『障害者自立センター』構想とその顛末
次に引用する文章は、私が出会った脳性マヒの障害者・堀勝子さんの詩を編集して「心
をしばって下さい」という本にした時、その本の末尾に掲載した文章です。
私は、1975年6月26日、米津さんのモナリザ・スプレー事件の東京高裁の「公共の福祉
のために、障害者などの(モナリザ展での)入場制限はやむえない」という判決にふれ、
抗議の手段はともかくとして、こんな判決に黙っていていいのかという思いで、被告の米
津さんに連絡しました。そして、この判決に異議申し立てをするため、モナリザ・スプレ
ー事件の『上告審を共に闘う会』に加わりました。
そこで、私は、米津さんと共に、当時の関東各地の障害者グループを訪ね、その生活実
態や活動にふれ意見を聞いたり、スウェーデンの福祉政策を調べたりしながら、最高裁へ
の上告文を米津さんや金子精宏さんらと共にまとめる作業をしました。最高裁へ上告文を
提出したあと、私は、当時の各地の障害者グループ同士がもっと交流する必要を感じて、
1975年11月『障害者新聞』(はがき新聞・80年2月まで)を作り、ばらまき始めました。
この年の12月に入ってだったと思うが、参宮橋にあったリブの事務所に山口県周東町祖生
で「土の会」を主宰していた木村浩子さんが来るという話を聞き会いに行きました。
私は彼女から、新しい建物の建築で、業者とトラブルになっている話を聞き、一度「土
の会」を訪ねる約束して、12月30日、山口県周東町の「土の会」を訪ねました。そこで、
福井の施設を出て「土の会」で生活を始めていた堀勝子さんや、堀さんの福井の施設時代
からの友人の岩井英子さんや福森慶之助君、また小川裕美さんに出会いました。この時、
堀さんから、いのちの次に大切にしているという大学ノートに書かれた詩を読ませてもら
ったことが、私を次の展開へと結びつけました。
なお、この間の1976年に出会ったのが世田谷の須田君や遠藤滋氏です。
その後、堀勝子さんの山口から岐阜への転居(1977年5月17日)に伴い、大阪の岩井さ
んや福森君と共に岐阜の戸田二郎君、堀さんと相談して、堀さんの介助に入ってくれる人
を増やすためにも、彼女の詩集を作ろうという話になりました。そして、詩集の編集をか
ねて介助の大石君や今井さんらと出会うことになります。
この本に載せたのが、山口の「土の会」の活動に触発されて構想した『障害者自立セン
ター』構想です。
しかし、この構想をぶちあげたものの、私は、「障害者」というキーワードだけで突き
進んでいくことに踏み切れないでいました。当時、障害者・健常者と振り分けられている
壁を無くすにはどうしたらよいのか?という問いに答えが出せず、もんもんとした思いを
抱えながら、私は、島田事件の赤堀政夫さんの支援活動に没頭していました。
そんなさなかの1984年10月、遠藤滋氏と久しぶりに再会したら、彼は自分では歩けなく
なっていました。そんな事態を前にした私は、ここらで、自分たちが感じていた、横塚さ
ん世代(お気に入りのひとこと「母よ!殺すな」を参照)とは違う実感をさぐり出してみ
ようと、遠藤氏に話をし、取りかかったのが、自分たちも文章を書き、心にふれるほかの
障害者の文章も合わせて一冊にする本作りでした。
そこでは、まだ、その誕生の過程から、いろんな困難にみまわれ、少しずつ傷を受けて
いくのが「いのち」であり、そうした「いのち」に支えられて自分という人間の存在があ
るというはっきりした認識ができていた訳ではありませんが、ありのままの「いのち」そ
のものを受け止めるという自覚のもと、「ありのままの命を肯定して生きる」と自分で決
めて生きることを、あえて障害者向けのメッセージにしたのが『だから人間なんだ』とい
う本(著書の紹介の欄を参照)でした。
当時の私のこの変化は、それまで共に歩んできた人には、私が変質したと映っていたの
だと思います。しかし、私自身の理解は、昆虫が、一つ一つ殻(から)を脱ぎ捨てて脱皮
するように、私のそれまでの考えや認識の中から見つけた、新しい自分の生き方や確信で
きる考えを、一つ一つ踏まえて歩んで来た結果、「ケア生活くらぶ」を構想し、改めて本
気になって「支え合う集合住宅」を創ることを真正面に目的にすえて、この「支え合う集
合住宅を創る会」のホームページを立ち上げることにしました。この支え合う集合住宅創
りが、果して私たちにどこまでどうできるかわからないにしても、とにかくやれるところ
までやっていこうと、遠藤氏とつかず離れず歩み続けた私のいまがあります。
『障害者自立センター』設立について
戦後32年をへて、日本の社会は「福祉社会」であることをうたい、選挙ともなれば、
政党はきそって、「福祉向上、福祉充実」をうたい文句にはなばなしく語りかけてくる。
“障害者福祉”の充実も声高く叫ばれてはいる。そして人びとは「くらしむきが良くなっ
た」社会の平和と安定?のうちに生活しているかのようにみえる。
“障害者福祉”の充実が叫ばれ、平和な安定した?社会のなかで、いま障害者はどんな
情況におかれているのだろうか。「自由と民主主義をおう歌する」社会にあって、障害児
・者はいまもって殺されているのが実情です。
私自身、これまで30年あまりを軽度障害者として生きてきて思うことは、「殺されて
しまうことほど割に合わないことはない」というのが実感です。私の親にしても、私が小
児マヒにかかり、歩けなくなって、あちこちの病院をかけずりまわって、治らない私を道
づれに「死のう」と思ったことは二度三度ではなかったといいます。そして私自身、障害
者になった自分を「生きていても仕方のない人間だ」と思いつめたり、障害者になった自
分の運命をのろったりして、悩み苦しんだことは数えきれません。それでもいま私は、「
障害者であるからと死んだり、殺されたりすることほど割に合わないことはない」と強く
思います。
戦後32年をへて、すべての面にわたってめざましい科学の進歩と発展をとげた現代社
会にあって、障害児・者は、30年1日のごとく「治らない。治るみこみがない。かわい
そうだ」と殺されつづけているのです。
そして、相もかわらず「障害=悲劇」をせおった障害者と障害者をかかえるかわいそう
な家族のなかに障害児・者はおかれているのです。
「私は生活していくのに疲れた。みなさまにはわからないかもしれないが、大腿四頭筋
拘縮症の病気がにくい。幸雄がかわいそうでならない。普通に歩ける足、早く走れる足が
欲しい。走ればころんでヒザこぞうが傷だらけ。けががなくならないことがなかった。注
射液がにくい。筋肉障害・神経障害になって幸雄がかわいそうでならない。─めいわくを
かけてすみません。あとをお願いします」と遺書をのこして、埼玉県入間市の拘縮症児・
九才・幸雄君の一家4人が、静岡県の海に飛び込み、心中している。(1976.10.28)
「子供の脳性マヒが治る見込みがないので一緒に死にます」と書いた遺書を残して、2
人の脳性マヒ児の一家4人(大阪府・銀行員)が、三重県名賀郡の山道で心中した。(19
76.12.17)
私たち障害者の兄弟姉妹たちは、自分から望みもしない死を強要されているのが現実で
す。こうした障害児・者殺しの現実に、なすすべもなく私たち障害者が生きてきた以上に
、この障害者殺しの現実を黙視して「自由と平和と民主主義をおう歌?」して、生きてい
ける人たちが多いことはいうまでもないことです。
障害者が生きようとしないのではなく、健全者が障害者と生きようとしない現実がそこ
にはあります。よく「障害者でもやればできる」という言葉を、周囲の健全者から、私た
ち障害者は耳にしてきました。しかし「やればできたのは健全者だった」はずです。健全
者でも「障害者とともに生きれば生きられた」のが現実だったことを忘れて、「やればで
きるんだから」と障害者をシッタゲキレイ(?)することで、結局は、障害をおった責任
を、障害者個人 → 母親 → 家族へとおしつけてきた。
障害者個人が負うべくもない責任を、なによりもまず障害者個人におしつけておいて、
この不合理さをなくすためにではなく、この不合理さを温存することでしかない“障害者
福祉”がたてられてきたといっても過言ではない。そして、相も変わらず、人びとが障害
者とも生きなければならない一人ひとりの責任が無視されつづけてきた結果、いまも障害
児・者殺しがなくならないのです。
こうした現実をふまえ、障害者自身のなすすべと、健全者の一人ひとりの基本的な責任
を問いつづけるために、私たちは「障害者自立センター」の設立を準備しています。
私たち「障害者自立センター」の設立にあたり、つぎの計画をたてています。
私たちは、もうこれ以上無益な死をくりかえしてほしくはない。障害児・者殺し(心中
事件など)が、これ以上くりかえされないですむようにするには、障害者が生きていける
社会を、私たち障害者自身の立場から、いま作っていくしかないと思います。
最近、重度の障害者の中にも、地域社会で自立して生活したいという欲求をもっている
障害者がふえています。自分では労働もなにもできない障害者が、欲求をもったり、自己
主張をすることなどぜいたくだとしてきた考えが、戦後32年をへたいまも、根づよく障
害者の前にたちはだかってきました。この考えをつきやぶって、「地域で生活したい」と
いう欲求は、どうにもおさえきれない障害者の欲求となっています。
しかし、障害者をとりまく現実は、障害者に協力的な姿勢すらみせてはくれません。車
イス使用の重度障害者に部屋をかしてくれる民間アパートはほとんどありませんし、あっ
てもその機能上、生活しにくいのが現実です。公共住宅にしても、一人身の重度障害者が
生きていけるものとして提供されてはいません。
私たちは、どんな重度の障害者であっても、障害者として真正面から、自分の人生をお
う歌して生きれるように、障害者の自主性を尊重して、ともに生きていきたいと考えてい
ます。私たちは、あらゆる人びとの協力をもって、障害者が地域で生きれるよう障害者の
生きる場(自立の家/自立生活センター)を、私たちの街(地域)のなかに、障害者の力
を結集して、ともに作っていこうと考えています。このことを通して、障害者が「生きて
きてよかった」「おれば生きんだ」と自信をもっていえる人生を、ともに切り拓いていけ
れば──と考えています。
これらのことを私たち障害者が中心となり、私たち障害者自身の手でなんとかしていく
ことが、私たち障害者の仕事であると、私たちは考えています。
そこで私たちは、私たちの仕事をつぎのように計画し、実現していこうとしています。
一、出版活動=「障害者文化シリーズ」の発行と『障害者新聞』(はがき新聞)・季刊『
障害者通信』の発行など。
二、地域における障害者の「自立の家」「自立生活センター」の建設と運営=「自立生活
センター」の建設をめざしたその第一歩として、現在準備にはいっている岐阜や川口を
はじめとして、各地に障害者の「自立の家」づくりを進めていきます。たとえば一軒家
(4〜5部屋)をかり、2人ないし2組の生活の場、1部屋か2部屋のねとまりできる
部屋、そして障害者の集まれる場をかねたものとして運営していきます。この「自立の
家」では、在宅や施設の障害者が一歩外へでて、これまでとはちがう外での生活を体験
できる場として存分にその役割をはたし、その中で障害者が、自分の生き方をつかんで
いけるようにしていきたい。さらに、「自立生活センター」づくりに取り組んでいきま
す。「自立生活センター」の建設については、設計の段階から生活する障害者がかかわ
っていき、その実現をはかる。「自立生活センター」は、障害者の一時宿泊所、集会場
などもかねそなえ、その運営は生活する障害者が中心になっておこない、また「自立生
活センター」を基点に、障害者のさまざまな生活をつくりだしていく。
三、必要に応じた労働(生産)の場をつくる=現段階では点訳出版物の豊富化をはかるた
めの「点訳印刷センター」の設立を準備しています。必要機材の開発・点訳作業の新し
いシステム化により、点訳作業の能率向上、スクリーン印刷方式による量産化をはかる
とともに、一頁あたりの点字収容数を1.45倍増やせる点訳印刷を実現する「点訳印刷セ
ンター」を建設することにより、視覚障害者の世界の広がりと、自立を協力してつくっ
ていく。(くわしい計画の内容などは別の機会にゆずります。)
(この計画は、私が写植の仕事をしながら、点字文字盤を作り、それを元に、スクリー
ン印刷の盛り上がりインクで文章の印刷物を試作したことから発想したことですが、当
時、すでに、コンピューターによる点字印刷も研究されており、設備費や人手のかかる
印刷方式での点字印刷をあきらめることで立ち消えになった。)
四、その他の文化活動・相談活動・キャンペーン活動=映画会・討論会・講演会なども計
画していく。
大きくは、私たちの仕事は、以上の四点になります。早い時期に社会福祉法人化をしよ
うと思いますが、何ぶんにも微力なため、できるところからしか出発できません。そこで
とうぶんは、私たちは『障害者文化シリーズ』として本を出版することにより、障害者の
生きている現実を、一人ひとりの障害者の生活や歴史を通して伝えていくことに力を注い
でいきます。そのなかで、私たちの計画も伝えていき、多くの人びとの協力をえながら、
漸次実現していきます。
賛同会員について
私たち『障害者自立センター』では、「自立の家」などの設立資金に、この本の売りあ
げの利益をあてていこうとしていますが、「点訳印刷センター」の設立、「自立生活セン
ター」の建設には、ばく大な資金が必要です。そこで、今後の『障害者自立センター』の
活動に賛同していただける人には、少しでも積極的な協力をお願いしたいと考えています
。一人でも多くの方に賛同会員になっていただき、今後の『障害者自立センター』の諸計
画をともに実現していきたいと思います。
賛同会員の方々には、一ヵ月・一口500円の賛同会費をお願いいたします。この会費
を積み立てて「自立の家」設立などの資金にします。さらに会員の方々には、日常的に地
域で障害児・者と友だちづきあいの輪を広げていくなどの、一人の障害者も孤立すること
のない、地域での生活のつながりをもってほしいことを要望します。具体的には、会員の
方々自身の「こんなことをしていきたい」などの希望をだしてもらい、それを生かして相
互のかかわりを作っていくようにしたいと『障害者自立センター』としては考えています
。私たちは会員の方々に年一回の活動報告をいたします。
出版計画について
当面『障害者自立センター』では、岐阜・川口などに「自立の家」設立を実現していく
と同時に、出版活動に重点をおいていきます。『障害者文化シリーズ1』=『心をしばっ
て下さい』の発行のあとは、第二弾・第三弾として、1.「障害者として体験してきた生
活がどういうものであり、そのなかでどのような思いをしてすごしてきたか、詩や文章に
よる体験レポート・作品集」。2.「車イスの障害児が、普通学校へ通学している実例を
テーマに、そのエピソードをおりこんだ、小・中学生を対象にした生活記録」。3.「精
神障害者の体験シリーズ/自分が精神障害になっていった原因としての体験がどんなもの
だったのか、そしてそれからどう生きてきたのかをテーマにした精神障害者の体験レポー
ト」。4.「障害児の世界などをテーマにした童話」。5.「障害者殺しの論理/その戦
後の歴史と実態」。6.「障害者のうけてきた差別のなかで、差別してきた側の人たちが
いかに損をしてきたかを笑いとばしてしまう映画づくりのためのシナリオ」などを考えて
おり、漸次、出版にこぎつけるよう計画しています。
私たちは、一人ひとりをとってみれば、非力な何もできない存在だけど、何もできない
私たちが本音をぶつけながら、いっしょにやっていくことを大切にしていきたい。
1978年3月 『障害者自立センター』設立準備委員会
『障害者文化シリーズ』発刊にあたって
これまで“障害者”といえば、かならずといっていいほど「かわいそうに」といわれて
きた。とくに重度の障害者はそうだった。それが日本の社会の大多数を占める人びと(健
全者)の常識的な感じ方であり、即、障害者に対する接し方となっている。
障害者も、一人のあなた方と同じ人間なのです。といってみても、ほとんどの人びとは
、障害者と一対一のつきあいをもつことすらなかった。だから一人一人の障害者が、人び
とには一人ひとりの、一個の人間としてみえてはこない。またみようともしないところで
、障害者は自分たちとはちがう(世界の)人間として目にうつしてきた、といえる。
さらに福祉は、障害者に一方的に与えられるものとしてあったし、人びとの「かわいそ
うに」という目も、一方的に障害者に与えられるものだった。それはただ恩恵として与え
られてきたにすぎない。だから逆に、障害者が自分の欲求を主張する時、その多くはぜい
たくだとされてきた。そして障害者の多くの場合、つつしみぶかく、えんりょぶかく、自
分の本音をいわないで、おとなしい。それが障害者の住む世界であるとして、障害者は追
いこまれてきた。また、障害者自らも自分を恩恵によって与えられる世界に追いこんでき
た。
けれど“障害者”にも「目や口や手や足や心」がある。この事実にたって、これまで障
害者に与えられてきたすべてのものが、障害者にとって一体なんだったのか。障害者のさ
まざまな体験からみていくことで、私たち自身もたくさんの新しい発見にであうだろう。
この新しい発見をとおして、障害者の未来をともにどう作っていけるのか、の理解をすす
めることも可能ではないだろうか。
私たちは、身近にいるよき友人たちの協力のもと、障害者の負い目とされてきたすべて
をさらし、障害者自身の未来を、障害者自らの手で切り開いていくべく生きていこうと、
あらたに模索しはじめました。そのことを私たちは、この「障害者文化シリーズ」のなか
に表現していこうとしています。
これから私たちがやっていこうとすることは、前例のない、そこには白い時間だけがあ
るという、あてどのないものです。しかし、障害者も自分の欲求をもって生きたいことに
かわりありません。誰もが、たった一度の人生だから、自分をおさえて生きなきゃならな
い世界からとび出して、たとえ傷だらけになったとしても、野辺のいばらのなかでも、し
っかりと大地に根をはって生きていきたいのです。
そんな私たち障害者の、社会のなかでの生き方を問いつづける旅のみちづれとして、こ
こに障害者と健全者のきずなを創りだしていくことができれば、私たちの欲求はかぎりな
く実をむすんでいくことだろう。
このシリーズの本の一つ一つが、多くの人びとにあたたかくむかいいれられ、きびしく
相互の自立をもとめて読まれていくことを祈りながら──。
1978年1月 障害者自立センター