私が生きるということと袴田さんの支援にかかわるということ
2006.6.20 白砂 巌
そもそも、私たち(人間)は、一人一人が、それぞれ自分の「いのち」に支えてもらっ
ているから、いま自分という自我を持つことができています。このことは、例えば、たま
たま誕生からこの方、その「いのち」が傷ついて体に後遺症が現れている人でも、また、
その「いのち」がこれまで、幾多の難関をやり過ごして、無事に自分を支えてくれていて
いる人でも、いまの自分を支えてくれていることに変わりはない訳ですから、本来、誰も
が自分を支えてくれている「いのち」を「誇り」にしていいはずです。
私の「いのち」の場合でいえば、1歳と4ケ月の時、小児マヒを引き起こすウイルスに
おかされました。そのため「いのち」は傷つき、左足にマヒという後遺症が残りました。
でも傷ついた私の非力な左足は、それから58年になろうという歳月を、ケナゲに私の歩み
を支えてくれています。このことに気づいた時から、私は、傷つき困難を抱えた状況にあ
るどんな「いのち」であっても、非力なりに自分たちを支えてくれる「いのち」は、私に
とって「誇れるもの」になりました。そして、私を支えてくれている誇れる「いのち」に
感謝する気持ちを持てるようになりました。
ところが、これまで無事に自分を支えてくれている「いのち」に支えられている人の中
に、時々というよりひんぱんに、事の結果を「他人(ひと)のセイ」にして、相手をけな
したり、なじったりすることに出くわすことがあるのはなぜでしょう。
現代社会でいえば、本来、「ひと」は、自分が自分の主人公として、自分を自由にコン
トロールして生きている「はず」です。したがって、自分がどう行動するのかをどう決定
しようとその人の自由な訳ですから、その結果、どんな事態を生じても、すべて自分で引
き受ければいいだけのことです。例え自分の思い通りにならなかったとしても、その結果
がどういう結果に終わろうと、いまさら、「ひと」のセイにする理由はない筈だし、自分
の行動の結果は、それぞれが自分で引き受ければいいだけです。
ところが、「ひと」のセイにしてしまう人は、自分の思い通りに運ばなかったのは、相
手が自分の思いを無視したり、反対の行動をとったりするからだと非難するのです。しか
し、自分が自分の思い通りに自由に行動する権利を持つように、実は他人も自分の思い通
りに行動する自由を持っている訳ですから、自分の思いを他人に押しつけて、その通りに
他人が応えてくれなかったからといって、他人を非難する根拠にはなりません。
でも、どうしてこのようなことが、起こってしまうのか、これまで、私は私の明確な答
を持っていませんでした。でも、私は、自分を支えてくれている自分の「いのち」を「誇
ること」を意識するようになった時、実は、自分を支えてくれている自分の「いのち」に
「誇り」を持っていないことが、自分が自分の主人公として生きれなくしている原因なの
ではないかと考えるようになりました。
逆に、自分の「いのち」を「誇ること」を意識するようになると、何が違うのか、私の
つたない体験からいうと、自分のありのままをすべて「誇れる」ようになり、自分のここ
が欠点だとか、自分のここが嫌いだとか、そうした否定的な考えを、自分に対しても、他
人に対しても一切持つ必要がなくなる状況が私には生まれました。そして、私は、私の「
いのち」を生かして生きていくということだけを意識するようになりました。
そこで、私は、自分が出会ったことで、自分が信じるにたる事実を見出して、避けて通
れないと思うことや、自分がやりたいと思うことを、自分の責任において首を突っ込んで
いる訳で、袴田さんの支援にかかわることもそういう事柄の一つです。だけど、その信じ
るにたるきっかけも、その内容も、私たちは一人一人異なっており、また、それぞれの生
活領域の違いから、係わり方にも個人差があります。そうした状況の中、一人一人が、自
分がやりたいと思ったことを、自分の責任においてやっていくのが現実だから、みんなが
同じ顔をして、同じ言葉をしゃべり、同じ行動をしなければならないとはなりません。
それぞれが、自分のやりたいように、自分の力をそそいでいけばいいだけのこと。それ
に対して、そもそも他人(ひと)が非難することではないはずです。実は、非難しようと
するその人も、自分の思った通りに自分のやりたいようにやっているからです。
どんな自分の行動であれ、そのことを、他人がその人に強制した訳でもないのだから、
自分の思った通りに自分が行動する時、その結果は、すべて自分の責任で自分が引き受け
ていればいいのです。しかし、自分が自分の主人公として、しっかりと生きていないこと
が人をして、こんな状況にしたのは、また、こんな状況に自分を追い込んだのは、まわり
の人や社会であったり、当面する相手が悪いという結論に結び付けてしまう。そして、自
分の思いと違う行動を他人がした時、自分の期待通りにしてくれないことを理由に、他人
(ひと)のセイにしてしまうのです。でも、他人のセイにするということは、実は、自分
が自分の主人公として生きていないことの証にしかなりません。
だから、私は、自分を支えてくれている自分のいのちを「誇り」に、時にはその「いの
ち」に感謝して生きる一人の人間として、自分の場で、自分のやりたいことをやりつつ、
その一つとして、袴田巌さんの支援にかかわり続けているのです。