高等部校舎前にて、前列左端が筆者、その後ろが時田少年。
◆ 数日前、青山学院高等部の頃に私の家で時田にギターの手ほどきをしていたNくんから久しぶりに電話がありました。彼は私と違って大学時代以降も時田との接点がありました。
話の中で「何か欲しい曲はないか?」とのこと、彼からはテープで千数百曲の音源(?)を頂いています。
いきなり言われてもすぐには曲名が浮びませんでしたがそれでも「SOME SUNDAY MORNING」など昔の歌を数曲依頼しておきました。
そのとき「昔、時田たちとよく歌っていた曲があったろう!(後で分ったのですが「SEA -MANS BLUES」)あれも入れておくよ!」とのことでした。
翌日、あるライブでバンドの方やお客さんにこの曲の一部を口ずさんで聴いてもらいましたが誰もこの曲を知らないようでした。
高校時代、時田がカントリーの道に入る前はジャンルを絞らずにいろんな曲を口ずさんでいました。
すぐ頭に浮かぶだけでも「LA VIE EN ROSE」「BEAUTIFUL DREAMER」「I'M WALKING BEHIND YOU」「IF(50年代の曲)」などなどがあります。
彼はフォスターの曲では「金髪のジェニー」が一番美しい曲だといっていました。
そんな幅広いジャンルの中から彼は少しずつ自分の好みや周囲の環境に合わせながら自分の道をカントリーに絞っていったのではないでしょうか。
そんなこともあって彼がカントリーシンガーとして活躍していた時代にも所謂カントリー以外の曲をよく歌っていたような気がします。
それがいつ頃のことだったのか全く覚えていませんが時田が一時身体をこわして長期療養していたことがありました。
その時期が私が社会人になって何十年かして時田のライブに行くようになってからのことだったのか、それとももっと前のことだったのかも思い出せません。
人づてに「時田が身体をこわして少し長く入院している」と聞きました。
場所は多分中野の周辺だったような気がしますがこれも定かではありません。
「療養所」とあったような気がしますがこれもはっきり覚えていません。
ともかくお見舞いに出かけて病院の受付で入院患者の名簿を見せてもらいました。
その中には「時田圭介」という名前はありましたが私の知っている「時田悦朗」はありませんでした。
それでも「時田」は一人しかいなかったので病室を訪ねました。
そのとき初めて時田が「悦朗」から「圭介」に改名していたことを知りました。
ところが病室のベッドはもぬけの殻で彼が何処へいったのかも分りません。
看護婦さんに聞くと時々何処かへ出かけてしまって長時間戻らないことがある、とのことでした。
一時間ほど待ちましたがついに戻ってきませんでした。
看護婦さんの話では多分新宿あたりへ行ったのではないかとのことでしたが私も何時戻るか分らない時田を待っているわけにもいかず持参した「お見舞」の熨斗袋をベッドの枕の下に押し込んで失礼しました。
それから数ヶ月後のことでしょうか、誰かが時田の「快気祝い」の話をしていました。
でも私のところには「快気祝い」の気配はありませんでした。
私の持参した「お見舞」が時田の手元に届いたかどうかも確かめられませんし、もしかしたら掃除やベッドメイクのドサクサに紛れて何処かへいってしまったのかもしれません。
どうなってしまったのか全く分らないので何年か後に時田に会った時にも私はお見舞いに行ったことを話しませんでした。
それにしても、あれはいったい何処へいってしまったんでしょうか?
未だに分りません。
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