2021年度1冊目

Dick, Philip K. - The Simulacra (1964)
フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』

 

読書期間20.12.29-21.1.16 1.26掲載


 P・K・ディックは作品の出来の落差が極端に激しい作家だ。その傑作はおそらく、世界文学史上の名だたる傑作群とも優に肩を並べられる質を保持しているだろう--がしかし、駄作ときたらまったく、目も当てられない。評価の面でも浮き沈みの激しい作家であって、日本では生前6,70年代にいちど評価のピークがあり、それから『ブレードランナー』公開や死去のあった80年代前半に小さなリヴァイヴァルがあった。この間に、傑作とされる作品はだいたい邦訳が出揃っていたものと思われる。
 私がこの作家に出会って魅了されたのはその80年代前半、中二の時で、『ブレードランナー』を名画座で見てすっかりとりこになったのがきっかけである。もう40年近く昔のことになる。ハヤカワSF文庫の売れ残りのような『ブレードランナー』名義の『アンドロ羊』の文庫本を手に入れたが、当時、それ以外に手に入るディックの本はほとんどなかった。サンリオSF文庫がボチボチと新刊で出してくれたのでそれを追っかけて買って読んだ。新書版の古い『逆回りの世界』を古本屋で見つけて手に入れた。『ユービック』と『火星のタイム・スリップ』も売れ残りのようなのをかろうじて見つけることができた。高校受験の時には『ヴァリス』を読んでいる最中で、試験会場まで持って行って読んでいたが、入試自体よりもこの本のほうがずっと難解で参ってしまった・・
 高校時代には『高い城の男』が復刊されたのを喜んだ記憶もあるが、サンリオSF文庫がつぶれてしまったのがショックだった・・
 その後、90年代からしばらく、ディックは復刊、そして未訳本の新刊が継続的に進んで安定期に入ったように見えるが、むしろ拡散・希薄化が進んでいったような印象を受ける。創元がいきなり頑張りだした。そしてハヤカワの装丁が文字主体のものすごく地味で野暮ったいものになってしまったのはどうしたことか。私はもう大学も卒業して社会人になっていて、大学ではロシア文学や戦後日本文学(卒論は島尾敏雄を取り上げた)を学んでいたし、すっかりSFからも卒業して久しかったが、お付き合いで新訳本を買って読んだのだった--けれど、まあ、おしなべてよろしくなかった。『ザップ・ガン』とか『未来医師』なんか、正直言ってまったくいいところが見つからなかった。
 だから、ほぼ邦訳が出揃った今現在、ディックはむしろ昔よりもとっつきにくい作家になってしまっているのではないだろうか。最初に『いたずらの問題』を読んだ人がその後もこの作家を読み続ける気になるか・・疑問だ。
 
 洋書を読むようになって、もちろんディックもいつも視野に入ってはいたが、好きな『ユービック』や『高い城の男』、『暗闇のスキャナー』などは邦訳で何度も読み返していたこともあり、いまいち食指が伸びなかった(『高い城の男』は原書で読み直した)。未読のSFはコワいので手を出しづらく、結果的に何冊かある普通小説を読んだりしていたのだった。

 今回、数少ない未読のSF作品を原書で読むという冒険を敢行したのだったが、結論から言って、かなりの傑作だったのでこれにはびっくり仰天、驚天動地、棚からボタ餅であった。
 実はこの『シミュラクラ』、80年代にサンリオSF文庫から出版されていたのだが、どうしたわけか、私はこれまで読みそびれていた。サンリオのディックはだいたい持っているのだが、これは漏れていた。なんか、タイトルからして、駄作の気配濃厚だったので、パスしてしまったのだと思う。
 不明の至りであった。少なくとも、80年代までに発刊されているものは「見るべきものがある」作品であるというのは確かなようだ。

 文体や雰囲気はディックの普通小説とそっくりである。物語は全体主義国家となりおおせ、タイム・マシンを使ってナチのゲーリングを呼び寄せて指導を仰ごうとするまでになったアメリカの話。大統領は作り物のシミュラクラで、代々の大統領のファースト・レディを務める20代前半の美人、ニコール・ディボドーが実権を握っているのだがしかし・・というようなもの(ちょっと山口貴由の『蛮勇引力』に似ている。最後にはグチョグチョ内臓スブラッターも出てくるし)。異様にたくさんの登場人物が出てきてそれぞれが主人公のような扱いで語られるので始めちょっと混乱するが、意外なほど整理されてうまく描き分けられているし、破綻もほとんど目立たない。ユーモアもペーソスもふんだんにあって、いろんな変なガジェットもいっぱい出てきて、まさにディックを読む楽しさで溢れている。
 ディックのSFには珍しく、哲学も宗教も出てこない。そのおかげでまとまりが良くなっている。

 ディック入門としては『ユービック』『高い城の男』あるいは『時は乱れて』あたりをお勧めしたいが、ある程度読み込んだ人が次に手に取る作品としてはこれはうってつけなのではないだろうか。
 すごく、面白かった。

★★★★★

 


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