− 私やあなたのお気に入りのひとこと −
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あさましや理も非もしらぬぐちとぐち にてもやいてもくわざりけり

いつまでもおる娑婆なればよけれども 今にも行けば捨る宝ぞ

みな人の心のぐちはいらぬもの ふじやう(不浄)けがれとおもへ人々
皆人は神と仏のすがたなり なぜに其身をしんぜざりけり

ゆだんしてあさきゆめみししやれこうべ しるしの塚にとうば一本
 

 木喰五行上人(1718〜1810) 山梨県西八代郡下部町丸畑の生まれ。伊藤六兵衛の次男。
1762年・45歳の時、日本回国を発願。1778年・61歳の時、北海道にわたり、大田権現で
円空仏に出会い彫仏を始める。1788〜1797年にかけて九州 (主に宮崎) に滞在。
生涯に彫った仏像が一千余体。仏画などの絵や書・和歌を各地に書き残した。
自筆の紙位牌に(1810.6.5)とある。
  関連記事 『日本の家族』第3分冊・650頁。木喰五行の項にも。
 
木喰─微笑仏にさそわれて─

 
叫びたし、寒満月の割れるほど

ひばり野に大手をふって出てみたし
 
 福岡事件の死刑囚・元芸能社社長西武雄さん(当時33歳)の辞世の句。福岡事件は19
47.5.20 午後7時過ぎ、福岡県福岡市の国鉄鹿児島本線沿いの工業試験場付近で、ヤミ
物資である軍服の取引を持ちかけられた中国人を含むブローカーが拳銃や匕首、日本刀
などの凶器で殺害され、強盗殺人事件として処理された事件。この事件の犯人として逮
捕された7人の内、石井健治郎さん(当時31歳)と共に主犯とされ、1956.4.17 最高裁
に上告を棄却され死刑が確定。1975.6.17 再審を取り下げて恩赦請求したら、法務省は
石井さんを無期懲役に減刑したが、1981.6西さんを死刑執行した。事件の概要は「http:
//gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage.htm」など、福岡事件で検索してください。
 

 
地球は私たちのゴミ捨て場?       地球はあなたのゴミ捨て場?
ゴミ捨て場の私たちは地球のゴミ?    ゴミ捨て場のあなたは地球のゴミ?
 
 地球という大地の上で生活している人間が、何の考えもなく街角でゴミを捨ててしま
うことがある。けれど、こうした行為は「地球」そのものをゴミ捨て場にしていること
になり、そのごみ捨て場の上で生活する「ひと」とは、自分でゴミ捨て場のゴミそのも
のに自分を落としめていると私には思えるのですが、あなたはどう思いますか。 

 
森は海のゆりかご

落葉樹の森が、海の海草やプランクトン、魚介類だけにとどまらず、さまざまな海の生
物のゆりかごになっていることが、近年、認識されるようになった。
落葉樹の葉が、秋になって落ち、年月をかけて分解し腐葉土となり、土の中の鉄分?な
どと結合した腐葉土の中の有機物が、水に溶けて、川から海に注いでいく。こうした成分
が、海の海草やプランクトンの栄養となり、海焼けして海草が育たなくなった海辺の海草
も復活させるエネルギーとなるし、プランクトンを豊かにはぐくみ魚介類やその他の海の
生物を育てることが確かめられている。
宮城県気仙沼の畠山重篤さんたち漁師のグループは率先して、19年前から毎年、気仙沼
湾に注ぐ川の上流の山に植林して、海の生物の多様性と豊穣な気仙沼の海をとりもどすこ
とに成功している。なお、畠山さんたちのキャッチフレーズは、「ゆりかご」のところが
「恋人」になっている。ちなみに登録商標とのこと。
私のささやかな伊豆の山暮らしの中で経験したことで言えば、これまで人の手が入って
いた広葉樹の森は、薪や炭焼き、また椎茸栽培の原木にと、10〜15年に一度は切られ、杉
や檜の植林した森でも、間伐などの手入れがされていた。その山が、いま、どうなってい
るかといえば、燃料は、薪や炭から石油にとって代わり、広葉樹は放棄され、材木は安い
輸入材におされ、ほとんどの山で間伐や下枝切りが行われなくなったため、昼でも木々の
根元に太陽の光が届かなくなり、わずかな草しか生えなくなり、常緑の広葉樹の落ち葉や
針葉樹の落ち葉は太陽の光が届けばまだ分解して腐葉土になるものが、一向に分解されず
そのままの姿をとどめている。その理由は、日がささないためミミズや昆虫などの生育が
限られ、なおかつ活発に食べないため。このため、木々は養分不足をきたし、生育不良に
なって、強風にあおられた時に倒壊するひ弱な森になっている。
また、ダムでせき止められた川は、川の水でたとえ落ち葉が流れても、多くの落ち葉は
ダムの底に沈んで、分解することなく腐食し、ヘドロの元になって、海に養分を補給する
働きをうしなっている。

 
プロといえ
ひと皮むけば、ずぶのシロウト
 

 その道のプロといっても、自分が専門とする部門以外は同じ分野のことだからといって
精通している訳でもないし、また、誰もがもともとシロウトだったという意味で。
 

 
 わたしは自分のありのままの命を肯定したい。そのためにはこの世にひとつでも否定さ
れた命があってはいけない。──安倍美知子(1984.9.29)

 この文章は『だから人間なんだ』に収録した安倍美知子さんの文章の一節です。この
文章を読んだ時、私 (白砂巌) は「自分のありのままの命を肯定したい」というなら、
一歩すすめて自分のありのままの命を肯定してしまえばいいと考え、私自身があらゆる
ことに対して(ありのままの)いのちを生かして生きることを自己決定するきっかけに
なった「ひとこと」です。
 

 
母よ!殺すな

 この言葉は、横塚晃一(1935年12月7日〜1978年7月20日)さんの本(すずさわ叢書1
・初版は1975年2月25日すずさわ書店発行)のタイトルになった言葉です。1973年10月脳
性マヒの障害者の団体である「青い芝の会」の全国組織の会長になった横塚さんは、横田
さんや小山さんらと共に、重度の障害者(児)殺害事件の母親に対する嘆願運動に、殺さ
れる側からの異議を日本で最初にとなえ、「さよならCP」という映画をひっさげて、日
本の障害者の生きる権利と社会的地位の向上を獲得する運動に多大な影響を与え、私や遠
藤滋氏も大いに影響を受けた人の一人です。
 たかだか30年前の多くの日本人の「人間」に関する捉え方は、「五体満足」が当たり前
で、「五体満足」でなければ「人間」として欠けるというものでした。ところが人の「い
のち」は誕生するところから「いろんな困難」にみまわれ、少しずつ傷を受けながらその
生をまっとうして、私たちを支えてくれているという自覚もなく、その過程で、たまたま
大きなダメージを受けなかった人が「健常」な体でいられるだけという認識も欠いていた
のが実情です。
現代にあっても、この認識は、ほとんど変わっていないと見えて、誰もが、自分を支え
てくれる「いのち」に感謝する意識を持たず、自分の「いのち」そのものを生かすという
発想をしないで、自分の「いのち」のありようを否定していると、他人 (ひと) の「いの
ち」を生かすことができないというだけでなく、簡単に他人 (ひと) の「いのち」を否定
し殺すはめに陥ってしまうのではないだろうか、と私は考えるようになった。
だから、かつてのように「母よ!殺すな」というだけでは足りなくて、現在の日本では
「母を殺すな。父を殺すな。兄弟姉妹を殺すな。祖父母を殺すな。障害児でもないわが子
も殺すな。他人も殺すな」とまで並べないとすまない社会の現実があります。それをくい
止めるには「自分 (のいのち)を殺すな」と言うことも必要になってくる。
 そして、改めて、どんな人間の絆・社会を、私たちは創っていきたいのかと問う時、私
は「いのちを生かす人の絆を創っていく」ことを自分の答にしている。

 
いのちにまっすぐに
 
 「○○だからだめなんだ」と言い訳して自分から逃げている。そんな姿のままでいい
わけ? そんな自分でいた時の、自分の心と体にまっすぐに、あるいは、真正面に向き
合って自分から逃げないで生きる覚悟としての、私の「ひとこと」。つまり「○○だか
ら」という「そのこと」を自分の弱点、不利なことだと思っている限りは、自分の「弱
点」から抜け出せないことだけは確か。だから、自分がどんな状況にあったとしても、
自分で「そのこと」を弱点だ、不利だなんて思う必要は毛頭ないし、どんなことがあっ
ても、自分は自分からにげないと決めて生きる。その上で、自分の失敗や過失があるな
ら、そこから逃げないで、そうした経験さえも生かして2度と同じ過ちは繰り返さない
と心に決め、自分のすべてを生かして生きることである。そうすれば、それまでトンネ
ルの中に自分が閉じ込められているという感覚から自然に解き放たれるのをあなたも自
覚できると、私は信じている。
 でも、自分で自分を「自分は○○だからだめなんだ」と否定しているから、自分にま
っすぐに向き合えないという不安定な生き方をして不安になるのだし、勇気を失い、勇
気をもって踏み出すこともしないでいる。また自分を否定してしまう人は、それ以上に
他人(ひと)のセイにしたり、他人のいのちまでも否定して生きていくことしかできな
い。別の言い方をすれば、自分を生かせない人が、他人との関わりで他人(ひと)を生
かすことなんてできないと、私は考えた。だから私は、自分のいのちにまっすぐに向き
合って生きようと決め生きることにした。その時から、私の中の「不安に思う心」が、
私の体の中からいつの間にか逃げだしていた。
 このことは、『だから人間なんだ』や『障害者が語る現代人の生きざま──あなたの
いのちが世界を開く』をまとめた時の私(たち)のテーマでもある。
 木喰五行上人の短歌に残された言葉「皆人は神と仏のすがたなり なぜに其身をしん
ぜざりけり」を、わたし流に解釈すれば、要は「人として生まれたいのちはもともと輝
いているものなのだ。それなのに、なぜ、このことを人は信じようとしないのか」とい
う訳である。

 
「いのち」に感謝する
 
こう言うと、かつて『だから人間なんだ』に「ありのままのいのちを祝福して生きる」
と書いた時にも、ある人から言われたことだが、宗教じゃないの?なんて思われる人もい
るかもしれません。でも、ほかの誰が、好き好んで私の「いのち」に何もなしに感謝して
くれるでしょう。私を支えてくれる私の「いのち」は、何をおいても自分自身が自分で感
謝するのでなければ、感謝してくれる他人(ひと)などいない、というのが私のたどり着
いた考えです。また、他の人が感謝してくれたとしても、自分自身が自分の「いのち」を
感謝するのでなければ、感謝することにならないからです。
 だから、神様や仏様を信じることで、神様や仏様の援けに基づいて、自分を支えてくれ
る自分の「いのち」に感謝する心に辿り着く人でも、その先、自分で自分の「いのち」に
感謝する心になるのでなければ、ほんとうの意味で感謝することにならないのでは?と私
は思うのです。

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