2020年度8冊目

Bowles, Jane - Two Serious Ladies (1943)
ジェイン・ボウルズ『ふたりの真面目な女性』

 

読書期間20.8.26-9.26 10.04掲載


 小説家で作曲家のポール・ボウルズの妻、ジェイン・ボウルズの唯一の長編小説を読んだ。
 この作家夫婦の奇妙な夫婦関係はよく知られている。お互いに同性愛者だったのでそれぞれに同性の恋人がいたとか、まずは自称小説家であったジェインが1943年にこの作品でデビューすると、それまである程度成功していた作曲家だったポールも影響されて小説を書きだし、小説家になったとか。
 もともと私はポール・ボウルズがとても好きで愛読している。自分の気質に非常に似通ったところを感じて「愛読」という以上の親近感を抱いている日本の作家に島尾敏雄がいて、その島尾に非常に似通った気質をポール・ボウルズに感じるので、つまりポール・ボウルズにも気質的な近縁を感じるのだが、二人とも「狂」の縁をさまよう妻を持ち、それを自らの創作に反映させたところでも似通っている。(いっぽう私は結婚というものに乗り越えられない恐怖を抱き、結局独身のまま過ごしているが、その代償か、どうか、創作からも遠ざかったまま、何者でもないままに消えていこうとしている。やはり芸術家であるためには逃れられない暗い運命の予兆を感じながらも、それを果敢に受け入れていく強さがないといけないんだろう)
 
 閑話休題。この小説『ふたりの真面目な女性』は、ジェイン唯一の長編小説で、ポールとの中米への新婚旅行時の体験をはじめ、自分の実体験を色濃く反映した作品とのことである。
 主要登場人物は二人の若い女性、あいまいだが強い宗教的な使命感のようなものを持つ裕福な独身女性、ゲーリング嬢と、不安定で身体的にも精神的にも弱いが、向こう見ずな性質も持つコッパーフィールド夫人。作品は大きく三部に分かれ、一部はゲーリング嬢が奇妙ないきさつで自分の周りに変な人々を集めていきながら、突然豪邸を売却して寂れた小島の町に引っ越そうとするところまで。真ん中はコッパーフィールド夫人が夫に半ば無理やり中米への旅行に連れていかれるが、パナマの娼窟で美しい10代の娼婦パシフィカと出会うと、次第に彼女へ異常な執着を示し、のめり込んでいく様が描かれる。最後は小島に暮らすようになったゲーリング嬢が、本土の荒れた街に渡っては夜の街で奇妙な冒険を繰り返す。最後に二人の女性の意外な再会の様子が描かれて完となる。

 ひとことで言って、実に変な小説。こんな変な話はあまり他に類がない。文章はシンプルで読みやすく、会話も多くてとっつきやすいのだが、その会話の内容が良くわからないし、全体を覆う雰囲気がかなり病的で、精神疾患のにおいがする。コッパーフィールド夫人のパートは登場人物が、影の薄い子供のような夫も含めて比較的みな魅力的で華やかさもあるのだが、ゲーリング嬢のほうは出てくる人物がみな口先だけの浅薄な人間ばかりで、ゲーリング嬢から様ざまな意味で、たかろうとする。ゲーリング嬢のほうは驚くばかりの無意志な態度で、悪いほうへ悪いほうへと流されていくが、同時に突然独断的に豪邸を処分したり、人間関係を切断したりする。この、話の通じない感じ、意味不明に凝り固まった感じがなんとも不気味で恐ろしく、狂気を感じさせるところだ。
 トーベ・ヤンソンの小説も会話の内容がよくわからないが、別の文化からくる論理性のようなものを感じて狂気は感じなかった。この感じは・・強いてあげれば、小島信夫の『抱擁家族』に近いだろうか。何か根本的に異質なものを感じる。
 前書きの解説で誰かがフェミニズムの文脈で論じているが、そういうものなのだろうか。最後に、ゲーリング嬢が自分を「聖人に近づいた」と感じる描写があって、初めて彼女の行動原理が少しだけわかったような気がした。つまり、これは苦行をしていたのではないか、次第に自らを破滅的な状況に追い込むことによって、殉教者になろうとしていたのではないだろうかと思った。だからこの小説は別に「男性による抑圧からの解放」を描いたものではないんじゃなかろうか。とてもあいまいに、暗示的にしか描かれていないが、フラナリー・オコナーのような宗教的人物を描いた小説だったのだと思う。本当に宗教色は淡いが(あるいは日本人には感じ取りにくいのかも)、序章の少女時代のエピソードと、最後の「聖人」のくだりでそのことは明らかであろう。

 最後の二人の女性の出会いもかなり強烈な印象を残す。愉しい小説ではないが、悪い小説ではない、もっと読まれても良い小説だと思った。

★★★★☆


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