− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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〔二六〕元裁判長と元検事の確信
 
 ところで、六十一年五月三十日の『再審開始決定』を知った矢部孝元裁判長と阿部太郎
元検事の談話として、翌日の五月三十一日付朝日新聞静岡版は、次の通り伝えていた。

『正しい裁判を受けて─矢部一審裁判長』
 一審で赤堀元被告に死刑判決を言い渡した矢部孝・元裁判長(75)は、榛原郡相良町の
自宅のテレビで再審開始決定を知った。
「開始決定ですか──」とつぶやいたあと、「ああ、そうですか、という程度のことで
して、新たに裁判をする人にご苦労さまと言うしかないわけでございます」。
 事件や裁判については多くを語ろうとしない。「これから新たに審理されることで、元
担当裁判官として審理の雑音になることは、絶対すべきことではありません」という。
 争点となった「古畑鑑定」について、「自供とは犯行順序が違うというので、古畑(種
基)先生に鑑定を依頼した。先生に静岡まで来てもらい、詳しく説明を受けました。古畑
鑑定が間違いとされる根拠については聞いておりませんし、死後に受けた傷か生前かとい
うのは、非常に微妙な点。合議で『間違いない』と確信して判決を言い渡したことで、そ
の気持ちは今でも変わっていません」。
 「判決はそのつど良心に従ってやっておること」と自負する矢部さんが、約四十年間に
わたる裁判官生活の中で、一度だけ再審無罪判決を言い渡したことがある。
 「二十一年ごろ、大井川の川っぷちで、強盗致傷ですかね、事件がありました。被告も
法廷で認め、弁護士も『被告の申す通りです』というので、懲役二年を言い渡したんです
が、小田原の少年刑務所に入っていた別の少年が犯行を自供したんです。検察官から再審
請求があり、状況から見ても真犯人に間違いないので、判決をやり直しました」
 赤堀元被告には、「早く正しい裁判を受けてほしいという気持ちです」と結んだ。
『あの自白─理解できぬ 阿部一審検察官』
 一審で検察官として元被告に死刑を求刑した阿部太郎さん(77)=神奈川軒相模原市=
は、「人間は人事をつくさなければならないが、本当のことは神様しかわからないでしょ
う。でも、本当のことを究明してほしいですね」。
 約四十年間、弁護士─検察官─弁護士を経験した阿部さんにとっても、「島田事件」は
なぞとして残った。自分が調べた赤堀元被告の自白調書。次第に供述内容が崩れていった
その調書の写しを前に、「あの時、どうして赤堀君は自分を死に追い込むようなことを言
ったのか。私にはどうしても理解ができません」と静かな口調で話した。

 以上が、第一審当時の裁判長と検事の談話である。矢部孝元裁判長は、「合議で『間違
いない』と確信して判決を言い渡したことで、その気持ちは今でも変わっていません」と
いい、阿部太郎検事は、「本当のことは神様しかわからないでしょう」といって言葉を濁
している話の先で赤堀政夫は「自分を死に追い込むようなこと」をいったのだから、その
自白は真実だと「確信」している気持ちを見え隠れさせている。この二人がいまだに持ち
続けている「確信」について、わたしは、ここで少し問題にしておきたい。
 第一審の検事(つまり阿部太郎)や裁判長(矢部孝)が取り調べてきた赤堀政夫が自白
したとされた調書は、一体、どれだけの客観的事実(目撃者の証言内容も含め)と整合し
ていたのか、ということについて、実に多くの点について公判で検討することすら怠って
きた事実は、いまさら改めて指摘するまでもないだろう。
 それにもかかわらず、いまだに彼らが、赤堀政夫が犯人に間違いないことを「確信」し
続けられるのは、彼らの意識の底で当初から、「赤堀政夫は自白をした=真犯人に間違い
ない=通常の人間には、よくなし得ない悪虐、非道、鬼畜にも等しい行為=このような行
為をなし得るのは知能程度が低く、軽度の精神薄弱者である、普通の社会生活にも適応で
きない人間のやりうることだ=赤堀政夫は犯人である」と確信できる、という先入観で赤
堀政夫を見ていたからである。
 だから、自白の真実性=「秘密の暴露」にあたる事実が具体的に存在しているのか、あ
るいはまた、真実の一つとされた事実(例えば物的証拠とされた石)が客観的状況からし
て証拠価値として(ルミノール反応が出たなどで)間違いない物証であるかどうか、見極
めるということすら怠ってしまうのである。そして、赤堀政夫の自白にいくつか矛盾が指
摘されても、それは、自白全体の真実性を覆すに足らない、ということにしてしまう。こ
のことに関しては、阿部太郎検事も矢部孝裁判長も、全く同様の誤りを犯してきたといえ
る。そして、人がこの先入観に一度囚われると、被告人が主張するアリバイはことごとく
罪を逃れるために言を労している態度に見えてしまう危険性を教えてくれる。
 島田事件の赤堀政夫の場合もそうであるが、これまでわたしたちが耳にしている、冤罪
事件の被告にされた人たちの多くは、警察・検察によって一応に、被告(犯人あるいは容
疑者と言われることもある)は「こんな人間だから犯人に間違いない」と発表されている
し、また、犯人として逮捕された途端、新聞などのマスコミ(最近はテレビ報道も同様で
ある)も、警察・検察の発表そのままを報道してばらまいている。
 しかし、犯罪というものは、常に悪いことをたくらむ人間がやるわけでもないし、人間
として社会的に適応できない、いわゆるまともでない人間(実はそんな人間はいない)だ
けがやるというものでもない。近年、行政に携わる人間や政治家、警察官や検事、裁判官
なども事件を引き起こしていることが明るみにされるようになって、わたしたちの知ると
ころとなっている。だが、そうした人でさえ、人間として、最初から犯罪を目論んで生き
ているのでもない。だから、「こんな人間」がすべて犯人となるわけではない。それは、
変質者と目されている人についても同じことがいえるのである。
 ところが、いったん犯人として警察から名指しされ供述調書を作られると、人は誰でも
「こんな人間」だったことにされてしまうのである。島田事件の場合も「こんな人間だか
ら赤堀政夫は犯人である」(「報道された赤堀政夫像」を参照)と、誠しやかにささやか
れて来た。こうした警察・検察の論調は、実際には、赤堀政夫は犯人ちがいないというこ
とを、当時の地域社会のほとんどの人や目撃者、新聞記者や裁判官にさえ信じ込ませよう
とする作意の現れでしかない。
 しかし、「こんな人間」であることが例え事実だとしても、それが犯人の決めてになる
のではない。「こんな人間」であろうとなかろうと、犯行と本人を結びつける物的証拠が
あって初めて犯行の裏付けができることになる。だが、自白によって物証が発見されたと
証拠をねつ造されて、「こんな人間だから赤堀政夫は犯人である」としてまわりの人間が
すべて納得してしまうと、被告にされた本人が犯行を否認すればする程、それは、執拗に
罪を逃れようとする態度に見られたというのが、島田事件の事件経過であった。
 そして、裁判官たちは、犯人の目撃者が「赤堀政夫は犯人に似ている」と証言したこと
を、もう一つの根拠にして、赤堀政夫に死刑を宣告し、それを維持し続けたのである。だ
から、第一審当時の裁判官や検察官が、いまだに「赤堀政夫が犯人である」と確信した気
持ちに変わりはないといってはばからない態度でいるということは、実は、彼らが当初か
ら、先入観(偏見)を持って赤堀政夫を見ていたことを明らかにするものである。
 しかし、これが世にいう裁判官の「自由心証主義」だと、裁判官たちが今も考え続けて
いるとしたら、それは、空恐ろしいことだと、わたしは思う。警察官や検察官の捜査の在
り方だけでなく、裁判官のこうした姿勢(「自由心証主義」というけれど、証拠によらず
先入観に基づいて判断してもかまわないという態度)も、冤罪を生む温床の一つになって
いるからである。
 

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