級友への手紙
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級友への手紙
2000 ・10・11
35年前、確かに私たちはそこにいた
特別な体験を何か共有したとか
忘れがたい共通の思い出が特にあるとか
そうした記憶の底に深く結びついたクラスであったか?というと
取り立ててうたいあげる事柄もなく
少しばかりの生徒同士の拮抗というものがあったにせよ
ごくありふれた「そこそこ仲良くやっていたクラスだ」と
私は思う
この間の、クラス会の席で
「なぜか私のところに『言いたい放題』という
交換ノートがきているのよ」と言われた
そう言われてみれば、そんなこともあったよなと思う
そこには多分、今では想像もつかない
無垢で、無知で、夢中な少年や少女の一人として
私もそこにいたはずである
私たちは生まれる時代を選べない
けれど、この時代なくして
私たちが出会えなかったことは確か
私たちは生まれる親を選べない
けれど、この親たちなくして
私たちが出会えなかったことは確か
卒業から数えて35年
過ぎゆく時間を、指をくわえてただみていた訳でもない
重なっていく時間に、うろたえていた訳でもない
地位や成功を手にした訳でもない
学問で身を立てた訳でもない
ただ、目の前の夢中に熱中していただけ
だが「少年老いやすく学成りがたし」という言葉に
つくづく、私もそんな状況の中にいるなと思う
だからといって
過ごした時間の一つ一つを後悔はしていない
失敗や死ぬかもしれないという危険なハメにも
いくどとなく遭遇もした
でも、幸運にも私はここにいる
いま感じているこの幸運を
あの頃の私は、感じていただろうか?
あの頃の私は生きていることの幸運を
残念ながら、幸運とは考えていなかった
身に降りかかったポリオという病気で
わが身にあらわれたハンディを不公平と思い
心はわが身を肯定できずにさまよい続けていた
社会の不公平にわが身の不公平感を重ね
社会や政治を変えなければ世の中良くならないと
政治や社会の問題に心血も注いだ
高校生の頃からデモや集会にも参加した
「ファシズムか労働者革命か」と
一年遅れた卒業アルバムに言葉も残した
社会派の雑誌の発行にも参加した
自費出版の本も創り続けてきた
障害者の社会運動にも参加した
島田事件という死刑囚の救援運動に参加した
事件の裁判記録に顔を埋めて1年4ケ月
『雪冤 島田事件』(社会評論社)
という本もまとめた
同棲結婚をし、別れも体験した
別れぎわに相手のセイにして
でも、私の心は、晴れることはなかった
自分の責任で自分を生きていなかったから
しかも自分を生かして生きていなかったから
いまにして思えば、高校生の私の
あの時の言葉には続きがあった
「ファシズムか労働者革命か、それとも?」
思想や経済にしばられて生きるのではなく
ありのままの自分を生かして
私は自分を生きていけばいい
37歳になった時、そう考えるようになった
その時から私は自分の苦しみから解放された
わが身にあらわれたハンディを
幸運なことだと思えるようになった
自分のすべてを肯定して
ありのままの自分を受け入れたから
ハンディをもって生きてきた体験を
友人の遠藤滋氏と(いま彼は寝たきりの生活をおくる)
『だから人間なんだ』という本にした
そしていま私は
一年の生活の軸を伊豆の山の中においている
東京にケアを前提にした共同住宅を創ろうと考え
また自分たちの農場を持ちたいと
計画をスタートさせたから
西伊豆・松崎の地の甘夏のみかん山を手に入れた
ところが買った2800坪の土地はみかん山の段々畑
平らな場所があまりに少ないので
山を削って谷を埋める作業を
10年かかってやっているけどまだ未完成
毎年、甘夏の産地直売を4〜6月にやってきたが
腰痛や体力の関係からそろそろ限界
まして
共同住宅を創る計画はまだ何も始まっていない
モデルケースに考えている共同住宅の
土地を含めた資金の規模は10億円
どうしたらそんな資金が作れるのか
皆目展望はなし
それでも思っている
自分で、自分たちで作り上げていくしかないと
伊豆では4〜6月甘夏のみかん狩りができます
猪が食べに来ているけれど筍狩りもできます
猪に荒らされるけれど畑仕事があります
ショベルカーの運転ができます
11mの谷底から石垣の石積みを体験できます
家? 小屋作りも体験できるでしょう
共同住宅を創る計画に知恵と体力と資財を注げます
袴田事件という死刑囚の救援にも係わりながら
世の中のうつろいに腹を立てたり
無力な自分に失望したり
生活も順風満帆という訳ではない
でも満身創痍で充実している
気が向いたら汗をかきにきてください
私はまだまだここにいます
先日2000.9.9のクラス会には
坂本先生はじめ35年ぶりに会えた人もいて
あの頃とはずいぶん変化した人もいて
思い出せない顔もある
私はよほどクラスや学校の外を向いて
過ごしていたのだろう──
それでもまた、元気な活き活きした顔で
出会いを重ねたいと思う
幸運にも私たちは
次を考える甘さを持ち合わせている。
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いま思うこと 2002.4頃
目の前の山が片づかないいま、
他の思いは行動に移さないできた。
言葉が見つからない思いが、
わたしをとりまいている。
だが吹いている風よ、
あの人に伝えておくれ。
私の思いのたけを。
流れていく雲よ、
あの人の様子を見てきておくれ。
気掛かりだから。
年を経ても持ちつづけている、
情熱こころ があることを。
あの人にも伝えておくれ。
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亡き友への手紙 2002.4.22
なぜか40年という時を隔てて
夜中に眼を閉じた時、おぼろげにうかぶ
記憶の中の15歳の少年の顔
覚えているのは名字だけ
きみは15の春に自分の時間を止めた
あれから40年という時が刻まれて
ときどききみのことを思っている
40年という時のあいだに
貧しかったけれど活気に満ちた暮らしが
かみ合わない歯車にサツバツとした風が舞う
ホームレスと隣あわせの豊かになった生活
15歳の生涯を無駄とはいわない
だがその後の40年を共に生きたとしたら
この世の中の変わりようの中できみは
やはり生きていても無駄だったと思うのか
ぼくらが生きた空間は
ぼくらの生と死をのみこみ続いていく
いずれ地球という空間に包み込まれ
宇宙という空間の中へ溶け込んでいく
覚えているのは小説の題名
清張の「点と線」の一節になぞらえた線
きみが見限ったほどにぼくらもまた
自分の人生を見限って生きていないか
40年という時のあいだに
ぼくらは言い訳して生きてこなかったか
ぼくらの時間はどれだけ満ちていたのか
この先、約束された時間に希望はあるか
15歳の生涯を無駄とはいわない
だがその後の40年を生きたぼくらも
日々の生活で愚痴ることに時間を費やし
無駄に生きたといわないようにしよう
ぼくらが生きた時間は
ぼくらの生と死をのみこみ続いていく
いずれ地球という時間に刻まれて
宇宙という時間の中へ溶け込んでいく
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