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ジミー時田を偲んで

ジミー時田の高校生時代の同級生、富田さんのエッセイをお楽しみください。(何と、MUSIC ROW の為の書き下ろしです)
ジミー時田のこと(1)  富田@東京
ジミー時田のこと(1)  富田@東京
左が筆者、右は高校生のジミー時田さん(学校の傍にあった筆者の自宅玄関前にて)
 
 
◆ コミュニケーションが発達している今日では外国の音楽に興味を持つキッカケにはテレビあり、CDあり、ライブあり、いろんな手段がありますが、昭和20年の中頃に外国の音楽に初めて興味を持ち始めた多くの方々のキッカケは映画主題歌が多かったのではないかと思います。
私も同様でジョン・ウエインの「黄色いリボン」やベティ・ハットンの「アニーよ銃をとれ」の「シークレット・ラブ」エロール・フリンの「サン・アントニオ」の「サム・サンディ・モーニング」など今でも口ずさんでいます。
 
青学・中等部の2年の頃、三村くんという二世の友人ができました。
彼のお父さんは当時新東宝のカメラマンとして活躍しており、池部良・山口淑子さん主演の「暁の脱走」では毎日映画コンクール撮影賞を受賞しています。
そしてお母さんがアメリカ人でしたので彼もアメリカ国籍を取得していました。
その彼は映画が好きで当時日本人は入れなかった日比谷のアーニーパイル劇場(多分現在の宝塚劇場)には自由に出入りすることが出来ました。
私もアメリカ映画が好きでしたのですぐに三村くんと仲良くなり、彼からは日本で封切りされる1年以上も前にアーニーパイル劇場で公開されているアメリカ映画の話題を聞いて楽しんでいました。
そうこうしているうちに映画主題歌やポップス、カントリーの話になり、いつしか彼に頼んで劇場内の書店で当時アメリカで流行していた曲の歌詞が載っている雑誌を度々買って来て貰うようになりました。
同時に私の遠い親戚が渋谷で小さなレコード店を営んでいましたので少しずつお気に入りのレコードを買い集めるようになりました。
そんなことでアメリカン・ポップスやカントリーについてほんの少しの知識ができ始めた頃、彼は自分の進路を選ぶためにハワイ経由でロスに帰国してしまいした。
その当時はアメリカまでの航空便など無くハワイまでは横浜からクリーブランド・インデアンス号という貨客船で8日間の船旅でした。
 
その後、20年程前に彼が取材旅行で日本に立ち寄った折、私の会社を尋ねてきたことがありましたが今はどうしているか分りません。
もし元気ならば今でもロスでカメラマンとして活躍していると思います。
時田に初めて出会ったのは三村くんがロスに帰ってから数ヶ月程あとのことでした。
ジミー時田のこと(2)    富田@東京
ジミー時田のこと(2)    富田@東京
写真:前列真ん中が筆者、右で格好をつけているのがジミーさん(後ろの少年も、他の仲間も精一杯パフォーマンスしているようです)
 
 
◆ 私が時田と初めて顔をあわせたのは青山学院高等部1年の時でした。
初めて教室に入ると机の上に名札が置いてありました。
男女共学ですから男子生徒はどうしても隣に誰が来るかが気になります。
一年間席が替わらないのですからどうせなら可愛い女生徒の隣の方が勉学に熱が入りそうです。
私も頭文字がS・T・Uで可愛い人がいるから多少の見込みはあるな、などと思っていましたが隣に来たのは時田でした。
今では私もいろいろな方とお話が出来ますが、その頃はよく人見知りして自分からは知らない人とはなかなか交わらない方でした。
授業が始まっても数日間は時田とは必要なこと以外は殆ど口を聞かなかったと思います。
そんな期間があったからか私と時田は生涯お互いに名前を呼んだことはありません。
親しくなってからも名前を呼ぶのが照れくさく「よう!」とか「おい!」とか或いはいきなり話題に入るなどで過ごしてきました。
冷戦のような何日かが過ぎましたが親しくアプローチしてきたのは時田の方でした。
ある日、英語の授業が終わりに近づいた時、隣の席の時田がちょっと微笑んで私にメモ用紙を渡しました。
「これの意味わかるかよ?」メモには「To be to be ten made」と書いてありました。
一つずつの単語の意味は分っても文章の意味は分りません。
「何かを10個つくったのかな?」などと考えていると、時田がこれは「飛べ飛べ天まで」と読むんだ、と苦しそうに笑っていました。
バカバカしくて本当に開いた口が塞がりませんでしたがそのとき私と時田の間にあった垣根が外されたような気がしました。
でも、この文章は時田が考えたのか、或いは誰かに聞いてきたのかは未だに分りません。
ジミー時田のこと(3)    富田@東京
ジミー時田のこと(3)    富田@東京
写真:前列左からジミーさん、真ん中で横になっているのが筆者(筆者のこのポーズは芸者が旦那に西陣の帯や一竹辻が花の着物をねだる格好ににていやしませんか?)
 
(学校の傍にあった筆者の自宅にて)
 
 
 
◆ 時田の人生60余年のうち私が彼と親しかったのは高校時代の3年間と亡くなる前の10年間程でした。というのも、高校時代の私はサッカーに熱中しており3年の時には東京都で2度優勝し、当時正月に西宮で行なわれていた全国大会にも出場しています。
3年の後半から大学時代はサッカーの練習も厳しく、時田たちと付き合っている時間も徐々に少なくなってきました。
また社会人になってからも暫くは仕事に追われ、時田とは同窓会やたまのコンサートなどで顔をあわせる程度でした。
時田と私がお互いに「音楽が好き」ということを認識したのは新学期が始まって間もなくの昼休みのことでした。
昼休みには野球やバスケットボールを楽しむこともありましたが私は校内をブラブラ歩くのも好きでした。
大学の正門から連なる銀杏並木や蔦の絡まるチャペルの側を目的もなく歩いて昼休みの時間を調整していました。
ある小春日和の昼休み、何も考えずに校内をブラブラ歩いていると後から澄んだ声で「バラ色の人生」を口ずさみながらついてくる奴がいました。
「時田かな?」 と思いましたが振り向くこともないのでそのまま知らん顔をして歩いていると私に追いついて歩調を合わせました。
横を見るとやはり時田でした。
「何だ おまえか」「あぁ 天気がいいんで出てきたよ」「おまえ歌が好きなのか?」     「好きだよ」「じゃあ今度俺の家へ来いよ レコードやギターもあるし すぐ近くだから」   「あぁ 行くよ」
その時から時田との交友関係が始まり、同時に何人かの学友が私の家に集まるようになりました。
ただ私の家に遊びに来る学友で本当に音楽が好きだったのは私と時田ともう一人時田にギターの弾き方を教えたNくんの3人であとは音楽を聴きながら時間つぶしや学校では禁じられていた麻雀を楽しむ人たちでした。
 
ジミー時田のこと(4)    富田@東京
ジミー時田のこと(4)    富田@東京
写真:修学旅行の時、後列左がジミーさん、3人目が筆者。
 
◆ ジミー・時田の本名は時田圭介として知られていますが、学生の頃の名前は時田悦朗でした。
いつごろ改名したのか知りませんが彼が亡くなる前後の青山学院高等部の同窓会名簿には「時田圭介(悦朗) ウエスタン歌手」と記載されています。
時田がカントリー界にデビューしてからも付き合っていた同級生に名前のことを尋ねた時「悦朗」はお母さんが付けた名前でお母さんが亡くなってから「圭介」と改名した、と言っていましたが何故?については説明がありませんでした。
私自身、時田がスポットを浴びていた時代には殆ど接点がありませんでしたがその頃彼の近くにいた方は何かご存知かもしれません。
 
学校内では女生徒からは当然「時田さん」と呼ばれていました。
男子からは、真面目な奴は「時田くん」普通の人は「時田」と呼んでいましたが時田にギターの手ほどきをしていたNくんなどは「エツ!」と呼んでいました。
私はいつも「よう!」とか「おう!」で彼の名前を呼んだことはありません。
同じように時田も私の名前を呼んだことはありません。
同窓会の二次会でカラオケへ出かけたときも時田が歌ったあとマイクを私に渡して「よう 次に歌えよ」でした。
ジミー時田のこと(5)     富田@東京
ジミー時田のこと(5)     富田@東京
前列真ん中が筆者、右の髪ふさふさリーゼントが時田少年。
 
(学校の傍にあった筆者の自宅にて)
 
 
◆ 一年生の頃、時田は北千住から渋谷の青山学院高等部に通っていました。
学生の頃は友人の家の職業や親の仕事のことなどあまり気にならないものですが、何かの拍子に一度だけ時田に「お前のおやじは何をやってんだ」と聞いたことがあります。
彼の答えは「病院だよ」でした。
「医者」といわなかったので「事務長か?」と聞き直しましたら「うん」と言っていました。
それ以上のことは聞きませんでしたが時田の返事が本当だったのか面倒だから適当にうなづいたのかは分りません。
 
時田のことでいまだに分らないことがいくつかあります。
まず彼の素晴らしい「英語力」です。
アメリカ人よりも上手いといわれた英語・英会話は何処で覚えたのか分りません。
或いは子供の頃に英語を使う環境で生活していたのでしょうか?
そして彼が米軍の装備や銃火器の名称や性能についてもとても詳しかったのを覚えています。
勿論、米軍キャンプで歌う何年も前のことですし、仮に米軍キャンプ地で合宿したって覚えられるようなものではありません。
その他「落語」にもとても興味を持っていました。
通学鞄の中にはいつも落語がギッシリ書き込まれたノートを持ち歩いていました。
これも立川談志さんと親しくなる十数年も前のことだと思いますし、いつからこんなことになったのか想像もつきません。
 
ある日、授業時間も終わりに近づいた頃、隣にいた時田がひじで合図をしてノートを一冊私の方にずらしてきました。
小声で「読んでくれ」というのでノートを開きました。
最初は何が書いてあるのか分りませんでしたが数行読むとすぐに「落語」と分りました。
自作か他作か分りませんが可笑しいことがノート一杯に書いてあります。
当時は「箸が転げても笑ってしまう」年頃でしたから読み始めて可笑しくなるともう止まりません。
最初は喉の奥でクックッと笑っていましたがそのうちに可笑しくて可笑しくてどうしようもなく、笑いを我慢しているとついには苦しくなってお腹が痛くなってきました。
我慢が頂点に達した時、私も考えました。
ここで大声で笑えば楽になるでしょうが多分授業は中断されて教室中大騒ぎになり「あとで職員室へ来なさい」ということになりそうです。
隣の時田は私の苦しみを知らん顔して黒板の方を眺めていました。
「笑えば怒られるけれど泣いていれば何とかなる」と思い、顔を机の上に伏せて身体を震わせていました。
こうしていれば笑っていても泣いているように見えるかもしれません。
泣いていれば授業中に声を掛ける人も少ないでしょう。
何人かの人に気づかれましたが私が静かに泣いているように見えたのでしょうか何もいわれませんでした。
そのうちに終業のベルが鳴りました。
先生が教室を出て行ったあと時田が「どうだ?」と聞いてきました。
私はつぶやくように「ばかやろー」というほか何もいえませんでした。
ジミー時田のこと(6)    富田@東京
ジミー時田のこと(6)    富田@東京
高等部校舎前にて、前列左が筆者、後ろが時田少年。
 
◆ 時田はどこで覚えたのか分りませんが米軍の装備や銃火器の名称や性能についてとてもよく知っていました。
 
ある日の放課後の下校時、たまたま私が映画の入場券を2枚もっていたので一緒に行く相手を探して宮益坂の辺をふらついていると時田が歩いてきました。
「映画を見に行かないか?」と声をかけると「行く」とのことで宮益坂を下り二人で渋谷駅近くの映画館に入りました。
映画の題名は覚えていませんが戦争映画で、平日の昼間ともあり客席は空いていました。
 
映画が始まり、暫くすると戦闘場面になりました。
すると時田が私の耳元で小声で何やら話しかけてくるのです。
「あれはカービン銃だ 市街戦や接近戦で使い易いように銃身が短いんだ」
「あれはソ連製のカラシニコフ自動小銃だ」
大体映画なんてスクリーンと観客が一体になって閉ざされた空間の中で楽しみ、喜び、悲しむものですから映画を見ている最中に耳元でガタガタ話し掛けられたらうるさくてどうしようもありません。
戦闘場面ではスクリーンの轟音で周囲のお客さんにはあまり聞こえなかったかもしれませんが一時戦闘が終わり静かになっても時田はまだ小声で話を続けています。
「あれは対戦車ロケット砲だ」「あのバズーカ砲は、、、」
そんなことを続けているうちに前と後から同時に声が掛かりました。
「うるさいぞ! 少し静かにしろ!」「ちょっと静かにしてくれませんか!」
でもその声は時田の声よりも小さい声でした。
 
時田が亡くなって数ヵ月後、「ティアラこうとう」で「ジミー時田追悼コンサート」が開催されました。
その時のパンフレットの写真集の中には笑顔の時田が戦闘服で自動小銃を構えている写真が掲載されていました。
 
 
ジミー時田のこと(7)    富田@東京
ジミー時田のこと(7)    富田@東京
前列左が時田少年、後列の白シャツ姿が筆者。
 
 
◆ 青学・高等部3年間の学生生活の想い出は楽しい青春時代のひとこまでした。
人にはそれぞれ得意、不得意がありますが時田は英語が得意、私は体育が得意でした。
そして体育の時間には青山学院一周のマラソンがありました。
マラソンといっても13分くらいで走りましたからコースは全長3〜4km位ではないかと思います。
ただ、当時と今とでは周辺の道路事情が全く違いますから比較も出来ません。
 
当時私はサッカーの選手でしたし中距離には自信がありました。
マラソンは校内のグラウンドからスタートして高等部の校門を出て左に回ります。
青学の周囲を一周してまた校門からグラウンドへ入りゴールインです。
私たちの体育のクラスには運良く陸上の選手もいなかったので私はいつもトップでした。
 
何回か体育の時間にマラソンを走っているうちにおかしなことに気がつきました。
私はいつもスタートからトップで校門を出て左に曲がりますが時田を含む数人は最終グループで校門を出て右に曲がるようなのです。
あとで分ったことですが、彼らは校門を出で右に曲がり道路の向かい側にある喫茶店に裏口から入って15分程時間をつぶし、窓から道路の向こう側を走る生徒が大体通り過ぎたのを見きわめて一人ずつ喫茶店の裏口から出てきて道路を横切り、あたかもコースを一周してきたような顔をして校門に入ります。
そして息をはずませながら疲れたような顔をしてグラウンドに入りゴールインです。
実際には校門を出て100mも走っていないと思います。
このマラソンも上位の生徒は順位やタイムを気にしますが最後のグループは走ればいい、程度の意識だったと思いますので表立って問題にはなりませんでした。
ただ、何回か繰り返しているうちに「時田たちが喫茶店で焼き芋を食っていた」とか「コーヒーを飲んでいた」など噂が広がり始めたので最後の方は彼らも真面目に走ったようです。
でも、その時の彼らのタイムや順位は定かではありません。
 
 
 
 
ジミー時田のこと(8)   富田@東京
ジミー時田のこと(8)   富田@東京
修学旅行の時のスナップ。左から2番目が筆者、一番右が時田少年。
 
あの頃はみんな食べ盛り、おかわり用のおひつの大きいこと。
 
 
◆ 新学期が始まって暫くすると時田のほか何人かの学友が私の家に遊びに来るようになりました。
ただ、私の家に来ても特別の目的があることは少なく、ラジオやレコードを聴いての雑談で時間を過ごすことが多かったようです。
高校時代の三年間にはこの家でいろんな事がありましたが、今日はその当時の我家の環境を簡単にお話します。
 
私の家は渋谷駅から宮益坂を上がりきったところ、当時右側に仁丹ビルがありましたがその前を左に、宮下公園、山手線の渋谷・原宿間の線路の方へ100m程下がったところにありました。 渋谷駅から青山学院の丁度中間くらいのところです。
父母はこの家とは別に道玄坂で仕事をしており、私以外の兄弟姉妹もそちらの方に住んでいましたのでこの家に住んでいたのは祖父母と私の3人だけでした。
 
先日この掲示板でも地名のお話が出ていましたが昔の人はいろいろ考えて町名など付けたようで都内ではそれ程の標高差は無いと思いますがそれでもチョッと標高が高そうなところには○○山町とか○○ヶ丘、低そうなところには○○谷町とか○○川町など付いているところもあるようです。
でも今は中高層のビルが乱立しているので多少の高低は分りませんし、地名もあまり関係なくなったようです。
当時の我家は緑ヶ丘や青山に近かったのでチョッと高台にあったらしく、そのうえ周囲には3階建ての建物なども無かったのでベランダからは晴れた日には富士山も見えましたし500m程先には山手線や貨物列車の走る線路を展望できました。
 
家の作りは玄関を入ると正面にガラス戸がありそこに10畳ほどの洋間がありました。
この部屋には応接セットと90cm程の高さのレコードキャビネット、その上にレコードプレーヤーとオールウェーブのラジオ、ただそれだけの部屋でしたが、ここが時田たち学友との憩いの場になっていました。
そしてその洋間の前から2階への階段があり、2階は8畳の和室一部屋で私の部屋でした。
その他に玄関から離れて和室が二部屋ありそこは祖父母の部屋になっていました。
 
10畳の洋間にはレコードキャビネットがあり、私が一番初めに買ったレコードはダイナ・ショアの「ボタンとリボン」あたりだったような気がしますが、それよりも前に「コロラドの月」「ユーモレスク」「赤い翼」など誰が買ったのか分らないレコードが入っていたのが不思議でした。でも、最初の頃は時田たちがこんなレコードをハンク・ウイリアムスと同時に聴いていた時代もあったのです。
そんなところが高校時代に時田たちと楽しく過ごした舞台になっていました。
ジミー時田のこと(9)   富田@東京
ジミー時田のこと(9)   富田@東京
写真:高等部校舎前にて、前列左が時田少年、前列3人目が筆者。
 
 
◆ 学校帰りに友人達が私の家に遊びに来るようになってから暫くして、ある休日前の夕方に時田が一人で家へやって来ました。
そんな時、私が何かをしている時はレコードやラジオのある部屋へ時田を通しておけば勝手に何かしていますので手は掛かりません。
その夜は二人でレコードを聴いたり、WVTRの音楽番組を聴いたり、映画雑誌を読んだりして時間を過ごしているうちに遅くなり、結局は泊っていくことになりました。
翌日目が覚めたのはもう昼に近い時間でした。
蒸し暑い日でしたのでブランチを食べ、こんな時間に自宅の風呂を沸かすわけにもいかないので銭湯に行くことにしました。
 
銭湯は仁丹ビルと青学の間を少し入ったところにあり、時間的にもお客は一人、それもGI風の外人しかいませんでした。
私と時田が入って広い銭湯にお客が三人、私は広いところで身体を流していましたが時田はわざわざ外人の隣へ座りました。
そして身体を流しながらいきなり大声でハンクウイリァムスの曲を歌い始めたのです。
突然のことであまりの驚きに曲名は今でも思い出せません。
頭が混乱して訳が分らなくなったその時の私の心境は「何だ? あのバカ! 何故こんな広い銭湯にお客が三人しかいないのにわざわざ外人の隣へ行って英語の歌なんか歌わなきゃならないんだ」でした。
 
そのあとどうなったのか全然覚えがありませんがともかく三人揃って銭湯から出ました。
時田と外人が並んで何か話しながら歩いています。
私は全然気が進みませんでしたが一人で帰るわけにもいかないので手拭と石けん箱を持って二人のあとをついて行きました。
途中で時田が振り返って「彼が家に来ないか?」と云っているとのことでした。
 
銭湯から数分のところに彼の住いがありました。
家には日本人の若い奥さんがいましたが迷惑な二人のお客を愛想よく迎えてくれました。
通されたのは6畳くらいの明るい和室で窓には小さな花柄のカーテンが掛かっていました。
その部屋で、コーヒーや当時日本ではなかなか手に入らなかったアメリカのキャンディなどを沢山出してくれました。
時田は流暢な英語でその外人と話をしていましたが私はそれ程英語が得意ではなかったので主に奥さんが話し相手でした。
ただ私が英語が全然出来ないと思われても悔しいのでキャンディを手にしながらその外人に「May I?」とか「Can I?」など超短い英語をゼスチュアー交じりで話をしていました。
 
帰りに外人がお土産に大きな牛ヒレのブロックとチーズをくれました。
多分PX(米軍基地内の売店)で日本の肉屋さんよりも相当安く買えたのではないでしょうか?
牛ヒレは今までに見たこともない厚さがありました。
ともかく私の家まで持ち帰って時田と半分ずつ分けました。
当時和食の多かった我家ではチーズの食べ方が分らなかったのでチーズは全部時田に持って帰ってもらいました。
 
時田とお邪魔した外人の家は青学から半径300m位のところにあり、私にも土地勘があった筈ですが、暫くしてその近くを通った時にはどうしてもその家が見つかりませんでした。
多分時田と銭湯へ行った日は一日中頭がボーッとしていたのでしょう。
ジミー時田のこと(10)   富田@東京
ジミー時田のこと(10)   富田@東京
筆者自宅前にて、後列左、高校生のジミー少年(筆者撮影)
 
 
◆ 高校生の頃、私はクラシックギターを持っていました。
でも、ただ持っていただけで弾けたわけではありません。
時田が私の家に遊びに来るようになった頃、彼もまだギターは弾けませんでした。
そして私の家に遊びにくる学友の一人に音楽一家のNくんがいました。
彼の一家は兄弟でバンド演奏が出来たようでNくんはその頃からギターが得意でした。
 
私の家に集まった学友達は初めのうちはラジオやレコードでいろんなジャンルの音楽を聴いていましたがいつの間にかそれが映画主題歌やポップス、カントリーに絞られてきたようです。
そしてカントリーが好きになると歌いたくなります。
皆で口ずさんでいるうちにNくんがギターで伴奏するようになりました。
時田もNくんに簡単なコードを教わり、クラシックギターでハンク・ウイリアムスのいくつかの曲は簡単なコードで伴奏ができるようになりました。
 
そんなある日、休日の前日に私の家で麻雀をすることになり数人の学友が集まりました。
夕方から始めたので徹夜になることは分っていましたが集まった学友の中で時田だけは麻雀をやりません。
夕食後、二階の私の部屋で麻雀が始まりましたが時田は一階の洋間で一人でレコードやラジオを聴いていました。
 
麻雀に熱が入り、そろそろ夜明けが近くなりました。
当時は今と違って周囲も静かで車の走る音も聞こえず、山手線の始発もまだ動いていないようでした。
皆思考力が低下し、もうろうとして手だけが動いているような状態になり「もうこれでやめて寝よう」なんて話している時に時田がギターを持って二階へ上がってきました。
誰も時田が側に来たことを知りませんでしたがそんな静寂の中で時田がいきなりギターの6本の弦をジャラーンと弾いたのです。
私も麻雀の仲間でしたがその時は突然のことで何が起こったのかも分らず、頭上に大きな雷が落ちたのかとも思いました。
突然の事態に肝を抜かした麻雀の連中が「バカヤロー!」「うるさい!」「止めろ!」と大騒ぎになりました。
 
時田も悪気があってギターを弾いたわけではありませんが、こんな時は誰だって驚いて怒りますよね。
ジミー時田のこと(11)  富田@東京
ジミー時田のこと(11)  富田@東京
高校生の時、筆者自宅にて、前列右が時田少年、後列右が筆者。
 
◆ 私の家が青学と渋谷駅の中間くらいのところにあったので学校帰りに時田をはじめ何人かの学友が遊びに来るようになりました。
ただ何人かが集まってもすることは毎回違っていました。
よくしたことは歌詞の付いていないレコードを借りてきて歌を覚える為に数人でレコードを聴きながら歌詞を書き取ったことです。
カントリーは簡単な歌詞が多いですがそれでも耳から入る語句や単語にはよく分らないものもあります。
そんな時は数人が書き取った歌詞を照合します。
それでも分らない時は英和辞典で似たような発音の単語をいくつか引っぱり出して当てはめてみたり、まだ分らない時には発音は違っても意味の通じる語句や単語をそこに当てはめてとりあえずの歌詞を作っていました。
 
ある日、数人の学友が遊びに来ていつものように洋間で映画や音楽の雑誌を見ていました。
時田は1人でオールウェーブ・ラジオのダイヤルを廻していました。
当時まだ珍しかったそのオールウェーブ・ラジオは黒のボックスで文字盤には世界各地の都市名が並んでおりスイッチを入れると赤黄緑などの配色が浮き上がって室内の装飾品のように美しいものでした。
時田はゆっくりゆっくり短波のダイヤルを廻していますが入ってくる音は雑音と韓国語放送と信号音のようなものばかりでした。
周囲の話し声が耳に入ると「少し静かにしろよ!」と怒ったように怒鳴りながら少しずつダイヤルを動かしていました。
でも、その当時は誰にも分りませんでしたがそのラジオにはアンテナが付いていなかったのではないかと思います。
もし付いていたとしても簡単なものではなかったでしょうか。
いくらラジオの性能がよくてもよほどのアンテナがなければ地球の裏側の放送など聞こえるわけがありません。
それを知らずに時田が神経を集中して5cmを10分もかけてダイヤルを動かしても何の意味もありませんでした。
知らないということは本当に恐ろしいことです。
その後はそのオールウェーブ・ラジオはWVTRの音楽番組やレコードを聴く以外には殆ど使われることはありませんでした。
ジミー時田のこと(12)  富田@東京
ジミー時田のこと(12)  富田@東京
筆者が以前に飼っていたワンコたち。
 
 
◆ ある日、学校の昼休みに時田が近づいてきて「頼みがあるけれど聞いてくれないか?」といってきました。「なんだ?」というと「実は犬が四匹生まれて困っている 一匹面倒をみてくれ」というのです。
それまで犬を飼ったことはありませんでしたが何とかなるだろうと思い、家へも相談せずに「じゃぁ明日連れて来いよ」と答えてしまいました。
 
翌日、彼は子犬を持ってきたのですが授業が終るまでどこに預けてあったのか犬の気配は全くありませんでした。
今もって電車の中ではどうしていたのか何処に預けておいたのかも分りませんがともかく放課後「この犬だよ」といって白黒の可愛い子犬を持ってきました。
 
可愛い子犬でしたが今住んでいる所で祖父母に面倒を見てもらうわけにも行かず、仕方なく父母や兄弟の住んでいる道玄坂のお店へ連れて行きました。
当時はまだ一般の人が犬を飼う、なんていう時代ではありませんでしたからハウスはみかん箱でした。
子犬の名前は時田悦朗の名前から「エツ」にしましたが呼びにくかったのでいつの間にか「エス」になってしまいました。
 
数日間はお店で面倒を見てもらっていましたがそのうちに忙しい店頭で犬を飼うのは面倒で手に負えなくなったらしく「子犬をどうにかしろ」といわれました。
「どうにかしろ」ということは「何処かへ捨てて来い」ということです。
 
二日ほど考えましたがどうしようもなく捨てに行くことにしました。
次の日「エス」を抱いてお店から1km程はなれた目黒区の高台の野原に行き、大きな石の陰にそっと「エス」置いて後も見ずに泣きながら駆け足で逃げ帰りました。
「エス」としても主人がなぜ急に何処かへいってしまったのか理解できず暫くは私を探し回ったのではないかと思います。
 
翌日、学校が終ってからお店へ行き、昨日まで「エス」が入っていたみかん箱を片付けながらお店の前を通る人をボーッと眺めていました。
 
そのとき、突然何か黒いかたまりがお店の中に飛び込んできたのです。
始めは何だか分りませんでしたがすぐにシッポを振りながら喜んでいる泥だらけの「エス」と分りました。
誰かが「エスだ!」と叫びました。
「エス」を抱き上げると腕の中で落ちそうになるくらいシッポを振って暴れていました。
家を空けたのは一晩ですが寒い中昨夜は何処で過ごしたんだろうか? 食べものはどうしたんだろうか? 車の多い道玄坂を自動車にも跳ねられずによくここまで帰ってきたと考えると涙が止まりませんでした。
 
その日以来、誰も「捨てて来い」なんていう人はいませんでした。
「エス」はお店で十数年の天寿をまっとうしましたがこのことを時田は知りません。
ジミー時田のこと(13)  富田@東京
ジミー時田のこと(13)  富田@東京
前列右が時田少年、後列右が筆者
 
◆ 高等部2年の秋でした。
運動会の途中で雨が降り始め一時中止になりました。
まだ昼過ぎでしたので中止解散ということではなく生徒は全員講堂に集められました。
暫く講堂で待機していましたがお天気が回復せず、誰かの発案で学年ごと、クラスごとに講堂の演壇でパフォーマンスを演じることになりました。
 
でも、いきなりそんなことを言われてもなかなか演壇に上がれるものではありません。
演壇にはピアノがありましたので自信のあるクラスやグループはコーラスや独唱で挑戦していました。
何も出来ないクラスはどんどん飛ばされてしまいます。
そんな時、時田が私に声をかけてきました。
「おい! Beautiful Brown Eyes を歌おう」というのです。
私は一番しか歌詞を知らないからイャだ、と断ったのですが時田が「繰り返し部分の高いパートだけ歌ってくれればいい」というので仕方なくクラスの代表として二人で演壇に上がりました。
 
講堂は毎日全生徒で礼拝ができる大きい建物で900人分の座席があります。
運動会の途中ですので多少の空席はありましたがほぼ満員の状況でした。
二人で演壇に上がったのはいいのですがピアノの先生は賛美歌や唱歌専門でカントリーなど弾いたこともありません。
弾けたとしてもせいぜい「Molly Darlin'(冬の星座)」くらいでしょう。
どうしようもなく先生はピアノから離れてしまいました。
 
仕方なく時田と二人で「Beautiful Brown Eyes」を歌いましたが広い講堂でマイクはあるもののアカペラでは話になりません。
歌いながら「これではどうしようもない」と実感していました。
出場クラスやグループに優劣をつけられなかったのが幸いでした。
 
この舞台は時田が大勢のお客さんの前で歌った始めてのステージだったと思います。
彼がピークのときでもこれだけのお客さんを集めるのはなかなか大変だったのではないかと思いますがそんな時に彼は歌いながらこの時の情景を思い浮かべたこともあるかもしれません。
ジミー時田のこと(14)  富田@東京
ジミー時田のこと(14)  富田@東京
夏休の林間学校で山中湖へ行った時のスナップです。
 
前列左から二人目が時田少年、
後列左が筆者。
 
◆ 私は温泉が好きです。
いま、近くの[日帰り温泉」の会員になっていますが月に十数回は出かけています。
十回位行かないと月会費の元が取れない、ということもあります。
 
戦後間もなく、私の家は渋谷の今の宮下公園の場所にありました。
渋谷・原宿間の山手線の線路の土手の下です。
その頃はまだ辺りは焼け野原で私の家も瓦礫と焼けトタンで出来ていました。
風呂はドラム缶でドラム缶の下に穴を掘り、燃えるものを投げ込んで風呂を沸かし、ドラム缶の底が熱いので下駄を履いて風呂に入っていました。
風呂の周囲には焼けトタンや草木で目隠しがありましたが山手線の窓からは丸見えなので夜は灯りを消して風呂に入っていました。
 
二・三年過ぎた頃、同じ場所でいわゆる2DKの簡単な和風の家に建て替えられました。
お風呂は台所に隣接した小屋の中にあり、釜付きの木の風呂でした。
当時、山手線の線路の土手の下には歩道があり通行人もいましたので夜は音がしないように静かにそっと風呂に入っていました。
 
数年後、区画整理で土地が宮益坂の上の方に移され、そこで初めて家らしい家が建てられました。
父が温泉好きでしたので風呂は五右衛門風呂でしたが風呂の水は岩間を流れる小川のような形で風呂に注がれていました。
風呂釜は家の外にあり、薪を使って風呂を沸かしていました。
そんな時代でしたから上がり湯などは勿論ありません。
 
高等部2年の冬、休みの前日だったと思います。
時田が私の家に来てラジオやレコードを聴いているうちに夜中になってしまいました。
当時はまだエアコンなどはなく暖房には小さな電気ストーブを使っていましたので寒い夜中には身体の芯まで冷えてしまいました。
寝る前に時田が風呂に入りたい、というのですがもう銭湯もやっている時間ではありません。
仕方なく二人で家の五右衛門風呂に入ることにしました。
風呂は祖父母の寝ている部屋から廊下一つ挟んだところにありましたが外からも入れるようになっていました。
 
まず時田が風呂に入りましたがお湯はもう冷めており「こりゃ水だ」ということでした。
仕方なく私が寒い外へ出て風呂釜に薪をくべ始めました。
ぬるい風呂に入っている時田からは「寒いから早くしてくれ 早くしてくれ」の催促です。
風呂がいい加減な熱さになったとき今度は外にいた私の方が寒くなってしまいました。
我慢できずに急いで裸になって「寒い寒い寒い」といいながら駆け足で時田の入っている五右衛門風呂に飛び込みました。
時田も驚いたと思います。狭い五右衛門風呂の中にまさかと思った私が飛び込んできたのですから。
 
でもそれからが大変でした。
身体が触れるのでチョッと動けば今度は背中やひじがまだ下では薪が燃えている鉄の風呂のへりに触れて「アチチ」です。
それで立ち上がれば今度は浴室内の温度が低いので「寒い寒い寒い」です。
二人で「アチチ」と「寒い寒い寒い」の繰り返しでした。
そのうちに風呂の底にはめ込んであった板がズレて浮き上がってきてしまいました。
 
ここまできてはもうどうしようもありません。
覚悟を決めて二人で寒いのを我慢しながら底板を沈めて安定させ、身体が風呂のへりに触れないように身体を入れ替えて風呂の中で動かずにジッとしていました。
身体が温まって風呂から上がったのはそれから20分も後のことでした。
ジミー時田のこと(15)  富田@東京
ジミー時田のこと(15)  富田@東京
右端、時田少年、右から二人目筆者。
 
 
◆ 前にも書きましたが私と時田が特に親しかったのは高校時代の3年間と最後の10年位でした。
大学に進学してからは私は商学科、時田は英文科で殆ど顔を合わせませんでしたし、同時に私も体育会サッカー部の練習に追われ時田たちとの付き合いは薄れてきました。
そのころ私の家で時田にギターの手ほどきをしていたNくんは大学のクラブ活動で自動車部で活躍していました。同じ時期にその後時田と仲良くなり最後まで付き合いのあった田中莞一くんも自動車部でした。
そんな関係でNくん、田中くん、時田とのつながりが出来たのではないかと思います。
彼らは社会人になってからもずっと付き合いがあったようです。
 
大学卒業後、私は流通業界に、Nくんと田中くんは自動車業界に進みました。
当時、日本経済は右肩上がりに急上昇しておりどんな企業も忙しかったと思います。
Nくんの会社は「年功序列」ではなく「健康序列」といわれていました。
私も最初の5年位は1日の休暇もとったことはなく仕事に追われていました。
 
入社して数年すると誰でも同期生の給料が気になるものです。
私の場合、私の入社した会社は当時同業他社よりも1割以上は高かったと思いますが初任給は入社後の半年は見習員で13200円、半年後に正社員に登用されて15000円になりました。
そして4〜5年後に給料が40000円になった頃同窓会がありました。
 
その時には時田も赤いシャツのカントリールックで同窓会に参加していました。
私が思いきって隣にいた時田に「お前、月にいくら位取っているんだ」と聞いた時、返ってきた答えは「40万位だ」でした。
他社より少しはいいと思っていた私の給料の10倍でした。
 
後日、会社の社員に配布する社報にエッセイの寄稿を依頼された時「時田の月収40万円」のことを書きました。
ところがこんな事を書くと社員の士気に影響すると思われたのでしょうか、この部分は広報担当の権限でカットされていました。
ジミー時田のこと(16)   富田@東京
ジミー時田のこと(16)   富田@東京
前列右端が時田少年、後列右端が筆者です。
 
◆ 時田がカントリー界の第一線で活躍していた頃、私は新宿に本店のある大型百貨店で仕事に追われていました。
その店は一店舗の現金売上は日本一=世界一といわれていました。
その間、私は時田のライブが玉川高島屋のホールや新宿駅ビルの喫茶店で行なわれたときには何回か顔を出したことはありますがライブハウスには20数年間一度も行ったことがありませんでした。
 
当時、私はその百貨店の一階のフロアーマネージャーでしたが一階は通り抜けの通路に使う人もおり、多いときには日に20万人以上のお客様が入店していました。
そんなある日、店に「一階に爆弾を仕掛けた」との匿名の脅迫電話がありました。
嘘か本当かも分りませんのでとりあえずお客様と女子販売員を隔離し、男子の社員で爆弾の捜索に入りました。
そのとき私は担当役員と二人でトイレや柱の陰など注意して見回りましたが階段の柱と商品ケースの間に不審な手提げの紙袋が見つかりました。
周囲に人がいないことを確かめて袋に近づくと中に箱が入っているようです。
役員に「あの箱を開けてみろ」といわれましたがもし本当の爆弾だったら、と思うと私も一瞬たじろいてしまいました。
「イャだ」ともいえず覚悟を決めて紙袋を持ち上げてみると中に黒い箱が一つ入っていました。
箱の中に何か重みのあるものが入っているようです。
耳を澄ませても時計の針の刻むような音は聞こえませんでしたので思い切って箱のふたを開けてみました。
中に入っていたのは履き古した婦人靴でした。
新しい靴を買って履いてきた靴を柱の陰に置いて行ったのでしょう。
結局爆弾は見つからず電話はイタズラと分りましたが本当に人騒がせなお客様でした。
 
その日は紀尾井町のニューオータニで同窓会があった日で久しぶりに時田とも会いました。
二次会でカラオケに行きましたが時田の歌う日本の歌は素晴らしい英語のカントリーに較べてそれ程上手いとも思えませんでした。
勿論、ステージとカラオケではバックもマイクも違いますし音程だってどうなっているのか分りませんし、それを較べるのもどうかとは思いますが、、、
歌い終って持っていたマイクを私に渡し、昔のように「よう! 次に歌えよ」でした。
ジミー時田のこと(17)  富田@東京
ジミー時田のこと(17)  富田@東京
高等部校舎前にて、前列左端が筆者、その後ろが時田少年。
 
◆ 数日前、青山学院高等部の頃に私の家で時田にギターの手ほどきをしていたNくんから久しぶりに電話がありました。彼は私と違って大学時代以降も時田との接点がありました。
話の中で「何か欲しい曲はないか?」とのこと、彼からはテープで千数百曲の音源(?)を頂いています。
いきなり言われてもすぐには曲名が浮びませんでしたがそれでも「SOME SUNDAY MORNING」など昔の歌を数曲依頼しておきました。
そのとき「昔、時田たちとよく歌っていた曲があったろう!(後で分ったのですが「SEA -MANS BLUES」)あれも入れておくよ!」とのことでした。
翌日、あるライブでバンドの方やお客さんにこの曲の一部を口ずさんで聴いてもらいましたが誰もこの曲を知らないようでした。
 
高校時代、時田がカントリーの道に入る前はジャンルを絞らずにいろんな曲を口ずさんでいました。
すぐ頭に浮かぶだけでも「LA VIE EN ROSE」「BEAUTIFUL DREAMER」「I'M WALKING BEHIND YOU」「IF(50年代の曲)」などなどがあります。
彼はフォスターの曲では「金髪のジェニー」が一番美しい曲だといっていました。
そんな幅広いジャンルの中から彼は少しずつ自分の好みや周囲の環境に合わせながら自分の道をカントリーに絞っていったのではないでしょうか。
そんなこともあって彼がカントリーシンガーとして活躍していた時代にも所謂カントリー以外の曲をよく歌っていたような気がします。
 
それがいつ頃のことだったのか全く覚えていませんが時田が一時身体をこわして長期療養していたことがありました。
その時期が私が社会人になって何十年かして時田のライブに行くようになってからのことだったのか、それとももっと前のことだったのかも思い出せません。
人づてに「時田が身体をこわして少し長く入院している」と聞きました。
場所は多分中野の周辺だったような気がしますがこれも定かではありません。
「療養所」とあったような気がしますがこれもはっきり覚えていません。
ともかくお見舞いに出かけて病院の受付で入院患者の名簿を見せてもらいました。
その中には「時田圭介」という名前はありましたが私の知っている「時田悦朗」はありませんでした。
 
それでも「時田」は一人しかいなかったので病室を訪ねました。
そのとき初めて時田が「悦朗」から「圭介」に改名していたことを知りました。
ところが病室のベッドはもぬけの殻で彼が何処へいったのかも分りません。
看護婦さんに聞くと時々何処かへ出かけてしまって長時間戻らないことがある、とのことでした。
 
一時間ほど待ちましたがついに戻ってきませんでした。
看護婦さんの話では多分新宿あたりへ行ったのではないかとのことでしたが私も何時戻るか分らない時田を待っているわけにもいかず持参した「お見舞」の熨斗袋をベッドの枕の下に押し込んで失礼しました。
 
それから数ヶ月後のことでしょうか、誰かが時田の「快気祝い」の話をしていました。
でも私のところには「快気祝い」の気配はありませんでした。
私の持参した「お見舞」が時田の手元に届いたかどうかも確かめられませんし、もしかしたら掃除やベッドメイクのドサクサに紛れて何処かへいってしまったのかもしれません。
どうなってしまったのか全く分らないので何年か後に時田に会った時にも私はお見舞いに行ったことを話しませんでした。
それにしても、あれはいったい何処へいってしまったんでしょうか?
未だに分りません。 
ジミー時田のこと(18)  富田@東京
ジミー時田のこと(18)  富田@東京
前列左から3人目高校生の時田少年、5人目筆者。
 
◆ 先日、前職の会社の退職者の会の件である方から突然電話を頂きました。
その方は40年程前に人事部の労務担当に在籍していた女性でした。
同じ時期に私も人事部に在籍していましたが私は採用担当、教育担当で在職中にその方との接触は殆どありませんでした。
電話の中で「お若いですね 昭和○○年生まれですよね」といわれました。
確かにその通りですが8000人もいた社員の中でそれも同期入社の中では早生まれの私の生年を覚えているなんてその頃の人事部の人は本当に素晴らしい記憶力だと驚きました。
 
入社して30年程経ち、業務の関係で時間に多少のゆとりができてきたので時田のライブに行ってみる気になりました。
初めて出かけたのは新宿のウイッシュボンでした。
私は会社の部下の人たちと一緒に出かけましたが25年も顔をあわせていないとお互いに何となく気まずい思いがします。
満員の会場でとりあえずステージから一番遠い通路に面した窓際に席をとって時田の歌を聴いていました。
 
ステージが進むにつれて私がライブへ来た証拠を残しておこうと思いリクエストカードに「I LOVE YOU BECAUSE」と記入し、カタカナで大きく「トミタ」と書いて店の人に渡しました。
でもその日は一番遠い席にいた私を知ってか知らずか無視されてしまいました。
 
次の週に出かけたときも同じ曲名を書いて大きく自分の名前を書きました。
その夜はその曲を歌ってくれましたが時田は私のテーブルには来ませんでした。
同じように私もステージのそばへは行きませんでした。
お互いに分っているのに何となく顔をあわせるのが照れくさい思いがしていたんだと思います。
 
その次の週に出かけた時も同じ曲名でリクエストカードを渡しました。
さすがに三回目ともなると時田も私のところへ顔を出さなければまずいと思ったのでしょう。
ステージの合い間に私のテーブルに来ました。
でもその時の会話といえば立ち話しで「よう 元気かよ」「あぁ時間ができたから来てみたよ あれ歌えよな」「あぁ分った」だけでした。
それでも次のステージではリクエストに応えて時々私の方に視線を送りながら「I LOVE YOU BECAUSE」を歌ってくれました。
 
次の週からは時田もステージの合い間に気軽に私のテーブルに来るようになりました。
ただ私も自分からいろいろ話をする方ではありませんし、彼も私の前ではあまり口数が多い方ではありませんでしたのであまり話ははずみません。
どちらかといえば私のテーブルに来てホッとひと息ついて休んでいるような感じでした。
 
ある時、私のテーブルで時田と話をしていたとき女性のお客さんが私に「ジミーさんのサインを貰ってください」と頼んできました。
自分で言えばいいのに、なんて思いながら時田に女性から預かった色紙を渡すと驚いたことに彼はサインペンでサボテンとカウボーイの絵を一筆で書きあげてしまい、それにサインを添えました。
確かに高校の同級生だった清水さんが「彼は絵描きになるのかと思っていた」といっていたように素人にはちょっと真似の出来ない素敵な感覚の絵でした。
一見とっつきにくそうな一面も見られる時田もそんな素晴らしいサービス精神を持っていました。
 
それ以来、私が時田のライブへ出かけてドアーをくぐると、目が合えばちょっと私に目くばせをして頼まなくてもすぐに「I LOVE YOU BECAUSE」を歌ってくれるようになりました。
私は同伴した同僚や部下たちに「あれは俺のテーマソングだ」などと自慢げに話していたものです。
これはライブが銀座のナッシュビルに移ってからも同じでした。
ジミー時田のこと(19)  富田@東京
ジミー時田のこと(19)  富田@東京
銀座ナッシュビルにて、左が筆者、右はジミーさん。(1995年頃の写真でしょうか?)
 
◆ 先日、納戸の整理をしていると青学高等部の卒業記念アルバムが見つかりました。
アルバムをめくっていくとHR(Home Room)31のクラスに時田の姿が見られました。
アルバムには卒業当時の住所が記載されていましたが時田の住所は台東区根岸になっていました。
私は何を勘違いしていたのか時田の当時の住所はてっきり北千住だとばかり思っていましたが、もしかしたら北千住は彼のお父さんの勤務先の病院だったのかもしれません。
 
今までに何回か書かせて頂きましたが私と時田と仲がよかったのは青学高等部の1年から3年の半ばまでと亡くなる前の数年間だけでした。
時田がカントリー界にデビューしてから亡くなるまでの間は同じ高等部の同級生でその後FM江戸川のDJをやっていた田中莞一くんや女性の中尾さん、時田にギターの手ほどきをしていたN(中西)くんなどがよくお付き合いをしていたようです。
機会があればその方たちにもBBSに書き込みをして頂ければ長い間の出来事などが通しで分るのではないかと思います。
 
時田が亡くなる何年か前からは彼のライブは銀座のナッシュビルが多かったと思います。
私は殆ど毎回出かけていましたがそこではよく田中くんや中尾さんのグループがステージ前のテーブルに陣取っていました。
彼らがいれば私もその仲間に入れてもらいましたが私が一人の時は後ろの方のテーブルに席をとって静かに時間を過ごしていました。
そんな時は時田もバンドの方たちとの打合せや大事なお客様とのお話が終わると大抵私のテーブルにきて一息ついていました。
ただ私との会話は大した内容のあるものでもなく「この間あいつが来たよ」「そうかよ」程度のものでした。
話が続かないので私が「何か飲むかよ」と尋ねると答えはいつも「じゃぁビールを貰おうか」でした。
時田はいつもステージの合い間はその席から殆ど動かず時々目を瞑ったりして静かにしていました。
その頃にはもう体調も慢性的に芳しくなく、疲れが溜まっていたのかもしれません。
彼が手にした缶ビールも外から中味が見えないので全部飲んだのか飲んでいないのかも分らず、もしかしたら口をつけただけで残りはあとで捨てていたのかもしれません。
そんな様子が暫く続いて2000年の2月半ばのライブが最後のステージになりました。
その夜もいつもと同じようにライブ終了後は「じゃぁまたな」と握手をして別れましたが何となくいつもよりも声が小さく疲れているような感じを受けました。
そしてその日以後時田は予定されていたライブにも出演することはありませんでした。
ジミー時田のこと(20)  富田@東京
ジミー時田のこと(20)  富田@東京
高等部時代のスナップ。前列真ん中が筆者、右端がジミーさん。
 
◆  2000年の春、時田が亡くなる数日前に青学同期生の田中莞一くんから電話を頂きました。
電話の内容は「時田がそろそろ危ないようだから病院へ行ってやった方がいいんじゃないか」ということでした。
入院先は荻窪病院でしたが井の頭沿線の私の家からは電車で行くと乗り換えやバスなどで1時間以上掛かります。
車も渋滞や駐車場のことを考えると使う気になれず、自転車なら大回りせずにほぼ直線で30分です。
とりあえず急いで自転車で病院まで出かけました。
 
病室に入ると時田はベッドで静かに休んでおり、側に奥様がいらっしゃいました。
私が近づくと時田は微かに目を開けましたが身体は動かせず口もきけませんでした。
私が枕元に近づき目が合うと一瞬時田の細い目がいつもライブで「I LOVE YOU BECAUSE」を歌う前に見せた瞬きをしたように感じられました。
 
奥様に「富田さんのパワーを沢山頂きなさい」と言われると彼は黙ってゆっくりと喉元から手首を差し出しました。
軽い握手のような形になりましたが痩せた手の細さには驚きました。
ギュッと握ったら骨が砕けてしまうような気がしました。
 
手を握りながら何か言わないとまずいと思いましたがなかなか言うべき言葉が浮かんできません。
「皆が待っているから、、、」とそこまで言ったとき急に目頭が熱くなって次の言葉が出てきませんでした。
霞んだ視界の中で「早く良くなって、、、」と言おうとしましたがその一方で「そんな当てのない非現実的なことを言ってもいいんだろうか?」という想いが頭の中を駆け抜けていきました。
暫くの間、黙って時田の目を見ながら手を握っていましたがもう一度無理に微笑んで「皆が待っているから、、、」としか言えませんでした。
時田も黙って私の言うことを聴いていましたが私の目を見ながら私の心の中を読んでいたのかもしれません。
私も胸がいっぱいで目頭が熱くなっていましたが時田も目が潤んでいるように見えました。
私がそっと手を離すと時田も痩せた手首をゆっくりと毛布のなかに引っ込めました。
 
病院に長居も出来ませんので10分程で失礼しましたが生きている時田を見たのはこの時が最後でした。
ジミー時田のこと(21)  富田@東京
ジミー時田のこと(21)  富田@東京
前列一番右がジミー少年、後列右端が筆者。
 
◆  時田のお通夜と告別式は新宿からさほど遠くない青梅街道沿いのお寺で行なわれました。
お通夜はカントリーバンドの静かなBGMが流れ厳かに執り行われました。
葬儀委員長は立川談志さん、友人代表は(故)いかりや長介さんでした。
 
翌日の告別式にはカントリー関係の方たちには黒いハットや黒い礼服が目立ちました。
納棺も終わり時田の遺体はお寺の境内に安置されていました。
何人かの方の挨拶が済んだあとカントリーバンドの演奏をバックに時田と親しかったシンガーの方たちが順次ステージに立ち歌い始めました。
 
最初は何となく静かな曲だったような気がしますが3人目位にミッキー・カーチスさんが歌い始めたころから会場全体が楽しいライブの雰囲気に変り告別式は一転してお寺の境内での野外ライブに変貌しました。
(故)飯塚文雄さんが司会をやっていましたが後日聞くところによると歌いたい方が多くて順番など決めるのに大変苦労されたようです。
さすがにカントリーダンスはありませんでしたが参加者には黒の礼服も多く、こんな形の野外ライブはもう二度とないでしょう。
 
暫くして楽しかった野外ライブも一段落し、火葬場へ向かう一部の方を残してお寺の境内は静かになりました。
時田も最後を大勢のカントリー関係の方々やフアンの方々、友人たちに囲まれて流れる曲を聴きながら安らかに楽しんでいたのではないでしょうか。
 
火葬場の控室では身内の方、特別な関係にあった方などが時間の経過を待っていました。
それらの方たち以外に残ったのは私たち田中莞一くん、中西くん、中尾さんなど青学の同期生四人といかりや長介さん、ジェリー・藤尾さん、ミッキー・カーチスさんなどの方々でした。
いかりや長介さんは一時時田と同じバンドで仕事をしていましたし、その後も何らかの関係があったようです。
ミッキー・カーチスさんはカントリーの関係か或いは立川談志さんを挟んでの落語の関係か或いはその両方なのか、私には分りません。
ジェリー・藤尾さんとの関係も私が時田の活躍していた時期にはご無沙汰していましたのでよく分りません。
 
少し離れたテーブルを囲んでいた身内の方たちや特別親しかった方たちの話し声が流れてきたのが今でも耳に残っています。
「まぁ日本のカントリー界の頂点を極めたんだから良しとしようじゃないか、、、」
時田の思い出のつづき @   富田@東京
時田の思い出のつづき @   富田@東京
◆ 「ジミー時田のこと」を書き終わってから振り返ると、21回で収めようとしたために最後の方は多少ハショッタ感があり、時系列で書き込んだために、途中で何か思い出しても後戻りして書き込みにくくなったこともありました。
でも「他にどんな事があっただろうか?」と考えても急に浮かんでくるようなものでもありません。
 
考えてみると私は時田のライブには何回も出かけていますがその間にバンドの方々とは全くというほど面識がありませんでした。
主な理由は私が殆どステージの近くには行かなかったからのような気もします。
ライブには1人で出かけることが多かったですがいつもステージから離れたところに席をとり静かに聴いていました。
ライブのインターバルには時田の方から私の席に来るのが殆どでしたが来なければ来ないであまり気にもしませんでした。
あとで考えると時田も忙しい中で私の席に来る時は「安息」を求めてやって来たような気がします。
長い時間座っていても私からはあまり話し掛けませんでしたし彼も割合静かにしていました。
時田も私の傍に居れば何となく安心して落着けたのかもしれません。
 
毎年、ゴールデンウィークに武蔵野市吉祥寺で音楽祭が開催されています。
この時期にはいろんな場所でライブやコンサートが開かれていますがカントリーは伊勢丹前の広場で行なわれます。
最近は大野義夫さんや寺本圭一さんが出演していますが以前は時田と大野さんが出演し、寺本さんもゲストで出演していたような気がします。
 
ある時、その音楽祭のカントリーのライブの最初のステージが終った時に時田に「7階で一緒に休まないか?」と誘われました。
伊勢丹の中は熟知していましたし、カードも使えるし、もしもの場合は顔見知りも多いから時田の知人が何人か一緒でも何とかなると思い「じゃぁ行こうか」ということで新館のエスカレーターに乗りました。
途中階で本館のエスカレーターに乗り換えると思っていましたがそんなそぶりは全くありません。
時田は確か「7階」といいましたが伊勢丹のレストラン街は本館の「8階」なのでおかしいな、と思いながら4階位まで来た時「もしかしたら7階というのはこの新館の武蔵野市の事務所があるところでは?」と気がつきました。
 
私はもともと人見知りする方でしたし、憩いを求めて時田の歌を聴きに来たのにライブのインターバルに控室で知らないバンドの方々と一時間も一緒ではまた気をつかって疲れてしまうと思った途端、私の口から「悪いな、俺は買物をしてくるからよ」という言葉が飛び出し6階でエスカレーターを飛び降りてしまいました。
時田も「そうかよ じゃぁ後でな」といっただけでした。
インターバルの間、私は伊勢丹のお得意先サロンへ入って1人でお茶を飲んで過ごしました。
 
時田との付き合いの中で私が嘘を言ったのはこの時一回だけでした。
時田の思い出のつづきA  富田@東京
時田の思い出のつづきA  富田@東京
◆ 私は社会人になってから30年近くライブハウスへ行ったことはありませんでしたが時田のコンサートには何回か出かけた事があります。
日時は忘れましたが玉川高島屋のホールで青学高等部の同級生などを中心に200人ほどのお客様を集めたミニコンサートがありました。
その時はお客様の中に宮前ユキさんがいらしておりゲストとしてステージに上がり時田と「DEAR JOHN LETTER」を歌われたのを覚えています。
 
そのコンサートに私は一人で出かけましたが客席は当然顔見知りの方たちで一杯でした。
グループで学友どうし楽しそうに雑談している風景がアチコチで見受けられましたが私は落着いて歌を聴きたかったのでその仲間には加わらずステージから少し離れた通路に面した両側の席が空いている席に座りました。
特別な意味はありませんがそのうちに時田が来て私の隣に座るような予感がしたからです。
 
ステージの合い間に時田は場内のアチコチを廻ってお客様や学友に挨拶をしていました。
そして最後に空いている私の隣の席に来て溜め息をついて座りました。
彼と会ったのは10年ぶり位のような気がしますが昨日も一緒にいたような感じで特別な感情はありませんでした。
数分間の話といっても私と時田の話はいつもあまり内容がありません。
「今日は大変だな」「まぁいろんな奴が来ているからな」「I LOVE YOU BECAUSE 歌うかよ」「あぁ いいよ」「そろそろ行くんだろ」「じゃぁ後でな」とそんなものです。
 
何年か後、新宿駅ビルの大きな喫茶室を借り切って同じようなミニコンサートがありました。
その時は私も会社の人たちを連れて同級生の仲間入りをしましたがライブは全く同じような流れでした。
ジミー時田の思い出(Intermission)  富田@東京
ジミー時田の思い出(Intermission)  富田@東京
◆ 過ぎたことを振り返ってみると時田が出てこない時田の思い出、というのもあります。
 
このところ月に何回かライブ通いをしていますが時々ゲストタイムに歌わせて頂くこともあります。
私は福田(元首相)さんのように自分を客観的に見つめることが出来ますが、私はいいとこ素人の70点シンガーです。
殆どの場合、ゲストタイムに名前を呼ばれてステージに上がります。
そんな時に親切な司会者の方に「富田さんはジミーさんの同級生です」と添えられることもあります。
でも、数年前のあるライブで名前を呼ばれてステージに上がった時、司会の方に面白半分に「富田さんは学生時代ジミーさんの同級生でとても親しかった、と本人はいっていますが直接ジミーさんに聞いた訳ではありませんのでその辺の確かなことはよく分りません」といわれたこともありました。
別になんていうこともありませんが確かにその通りかもしれません。
 
数年前にヘンリー矢板さんに初めてお会いしたとき、事前にヘンリーさんは時田ととても親しかった、と聞いていましたので私の方から「富田といいます 時田とは青学の同級生でした」と自己紹介をしました。
ところがヘンリーさんの口からは思いがけない言葉が返ってきました。
「富田さんの名前はジミーさんから聞いたことがあります」というのです。
時田が仲間内の会話で私のことを話題にするのも考えられませんのでもしかしたら青学の周辺でも通った時にちょっと話題にしたのかもしれません。
でも、これは時田が亡くなったあとのことですので確かめようもありません。
 
そして昨年の夏、笹塚商店街の夏祭りのアトラクションに「ケン川越とウエスタン クルーナーズ」が出演した時に近くのレストランで格好のいい男性からいきなり「ヘンリーです」と挨拶されました。
ステージとは雰囲気が違いましたので挨拶されるまではヘンリーさんとは分りませんでした。 気がついていれば私の方からご挨拶したのに大変失礼してしまいました。
 
今年も笹塚商店街の夏祭りが近づきました。
また「ケン川越とウエスタン クルーナーズ」の野外ライブを楽しみに行くつもりですがヘンリーさんのお住いが笹塚周辺と聞いていますので今度は失礼しないようにあたりに気を配りながら歩こうと思います。
ジミー時田の思い出   富田@東京
ジミー時田の思い出   富田@東京
写真:ジミーさんのお墓にて、
真ん中に人の顔が見えるのは心霊写真ではありません。(博多のピアノ怪人、マイケル石仏さんです)
 
◆ 陽射しも穏かになり秋も近づいているようです。
夏バテで疲れたのでしょうか最近は昔のことを思い出すのもチョッと億劫になりました。
 
時田と私とは青学の高等部時代の3年間、無二の親友でしたから何かしら楽しい思い出が沢山あると思うのですが、いざとなるとなかなか頭に浮かびません。
 
青学高等部では男女共学でしたので同級生の半分は女性でした。
今考えると私も時田も決して人気がなかったわけでもないのになぜ女性の友達が少なかったのかと思うと不思議です。
勉強やクラブ活動に熱心だったからかもしれません。
私と親しかったのは時々この掲示板でお名前を見る清水(禮)さんだけでした。
当時彼女のお住まいは渋谷の松濤町にあり、私の家からは10分程のところでしたのでよく遊びに伺っては居心地のいい広い居間で彼女が弾くピアノを聴きながらお茶を頂いたり、たまには美味しい食事をご馳走になったりしていました。
時田もよく清水さんのお宅へお邪魔してはサラサラっと一筆で素敵な絵を描きあげたり弟さんに簡単なギターの手ほどきをしたりしていました。
 
高等部一年の時、初めて時田が私の家に遊びに来た頃には我家にはギターがありましたが私も時田もギターは弾けませんでした。
その内に中西くんという同級生が遊びに来るようになり、時田は彼からギターの手ほどきを受けました。
私はギターにあまり興味がありませんでしたのでそばで聴いているだけでした。
 
間もなく時田もスリーコードの簡単な曲が弾けるようになり、ある時私に手書きの「COLD COLD HEART」のコード表を持って来てくれました。
これはいつも食事付きでタダで私の家に寝泊りしているお礼の意味もあったようです。
でも私は普通の人よりもチョッと声が高かったようで時田のくれたコードでは低すぎて歌えないのであまり練習もしませんでした。
その頃は私も時田もまだレコードやラジオでポップスやカントリーを聴いて楽しむ機会が多く、歌うときにはいつも中西くんが伴奏してくれたのでギターを弾く機会があまりなかったのかも知れません。
 
高三から大学の頃には時田の交友関係も少し変わってきました。
私は商学科でしたし、時田は英文科でした。
高三の終りから大学では私も体育会サッカー部で練習に明け暮れていました。
その頃から時田は中西くんの友人で何年か前までFM江戸川でカントリーのDJをやっていた田中莞一くんなどとも親しくなり、その後彼らは生涯を通して時田の友人だったようです。
中西くんと田中莞一くんとの関係は大学の同じ体育会自動車部のメンバーでした。
 
私が時田と親しかったのは高校時代の3年間と亡くなる前の10年間くらい、彼らの方が私よりも時田のことをよく知っているかもしれません。
但し、掲示板に書き込みできないようなことも沢山ありそうです。

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Last updated: 2013/7/11