− 「雪冤−島田事件」−赤堀政夫はいかに殺人犯にされたか −
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あとがきにかえて
 
 わたしが島田事件を知り、その支援運動に参加したのは、わたしも障害者の一人として
生きていることに深くかかわっている。赤堀政夫氏は、「通常の人間にはよくなし得ない
悪虐、非道、鬼畜にも等しい」、「大胆な、そして計画的、残虐な犯行」を犯した「知能
程度が低く、軽度の精神薄弱者であり、その経歴を見ると殆んど普通の社会生活に適応で
きない」人間であるとされ、死刑囚として三十二年間、無実を訴えてきた。ひとことでは
語り尽くせない思いを胸にしながら──。
 初め、赤堀政夫を支えた兄と二人の弁護士の冤罪(えんざい)を晴らす闘いは孤立し、
家族・姉妹が赤堀政夫の無実を信じただけである。最高裁で死刑確定(35・12・15)後、
再審請求が取り組まれる中で、元国民救援会の故・桧山義介氏や地元で島田事件対策協議
会(島対協)を結成した島田市民の森源氏や田中金太郎氏らによって、初めて赤堀政夫や
家族に支援の手が加わることになった。それから十六年の歳月を諸先達が、たゆみなく活
躍して支援運動を蓄積してこられたところへ、わたしも支援運動にかかわることになった

 そうした諸先達の中に入って行くことに気後れを感じながら、わたしは一番うしろにつ
いて、自分のペースでやってきた。わたしが仙台の拘置所で初めて赤堀政夫氏に会ったの
は、今からちょうど十年前の一九七六年九月のことである。最近ではなかなか手紙も出さ
ず、まだ二度目の面会もしていない。それでも、この十年の間、島田事件の支援者の一人
として、現地調査などで地元静岡・島田の地へまがりなりにもわたしを駆り立てて来たも
のがある。そして、わたしにできることをやろうと、島対協の活動の蓄積を元に、調査に
参加した仲間とも検討を重ね、自白に関連して四年ががりで一九八四年九月に一度稚拙な
原稿にした。今回はそれを下敷きにして、まったく別のものをまとめた。参考にしたのが
広津和郎の『松川裁判』である。
 しかし、今回の取り組みは、正直いってわたしにとって大変な労力を必要とした。一つ
の章をまとめるのに、八十回を超えてワープロの文章を呼び出し、やっとかたちになった
ものもある。その間、胃の痛くなるような思いもしたが、この作業を通してわたしは、思
いもよらない新しい発見に一人心を踊らせたりもした。けれど、今回は、赤堀政夫のアリ
バイを検討する作業は簡略にした。理由は、取り組むとなると厖大になりすぎて、わたし
の手に負えなくなるからである。
 それでも、わたしはこれまで半分意地になって作業を続けてきたが、それだけではこれ
をやり遂げれなかったと思う。そもそもわたしが島田事件を支援することになったのは、
わたしの参加した障害者運動の中で島田事件の支援を決めた経緯にもよるが、高校時代に
松川事件に取り組んだ広津和郎に巡り合わせてくれた教師・坂本育雄氏がいたからだと自
分では思う。当時、わたしは、自分もあんなふうに人の力になれるだろうか──と思った
りした。だから、今回のわたしの取り組みが、少しは赤堀政夫氏の雪冤に生かされるかど
うかはともかくとしても、わたしは、わたしに冤罪問題に対する関心を呼び起こしてくれ
た坂本育雄氏に感謝したい。
 かつて、犯人にいわれなく娘・久子のいのちを奪われ、母親やかつての関係者が悲しみ
を憎しみに変えて、真犯人にされた赤堀政夫氏のいのちを否定してきた。ところが、いま
でもわたしたちは、別のところでいのちを否定しあう関係を脱却しているとはいえない。
わたし自身、障害者の一人として生きてきて、仲間の障害者を見ていていまでもそうした
状況に出会う。わたしは、障害者の仲間との出会いの中で、自分でも自分のいのちのあり
ようを否定して生きていた自分を知った。自分で自分のいのちのありようを否定していな
がら、人は、自分のいのちだけは守られたいという願望を持って、いのちを否定するより
大きな力と論理(核兵器・軍拡など)に足元をすくわれて現代を生きている。
 これまで障害というとわたしも含め日本ではマイナスの先入観を持ってきたが、わたし
は自分も含め障害者のいのちが、死ぬかもしれない状況に追い込まれた時、実は、障害と
引換えにしてでも生きることを選んで生き抜いてきたいのちであることに気づいた。そう
だとすれば、このいのち、そのままであっても、何ができなくてもすばらしいいのちでは
ないか。もはや障害者のいのち、否定する何ものもなかったのだ。もう自分からはどんな
いのちも否定しないで、ありのままのいのちを肯定して、やりたいことを思う存分やりあ
っていのちを生かしあうことだけを考えて生きればいいと思うようになった。
 しかし、社会や他人にその責任をゆだねて、わたしたち自身がいのちを否定することを
いつまでもやめなかったら、少なくとも自分の側からいのちを生かしあう人間の関係を作
ることにならない。また、自分からいのちを肯定して生きなかったら、いつまでも、より
大きないのちの否定に足元をすくわれるだけではないのか。いつまでも、自分からいのち
を生かしあわないで、自分の人間関係を人が作ってくれると期待するのはおろかな話だと
思う。
 そんなわたしの島田事件の支援運動へのかかわりは、わたしにとっていのちを生かしあ
いたい人との出会いともなった。だからわたしは、他の冤罪事件の被告や支援者も含め、
いろんな人に出会うきっかけを与えてくれた赤堀政夫氏に心から感謝している。そんなわ
たしのささやかな思い入れを込めて、わたしは、本書を赤堀政夫氏と故・桧山義介氏、そ
して、赤堀政夫の冤罪を晴らすために共に行動してきた仲間や冤罪の発生を望まない人に
贈りたい。
 わたしは、この事件で殺された佐野久子と同世代の生まれである。佐野久子は、いま生
きていれば、今年四十歳になる団塊の世代の一人である。けれど、母親にとっては、いつ
までも六歳三カ月の少女のままである。だからといって、佐野久子をかわいそうな被害者
にしたくない。久子の短かったいのちの時間をいかす意味で、わたしは、同じ世代の一人
として、久子の死を「冤罪を作りあげてしまう人々への警鐘」として語り伝えたい。それ
も久子の死を殺され損に終わらせない方法の一つだろうと、わたしは思う。
 最後に本書の出版を快く引き受けてくれた『社会評論社』の松田健二氏と稚拙な原稿に
対して多くの示唆を与えてくれた担当の福島啓子氏に感謝して──

         一九八七年六月七日                    白 砂 巌

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