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  いのちの杜の4年の歩み

一、土地を手に入れて

 私と遠藤滋氏が、農場を作る土地を手に入ようと二人で動き始めたのは一九八五年くら
いからだったろうか(私はそれまでにも一人で土地探しをしていて何回か伊豆を訪ねてい
た)。
 始めのうちは、とにかく下田の裁判所の競売物件を手当たり次第に一人で探しまわって
、ふた月に一度くらいの割りで伊豆がよいをしていました。
 そして、目ぼしい物件があると、時には遠藤氏と介助の人を伴って現地を見に行ったり
していました。
 その後、南伊豆町の吉祥という部落を中心に、土地探しをしているという「チラシ」を
個別配布したことがきっかけで知り合った馬場さんを通して、伊浜の斎藤さんという方を
紹介していただき、馬場さんや斎藤さんを通じて土地探しをお願いしていたところ、照会
を受けたのが、この松崎町の甘夏のみかん山でした。
 手に入れる土地として唯一の落とせない条件(車でその土地の中に入れること)をクリ
ヤーしていたことから、私たちは、このみかん山を購入することに決めて、この山の地主
になりました。
 松崎町のみかん山は、八木山という部落を南に向かって登った山の中腹にあり、みかん
山の本体の山は、地質の上で、蛇石火山と呼ばれている山で、火口にあたるところは沼に
なっており、昔は、八木山の部落の人も田んぼとしてそこの土地を所有していたというこ
とで、胸まで水につかりながら米作りをしていたそうです。
 いまは、その火口の土地は、地元の人の手から離れていますが、その火口の沼の水は、
周辺の松崎や南伊豆町の人の生活用水の水源となっています。私たちも、その山から湧き
出る沢の水をホースでひいて、水源として活用させてもらっています。
 また、私たちのみかん山は、六〇年代始めに三人の人がみかん山として開墾した一帯の
一画で、私たちはそのうちの一人(清水市在住)の人から譲りうけました。後でわかった
ことですが、この地主さん、実は、遠藤滋氏の親戚関係に当たる人でした。
 そして、私たちのみかん山の更に上のみかん山は、不動産業者を通して、今では19軒の
家が建つ別荘として分譲され、定住している家も何軒かあります。
 何年にもわたった土地探しから、私はようやく解放されるとホッとしたのも束の間、今
度は、いきなりみかん山の地主になってしまったことで、さて、このみかんをどうしよう
か? そこで作って配ったのが次のチラシでした。

     ケア生活くらぶ『いのちの杜(交流)農場』
       建設地の甘夏はいかがですか?


 わたしたちは、何年か前、農場を作りたいと思いたち土地を探してきました。そしてこ
の四月に、伊豆・松崎に2880坪の土地を確保できました。
わたしたちの計画は、車いすで生活している人が加わることを前提にこの農場を運営し
、工房〔焼物・木工・染物など〕や農場〔畑・果樹・動物の飼育〕や生活・宿泊棟を作り
、必要に応じて図書室やリサイクル室などを設け、ケア生活くらぶの会員とその家族で活
用する計画です。
 そして、農場に滞在するひとは、農場の野菜や山菜を食べてすごし、工房では、自分の
創りたい生活用具などを作れるようにする計画です。そして、いろんな人と交流し合うな
かで、自分たちの人生を自分たちの手で豊かにしたい──と考えます。
 わたしたちが確保した土地は、現在甘夏のみかん山で、この甘夏を今年の収穫からこれ
までの地主さんから引き継ぎました。そこで今収穫期に入っている甘夏を五月〜六月にか
けて、15キログラム箱入3000円で産地直送することにします。また、甘夏のみかん狩りも
受付ます。今年の甘夏をぜひ買ってください、売ってください。そしてあなたも「ケア生
活くらぶ」に参加して、『農場』創りに智恵と肉体を発揮してみませんか?
    一九九〇・五・一

 二、最初の年の甘夏の報告

 ケア生活くらぶ『いのちの杜』農場建設地の甘夏はいかがですか?で始まった、五月か
らの伊豆のみかん狩り「騒動」も、七月二十日・二一日の遠藤滋と九人の仲間たちの旅行
でようやく一区切りつけました。収穫したみかんは、だいたい五トン強(実際に収穫した
量はもっと少なかったかもしれない)というところでしょうか。それでも、まだ手つかず
の甘夏が、これまで収穫した分くらいぶらさがっていて、朽ちて落ちるに任されている。

 四月に、いきなりみかん山の地主になった時、地元の人の話に十トンくらいとれるだろ
うという見立てを聞いていたとはいえ、収穫を控えていたみかんも「どうぞ」ということ
になり、どれくらい取れるやら、どれくらいなっているものやら、皆目見当もつかず、無
理のないところでやれるだけやろうという意志で、始まったみかん狩りでした。そうは言
っても、そこは肉体労働をともなうもの。みかん狩りに参加した、私や私の家族、友人た
ちは、始めの内は、体がついていかず、とにかく疲労だけがたまったものでした。
 これからの予定としては、いよいよ土地の造成に着手するために、(1) ショベルカーを
探す(中古を買う線で)。(2) 第一期の工事として、進入道路の高さに、下層部のみかん
畑の一部を、宿泊用プレハブ設置場所と畑用に造成。(3) トラックとワゴン車の購入・宿
泊用プレハブの購入。(4) 井戸掘り。(5) 敷地の上層部の造成。(6) 他の果樹などの苗の
植付け・畑づくりの開始へと作業はひとつひとつステップを踏んでつづけていくことにし
ています。
 当初の腹づもりでは、七月いっぱいまでに宿泊用プレハブの設置にこぎつけたかったの
ですが、なにせ、目の前のみかんに目を奪われて、みかん狩りにエネルギーを吸い取られ
てしまった、というのが実情。          一九九○・七・三一  白砂 巌

 三、農場の先住民

 今回は、伊豆の『いのちの杜』農場建設地に息づいている「いのち」たちについて書き
出してみよう。
 何はともあれ、元は山林だったもの(杉林だったらしい)をみかん山に開墾したところ
なので、その時に植えた甘夏の木が、なんと言っても、ここの主の地位を確保している。
一体、何本あるのか見当がつかない。一本の木に平均30キログラム(約80〜90個)の実が
なるとすると、10トンほどの甘夏の収穫が見込まれるので、三百本以上の木が植わってい
ることになるが、現実には、それほどの数の木が植わっているという感触は私にはない。
実際、木によっては、40個くらいしか収穫できなかったものもあれば、その三倍くらいの
収量があったのではと思える木もあったし、木によるバラつきが随分あった。これは、木
の植わっている場所の日当たりの良し悪しがはっきりとした影響を与えているようである

 次に目につくのは、みかんの木の間から、背高くそびえている杉の木である。この場所
が開墾される時分に植えられた杉の木が、みかんの木と共に25年の歳月を経てきたもの。
主だった、太く、大きいものは、20本は下らないと思うが、厳密に数えたわけではない。
しかしこれらの杉は、みかんの木の間でみかんの木に影を落とし、空もふさいでいるもの
もあり、十月になってから、大半を、地元の山仕事専門の田口さんに伐採をたのむことに
していた。細い木ならいざしらず、これらの太い大きい杉の木(太いもので直径が最高60
┰の杉もあった)は、とてもにわか山師には歯がたたないからである。また、十月になっ
てからというのは、十月になってから切らないと、杉が材木として使えないという、田口
さんのアドバイスによる。やみくもに切って、何の用途にも使えなくするのは、私たちの
主旨でない(現実はその後チェンソーを購入して、開墾の作業に邪魔になった木から一本
一本自分で切っている)。
 その次に竹について書いてみよう。竹は、孟宗竹と真竹がある。孟宗竹は、下の山の竹
林の孟宗竹が、私たちの農場のみかん畑に根を進出させて育っているものである。真竹は
道沿いの山の斜面に植わっているが、古くからここにあったのか、それとも、前の地主さ
んが植えたものなのかは分からない。他に、直径が1センチメートルほどで身の丈二メー
トルを越える細い竹もあるが、この農場では、雑草に近い形で生えている。この春と、六
月にかけて、孟宗竹と真竹の竹の子を竹の子御飯などにして少しは楽しめた。
              一九九○・七・三一  白砂 巌

 四、一九九〇年〜一九九一年にかけて 

 一九九〇年六月頃、私の父と私とで山に生えている竹を使って三畳ほどの雨よけの避難
スペースを作り、その後ビニールで囲って、屋根の下にテントを張り、プレハブの組み立
てが完成するまで、そこで寝泊まりもしていた。
 九月一四日 群馬県の沼田に住む鈴木氏より譲り受けたバックフォーが土木用キャリー
と共に伊豆の山に届き、翌一五日にかけて、鈴木氏の操作で山を削りはじめる(バックフ
ォーと土木用キャリーの操作の教習を兼ねて)。始め、車が通る時に邪魔になっていた崖
の足元に露出していた石を掘ってどかそうということになり、掘ったところ、縦横高さが
それぞれ1メートル50センチメートルを超える大岩が出現してしまった。この岩は、自重
3.5 トンのバックフォーで引きずってようやく動くという重い岩だった。
 その後、一人でバックフォーを操作して、山の段々畑の一画の崖を削り谷に土を落とし
、石が出るとそれを石垣に積み上げるという作業を続け、取り合えず12畳のプレハブを設
置する空間を確保し、一九九一年一月九日から石部の温泉で知り合った大工さんや、農場
のある山の尾根に接した隣で、夫婦でログハウスづくりをしていた人に基礎工事をやって
もらい(私はほとんど補助的な仕事しかできなかった)、その後一人でプレハブの組み立
てに取りかかり、一月二六日に組み立てのおおよその完成を見て東京に戻った。

 五、一九九一年の主な作業

一月 プレハブを組み立てる。
三月四〜五日 遠藤氏一行(総勢7人)山の農場へ(宿泊は民宿)三月二八日〜四月一日
 川崎の阿部氏が来て、台所を作る。
四月〜五月 甘夏収穫 五月一八日 電気が使えるようになる。
五月 山への来訪者・連休中の宿泊者重なる。
六月(北海道へ個人旅行)
八月十一日 町田の村上氏や甥の敦司と沢から水を引く工事
八月(袴田巌を救う会の仲間と国連人権小委員会「スイス」へ)
十月七〜九日 遠藤氏一行(総勢九人)の車の運転で山の農場へ
十月(十二指腸潰瘍の出血で入院)
十月二三日 遠藤滋氏の介助をしていた小山洋子ちゃん急逝。
 他に伊豆に滞在している間の主だった仕事の合間に土木作業(山の土を削り・出た石で
石垣を積みあげる)を続け、簡易水道の手直しを重ねた。
一二月二八日 ケア生活くらぶ賛同人・牛越公成氏死去。

 六、「提案します」の発送と会員の募集を始める 

 ごぶさたをしておりますが、お元気ですか。
 過日、私たち『ケア生活くらぶ』の企画について、さまざまな検討をかさねてきました
が、いよいよ準備も整いパンフレットの印刷ができましたので、『ケア生活くらぶ』を発
足させるべく会員の募集を始めます。
 去年は、わたし(白砂)は、伊豆の地では一月のプレハブの基礎工事と組み立て作業に
始まり、みかん山の谷の一部を、石垣を積み上げながら土地を平坦にする埋め立て作業を
続けながら、五月のみかん狩りを含め五月までは、月の内3分の2は伊豆暮らしをしてい
ました。五月には電気もきて、八月には山の谷川の水をホースでひいた、簡易水道も設置
しました。
 また、今年は、四月ごろより「−障害者を排除しない建物・交通システムとは?−」を
テーマに、日本の住まいと交通機関・公共の建造物に関する調査を開始する予定でいます
。さらに、資金のメドをたてて、日本との比較のために、ヨーロッパ・アメリカなどにも
調査隊を組んで出掛けてみたいと思います(だがトヨタ財団・三菱財団の援助が受けられ
なかった)。この調査によって、私たちが造ろうとする「ケアを前提に暮らしあう共同住
宅」を設計する基礎資料をえようというものです。
 一方、伊豆においては、土地を平坦にする作業の第二段階としてみかん山の谷の部分の
奥をさらに石垣を積み上げて土を入れ、畑にする作業と、宿泊や工房にする別棟を建設す
るための資材集めを開始しています。資材の調達が進み次第、第二棟を建てようと考えて
います。また、一昨年、去年に引き続き今年も四・五・六月に甘夏みかんの販売を(今年
は伊豆での資金の足しにするため15キログラム入り一箱を送料共四千円で出荷)致します
。ご希望の方は、注文の方よろしくお願いします。
 『ケア生活くらぶ』の企画に関する「提案します」を、ここに、謹んでお送りいたしま
す。みなさまのご検討をお願いいたします。今年、会員登録が百名に達した段階にでも、
『ケア生活くらぶ』の会としての発足の集まりを予定しています。
            一九九二年二月 遠藤 滋・白砂 巌

 七、私の新しい連れ合い 

 私と遠藤滋氏の伊豆の山での農場作りが朝日新聞(一九九〇・一二・二九)に紹介され
たことで連絡をくれた女性と、私はそののち個人的に付き合うようになり、一九九二年六
月お互いに新しいパートナーとしての生活を始めた。そして七月、友人による結婚を祝う
会がもたれた。

 暑い日が続きましたが、いかがお過ごしですか。この度の、わたしたちの結婚を祝う会
に出席していただき、ありがとうございました。
 わたしどもは八月五日から伊豆に行き、九月いっぱい生活していましたが、山での生活
は、東京の夜のむし暑さが信じられないくらい、夜は涼しく、掛け布団をかけていても苦
にならない程です。その夜の涼しさとは別に、昼は昼で晴れわたりでもしたら、カンカン
照りの熱射病になりかねない暑さで、少しは、いろいろ作業をしようという意志も、その
暑さでいとも簡単に萎えてしまう始末です。 それでもこの夏は、来た早々、七月時分の
松崎の豪雨によって、段々畑のあちこちで小さな土砂崩れがあった形跡ばかりか、新しく
土を盛ったところが、2メートル四方、深さ2メートルほどにわたって、雨水に流されて
大穴があいており、その部分の修復と、6畳の物置の最後の手直し(ドアなどの取り付け
)、畑や道路の一部の草刈り、ミカンの収穫、などをしました。
 今年は、四月中旬から山に来ていた時に植えた、じゅがいもは植えた量もそんなに多く
はありませんが、7月の梅雨明けの猛暑で、すでに枯れていて出来はそれほど多くなかっ
たが、それでも10キログラムほど収穫できました。いんげん豆は種になっていて、一度ゆ
でて食べたばかりでお終いになってしまいましたが、ミニトマトは今年は、買ってきた苗
からも、自分で作った苗からも、去年のこぼれ落ちた種から芽生えた苗からも、今も毎日
のように収穫できていて、なかなか成績がよいが、とうもろこしは、今年も成育しきれず
ほとんど収穫できていない。
 去年、種を植えて作ったキャベツの苗が、成育の早いものは六月の下旬に収穫しました
が、この夏、次々巻きはじめ、少しずつ食べれるようになって、食費の足しになっていま
す。だが、キャベツが成育するよりも早く虫が食べてしまうか、それとも人間の口に回っ
てくるかというところ。
 今年は、他に、生姜や里芋の植えつけにも手をのばして、今青々としています。さらに
小さな排水用の水たまりを水田にして、下の部落の水田の余った苗をもらって稲を植え、
その一部が成育しているだけですが、それでも活き活きと、毎日太陽を浴びています。は
たして、どれだけのお米がとれるのでしょう。
 山の畑にあるものは他にねぎ、大豆、胡瓜、かぼちゃ(これはまだ収穫に至っていない
)、苗を買って植えたなす・ピーマン、苗をもらって植えたあした葉・山わさび・わさび
・苺、こぼれ種の青しそ・赤しそ、新菊などがありますが、少しずつ食していました。
 山で生活していると、家の中にいる時でも畑に出ている時でも、山道を登り降りする車
の音に、道の見えるところまで見に行ったりしています。でも、その車がそのまま通り過
ぎてしまうと、なんとなくがっかりしている自分がいます。そしてごく稀に、突然人が尋
ねてくると、それだけでなんとなくうきうきもします。そんな自分の姿を、新発見すると
ころが、山での生活にはあるようです。
   一九九二.一〇

 八、一九九二年の主な作業 

二月 伊東の川合農園の一行6人来訪。
   土木作業
三月 『点検 日本の建造物』調査票の原稿作り
四月 『点検 日本の建造物』調査票の印刷
四月〜五月 ミカン収穫・出荷
八月四日から伊豆へ。
九月 かまど作り・台所を板の間に改修。

 九、ケア生活くらぶの報告(一九九二年) 

一九九二年は、四〜六月の甘夏の収穫を軸に、八月五日から九月いっぱいを伊豆で台所
などの板の間作りや水道の配管・排水などの水廻りを整備する作業をしてきましたが、あ
っという間の年の瀬です。みなさまいかがお過ごしですか?
 個人的なことを言えば、九月末に伊豆から東京に帰ってから、ずっと体調がすぐれず、
疲れが抜けなかったこと。また、現在かかわっている袴田事件の再審請求のための無実を
明らかにする証拠を発見する調べ「被害者四人の傷には、四つの刃物が使われた痕跡が残
されている(これまでは、判決では一つの凶器による単独犯行とされてきた)」を、文章
として完成させるべく、分担した作業が重しのようにこの一年の間のしかかっていたもの
ですから、それが終わるまで他のことに気がまわらなかったこと。などで、ついに他のこ
とに取り掛かれずにおわりました。
 調査票について 
 一九九二年の四月に作った「日本の住まいや建築物」にかんする調査票について、みな
さまにおくばりしたものの、自分のまわりに対する調査に遠藤滋氏ともども手が出せず、
記入してお送りいただいた方からの調査票も、受け取ったままの状態で、ほとんど進展し
ていません。
  員登録・会費納入・基金の拠出状況 
会員の登録…………16人   他賛同人…………24人
会費の納入…………15人   計 14.3万円
基金の拠出…………4人   計52万円(内50万円は調査票の作成費用などに使用)

伊豆での諸経費(資材・工具の購入を中心に)現在45万円の赤字
 通信(会報)の発行 
 「ケア生活くらぶ」の方は、会員登録と会費の納入・基金の拠出を開始しましたが、今
年は、会として通信を準備できずに終わってしまいましたが、会費については、来年から
の繰延べで、活用させてもらうことにして、さて、通信を発行するについては、どんな通
信(会報)を発行するのか、ご意見をおよせください。また、会員ならびに、賛同人の方
からの寄稿もお願いいたします。
 一九九三年の予定 として
「ケア生活くらぶ」の会として
三月に通信(会報)の第一号を出せるようにしたいものです。
七月から 「日本の住まいや建築物」にかんする集中調査……
       半年の期間の間に
伊豆では 一月 かまどの改修と風呂場の建築
二月〜三月 第二次の土地拡張作業
      谷に石垣を作りながら盛土をしていく。
四月〜六月 四回目の甘夏の出荷作業
                   一九九二.年の瀬に

 10.1993年の始めに 

 お手紙受け取りました。伊豆から東京に来ている間、東京でやれる内にやっておこう─
─ということで動き回っていると、つい中途半端にして伊豆に行くわけにいかなくなり、
ずるずると東京に足止めをくっている今日この頃。時には夢にまで、ああしようこうしよ
うと伊豆の作業の段取りをする情景が登場したりする始末。
 去年(1992年)の4月以降は、連れ合いの奥さんと二人で行くことになっても、大工仕
事などはほとんど一人でやっている状態なので、なかなかはかどりませんが、それでも、
少しずつ建て増しや改修を進めています。去年は、5月の連休に遠藤滋氏が介助の若い人
たちと来た時に、2日がかりで6畳の物置兼臨時宿泊部屋を造り(後で何回も補修してい
ますが)、9月には台所の水回りと流しの設置・土間を板の間にする工事をし、今年1月
にも続きの作業をしましたが、かまどと風呂については作り直しを考えているところ。
 またこの2月15日から伊豆で生活して(3月11日に一旦東京に戻ります)、今回は、第
2段階の土地の造成(谷に石垣を積みながら土を入れていく)作業を中心にとりかかる予
定でいます。とにかく、まだ、あれもやれない─これもやれない──ということが多すぎ
て、甘夏の手入れはほとんどしてない状態。まずは何をするにも土地を広げて、畑なども
もっと広くできるようにしたいので。
 また、今年は、甘夏の販売先を増やして、少しは伊豆の資金の足しにしたいし─という
ところ。
 手紙に、「現在の自分を受け入れられない」とありましたので、すこし、書いてみたい
と思います。なぜ?と聞きたいのですが、それはさておいて、『だから人間なんだ』を読
んでもらえていたら、あの本の中でも書いていたと思いますが、私にしても、かって、ポ
リオという障害をもった自分を受け入れられずに、はたち過ぎても生きていました。なぜ
かと言うと、ポリオという障害を負ってしまった〔いのち〕というものは、「悪いもの」
とまわりから扱われたり、「自分(人間)が生きていく上でマイナスになっている」とそ
れとなくそう考える人たちの中で、物心つくころから生活してきたからです。
 これは何も障害を負った人間に限ったことではありませんよね、未だに。「マイナス」
評価の押しつけの中で、人を発奮させる(ことができる)とでも本当に思っているかどう
か別にして、人に対してそう振る舞うだけでなく、実際はその人が自分に対してもそうし
た関わりをもっているのではないでしょうか。いろんなことで、いろんな場面で。
 そうした、態度というものが、どこから出てくるのか、私にしても、あの本をまとめあ
げる作業をするまでは、わからなかったというのが正直なところ。
 どこにいても、どんな状況にあっても、自分が「いのち」のいとなみをもって存在して
いる「自分である」ことに変わりはない。ところが『ああはなりたくない』『ああなった
らおしまいだ』という人の思いの中に、自分の「いのち」のありようを何よりも(自分か
ら)否定してしまっている姿がそこにはある。
 人(自分)が自分のいのちを「ありのままに肯定して生きる」ことができなければ、他
人(ひと)の「いのち」をありのままに受け入れることなんてことは(実際のところ)で
きっこないわけです。また、自分の「いのち」をとことん生かそうとせず、自分の「いの
ち」のありようを切って捨てて(生きて)いる人が、自分では気づかないところで、他人
(ひと)の「いのち」のありように対してもそうした態度をとってしまっていたとしても
何の不思議でもないことです。そうだから、他人(ひと)に対する差別的な態度というも
のが、その人の気づかないところで生まれてしまうこともあるのです。
 そのことに気づくことなく、「生きている」と思っている人が、自分が因って立つ「い
のち」そのものをまるごと受け入れて(肯定して)生きていないから、「いのち」のあり
ようの変化をともなう「自分」を受け入れられなくなっている。そうした「生きる」は、
何かのきっかけで、肉体の機能障害が生じたり、自分が持っていたはずの何かを失うこと
によって、もう「生きていない」状況になってしまう。まさに『ああなったらおしまいだ
』という、「おしまいのいのち」しか生きていなかったことの現れです。
 これまで、多くの人が「生きる」ことを自覚する時、自分の姿や体の健康状態・頭の善
し悪し・親から受け取る財産という恩恵の多い少ない・自分の会社やまわりの人たちの自
分に対する評価などによって、自分はよりよく生きているか、それとも不運な状況の中で
生きているか、ということから、まず自分が「生かされているかどうか」を気にかけ、そ
れなりの評価(経済的な保障を伴う)があって始めて自分は「生きている」と感じている
ことが多い。しかしそれが、「おしまいのいのち」しか生きていなかったとしたら──。
そんな「いのち」のうえに自分があるのだとしたら、心ははなっから不安定になってしま
うし、体だって不安定になってしまいますよね。
 そこで「自分」からは、どこにいてもどんな状況にあっても、自分が「いのち」のいと
なみをもって存在している限り、自分の「いのち」をまず生かして生きること。そして、
他人(ひと)と「いのち」を生かしあうよう生きていこう。というのが、あの本を作るこ
とによって得た「結論」でした。
 そうした「いのち」を生かしあう関係を、他人(ひと)との間にも、自然との関係にお
いても実現していこう、というのが、わたしの今のモットーとなりました。その表現のひ
とつが「ケア生活くらぶ」という仲間づくりでもあるのです。この先わたし(たち)にど
こまでできるか、などということはわかりませんし、またわからなくてもよいことです。
もちろん、少ない人の輪でできることでもありません。だけど、とにかく「いのち」を生
かして生きて行くだけです。そして、こうした意欲を持った人の生活空間として「ケアを
前提にした共同住宅」をつくりたいし、後に続く、障害をもって生きる人に手渡していき
たい、とも思っています。
 そんな中、わたしにとっての「伊豆」は、何よりもまず、わたしがやりたいことをやっ
ていく場でもあります。だから、やることに際限がなくても、わたしが目にした、やりた
いことをやっていくという姿勢を崩さずにやっています。だから、これまでも、あまり「
ひと」に応援を求めずにきました。わたしがこんな風ですから、他の「ひと」も、自分の
やりたいことをやりに伊豆には来てほしいと願っています。  
   1993・2・13 白砂 巌

 11.甘夏を発送する時に入れた手紙 

ご無沙汰しています。お元気ですか? 去年の甘夏はいかがでしたか? 去年は、伊豆
の4月は雨降りが多かったので、一部の人には、発送が遅れたことや、すっぱいみかんが
届いた人がいたりと、ご不満をおかけしましたが、今年の甘夏は、去年より成育も良く、
味の方もよいようです。
 今年は、2月15日から伊豆に来ていて、3月6日に東京へ一旦戻るつもりで作業してい
ましたが、帰京寸前の3月5日、電動の丸のこで作業中、右のふとももを自分で切断して
しまい、急遽、西伊豆の病院に行き手当てを受けたものの、13針縫う、筋肉の切断を伴う
怪我のため、12日間入院をすることになってしまいました。その後も、退院してから、生
活の不便さを考慮して、東京へ帰るのをやめ、伊豆の山で生活を続け、甘夏の収穫期に入
ってしまい、みなさまから電話でみかんの注文を受けられなくなってしまいました。
 幸い、怪我が深手の割りには、傷の方は順調に直り、切断した筋肉の機能も、ほぼ元通
りにくっついてくれました。1ヵ月のブランクとなってしまいましたが、4月からあわた
だしく、みかんの収穫に入ることができました。ところが、みなさまに、電話で問い合わ
せもままならないので、かってながら、今年も甘夏を送らせていただきます。ご賞味のう
え、よろしくお取り計らいください。
 今年は3月に通信をと、計画していましたが、怪我の最中も山でじっとしていることが
できず、通信を編集するどころでなくなってしまいました。そして、4月に入ってのこの
一ヵ月、葉書で注文をいただいた方に、せっせとミカンを送ってまいりましたが、連休に
突入の最中、少しだけ時間の余裕ができたので、通信の代わりに、この手紙をまとめはじ
めました。       1993・5

 12.1993年の主な作業

1月 台所に続く三畳(サンルームと呼んでいる)の棚作り
   サンルームと台所の屋根(トタン)の張り替え
2月21日夜半からの豪雨で埋め立てた盛土が流され大穴が開く
2月下旬 プレハブ裏のかまどを囲い・屋根を取り付ける
3月 谷のみかんの木を切る。足を切って入院
4月〜6月 甘夏の収穫・出荷
7月5日 豪雨で入口の山の崖が崩れ入口がふさがる。
   大田区の高校生一行二〇人が農場で研修キャンプ
8月 十m下の谷に第二段階の石垣作りに取りかかる
8月24日〜9月8日(夫婦で北海道旅行)
10月・11月 袴田事件の再審請求に関する文章書き
11月 谷の第二段階の石垣作り
12月20日 岡山の農園に注文した果樹(農場の果樹参照)伊豆の農場に届く。仮植え。
       お風呂の設置・囲い・屋根作り

 1993年1月に予定していたかまどの改修には取りかかれず、その後、3月頃に拾ったプ
ロパン用コンロで以前拾ったプロパンガスボンベの残っていたプロパンを使うことがキッ
カケとなって、台所の煮たきにもっぱらプロパンを使うようになったため、この年のかま
どの改修は手つかずに終わり、風呂場ものびのびになった。
 風呂が設置できたのは、1993年12月になってからで、これまで、伊豆に滞在している折
は、冬の一時期を除いて毎日のように通っていた、石部の露天風呂の温泉の温度が極端に
さがり、冬の気象条件のもと、とても入っていられなくなってしまい、しかもこの温度の
低下傾向が長引きそうだったため、お風呂を設置した。
 それも、もともとはガス釜として使っていたものを、風呂の焚き口の底に穴を開け、薪
の火を送り込んでやるという方法でお湯を沸かしている。始めは燃えすぎてかえって熱効
率がよくなかったが、改良を重ね、薪の燃やし口に蓋をすることで熱効率があがって、快
適なお湯が楽しめるようになった。
 また、第二次の土地拡張作業の内、谷に石垣を積み上げる作業にとりかかれたのは、八
月になってからのことであった。崖の上から谷に落とした石(中には3トン近い石もある
)を、大きい石はバックフォーをつかって一つ一つ積み上げ、手で持てる小さな石は自分
で持ち上げて積んでいる。
 その後の何回かの作業で、いまや石垣は、長さ11.4メートル×高さ50センチメートル〜
1.5 メートル×巾(奥行き)1.2〜1.3 メートルの大きさになった。


 いのちの杜 季節暦

春になると
3. 1 ('94) この頃から豊後梅咲き始める。
3. 1 ('96) 赤がえる鳴く。翌日朝、赤がえるの産卵を確認。
3. 1 ('96) うぐいす「ホーホケキョ」と鳴く。
3. 5 ('91) 八木山〜農場へ向かう中間点(梶宅入口付近)でうさぎに逢う。
3. 5 ('96) 豊後梅咲き出す。
3. 6 ('94) 桃のつぼみ膨らむ。(ピンク色に変わる)
3. 8 ('94) Pm6:35田んぼにしている水たまり付近で「てん」か「いたち」を見る。
3. 8 ('94) 8〜9日にかけて、赤がえる田んぼで産卵。
3.24 ('93) 排水処理用水たまりに赤がえる10匹。(昼すぎから雨)
4. 8 ('93) 海の色が夏の色に変わる。(風と波があった)桜満開。
4上旬('93) 毎晩、いたちの訪問を受ける。訪問先は台所の流し。
4.11 ('91) 松崎から石部への道(マーガレットライン)でりす?に逢う。
4.17 ('91) いたち・へび・とんぼ初見。
4.25 ('93) 川とんぼ初見。八木山地区へ下る川すじの路で。
4.27 ('91) 南伊豆町伊浜からの帰り道、うさぎ・たぬきに逢う。
4.30 ('93) 蛍の幼虫が光っているのを確認。
5. 4 ('91) 八木山地区へ下る途中いたちに逢う。
5.10 ('94) この頃、いちご初摘み。
5.10 ('95) 夜、ほたる(幼虫)光る。
5.16 ('95) 尾根すじで「ぎんらん?」見つける。その後所在不明。

夏には
6.11 ('94) この頃、ほたるの光、初見。
6.11 ('95) オニヤンマ初見。
6.15 ('95) リスを見る。八木山〜農場へ向かう途中の道を横切り木に登り枝づたいに
      山の奥へ。車で走りながら見る。
7.23 ('93) 農場でほたる飛翔。
8.10 ('94) Pm4:00過ぎ、夕立の中、虹を見る。(山の中、東の空に) 
8.11 ('94) 稲の生育1mを越える。すいか(ソフトボール大)鳥に食べられる。
8.27 ('95) 稲の穂初見。

秋になると
9.13 ('95) 栗の実3個ひろう。くりごはんにする。
9.17 ('95) 農場の栗の実4個収穫。
10.14 ('94) 八木山地区へ下る途中、子たぬきに逢う。
10.30 ('94) 昼、いたちがプレハブの前を通って行く。
11. 8 ('92) さつまいも・里いも掘り。
11.14 ('93) 子たぬき・いたちに逢う。

冬には
12. 6 ('95) この冬の初氷、初霜確認。(朝7時半) 
12. 6 ('95) 農場内で子たぬきの死体発見。
12.15 ('95) 小梅一輪咲く。 
12.19 ('93) 農場に氷はる。 
12下旬('94) 暮れからふきのとう出ている。
1. 7 ('96) 水仙・きぬさやの花咲き出す。遅く植えたそらまめ芽を出す。
1. 9 ('95) 現在、ビワ、さざんか、水仙2種、ふきの花咲いている。
1.11 ('95) 氷はり、霜おりる。
1.17 ('94) 夜10時過ぎ、台所に赤がえる出てくる。(雨が降っているが南風)
2.10 ('94) 外のトイレで流れ星見る。
2.12 ('94) 朝と夕、雪が舞う。
2.13 ('94) Am0:00頃から雪。積雪最大1センチメートル。車の上など。
2.15 ('93) うぐいす鳴いていた。
2.19 ('94) この頃、うぐいすの初鳴を聞く。
2.22 ('96) 18〜19に東京大雪の時に伊豆16年ぶりの大雪の報で農場の山にも残雪。
2.22 ('96) 朝から雪が舞う。小梅の花、満開。
2.27 ('94) 未明に雨からぼたん雪。日の出とともに消える。

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