食べ物の風土記 2
葉や茎を活用する野菜
アスパラガス
ゆり科。品種が多い。わたしたちが食べるのは食用種の若い茎。生のものをゆでてマヨ
ネーズなどで食べる。罐詰でも売られている。
あぶらな
あぶらな科。別名、菜の花・青菜・なっぱ。葉を食用。種子から絞った油を菜種油(食
用・灯用・機械用)という。『出雲の国の風土記』には、於豆振の埼(おつふりの岬)に
菜ありと記録している。
からし菜
あぶらな科。葉を塩漬。からし菜の種子を粉にしたものがからし。からし味噌(味噌に
からしを加え酢でといたもの)などを作る。
きゃべつ
原種のキャベツは、アフリカのビクトリア湖の周辺で食べられている。地中海周辺がキ
ャベツの原産地。日本には、1704年、江戸時代に、始め花キャベツが入ってきて、盛んに
鑑賞用として栽培されたという。丸く玉を作る食用のキャベツは、江戸末期に入って来た
という。
れんが亭で豚カツが作られるようになった時、始め人参などを茹でた温野菜が付け合わ
せにのせられていたが、(日清か日露)戦争でスタッフがいなくなった時、手間のかから
ない、千切りの刻みキャベツを付け合わせにしたのが、いまの姿になったという。
小松菜
あぶらな科。かぶの一種。親はすいな。京都の漬物ですぐきは親になった小松菜(すい
な)のかぶと葉を漬けたもの。京都の上賀茂神社周辺を中心にさかんに栽培されていて、
ここから全国に種が広まり、各地で小松菜を栽培した地域を賀茂と呼んだことから、賀茂
の地名が全国に点在したという。
さらだ菜
春菊
しんぎく・南ヨーロッパ原産。
セロリ
たかな
高菜・あぶらな科。からしなの変種。
『古事記』には、「ここに黒日賣、その国の山方の地(ところ=山の畠)に大坐(ま)
しまさしめて、大御飯(みけ)を獻(たてまつ)りき。ここに大御羹(あつもの=熱い汁
物)を煮むとして、其処(そこ)の菘菜(あおな=たかなのことであると解釈している)
を採む時に、天皇その孃子の菘(あおな)を採める処に到りまして歌ひたまひしく、
山縣(がた)に 蒔ける菘菜も 吉備(きび)人の 共にし採めば 楽しくもあるか
とうたひたまいき。」とある。
とうな
野沢菜
白菜
ほうれんそう
あかざ科。
みずな
みつば
レタス
最近の中国野菜
エンサイ
カイラン
キンサイ
コウタイサイ
コールラビー
サイシン
食用ハナニラ
タアサイ
チンゲン菜
ツルムラサキ
パクチョイ
ヒユナ
花を活用する野菜
カリフラワー
ブロッコリー
菊
実を活用する野菜
うり類
うり科の一年生草本。キュウリ、シロウリ、マクワウリ、スイカ、カボチャ、ヘチマ、
トウガ、ユウガオなどの総称。
『古事記』に、「この事白し訖(お)へつれば、すなはち熟瓜(ほぞち=熟した瓜)の
如振り折(た)ちて殺したまひき。」とある。
かぼちゃ
うり科。中米原産。3百年前に渡来。カンボジアからきたのでこの名がついた。品種が
多い。扁球形、ひょうたん形、へちま形などの果実を結び食用。日本かぼちゃ(和かぼち
ゃ)は、ごつごつ切れ込みが多い。最近の八百屋の店先にある、近年広く栽培されている
かぼちゃはほとんどが西洋かぼちゃ。近頃ではケーキやパイなどのお菓子の材料にも活用
されている。山梨県では、かぼちゃをはじめ、じゃがいも・里芋・人参・椎茸などの野菜
を入れ、手作りのうどんを煮込んだ料理を『おほうとう』として武田信玄の頃から食べる
ようになった。『ペルー北部のアンデス高地で、従来の説を数千年ほどさかのぼる時代に
栽培されたらしいカボチャの種などを見つけたと、米国の研究チームが6月29日の米科学
誌サイエンスに発表した。チームは発掘された家屋の床や暖炉跡で、カボチャの種やピー
ナツの殻、綿などを見つけ、放射性炭素を使って年代測定した。その結果、カボチャは約
9200年前、ピーナツは約7800年前、綿は約5500年前のものと考えられた。植物学者らの調
査結果とも合わせて、見つかったカボチャなどは野生のものではないと推定された。チー
ムは「どこかで栽培された後に運ばれてきた可能性が高い。定住や祭祀、灌漑の発達など
文化的な背景があると思う」としている。』──以上2007.7.2朝日新聞の記事。
きゅうり
白瓜
すいか
冬瓜(とうが)
とうがん・うり科。熱帯アジア原産。
にがうり
まくわうり
メロン
ゆうがお
うり科。熱帯原産。果実を食用にする。また、この果実の肉部を細く薄く長く裂いて乾
したものが、かんぴょう。栃木県鹿沼産が最上とされたこともある。火鉢、置物などにも
用いた。
しし唐辛子
とうもろこし
もろこしとも言った。
とうきび・こうりゃん
トマト
なす
インド原産。中国を経て日本に渡来。正倉院文献に登場する。つけもの・賀茂なす。生
食は体温を下げる。秋なすは嫁に食わすな=秋なすは美味しいが体温を下げて体に良くな
いので嫁(特に妊婦)に食べさせないほうがよいという意味。
ピーマン
新芽などを活用する野草・山菜
あざみ
きく科。若芽をゆでてあえもので食べる。またあざみの根は漬物にして「山ごぼう」の
名で売られる。が、実名の洋種山ごぼう(北アメリカ原産、日本に帰化。)は有毒。
あしたば
せり科。暖地の海浜に自生。きょう切り取っても明日には生えてくるところからこの名
がついた。別名、あしたぐさ、八丈草ともいう。おひたし、味噌汁の実、てんぷら、生の
ままサラダで食べてもよい。
うど
うこぎ科。山うどは栽培ものより香りが高い。生やゆでて食べる。てんぷらで揚げても
よい。
おかひじき
あかざ科。海岸に自生。サッとゆでておひたし・あえもので食べる。いためものや汁の
実にも良い。山形地方では江戸時代から栽培している。ビタミンAのほかカルシュウム、
ナトリウムが多い。
くこ
なす科。若葉をゆでて、おひたしやあえものにして食べる。赤い実を強壮剤。葉や根皮
を乾して、解熱剤として用いる。
ごぎょう
きく科。ははこ草のこと。春の七草の一。母子餅といって、母子草の若葉をつきまぜて
餅も作った。
せり
せり科。春の七草の一・田の畦や湿地に自生する。おひたしにしたり、汁の実に入れて
もよい。自分で採取する時は、毒ぜりと間違わないように。最近では、栽培されたものが
春さきの八百屋の店先にならべられている。
ぜんまい
竹の子
たらのめ
ゆでて、削りぶしであえて食べる。てんぷらにする。
たんぽぽ
つくし
すぎなの胞子茎。とくさ類。ゆでてあえものにする。全草を利尿薬。
つわぶき
なずな
春の七草の一。七草かゆに入れる。
はこべ
春の七草/なでしこ科。鳥餌や食用にする。利尿剤ともする。うしはこべ・はこべより
全体が大きい。食用、小鳥の飼料。はこべ塩(はこべを青いまま炒って水気を取り、塩を
交ぜて再び炒った粉。歯磨きとして用いる。)の原料。
ふき・ふきのとう
きく科。野草として親しまれている。東北や北海道の寒冷地には巨大な大ふきがある。
ふきのとうは、ゆでて、だいこんおろしあえで食べる。独特のにがみがある。ふきのくき
は、つくだに、煮物、甘く煮て砂糖をまぶした菓子にする。ふきの葉もつくだになどにす
る。
仏の座
しそ科。春の七草・他にすずな(蕪・かぶ)・すずしろ(大根)がある。
よめな
嫁菜・おはぎ・のぎく/きく科。山野に自生。若葉を食用にする。
『出雲の国の風土記』に、「附(つき)嶋 周(めぐ)り二里一十八歩(あし)、高さ
一丈(つゑ)なり。椿・松・薺頭蒿(おはぎ)・茅(ち)・葦(あし)・都波(つは)あ
り。其の薺頭蒿は、正月(むづき)元旦(ついたち)に生(お)ひて、長さ六寸なり。」
とある。また、薺頭蒿ありと、出雲の杵築(きづき)の御埼(みさき)・和多太嶋・美佐
(みさ)嶋・結(ゆひ)の嶋門(しまと)・久宇嶋・屋嶋・小嶋などをあげている。
よもぎ
きく科。くさもちの材料として昔から活用している。春先の若葉をゆでて、すりつぶし
たものを餅にまぜたのがくさもち。よもぎの葉を干してもみ、白い毛をあつめたものがも
ぐさ。全草を干してお茶にしたり、薬湯の材料にもできる。そのままでは苦いので、あく
を除けば、野草としても活用できる。
わらび
うらぼし科。新芽を草木灰といっしょにゆでてあく抜きをしてから、漬物にしたり煮つ
けで食べる。
スパイス・やくみ
からし「からし菜の種をすりつぶして粉にしたもの。」
クレソン
月桂樹
さんしょう
しそ
中国原産。紫蘇・縮緬紫蘇・青紫蘇がある。梅などの漬け込みの色出しに使ったり、葉
と果実を香辛料として使う。
しょうが
唐辛子
にんにく
パセリ「オランダぜり。」
ヴァニラ
らん科。果実を成熟前に醗酵させたものを香料・薬用とする。いわゆるバニラエッセン
スがこれ。
みょうが
わさび
なたね科。日本原産。『播磨の国の風土記』によると、波加(はか)の村、国占(し)
めましし時、天(あま)の日槍(ひぼこ)の命、先に此処に到り、伊和の大神、のちに到
りましき。ここに、大神大きにあやしみて、のりたまひしく、「度(はか)らざるに先に
到りしかも」とのりたまひき。故(かれ)、波加の村といふ。此処に到る者、手足を洗は
ざれば、必ず雨ふる。其の山に、桧(ひのき)、杉、壇(まゆみ)、黒葛(つづら)、山
薑(やまのしょうが=わらび)ども生(お)ふ。狼、熊住めり。とあり、この地方でのわ
さびの記録は古い。
また、天城湯ケ島町教育委員会発行『町の史話と民話』の「天城のわさび」〔筆者・宇
田博司〕によると、
わさびを食用にした記録は、鎌倉後期(1222─1252年)の頃、丹波の国・桑原
で野生のものを採取したことを記した「著聞集」がある。時代は下って「和漢三才国会」
(1711─1716年の正徳年間に刊行された・江戸期の百科事典の集大成)には、わ
さびはそばの薬味にかかせぬとある。
天城のわさびがはじめて江戸に出荷され、品質の良さを賞讃されたのは、「和漢三才国
会」が世に出て、およそ70年のちの、天明3年(1783年)に至ってである。その後、
現在に至るまで2世紀ちかく、天城のわさびは「本場もの」としてその名声を維持してい
る。
天城わさびを誕生させる祖となった人物は、板垣勘四郎である。勘四郎は延宝6年(1
678年)、湯ケ島の百姓・伝右エ門のあとつぎに生まれ、長じて、父をたすけ天城山字
岩尾焼峰で椎茸栽培に従事していた。時の代官にみとめられ、元文2年(1737年)湯
ケ島口の山守りをつとめた。幕府は天城の御林管理のため、当時この山に通ずる湯ケ島、
大見、白田、河津などに山守をおいたのだが、このときの御給米は2斗9升であった。
山守りをつとめている間のことだが、延享元年(1744年)、代官は勘四郎を駿河国
安倍郡有東木村へ椎茸栽培の師として三ケ月派遣した。
有東木村は、安倍川の奥、甲州越えの地蔵峠に近い山里である。「此の地従来山葵を産
す」と同じ碑文にある。元禄(1688─1704年)のころ天城では椎茸の栽培を秘密
にしたように、安倍川奥の山村には、わさび苗持ち出し禁止の掟があった。
有東木村から湯ケ島へ帰国の折、勘四郎はわさび苗を持ちかえった。延享元年も大みそ
かに近い日のことであったという。
一説によれば、勘四郎はわさび苗を苗としてではなく、食用の名目で名主の承諾を得て
持ち出すことに成功したという。あるものはまた無断で持ち出したともいう。
安倍郡あたりでは現在にいたっても勘四郎に悪感情をもっていたことは、静岡市のバス
ガイドのわさびの説明などによってもうかがえるが、それは湯ケ島の斉藤重蔵が二百年ば
かり昔、日向の国へ椎茸栽培を伝え、天城では悪人とされていることと同断である。
勘四郎は持ちかえったわさびを「天城山字岩尾地蔵伽藍の地」清水の湧くところをえら
んで植えた。「此の山(天城)に山葵を見ることここに始まる」と碑はいう。野生のわさ
びは天城山中にあったが、「時ノ人イマダ其ノ山葵タルヲ知ラザリシナリ」といういいつ
たえもある。
勘四郎のわさび試作は成功した。翌年、つまり、延享二年「わさび大いに繁殖し、苗を
分かちて数多くの人々に勧誘、之が栽培を奨む。」との記録もある。記録をうのみにすれ
ば、わさび苗天城移植及び試作については、当時の支配階級の、少なくとも代官クラスの
政治的配慮があったと考えられる。
天城わさびは、「天明三年(1783年)はじめて江戸に於いて声価を得」たのである
が、移植後40年目のことである。元きわめてわずかのわさびの苗を長年の辛苦の末増殖に
成功して江戸市場へ出荷するに至ったものであろう。
このとき勘四郎はすでに世になかった。
「寛延元年(1748年)十月、天城山見廻中、字滑沢口の地に於いて、猛悪なる山犬
に襲われ負傷す。傷重くして癒えず、遂に其の職(山守)に耐えず、同年十二月在職13年
にして辞す。」
それから15年後の宝暦14年(1764年)は、元号が明和元年にかわるのだが、この年
の5月、勘四郎は没している。年八十六才であった。
天城わさびがはじめて江戸に出荷された天明年間(1781─1789年)は、一口に
徳川三百年といわれる江戸期の中で、きわめて暗い一時期であった。霖雨と冷気が毎年つ
づき、浅間山の爆発による降灰がこれに加わり、いわゆる天明の飢饉として関東から東北
にかけ、いまだに惨状を語りつがれている大規模な凶作がおきている。年貢減免を要求す
る打ちこわしが、将軍のおひざもとをはじめ全国各地におこり、徳川封建体制の崩壊を予
告するのである。天明後、寛政の改革失敗のあと、江戸時代最後の泰平が、華美で豪奢で
刹那的な風俗文化を生みながら二十数年つづいた。いわゆる文化文政年間(1804─1
818─1830年)である。
宵ごしの金をもたず、初がつおを他人より早く食べるために大金を投じた江戸っ子はこ
の時代に生まれたが、文化年間サバの生臭さを消すためはじめてわさびが用いられ、わさ
びをはさんだコハダの握りずしが文化年間に発明されている。「いき」や「おつ」といわ
れる趣味が流行したこの時代に、天城わさびのもつ良質な香気と辛味が、江戸で大いにも
てはやされることになった。さらに地理的条件の良さも加わって、この事態に至ってはじ
めて天城わさびは江戸で、駿河わさびとところを変え優位に立つことになったのである。
元号について説明を加えれば、天城わさびがはじめて江戸へ出荷された天明のころにつ
づき、寛政、享和(1789─1801─1804年)、次に文化文政の時代がくる。
帝室林野局関係の記録に、「享和元年三月始メテ試作、後七年文化四年、出願ノ上五ケ
年期ヲ以テ拝借ノ許可ヲ得、地料四百六十四文上納、爾後(じご)借地料年々増加、明治
十一年ニ至リ全山山葵反別六町七反十三歩、借地料一円余ナリ。」とある。
享和元年といえば、天城わさびがはじめて江戸へ出荷されてから、さらに二十年近くた
っている。わさびはいづれも幕府御林の中の湧水地で栽培が行なわれた。当然栽培者は、
はじめ一定階層のものに限られていた。おそらく延享元年勘四郎の試作、試作成功確認、
仲間への呼びかけ、株仲間の結成と様々錯誤をくりかえしながら進んできた結果の、享和
元年の試作、七年後の文化四年の天領借地であったのだろう。
文化五年の湯ケ島村内の「山葵仲間」は、記録によれば、大滝組四十七人、宿組二十七
人、西平組二十三人、長野組二十一人、金山組二十五人となっている。
文化九年、天城山のわさび「心見植付場所」のうち、天領が湯ケ島村に隣接した場所に
栽培したわさび採取について、湯ケ島村だけでなく、われわれにも平均に分けまえをほし
いと、市山門野原村が湯ケ島村へかけ合った結果の、申しあわせ証文がある。これによる
とどこそこの場所のわさびは湯ケ島村が百篭とった残りを分けあうなどと、様々こまかく
きめたことを記し、湯ケ島村がさきに栽培適地としてみつけた場所なので、同村名主に荷
札や焼印をあずけ、一篭につき三匁ずつ冥加金や諸経費の分として差しひくことや、売上
の配分率も五割は均等の棟割にするなどのことを記し、関係三村に名主、組頭、百姓代表
がそれぞれ記名押印し、保証人として月ケ瀬、吉奈、田沢、青羽根、柿木村などの名主が
記名している。
この証文の中で、冥加金の上納をまちがいなく行なうことをお上に申しあげ、さらに生
産額に増減があるので、万一冥加金に不足を生じた場合は一篭あたりいくらの割りつけで
取り立てますなどといっているが、幕府の税金収奪のきびしさを想像させる。また、以上
のように三村熟談の結果とりきめたことなのだから、今後はこのような願いはせず、村方
役人共は申すに及ばず、小作水呑に至るまで云々とあるが、わさび栽培者が一定階層から
下部へ、このころになって拡がっていったようである。それだけ江戸でみとめられたわさ
びの商品価値が、天城の山里へ大きな収入をもたらすことになったものであろう。
ちなみに、明治二年の「湯ケ島物産品稼高取調帳」によれば、山葵四百五拾篭四百五十
両、椎茸二十四石百五十両、生糸四百八十両でその他は微々たるものである。物産総計七
百十二両に対し、山葵は六割三分、椎茸が二割一分の割合をしめている。
このように、恐らく自給的な農村であったと思われる往時の湯ケ島に、山葵の生産は椎茸
栽培とともに、商業的農業生産地としての発展をもたらしている。
そしてそれが天城山麓の農家に、現金収入をもたらす魅力的な生産物であったこと、そ
の栽培法が必然的に災害の危険を伴う山沢地であったことも原因となり、わさび沢のい維
持拡張をめぐり、弱者は次第に脱落し、文化年間に比較し、百年後の明治末期、栽培面積
は二倍以上に拡張されているにもかかわらず、生産者数は半減している。わさび生産者内
のいわば階級文化が進んで行ったのである。
ともあれ、板垣勘四郎の「心見」(こころみ)は、移植後六十年、文化文政年間に至っ
て、花開き天城に定着することとなったのである。湯ケ島村では勘四郎の挙を徳とし、恩
に酬ゆるため、天明五年から明治七年に至るまで、板垣家に年金を贈り、大正十三年十月
顕彰碑を建てている。
天城わさびがしかし、順調に天城に定着し、今日に至ったとばかりはいえぬ。明治半ば
腐敗病が猛威をふるったことがある。このとき石畳式のわさび田を案出した人は、上大見
村原保の石工平井熊太郎であり、腐敗病に強い新品種を、明治三十九年(1906年)四
月、神奈川県愛甲郡愛川村の地で半原種を発見、植栽改良することによって誕生させた人
は、中狩野村上船原、鈴木賢吾である。天城わさび史上忘れてならぬ人物である。
〔この項、天城湯ケ島町教育委員会(50・12・1)発行『町の史話と民話』天城のわさ
び(1975年7月 宇田博司記)による〕
きの子(菌類)
えのきだけ
しいたけ
椎茸の人工栽培は、元禄(1688─1704年)のころ、天城湯ケ島町湯ケ島で偶然
の発見をもとにして始められた。椎茸の産地は日本をはじめ、朝鮮、台湾、セレベスなど
であるが、湯ケ島は椎茸人工栽培の発祥地となった。
自然の椎茸採取の記録については、古く仲哀天皇熊襲征伐の折、筑紫(福岡県)香椎の
宮の椎の木に発生したものを、天皇に献じた〔出典不明〕とある。
伊豆の国でも、山中の風倒木や、枝の折れ朽ちたものに自生する椎茸を、住民は古くか
ら食用として採取していた。
いいつたえによれば、住民はまず、秋に倒れた木に椎茸が多く発生することと、発生木
は数種の樹木にかぎられて発生することを、採取の経験から知っていたらしい。
元禄のころ、湯ケ島村字西平で、椎茸の発生木をみつけ、明年に採取する目印として鉈
(なた)目を入れた人がいた。この人が翌年その鉈目から多くの椎茸が発生していること
に気づき、このことから、初歩の人工栽培が、この土地で始まった。
ナラ、クヌギ、シイ、クリ、シデなどの木を秋に伐り倒し、鉈目を入れて、この原木(
榾木=ほだぎ)に自然に飛来する胞子を付着しやすくし、椎茸の発生を期待する方法であ
る。
この栽培法については、湯ケ島村、あるいはその近隣の数ケ村、少なくとも伊豆天城山
周辺の地域の秘密として、他国へもらさぬ申しあわせが、はじめあったようである。
しかし、現在行なわれている、培養椎茸菌を直接原木に接種する栽培法とことなり、初
期の栽培法はことのほか投機性が強く、必然的に条件のよい栽培地を求めて、遠い他国ま
で山から山へわたりあるく椎茸師を誕生させ、これが伊豆天城の栽培法を各地につたえる
結果となった。また一方では、栽培法の改良を研究しその技術を教授する、椎茸製造教師
をこの土地から輩出させることにもなった。
「寛政二年(1790年)湯ケ島村斉藤重蔵なるもの、日向国(宮崎県)へ出奔し、同
所に於いて之が栽培法を教示」と記録されているものは、いわゆる椎茸師であるが、現在
椎茸の主要生産地となっている宮崎、大分県地方の人工栽培の祖であり、同地方の生産者
の恩人ともなっている。
これに前後して、遠州佐久間地方に伊豆天城の椎茸師が、紀伊の国で活躍したりした記
録も残っている。
はじは原木を秋に伐り倒し、これに鉈目を入れるだけであった栽培法は、天城山北麓の
この地方で改良され、文化(1804─1818年)年間に至っては、伐木の小枝を切り
払い、今の伏積法を行なうことも案出された。
「湯ケ島安藤右ヱ門所蔵ノ椎茸ニ関スル文書」に、文政六年(1823年)12月20日、
「湯木の子」を江戸へ送るについて、荷物の湯木の子は例年にくらべて少ないのに冥加金
は高くなったので、三島宿の問屋へ掛合をし、年を越した正月16日には、「市山高橋怱兵
衛方」に「村方ノ市山、門野原、吉奈、月ケ瀬、田沢、矢熊、船原上下」が集まり、「西
平湯木の子」は12月28日から翌年正月4日までに荷物を出すこととし、その間に荷物が出
来ないときは、出荷を見あわせにすることを、申しあわせた。というようなことがしるし
てある。
この地方の当時の単純農業に、椎茸の人工栽培による生産は、商業的な性格を、江戸末
期にやはりこの地方の特産物となったわさびと共に導入することになったようである。
「湯木の子」については、「湯ケ島村字西平ニ温泉アリ、ソノ周囲ニ榾木ヲ置キタルニ発
生スコブル可ナリ。ヨッテ年々コレヲ行イ、称シテ湯作リ、又湯木ノ子ト云ウ。コレ榾木
ヲ浸水スルコトノ起原ナリ。」といいつたえられている。
湯ケ島村で冬期温泉の上に室を構えて椎茸を発生させたとも云われているが、藤右ヱ門
文書の西平湯木の子はこれであり、促成栽培のもとであろう。
一口に文化文政(1804─1818─1830年)といっているが、このころに栽培
法ばかりでなく、採取や乾燥の方法も、この地方を中心に一応確率されていった模様であ
る。
湯木の子同様椎茸に関するいいつたえを明治末期に記録したものは、「木干し」のこと
にも触れている。
「慶応(1865─1869年)ノ頃、或ル年飴少ク発生シタル椎茸成長スルコトヲ得
ズ榾木ニ付着シタルママニ乾燥セリ、里人コレヲ採集シテ江戸ニ送リ、大イニ賞讃ヲ得タ
リ。爾来椎茸ヲ日光ニ曝シテ販売スルニ至ル。イワユル木干。」とある。
木干しの方法が生まれるまでは、焼子といって火であぶっていたが、ひでりのため日光
で時間をかけて充分乾燥させることを知り、木干の方が焼子より痛みが少なく、江戸で賞
讃されたというのである。
明治初期には、早速椎茸も外国に輸出されることになるのだが、長い船旅に荷物が耐え
るように、木干しをさらに焼子にした。当然高価を椎茸になる。また木干しにしても焼子
にしても、梅雨どきになると、必ず黴がはえたり虫がついたりした。これを防ぐ乾燥法や
貯蔵法が、やはりこの土地で研究され改良されけ行くのである。
時代はさかのぼるが、明和二年(1765年)より同六年まで門野原の清助、湯ケ島の
善六の両人が、周知郡城西村相月、気多村勝坂、水窪地方で椎茸栽培を行なった記録があ
る。又、湯ケ島村付近で生産された椎茸を、伊東から江戸、大阪へ出荷した記録もある。
元禄のころ湯ケ島西平で初歩の人工栽培が行なわれて半世紀ばかり後のことである。明和
のころに至って、椎茸は企業的に生産されはじめたようであるが、このころから椎茸製造
教師が、この土地で多く産まれはじめている。
天城山葵の祖となった板垣勘四郎は、代官の命で、駿河の国へ椎茸栽培法の伝習に出向
いた帰り、安部郡から山葵の苗を延享元年(1744年)末、湯ケ島へもち帰ったのであ
る。
門野原の清助からかぞえて五代目の子孫石渡秀雄は、門野原村他六ケ村の戸長総代、つ
づいて青羽根村他六ケ村の戸長総代をつとめた。つまり旧上狩野村の村長や旧中狩野村村
長をつとめた天城湯ケ島町政史上でも傑出した人物で、作家井上靖の祖父にあたる人でも
あるが、明治中期静岡県内はいうまでもなく、中部地方各県や台湾にまで、招かれて椎茸
製造を教授している。
同氏は、明治33年(1900年)棚場山御料地付近に、私立の椎茸伝習所を設け、自ら教師
となって全国から伝習生をつのり実習させ、世に大いに賞讃された。
同時代、市山出身の高橋正明、大平柿木の鈴木伊兵衞も県下各地に出張伝習して名声が
あった。
私の母の実家は、祖父のときまで代々安藤藤右ヱ門を名乗っていた。母が私に教えた童
唄がある。
藤右ヱ門どこへいった/釜石山へ椎茸とりに/何篭とってきた/ひとかごとってきた/あ
たァ(後は)どうした/天狗が独楽(こま)にしちまった。
他国にこれに似た古い童唄がある。どちらがもとの唄かは知らぬ。いつの世か椎茸師が
はこんだ唄であろう。
〔この項、天城湯ケ島町教育委員会(50・12・1)発行『町の史話と民話』天城の椎茸
(1975年7月 宇田博司記)による〕
まつたけ
本しめじ
なめこ
いわたけ
地衣類の一。干して貯蔵する。使う時は、水につけて白っぽい表面を良く洗い流し、鍋
に入れたり、ゆでて三杯酢で食べる。秩父や木曾山地の岩山が産地。秩父みやげで売って
いる。」
きくらげ「きくらげ科。山の朽木に群生。干して食用にする。」
くりたけ
しめじ
ひらたけ
まいたけ
ましゅまろ