したくなる時には何時もそうなる様にかあっとして身体中が熱くなる様な感じがして
来てどうにも我慢が出来なくなりいきなり両手で女の子の肩を押し倒して手早く女の子の
着て居た緑色の洋服を後の釦を外して頭の方にまくりあげ其の下に着て居た下着類も同じ
様に上の方に捲り上げたと思います。一番下に着て居たのは桃色のメリヤスシャツで是は
すっかり脱がせて仕舞い傍に置きました。これは物貰いをして歩いて居る女の子にでもや
ろうと思ったからであります。それから私は女の子がはいて居た白いズロースと毛布の柄
の様なズロース両方をひっぱって脱がせ、その辺に放り出し女の子の両股を開き自分のズ
ボンを下げて右足だけズボンから抜いて女の子の上に乗りかかり女の子が大きな声で泣き
叫ぶので顔の上にかかった洋服の上から女の子の口を左手で押さえ乍ら自分の陰茎を女の
子の陰部にぐっと押し入れたのでありますが子供の事ですから穴が小さくとても陰茎の根
元までは這入らず半分位もやっと這入ったと思います。
 女の子は両手を振ってもがき乍ら泣くので片手では押さえきれなくなり旨く目的が達せ
られそうもなく癪に障り女の子の上に乗りかかった侭自分の陰茎をぬき右手で其の辺の地
面を石でもないかと思って探して見ましたが見当らず足元の方を見ると石の様な物が見え
たのでのりかかった侭の姿勢で右足を伸し、足のこうや指先を使って其の石を手元にひき
寄せ握り拳より少し大きい位の其の石を右手に握り尖ったところで女の子の胸を数回力一
杯殴り付けたのであります。
 すると女の子は泣き騷ぐのをやめてしまい大きな息をしながらうなり出したのでありま
す。私もこうなっては仕方がないと思い此の侭にして置けば女の子の唸り声で人に見つか
って仕舞っては大変だと思い可哀想だとも思ったがいっその事殺して仕舞おうと思い両手
で女の子の首を力一杯押え付けたのであります。暫くすると女の子はぐったりとして顔を
横の方に向け死んで仕舞った様でした。
 それから私は片方脱いで居たズボンをはいたのでありますが、其の時はもう夢中で私の
陰茎に血がついたかどうかも気がつかず其の侭越中褌に入れてズボンを穿いたのでありま
す。そして女の子の死体は其の侭にして薄桃色のメリヤスシャツだけを手に持って元来た
山道を引き返したのですが途中で河の方に向けて下の方にまるめて投げて仕舞いました。
そして元来た道を引き返して蓬莱橋の所へ戻りましたが未だ明るく多分午後四時半頃だっ
たと思いますが再び蓬莱橋を渡れば橋番のじいさんに顔を見られて判って仕舞うと思い橋
の東側から河下の方へ約十分位歩いた草むらの中へ俯伏せになって頭を抱える様にして隠
れて居りました。

 赤堀政夫の供述調書を受けて、阿部太郎検事は『冒頭陳述』(29・7・2)で事件の模
様を、次の通りに描いている。

 同所で被告人の背から降ろされた被害者は、全く茫然としてなす処を知らない様子であ
ったが、劣情押さえ難き被告人は矢庭に同女をその場に押し倒して裸体とし同女に乗りか
かって姦淫した。被害者は手足を振り動かし抵抗して意の如くならなかったことから業を
煮した被告人は、同女に乗りかかった侭付近にあった拳大の石を拾い上げ同女の胸部を殴
打したので被害者は殆んど仮死状態となり呻吟し始めた。
 かくて、被告人は被害者の苦痛による呻き声から容易にその所在を発見され延いて犯行
の発覚亦容易なるべきを恐れた結果同女の殺害を決意するに至り両手で同女の頚部を強扼
して窒息させ殺害の目的を遂げたのである。

 そして、第一審の矢部孝裁判長が、判決(33・5・23)で『罪となるべき事実』として
認定して事実は、次の通りであった。

 被告人は、翌三月十日午前十時頃島田市幸町に在る快林寺の墓地に赴き、同所で供物を
捜したが見当たらないので、墓地から本堂前の広場に赴いたところ、同所にある島田幼稚
園講堂で遊戯会が催されていたので、その入口付近に行って女児の遊戯を見ているうち、
にわかに情欲にかられ、幼児を連れ出して姦淫しようと考えるにいたった。そこで、被告
人は、付近を見廻したところ、たまたま本堂石段付近で他の女児と遊んでいる佐野久子を
見つけ、右講堂前に出されていた売店で菓子を買い与えたうえ、「いいところへ連れて行
ってやる」と誘い、同日正午頃同女を伴って島田駅前道路から、同駅線路下のトンネルを
経て、大井川旧堤防を越え、横井グランドを横切って大井川新堤防に出、同女を姦淫する
に適当な場所を捜したが見当たらないので、河原を下流に向って旧堤防に登り、同女を背
負ったまま、蓬莱橋を渡って右折し、さらにその道の途中から山林に立ち入って、静岡県
榛原郡初倉村坂本沼伏原四千九百二十五番地の人目につかぬ山林にいたった。
 被告人は、ぼんやりしている佐野久子をその場に降すや、情欲を抑えることができず、
やにわに同女をその場に押し倒し、泣き叫ぶ同女の下半身を裸体にし、その上に乗りかか
って姦淫し、その結果、同女に外陰部裂創等の傷害を負わせたが、同女がなおも泣き叫ん
で抵抗し、意のままにならぬのでひどく腹をたて、同女を殺害し、併せて前記犯行の発覚
を免れようと決意し、付近にあった拳大の変形三角形の石を右手に持って、同女の胸部を
数回強打したうえ、両手で同女の頚部を強く締めつけ、同日午後二時頃同所において窒息
死させた。

 以上、見た通り、赤堀政夫は、佐野久子を「午後二時頃に殺害した」というのが、この
島田事件に対する第一審以降の裁判官の共通の見解・判断であった。
 この第一審の佐野久子「三月十日午後二時殺害説」に立つなら、佐野久子の胃の状況か
ら少なくとも次の事実が存在することになる。・犯人とされた赤堀政夫は、久子を幼稚園
から連れ出した三月十日の正午頃、ないし久子を殺害する二時間前に久子に米麦飯と甘薯
を食べさせた。・久子は正午前に家か、あるいは幼稚園で米麦飯と甘薯を食べた後で、犯
人に幼稚園から連れ出された。
 この二つのうちのどちらかのことが、事実としてすでに確認されているのであれば、あ
らためて疑問を差し挟む余地もないが、赤堀政夫の供述調書では、佐野久子を幼稚園から
連れ出して大井川を越え、殺害に至るくだりの事件に触れる供述部分において、久子に食
事を食べさせたことについてひとことも述べていないことは、すでに検討してきた赤堀政
夫の供述内容から明らかになっている。
 しかもこの日、赤堀政夫は手に何も持っておらず、快林寺の墓地でも供物を探したが、
手に入らなかったというのである。そして、快林寺境内の売店で飴玉を買って久子に与え
た物以外の食べ物を途中で手に入れて食べさせたことを供述していない。また、赤堀政夫
は、物を買えるお金も持っていなかったことも明らかにされている。さらに、目撃者の目
撃状況からして、犯人が、快林寺境内の売店で買った物を久子に与えたこと以外に途中で
何かを与えられる状況になかったことは改めていうまでもない。
 そして、阿部太郎検事の冒頭陳述や第一審の矢部孝裁判長の認定した事実の中でも、佐
野久子が「正午前に家か、あるいは幼稚園で米麦飯と甘薯を食べた後で、犯人に幼稚園か
ら連れ出された」ことを確認していない。
 また、佐野久子は三月十日のこの日、家では昼ご飯前だったので、昼飯を食べずに幼稚
園へお遊戯を見に行ってくるといって、家を出ていること。さらに、この日、佐野久子が
家を出る前に食べた可能性があるものは、、それは、十一時から十一時半の間に食べたこ
とが認められる(新聞報道で確認された)「ふかしたさつま芋(甘薯)」であることを、
わたしたちは見てきた。
 これらの事実からいって、第一審の矢部孝裁判長がいうように、佐野久子が三月十日の
午後二時に殺されたとするならば、佐野久子は食後二時間後の状態で死亡することはあり
えないのではないか、という疑問が持ち上がってくる。それは、佐野久子が殺される二時
間前に米麦飯を食べた事実が見当たらないからである。赤堀政夫の供述でも、十日の午後
二時頃に殺したことになるから、それでは赤堀政夫が佐野久子を食後二時間後の状態で殺
害することは不可能になってくる。
 しかし現実的には、赤堀政夫が自白通りに佐野久子を殺したとするには、三月十日の午
後二時殺害説に立つしかなくなる。けれど、第一審の裁判所が認定した佐野久子の午後二
時殺害説は、まったく裏付けのない事実認定なのである。

   ・ Aさんの証言と新事実
●Aさんの一九八○年十一月三日の証言
 Aさんは、佐野家とは仕事の関係で行き来のあった人で、Aさんが佐野家と仕事の関係
で行き来のあった期間は、二十八年の暮れの十二月二十二、二十三日頃から二十九年一月
十日にかけてと、更に、事件後の二十九年四月から二年間ぐらいであった。Aさんはこの
二回の期間とも佐野家の生活と身近に接していたという。
 なお、二十九年四月から佐野家では、「Nという女の子とKという男の子が働いていた
。事件当時佐野家で働いていた、大井町の鈴木みきさんという通いのお手伝いさんは、N
さんが入って間もなくやめたと思う」と語っている。
 この時のAさんの証言によれば、事件前は、店は幸町の曽根鉄次さんの店を借りていた
ので、家の中のことしか知らず、店のことは分からない。しかし、事件後の二十九年四月
からは、家のある場所へ店も移ったので、家とお店のことを知る状況にあったという。

 朝食は八時前後で、御飯・味噌汁が多かった。だんな(輝男)さんは早く仕入れに行っ
ていた。昼は十二時ちょっと過ぎだった。事件前の昭和二十八年の暮れから二十九年一月
十日にかけての冬休みの間も、また事件後の二十九年四月からも、佐野家では、当時、御
飯は麦入り御飯ではなく、白米を食べていた。
 店では、やおやのもの、豆腐、パン、壷やきいも、子供が欲しがるお菓子など少々を置
いていた。壷やきはすごく売れた。遠くからも買いにきていた。

 以上が、わたしが一九八○年十一月三日にAさんから聞いた話の概略である。
 すでに、佐野久子が快林寺の境内から犯人に連れ去られる時、久子はお昼御飯をまだ食
べていなかったことが明らかになっているので、Aさんの証言が直接、事件の真相を明ら
かにするものではないが、Aさんの証言で明らかになることは、佐野家では、当時、御飯
の時お米は白米しか食べていなかったという事実である。この事実によって、久子の胃に
残された米麦飯は、朝食として家で食べたものが胃に残ったものでないということが、一
層はっきりする。そればかりか、佐野久子の胃に残された米麦飯は、久子が自分の家では
どうしても食べれないものだったということになる。
 また、Aさんの証言にあるように、当時、佐野家では店でつぼやき芋を売っていた
が、静岡民報ではあえてふかしたおイモと報道しているところからすると、久子が家
をでる前に食べた可能性のある唯一のものであるイモは、店で売っていたつぼやき
芋ではなく、母親すゞは、久子にふかしたおイモ=さつま芋を食べさせていた
ことがうかがえる。
 お昼前に御飯も食べずに家を飛び出して行った佐野久子は、その後、犯人と連れ立って
歩いて行き、蓬莱橋を渡るところまでそれぞれ目撃者に目撃されていた。だが、この目撃
者の目撃状況からしても、犯人が、佐野久子に米麦飯を食べさせていたところを目撃され
ていない。また、犯人と久子が、中野ナツに二回目の目撃を受ける場所までの道で、米麦
飯を食べている余裕もなかったことはいまさらいうまでもないことである。二人は、中野
ナツより先に歩いていたが、中野ナツが歩いた道よりも長い距離のコースを時間に遅れな
いように歩いていかないと、中野ナツはどんどん歩いて、東海パルプ横井工場のT字路の
コンクリート橋を通り過ぎて行ってしまい、中野ナツに出会えなくなってしまうからであ
る。
 ちなみに、島田駅西のガードをくぐり抜けた先に、事件当時あった駄菓子屋にも犯人と
久子は立ち寄っていなかった。このことは、事件後の警察の聞き込み捜査でも判明してい
たことが、その後の赤堀政夫の支援者の聞き込み調査によって明らかになっている。
 犯人と久子の歩いた経路の中で、最も可能性のあった立ち寄り先にすら立ち寄っていな
いわけであるから、途中、犯人の家にでも立ち寄って「米麦飯」を手に入れない限り、目
撃者なしに「米麦飯」を手に入れることは不可能である。また、見知らぬ家に入り込み、
「米麦飯」を手に入れた跡を犯人が残していないことは、途中の目撃者の目撃の中で、久
子が何か食べながら歩いていた状況や犯人が何か持っていた状況を目撃されていないこと
からいっても、明らかである。
 したがって、久子の胃に残された「米麦飯」は、蓬莱橋を渡った後で犯人が、何らかの
方法で手に入れたものを佐野久子に食べさせたことになる。そして、その二時間後に佐野
久子は、犯人に殺されたことになる。
 しかも、久子は、午前十一時半頃に家を出ており、その後、犯人と連れだって蓬莱橋を
渡った時間は、おおよそ午後一時過ぎから一時十分頃にかけてである。この時間は、赤堀
政夫の支援者が、犯人が佐野久子を伴って歩いた道を子供を連れて歩いた時(五十四年三
月十一日)に計測して割り出した時間である。久子が、蓬莱橋を渡った時、家で「さつま
芋」を食べた時間から、すでに一時間半から一時間四十分はたっていた。そして、犯人が
「米麦飯」を手に入れてから、久子にこの「米麦飯」を犯行現場かあるいはそれ以外の場
所で食べさせてから、その二時間後に犯人は久子を殺したことになる。ただ、この間の犯
人と久子の行動は、誰からも目撃されず、警察の調べも及ばなかったので、犯人が久子を
殺害するまでにかけた時間が不明になっているだけである。
 けれど、犯人と久子が蓬莱橋を渡ってからあとの行動に費やした、不明の時間を0時間
としても、久子が殺害された時間は、家を出てから、すでに、三時間半から三時間四十分
は経過していることになる。しかし、蓬莱橋を渡ってから後の不明の時間が0時間だとい
うことはありえない。すると、佐野久子が殺害された時間は、家を出てから三時間半から
三時間四十分以上経過していたことになる。そうなると、佐野久子が殺された時には、久
子が家で食べた「さつま芋」はとっくに消化されて、久子の胃の中からなくなっていたこ
とになる。ちなみに、野崎幸久著(日本女子大教授)『栄養生理学』によれば、「さつま
いも」百gの胃内停滞時間は二〜三時間ということである。
 そうなると、蓬莱橋を渡ってから、捜査官にも調べられず、目撃者も現れなかった犯人
と久子の不明の行動とそれに要した時間ののち、久子が「真犯人」に殺される時間の二時
間前に、久子は「米麦飯」だけでなく「甘薯」もこの時一緒に食べていたことになる。そ
して、この食事してから二時間後に佐野久子は、「犯人」に殺されたというのが、事件の
真相になる。
 ところが、赤堀政夫の供述調書では、久子に「米麦飯と甘薯」を一緒に食べさせたこと
にひとこともふれていない。そればかりか、阿部太郎検事も『冒頭陳述』などで言及して
こなかったし、第一審の矢部孝裁判長も『判決文』で、この事実に一切ふれていない。再
審開始が決定されたいまに至るまで、事件のストーリーは変わっていない。
 島田事件の真相は、「犯人」が、三月十日の午後二時頃に佐野久子を死体発見現場で殺
害したことだというのである。

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