君が代・他
君が代。そんな歌が、1100年の昔から、あった。ただし、誕生日の祝い歌としてね。そ
の限りでは、あなたのいのちが、千年もつづくようになんて歌うことはおかしくはない。
「骨まで愛して」なんて言う人もいるくらいだから。それで千年でもたりないと、八千年
も続くようになんて歌う。とにかく、長生きできますようにと。人が、40年、50年で亡く
なる人が少なくなかった時代のこと。それに輪をかけたのが次の歌詞「さざれ石の巌とな
りて」。でも、これって、中国の作り話の本『酉陽雑俎ゆうようざっそ 』段成式だんせいしき撰 (今村
与志雄訳・平凡社発行東洋文庫401)の「あるお寺の前の川で、漁師が網を投げて魚を取っ
ていたら、こぶし大の重い石が網に引っ掛かって取れた。そこで、この石をお寺の仏殿に
置いておいたら、1年で40斤 (当時の尺度で推計すると23.36kg)の岩になった」という話
からきているといいます。
もともとこの本の作者も「正統的な学問とはいうもおこがましい」作り話といい、魯迅
によれば「中国の伝奇集および雑俎」という。誕生日の歌という範囲なら、そんな作り話
を奇跡のような話として信じた歌詞があっても、ま、いいではないかとはなる。
でも、これが「国歌」となると話は別。もともと「君」が「天皇」をさして歌われたの
でもない君を「天皇」のことだ、と思わせたり、「君が代」を「天皇の御代」だと思わせ
たのは、明治以降の日本。特に、戦争中の軍隊の話。つまり、詐称していた訳です。詐称
することを日本の伝統にしていいのですかね。
しかも、作り話を、奇跡の話のように信じる?という、浅はかなことで。「君が代」は
中国の作り話(嘘)を喜んで歌っている訳で、「国歌」が、このような歌詞でいいんです
かね。中国のおべんちゃらを誇りをもって「国歌」として歌うということで。
「日本神道」の歴史にしても、中国の朱子学や陽明学、とどのつまりは中国の伝統から
生まれた儒教で理論武装して、生き残ってきた歴史がある。それを、日本の伝統だという
彼らは。一体何者なんですかね。しかも、こんな「君が代」を強制して歌わせようなんて
話もあるんだから、笑っちゃいます。
彼らは日本の権力を握った「中国」の回し者なんですかね。実際、神道の家系の中には渡
来系の氏族もいたりして。
・お・ち・ゃ・ら・か・お・ち・ゃ・ら・か・
地球はあんたのごみ捨て場かい?
ではこみ捨て場にいるあんたもゴミ?
封建時代じゃあるまいし「じょういげだつ」で説明責任果たしてるとする姿勢
人まかせにすることは、自分の運命をひとにゆだねること
また誰かがやるだろうといって、そして誰もやらない
人まかせにしないということで
誰もが自分が爪弾きされていると感じている。
全部を自分で背負いこもうとすると確かに大変。
いくつ身があってもたりない。
しかし、みんなで分担してやればなんとかできる。
そんな人のつながりを作っていく手作りの区政、手作りの地域にしませんか。
私にとって地球は
宇宙の宝、いのちの島、地球。
同じことをアメリカという国に
地球はあんたたちの核のゴミのごみ捨て場?
(劣化ウラン弾で核のゴミを撒き散らす)
それではそのごみ捨て場にいるあんたたちも
核べつな (格別な)核のゴミ?
つまりは、アメリカという国はゴミの中のゴミ。
では私にとって日本は?
宇宙の宝、いのちの島、日本なんて、いまは誇れない。
二本 (日本) の電灯 (伝統) を貴ぶ (たっとぶ・とうとぶ) 人の中に「二本神道」に身
を置いている人がいる。
でも、彼ら「二本神道」は、電灯的 (歴史的) に、これまで二本の歴史の中で生き残る
ために、朱子学や陽明学、とどのつまりは儒教で身を固めてきた歴史がある。でも、これ
・儒教って、中国で生まれた、生粋の中国の電灯じゃないの。中国の電灯に身を飾った「
二本神道」が二本の電灯を語るって、おかしくないですか。彼らは、中国の電灯に身を浸
(ひた)して、中国の電灯を語っているのに。
二本 (日本) の電灯 (伝統) をとうとぶと言うのなら、まず、儒教で身を固めた衣をぬ
いで、はだかの二本人になって、純粋の二本の電灯に基づいて、二本の電灯を語ってほし
いよね。
でも、そうやって、すべての外国からの影響を排除して、二本の電灯を探して見ると、
そこには、はだかの人間たちしかいなかったりして。思想とか、理念とか、理想とかにじ
ゃまされず、ただ単にありのままのいのちを受け入れて、争いもなく、みんなで分け合っ
て生きる、人間しかそこにはいなかったりして。たぶん、縄文時代の人たちのようにね。
あんまり、何もかも脱ぎ捨ててしまうと、こうして、言の葉を、記録することもできな
くなるので、この中国の影響だけは、どんなことがあっても、私は捨てない。
NHKが次回、大河ドラマに「山本勘介」を取り上げるとのことですが、私は、ポリオ
による軽度の障害者ですが、子供の頃、まわりの子供たちから、歩く姿を真似され、嘲笑
された体験をもっています。その記憶は、大人になった今でも、消えません。だから、こ
れまでにもそうでしたが、健常者が足の長さが違う障害者を演じる姿に、強い嫌悪感を覚
えてきました。そんなに、やりたければ、実際の障害者の役者を使って演れよと思うのは
私だけでしょうか。健常者が、そうした場面を演じる限り、嘘な訳ですから、いくら演技
といっても、健常者が、おれにもこんなにうまく障害者の真似ができるぜ、といっている
ようなもの。だからなのか、嫌悪感は増すばかり。ここの所をよく考えろよ。単に、足を
怪我した健常者の姿を演じるのとは訳が違うということを。