− 論評 君が代の真実−
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古代人の常識・現代人の非常識

「先生」と歌謡としての「あが君」と「君が代」

 「先生」とは、日本では、もともとは、平安時代の「先生=せんじゃう」が語源のよう
です。「先生=せんじゃう」という言葉は、春宮坊 (皇太子の御殿に関する一切の事務を
司った役所) の帯刀(たてはき=太刀佩き=たちはきの転。刀をおびて春宮坊を護衛した
舎人=とねり) の長官を指していました。
帯刀先生=たてわきせんじょう=東官武官長ということです。
 ところが、「先生=せんじゃう」という言葉には、もう一つ別の使われ方があったよう
です。「先生=せんじゃう」の頭に「わ」をつけて、「わ先生」=わせんじゃうと相手の
人を呼んだのでしょう。ところが、「わ先生」とは、『古語辞典』に軽蔑の意を含んで人
を呼ぶ語とあり、「君、お前さん」という意味あいだそうです。
 「わ先生は、いかでこの鮭を盗むぞ」『宇治拾遺物語』1213〜1219 頃成立。と使われた
そうです。
それを「先生=センセイ」と音読みで読み変えて喜んでいるいるのが現代人。古代人か
ら言わせると、なんと破廉恥なと、さぞ軽蔑の眼差しをむけることでしょう。
 逆に、御前 (おまへ=神仏または貴人の「前」をいう尊敬語) や貴様(きさま=軽い尊
敬の意を含む。あなたさま) は、現代では、御前=おめえ、手前=てめえ、貴様=きさま
、などと捨てぜりふのようにも使われてしまうのですから、こんな逆転がどうして起こっ
てしまうのか、私の理解を越えています。
ちなみに、前=目方=まへの意味。前方、正面のこと。また、み前・おほ前=神の前。
貴人のそばに出ること。近くで仕えること。だそうです。
 いま「先生=センセイ」と呼ばれて喜んでいる人たちが、国を誇り思うこと、国を愛す
る心を教え込まなければならないと、声高に語り、「国歌」や「国旗」の前で起立して (
直立不動になって) 、「君が代」を歌わなければならない、と言っている。

 そもそも、「君が代」の元の歌は、『古今和歌集905 紀貫之』賀の歌 (恐らく40歳にな
った人を祝福して詠 (よ)んだ短歌=いま風に言えば、ハピーバースデー・ツュー・ユー
と歌う誕生日の歌として、節 (曲) をつけて歌われた歌詞 (=短歌) だったようです。
その内容は、
 「(343)吾 (あ)が君は千代に八千代に細さざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」
「あが君」は「わが君」とも。 (流布本、了佐切俊成本、伊達家本、藤原公任古今集注な
ど。1223.7.22 書写・藤原定家) というもので、作者は不明、読人知らずの歌です。
でも、紀貫之が『古今和歌集』を撰 (えら) んだ (編集した)時代(900年代)には、た
ぶん、広く沢山の人の間で歌われていた歌詞で、有名な歌だったのでしょう。だから、紀
貫之は『古今和歌集』の賀の歌のトップにこの短歌を撰 (えら) んだのだと思います。
 また、一般に知られていて、流布していた歌詞だからこそ、その後、いろんな替え歌 (
歌詞) が誕生したのだと思います。
「あが君は千代にましませ細さざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」
「あが君は千代にましませ細さざれ石のいはほとなりて苔むすまでに」
945.10壬生忠岑が撰した『和歌體十首』は
「わが君は千代にましませ細さざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」
『古今和歌集』と同じ短歌は、『和漢朗詠集1013藤原公任』(775番) にもとられ、
『和漢朗詠集1228版』では第一句が「君が代は」となっていた。
「君が代は千代に八千代に細さざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」

また、日本における歌謡と舞の歴史を『古語辞典』で簡単にたどってみると、
 ・歌謡・=韻文のうち、音楽を伴い口唱されるもの。特に、歌詞が叙情的で短く、節本
位におもしろく歌うもの。上代の「記紀」『万葉集』中の歌謡は、曲節は不明であるが、
当時は歌われたものであるから歌謡として扱う。中古には、神楽歌・催馬楽さいばら・朗
詠・声明しょうみょう・などがあり、中世には、今様・法文歌・田歌・宴曲・延年・田楽
・狂言歌謡・小唄などが「梁塵秘抄りょうじんひしょう」「宴曲集」「閑吟集」などに収
められている。近世には、三味線の普及と演劇や遊里の整備発展に伴い、長歌・端歌はう
た・一中節・新内しんない・常磐津ときわず・清元・歌沢うたざわ・都々逸どどいつ・な
どが生まれた。
  ・記紀歌謡・=「古事記」「日本書紀」に収められている歌謡で、重複を除く約百九
 十首の総称。上代人の日常生活全般を素材とし、明るく素朴で、たくましく民謡的要素
 が強い。作は天皇・皇族とされたものが多く、歌体は片歌(かたうた)から長歌までさ
 まざま。わが国の詩歌の発祥を考える重要な資料である。
  ・うたがき (歌垣) ・=「歌かがひ」の約言。春秋に男女が特定の山の上や道の辻に
 集まって行った行事で、まず男性から女性に歌 (片歌形式か)を歌いかけ、女性が同じ
 片歌で歌い返すもの。最後には一夜妻と呼ばれる神聖結婚に終わるのが普通であった。
 のちには、歌垣は必ずしも男性と女性の唱和のみでなく、男性どうしの唱和も行われる
 ようになり、また、一種の風流として宮廷貴族の間でも行われた。文献の上からは、宝
 亀元年(700年) を最後に消える。
  ・さいばら(催馬楽)・=上代歌謡の一。馬子歌の意とも。神楽歌の前張さいばるが
  転じたものともいう。奈良時代に民間で歌われた歌謡が、平安時代、雅楽の影響を受け、
  宮廷歌謡となったもの。笏拍子しゃくひょうし や笛・篳篥ひちりき・笙しょう・筝そう・
  琵琶などで伴奏し、貴族の宴席で行われた。舞はない。
  ・あずまうた(東歌)・=東国地方の人々の間に歌い継がれた民謡風の歌の意。東遊
 びで歌う歌。『万葉集』巻14、『古今和歌集905 紀貫之』巻20に載る。
  ・あずまあそび(東遊)・=東国風の歌謡に舞楽を合わせたもの。古く東国地方に行
 われた民俗舞踊を、平安時代に宮廷・貴族・神社が採用したもので、おもに神事に演ず
 る。「東舞」〔三代実録〕とも。
  ・さんがく(散楽)・=中国古来の民間芸能。音楽の伴奏による軽業・奇術・滑稽物
 真似などの芸能の総称。唐代に盛行した。わが国には奈良時代に輸入され、のちの田楽
 に取り入れられ、猿楽のもとになったといわれる。
 ・ぎがく(伎楽)・=「呉楽くれがく」とも。楽舞の一。発祥はインド・チベットという
 が、日本へは呉の国の舞楽として伝わった。推古天皇の時代に、日本に帰化した百済人
 味摩之みまし が伝え、能面より大きく後頭部まで覆うグロテスクな感じのする表情の面を
 付け、横笛・鼓・銅拍子などの演奏に合わせて無言で踊る。
  ・延年・=東大寺・興福寺などの大寺で、大法会後の余興として、僧侶・稚児たちの
 行った芸能。平安中期に起こり、鎌倉時代に盛行した。風流・連事・開口・白拍子など
 多くの種目があり、猿楽・田楽の母胎となった。
 ・さるがく(猿楽)・=「中楽」とも書き、「散楽」の訛なまりという。古代・中世の
 芸能。唐から渡った散楽に日本古来の演芸が融合したものといわれる。滑稽な物真似や
 掛け合いが主で、宮廷の宴席や寺社の祭礼などに行われた。鎌倉時代以降、しだいに演
 劇化し、室町時代には専門の座が形成され、田楽・曲楽・延年などの歌舞を吸収して、
 能楽・狂言へと進んだ。
  ・田楽・=平安時代から行われた民間芸能の一。もと田植えの際に、笛や太鼓を鳴ら
 して歌い舞った神事芸能であったが、のちに大寺社の祭礼に行われ、職業的な座が現れ
 た。腰鼓ようこ ・笛・銅びょう子・簓ささら などの伴奏による群舞と、高足・品玉・
  弄剣など軽業のようなものをも加え、猿楽とも影響しあって、能楽へと発展した。
・えいきょく (郢曲) ・=平安中期に流行したうたいものの総称。始めは俗曲という意
味であったが、今様・朗詠・催馬楽さいばら・風俗ふぞく・神楽歌などまで含めていうよ
うになり、古典化して教習が必要になった。平安末期には歌謡の由来や歌い方の注意など
を記した「郢曲抄」という書物も出、綾小路あやこうじ・揚梅ようばい・二条の三家が曲
を伝えた。
  ・朗詠・=漢詩文の秀句に節をつけて朗吟すること。平安中期に貴族の間に流行し、
 主に宴席で行われた。源雅信・藤原師長により、源家・藤家の二流として伝えられ、催
 馬楽・今様などと共に郢曲と呼ばれた。和歌の場合、唱歌と称したが、のちにはこれも
 朗詠といわれ、『和漢朗詠集』には両者が収めてある。朗詠集はほかに『新撰朗詠集』
 などがあり、『源氏物語』をはじめとする王朝物語や『平家物語』などに大きな影響を
 与えた。
  ・『和漢朗詠集』・=別名「倭漢抄」略名「朗詠」。詩歌集。二巻。1013ごろ成立。
 藤原公任撰。当時愛読された漢詩集や歌集の中から朗詠に適するもの約八百(詩賦581
 、和歌216)を選び、四季・雑に分けて収めたもの。漢詩では白楽天・菅原道真・源順な
 ど。和歌では紀貫之・柿本人麻呂・凡河内躬恒などの作品が多い。
  ・和讃・=仏教歌謡の一。仏や菩薩・高僧などの徳を讃えた歌で、四句を一段とし数
 段を重ねる。源信の「極楽六時讃」「来迎和讃」や親鸞の「三帖和讃」などが有名。
・今様・=「今様歌」の略。広義には、平安時代に神楽・催馬楽さいばら・風俗歌など
それまで伝えられてきた歌に対して当世風の新しい形式の歌という意味であるが、狭義に
は、平安中期以降、鎌倉時代にかけて流行した歌謡の一つをいう。和讃や雅楽の影響を受
けてできたといわれ、七五調、あるいは八五調の句を四回繰り返す形式のもので、宮廷貴
族にもてはやされ、白拍子や遊女が舞った。「梁塵秘抄りょうじんひしょう 」などに収録
されている。
  ・そうか (早歌) ・=「宴曲」とも。歌謡。鎌倉・室町時代、貴族・武士の間の宴席
 などで行われた。明空(みょうくう)が大成。1301〜1319に集成した譜本に「宴曲集」
 「宴曲抄」「真曲抄」などがある。物尽くし・みちゆき道行などが多く、七五調を主と
 する。
室町時代に入っては、
 『曽我物語』巻六「五郎大磯へ行きし事」の条。
 義秀ひやうしを打ちたてさせ「君が代は千代に八千代を細さざれ石の」としぼりあげて
「いはほとなりて苔のむすまで」と短く舞うてをさめけり。
『結城戦場物語』に春王安王が捕らえられた後、首の座に直らんとするに当たり、その
前夜、別れを惜しみ舞をまった時の事を叙して「君が代は千代に八千代を細さざれ石の」
と舞たまひければ、などに引用され、歌われている。
江戸時代に入っても、謡曲、浄瑠璃、小唄にまで、その歌詞の引用は及んでいる。
 このへんの「君が代は」の歴史の解明や曲のいわれは、『君が代の歴史』に詳しい。
 これらのことからも、奈良・平安時代以降の日本にあっては、現代社会のように、ラジ
オやテレビもないし、レコードやCDやMDやDVDなんてものも当然無かった訳ですか
ら、生の声で節をつけて歌詞(短歌など)を歌い、時には生演奏のもとで、その歌に合わ
せて生で舞うことは、最高の楽しみであり、娯楽やパフォーマンスであったろうし、そう
した歌いと舞をともなった宴は、普段から、ふんだんに行われていたのだと思います。
また、「あが君」は、小石が成長するという中国渡来の説話を取り入れると共に、『万
葉集』「(228)妹が名は千代に流れむ姫島の小松がうれに苔生こけむ すまでに」からの影響も
あるとする。
ほかに「あが君」に関連する言葉が詠まれている『万葉集』の短歌には、
細れ石 
 『万葉集』14「(3542)細れ石に駒を馳せさせて心痛み吾が思ふ妹が家の辺あたり かも」
 信濃国の歌。細れ石さざれし。
 『万葉集』14「(3400)信濃なる筑摩の川の細れ石さざれしも君し踏みてば玉と拾はむ」
 石田王いはたのおほきみの卒みまか りし時、丹生王にふのおおきみ の作る歌 (長歌)
  に続く反歌巌いはほ 岩秀の意か。高くそびえ立つ大きな岩。
 『万葉集』3 「(421)逆言およずれの狂言たはごととかも高山のいはほの上に君が臥こやせる」
市原王の、宴うたげ に父安貴王あきのおほきみ を祷ほ ぐ歌
巌なす 巌のように永遠にの意味から常磐にかかる。
『万葉集』6 「(988)春草は後はうつろふ巌いはほ なす常磐に坐いませ貴たふと きわが君」
などがある。
また、奈良時代の『懐風藻751 編者不詳』に40の賀を祝った詩(64、107)が見え、朝廷で
は嵯峨天皇(786〜842) の賀(825年) が最初である。中国の習慣であった算賀の祝いが日本
の「知識人」に行われ、最初は詩が作られたので、後に和歌に代わっても中国ふうの知識
を詠むことが喜ばれた。とは小学館の日本古典文学全集7『古今和歌集』の解説。

『古今和歌集』賀の歌に詠み込まれた「君」は誰を指したか。
 君が誰を指すか不明。(344)(345)(346)(354)
 僧正遍照 (光孝天皇が遍照の70の賀をした時詠んだ) に対して君 (347)
 本康親王 (紀貫之が本康の70の賀をした時に詠んだ) に対して君 (352)
 良岑経也 (素性法師が経也の40の賀をした時詠んだ) に対して君 (356)
 本康親王 (素性法師が本康の50の賀の時詠んだとも) に対して君 (353)
 
賀の歌=人が40・50・60・70歳などになったことを言ほぐ (祝福する) 歌として歌われ
た「あが君は」の歌詞(短歌)が、のちに「君が代は」と変わっただけの歌詞を、むりや
り「君=天皇」と「君が代=天皇の治世」を意味すると曲解させることが、日本の伝統に
叶うことであり、そうした歌詞を、日本の国の歌だとするのはどうかと思う。もともとの
作者が、天皇の賀を歌ったのであれば、それならそれで作者の名が残っているはず。「君
が代」の歌詞は、現代風に、悪く言えば盗作。良く言えば替え歌。でもそれが、広く日本
の歌謡の歌詞として歌われてきた歴史がある歌詞の一つであることは確かなようだ。

ところで中国渡来の説話とは、『酉陽雑俎ゆうようざっそ 』段成式だんせいしき撰
 (中国の伝奇小説集) に載った話で、川で網にかかった石を拾ってきて、寺 (仏殿)
 に置いたら、一年で (長年おいていたらとも) 四十斤 (日本の尺度から推計すると
 23.36 ・〜70.08 ・) の岩になった、とあるという。
 日本の尺度は1斤=16両(584g)といい、48両(1752g) を大1斤といった。
 1両りゃう=延喜式では10匁(36.5g) 。
 実際の話は、『酉陽雑俎』段成式撰 (今村与志雄訳・平凡社発行・東洋文庫401)によれ
ば、以下の通りである
 「于う 季友が、和州刺史をしていた時のことである。江かわに望んで寺があって、寺の前
 は、漁師や釣り人が集まった。ある漁師が、網を下ろし、それを引き上げたところ、重
 くて網が痛んだ。よく視ると、挙こぶし ぐらいの石が一つあった。そこで、寺の僧にたの
 んで仏殿に置いてもらった。石は、そのまま、しきりに成長した。一年たって、重さが
 四十斤になった。張周封 (段成式の友人) 員外が、蜀に入った時、まのあたり、そのこ
 とを見た。」
『酉陽雑俎』東洋文庫404 の解説によれば、題名の「酉陽雑俎」とは、酉陽の逸典を訪
ねた「雑俎」=雑録、文集という意味で、段成式は「経けい」すなわち「詩経」や「書経」
など、当時、士大夫階層の知的活動におけるカノン、規範にあたるものは、主要なスープ
であり、「史」すなわち歴史学や地理などは、焼肉料理であり、「子」すなわち哲学書な
どの学術書、宗教書などは、調味料をきかせた肉醤ししびしお である。それに対して「小説」
すなわち彼自身の書きつづる怪異譚や戯作は「正統的な学問とはいうもおこがましく、料
理なら、焼き鳥か、スッポン料理だ」と記している。なお、846 年の作話 (武宗による廃
仏毀釈で還俗させられた僧が死亡した時の話。923 話) が最終か。
また、845 年の武宗による廃仏毀釈に遭遇した日本の僧円仁は、847.9.2 赤浦から出帆
した唐船に乗って、数人の中国人を伴って、847.9.19太宰府に帰国している。
平安初期に渡来したという『酉陽雑俎』のこの話を、誰が日本に持ち込んだかは別にし
て、魯迅の言葉によれば、「中国の伝奇集および雑俎」の小説を土台にした作り話で、本
当にあった話のように装った、言うなれば、嘘の話。なお、この本の模倣が試みられ、そ
れらが写実的になり、趣向をこらされて生まれたのが「竹取物語」という。
しかも「小石 (細れ石) 」が「巌 (いはほ=岩秀の意か。高くそびえ立つ大きな岩) 」
になることはないと、現代人なら理解する話。にもかかわらず、たぶん仏教信仰の御利益
の逸話として取り入れられ、ことほぐ (言祝ぐ・寿ぐ=祝福する) 歌の歌詞に詠まれ、歌
われたのが、「あが君は」であり「君が代は」であった。
また、日本語の中には、とこ (常) =いつも変わらない、永遠である意を表す言葉があ
り、この言葉から、とこよ (常夜) =永遠の暗闇。とこなつ (常夏) =古代ではなでしこ
の花の別名。の言葉も派生している。
また、「常磐=ときは」とは、「床とこ+岩いは」であり、床とこ=土台の意で、土台
の石は磐石なものと認識され、それが不変、さらに転じて永久の意を表した。この永遠と
いう概念は、「常世=とこよ」=永久にかわらないこと。常世の国の略。また、とこしえ
(永久) =とこしなへ (常しなへ) =床とこ+石いし+な+上うえ=床石の上 (土台とな
る堅牢な巨石の上の意) として、安定した状態の意から永久不変を表す言葉がある『弥生
文明と南インド』。
 要するに、日本人の潜在意識の中に、巨石に対する信仰や畏敬の感情があって、日本語
が形成されてきた結果、「細さざれ石がいはほとなる」ことに矛盾があっても、いま風に
言えば、胡麻すりのおべんちゃらの表現であっても、人が40歳、50歳で亡くなる人が少な
くなかった時代、千年、万年生きることはないことが判っていながら、あなたのいのちが
千年もあるようにとか、それでも足りずに八千年も続くようになんて願ったり、「死んで
もあなたを愛します」と誓うのと同じで、「いはほとなりて」と歌われることに喜びを感
じてきたのが日本人の「君が代は」の歌謡だったと言える。
でも、中国の故事を物真似して作った歌詞が、日本の伝統だ、日本の国の誇るべき歌だ
と思っているとしたら、日本の伝統とは、中国の逸話や作り話を模倣して語ることでしか
ないのですね。もっとも、奈良・平安時代を中心に、盛んに中国の文物や風俗・習慣を取
り入れてきたことを考えれば、そもそも、日本の伝統とは、中国から取り入れた文物や風
俗・習慣の物真似でしかないのだから、それでいいんだというのであれば、民俗歌謡の祝
い歌の歌詞として江戸時代になっても日本の津々浦々で引用されて歌われた「吾が君」や
「君が代」が「国歌」になったとしても不思議ではない。
けれど、「君が代」の「君」はそもそも「天皇」を象徴していた訳でもないし、「君が
代」が「天皇のみ世」を意味した訳でもない「君が代」を、明治以降、昭和初期の1945年
までの間に、「君」が「天皇」を象徴し、「君が代」が「天皇のみ世」を意味していると
宣伝され、そう思い込まされてしまったという話です。こんな固定観念にしばられること
は、愚かなことだと思いませんか。
また、中国の故事を物真似した歌詞を、日本の誇るべき「国の歌」の歌詞だとして何の
疑問も感じない、わ「先生=せんじゃう」たちは、言わば、中国の単なる伝奇小説の擁護
者・代弁者でしかないのですから、こんな中国の伝奇小説の「お・太鼓持ち」が、日本の
伝統や日本の誇りなどと語ること事態が可笑しなことだと思いませんか。

そもそも、私たち人間は、いのちに支えられて生きています。このいのちに支えられて
生きるということは、その究極の姿が死である限り、本来、いのちは傷つき、その体の機
能は失われていくものです。でも、自分が傷つき、体の機能が失われることに対する不安
からか、自分自身や自分のいのちに誇りを持たない人、持てない人は、日本人だから日本
人である自分を「誇る」というように、自分自身にではなく、自分の属性に誇りを求めた
り、何かをなすことでしか人は自分に誇りを持てないと思っています。
例えば、自分はこれこれのことをしてきたとか、また、「君が代」を唱和すれば、その
ことに依存して自分に誇りを持てない人でも、みんなが同じように愛国心や日本人として
の誇りを持てるようになると思っているのか、日本の誇るべき「国歌」だとして唱和する
ことを、繰り返し強制しようとしています。
 破廉恥にも、「君が代は」が、中国の作り話をもとに歌っていることも、恐らく知らな
いのでしょう。こんな「君が代は」でも、他人から強制されて歌ったりすることで、日本
の社会は良くなると思い込んでいるのでしょうか。しかし、自分の属性や他者に依存する
ことで得られる誇りが、自律した人間を創り出さないことは、すでに証明ずみで、裁判所
や検事・警察組織の人や一般の官僚組織の人や弁護士・教師・建築家に至るまで、自分の
欲望を満たすために犯罪に手を染めたり、自分 (たち) の利益を得るために陰でこそこそ
謀る人間を、繰り返し輩出している事実を見れば明らかである。
 人のいのちは、さまざまなウイルスや細菌にさらされています。そして、それらのウイ
ルスや細菌は、時として、人の体の中に侵入してきます。しかし、多くの場合、その人が
母親から受け継いだ免疫をもとに、自らの体も培った免疫の力によって、発病しないです
みます。でも、ポリオのウイルスやハンセン病の細菌のように、その人の免疫の力がたま
たま弱かった時には、発病してしまいます。また、幼い時の病気や出産時の事故で、いの
ちが傷つくことや、加齢からくる病気やケガによって、歩行が困難になったり、自由な行
動が出来なくなったりします。
そうして、体の機能を失い、障害をともなって生きることになる人が、生きることにお
いて制約された状況の中を、ケナゲにその人を支え続けている「いのち」に敬意を払いこ
そすれ、ジャマな存在、厄介ものとして扱ったり、子供によく見られるようにバカにした
り、或いは大人になってもさげすんだりするということは、そうしているすべての人が、
実は、将来の自分が傷つき失うことのあるいのちを、厄介ものとして扱ったり、バカにし
たり、さげすんだりしているにすぎません。
つまりは、自分のいのちさえも否定して生きているのです。
 それに対して、私は、ポリオによる軽度の障害を伴って、すでに57年生きてしまいまし
たが、腰痛に見舞われながらも、健気に自分の歩みを未だに支えてくれるか細い左足に、
どうしてもっと早く感謝する気持ちを持てなかったのか、と、いまでは思っています。私
のいのちは、40度というボリオウイルスによる高熱に4日間さらされ、死の淵に立たされ
た時、神経の機能の一部を失っても、生きることを選んで生きてくれたいのちです。この
いのちは、いまでは私の誇り以外の何ものでもないし、そのいのちがいまも私を支えてく
れることに私は感謝しています。
 しかし、障害をともなって生きている「いのち」に敬意を払うどころか、ぞんざいに扱
い、侮蔑さえしてしまう浅はかな人は、これまで無事に自分を支えてくれている自分のい
のちにすら誇りを持つこともなく、そのいのちに感謝するのでもなく、逆に「ああなった
らお終いだ」と言って、自分で自分のいのちのありようを否定してしまうから、自分が自
分の主人公になれず、他人 (ひと)や回りの状況に流されて「こうなったのはすべて人の
セイだ」として、他人の存在 (いのち) を否定し、その結果として人を殺すようなことも
起きてしまう。
でも、自分を支えてくれている自分の「いのち」に気づき、その「いのち」を何よりも
誇りに思い、自分を支えてくれる「いのち」に感謝する気持ちを持てれば、人は、「いの
ちを生かし生かしあう」人の絆と、「いのちを生かし生かしあう」社会の絆を手にするこ
とができるはずです。

 ・参考文献・
 『酉陽雑俎』4・段成式撰・今村与志雄訳 東洋文庫401・1981.09.10平凡社
  ゆうようざつそ   だんせいしき
 『酉陽雑俎』5・段成式撰・今村与志雄訳 東洋文庫404・1981.12.08平凡社
 『万葉集』1新日本古典文学体系4・1974.10.10・岩波書店
 『万葉集』2新日本古典文学体系5・1975. 7.25・岩波書店
 『万葉集』3新日本古典文学体系6・1974.10.10・岩波書店
 『古今和歌集』日本古典文学全集7・1971. 4.10・小学館。
 『古語辞典』久松潜一・佐藤謙三編 1979.1.10 ・角川書店
 『君が代の歴史』山田孝雄 1979.3.10 ・宝文館出版
 『君が代の歴史』が参考にした資料
 『国歌君が代講話』 小田切信夫 1929.8共益商社書店
 『君が代と萬歳』 和田信二郎 1932.7 光風館書店
 『国歌君が代の由来』小山作之助遺稿 1941.6小山眞津
 『古楽の眞膸』 出雲寺敬和 1943.2櫻橘書院
 『和漢朗詠集』校注大曽根章介・堀内秀晃 新潮日本古典集成1993.3.25 新潮社
 『懐風藻』全訳注江口孝夫 講談社学術文庫 2000.10.10 講談社
 『弥生文明と南インド』大野晋 2004.11.5・岩波書店
 
                   2006.4.7    白砂 巌

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