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瀬谷福太郎の「カントリー四方山話(よもやまばなし)」
このエッセイはMusic Row の一部分です。他の頁もお読みいただければ幸いです。



(1)CHET ATKINS との思いで @     瀬谷 福太郎
(1)CHET ATKINS との思いで @     瀬谷 福太郎
写真:左から筆者、チェット・アトキンス、ブラウンズの女性、ハンク・ロックリン
 
 
◆1965年、憧れのCHET ATKINSと一緒の夢のような日本国内コンサートツアーが始まりました。
 
私はCHETにコンサートツアー中のバンドボーイを申し入れて、「旅先で彼のギターや衣装バッグを持ちましょうか・・・持たせて下さい・・・ 」と何回も言ったのですが、その都度彼は、「いや! これは本国ではいつでも自分でやっている事なので決して心配はいらないよ・・・」と言って、ツアーの間中は絶対に衣装、特にギターは人任せにはせず、肌身離さずの感があった。
 
その頃の私たちはバンドボーイを2〜3人連れて楽器から衣装まで全部運ばせていましたが、それからは恥ずかしくて、せめて楽器だけは自分で持つようになりました。
 
ツアーで一緒に廻っていて一番感じた事は彼が絶えずギターを弾いている事だ、本当に暇さえあればギターを弾いているのだ!
 
確か、以前に雑誌か何かの情報でCHETの自宅を訪ねると必ずギターを持って出てくると言う話を聴いたが、本当にその通りなのでビックリするやら改めて感心するやらであった。
 
何日か一緒にツアーをやっていて感じたのは、練習の時々いつものフレーズを違ったポジションで弾いたり、ちょっとフレーズを変えて弾いたりと、幾つかのフレーズを絶えず練習して弾く事が度々有りました。
 
ある時CHETに「貴方は演奏中にミスをすることは有りますか・・・?」と質問すると、「勿論、神様じゃないから自分だってミスはするけど、ミスをミスにしないのがテクニックであって、自分が絶えずいろいろなポジションでフレーズを弾いているのは、どこからでも次の音に繋げられるように指に慣れさす為の練習をしている」と言っていました。そして「自分が絶えずギターを体から離さないのは、私がギターを好きだからだよ・・」との事でした。
 
私はこのツアーの最中に彼から「YAKETY AXE」をみっちり教わりました。
 
以来、この曲は私にとってはCHETとの思い出を偲ぶ、心の中に秘めた宝物です。
 
 
(2)CHET ATKINS との思いで A     瀬谷 福太郎
(2)CHET ATKINS との思いで A     瀬谷 福太郎
写真: バックバンドの内、左から二人目が筆者。 写真の真ん中あたりでギターを弾いているのがCHET ATKINS、ハンク・ロックリンやザ・ブラウンズの面々も見えます。
 
 
◆あの当時は今みたいに良い音響設備があった訳でも無く、その為かCHETの使ったギターアンプは日本で作ったと称する畳一畳も有るような大きなギターアンプで当時としては皆ビックリしました。CHETはステージ前には必ず時間を掛けて入念に調整しながら使って居ました・・・が、これは大変な事で、妥協させたプロデューサーが偉いのか、それを妥協したCHET ATKINSが偉いのか判らないが・・・よくあのギターアンプで日本のコンサートツアーを無事終了できたものだと、つくづく思います。
 
ある日、このツアーの合間にTV出演がありました。僕にとっては憧れの名ギタリストCHET ATKINS! 僕はCHETのレコードからバッチリコピーした曲を選びました。その演奏が終わったあと、CHETにおこがましく批評をしてもらったら、何とその曲は、たまたまCHETが間違えた部分があって気になっていたのにレコードにしてしまった曲!「私の間違えたフレーズの所もそのままコピーしましたね・・・!」といわれました。 ショック! アメリカの場合は多少の音の違いよりも全体の雰囲気の良い方を選ぶのだ、と言っていました。
 
CHETがギターを離さないのにはもう一つ理由がありました・・・。
 
ツアーの中では彼は女性に人気があり、いつも女性の傍とゆうか周りとゆうか比較的美しい女性に向かって弾いて居た事が多かったように思いました。
 
ある時CHETに「貴方は女性をどんな口説き文句でその気にさせるのですか?」の質問に、「僕には口説きの言葉はいらないよ、黙ってギターを弾いていれば、いつの間にか良い雰囲気になっているよ・・・」との答えでした!CHETはなかなかの女性好きのようでしたね?
 
CHET ATKINSが帰国の日が近づいて来ました!!  僕はいろいろ考えて? 考えて?  これしか無い・・・と帰国の時のお土産に選んだのが肥後の芋茎で作った立派な民芸品でした。
 
彼が帰国してそれを使用して・・・ その効果を自分のギターと比べたかどうか・・・?は聞いて無いのが残念でなりません。
 
(3)菊地正夫との思いで     瀬谷 福太郎
(3)菊地正夫との思いで     瀬谷 福太郎
写真:左が菊地正夫、右は筆者です。
 
 
◆ 私が横浜でウイリー沖山(当時はウイリー・ジェームスと言っていました)とブルー・レンジャースを結成して間もなくだったと思いますが、日曜日のNHKのど自慢大会でHANK WILLIAMSのLONG GONE LONESOME BLUESをうたって合格の鐘を鳴らした男がいました。
 
私はツテを頼ってその合格者を調べてもらい訪ねて行きました。
 
ところが貰った住所で住まいを探しに行ってビックリ!当時、赤線がまだあった時代で、伊勢崎町の板道橋寄りの裏に、通称曙町、親不孝通りという所、そのものでした。
昼間の親不孝通りを探して彼の家を訪ねていろいろと話し合い、とりあえずウイリーにヨーデルを習うと言う事でブルー・レンジャースへの参加を決めました。
そしてウイリーにヨーデルを習いながらの菊地正夫本格デビューです。
 
その頃、あの柳家金五郎さんから預かって、バンドボーイをしながらウイリーさんからウエスタン・ヨーデルを習っていた山下敬二郎も居た為、バンドの練習ともなると2人でユーレイ、ヨーレイやるんで、大変うるさかった記憶があります。
 
私と菊地さんとは妙に気が合って、二人でバンドを作って横浜市内のホテルで演奏したり、野毛の商店街に彼の行きつけのバーがあってよく仲間で行って遊んだものです。何処に行ってもあのルックスで、お金の使いっぷりも良いから一番モテるので、払いはいつも菊地さんでした。そしてその頃に彼の体の秘密も知った(聞いたら腹を抱えちゃう様な話)のですが、ここではちょっと書くことが出来ないのが残念です。
この頃、彼と指輪も交換しました。私は赤い石の指輪を送り、彼からは14K台のホワイトジルコンで、今では彼の形見だと思って大切にしています。
 
その頃、彼から「横須賀で流しをやっているんだ。儲かるから瀬谷さんも一緒にどうですか?」と誘われました。彼は横須賀の街でウエスタン流しをやっていたんですね!
当時、3曲唄って千円ですから、客さえ居れば一晩に大変な金額です。航空母艦などが入港すると基地の街は大変な賑わいで、水兵達もたまの休みなので千円でなく一万円くれる客も居るから、一晩の水揚げは・・・まともな商売がやってられない位の金額でした。
彼も他の仕事は馬鹿らしくてやって居られない・・・と言っていました。(当時、ラーメン一杯が50円くらいの時です)
私も彼に勧められて2〜3回、横須賀で流しをやりましたが、癖になりそうな感覚であった事を覚えています。
 
それからしばらく経って、ウイリーの独立でブルー・レンジャースは解散、山下敬二郎、菊地正夫はウエスタン・キャラバンに参加しました。
その後、菊地正夫は兄貴、北原じゅんの作曲した「すたこい東京」で城卓矢に改名、「骨まで愛して」でスターダムにのし上がる事になります。
 
私と菊地正夫の付き合いはその後も続き、城卓矢になって東芝レコードからカントリーのLPを制作したときもギターで参加しています。この時は城卓矢が忙しくてレコーディングに参加出来ず、唄だけ後入れでしたので、その為の障害はありましたが、それはレコードを聴いて確認してみてください。
 
六本木から溜池方面に下りたY字型の近辺にカステラで有名な文明堂があり、その隣の細長いビルで彼がクラブを始めました。所謂、実業家への一歩でした。
仕事の無い日は店に来てお客の接待をしていましたが、経営は大変だった様です。
その後、しばらくして体調を崩して入院してしまいました。
 
あの樺太訛りの歌声は未だに私の耳の奥に刻み残されています。
 
 
 
 
(4)Little Jimmy Dickensとの思い出     瀬谷 福太郎
(4)Little Jimmy Dickensとの思い出     瀬谷 福太郎
東京Grand Ole Opryに出演のLittle Jimmy Dickens,左は黒田美治、右端が筆者。 (1964年5月 東京厚生年金ホールにて: 撮影 持田 晃)
 
 
◆私がJimmyの唄を最初に聴いたのはやはり進駐軍放送でした。あの絞り出す様な渋い声で、曲はCountry Boyだったと思います。数居るアーティストの中で、ずば抜けたヒット曲を持っている訳でもないのに印象深いのは私の最初の経験、カントリー・アーティストの伴奏・・・!でした。
 
当時、私が所属していたバンドは原田実とワゴンエースでしたが、ある時進駐軍専門プロダクションから米軍基地内クラブのスペシャルショーとしてカントリーシンガーのLittle Jimmy Dickensの伴奏の依頼がありました。当時、ラジオから流れていたJimmyとワゴンエースの共演です!
一流アーティストとの共演と云うことはリハーサルをシッカリとして本番バッチリと思っていたらプロダクションから送られてきたのは2〜3枚のレコードと曲目リストだけでした。リストには今まで聞いたことも無い曲目がズラリ。勿論、コード表なんて物はありません。
 
私たちは皆で手分けしてJimmyの曲を集めてみましたが、当時ラジオから流れて居た曲Country boy とHillbilly Fever以外は見つかりませんでした。仕方なく、現在ある資料だけでもバッチリやろうとメンバーで話し合いました。
 
そこで私はHillbilly Feverのツインギターのハモリを一人でやる決心をしました。勿論、原田さんのスチールギターとのハモリでも良かったのですが、あえてEギターの歯切れの良さを考えました。
 
いよいよ本番当日が来ました。
リハーサルはその日出演する米軍基地内のクラブのステージです。今夜のショーのサウンドチェックを兼ねてのリハです。初めて会うLittle Jimmy Dickens !
 緊張して出迎える私たちにピカピカのカントリーコスチュームに身を包んだ小柄なJimmyがにこやかに手を振りながら入って来ました。
 
簡単な自己紹介から即リハーサルへ・・・。私達がJimmyの曲をあまり知らないので困っている話をすると、彼は身体に似合わない大きなギターを取り出し、弾き出した!そして自分がリズムを弾いてテンポを作るからバンドは適当に入って来てくれ・・・。
 
そこからは今まで聞いた事もない曲をJimmyが1コーラス唄っている間に、その曲のコード進行を覚えて彼の唄が終わったら即間奏を弾かなければならない。カントリーソングは比較的3コードの曲が多く、また変則的なコード進行や 2/4小節の入った曲が多いのも特徴だが、これには泣かされました。
 
いよいよヒット曲のCountry Boy と Hillbilly Feverを唄う時が来ました。両曲ともバッチリ練習しておきましたから彼も大変喜んでくれました。Hillbilly Feverに関しては特に喜んでくれましたね。
 
彼らのショーは1回約60分位ですが、お酒、女性、車等の話を面白おかしく話してお客の笑いをとり・・・その合間に唄う・・・というパターンで自分のヒット曲を含めて、多くても7〜8曲位しか唄いません。お酒のカクテルのジョーク等は来日した殆どのアーティストがやりましたがお客には受けていましたね・・・。
 
Jimmy は気さくな人でTokyo Grand Ole Opryにも出演してくれまして、日本のカントリーファンも楽しませてくれました。そして、彼が間奏の間や曲が終わった後に持っていたギターを手元でクルクル回すトレードマーク的仕草がクラブのショーでも受けていました。Jimmy は計三度来日していると思いますが、その都度、伴奏の指名があった事がとても嬉しかったのを覚えています。
 
後に、ベトナム戦争中、アメリカ兵慰問の為、私はトミ藤山とベトナムへ行きましたが、ベトナムで各米軍基地を移動中に同じくアメリカ兵の慰問の為に来ていたJimmyとダナンの空港のロビーでバッタリとあいました。彼は私のことを覚えていてくれて、出来る事ならベトナムでも一緒にショーをやりたいね・・・といってくれました。
 
 
(5)成毛滋との思い出 @     瀬谷 福太郎
(5)成毛滋との思い出 @     瀬谷 福太郎
写真 左が成毛(なるも)滋、右端は斉藤任弘(たかひろ)、真ん中が筆者。
 
◆ 成毛さんとの出会いはグレコギターが縁です。
音楽仲間の斉藤任弘さんがグレコの神田商会にいた関係で、私が出入りしていて、ある時成毛さんを紹介されました。当時は長髪で目がギョロギョロしていた印象がありました。
 
彼はロック系のギタリストですが、カントリー系の音楽も大好き!私はカントリー系のギタリスト、斉藤さんはカントリーの現役シンガー(1970年全米ネットのJohnny Cash TV Showにも出演している凄い人です)たちまち3人の気が合って当時科学技術館で開催された楽器フェアーや新宿の歩行者天国の時に丸井の前の特設ステージでは3人で演奏したりして楽しい時期でした。
 
 
(6)成毛滋との思い出 A     瀬谷 福太郎
(6)成毛滋との思い出 A     瀬谷 福太郎
写真:左が成毛滋、右は筆者。
 
◆成毛さんはChet Atkins や Roy Clark や Les Paul が好きで、その辺でも好みが全く一致していました。1976年の(株)瀬谷インターナショナル設立記念パーティにはギター持参で参加してくれて Chet のSan Antonio Roseを弾いたのをしっかりと記憶しています。彼の凄いところはChet Atkins や Roy Clark や Les Paul がどんなギターでどんなアンプで、またどんなミキシングで弾いているのかまで研究でした。 博学で、研究熱心で、しかもそれ等のデーターをきちんと持っている・・・、こんな人は今までに会った事がありません。
 
ある日、彼の自宅を訪ねて色々と話した事があります。
 
・<よいマグネットを作る話>
 
私が聞いていた伝説の話として、質の良いマグネットは日本では作れない?というのがありました。この事を改めて成毛さんに質問すると早速彼から答えが出てきました。材質はアルミコ(アルミニューム、ニッケル、コバルトの合金)が良いのだが、当時は色々な理由でアメリカの砂漠の真ん中にある工場でしか作れない為、値段が高いのだそうだ。Roy Clark の高音でのびる音はアルミコで造ったピックアップでなければ、あの音はでないとの事でした。
 
・<ギターのマグネットの強弱に関しての話>
 
マグネットが強いほど、出力は大きくなる為、ハードロック等の音を歪ます時には良いが、マグネットが強くなると弦を吸い付ける力が強くなり振動が早く止まる為にサスティンがのびない。サスティンをのばす為にはマグネットは弱い方が良い。どちらが良いかは、その人の好みである。
成毛さんの実験で1〜8のマグネットの強さで3・4辺りが良かったとのデーターが残っている。
 
・<ギターのボディ材の話>
 
堅いのはメープルだが、堅いだけでは駄目でネックの材料によっても音が変わる。レスポールはボディの裏をマホガニーでトップをメープル、ネックをマホガニーで作ってあるのであの音が出ているとの事。
 
・<ギターのピックガードの話>
 
フェンダーのストラトのピックガードで音が変わる。
オールドは1枚で、新しいのは3枚ラミネートなので1枚のピックガードにするとオールドの音になる。
実験によると、ボディー材よりもこの方が音が変わったそうです。
 
先にも書きましたが、彼の場合、全部自分で実験してデーターを持っている事が凄いと思いました。彼と話している間にも次から次へと自分自身で集めたデーターが出てくるのにはビックリし、改めて尊敬してしまいました。
 
最後に彼の自慢のスタジオへ
そこにはプロのスタジオのミキサー顔負けの凄いのがドデーンと有りました。彼は自分の時間の許す限りスタジオに篭って一人で演奏してオーケストラのサウンドを創る録音をしているのだと言っていました。
そしてこのスタジオは一年中途切れなく完全空調しているとの事でした。
 
そんなお付き合いの中で、1982年に私のギター歴30周年記念のレコードをRCAから出す事になり、同時に発売記念のリサイタルを芝の郵便貯金ホールで開催する事が決りました。
私は、即成毛さんの自宅を訪ね、レコーディングとコンサートでの共演をお願いしました。
 
成毛さんは気持ちよく受けてくれて、「瀬谷さん、ツインギターでやるならDRIFTER'S POLKAを二人でやりませんか?」との言葉だったのです。
瀬谷福太郎クレストラインの瀬谷福太郎、成毛滋のツインギターでDRIFTER'S POLKAが実現出来ました。
 
音を聞くと判ると思いますが、私の音はツインリバーブのそのままですが、成毛さんの音はエフェクターを使用していますから立ち上がりの音が違います。
 
新しい物を使う事にこだわる成毛滋!使わない事にこだわる瀬谷福太郎!こんな二人の付き合いでした。
 
1983年1月、郵便貯金ホールで開いた私の30周年記念リサイタルでは、私の一番弟子だった小松久さんも加わって、成毛滋さんと3人でのインスト演奏は生涯忘れることはできません。
 
 
(7)成毛滋との思い出 B    瀬谷 福太郎
(7)成毛滋との思い出 B    瀬谷 福太郎
写真:左が筆者、右は成毛滋
 
◆2006年3月(成毛さんが亡くなる丁度1年ほど前)の事です、体調が悪いとの近況を聞いたのでお見舞いに行ったところ、彼は非常に喜んでくれて色々な思い出話を2〜3時間にわたって話してくれました。
 
まず、驚いたことは10本ほど持っていたギターが1本だけになっていた事でした。
 
これから書く事は私が成毛さんの了解をとってカセットテープに録音したもので成毛さんの遺言に近いものだと思っています。
 
成毛さんの体調が一番悪かったのは1998年頃で、どん底だったそうです。1999年には新宿駅のホームでぶっ倒れて、あと50センチ違っていれば線路へ落下している危険な場所でした。山の手線から総武線に乗り換えようとした時にちょっと息苦しいと思ったら・・横から「モシモシ」と知らない人に声をかけられて、「なんですか?」と振り返ったら「大丈夫ですか?」と何人もの人が見ていて、「今、あなたが倒れたので声をかけたんだ・・・」と云われたが、自分では全く分からなかった。
それからちょっと歩いたらまた倒れて、その内、足も動かなくなり、その場から救急車で病院へ搬送されたとの事。
 
そして、その運ばれた病院のベッドで不思議な体験をしたそうです。
 
子供の頃から今迄の色々な情景がはっきりとみえて、学生時代に仲間とバンドをやっていた時の情景等も浮かんだそうで!決して夢ではなく、途中に看護婦さんと話したり、受け答えをしながらとの事。
 
「このような情景は心筋梗塞等で倒れた方達が見たとの話を聞いたことがあって、患者が棺桶片足状態で見る事が多いようです」と成毛さんが言って居りました。
 
学生バンド時代はよく仲間同士喧嘩をしていて・・・そのシーンも見えたそうです。そして自分は第三者の傍観者としてそれを見て居て、その見て居る自分が仲間と喧嘩している成毛に「お前、そんな言い方はないだろう? それはお前が悪いよ!」と言って居る。
 
そうか、僕がみんなに嫌われたのは、こう云う事を言っていたからなんだ!
 
俺ってなんて嫌な奴だったんだろう。
 
自分では判らなかったけど傍観者で見ると、俺はこんな醜い人生を歩んできたんだ・・・、そして心から皆に申し訳なかったなあと思いました。「自分がギターを弾けなくなったのも天罰だ・・・!」そして、こんな生意気な嫌な奴はもう駄目だと思いました。
 
自分では普通だと思って居たけど、他から見ると俺はこんな嫌な人間だったんだと・・・分かると自分でも情けなくなり、又なまじギターを弾けると天狗になりますから、思い切ってギターもアンプも人にあげて、ピアノは売るなど、全部処分してしまいました。
 
退院して1年位は自分の人生の反省の毎日、病院で見た昔の色々な事を思い返しやっぱり俺は嫌な奴だったんだ!と本当に落ち込みました。そして昔の仲間達や私の嫌なところに接してきた人達にも本当に申し訳ないと思います・・・。
 
今回の事で私の人生観が全く変わりました。
 
退院しても膝が笑っちゃってまともに歩けないし、車を運転しようと思ってもクラッチ操作が出来ないので車も売ってしまいました。
 
それから2〜3年経ってやっと諦めがついて、後は清く正しく生きようと朝起きると天に向かって「オハヨウ・・・今日も目が覚めてありがとう!」と声を出しています。
 
いつ、朝、目が覚めない・・・可能性もありますからね?一日いちにちが大切です・・・。今は毎朝約1時間半ほど散歩をしていましてね・・・最近、膝の調子も良くなってきましたよ、早く元気になって又仲間と遊びたいですね・・・!
 
私と成毛さんとのお付き合いの中で感じたのは勿論彼は経済的にも恵まれて(1960年代 あの時代にオープンリール・テープレコーダーを持ち、自分のスタジオを持てる環境にあり)いましたが、音楽的にも凄い天才だったと思います。
 
その天才が自分のギターの上手さに天狗になり・・・でもそれを自分で気づいて反省の言葉が出たと云うのは素晴らしい事だと思いました。。
 
 
成毛 滋 さんのご冥福を祈ります、 合掌          瀬谷 福太郎
 
 
 
 
 
 
 
(8) ムーン・マリカンとの思い出   瀬谷福太郎
(8) ムーン・マリカンとの思い出   瀬谷福太郎
写真:右からMoon Mullican、筆 者、宮治 英輔、黛 登 (奥)
(1964.11. 横須賀EMクラブにて)
 
◆ 古いファイルを整理していたら、すっかり忘れていた懐かしい写真が出てきました。
 
これを見てビックリ、私が日本製のグヤトーンのギターを弾いているじゃないですか?
 
私の記憶に無い写真にビックリして、一緒に映っている友人の宮治英輔さんに調べてもらったら1964年頃に横須賀海軍基地のEMクラブに出演したときの写真でした。
 
MOON MULLICAN,ピアノを弾いて演奏したり、歌ったりするアーティストで、私はLAST DATEのFLOYD CRAMERは知って居ましたが彼のことは全く知りませんでした。後で調べたらアメリカのカントリー界の重鎮だという事が判りました。
 
1964年のある日、プロダクションから電話があり、MOON MULLICANというアーティストの伴奏バンドが急にNGになったので助けてくれ・・・との事! その日、私は仕事がオフだったので自分のギターは持っていないし、自分のメンバーを集めるにも時間が無くて間に合いそうもありません。
 
そこで、その日、たまたま一緒に練習していた慶応大学のカントリーバンドのメンバーに手伝って欲しいと頼みました。
 
アコースティックギター黛 登、ベースギター宮治英輔、エレキギター瀬谷福太郎の3人で即席のバンドを作りMOON MULLICANの伴奏をするしかない・・。何とか説得して手伝ってもらう事になりました。
人間と楽器と車と全部トラ(業界用語で臨時の助っ人)で横須賀海軍基地へ向けてとりあえず出発する事にしました。
 
当時、横浜〜横須賀は16号線が混んで大変だったのです。特に夕方の混雑はひどいもので何時間掛かるか判らない状況でした。特に京急金沢文庫辺りの混雑は有名で其処をとおり抜けなければ全く時間が読めないという難所でした。
 
イライラしながらの数時間でしたが何とかショータイムには間に合って飛び込みました。
 
MOON MULLICANの唄を一度も聴いたこともない、彼のピアノも聴いたことが無い・・。そんなMOON MULLICANとの打ち合わせもそこそこのショータイム!
今日、演奏の仕事をするとは思っていなかったのでカントリーシャツなんて誰も持ってきていません、全員スーツ姿にネクタイでステージに上がりました。
 
彼がピアノを弾いて唄を歌う・・・MOON MULLICANショー。
 
良かったのは彼がピアノでイントロを弾いて唄って、間奏も彼が弾いた後にバトンタッチで私のソロ形式だったので、余裕を持って伴奏出来ました。
 
INST.も「WILDWOOD FLOWER」や「DOWN YONDER」や「TWELFTH STREET RAG」等のスタンダード曲だったので演奏がとても楽しかったのを覚えています。
 
ショーは大変盛り上がりました。
 
MOON MULLICANには「始めての日本での仕事で心配していたが、とても楽しいショーが出来て良かった」と誉められました。
 
当時、慶応ボーイだった黛さん、宮治さん、数十年ぶりに日の目をみた写真の感想はいかがですか?聞く所によるとお二方とも会社の社長さんで頑張っているそうです。
 
改めてありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
(9) 横須賀  アメリカ海軍基地軍法裁判所の思い出  瀬谷福太郎
(9) 横須賀 アメリカ海軍基地軍法裁判所の思い出  瀬谷福太郎
写真:はじめて作ったバンド、Western Five、真ん中が筆者。
 
◆1950年代、横須賀のどぶ板通りの街で、私は赤シャツ(腰巻用の赤いネル生地で作ったシャツを着ていた)のニックネームで呼ばれていました。ズボンは進駐軍将校用のベージュ色の物を染物屋に頼んで染めました。靴も兵隊から譲って貰ったラバソール(白)で本体は真っ赤な革靴。
 
兵隊達の持ってくるアメリカの雑誌を見て、お洒落をしたくても派手な色の物が店屋に売って居ない時代・・・。若い私達の好みの色の靴下やシャツを買うことも出来ない。欲しくても売って無い時代でした。今の方達には想像できないでしょうね?
 
仕方が無いので私は女性用の明るい色の生地を買って注文でいろいろと作ってもらいました。当時の横須賀海軍基地の街はアメリカ人がウジャウジャですから、赤シャツに紫色のズボンに赤い靴を着て闊歩するには何の抵抗もありませんでした。
ただ、私の住まいが横浜でも進駐軍が少ない町でしたから、母親はご近所の目を気にしていました。
 
そんな時代に、私が毎日演奏していたビアホールである日こんな事件が起きました。私達が毎日演奏しているステージはお客が簡単に上げれないように1.5m位の高さがありますが、水兵達が酔っ払って度々上がってくる事があるので、その時はバンドのメンバーはステージを降りてよい事になっています。メンバーが降りても酔っ払った水兵達はステージ上の楽器をいたずらするので、いつも私がステージに残って、いたずらされないようにと監視していました。殆どの水兵は楽器を触っては駄目・・・ときつく云うと、大抵はマイクの前ですこし喚いてステージを降りて行きます。
 
ところが、この日の2名の水兵はかなり酔っ払っていたのか、いたずらがひどくて、ステージ上の楽器を触って、私が駄目といっても止めてくれません。その内に私に絡んできて、胸ぐらを掴んで「俺に歌わせろ!」と大騒ぎ・・・。仲間達が囃子たてるもんだから本人たちは益々その気になってステージ上で暴れまくってもう手に負えません。又、一人の水兵が私に手を出してきたので、ついその水兵の顎に一発アッパーカットをぶち噛ましてしまいました。あとのことは夢の夢でした。一人を殴った私はステージを飛び降りて客席に入り、後から追いかけて来たもう一人の水兵をめがけて客席のイスを振り上げて思いっきり頭を一撃しました。そして後も見ずに一目散に真冬の外に飛び出しました・・・。(ビアホールの椅子は水兵達が騒いで暴れても壊れない樫の木で出来ている)
 
私が飛び込んだのは近くにあったタクシーの運転手さん達の休憩所でした。「助けてくれ!」と飛び込んだ後から喧嘩した水兵達の仲間が追いかけて来て休憩所の中は水兵で満杯になってしまいました。
真冬だったので私の側ではストーブが真っ赤に燃えたぎっていました。
 
その時、フット殺気というか!一瞬感じる物があって、見ると目の前に居た身体の大きな水兵が私めがけてパンチを打って来たのです。この時の事は今でも不思議な事と記憶しています・・・。何故って、その一瞬が私にはスローモーションでも見るかの様に水兵のパンチが見えたので、容易く避ける事が出来ました。まともに喰らったらストーブにぶつかって大怪我するところでしたし、タクシー会社の事務所も大変な事になっていたと思います。
 
後からその場所に居た運転手の方達から「よくあのパンチをさけたなあ。喰らって居たら大変だったよ」と云われました。よく剣術の名人が刀が止まってみえるとか、野球のボールが止まって見えたと聞いた事がありましたが、正にそれでした。多分、私の緊張感がピークに達していたのでしょうね?
 
やがて海軍のSP(憲兵)が来て私を逮捕! この時、私は掛けていた眼鏡を知人に渡して預かって貰いました。
 
夜の横須賀の街はトラブルだらけ、水兵同士の喧嘩、日本人との喧嘩、無銭飲食、タクシーの乗り逃げ、絶えずパトカーや救急車が走り回っているが日本の警察が来ても身体のデカイ水兵が酔っ払って暴れだしたら、日本の警察官の2〜3人ではとても手に負えないので、よほどのことがないと日本の警察は来ない。
 
SPの車に乗せられて連れて行かれる時は罪人扱いで、車が揺れるから掴まろうとすると棍棒で手を殴られました。仲間と喧嘩した私が憎かったのかも知れません。
車は海軍基地の外れにある古めかしい建物へ入りました。その時は、今夜は基地の留置所に泊められるのかな?相手を傷つけて居るから2〜3日は泊められるのかな?明日からのバンドのトラはどうしょう?等と考えつつ、まさかこれから軍法裁判で裁かれるなんて思ってもいませんでした。
 
SPに連れられて入った部屋はかなり大きくて、偉そうな人たちがずらり並んで居て、通訳の人が私に今から貴方と水兵2名のトラブルについて裁判を行いますが、水兵2名は病院で治療中で後ほど来ますので、先に貴方が今夜有った事を詳しく説明しなさいと求めてきました。
 
(注)アメリカ海軍軍法裁判ですから裁判官は全員アメリカ人です。彼らが言った事、私の言った事などに全部通訳が間に入りますから普通の裁判の倍の時間が掛かります。以下は省いて通訳のみにします。
 
通訳「貴方の言っている事は分かりました。でも相手の水兵は頭に大怪我をして居る。今、貴方の言っている事をどうやって証明できますか?」
 
私がちょっと困って、どうしょう・・・のそぶりをした時に傍聴席に居た一人の水兵が進んでその時の事の証人として証言台に立つと手を上げてくれたんです。私はビックリして傍聴席を見ると、それ迄気が付かなかったのですが、さっき迄ビアホールで私達の演奏を聞いてくれて居たお客の水兵が証言台に立ってくれたのです。(彼らは私の乗ったSPの護送車の後をタクシーで追って裁判所に来たそうです)
 
気が動転していて時間の観念が無くなって居て、何で彼らがここに居るんだろう?・・・訳の分からないまま・・・私はハラハラ、ドキドキ何を言われるか分からない・・・ただただ証言台の彼に注目しました。すると彼は私が主張する ”水兵に絡まれてステージから飛び降りて逃げた事” への有利な証言をしてくれたのです。嬉しかったです。
 
この事件で感じた事は ”アメリカ人は正義を守る!” 人種の違う日本人が自分の仲間を傷つけたのに泥酔していた方が悪い、と私を弁護してくれたアメリカ人に対して尊敬する気持ちでいっぱいになりました。
 
私のように戦時中「鬼畜米英」の教育を受けた者にとっては今回の件で心を洗われたような気持ちでした。
 
ところがその後が問題で、怪我した水兵達が実は海軍基地内消防隊の隊員だったのです。この隊員の仲間達が仕返しをしょうと、私の往復の時を狙って隙あらばと2〜3人でうろうろされ、さすがに怖くなって連中といつでも対決できるようにと護身用にナイフを買っていつも懐に入れて横須賀へ通っていました。
 
下車駅を変えたりしてもあまり効果は無く、ビアホールの社長の計らいで大津の観光ホテルに演奏場所を変えて見ましたが、彼らの連絡網は素晴らしく1〜2週間あまりで又、彼らが狙ってきてあぶないので私は違う仲間を集めて青森県の三沢基地のある街へと旅に出る事にしました。
 
 
 
 
 
 
(10) Joe Maphisとの思い出@  瀬谷福太郎
(10) Joe Maphisとの思い出@  瀬谷福太郎
写真:来日時のJoe Maphisと奥さんのRose
 
◆ 1950年代、私が最初に手に入れたINSTのレコードはウエスタン・キャラバン(現サンミュージック会長のバンド)のギタリスト、二つ橋良彦さんから譲って貰った2Guitars Country Style(Speedy West & Jimmy Bryant)です。
 
あの時代のレコードの貴重さと云ったら・・・欲しくても手に入らない時代、なにせ50年以上も前の事で、レコード屋さんにも無い訳ですから、もしかして日本中で持っているのは私だけかも知れません。価値としたら想像できません。
 
Speedin' Westの演奏をラジオでは聴いていましたが、改めてレコードを聴いて二人のテクニックの素晴らしさに腰が抜けるほど驚きました。
 
譲って貰った時にもかなり白かった盤を聴きまくったのでノイズ音の方が大きくなってしまい真っ白になってしまいました。しかし、あのレコードの演奏は今聴いても凄いと思います。後で聞いた話ですが、最近、アメリカの現役の若いプレイヤー達が初めてJimmy Bryantの音を聴くと、改めて勉強し直したくなる人が多いと聞いています。
 
因みに、日本の東芝EMIから出した2Guitars Country Styleのレコードジャケットは私のジャケットからコピーしたものです。
 
2番目はJoe Maphisのレコードでお茶の水の中古レコード店で手に入れました。私がレコード店に行くのを待って居たかのようで、WネックのMOSRITEを抱いて写っているレコードジャケット!私は吸い寄せられる様に・・・Joeのレコード(Fire On The Strings)に手が出ていました・・・。私とJoeとの最初の出会いです!
 
この時は、後にこのJoeと会えて、彼のショーの伴奏が出来るなんて想像もしていませんでした。「自分の欲しい物が買えない」、「好きな音楽の勉強が出来ない」時代ですと、私が思うには楽器でもレコードでもその物との出会いは「運」だとつくづく思いました。
 
私達の時代には希望するジャンルを勉強したくても教えてくれる先生が居ない訳ですから、たまたま出会った音資料でその人の方向が決ってしまいます。しかし、それも今みたいに映像が有る訳では無く、聴くだけですから、何処のポジションで弾いたら良いのかが分からなくて苦労しました。このポジション探しがギターの一番の難しさだったと思います。
 
Joe Maphisの早弾きはJimmy Bryantには無いカントリーらしい奏法に魅力を感じて夢中になって聴きました。そして私の好みで選んだ曲がTown Hall shuffleだったのです。メロディーは簡単で流れるような感じですが弾いて見ると運指がかなり難しいので苦労しましたが、やっと自分のレパートリーとして使えるようになりました。
 
 
(11) Joe Maphisとの思い出A  瀬谷福太郎
(11) Joe Maphisとの思い出A  瀬谷福太郎
写真:Joe Maphisの愛機、WネックのMOSRITEを「二人羽織」弾き。(エディ深野さんが見つけて送ってくれた新聞写真より)
 
◆ 1960年代、私の所属して居たバンド、原田実とワゴンエースと云うバンドでは、当時ジャズ喫茶、コンサート、それと米軍基地内の兵士達のクラブが主な仕事場でした。
 
そのクラブですが、普段は日本のカントリーバンド、ジャズバンド、ハワイアンバンドとフラショー、ストリップショー等をやっていましたが、年に数回アメリカ本国からプロのショーが入りました。(外国に居る兵士達を慰問すると本国で税金の優遇があったようで、その為か2〜3回来た人も居た)
 
そしてビックリするような大物が慰問で来日していますが、殆どが横田基地発着の軍用機で往復していました。
 
ある時、駐留軍専門のプロダクションから「今度カントリーの大物が来るので、そのバックの演奏を頼む」との電話があり、その大物アーティストの名前が何とあの「Joe Maphis & Rose」夫妻だったのです。
 
前にも書きましたが、人との出会いも運の内だとつくづく思いました。Joe とはレコードジャケットで出会って居るので、今回のJoe夫妻のショーの伴奏の話はとても嬉しく、天にも昇る心地でありました。
 
私はJoeに会うために猛練習しました!そして、いよいよJoe Maphis & Rose夫妻との初対面!180センチ以上も有るような大男でカウボーイハットを被ったJoeを初めて見た時は一瞬息を呑みました。そしてあのWネックのMOSRITEを軽々と持ち私達に近づいて来た姿にはちょっと圧倒されました。
 
Joe夫妻の自己紹介から私達のバンドの自己紹介を済ませて、いよいよ彼とのリハーサルが始まりました。Joeの唄と彼のギターの間奏、Roseの唄とJoeのギター間奏、Roseはリズムギターを担当、素晴らしいストロークでリズムを刻みJoeを助けていました。唄の曲はアップテンポの曲が多くて、初めて聴くような曲もありましたが、殆どJoeが弾いてからのバトンタッチだったので、歌の伴奏に関しては、こちらはスチールとフィドルとエレキですから比較的に余裕がありました。
 
リバーサルが進んで彼がINSTの曲をセレクトし始めた時、私が恐る恐るあのJoeのレコードを見せて、「今日の為に貴方の曲を練習してきました」と言った所・・・Joe がビックリして、是非それを聴かせてくれとの事だったので、私はJoeの目の前で今まで練習して来たTown Hall Shuffleを一心不乱で弾きまくりました!
 
Joeは感激してくれて今回のショーは(W)Joe Maphisで行こうと言って自分のWネックのギターを私に持たせて、これでTown Hall Shuffleを弾きなさい!と言われて私はビックリ仰天!Wネックのずっしりとした重みと、MOSRITE特有のネックとフレットの感触に浸りながら暫く身体の武者震いが止まりませんでした。
 
気を取り直してTown Hall Shuffleを思いっ切り弾き始めたら、突如私の背中の上から負いかぶさってきて、訳が分からず戸惑っている私に、あのJoe Maphisが上のネックでバリバリ弾き始めたじゃないですか!
私は175センチJoe は180センチ以上の大男!
私はビックリして興奮の余り自分が何をして居るのか?分からないくらい気が転倒、何が何だか分からない内にINSTの曲が終わってしまいました。
 
Joeは一言、「今回のショーはこれで行こう」でした!
 
このJoe MaphisとのWネックギターショーは各駐留軍クラブで大受けで、アンコール、アンコールで何回弾いたか分かりません。Joeも大変喜んでくれて、「一度アメリカにいらっしゃい・・・アメリカでも二人で弾いたら絶対受けるよ!」と誘われたのがとても嬉しかったです。
 
その後、アメリカのシアトルで活躍しているエディ深野さんから頂いた手紙に、「先日、ベーカースフィールドのBUCK OWENS主催のチャリティショーで参加したJoe Maphisにあったら、”日本にもJoe Maphisが居たよ・・・と自慢げに当日の出演者達に話していたとの事で、そしてそれが瀬谷さんだったんでビックリ」とありました。
 
そしてエディ深野さんがJoeから貰ったファイルの中にJoe と私と二人で弾いている新聞記事の切り抜きがあったと云って私に送ってくれました。
 
Joeがアメリカに帰ってからも私の事を忘れずに二人で弾いた事を覚えていてくれた事が嬉しくて思わず涙してしまいました。
 
また、私の宝物が増えました。
 
私はChet AtkinsやJoe Maphisも含めて外国のアーティスト達の懐の深さをつくづく感じました。
 
このエッセイを今は亡きJoe Maphis & Rose夫妻に捧げます・・・合掌
 
 
 
 
(12) 進駐軍時代カントリー思い出話  瀬谷福太郎
(12) 進駐軍時代カントリー思い出話  瀬谷福太郎
写真:Victor SPX-1034日本のウエスタン歌手たち「進駐軍華やかなりし頃」というLPの「原画」より。
(管理人注:このイラストは見れば見るほどよく描かれているもんだと感心しきりです)
 
 
◆ 1960年代、当時私達の仕事場は、ジャズ喫茶(東京、京都、大阪、神戸)と各地で行なわれるコンサートや米軍基地内にあるアメリカ軍人専用クラブが中心でした。
 
新宿駅、東京駅、新橋駅辺りが進駐軍クラブへ行くバンドの待ち合わせ場所でした。新宿南口、今のルミネ辺りに荷物預けと云うか、飲み屋と云うか、飯やと云うか?汚い店屋がずらり並んでいました。
 
私達はそれぞれ贔屓の店があって、個々の楽器や荷物を預けてあるのです。(私設一時預かり所)
 
夕方になると進駐軍の軍用の大きいトラックが府中、三鷹、立川、横田、等からその日に出演するバンドやショーのメンバーをエスコートしに来るのです。
 
バンドの連中は店屋に預けてあった自分達の楽器や荷物を出してガヤガヤたむろしていると、プロダクションのマネージャーが今夜演奏するクラブのトラックに振り分けて次々と送り出して行くのです・・・。
 
夜の終電時間際になると各クラブで演奏が終わったバンドやショーガールズ達が今度は荷物や楽器を預けたりするのですが、進駐軍クラブでビールやウイスキーを飲んだり、帰りのトラックの中で飲んだりしていて、かなり出来上がっている人もいるから、それはそれは大騒ぎ、この南口の一角での夕方と夜の賑わいは派手でした。現在の新宿南口ルミネの辺りの綺麗さからは想像出来ません。
 
米軍のクラブは将兵の階級によって分かれており、兵隊、下士官、将校と大きく3分別されていて、エスコートが無い限り上階級のクラブには行けないようでした。当時は若い兵隊達が相当多かった様に思いました。
 
クラブに行くと、若い兵士達の数が多いので熱気ムンムンで賑やかで米軍クラブ独特の匂いが臭い!若いから体臭も強いし・・・、少年みたいな兵士も沢山いるし・・・、ここは日本ではなく・・・、これぞアメリカ!と云う感じでした。
 
当時、アメリカ本土からエンターティナー達が米軍基地の慰問に数多く来ておりました。これは前にも書きましたが、海外の米軍基地を慰問すると本国で税金の免除があったそうでカントリーだけでなく他のジャンルのアーティスト達も数多く来た様ですが私が知っているのはJohnny Cash,Anne Murray等です。
 
私はラッキーにも二人のショーを見ています。
Johnny Cash は後楽園ホールで、Anne Murrayは横田空軍基地の格納庫に大きいステージを作りそこでショーをやっていました。
 
 
 
 
(13) Tommy Collinsとの思い出  瀬谷福太郎
(13) Tommy Collinsとの思い出  瀬谷福太郎
写真:左から青木ぽんこつ、筆者、原田実、Tommy Collins、Wanda Collins
 
◆ 1965年頃、私の所属していたバンド、原田実とワゴンエースの当時専属ボーカルだった かまやつひろしがTommy Collinsの唄が好きでWhat' Cha Gonna Do NowやYou Oughta See Pickles Now等を好んで歌っていましたからTommyの曲には比較的馴染みがありました。
 
彼の曲は前奏と間奏とが派手に一体化して唄と楽器の掛け合いの様な曲が多く、好きな歌手の一人でした。
勿論あの歯切れの良いギターの音に興味がありまして、あの開放弦を多用したカントリーギター特有の細かい連続音を心地よく弾いていました。
 
Tommy Collins ショーの伴奏依頼を受けた時は嬉しかったです。なぜなら、かまやつさんの唄伴でTommy Collins曲はかなり知っていましたし自信がありました。改めてバンド全員でレコードを聴き直してサウンドの確認をタップリしました。
 
そのお蔭でショーの伴奏はバッチリ楽しく演奏出来ましたしTommy Collins も非常に喜んでくれました。そして自分が唄っている曲のバックをBuck Owensが弾いていた事等を教えてくれました・・・私にとって感激の一夜でした。
 
あの時期、Tommy Collinsがアメリカ軍基地の慰問だけで日本公演が無かった事が残念でなりません。殆どの日本のカントリーファンがTommy Collins が1965年に来日していた事を知らなかったので、来日した事を言うと皆ビックリしてあの時代のTommyのショーを見たかった!あの声が聴きたかったとの声が多かったです。
 
その後、Tommy Collinsは歌手を辞めて牧師になりましたが、残念な事に最後はアルコール中毒で亡くなったと聞いています。
 
 
 
ご冥福をお祈りいたします  合掌
 
(14) 進駐軍時代カントリーバンド苦労話  瀬谷福太郎
(14) 進駐軍時代カントリーバンド苦労話  瀬谷福太郎
写真:後列左から岩倉忠、★鈴木恒雄、★加瀬沢道夫、筆者、★原田実、前列左から井上高、関口良信、1959年頃の原田実とワゴンエースの写真です。
 
◆ 1960年頃、当時バンドはエレキベースが無い時代ですから、各バンドはウッドベースの運搬に頭を悩ませていました。
 
進駐軍の車が迎えに来る話は前々回に書きましたが、自分達で楽器の運搬をする時代になり、フルバンド等は自分達専用の運搬車で移動を始め、車を持っていないバンドは国電を利用しての移動です、これが大変で毎回ウッドベースは持ち込み票(有料)を楽器に付けてないと電車に載せてくれません。これが往復ですからベースプレイヤーの大きい負担でしたが、載せる事も大変でバンド全員が楽器を持って乗る訳ですから、毎回乗る場所は必ず楽器を置くスペースが有る先頭車両と決めていました。
 
昔の電車は車両ドアを入って直ぐの真ん中にポールが有ったので其処へ先ずウッドベースを縛り付ける、その他の楽器は一般のお客に邪魔にならない様に運転席のすぐ後ろの角の所に積み重ねる、そして自分達の座席を確保する! 毎回、これらの事をそれぞれ手分けしてやっていました。
 
目的の駅に着くと、楽器を降ろしてクラブからのエスコートの車に載せ替える、その間にベースプレイヤーは帰りの持ち込み票の手配、クラブに着くと又楽器の搬入・・・ステージのセッティング・・・、即衣装に着替えてから45分のステージを4回演奏するのです。
 
終わって楽器の片付け、搬出、エスコートの車に載せて最寄の駅へ・・・、又電車に楽器を運び、一路新宿へ!日雇い人夫並みの結構ハードな仕事でした。
 
ある時、バンドの移動にタクシーを利用した事がありました。楽器を全部載せて人間が5人、運転手さんを含めると計6名。当時は行く先を言って其処まで幾らで行くかと値段の交渉をし、タクシーは空車の表示にカバーを掛けて走ります。
 
いざ出発・・・、ところが走り出して30分位でバギッと云う音と何かを引き摺る音に運転手さんが外に出て見たら、車のシャフトが折れてしまっていました。その頃、携帯電話など有りませんから、公衆電話を探し、タクシー会社に電話して代わりのタクシーを呼ぶ手配はしましたがどのくらいで来るのか時間が読めない!私達は基地に入る時間が迫って来るので大騒ぎでしたが、たまたま走って来た同じ会社のタクシーに乗り換えて何とかクラブに入る時間には間に合いました。
 
当時、ルノーのタクシーも走っていて、普通のタクシーより値段がちょっと安かった事もあって私達はあの小さいルノーの車にウッドベースを入れてメンバー4人が乗る事をあたり前にやって居ました。超満杯で、一番下になったメンバーは長い時間圧し潰されて居るので、現地に着いたら暫くは起きられないという・・・今ではとても考えられない光景でした。
 
その内乗用車やワンボックスカーを各バンドが使い出して余り不便な事はなくなりましたが、基地ゲートの出入りが厳しくなり、乗用車等はトランクまで開けて厳しく調べるようになりました。
 
車を使う事により各バンドはメンバーの帰りのタクシー代倹約の為、自宅付近まで送る様になりました。しかし運転手を雇っているバンドは良いとして、当弱小バンドとしては、自分で運転して居ますから、全員を送って横浜の自宅へ帰ると朝の3時〜4時は当たり前でした。辛かったのは横須賀で仕事をして横浜を素通りして東京のメンバーを送り、又横浜に戻って来るのが一番きつかったです。
 
しかも当時は道路事情が悪く、どこの国道でも穴ぼこだらけ、日本車は車高が高いから良いが、アメ車のキャデラック等は車高が低いからボディを擦っちゃう、特に御殿場の米軍基地に行く道路はひどくて穴ぼこだらけ、ゴットンゴットン落ちるので喋って居ると舌を噛んでしまいそうで車のスピードが出せないのと、前に車があったら、砂が凄くて前が全く見えないので苦労しました。
 
<進駐軍で良い思いをした人の話>
当時、パスポートが無いと行けなかった外国・・・沖縄で、在る有名なミュージシャンが日本を発つ前にしっかり弟子達から注文を受け、自分達は沖縄の進駐軍クラブで仕事を終えて街に出て兵隊達が売った楽器類を纏めて買って持ち帰り(日本では手に入らない)それを売って大儲けして居た方も居ました。
 
1ドルが360円、今が1ドル90円台ですからドルの価値が全く違います。米軍基地の中で売っているタバコ、お酒等は街で売ると何倍にもなり、お酒は物によっては10倍以上もの高値で売れる物もありました。
 
バンドの人達は如何にしてお客の兵隊と友人になり、その兵隊に頼んでPX(基地内のマーケット)で酒やタバコ等を買って貰う事に懸命でした。しかし買って貰った場合でもゲートを出る時には買った人にエスコートして貰わないと盗んだ物として没収されてしまう事があります。
 
日本は平和でもアメリカ軍は絶えず軍事体制です。当時アメリカ本国から家族を日本に呼び寄せて基地の中の家族ハウスに住んで居る軍人も、戦争していた朝鮮、ベトナム、方面に派遣される事も有るのです。ところが余り長く留守にすると淋しくなった奥さん達が基地内のクラブに無難な?日本人をハントしに来ると云う話を聞いた事も有り、された人の話も聞いています。
 
もう一つ聞いた話で、基地の中のクラブで将校クラブとかサービス・クラブ等に時々素晴らしいギターや管楽器が置いてある事があったそうで・・・ケースに入った自分の安い楽器と良い楽器を入れ替えて持って帰ってきたと聞きました。当時日本では絶対に手に入らないレコードや楽譜等も随分あったそうです。
 
当時、基地の辺りの質屋には兵隊達の持ち込んだ楽器その他が色々あって、その頃は未だそのような物の価値を質屋の店主が良くわからないのでいい加減な値段で売っていました。 隅々質屋を覗いたジミー時田さんはラッキーにもある質屋からギブソンのスーパー400のギターを安く買ったと自慢していました!値段は?言えません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(15) 1960年代LONZO&OSCARとの苦い思い出  瀬谷福太郎
(15) 1960年代LONZO&OSCARとの苦い思い出  瀬谷福太郎
写真:1964年9月27日東京Grand Ole Opryに出演したLonzo&Oscar、左は筆者。(撮影:持田晃)
 
◆ 彼等はTokyo Grand Ole Opryにも出演して日本のカントリーファンにもお目見えしています。確か、米軍基地を慰問した後に、私達 原田実とワゴンエースと日本公演をしてから帰国したのだ!と思い出しました・・・と云うより、日本でのコンサートで彼らの伴奏をした事をすっかり忘れていて・・・、この写真の存在を今回持田さんが提供してくださる迄、全く知りませんでした。それも素晴らしいアングルで撮ってくださって感謝感激しています。
 
今までに書いてきました殆どのアーティストの方々には私達の伴奏を喜んで頂けたと思っています。そして自己満足かも知れませんが私なりに満足のゆく伴奏が出来たと自信を持っています。
 
しかし、一組だけ未だに私の胸の奥でいつまでも後悔している部分が残っているのが今回のLonzo& Oscarの二人組です。
 
これは私達が演奏を間違えたとかの話ではなく、最後まで息が合わなかったと言う言葉が一番合っていると思います。
 
彼等はGrand Ole Opryに出演しているベテランアーティストなのですが、シンガーでは無いので、Lonzo&Oscarの曲がラジオから流れることは殆どありません。普段私達が彼等の曲を聴くチャンスはありませんでしたが資料として受け取ったEPレコードを聴いた感じはブルーグラス調の曲で、決して難しい曲ではありませんでした。
 
前以てプロダクションから来たポスターとかレコードジャケットを見ていたので、我々のイメージではおどけてちょっとコミカルな感じの印象を持っていました。ところが横田米軍基地クラブでの本番の日、我々バンドの楽屋にスーツを着こなした立派な紳士が2名、楽器ケースを持ってヌーっと入って来た時はちょっとビックリ?
 
何方様ですか・・・と一瞬、声も出ないような雰囲気でした。
 
前以て彼等の曲は数曲ですがレコードで聴いて練習はしておきましたので、取りあえずお互いの自己紹介からリハーサルが始まりました・・・。
 
彼らは歌手ではないので歌う曲は数曲なので、全く問題ありません、しかし、その曲を何処でどうゆう風に歌うかはリハーサルでは表現出来ないのです。曲はレコードで聴いていても、ショーの流れやおしゃべりのテンポ、その掛け合い等は彼等が永年掛けて作り上げてきたものですから、ステージに上がってお客の前に出てはじめて生きる芸ですから楽屋での簡単な打ち合わせだけで判るようなものではありませんでした。
 
彼等はコメディアンというか、日本で云うと歌謡漫談とか〇〇ボーイズみたいに、面白おかしく話をしながら、合間、合間に歌を挟んで行くので、その間合いがピッタリ息が合わないと面白くないのです。
 
Lonzo&Oscarのショーはテンポの速いおしゃべりが中心で歌はオカズみたいなもので、その間合いがショーの命ですから大変難しかったです。
 
早口で訛りのある英語でペラペラやられて、突如歌いだす、突如プレイク、突如擬音を入れる・・・場内の兵隊達との掛け合い、ふざけ合い、がアドリブで入ってくるので、全くその間合いを計ることが出来ず、ただただ彼等の後を必死で付いて行くだけでした。
 
そして彼等はアコースティックギターとフラットマンドリンを持って、おしゃべりと歌が自由に出来るからマイペースでどんどん進めて行くので、私達はそのタイミングが最後まで判らずに終わってしまった苦い経験でした。
 
彼等とのショーが終わり楽屋に戻ってからの話でアメリカ本国のショーではバンドを使う事は殆ど無く、同じような仲間を増やしてショーをやる事が多いとの事でした。最近になってGrand Ole Opryに彼等が出演しているのを見ると、確かにウッドベースとかバンジョーが加わったりして居る・・・それを見ると、思い出し、アーやっぱりなー、これだったよなー・・・そうだったかー、あの時の苦い思い出が蘇って来る思いです。
 
私にとって唯一悔いの残る外タレショーだったのです。
 
 
 
 
 
 
(16) Les Paulを偲んで   瀬谷福太郎
(16) Les Paulを偲んで   瀬谷福太郎
写真:左からレス・ポール、チェット・アトキンス(レコードジャケットより)
 
◆管理人の鈴木経二さんに勧められて、このコーナーで四方山話しの執筆を始めて早いものでもう16話になりました。
 
このコーナーは色々な方達がご覧になっていらっしゃる様で、先日はアメリカに居るHANK佐々木さんからもメッセージがありました。大変嬉しい事です。
 
同じ世代の方も居られると思いますし、先輩もいらっしゃると思います・・・
前にも書きましたが人生何事も運!それぞれの巡り会いも運!別れる事も運!
何処で死ぬかも運!せめて生きて居る間、ギターを弾ける内は弾く!文章は書ける内は書く!そんな気持ちで頑張りたいと思っています。
 
この原稿を執筆中に鈴木さんからLES PAULの訃報が入りました。”94歳の大往生です”
 
そこで思い出しました。詳しい年代は忘れましたが・・・
1960年代のある日、米軍慰問の為に来日したLES PAULが横須賀海軍基地のEMクラブでショーをやると聞いて、日本人は入場出来ないので友人の水兵にエスコートを頼んでやっとクラブに入れてもらいショーを観る事が出来ましたが、あまりの観客の多さにビックリ!LES PAULの人気の凄さと、その偉大さを感じました。
 
クラブの中は水兵、海兵隊、民間人のアメリカ人達で超満杯。
最初のうちは後ろの方からチラリと観るだけで身動きも出来ませんでした。
しかもその熱気は凄く、1曲終わる事に大拍手、ピィピィ、ピィピィ物凄い騒音、1曲が終わり次の曲に入るまでの間がすごく長く感じました。
 
残念だったのはあのMARY FORDとは離婚した後で、彼女が居なかった事が大変寂しく、あのサウンドに一つ物足りなさを感じました。
 
名前は忘れましたが同行の女性シンガーにMARYの部分を唄わせておりましたがMARYのあの声は他の人では出せない・・・MARY fORDだけの声なのです。
 
LES PAULもMARYに出会って居なければあの一世を風靡したサウンドが生まれたかどうか?疑問だと私は思います。
 
メリー・フォードの本名はコリーン・サマーズで3人のコーラスグループで活躍していましたがある時ジーン・オートリーにレス・ポールを紹介され、その後メリー・ルーの愛称で呼ばれ、その後メリー・フォードと改名、レス・ポールと一緒に活動をする様になりました。
 
レス・ポールのあのサウンドは出来上がっていましたが、メリー・フォードの唄が加わった事でその人気は決定付けられました。
 
私はギター弾きですが、人間の声の力、声の魅力、その声の説得力はどんな楽器の名プレイヤーにも優る・・・と思っています。
 
1曲2曲はその音色、テクニック等で聴いている人に感動を与える事が出来ても楽器ではそれを持続する事は絶対に出来ないと思います。
 
歌は人間の声と、歌詞と、それを唄う人のテクニックと説得力、これが一体化した歌手にはどんなプレイヤーでもかなわないと思いますし、それがあのMARY FORDだと思います。
 
ショーの合間にアメリカ人観客の波をかいくぐり必死で何とかステージ側まで辿り着いたが其処まで・・・!!!
米軍の警備がめちゃ厳しくそれ以上は近寄れませんでした。
 
ステージ袖奥の所で洋服ダンスみたいに大きなアンプと云うかミキサーと云うかテープレコーダーと云うか、機材が一杯有って、其処へLES PAULのギターから太いコードがつながって居てLESが手元で操作をしながら演奏して居ました。
 
そしてあのレコードで聴いた音楽が目の前で、生で聴いて居る感覚は全く夢心地と云うか、口では言い表せない位の興奮状態で、どの音がテープ録音の音なのか、どの音が今弾いている生の音なのか?聴き分ける術も無く、初めて観るLES PAULの余りに凄いテクニックに圧倒されて感激と興奮で大声で叫ぶ水兵達に囲まれて、私は唯ボーゼンとして観て居るだけで痺れて声も出ないステージでした。
 
今年になって、彼の伝記映画を友人の浅沼勇さんと観ました・・・感激しました!
そして若い頃から憧れて居たあのLES PAULとMARY FORDが目の前のスクリーンに居ました。
 
初めてLES PAULのレコードを聴いた時もビックリ仰天!
どうしたらこんな弾き方が出来るのだろうと、日本中・・・世界中のギター弾きが思った事と思います。
 
私もそれ等の曲のメロディーを一生懸命コピーした頃の思い出、エコーマシンを使ってあのサウンドを真似した時代の事等が走馬灯の様に浮かんで来ました。
 
そして私は、LES PAUL、CHET ATKINS等の偉大なるアーティスト達と同時代に生きられた幸せをつくづく感じます。
 
Les PaulとChet Atkinsのご冥福をお祈りいたします。 合掌  瀬谷 福太郎
 
 
 
 
(17)Bob Morrisとの思い出  瀬谷福太郎
(17)Bob Morrisとの思い出  瀬谷福太郎
◆私は1プレイヤーとして運のよい事に駐留軍慰問の為に来日したカントリー・アート達を今迄に数多く伴奏してきました。
 
その方達の名前はJoe Maphis & Rose、"Little" Jimmy Dikens、Tom T. Hall、Moon Mullican、Tommy Collins、Lonzo & Oscar、Bob Morris (Buckarooの作曲者)等7組の方々です。
 
この中のTom T. Hallは当時ラジオのFENで「Water Melon Wine」の曲が流れていたのをはっきり記憶しています。私はこの曲のタイトルが印象的で何故か覚えて居ましたが、肝心な彼とのショーの内容がどうしても思い出せないのでここには書けません・・・。  残念です!
 
そして今回は私の最後のカントリーアーティストBob Morrisとの思い出を書いてみました。
 
今迄のアーティストたちのステージ写真は仲間達の誰かが来て写してくれた為に貴重な写真が残ったのですが、今回のBob Morrisのステージ写真が残念乍ら残って居りません。そこで友人の町内会のリーダーの樋口真一さんに相談してみました所・・・
樋口さんは確かBuck Owens Showの中で唄っていた映像を見た事が有るとの事で調べて貰いました・・・。先日、そのDVDを貸して貰い40数年振りに映像対面致しました! 今回はやっと見つけたその映像から写したBobの写真です。
 
あるプロダクションから今度米軍基地のクラブでカントリーショーが有って、Bob Morrisと云うカントリー・アーティストがゲストで来るので、そのバックの演奏をしてくれと頼まれました。あまり聞いた事の無い名前だったので良く調べて貰いました・・・。
そして、そのBob Morrisがカントリー・シンガーでも有り、あのBuckarooの作曲者である事が初めて判りました。
 
Backarooは私の好きな曲の一つです。
 
私は1965年に来日したChet Atkinsから「カントリーミュージックはアドリブはだめだよ、曲に合ったフェイクにしなければならない」と教えられて居りましたので、私はこの曲に私なりのフェイクを加えて演奏して居りました。
 
私は燃えました。私は私なりに改めて自分の演奏をしっかりと仕上げて、まだ見ぬアーティスト、Bob Morrisのショーの伴奏の為の練習に臨みました。
 
ショーの当日、米軍基地内のクラブの楽屋にフェンダー・ギターとフィドルのケースを堤げて、がっしりした体格の若くてハンサムなジェントルマンが人懐っこい笑顔を見せながら入って来ました・・・Bob Morrisとの初対面です。
 
あまりカントリー・アーティストの匂いがない、今迄来日したアーティスト達は皆ベテラン揃いだったので、今回のBobはその中で一番若い感じでした。
 
彼の歌にはビッグヒットは無いので、数曲のオリジナル曲とスタンダード・カントリーソングを唄うパターンです。
 
Bob は自分が歌う他にフィドルとエレキギターを弾くので、自分の唄う曲のイントロ、間奏は殆ど彼自身が弾いて呉れると云うので此方としては大助かりでした。
 
フィドル演奏曲ではOrange Blossom Special を、そしてギター演奏曲としてあのBuckarooを弾くと云う一人三役の大活躍のショーの内容でした。
 
アメリカのカントリー・プレイヤーでフィドルを弾く人が多いのには驚かされる。身近な処で「Joe Maphis、Jimmy Bryant、Don Rich、Merle Haggard」等の方々が居る。
 
簡単な打ち合わせとリハーサルが始まりました・・・先に書いた様にBobがギターやフィドルを弾いて、唄って、弾いて、バトンタッチで此方が間奏のお手伝いをする、と私等に取って非常に楽なパターンの流れでした。
 
肝心な曲「Buckaroo」の打ち合わせです。
最初のメロディーの16小節ギター(Bob)、サビ8小節スチール・ギター(原田)、メロ16小節ギター(Bob)、とこれが1コーラス目の流れです。2コーラス目は16小節の部分を(瀬谷)受け持ちです。そしてスチール・ギターがサビ8小節(原田)、Bobが最後のメロ16小節を弾いてENDの構成です。
 
当時Buckarooの人気は凄くて、曲が始まるとクラブの兵隊達は総立ちでギャアギャア、ピィー ピィーの大騒ぎ! そして、ソロの順番が私の番になり、私は自分の作ったフレーズを一生懸命弾き捲くりました・・・
 
アンコールも有って、ショーは大成功に終わり楽屋に戻ってからの話・・・
Bob Morrisが「さっき貴方が弾いて居たフレーズ良かったよ! どうやって弾くんだい?」の質問にびっくり・・・!
そして彼は「貴方のそのフレーズかっこ良くて好きだから私に教えてくれないか・・・そして、これからも使ってもいいかい?」の言葉にビックリと 感激!
 
アメリカの一流のプレイヤーが日本の1プレイヤーに云う言葉ですかね・・・
 
私はその懐の深さに改めて尊敬と感激を高めました。
 
 
(18)ジミー時田との思い出@  瀬谷福太郎
(18)ジミー時田との思い出@  瀬谷福太郎
写真はマウンテン・プレイボーイズ初期のLPカバー写真より、左端から松平直久、ジミー時田、G吉田、寺内武、宮城久弥、いかりや長介、の皆さんです。
 
◆<ジミー時田さん酒まみれの話>
私は今回の思い出話を書くに当たり、デビュー当時の話を昔からのジミーさんの仲間のジャイアント吉田さん(以後G吉田)から元気溌剌の話を、またベース奏者として一番信頼されていた辻田巌さんからは後半のジミーさんについて、お二人から私の知らない部分の話を沢山お聞きして大変参考になりました。
 
私とジミーさんとの初対面は1959年11月、有楽町の東京ヴィデオホールで「東京グランドオールオープリー」の第1回目のコンサートの時と記憶しています。ジミーさんのバンド、マウンテン・プレイボーイズは当時米軍キャンプの仕事が多く、私達の仕事場としていたジャズ喫茶にはあまり出演していませんでしたので、会えば楽しく話をする程度で、夜のお酒のお付き合いはありませんでした。
 
G吉田氏の話によるとジミーさんとの出会いは大学4年生くらいの時だったそうですが、マウンテン・プレイボーイズに参加したのは長さんの方が2ケ月位早く、長さんに誘われてバンドに参加したそうです。
ある時、米軍キャンプで演奏した時、対バンドになったロックバンド、クレージー・ウエストのバンドマスターだった寺内武さんが、なんと自分のバンドをほっぽり出してジミーさんのバンド、マウンテン・プレイボーイズのメンバーになったそうです。
 
その当時のジミーさんは酒を浴びるように呑んでいて本当に朝から晩までアルコールが切れたのを見たことがないそうです。
しかし、当時は体力もあって食べ物もしっかりと食べていたそうで、スタミナ料理等を残さずにバクバク食べていたそうです。
 
一般の酒飲みは日本酒が好きとか、ウイスキーが好きとか選り好みがありますがジミーさんの場合はアルコールならなんでもOK! と云う凄い酒豪家でした。呑み方も半端でなく、前の晩に散々呑んで、昼間のジャズ喫茶の始まる前にバンドボーイに酒を買ってこさせて、まず日本酒ニ合をペロリ、その後お客のおごり等で呑み続け、ワゴン車で行くようになるとジミーさんは缶詰が好きで、よく車の中で缶詰を肴に酒を呑み、米軍キャンプに着くと今度はバーボンをガブガブと呑みはじめ、不思議な事に呑む程に調子が良くなるので誰もとめない、但し呑む程に唄うテンポが速くなってしまうのが欠点だったそうで、そして「いつも遅れる・・・」と文句を云われた俺が被害者だった」とG吉田さんがぼやいていました。
アメリカ兵との呑み比べなどをやっても負けた事がない! プロレスラーみたいに身体のでかい兵隊と一晩呑み続けて殆ど相手がダウンしてしまったそうだ・・・。
こんな状態を毎日続ける訳ですから異常としか思えない! との事でした。
 
そのジミーさんでも時々寝てしまう事もあったようで、そうなっちゃうとどんな事をしても起きないので、米軍キャンプでの5回目のステージはジミーさん抜きで演奏したそうで、クラブのマネージャーも容認してくれたそうです。何れにしても余ほど肝臓や胃袋が丈夫だったんでしょうね?
 
そんなジミーさんでもハワイアンになるとそうは行かない。ハワイアンの方達は皆さん10歳位年上の大先輩、特にバッキー白片、大橋節夫さん等の方々と山口銀次さんには頭が上がらないとの事でした。何故かと云うとジミーさんが若い頃、一番最初に山口さんのバンドでハワイアンを唄ったそうで、当時、新宿ラセーヌ等のジャズ喫茶ではハワイアンバンドとよく対バンドになりましたが、たまたま山口さんのバンドと対バンドになるとジミーさんは大先輩の山口銀次さんの前では小さくなっていたそうで、いつものジミーさんではなくなったとの事。あのジミーさんでも頭の上がらない人がいたんですね?
 
私の記憶にあるのは、池袋のドラムと云うジャズ喫茶でジミーさんのマウンテン・プレイボーイズと私の所属していた原田実とワゴンエースが数回対バンドになった事があります。同じステージですから相手の演奏の時は客席にいて、お互いのバンドを見ていました。
<ジミーさんが真面目にカントリー>
当時からG吉田、寺内、長さん等のステージ上でのおふざけはやっていましたが、冗談は、やはり長さんが一番受けていました。長さんがウッドベースを弾きながらJambalayaを唄うと、G吉田さんが絡んだり、G吉田さんがBlue Moon Of Kentuckyを唄うと長さんが絡んだり、寺内さんが絡んだりとミニ・ドリフターズみたいな事をやっていましたが、長さんはリクエストしないとやらないので、客席にいる私達が囃し立てて応援してやっと唄うと云う演出で楽しかったです。
<長さんの伝説の話>
この話の出元は定かではないのですが、いつの間にか広まって事実のように業界で言い伝えられておりました。
ロカビリー全盛の頃に、私も参加していましたが、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎等オールスターで北海道巡業をした事がありました。その巡業の合間に、あるナイトクラブに出演していた人をスカウトして後日上京しなさいとの約束をしましたが、後日、上京して来たのは、その本人ではなく長さんだったと云う不思議な話です。
ところがG吉田さんの話によると長さんは静岡の清水の方でハワイアンをやっていた、その頃、一緒にやっていた人を知っている・・・との事でどうも北海道云々は誰かの作り話じゃないか?との結論になりました・・・。
ご本人は天国でクシャミをしているかもしれません。
 
ジミーさんはご存知の様に、大のHank Williamsファンで、Hankが29歳で亡くなっている事にすごく拘って・・・「自分も彼のように早死にするんだ」と変な思いが有ったようでした。酔っては口癖のように「俺は早く死ぬんだ・・・!」そのため酒を沢山呑み続ける事でHankのように若死にしたい・・・
 
何しろ「自分はHank Williamsの後を追うんだ!」との願望が強かったようですが、これだけは自分の思い通りにはならなかったですね。
 
当時のジミーさん位有名になると、何処の店に行ってもお金を請求する店はありませんので幾ら呑もうが食べようがお金は請求されません。この幾らでも呑めると云う事は制限が無いので、芸能界では「タダ酒は体に悪いよ、酒は自分の財布で呑め・・・」と言われています。
 
若い体力の有る時と同じペースで呑むと云う事は、人間誰しも年と共に体力が落ちて行くのに酒だけを若いときと同じペースで呑んだら当然身体に負担がかかる。そして後半になると食べる量は少しづつ少なくなってゆくのに呑む量だけは相変わらずなのでジミーさんの体力の心配がありました。
 
 
(19)ジミー時田との思い出A  瀬谷福太郎
(19)ジミー時田との思い出A  瀬谷福太郎
ジミーさんがニッコリした写真って珍しいですね。岡崎さんから提供していただきました。
 
 
◆今回はジミーさんの大ファンで高校生時代からACB(アシベ)等のジャズ喫茶の追っかけをしていて、段々親しくなり、ジミーさんの市ケ谷のフラワーマンションに何回も泊まった程の仲だったという、友人の岡崎和夫さんにいろいろと古いお話をして頂きました。
 
岡崎さんは几帳面にそれぞれの年代を書きとめてあったので前回私が書けなかった年代とヴィデオホール以前の事を少々書き足します。
 
高校生時代の事は富田さんがお書きになっていますので、皆さんご存知ですが、1952年青山学院高等部在学中に日本最初のウエスタンバンド、ウエスタンランブラーズに所属して米軍キャンプの仕事をやって居たんだそうです。
 
1955年、大学時代にハワイアン・バンドで1年間ギターの修行をする(前記の山口銀二さんのバンド等にお世話になる)
 
1967年、自分のバンド、Mountain Play Boy'sを結成する(前記、G吉田がジミーさんと知り合ったのもこの時期)
 
<面白い話>
ジミーさんが大学を卒業して、当時のパンアメリカン航空に就職しました。ところが夜はバンドの活動をしていて酒を呑み、朝寝坊して会社に出社、いつも外国人の上司から注意の連続、さすがのジミーさんも思い切って「退職願い届」を提出したら、なんと、その上司が「サンキュー」と言って退職届けを受け取ったそうです。
 
その後、メンバー(松平、宮城、いかりや、G吉田、寺内)が決り、Jimmie Tokita & Mountain Play Boy's バンドの活動が始まりました。
 
そしてジミーさんには良きお仲間が何人もいらっしゃいました。高校生時代の富田さん、大学時代の仲間、田中さん、前嶋さん、特に前嶋さんは早くにお亡くなりになりましたが、お母様がジミーさんを我が子の如く面倒をみて92歳でお亡くなりになるまでジミーさんのことは随分気にされて居たそうです。
 
マウンテンプレイボーイズの古いメンバー寺内さん(ブルージーンズ)、長さん(ドリフターズ)、G吉田(ドリフターズ〜ドンキーカルテット)等がそれぞれ独立して、若手のメンバーで第2期マウンテンプレイボーイズの活躍が、辻田巌、谷岡としお、名倉章等が中心に始まり、ジャズ喫茶等で演奏して居ました。その当時、辻田さんの話に依ると、ある時ジミーさんが突如アメリカに行くと言い出して急に行ってしまった!ので参ったとの話をしていました。
 
1967年〜69年の3年間、ジミーさんは渡米しました。当時31歳!ジミーさんは本場のカントリーの真髄と南部訛りを習得する為にと、ちょっと武者修行のつもりで行ったアメリカではユニオンに入っていないと仕事が出来ないので、早速ユニオンに入り、グリーンカードを取得して現地で音楽活動を始めたそうです。
 
最初はオハイオ州のエリー湖の近くで活動を始め、後にコロラド州デンバーで開催されたAnnual Country Music Festivalにおいて日本人アーティストとしての活躍を評価されC.M.A.から最優秀賞を受賞する。その後、ハンク・スノーやマック・ワイズマン等と仲良くなって一緒にコンサート等の仕事を始めたそうです。
 
テネシー州のナッシュビルに入りアーネスト・タブと知り合い、彼のレコードショップへ行った時に、たまたまラジオの生放送(Midnite Jumboree)があり、タブがジミーさんに、お前が歌えとギターを渡されましたが、大男のタブのストラップが長すぎてジミーさんの膝の方まで下がってしまうのでタブがジミーさんが歌っている間、ストラップを上から持ち続けたそうです。
 
日本に帰国後の1970年代後半頃から新宿コマ劇場の地下にウイッシュボンが開店、社長は「築地うえむら」の植村千秋さんで日本のカントリー・ウエスタンの為にご尽力いただきましたお店でした。最初は狭いお店でしたが、改装して大きくなり東京のカントリーミュージックのメッカとして有名になり、ジミーさんは毎週金曜日のレギュラー出演となり、「ジミー時田のカントリーナイト」の看板で頑張っていました。
 
ジミーさんは店に来ると先ずはカウンターへ一直線! そして「定食・・・」の一言。
出てきたショットを一気に呑み干し、又定食、定食を2〜3回がスタートで閉店するまで呑み続け、終わると外の一杯飲み屋で遅くまで呑み続ける、これがほとんど毎晩のように仕事で行った先で繰り返している訳ですから、よく肝臓が持つもんだと云う感じでした。
 
当時はテレビ、ラジオの仕事が多く、特に当時のラジオ関東の公開録音が多くて千葉方面のレストランとか、都内のイベント会場からと月に数回はどこかで公開録音の仕事がありました。ウイッシュボンでも公開録音が絶えずありましてジミーさんが司会とボーカルを担当した番組もありました。
あの頃のカントリー界は全盛で公録に当時一流の三橋美智也、水前寺清子などをゲストに迎えて必ずカントリーに挑戦させちゃう・・・なんて無茶なことを平気でやって居ましたね?因みに水前寺清子さんには思い出のグリーングラスを、三橋美智也さんには持ち歌をカントリー風に唄って貰う、そして三味線でフォスター・メドレーを弾かせる・・・!なんて事が出来た時代だったのです。(勿論、ラジオ電波の力のお蔭ですが)
其の頃は巷ではフォークソングが流行っていて、なぎら健壱さんがウイッシュボンに出演のジミーさんの所に来ては「永遠の絆」の替え歌を唄わせてもらいに来ていました。そしてお酒が好きなジミーさんとは気が合って酒飲み交友は続きました。
 
ここでジミーさんを語るには欠かす事の出来ない方、加賀まりこさんのお兄さんの加賀祥夫さんからMr.ジェームス当時の貴重なお話を頂きました。
<Mr.ジェームス時代>
1974年頃に女優加賀まりこさんの兄の加賀祥夫さんがロンドンから拾って来たと云う名称「ライブハウス」を六本木に創りました。当時はジャズ喫茶と称する店しか日本に無いじだいに画期的デビューでした・・・。
しかも場所は六本木のど真ん中の交差点の角地・・・、一等地です!
演奏はカントリー・ウエスタンとデキシーランド・ジャズが中心のお店でした。そこで加賀さんは親しい友人のジミー時田さんに出演をお願いしました。お店の名前はMr.ジェームス、ピッタリな名前です。
そしてデキシーは薗田憲一さんにお願いして華やかなデビューでした。
 
ジミーさんは、長さん、寺さん等と別れた後だったので、比較的自由に・・・楽な時間にMr.ジェームスに出演して、しかも加賀さんと自分の共同経営の店のように宣伝して、振舞って居ましたので外部の人は、ジミーさんのお店・・・だと思って居た人も多かったようです。
 
其の頃にジミーさんが知り合った女優の宮地晴子さんを加賀さんに紹介した所、偶然にも映画プロデューサーだったお父様と仕事上でのお付き合いが有った方と云う事で、加賀さんが自分の父親に頼んで仲人になってもらいジミー時田と宮地晴子は結婚しました。
 
以前ジミーさんは自分の母親と前妻との息子と笹塚に住んでいましたが、その後、一人で市ヶ谷フラワーマンションに住んで居りましたの宮地晴子さんと結婚してもそのまま市ヶ谷のフラワーマンションで新生活のスタートでした。晴子さんは面白い方で、当時いつも私が電話を掛けては、おはようございます「瀬谷と申しますが、ジミーさん居りますか・・・」と毎回言うもので、晴子さんはこの「申しますが」の言葉が面白いと云って、私の事を「申しますがの人」とニックネームで呼んでいました。
 
奥さんの晴子さんは業界でも有名な酒豪だったのでジミーさんとは、よく二人であちこちのお店に行ってはベロベロニなって居たことがあったようで、酒飲みおしどり夫婦だったようでした。その後もジミーさんはMr.ジェームスに出演しておりましたが、奥さんの宮地さんと加賀さんとの意見の食い違いが大きくなって約2年くらいでお店の主役は寺本圭一さんとバトンタッチになりました。
 
 
 
 
 
 
 
(20)ジミー時田との思い出B  瀬谷福太郎
(20)ジミー時田との思い出B  瀬谷福太郎
写真:2番目の奥さん、宮地晴子さんと新婚旅行を兼ねてアメリカ音楽の旅の途中スナップ。
 
◆1977年、第6回インターナショナル・カントリー・ミュージック・ファンフェアーへのジミーさんの出演が決まりました。
ナッシュビル市とCMAの共同開催で行われるカントリーミュージックのお祭りです。
 
世界各国、オランダ、オーストラリア、ベルギー、カナダ、日本からの参加者です。6月6日から一週間の開催で、ジミーさんは11日のハイライトに出演する予定です。
 
ジミーさんは宮地晴子さんとの新婚旅行をしていなかった為、今回はそれを兼ねて二人でアメリカへ行く事になり、5月末に日本を出発致しました。
 
当日、ショーの司会者はあのチャーリー・プライドです。旅の疲れからか前日は風邪気味だったジミーさん、当日は多少緊張気味だったが、顔色も良く、よいステージを望めそうに感じた。ジミーさんはMississippi Delta Bluesから歌い出した。小柄な日本人が思いもよらぬスタンダード曲(それまでの出演者は割合新しい曲を歌っていた)を歌いだしたので、観客は大喜びして拍手があちこちで起きた。
そして、Love Sick Blues, A Fool Such As I, と歌いつぐと観客は大喜びして大拍手、最後はSupper Timeで締めた。 アンコールにはNight Train To Menphisを歌ったので、またまた大好評でショーは大成功だった・・・。とは真保孝さんの現地レポートからでした。
 
その後、念願のGrand Ole Opryにも出演して無事帰国いたしました。
 
その帰国記念リサイタルを同じ年の7月8日に新橋のヤクルトホールで開催しました。司会は土居まさる、出演はジミー時田、宮前ユキ、杉はじめ&ホームタウナーズ、日吉武(ピアノ、アコーディオン)、宮城久弥(フィドル)、名倉あきら(バンジョー、Aギター)、辻田巌(ベース)、瀬谷福太郎(Eギター、Aギター)、主催(株)マサ・ウイッシュボン・エンタープライズ
 
当日のヤクルトホールは観客で超満員!ジミー時田の第6回インターナショナル・カントリー・ミュージック・ファンフェアー出演とGrand Ole Opry出演を大勢のカントリーファンが祝福しました。
 
ジミーさんはファン・フェアー出演のエピソード、Grand Ole Opry出演の話などを少し照れながら観客に報告、その後宮前ユキとのデュエットを含めて数十曲歌いまくりました。 リサイタルは大成功でした!
 
主な曲目は
・Thanks A Lot
・The Cowboy's Dream
・Mississippi Delta Blues
・I'm Moving On
・Lovesick Blues
・The Sanantonio Rose
・Walking The Floor Over You
・Old Shep                
・Sunny Side Of The Mountain
・Supper Time
・Blues Come Around
・Where Could I Go
・Jackson    その他
 
宮地晴子さんは芸能界出身ですから業界の事を良く知って居るのでジミーさんの仕事の事とか、ギャラの事とか、もろもろに口を出してはジミーさんと随分とぶつかって居たと聞いています。ある時、晴子さんが家出してしまいジミーさんが一人でマンションに住んで居た頃に風邪でダウン!誰も居ないので食事もしていないと友人で司会者の水野可子さんから連絡が有りました。私はとりあえず食事の支度だけでもと思い、可子さんと二人でマンションに駆けつけました。そして、熱があって食欲が無いと言うので、おかゆを作って食べさせた事が思い出にあります。
 
ジミーさんは酒、缶詰、ミリタリールック(アメリカの軍人から譲ってもらったという迷彩服上下、靴)等が大好きで自分の部屋には一杯で、それにギターとモデルガンとあって足の踏み場も無いようでした。
 
普段、プライベートの外出は上から下までミリタリールックの衣装が定番、マンションの目の前が市ヶ谷の自衛隊駐屯地ですから間違えてそちらに入っても不思議ではないようなスタイルでした。
この辺りからだんだん食べなくなって来て、呑むのは相変わらずだったので、だんだん体力が少しづつ落ちて来た感じでした。
 
この頃、ウイッシュボンに出演する若いバンドも増えてきました。若いバンドにたまたまジミーさんの伴奏をお願いすると、普段、自分たちの演奏はすばらしいのにジミーさんの伴奏となると変に萎縮しちゃって、いつものサウンドが出なくなってしまうのです・・・。ところがジミーさんは神経質で自分の気に入らないテンポやコード進行だと、途中で止めてしまいます!そうなるとバンドは余計ガチガチになってしまいますから私が適当に潤滑油になっていました。
(21)ジミー時田との思い出C  瀬谷福太郎
(21)ジミー時田との思い出C  瀬谷福太郎
写真: 東京・中野にあるウエスタン居酒屋HEE-HAWの店内で、ジミーさんからインディアン小娘の飾りをしてもらっている淑子さん。
(石川マキさん、写真を使用させていただきありがとうございます)
 
◆1981年、ジミーさんは45歳で淑子さんと再々婚しました。ところが前の奥さん宮地晴子さんに瓜二つの容姿に、離婚した事を知らない人は宮地さんだと思って挨拶をするのでジミーさんが慌てて改めて新しい奥さんだと紹介するなどしていましたが、本当に皆さんが戸惑ってしまう位い良く似て居ました。
 
淑子さんと結婚したジミーさんは阿佐ヶ谷の住人になりました。奥さんの淑子さんはジミーさんの飲酒を少しでも止めさせようと努力していたそうで、はじめの頃は一緒に呑んで、私が先に酔っちゃえばジミーは心配してそんなに呑まないのではと思って居たが最初だけで、だんだん通用しなくなってしまったそうです。酒を止めさせようと鍵を掛けてしまった事もあったようですが、ジミーさんは奥さんの目の届かない所で隠れて呑んで居たようです。
 
お酒はゆっくり呑めば、それ程身体には害は無いと思いますが、ジミーさんは奥さんに隠れて呑むから見えない所で一気に呑んでしまう。ライブハウス等に行ってもカウンターの陰とかで、奥さんからちょっと見えない所でストレートを一気に呑んでしまう・・・ この繰り返しですから身体の為には良く無かったと思います。(当時の仲間が皆証言しています)
 
ジミーさんは悪い癖が有って、当時夜中に外で飲んで居て酔っ払ったジミーさんが、全く知らない人と知り合って、その人を連れて帰って来て自宅で酒盛りして、泊めてあげて、帰ったあとにあの人誰・・・と聞くと全く知らない人で、その辺の浮浪者みたいな人も居たようで?奥さんが困っていました。
 
私は一度阿佐ヶ谷のジミーさんの自宅にお邪魔して奥さんを交えて3人でお酒の件で相談しに行った事がありました。
ジミーさんには好きな酒だから止めろとは言わないから、ストレートだけは呑まないで、せめて水割りか、ビールで我慢して自分の身体の事を考えよう・・・ と話し合いました。ジミーさんも「分かった!これからは約束を守る」といってくれました。いつも私の前では「瀬谷さん、約束守って居るよ!」とグラスを見せて居ました。
 
テレビのクイズ番組「音楽は世界だ」の収録の日に奥さん(淑子さん)と相談して、今日はクイズ番組でもあるし、内容がジミーさんを中心の大事な収録だから、今日は終るまでアルコール抜きにしましょうと決めてはみたものの、楽屋では全く死んでいる感じ! リハーサルでスタジオに入って打ち合わせをしても、いつものジミーさんじゃない・・・。 とうとう司会者のタモリさんが、 ジミーさん!今日は一体どうしちゃったの?まるで借りてきた猫みたいな感じじゃないの・・・ 頑張ってよ!
慌てて、急遽 奥さんに頼んでビールを買ってきてもらいました・・・。
 
アルコールが一発入ると別人で、司会者のタモリさんもその変身ぶりには呆れて居ました。ジミーさんは何時もの通りお酒を呑み続けて無事収録が終りましたが、それからはどんな時でもジミーさんにお酒を止めさせる事が出来なくなりました。
 
ある時、一緒に地方の演奏旅行に行き、演奏の仕事が終わり、数人でボトルワインとギターを持って別室で二次会! チビリ、チビリワインを呑みながらギターの弾き語り・・・普段でも呑んでれば一晩中平気でギターを弾いて唄っているジミーさん・・・ 時間が経つ程に調子が乗ってきて絶好調・・・、ジミーさん曰く、「俺は酒さえ有れば何時間でも平気だよ!」さすがに私はステージの疲れもあってお先に失礼しましたが、翌日、従業員に聞くと朝まで唄って居たそうです。
 
ジミーさんは元々体力が有った人だと思いますが、後半のジミーさんは物を食べないで、お酒、お酒だけですから・・・ せめてもう少し食事を食べていたら、もっと長生き出来たのではないかと思いました。
(22)ジミー時田との思い出D  瀬谷福太郎
(22)ジミー時田との思い出D  瀬谷福太郎
写真:左から辻田巌、日吉武、ジミー時田、筆者。(新宿・ウイッシュボンにて)
 
◆話を少し戻しますが、ジミーさんの最後のレコーディングの思い出話を書きます。
1977年頃、ジミーさんから、このレコード制作に自分の最後の命を賭ける気持ちで作りたいから瀬谷さん協力してくれないか・・・ と相談をうけました。
それならジミーさんが今一番信頼しているメンバーを集めましょうと提案し、そして呼びかけて集めたメンバーが、ベース辻田巌、バンジョー・ハーモニカ・Aギター名倉章、ピアノ日吉武、フィドル宮城久弥、Aギター瀬谷福太郎、カントリーバンドにホームタウナーズ、ブルーグラスバンドはウイッシュボンブラザーズ、と当時ジミーさんが音楽仲間として一番信頼していたメンバー達が集まりました。
当時、新宿歌舞伎町のコマ劇場の地下にあったウイッシュボンにはレギュラーの他にラジオの公開録音があったり何だかんだと週に数回出演していましたので、選曲には随分頭を悩ませましたが、リクエストの多い曲をセレクトの対象にしました。
但し、サウンドに関しては自分たちの音にこだわりを持とう、特にカウボーイソングに関しては思いっきり個性の有るサウンドにしょうと話し合いました。
 
ご存知の方も多いと思いますが、こだわりのジミーサウンドにはドラムが無いのです!これは1950年代のカントリーはドラムを使ってはいけなかったのです!勿論、あのハンク・ウイリアムスのサウンドにもドラムはありません。ウッドベースとEギターのミュートした低音でリズムを出していました。
 
確かな理由は分かりませんが、アメリカ開拓時代にイギリス移民たちが伝えてきた諸々の民間伝承の中でイギリス伝承の音楽から変化して類似のアメリカ生まれの歌や音楽が作り出されて来た訳ですから、当時ドラムは異物の楽器としてカントリー界では認めなかったのではないか?と思います。その代りと云うかバンジョーやギターがリズム楽器としてデキシーやカントリーで活躍していました。あのGrand Ole Opryでもドラムは使ってはいけなかったのです。
余談ですが、当時横須賀の基地内にあったEMクラブのカントリーバンドのステージでもドラムは絶対使用禁止でした。
 
カントリーで最初にドラムを使ったのはあのE・プレスリー、スネヤドラムたけで、ウッドベースのスナッピングであのロカビリー・サウンドを出していました。こだわりのジミーさんは他の全部のバンドがドラムを使って居ても自分のバンドはフィドルの谷岡さんにスネヤを叩かせて居た時代がありました。
 
ジミーさんはカントリーもブルーグラスも好きですが、今回のレコーディングで一番にこだわりを持って選曲したのはカウボーイソングだったと思います。
普段のステージではカウボーイソングを歌う時は殆ど一人で弾き語り的な感じでバンドは音を出さずに休んで居ると云うか、弾かせない状態でした。
 
今回は自分が本当に納得するサウンドを求めて居ましたので、まずジミーさんが一番気持ちよく唄えるキーとテンポで1コーラス歌って貰う・・・、そしてその歌にたいしてイントロ、間奏、バッキング、エンディング等は各プレイヤーがそれぞれヘッドアレンジで作って行く、ジミーさんがその時その時にOKを出しながら1曲1曲丹念にまとめて行きましたので普通のレコーディングよりタップリ時間が掛かりました。
 
ジミーさんは出来上がった音に今度は自分でハーモニーをつける録音があるので本当に命を賭けると言ったのは嘘ではなく、それはそれは大変なレコーディングでした。後にあんなに音楽に真剣に取り組んだのは生まれて初めてだ!と言って居ました。
 
普通、営業ベースのレコーディングですとレコードが売れるためにの営業戦略で諸々を決めての制作でしたから、今回のようにジミーさんのやりたい放題?のレコーディングは今迄聞いた事がありません。キングレコードがジミーさんの今までの貢献度のお返しご褒美として最後のプレゼントをしたのだと思います。
 
カントリー、ブルーグラス、カウボーイソング、2枚組レコード「アメリカの魂」ジミーさん最後のレコード「JIMMIE TOKITA  & THE GANG」が出来ました。
(23)ジミー時田との思い出E  瀬谷福太郎
(23)ジミー時田との思い出E  瀬谷福太郎
写真:若い!ジミーさんのブロマイドから。(ブロマイドを提供いただい岡崎さん、ありがとうございました。)
 
◆ジミーさんは1982年に胸膜炎で入院しました。ジミーさんの入院はこの回を含めて3回だと思っていましたが、G吉田氏によると検査入院を含めて5回は入院しているので、その度にお見舞いが大変だったとのことでした。
 
当時、私が住んでいたのが南麻布で近くに広尾病院がありました。内科の先生が井上高さんのバンドでベースを弾いていた森田さんだった関係でカントリーの仲間たちは私を含めてかなり広尾病院にお世話になる人が多かったです。
 
住吉尚さん、鈴木恒雄さん、ジミー時田さん、などが常連で、あるときは病室が違うだけでお見舞いが一度で済んでしまう便利な事もありました。酒好きだった住吉さんとジミーさんは夜になると病院を抜け出して一杯呑みに行った事もあったそうです。
 
森田先生に一度ジミーさんの容態を聞いた事がありますが、なぜかジミーさんの肝臓は丈夫で、ちょっと治療するとすぐ良くなって元気になってしまうので本人が余り自覚が無くて困るんだ!と云っていました。この調子で広尾病院の入退院の繰り返しでした。
 
1986年 最後のマウンテンプレイボーイズを結成。
1988年 渋谷じゃんじゃん(ジミー時田、ハンク・ウイリアムスを歌う)
1989年 東京勤労福祉会館(ジミー時田のカントリーナイト)
1990年 カザルスホール(ジミー時田のカントリーナイト)
1992年 読売ホール(ジミー時田のカントリーナイト)
1992年 三越劇場(Tokyo Grand Ole Opry)
     「A Tribute to Hank Williams」
     ゲスト
     ・ジョニー三田ひろし
     ・ケイコ・ウォーカー
     ・レックス・アンヘルツ
     ・ラトルスネーク・アニー  他
このコンサートのハイライト「Hank Williams」のコーナーではとんでもないことが起きました。
ジミーさんのカウントでスタートした曲のスチールギターのテンポが気に入らないとして途中で止め、新たにテンポを取り直してスタートし直したのです。これには皆びっくり・・・ライブハウスならともかく、コンサートでスタートした曲を止める例は余り聞いた事はなく、本番では多少のテンポの違いは我慢するのが定番!当日のお客さんは滅多に見られないステージショーを見た事になりました。
この時の映像が残っていまして、先日映像を見せた所、本人はしっかり覚えていて「この時の屈辱は未だに忘れられない」と言って居りました。
1997年 読売ホール(ジミー時田のカントリーナイト)
1997年 サントリー小ホール(音楽同窓会)
      第1夜 ジャズ(雪村イヅミ、ウイリー沖山、原信夫と♯ & ♭
      第2夜 デキシーランドジャズ(薗田憲一とデキシーキングス)
      第3夜 ラテン(有馬徹 ノーチェ・クバーナ)
      第4夜 カントリー(ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ)
      第5夜 ハワイアン 大橋節夫とハニー・アイランダース)
この様な豪華なメンバーでのスペシャル・コンサートがありました。
この時のコンサートはマウンテン・プレイボーイズに私がリズムギターで参加、そして寺内タケシが飛び入り参加してステージを盛り上げてくれました。何とパンフレットにも載せない予告無しの突如の参加です。
2日前の朝、ジミーさんから「寺内が今回のコンサートに参加したいと連絡が入ったので何とか調整をよろしくお願いします」との事でした。突然の話だったのでホール側の担当者も驚いて急遽会議を開き検討しましたが、寺内タケシの知名度からしてマイナスにはならないだろう・・との結論でOK! 当日の午後から始まったリハーサルには寺内さんも参加してくれまして、懐かしいあの当時のコンビ復活の感がありました。
一部のステージが始まります。最初のステージは寺内さんの紹介は無く、カウボーイハットを深めに被り下手ステージの端の辺りで椅子に腰掛け小さい身体をより小さくしておとなしく演奏をしておりました。(時々デッパリますが)
最初、お客さんは全く分からなかったのですが、あの独特のパフォーマンスを観ているうちに、数人の寺内ファンは・・・アレ!もしかして?みたいな雰囲気でした。
次のステージになり改めて寺内さんを紹介したら、お客さんはビックリ!して大喜びでした。公のステージでジミーさんと寺内さんの一緒の演奏は久しぶりだったと思います。寺内さんのあの独特のおしゃべりでジミーさんとのやり取りの面白さ・・・。そしてあの名曲ジャニーギターでのジミーさんの唄を絶妙に邪魔する寺内さんのギターとの絡み合いの面白さ・・・、往年のマウンテン・プレイボーイズを彷彿とさせるようで、寺内さんも、またファンにとっても思い出深いコンサートだったと思います。
 
後日、この日の記録VTRを寺内さんにさしあげたら大変に喜ばれておりました。
 
一部の主な曲目
・Thanks A Lot
・Back In The Saddle Again
・San Antonio Rose
・A Fool Such As I
・Blue Shadows On The Trail
・Slow Pork
・Tennessee Waltz
・Riders In The Sky
・Cowboy Dream
・Green,Green Grass of Home
・Mansion On the Hill
・Jambalaya
・Hey Good Lookin 他
 
1998年椿山荘主催のカントリ・ミュージック・フェスティバルに最後の出演となった時の事です。ディナーショーでジミーさんの出番の時でした。メインステージからサブステージへ下りるのに足元が危ないので私がジミーさんに手を貸し三段位の階段を降りたことがありました。しかし、その支えたジミーさんの身体!に愕然としました・・・
余りに痩せてしまったジミーさんの身体の骨と皮だらけだった手の感触を未だにはっきりと覚えていて忘れる事が出来ません!
 
その後は相変わらず食事は余り食べずに呑みつづけ、前にもかきましたがジミーさんから酒代を取る店はありませんからどうしても底なしに呑んでしまうのです。
 
誰もジミーさんの酒を止めさせる事はできませんでした。
 
2000年2月 銀座ナッシュビルのライブ後、荻窪病院へ入院する
 
2000年3月10日AM7:35 63歳で永眠する。  合掌
 
今回のジミーさんの思い出話を書くにあたりG吉田さん、辻田巌さん、岡崎和夫さん等のご協力をいただきました。改めて紙面を借りてお礼を申し上げます。
 
ありがとうございました。
(24)私とギターと人との出会(1)  瀬谷福太郎
(24)私とギターと人との出会(1)  瀬谷福太郎
写真:右から筆者、兄貴、友人たち、1950年 横浜・キャバレー新世界にて
 
◆子供の頃、なぜか家にギターがあったのを記憶して居ましたが、それがどんな種類のギターかの興味も無く、全く知りませんでした。
そのギターが古賀ギターだと聞いたのは暫く後で兄から聞いてはじめてしりました。
私が出会った最初のギターでしたが、触りもしないのでホコリを被っていました。
 
私より7歳年上の兄は横浜市磯子区の岡村町と云う所に住んでいて、近所の魚屋の加藤さんと知り合いになり、娘の加藤和枝ちゃんの歌が余りに上手いので当時「美空和枝」と云う芸名で、歌手として、近所の夏祭り等で歌っていたそうです。
それが往年のあの「美空ひばり」さんだったのです!
 
1945年頃、彼女の父親がミソラ楽団と云うバンドを作って横須賀海兵団などで歌うので美空和枝の名前は近隣、近郊で評判だった・・・と云うのを後になって知りました。(私の兄はそのバンドでドラムを叩いて居たそうです)
 
その頃は、近所の魚屋の娘だか何だか知らないけど一緒にバンドなんかをやっているヤクザな兄貴・・・(母が口癖で言っていた)位にしか思っていませんから、あまり詳しい事は聞いていませんでした。
 
母親が口癖で言う「ヤクザな兄貴」を私も白い眼で見ていたのかも知れません・・・。まさか、自分もその後を追ってミュージシャンになるとは当時思っても居なかったので、全く興味が無く余り聞きもしませんでした。(今、考えてみると惜しい事をしました)
 
当時、私の周りの人たちはちょっと派手目な服装というか、雰囲気は違うような・・・とは思ってはいましたし、今考えると、私の派手目の感覚は兄貴から引き継いだものかも知れない?と今思いました・・・。
 
当時、母親はあまり家に帰って来ない兄に、外で何をやっているかわからないけど、訳の分からない、ヤクザな事をやっているね・・・とこぼしていました。(当時は絵描き、音楽家、作家、水商売、特にバンド等をやる事は堅気の人がみると「ヤクザ」な事だったのです。
 
私も、ヤクザな兄貴の真似だけはしたくない・・・と、思っていました。
 
小学生の頃に、同級生で教室にギターを持ってきて、中指一本でメロディーを器用に弾く生徒がおりました。ギターを弾くのをはじめて見た私は、ヘエー、ギターってこうやってひくんだ?と思い、そしてその子がクラスの人気者になっているのをうらやましく見ていました。
 
家に帰り、見よう見まねで弾いてみたら、兄がそんな弾き方したら駄目だと教えてくれたのが田端義夫さんの歌う「愛の小窓」と云う曲でした。そして、はじめてギターは左指全部を使って弾くのだ・・・と云うことが分かりました。
 
ポッツリ、ポッツリ、ギターを弾き始めた頃に歌謡曲で古賀メロディが流行った時代がありました。そしてあの近江俊郎さんの歌う「湯の街エレジー」が大ヒット・・・当時、ラジオから流れてくる音楽が朝から晩まで、湯の街エレジーばかり・・・。
 
仲間の前でギターを弾いても湯の街エレジーが弾けなければ相手にされない。
 
私の人生の方向を変えさせた運命の曲「湯の街エレジー」
そこで私も楽器屋さんに行って湯の街エレジーの楽譜を買いました。
そこが素人の馬鹿さ加減!楽譜があれば即弾けると思ったら大きな間違い・・・
メロディーと歌詞はラジオで聴いていたので、何とか分かりましたが、肝心のギターの伴奏の音符が全く分かりませんでした。
兄に相談したら、この本をみて勉強しなさい、とカルカッシ教則本なる物をくれました。
 
何でそんなにギターを弾く事にこだわったかと云うと・・・当時モテる第一要素は「ギターが弾ける!そして曲は湯の街エレジーが弾ける!そして歌える!
兄から貰った教則本で音符を一生懸命覚えて、勉強してやっと湯の街エレジーが弾けるようになりました。
音楽の楽しさみたいな物を心に感じました!
そして私は知らずしらず母親が一番嫌っていた「やくざな世界」へ一歩一歩めり込んで行って居る事に気付きませんでした。
 
所が、ここで私の人生を決めかねないハプニングがあったのです・・・!
ある日、私が一生懸命ギターを練習して湯の街エレジーの前奏を弾いて歌に入って行くと、傍らで縫い物をしながら私の唄を聞いていた母が「福太郎、お前のそのドラム缶を叩くようなダミ声じゃ女の子たちが皆逃げちゃうよ!」なんと残酷な母の言葉・・・、その母の一言で私の未来の・・・シンガーへの夢と希望は断たれてしまいました。
 
戦後、日本の洋楽はハワイアンとジャズ、タンゴ位しかありませんでした。
私も当時の若者として、ハワイアン音楽に魅力を感じて、絶対反対する母親に、良い子になります、勉強も一生懸命やります、買ってくれればアルバイトして少しづつかえす等、勝手に並べ立てて強引に口説き落として、やっと買って貰ったギターが日本製のNardanと云うfホールのジャズギターでした。
その頃はクラシックギター、古賀ギターとfホールのギターだけしか無くてその奏法がジャズプレイヤーがピックで弾く事がオオイので、ジャズギターともピックギターとも云う。
ギターのケースは高いので買わずに唐草模様の風呂敷に包んで、大事に抱えて移動して居ましたが、ある時バスのステップを降りる時に思わず蹴飛ばしてfホールの角が欠けてしまいました・・・。苦い思い出です。
 
兄貴の近所の仲間たちとはじめたハワイアンバンドで私はリズムギターだけ(母の言いつけとおり)で土地のお祭りのアトラクションなどをやって、バンドの腕を上げてキャバレー専属のダンスバンドになる事ができました。
当時のキャバレーは必ずバンドが2本で、1本はフルバンド、1本はハワイアンバンドかジャズコンボ・バンドでしたから、かなり需要がありましたので、学校の勉強と自分のギターの勉強!同時に兄の薦めで時々タンゴバンドのギターを弾きに行ったりして勉強させてもらっていましたから、その忙しさは大変なものでした。
 
私も段々に音楽が好きになってしまったようです。
(25)私とギターと人との出会い(2) 瀬谷福太郎
(25)私とギターと人との出会い(2) 瀬谷福太郎
(このジャケットを1965年に来日したChetに見せた所、大変喜んで、早速サインを書き入れてくれました!)
 
◆当時の私は学生仲間とはあまり付き合わずに7才年上の兄貴の仲間との付き合いが殆どで、大人たちの世界への憧れと云うか、随分と背伸びをしていたと思います。
 
学生なのに髪を長くして、夜になると背広を着て、髪にはポマードべったりのリーゼントで出かける・・・、そして3〜4才多めの年になりきり、大人の世界に仲間入りしたような気持ちでいました!傍から見たら、母親の口癖だったヤクザナ奴になってたのかもしれません。
 
一生懸命練習して腕を磨いて、バンドの仲間達にも励まされて、少しづつ上達して来たので自分では音楽の世界へ一人前に足を踏み入れたような錯覚の日々でした・・
 
そして母から買って貰ったギターのお金を少しでも返そう、次にもっと良いギターを買いたい!と思いアルバイトをする事を思いつきました。いろいろと探しましたが、思い通りにならず近所の町工場のプレス工の仕事がたまたま見つかりました。近所の知り合いと云う事で、私の空いている時間にいつでも行って、出来る時間だけ仕事をして工賃をくれる・・・、母親の反対を押し切り私は飛びつきました。
 
勉強、練習、週に数回の夜の演奏、そしてアルバイト・・・、もっと良いギターを買う事を夢に若い私は張り切って毎日が楽しく充実した日々でした。
 
しかし、週に数回の夜の演奏、学業、アルバイトとの連続で、自分では大丈夫と思っていても、知らず知らずに疲れがたまっていたのかも知れないし、仕事に慣れすぎて油断があったのかも知れない・・、
 
ある日、私の一瞬の不注意から自分の右人差し指をプレス機で潰してしまったのです。瞬間、何が起きたか判らずプレス機の上に残った人差し指の爪と肉片を茫然と・・・、しかし自分の人差し指から吹き出してくる血の多さに声も出ませんでした。傍にいた仲間たちの「ヤッチャッタ!・・・」の大きな声で我に返ると、あまりのショックにその場にうずくまってしまいました。
 
即、救急車で病院へ運ばれて手術を受けましたが、傷は時間が経つ程に痛くなってきて、麻酔の切れた後の痛みはとても口では云えない位の痛みで家の中でのた打ち回っていました。
その後、2〜3日経って病院へ行くと傷口からばい菌が入ったらしく化膿してしまい、右腕全体が腫れ上がり、又傷口の手術・・・余りの痛さに右腕を外してくれと叫んで医者を困らせていたそうです。
 
暫くして傷口が大分よくなって来たので整形手術を受けました・・・。
第一関節から無い指に肉を盛り付けて少し長く見せる手術ですが、これも痛かったです。
しかし、問題はその後でした!利き腕の人差し指の怪我!余りのショックにこんな指ではギターはもう弾けない・・、もう止めよう!と思いギターを見えない所へ片付けてしまいました。
 
急に、右手人差し指が痛くて使えないと云うのは大変な事で、今迄普通にやっていた諸々の事を全部左手でやらなくてはならないが上手くいかない・・・・、つい右手を出すと傷口をぶつけて、その痛みに「のたうち回る」の連続でした。
 
しかし、この出来事で私の生活が一変しました!今迄、ちょっと疎かにしていた学業に気を入れて少し良い子になりました。
 
当時、WVTR(FENの前身)で私達が今までに聴いた事が無い音楽が流れ始めている事を知りました。
 
日本のラジオはNHKが中心で、落語、漫才、浪曲、歌謡曲など、たまに軽音楽として週1回くらいハワイアン等の放送が流れるだけ。
 
本場アメリカのジャズ、ポピュラーミュージック、ハワイアン・ミュージック、カントリー&ウエスタン・ミュージック等が一日中流れ始めたのですから・・・、日本に新しい音楽の幕開けです。当時の音楽ファン、特に若者は、毎日流れる進駐軍放送に飛び付きました!そして、今迄聴いた事もないサウンドの軽音楽にシビレました。
 
私は、当時兄貴の仲間たちとハワイアン音楽をやっていましたが、進駐軍放送から流れてくる楽しいカントリー&ウエスタンミュージック(Eddy Arnold,George Morgan)等の歌う甘い歌声とスチールギター等が入ったモダンなサウンドに、私を含めて多くの日本のハワイアンバンドの人達がすっかり虜になり、この音楽を覚えようと皆一生懸命資料を集め始めましたが、いかんせん進駐軍が持ってきた音楽だから日本にはまだ何も資料がありません。
 
なぜか、ハワイアン、タンゴ、ジャズなどの音楽資料は楽器屋に行けば売っていましたがカントリー&ウエスタンの資料に関しては全くありません。あるのは毎日ラジオから流れる進駐軍放送の朝11:30〜30分間のカントリー番組「ホンシュー・ヘイライド」だけです。
ある時、朝の5時からもカントリー放送が有るのを知りましたが、かなり後の事でした。
 
私の人差し指の傷も癒えて、触らなければ指の痛みが無くなりましたが、未だピックは持てませんが片付けてホコリを被っていたギターを取り出して練習をはじめてみました。右手の人差し指ではとても持てないので、中指で持って弾く練習をしましたがリズムを刻むストロークで手を振ると指が痛いので、ラジオで聴いたカントリーのリードギターを真似してメロディを弾く練習を始めました。
 
ある時、東京御茶ノ水の中古レコード屋で偶然見かけたギターを抱いたChet Atkins のレコードジャケット(その頃はChet の事は全く知らない)に魅せられて買った1枚のLPレコード「Stringin' Along With Chet Atkins」(これは進駐軍の兵隊が売った物らしい)
 
これが、私とChet との初めてのレコードとの巡り合いです!
 
早速、家に帰り、初めて聴いたそのレコードにビックリ・・・。今迄何年も一生懸命勉強して、練習してきたギターの奏法とフレーズ、音色等その他が全く違う事に大ショック!クラシック奏法の様に右指全部を使わなければ弾けないChet 奏法に愕然!肝心の右人差し指を怪我した自分にとってはこの事は又々大ショックで、最初は毎日の様に夢中で聴いていましたが、聴けば聴くほど人差し指を怪我した自分には悔しいけど到底弾けないと、がっくり落ち込む悲しい毎日でした。
 
(この指の後遺症は今でも有って、ハードピックだと指が痛くて、リズムギターを弾く時には特に辛いものがあり、普段のプレーではソフトピックを使用している。)
しかし、気を取り直して、私が最初にレコードコピーしたChet の曲はこの盤の中にあったスタンダードナンバー「Indian Love Call」でした。そして今迄とは違うリズムの乗り方、音使いに戸惑いながら一生懸命練習しました。
 
このレコードとの出会いで私の音楽に関する今までの知識や考え方が全く変わりました。
Chet の新しい音楽的感覚に洗脳された思いで、すっかり虜になりました。
 
そして、このレコードでChet の奏法にも驚きましたが、もっと驚いたのはChet が弾いていた曲の「Oh By Jingo!」が当時のハワイアンバンドを中心に若者たちの間で流行った曲で、灰田勝彦さんが歌っていた「真っ赤な封筒」とメロディが全くそっくりだったのです!
 
この曲は今迄の日本の曲に無いモダンなメロディとリズム、チャーミングな歌詞で若者達に流行り、当時若かったハワイアンバンド出身のジミー時田さんも良く歌っていたとの事でした。
 
その頃の日本人は外国の古い曲を知る由も無く、チャンスもありませんでした。灰田勝彦さんの兄、灰田晴彦さんはハワイ出身なので、ハワイにはアメリカから古い音楽も入って居たでしょうから、聴くチャンスは沢山あったと思います。そして灰田晴彦さんがこの曲に日本語の作詞を付けさせて、元のメロディを歌いやすくアレンジして弟の勝彦さんに歌わせて大流行した「真っ赤な封筒」。これを創った事で灰田さんが終戦後日本の軽音楽に残した第1号の功績は非常に大きな宝物だと思います。
 
外国のメロディを元に日本語の詞を付けて歌われた古い曲の代表では「峠の我が家」「蛍の光」「雪山賛歌」などがあります。
これらを日本の歌だと思っている一般の方たちが多いと思いますが、このような曲は他にも数多くあります。
(26)私とギターと人との出会い(3) 瀬谷福太郎
(26)私とギターと人との出会い(3) 瀬谷福太郎
(音楽仲間の津下さん所有のテレキャスターをお借りして写真を撮りました。)
 
◆日本のウエスタンの歴史は使用していた楽器がそのまま使えたので、既存のセミプロ、ハワイアンバンドがサウンドの似ていたウエスタン音楽を演奏し始めたのが最初なので、バンド名も○○○アイランダース等の名前が多くありました。
 
横浜で最初に米軍基地のクラブで演奏したバンドのレパートリーはテネシーワルツを含めて5曲くらいしかなく、ハワイアンの曲を混ぜて演奏したりして、その5曲を繰り返してワンナイトのステージをやったそうです。
 
当時の米軍基地クラブの魅力はギャラがよくて、今まで食べた事も無いような食べ物や飲み物(ハンバーガー、ホットドッグ、ウイスキー、タバコ)等が手にはいるのです。これらを目指してウエスタンバンドに入った人達も多かったようです。
 
凄いのは当時大卒の月給が5000円くらいの時代なのに、クラブで演奏するとバンド一人1500円位のギャラを貰ったと聞いています。
 
私はそれを目指した訳では無く、純粋にウエスタン音楽をやりたいと思いまして、また、兄貴に紹介されて横浜市磯子区に住む河原三男(後のジミー加藤)と知り合いました。彼もラジオを聴いてカントリー&ウエスタンが好きになった一人でした。
 
二人で音楽好きの仲間を集めて、近くにあった富岡キャンプの駐留軍兵士に頼んで英語の歌詞を集めたり、楽譜を集めたりしましたが思うように集まりませんでした。前回にも書きましたが、当時あるのはラジオから流れる進駐軍放送だけでした。
 
私もラジオから流れるカントリー&ウエスタンミュージックのエレキギターに合わせて自分のギターをエレキにするために楽器屋に行ってギターマイクを買ってきて、自分のギターのボディに取り付けエレキギターを作っていました。勿論、アンプが無ければ音が出ないので小さなギターアンプを買い、メロディを弾く練習を始めました。
 
当時、11時30分からのカントリー番組のテーマ曲「スチールギター・ラグ」を覚えたくて、ラジオの前でチューニングしたギターを持って待っていて、流れてくる音に一生懸命合わせる様に練習しましたが、いつ、何の曲をやるか判らないし、聴くのはほんの瞬間ですから思うようにコピーが出来ないので苦労の連続でした。
 
ところが、あるとき、横浜伊勢崎町の大岡川に架かる吉田橋の傍らにボート屋さんがお客を乗せている余暇に進駐軍の兵士たちがアメリカの家族に声のメッセージを送るためにレコードを作る機械があるのを発見しました。これはアルミニュームの円盤にラッカー塗料を吹き付けたもので、そのラッカー盤にカッティングするという、この方式はつい最近までレコードの原盤を作る基としても使われていました。
 
私はこの新しい発見に飛び付きました。自分の希望する曲が録音できるなんて当時は考えられませんでしたから全く夢の様な話でした。お店の方と相談して、月〜金のカントリー番組の放送時間に合わせて私がお店に来て指定する曲をレコードにカットする約束を取り付けました。
 
私は毎朝11時30分を目指して店に行ってレコードカッターの前で放送待っていました。その日に行っても自分の欲しい曲が必ず放送されるかは、判らない訳ですから大変な努力でした。自宅からその店までは40〜50分かかります。30分の番組の中で欲しい曲を指定してカットしてもらうんですが、いつ何の曲をやるかが判らないので、いつでも録音できる状態で待っていて、アナウンサーの曲目紹介を聞いて針を落とす・・・、時々紹介なしで曲に入ってしまう時もあり、全く気の抜けない30分間です!これが毎朝ですから私も大変、お店の方も大変な苦労で、市販のSPレコード盤より高いお礼を支払っていました。
 
この苦労して録音したラッカー盤レコード、私達はレコードを聞いてコピーするので何回も何回も聞かなければなりません。当時は未だSPレコードの時代ですから、いわゆるゼンマイ手回しの蓄音機で針は鉄製でした。それでラッカー盤を聴くのですから何回も聴いているとすぐ真っ白になってしまって音が聞き取りにくくなるのが欠点でした。
 
当時の電気蓄音機は高価で簡単には買えません。私はたまたま近所に住んでいた外人の方からアメリカ製の小型電蓄をやっと譲ってもらいました。するとヘッドは軽く、針はダイアモンドなのでレコードは痛まないし、やっと快適にレコードを聴けるようになりました。
 
私は仲間4人とウエスタンバンドをつくり、横浜磯子区京急杉田駅の傍らにあったフォアローゼスというウエスタンバーで最初の演奏をしました。当時、お客だった米軍キャンプの兵隊たちのお陰で勉強になりました。
 
当時のアメリカ兵は、未だに開拓時代の南軍、北軍の意識が強くて、お客のリクエストで南軍のデキシーを演奏すると北軍出身の兵士達は大ブーイング、その後ヤンキードゥドゥルを演奏しないと殴り合いの喧嘩になることが多々ありました。
 
このお店で腕を磨いて仲間達と横須賀海軍基地へ乗り込みました。(ここからは「カントリー四方山話9」へつながります。)
 
この横須賀の時代に私たちは呑みにくる水兵たちからカントリーの情報を集めようと毎日必死でした。幸いなことに陸軍と違って水兵たちは軍艦に自分の部屋が有りますから結構私物を持っている事がわかりました。
 
私達は水兵のもって来る雑誌等から新しい情報を集めていましたので、当時フェンダーのテレキャスターがあるのを知りました。(私達が食うや食わずで居た時代にアメリカには武器以外にも、こんな素晴らしい楽器があったのです・・・)
 
ある時、一人の水兵が「俺はこの雑誌に載っているギターを持っているよ・・・」何と、自分が本国で使っていたと云うギターを軍艦の自分の部屋に置いてあるとの話にビックリ!何とか頼み込んである日、水兵がそのギターを持って来ました。あの黄色と茶の独特の編み目のケース!蓋を開けたら、あの独特の匂い・・・あの雑誌の写真だけでしか見られなかったテレキャスターがここにありました。
 
水兵がギターケースから取り出したテレキャスターを触らせてもらいました!初めて触った憧れのギター!そのときの感激と感触は未だ忘れずに私の中に残っています。ずっしりとした重み、手触りの良さ、特にネックの細さ、フレットのテロテロ状態、私は声も出ませんでした。
 
当時、私の使っていたギターは、ネックは太く、フレットが高いからスラーで弾くとゴトゴトと云いそう、そして音は悪い、今見たテレキャスターとは月とスッポンです。
 
次のステージでそのテレキャスターを借りて弾かせてもらいました。まるで天国に行った様な心地よさ!今迄弾けなかった事も弾けちゃう感じ!!これがアメリカのギターなんだ!凄い!それに比べて自分のギターは・・・、ひどく惨めになりました。
 
水兵にぜひそのギターを譲ってくれるよう懸命に頼みましたが駄目でした。本人は決してギターを上手に弾ける訳では無いのですが、長い航海の時にギターがあると心が和むのだと聞いて私は諦めました。
 
ここからが私の苦労の始まりでした。一度凄いギターの感触を覚えてしまった私の手は・・・もう駄目です!
 
次の日から、あの日覚えたテレキャスターのネックの感覚が寝ても醒めても頭から消えません・・・(この感覚は最初から良い楽器を持った人には判らないと思います)雑誌のテレキャスターの写真を見てはため息・・・自分のギターを見てはため息・・・買いたくても買えない・・・どうしても自分の物にならないもどかしさ・・・
 
どうしてもあの日のテレキャスターの現物の感触が頭から消す事が出来ません。
(27)私とギターと人との出会い(4)  瀬谷福太郎
(27)私とギターと人との出会い(4)  瀬谷福太郎
フェンダーテレキャスターに取憑かれてしまった私は、せめてネックだけでもフェンダーに近づけたいと、思い切って自分の大切なギターのネックをナイフで削り始めました・・・あの日の感覚を一心に思い出しながら?
 
少し削っては確認・・・ 少し削っては確認・・・、何回も、何回も、手の平で感覚を思い出しながらネックの太さを確認しました。
 
次はフレットです 目の細かいやすりを買ってきてフレットを削りました・・・
やっとあの日に弾いたフェンダーテレキャスターのネックの感触に近くなり、仕上げのサンドペーパーをかけて出来上がりました。
 
私は早速新しい弦を張り始めました・・・。
6本の弦を張り終えてピッチを合わせようと上げて行くと弦の張りが強くなる、弦の張りが強くなるに従ってギターのネックが弓なりに反ってしまい、大事なギターを1本オシャカにしてしまいました。
 
あの細いギターのネックの中に鉄芯が入って居る事を私は知りませんでしたし
当時誰もその事を知りませんでした だから日本のギターはネックが反らない
ように太い作り(細い丸太を半分に切った)ような感じ・・・
 
諦めきれずに次に挑戦したのは、ネックは日本のメーカーの物にしてボディーがフェンダースタイルのギターを作ろうと思いたちました。
 
ボディーの材料を一生懸命探しましたが厚手の板が見つかりません!
殆んど諦めかけた頃に程よい厚さの材木が見つかりました。
 
アメリカの雑誌に載っていたテレキャスターの写真を見ながら夢中でギターの
ボディーを作りました。
 
ネックは当時港区古川橋近辺に有ったギター会社に行って駄目だと言うのを、
強引に粘って、粘って無理やり1本買ってきたネックを何とかボディーに取付けて
弦を張り弾いてみたらビックリ!  全く音がのびない・・・ ???
プーンとした詰まった音・・・ とても使える音じゃなかったです。
 
当時は何も分からずに、ただ一途にフェンダーのテレキャスター、あのギターの
ネック・・・と それだけに思い詰めた私とギターとの格闘は・・・ 私の惨敗でした
今にしてみれば、恥ずかしい1950年代の思い出話です。
 
1950年代、日本でもギブソン製エレキギター(f ホールピックギター)は街の大きな楽器屋では売って居ましたが、とても高価で買う気にはなれませんでした。
そこでもう自分で作る事は諦めてプロの方にお願いしてギブソン製やフェンダーギターに負けないギターを作る事が出来ないかと思い立ち、いろいろとコネを辿って懸命に候補者を捜しました。
 
やっと知人の紹介で或る楽器メーカーに勤務するギター職人の方を紹介されました。
私は職人の方と何回も、何回も話し合いをしました・・・結果 ギター職人として本当の腕を魅せる為には私の希望するソリッドギターで無く、アコースティックギターを作りたいし、その楽器の価値も高い! との職人の説得に? 私は随分考えました・・・ギター職人がその気になって作ってギブソン製のギターに負けない様な日本のギターが出来るなら その腕に賭けてみる事に決めました。
 
そして現在のアメリカ製のギターの話しをして どうもあの細いネックの中に弦の力に負けない鉄芯が入って居るらしい?今回はどうしてもギターのネックに鉄芯を入れる事を条件に加えました。
職人の方は「分かりました ネックはなるべく細く作り、中に鉄芯を入れて絶対に反らないギターネックを作ります・・・」と約束しました。
ピックギターのボディーのアール(膨らみ)は通常の安いギターは蒸気で蒸してからプレス機でアールをつける・・・今回はプレス機ではなく厚い板からの削り出しでアールを付ける事等など・・・と細かい注文も出しました。
 
職人さんは「瀬谷さんの希望するギブソン製に負けない日本に1台しか無い様な素晴らしいギターを作ります・・・」但し自分は会社勤めなので その合い間に製作するのでちょっと時間が掛かります・・・との事でしたが良いギターが出来るのなら多少の時間は問題ないと了承しました。
 
そして最後のお願いとして今回のギターを製作する工程等デザインを含め、時々見せて欲しい等を条件に加えて了解頂きましたので手付け金を納め契約致しました。
 
契約してから暫くたったある日職人さんから連絡が有りましてギターのネックに鉄芯を入れる作業をするので見に来て下さい
との事でした! 私は飛んで行きました。
 
職人の仕事場には現在製作中の私のギター用の板等がいっぱい・・・ 厚い板を削って居るボディー用の板等が有って
私のギターを作って居るんだ・・・と実感しました。
 
ギターネックの指板側に長い溝を掘って、そこへ四角の長い鉄芯を埋め込むと云うのです・・・
アメリカ製のギターは鉄芯を調整する所が付いて居ると言うと このままびしっとネックに埋め込んで接着して上に指板を貼り付ければ調整する必要が無く絶対に大丈夫だ! との事でした
注文から約5ヶ月位過ぎたある日、職人さんからの連絡!
瀬谷さんから注文受けたギターが一応完成したので見て下さい事でした。
急いで職人さんのお宅へ駆け付けてギターと対面しました
 
素晴らしい出来栄えでした・・・
特にネックのヘッドの部分に寄木細工の様なデザインで日本らしさが出ていて気に入りました。そしてボディーのカットウエイも当時はまだ珍しいデザインで特別注文ギターの感じが良く出て居ました。
 
今回ネックに鉄芯が入った分、重量も有りギブソン製のギターよりずっと良く見えました。職人さんもこのギターは良く出来て見栄えも音もギブソンに勝るとも劣らないと自慢していました。
このギターのケースは、作る予算が無くなった事や仕事場が専属で移動も無かったので、あえて作りませんでした。
しかし、この大切なギターは1957年頃にバンドの楽器車が車上荒らしに遭って、他の楽器と一諸に盗まれてしまいました。
「WANTED」、ギターのヘッド部分の寄木細工が特徴でした。
(28)私とギターと人との出会い(5)  瀬谷福太郎
(28)私とギターと人との出会い(5)  瀬谷福太郎
(のちに日テレ「しゃぼん玉ホリデー」のプロデューサーとなった秋元近史さんと)
 
前記四方山話し(9)の事件から横須賀基地消防隊の水兵達との仲が悪くなりまして、店側の配慮で、暫くは横須賀市大津駅近くの大津観光ホテルの専属バンドとして活動してして居ましたが,水兵達の連絡網でガラの悪いのが集まり仕事がしにくくなり、次の仕事場を探して居ました。
ある時仲間の近藤さんが青森県三沢米軍基地のある街のクラブの仕事を取って来ましたので、この際思い切って旅に出る事にしました。
急遽旅に行けるメンバーを集める作業に入りました・・・そして集まったメンバーとの練習等などと大騒ぎの毎日でした。
集めたメンバーはSギター秋元、Eギター瀬谷、Bギター今村、AギターVo林、アコーデオン柳田、Aギター兼マネージャー近藤らの顔ぶれでした。
今まで移動が無かったのでギターケースを持って居なかった私はさあ大変!   材木屋さんに飛んで行き事情を説明してギターを運ぶケース?を作る板を買って来て作り始めました。
と云ってもフルアコースチックのギターをクッションを入れて運ぶとなるとかなり大きい入れ物となり、ちょっとした棺桶のような大きさでした。
当時 青森県三沢迄急行で10時間以上かかったと思います・・・
上野駅発19時発で三沢には朝7〜8時頃に着きます・・・ あの頃の列車は乗客が多くて座席を確保するのは至難の業で乗客同士の戦争でした!   
特に私達の様に荷物を持っての長旅の場合本当に死に物狂いの感が有りました・・・
最初に飛び込んだ奴が列車の窓を空けてそこから荷物を入れて座席の確保する! 1ブース一4人分で一般の人達からは白い目で見られましたが・・・10時間以上の長旅ですとこれしか無かったです・・・
これでも全員座れる訳でないので交代で仮眠を取りながらの旅でした。
列車はもくもく煙を吐いて走る機関車ですから、朝、三沢の駅に着いた時には全員手や顔がすすで薄黒くなって居ました。
三沢基地の街 進駐軍の兵隊相手のクラブの専属バンドとなり、宿泊はお店の社員寮に入りましたが、1〜2週間でそれぞれに住む所を見つけて、その自宅?から店に出勤していました。
三沢のクラブで仕事を始めて約3ヶ月位でスチールギターの秋元が大学試験の為に一時帰京しましたが一度都会に帰ると里心がついて中々帰って来ない・・・
そんな秋元さんを待ちきれないで、私達は三沢から厳冬の北海道「千歳空軍基地」の有る街へ移動しました。
暖かい時期に東京を出て居たので私達誰も防寒具を持って居ません・・・でした!
初めて経験した北海道の寒さは半端でなく、銭湯で洗った髪の毛,手ぬぐい等が一瞬に凍るのを体験しました。
そんなある日、三沢から試験の為に帰京していた秋元さんから連絡が有りまして、横浜でウイリージェームス(現ウイリー沖山)がウエスタンバンドを作りたいと言っているから帰って来ないか・・・との事でした。
嬉しい誘いについ私も都会が恋しくなり、急遽北海道から横浜へ戻って、秋元近史、ウイリー等とウエスタンバンドを作る準備に入りました。
(29)私とギターと人との出会い(6)  瀬谷福太郎
(29)私とギターと人との出会い(6)  瀬谷福太郎
(写真:前列左から、菊地正夫(城卓矢)、ジミー・コリンズ、筆者、マネージャー、久力健。 後列左から、林 港、深川昭宏、ウイリー・ジェームス、前田忠彦、伊佐さん?)
 
◆当時、東京ではウエスタン・ランブラース、チャックワゴン・ボーイズ、ワゴン・マスターズ、等のバンドがすでに活躍して居りましたので、それらに負けないようなバンドを作ろうとメンバーを集めました。
 
ウイリー・ジェームス(ボーカル)、秋元近史(スチールギター)、瀬谷福太郎(エレキギター)、前田忠彦(ウッドベース)、鈴木 宏(ギター)、林 港(ギター)、向笠正夫(アシスタント)、以上のメンバーで1956年にウイリー・ジェームスとブルーレンジャーズを結成。
 
当時、ウイリーの住まいは横浜市中区薩摩町(中華街近く)に有り、そしてセント・ジョセフの学生でしたから、彼が学校から帰って来る夕方頃になると、彼の自宅に我々メンバー達とチャック・ワゴン時代の仲間、恩田叔彦さん等が集まり楽器を弾いたり、歌を唄ったりしてわいわい騒いで居ましたのでウイリーのお母様が一番大変だったと思います。
 
そこで練習場所をウイリー宅だけでなく、磯子区森町の鈴木ふみさんのお宅に間借りしていた前田忠彦さんの計らいで、鈴木さんの自宅の応接間での練習が決まり、昼間家族の居ない時のみ使わせて頂きました。秋元さん、前田さん、林さん等は磯子区出身なので手っ取り早い集まり場所でした。
 
当時あの辺りは間門から杉田方面まで海岸線が延々と続き、素晴らしい景色の場所で、毎回の練習が楽しみだった事を思い出します。
 
練習を積み重ねて、いよいよ米軍基地のクラブへの出演の日が来ました・・・
 
当時、進駐軍兵士達のカントリー&ウェスタンの人気は物凄いもので、バンドのテーマ曲ハンク・スノーのブルーレンジャーを唄い出すと兵隊達全員が立ち上がってピィピィ、キャーキャーと大変な騒ぎ、仕舞いにはステージに上る兵隊まで出てきてMP(軍の警察)が出て警備する騒ぎになりました。
 
ウイリーの英語は本物ですから彼が喋って・・・ 歌って・・・ 兵隊達にはその意味が伝わるので、どこのクラブに出演しても大受けでブルー・レンジャーズの評判は最高でした。そしてどのクラブも必ず再出演のオーダーが入るので担当マネージャーはスケジュールの調整が大変だったそうです。
 
もう一つ大変だったのはウイリーが出掛ける前に必ずシャワーを浴びる事です・・・
これが学校からの帰りが遅かったり、仕事場が遠いのでいつもより早く出発したい等の時でも彼は必ずシャワーを浴びる事は欠かさない・・・
この辺りがウイリーは外人だなぁ? と思う事で、この習慣は今でも変わりません。
 
バンドの活動が益々順調になって居るある日、スチールギターの秋元さんが友人の
堀 威夫さん(現堀プロ会長)の代わりに日本テレビへの就職が決まって、バンドを退団致しました。 それが後にあの一世風靡した日本テレビ「しゃぼん玉ホリディー」の名プロデューサー秋元近史になったのですが、もしかしてあの時 堀 威夫さんが日本テレビに就職していたら、今の堀プロは無かったかもしれない?  そしてあのような「しゃぼん玉・・・」になったか・・・どうか?
 
それぞれ人生の別れ道は何処に有るか分かりませんね?
 
秋元近史さんの代わりのスチールギターには元オールスターズ・ワゴンの久力 健さんが参加してくれました。
 
所が、その頃彼は心臓弁膜症を患っていました!ある日の練習の時に彼が、俺の心臓の音聞いてみる・・・と云うので、彼の心臓に耳を押し当てて聞いた事が有りました・・・ (昔、木の橋を荷車が通る様な音に似たゴトゴトと云う、変な音がしていました)皆が心配して こんな音がして苦しくない?と聞くと、いつもこんな感じで、もう慣れたから大丈夫だ・・・との事でした。そんな彼のスチールギターのプレーは天才的で素晴らしかったです・・・
ある時、逗子の池子米軍基地のクラブに出演した時に、兵士ジミー・コリンズさんと知り合いました。
1度遊びに来ませんか?と誘ったら、何とスチールギターを持って遊びに来ました!!
一緒にプレーして、遊んで居る内にすっかりこのバンドが気に入ってしまい、是非
自分もこのバンドのメンバーになりたい・・・と言って下がりません。
自分の仕事はそれほど忙しく無いので、どんな仕事でもやり繰りして参加します・・・
との約束を交わし強引にメンバーになってしまいました。
久力 健とジミー・コリンズのWスチールギターに瀬谷福太郎のエレキギターの3メロで本邦初の豪華な編成になりました。
 
演奏もジミーのアレンジでウエスタン・スゥイングスタイルの演奏で東京の他のバンドをビックリさせました。
その演奏もスチールギターの特徴の和音をフルに使った演奏テクニック!!
(当時は未だペダルを使用していない)
ドラムのワイヤーブラシ等を使用したりした掛け合い演奏・・・等など 私達が見ていてビックリするようなプレーの連続でした。
 
そんな環境に私も彼等のプレーに刺激されて、負けじと一心にプレーをしていましたから、この時期の事は強烈な印象で私の中残っています。
因みに私のインストナンバーでWater Baby Bluesは当時ジミー・コリンズから聞いたメロディーを私がアレンジした曲で自慢の十八番のレパートリーです。
 
この頃ウイリーさんと映画で共演した柳家金語楼さんから、当時ちょっとぐれて居た息子の山下敬二郎を厳しく仕込んで欲しい・・・と頼まれて当バンドのバンドボーイとして参加させました。 [四方山話し菊地正夫(城 卓矢)との話しと同時期でした。]
 
菊地正夫、山下敬二郎、共にウイリーさんからヨーデルを習い始めたばかりだったので二人共ヨーデルを使いたがる・・・ 歌だけでなく二人で喋るのもヨロヨロ〜レイレイ〜とやりだしたので周りは堪ったもんじゃない! 二人の練習日とバンドの練習日をずらす事にしました。
(30)私とギターと人との出会い(7)  瀬谷福太郎
(30)私とギターと人との出会い(7)  瀬谷福太郎
(写真: 1957年、東北ツアーでのステージ、左から雪村いづみ、林 港、久力 健、筆者、ジミー・コリンズ)
 
◆当時ウイリー・ジェームスが所属していた木倉音楽事務所には、浜村美智子、青江三奈等の歌手達が大勢所属して居りまして、その中の1人に雪村いづみさんが居ました(以後ニックネームのとんちゃんとする)思い出のワルツ、遥かなる山の呼び声、に続くオーマイパパの新曲お披露目キャンペーンの東北ツアーが企画されました。
なんと、そのツアーに我らがブルー・レンジャーズの参加が決定したのです!
第2期のバンド結成以来の大仕事に全員湧き上がりました・・・ と同時にその責任の重さ、重要さに全員改めて身の引き締まる思いでした。
それからはバンドの練習の回数を増やして、ツアーの準備に入りました。
前回に書きましたが今迄はウエスタン・スゥイングスタイルを基本にして各自フリーに演奏して居ましたが3メロディー(Wスチールギター、Eギター)をきちんと(リフ)を決めてバンドのアンサンブル向上に全員で取り組みました。
 
これまでは米軍基地のクラブ中心の仕事が多かったので、わりかしフィーリングでの演奏が殆んどでしたが今回新たに日本人向けの選曲などと大急がしでした。
衣装も米軍キャンプで演奏の時はウエスタンシャツで十分でしたが、今回の様に大きいコンサート会場では見栄えが悪い・・・ との事で白いスーツを誂える事になりました! と云っても事務所がつくって呉れる訳で無く、私達の自腹で・・・月賦で支払って行くのです。
 
この白の上下のスーツ(前記6章に掲載の写真)はコンサートの後でのTV出演の時等で他のバンドとの差を付けた感じで随分と役立ちました。
 
いよいよツアーの日が迫って来ました!
当時、有楽町日劇のリハーサル室で雪村いづみ東北ツアーの顔合わせ兼リハーサルが行われました。出演者: 座長 雪村いづみ、フランク永井、日劇ダンシングチーム、フルバンド・オーケストラ、ウイリー・ジェームスとブルー・レンジャーズ等の豪華メンバーでした。
 
ショーの内容は私達ブルー・レンジャーズのコーナーにとんちゃんが加わって、数曲のカントリー&ウエスタンのスタンダードナンバーを唄うという事でした。曲はジャンバラヤ等を含めて数曲のカントリーソングをウイリーさんとお喋りで絡みながら唄う・・・と云う流れで、そして最後に自分のヒット曲「遥かなる山の呼び声」を唄う。そしてゲスト歌手フランク永井さんの歌を挟んで、今度はオーケストラをバックにとんちゃんのヒット曲を唄いまくる約90分位のショー構成でした。
 
この日のリハーサルを元にして、ツアーに備えてバンドの猛練習を行いました・・・
いよいよ座長公演 雪村いづみ東北ツアーのスタートです。当時は国鉄の客車を借り切っての移動でした・・・客車で行ける所まで行って、後は大型バスに乗り換える方法でしたが、バスと云っても今みたいな
観光バスではなく、路線バスのような大型バスでした。
 
あの時代の移動は今の時代に比べたら大変でしたが宿泊の待遇は最高でした!
当時は芸能関係者の扱いは別格で、大名扱いの歓迎振りに毎日の宿泊が楽しみでした。
 
東北ツアー雪村いづみショーは大成功でどの会場もお客様満席の大盛況でした!
とんちゃんのステージはエネルギッシュであんなに細い体格で良くあんなにパワーを出せるなぁ?と思うほど・・・元気の良いステージを毎日続けて居りました。
(31)私とギターと人との出会い(8)  瀬谷福太郎
(31)私とギターと人との出会い(8)  瀬谷福太郎
(写真は雪村いづみさんの家へ招待された時、彼女がブロマイドに「ふくちゃんへ」とサインしてくれた宝物)
 
◆今回のツアーで一緒の仲間になったフランク永井さんはジャズシンガーで米軍基地のクラブで唄ったり、日本のナイトクラブ等で唄って居る歌手でした。
ちょうどその頃、Merle Travisが作ってTennessee Ernie Fordが唄ったSixteen Tonsが流行って居て、フランクさんのレパートリーになって居ました。旅の合い間に、今ビクターレコードからこの曲を日本語で歌わないか? と言われて居るんだけど、どう思う ? 英語なら簡単なのにねぇ・・・などと相談を受けました。
私は、折角のチャンスなんだから思い切って日本語で挑戦してみたら! と勧めました。でもあの曲がきっかけで、あの「有楽町で逢いましょう」の大ヒットに繋がるなんて思いも拠らず?唯々、驚きで、スターになった本人と偶々会うといつもその話しになりまして、人生は何が有るか分からないね? と話して居ました・・・
(故)フランクさんの思い出話しです。
 
今回のツアーにもう1人の仲間、バンドボーイで参加した山下敬二郎が居ました。
スタッフやバンドの人達から敬ちゃん・・・ 敬坊・・・ 等と呼ばれて可愛がられて
居りました、 ツアー中の楽しい話しは沢山有りますが又のチャンスのお楽しみ。
 
2週間余りの雪村いづみ東北ツアーも無事終わり東京へ帰って来ました。
2週間も毎日一緒の生活をして居ると、親しみが湧いて来て別れが寂しい感じで、
みんな別れを惜しんで居ました。
私はとんちゃんが最初の座長公演で精神的にも大変だろうと思い、ステージの合い間等の機会有る毎に、とんちゃん頑張って! とんちゃん頑張って! と励まし続けました。
別れ際にとんちゃんが、いろいろ有難う・・・ 今度一度遊びに来てくれる? の言葉に私は単なるお愛想・・・ として軽く受け流し「有難う御座います」と言って別れました。
 
裏話し 1
あのツアーから2〜3週間過ぎたある日、とんちゃんから自宅へ招待の連絡がありました!「別れ際の、一度遊びに来てくれる? 」の言葉が現実になるとは・・・
まさか本当に自宅に呼んでくれるなんて?思いも拠らず嬉しさで胸が踊る思いでした。
自宅でのとんちゃんは、ステージで見ていた雪村いづみとは別人の可愛らしいお嬢さんで、そんなとんちゃんと時間を忘れて楽しい1日を過ごしました。
この日、とんちゃんがブロマイドにサインを書いてくれました・・・ 宛名は「ふくちゃんへ」そして裏には詩がびっしり書かれて居りました・・・    私の宝物の一つです。
 
だれにも云わずに しのんできました
 いばらの道をマリヤさま
  かなえて下さい 私の願いを 
    せつない夢をマリヤさま
 
あの人に今宵 会えますように 
 思い出の花咲く十字架のもと
  月夜のチャペルに涙をながして 
   お願いしますマリヤさま
 
裏話し 2
この東北ツアーのコンサートを福島で見たのがファゼイスチール(株)社長の藤井三雄さんです。  「コンサートに行ってウイリー・ジェームスとブルーレンジャーズを見たのがきっかけで上京してカントリーをやる様になった」と ご本人から聞きました。
 
裏話し 3
このツアーで大活躍したスチールギターのジミー・コリンズのサウンドが、ラテンサウンドに合う新しい音を探して居たレコーディング・デレクターの耳に留り、早速、雪村いづみ「マンボ・イタリアーノ」のレコーディlグに採用されました。  あの曲の間奏はスチールギターです・・・
この素晴らしいバンド、ブルー・レンジャーズはウイリー・ジェームスがジャズシンガーに転向する為に解散致しました。(1957年)
(32)私とギターと人との出会い(9)  瀬谷福太郎
(32)私とギターと人との出会い(9)  瀬谷福太郎
(写真は第2期 原田 実とワゴン・エース、  前列左から、関口良信、林 洋介、かまやつひろし、  後列左から、佐野 淳、加勢沢道夫、原田 実、藤本精一、筆 者)
 
1957年ブルー・レンジャーズ解散!    ワゴン・マスターも解散!
1958年 住吉 敞と原田 実と瀬谷福太郎等でワゴン・エースを結成・・・
同時期に寺本圭一、大野義夫、清野太郎、堀 威夫等でスィング・ウエストを結成・・・
ワゴン・エース第1期のメンバーはVo住吉 敞、関口良信、林 洋介、
Sギター原田 実、フィドル藤本精一、Eギター瀬谷福太郎、ベース佐野 淳、ドラムス加瀬沢道夫でした。
 
関口良信はハンクW, マーティーR,を中心に、住吉 敞はその他のスタンダードを中心に、林 洋介はビートの利いた曲を中心にと当時の若者達の好みを全部集めたようなバンドでした。
 
私はブルー・レンジャーズでジミーコリンズさんと一緒にプレーをして居まして、彼の素晴らしいプレーには何時も感心して居ましたが、今度コンビになった原田 実さんのプレーも天才的で素晴らしいものでした。
ハワイアン・スチールギターのポス宮崎さんに師事したとの事で、当時では未だ珍しいペダルスチールギターを弾きこなしていました。
当時はペダルをオートバイ用のワイヤーで引っ張ると云う装置でしたから、ペダルを踏む度にワイヤーが引っ張られて、ワイヤーが踊る様な感じと・・・ その度にカシャカシャとかキュッキュッとかの多少のノイズが出るので、普段ライブの演奏ではさほど問題は無かったのですが、テレビ、ラジオ、特にレコーディングの時等には大変苦労して居ました。
 
しかしペダルを使う事で今迄より和音が自由に弾けるので、当時私が懸命に勉強していたSPEEDY WEST & JIMMY BRYANTの曲をプレーしたら二人の息がピッタリ!
早速「SPEEDIN WEST」 「GEORGIA STEEL GUITAR」 「FLIPPIN' THE LID」等々の曲を楽しく演奏して居ました。
残念だったのは私のギターが前記ブルー・レンジャーズの時に盗まれてしまいましたので、米軍基地の周りの質屋を随分探しましたがFENDERは見つからず仕方なくKAYのセミアコのギターを買って弾いていました。  
 
前にも書きましたが当時外国製のギター等を買うのは楽器屋ではなく、基地周りの質屋と決まって居りました。 これは兵隊達が金を借りに楽器を持って来ても殆んどの兵隊がそのまま流してしまうのが多く、当時質屋の店主も楽器の価値も分からず適当な値段で売って居たので、上手くその場で買えたた人はラッキーとしか言い様が有りません。  前記(14)で書きましたが、ジミー時田さんがスーパー400を質屋
で安く買ったと自慢して居ました。
 
1959年頃より文化放送サンデイウエスタン主催「TOKYO GRAND OLE OPRY」のコンサートが有楽町ヴィデオホールで毎月開催されました・・・.開催時間が昼間だったので営業に差し支えの無い様に、各バンド交替に出演していました。
 
ジャズ喫茶の営業は13時からです バンド関係者は午前11時〜11時30分頃に入りセッティング、簡単なサウンドチェックをして、昼飯、本番となります。3〜40分位のステージを3〜4回・・・が昼の演奏、 夜の場合他の店で同じ事の繰り返しです。
忙しい時にはこれに深夜、TVの録画撮りが入ったり、スタジオ録音が有ったりすると・・・何時寝るの?と云うような事も有りました。
 
銀座だけでもテネシー、銀座ACB、ニュー美松、不二家ミュージックサロン、西銀座ニュース喫茶、その他で新宿スワン、オペラハウス、新宿ACB、渋谷マリンバ、池袋ドラム、等々と有りました。そしてあの有楽町日劇で第1回ウエスタンカーニバルが始まりまして、日本での戦後2回目の新しい音楽の風が吹き始めました。
 
昔のウエスタンバンドは前記(22)で書いた様にドラムスは使用して居ません。
E・ プレスリー の出現で ロカビリーブームとなり、彼がスネヤドラムを使いアフタービートの強いサウンドを出したのが切っ掛けでドラムスが使われ始め、ロカビリー全盛で全部のバンドで使い始めました。
当然の様にドラムスの入ったバンドが昼はジャズ喫茶、夜は米軍基地クラブの仕事をこなすにはそれなりの機動力が必要になりました。
各バンドはそれぞれに楽器運搬用の大きな車でのメンバー含めての移動・・・  各自家用車で移動と、バンドの移動が早くなりました。
 
第1回ウエスタンカーニバルには、寺本圭一とスウィング・ウエスト、住吉 敞とワゴン・エース等のバンドを中心にウエスタンバンドだけのカーニバルでした。
2回目を開催するにあたり主催渡辺プロからの方針で、新しいバンド、若い歌手等の参加を増やす事になりました。  
ワゴン・エースも新しいサウンドに合わせてメンバーを入れ替えて、若いシンガーかまやつひろしを加えて第2期ワゴン・エースが発足致しました。
第2回日劇ウエスタンカーニバルでは、新ロカビリー3人男として、守屋ひろし、かまやつひろし、井上ひろし、で売り出しました。
 
その後、出演バンドもカントリーバンドは減り、ロカビリーバンドがどんどん増えて行って、それこそがロカビリーカーニバルになった経緯ですが・・・ これが世の中の移り変わりなんでしょうね?
 
当時のかまやつさんはロカビリー等の曲も必要に応じて歌っては居ましたが、本来はTOMMY COLLINSやWEBB PIERCE等の曲を好んで歌って居ました。
東芝レコードTOKYO JAMBOREE (Vol.1)ではWEBB PIERCEの「TEENAGE BOOGI」を歌って居ます。
元々父親がジャズシンガーですから、かまやつさんもジャズのスタンダードな曲は当時から好んで歌っていました。
TOMMY COLLINSの曲では「YOU GOTTA HAVE A LICENSE」 「YOUOUGHTA SEE PICKLES NOW」
「WHAT'CHAGONNA DO NOW」等の曲をあの脳天から抜けるような甲高い声で歌って居ましたね・・・
 
当時HANK WILLIMSの曲はメインシンガーの関口さんが好んで歌って居たので、かまやつさんはHANKの曲を全くレパートリーに入れて居ませんでした。
しかし、ある時から関口さんに「LONESOME WHISTLE」1曲だけを譲り受けて自分のレパートリーにしましたが最初の頃は英語の歌詞で歌っていました。
それから歌詞を日本語したり・・・ コード進行をいろいろ変えたり・・・と苦労を重ねて現在の「どうにかなるさ」になり、かまやつひろし最初のオリジナル曲になりました。
 
1945年終戦・・・  戦後の日本にも有ったジャズとハワイアン音楽に、進駐軍が持って来た新しい音楽カントリー&ウエスタンが加わりました・・・ 最初の新しい風でした・・・  当時の若者は皆飛びつきました!
 
そのカントリーミュージックも50年代後半から60年代にかけてE・プレスリー等の出現でサウンドが変わり始めてロカビリー旋風、ビートルズ旋風、と目まぐるしく動き始めました。
 
60年代後半から70年代にかけてアメリカン・フォークソング、グループ・サウンズ、和製フォークと昔は約10年だった周期がどんどん早くなって居る様な感じがするが、あの、かまやつひろしさんはどんなジャンルでも取り込み、何時の間にか自分の物にしてしまう凄さを未だに持って居ます。
(33)私とギターと人との出会い(10)  瀬谷福太郎
(33)私とギターと人との出会い(10)  瀬谷福太郎
(写真はチェット・アトキンスと浅沼勇さんです)
 
この時代に,私は凄い人と知り合いになって居ました! 渋谷に有ったジャズ喫茶マリンバに私達バンドのメンバーが昼頃に入ると、それを待って居る高校生位の可愛い男の子?が居ました。
 
私達のステージが始まると一番前の席に座りステージをじっと見ていて、私達のステージが終わると即楽屋に入ってきて、さっき何番目に演奏した曲は何という曲名ですか?  何番目の曲の真ん中に使ったコードは・・・  何番目の曲のエンディングに使ったコードは何ですか? 等の質問をしまくる少年!
 
聞く所によるとクラシックギターの勉強をして居るがコードに興味が有って、私達の
演奏しているカントリーミュージックで使って居る新しいコードを覚えたくて来て居る
のだ・・・との事でした。
 
私達は当時、他のジャンルではまだ余り使って無かったsus4や69コードを良く使って
居ましたが彼はその音に非常に興味を持ち是非教えて欲しいと言って居ました。
その後しばらくは彼のジャズ喫茶通いは続きました・・・
なぜ渋谷のジャズ喫茶が多かったのか? は分かりませんが、たまに来ないで
彼の顔が見れないと寂しい感じのする位の仲になりました・・・ 
その彼がある日からプツッと来なくなりました。
 
そんな或る日彼からの連絡で、忙しくなったので暫くは行けない・・・との事でした。
そして彼が若手クラシックギターの名手だった事を初めて知りました。
 
その後彼からは環境が変わる度に必ず連絡が有りました。
今、演奏旅行で頑張って居ます!   今度ジャズに挑戦します!
現在スタジオミュージシャンをやって居ます!  等など・・・
 
ところがある時に、今度ばかりは親父のキツイ言いつけで日興証券に就職しましたので暫くは連絡致しません・・・ との連絡にはさすがの私もビックリしました!
 
突如私の前から消えた男!    浅沼 勇
 
ある人からの情報で驚いたのは、浅沼さんの父親は当時NHKの芸能局長との事で
この業界の人間としては名前を聞いただけで最敬礼するょうな凄い方でした。
(34)私とギターと人との出会い(11)  瀬谷福太郎
(34)私とギターと人との出会い(11)  瀬谷福太郎
(写真は名盤「Chet Atkins ビートルズを弾く」中の「Yesterday」の為に浅沼勇さんが書いたアレンジ譜)
 
私の前から消えた男・・・ 浅沼 勇はその後、証券マンとして活躍していましたが、病に倒れ、どうせ先がないのなら再度大好きだった音楽の世界に戻ろうとしましたが、当時日本のギター界は一気にレベルアップしていて、彼の約3年間のブランクはとても埋め切れるものではなくなって居ました。
 
そんな時に父親に呼ばれ「お前世界を見て来い! そして世界に通用する音楽番組を作ってみろ」と言われたそうで・・・ ここからが浅沼 勇曰く「聞くも笑い、語るも情けない」世界行脚の始りです!
彼が一番好きだったウェスタンの国、美人女優の国、西部劇の国、アメリカを目標に動き始めました。
 
ちょうど、その時期は日本の先端企業が皆アメリカの市場を狙っていた時期でした。
アメリカに知られていた企業、それはソニー、キャノン、ホンダなどで日本では中小企業ばかりでした。「キャノンを手掛けてみようか?」と声をかけてくれた人が、なんと後にRCAのトップ、ナッシュビルの名誉市民、そしてChetの親友になる鳥尾敬孝氏でした。
 
その鳥尾さんの力を借りて「ハイファイ・イン・フォーカス」というChetだけでなくポピュラー音楽の誇る名アルバムがここに誕生するのです。
 
ちなみにこのアルバムを擦り切れるほど聞いて、「ウォーク・ドント・ラン」をヒットさせた少年4人があのベンチャーズでした。
 
話しが前後しますが、Chetのアルバムで浅沼さんが何曲かのアレンジを提供していることは当時から知られていました。
 
特に「ビートルズを弾く」ではYesterdayのアレンジが有名ですが、浅沼さんは「全然ダメ、ワンコーラスだけ、上手すぎるよChetは、クラシック風に弾いた後にいきなりハーモニックスで弾いて、あとはストリングスをかぶせておいて・・・ さてビールと言ってスタジオから去っていったんだよ」って凄い話で、Chetがいかに浅沼 勇を信頼していたか・・・が良く分かりますね。
 
そして日本ではエレックレコードというレコード会社を創立、吉田拓郎、泉谷しげる、古井戸、ケメ、中でも異色がズートルビ、ミリオンセラーのあおいてるひこ、秋吉久美子など面白おかしく製作し、さらにアリス、谷村新司、堀内孝雄、海援隊、オユンナ等など数知れないヒットを出して居ました。
 
Chetの「ハイファイ・イン・フォーカス」や「ビートルズを弾く」のエピソードなど滅茶苦茶面白い話しを、いつもさらっと話して笑って居る、あの消えた男、浅沼 勇さん!
今はいつも私の目の前に居ます・・・
浅沼さんと出会ってから50年、 でも会うたびに皆に「僕のギターの師匠だよ」と紹介してくれる浅沼さん・・・ 
 
そして去年浅沼さんの誕生日ライブに誘われました!
 
嬉しくて嬉しくて涙が止まりませんでした・・・
 
浅沼さんとはこれからも楽しいお付き合いが出来る事を祈っています。
(35)私とギターと人との出会い(12)  瀬谷福太郎
(35)私とギターと人との出会い(12)  瀬谷福太郎
(写真、左から樋口真一、筆者、浅沼勇の各氏、東京・銀座・Nashvilleにて)
 
◆2009年6月頃久しぶりに浅沼さんと一杯呑んで居たら、「瀬谷さん、俺8月11日が誕生日なんだけど、一緒にギター弾かない!」 この一言にビックリ 思わずグット込み上げて来るものが有りました。
 
浅沼さんと知り合って50年、今まで浅沼さんのライブには数回行って聴かせて貰って居りましたが、ジャンルも違うし一緒のプレーなんて考えても無かったので驚きました。
そこで私は浅沼さんに提案しました。浅沼さんの誕生日ライブをやるなら昔の仲間達で祝いましょう・・・ と。その場で即、私と浅沼さんの共通の友人、樋口真一さんに携帯電話で誕生日の件を話しましたら、彼は余りの嬉しさに思わず声を詰まらせながらも大喜び、「ぜひ参加したい」との事でした。
そして浅沼さんの立教大の同級生で川島 幹さん、 元プロの歌手で現在はブライダル関係の仕事をしている方もOK。元ロッカーの美人ベースプレイヤー 長谷川 玲さん等ぞくぞく仲間達が集まりました。
 
共通の友人樋口さんは、1967頃に浅沼さんが設立した通信教育でギターを教える
会社 「日本音楽院」に入会、2年位して学院に尋ねた樋口さんに、「お前はギターより声がでかいから唄をやれ・・・」 と その場で2〜3時間の唄の特訓をされたそうで
それからのお付き合いだそうで・・・ そうなると私の孫弟子?みたいな関係ですね。
 
樋口さんの偉いのは独立して人材派遣会社を経営しながらカントリーバンド町内会
(Town Hall Club Band)を結成 都内のライブハウスやイベント等に出演して、その出演料を或る機関に寄付をしている事、そして現在でも続けて居られるとの事で素晴らしい方です。
 
2009年8月11日、渋谷区神泉のライブハウス、ランタンで浅沼 勇70才の誕生日
ライブが始まりました。
 
1部は浅沼さんの禁じられた遊び組曲のような素晴らしい演奏と懐かしい唄を
披露してくれました、 満員の客席の皆さんもウットリ・・・ 。流石でした。
 
2部はいよいよ私達のステージになりました
樋口さんはカントリーのスタンダードナンバーJAMBALAYA等数曲をそして最後に
ON THE ROAD AGAINで締め括りました。
 
川島さんはお得意のELVIS PRESLEYのナンバーをフィーリングたっぷり数曲と
極め付けはCAN’T HELP FALLNG IN LOVEでした。
 
そして私の番です・・・ 演奏曲は考えて・・ 考えて浅沼さんと私の共通のプレーヤー
CHET ATKINSの代表曲YAKETY AXE を弾きました!浅沼さんも参加して
浅沼さんとの合奏もしました! 感激でした!
 
こんな嬉しい、楽しいライブは初めてでした・・・
 
50年の思いがこもった、私の一生の思い出になる素晴らしいライブ。
 
プレーが終るまで呑むのを我慢していたビールの旨さは格別でした!
 
有難う御座いました・・・
(36)私とギターと人との出会い(13)  瀬谷福太郎
(36)私とギターと人との出会い(13)  瀬谷福太郎
(写真:山田幸保さん(右)と筆者)
 
◆1958年に原田 実さんと結成したワゴン・エースでしたが、1961年頃に寺本圭一さんから再三のお誘いを受けてワゴン・エースを退団、寺本圭一とカントリー・ジェントルメンに移籍致しました。
 
ボーカルに寺本圭一、斉藤任弘、エディー深野、スチールG 山田幸保、Eギター 瀬谷福太郎、フィドル 木村浩昭、ベース 小野光郎 ドラムス 島 悦夫。
カントリージェントルメンに参加して一番驚いたのは女性フアンが圧倒的に多い事でした・・・それも殆どが寺本さんを目指して来て居る・・・と云うのが又々ビックリでした! 勿論男性フアンの方達もいらっしゃいましたが余りに女性フアンの多さに皆小さくなって居ました。
 
もう一つ驚いたのは、参加して間もない頃 寺本さんにちょっと話す用事が有ったので最後のステージが終わってから・・・と思い、ちょっと楽器を片付けて楽屋に戻り寺本さんを探してももう姿は無し! ベテランメンバーに聞くと寺本さんはステージを下りると、置いといた荷物を持って、風のようにそのまま帰ってしまう・・・ ので、用が有る時はステージ前に済まさないと駄目との事でした。
 
カントリー・ジェントルメンに参加して知り合ったスチールGの山田幸保さんのテクニックも素晴らしく、二人で演奏したSPEEDY&JIMMYのINSTはかなりの評判でした。
私は早速ブルー・レンジャーズ時代(29)逗子池子キャンプの兵隊でスチールGプレーヤーだったジミー・コリンズさんから口移しで教えて貰った曲で私がアレンジした「WATER BABY BLUES」を新たにアレンジし直して二人で演奏しました! それを聴いた寺本さんが 瀬谷さんこの曲はかなり激しい曲なのでこれからは「ブチカマシ!」にしょう・・・と云う事でこのINSTの日本名が決まりました。
 
この時一緒にコンビを組んで演奏して居た山田幸保さんは後に一世を風靡したあの楽器メーカー「(株)エルク楽器」を設立した人物だったのです。現在でも私の愛用のギターの中にエルク製のギターが一本含まれて居ります。
 
私達の演奏の場所はジャズ喫茶、米軍基地のクラブ、コンサート、地方巡業、テレビ、ラジオ等出演、個々にレコーディングの仕事等とかなり忙しく、また当時は定期的に関西ツアーが有りました。
京都のナイトクラブ 「ベラミ」がスタートで、大阪の「難波一番」 神戸のジャズ喫茶「月光」等とコースが決まって居りましたが、ある時は九州方面にも行ったような記憶があります。
前記(19)で書きましたが当時はナイトクラブかジャズ喫茶くらいしか無くて、ライブハウスは加賀まりこさんの兄、加賀祥夫さんが1974年にイギリスから拾って来て自分のお店「ライブハウスMrジェームス」に使ったのが最初です
 
当時 甲南大でカントリーバンドをやって居た学生さん達と仲良くなりました・・・
スチールG 澤本徳昭さん、 Eギター 後藤 修さん、 E ギター神田さん  神戸のジャズ喫茶に聴きに来た彼等と意気投合して、最後は芦屋にお住まいの澤本さんのお宅に泊めて頂いた記憶が有りました。  あれから数十年過ぎた2009年11月、西宮の福原さんのお店「FORTWORTH」に行く事が有りましたので澤本さんと後藤さん連絡しましたら、後藤さんはお仕事の為NGでしたが澤本さんはご夫妻で来ていただき久ぶりに再会出来ました。
そして今年5月に私の銀座ナッシュビルのステージに澤本さんと後藤さんのご夫妻でわざわざ神戸から来て下さいました!本当に嬉かったです・・・
数十年前学生だった二人に又会えた事の嬉しさはとても言葉に言い表せません・・・
有難う御座いました。
(37)私とギターと人との出会い(14)  瀬谷福太郎
(37)私とギターと人との出会い(14)  瀬谷福太郎
写真はSIX JOESのLPジャケットから(少し解像度が悪いですが)左から二人目が松宮庄一郎(g)、そのほか渡辺晋(b)、松本英彦(ts,fl)、安藤八郎(vib)、山崎唯(p)、猪俣 猛(ds)というそうそうたる皆さんです。
 
◆私がカントリー・ジェントルメンに入団して(株)渡辺プロダクションの専属プレィヤーとなった途端に目茶々々忙しくなりました。 当時、渡辺プロ社長(渡辺 晋)のバンド「シックス・ジョーズ」のギタリストで松宮庄一郎さんと言う凄いプレイヤーの方が居りまして、専属になった途端に、何とその松宮さんと組んで当時の渡辺プロ専属のアーティストのレコーディングを一手にやる事になりました。
 
カントリー・ジェントルメンの仕事が無い時は殆どレコーディングスタジオに朝から缶詰状態でした。それ迄はポツリ、ポツリとレコーディングの仕事はして居ましたが毎日は初めての経験でした。
 
スタジオミュージシャンはジャズやクラシックのベテランプレィヤーの方達が中心でしたから、ポップス系からのミュージシャンは私が最初だったと思います。
 
渡辺プロ専属の肩書きと、シックス・ジョーズ松宮さんの後ろ盾で何とか毎日のスタジオの仕事をこなして居りました。
 
当時60年代、音楽のサウンドが新しく変わり始めた頃で皆手探り状態でした・・・
 
プレィヤーも編曲者も当時のWVTR(後のFEN)のラジオ放送を聴いてアメリカの新しい情報を得ようと皆必死で聴いて居ました。 ある編曲者の中にはラジオ放送から流れたサウンドをソックリそのままコピー
した編曲の先生も居たり・・・中には新しいサウンドには全く対応出来ない先生も居りました。
 
編曲者が編曲する曲が多くて遅れて居るのか、いつも譜面が届くのが遅いのです・・・。私達ミュージシャンが準備が出来て待って居ると、アシスタントの若者が譜面を抱いてバタバタと駆け込んで来ます・・・ そして各ミュージシャン達に譜面を配ります・・・ するとオモムロに編曲の先生が入って来まして当日演奏する曲の内容説明等をします。
 
その時点で予定の時間が押して居て、時間で契約して居るスタジオミュージシャン達は次のスタジオの時間を気にしてイライラと気が立って居ます・・・。
 
軽い通しリハーサル1〜2回で本番レコーディングが通常の流れです。
所が私のギターの楽譜には音符は書いて無く、コードネームだけしか書いて有りません!サウンドが新しくなって編曲の先生も対応が出来ないのでプレィヤーのフィリーング任せの楽譜なのです・・・
と云う事は先に書いた1〜2回の軽い通しリハーサルの間に自分のパートのフエイクを創らなければならない!
 
本番で音を間違えるものなら 全員から冷たいでジロリ・・・。
 
当時は誰かが一人間違えると最初から録音を録り直すので大変時間が掛かりますので、スタジオを掛け持ちして居る人達にしては大変な事でしたから、音を間違えるものなら「心臓が止まる」思いでした。
 
私達がスタジオで録音して居ると、渡辺プロ所属の若いシンガー達が時々心配そうに覗きに来て居ました。
有名なアーティストも男性は一目で誰だか分かりますが、女性の場合は普段着、スッピン(素顔)で来ると
全く誰だか分からない人が多く、仲間で詳しいのが今日は誰と、誰が来て居ると教えてくれました。
 
この時期、現在日本の音楽界を背負って居る凄いギタープレィヤーの二人として週刊誌の取材を受けました。
その時松宮さんとのツーショットの写真撮影があったのですが、残念ながら、今回の掲載は間に合いませんでした。
(38)私とギターと人との出会い(15)  瀬谷福太郎
(38)私とギターと人との出会い(15)  瀬谷福太郎
写真は第4期カントリージェントルメン。
左から、安藤さん、エディ深野、木村浩昭、筆者、寺本圭一、斉藤任弘、藤井三雄、小野三郎の皆さん。
 
◆ 話を戻しますが私がカントリージェントルメンに入団して数ヶ月で絶妙のコンビだったスチールGの山田幸保さんが退団しまして、新たに藤井三雄さんが参加してくれました。
新たな第4期 寺本圭一とカントリー・ジェントルメンの発足です!
ボーカル 寺本圭一、斉藤任弘、エディー深野。Eギター 瀬谷福太郎 スチールG 藤井三雄、フィドル 木村浩昭、ベース 小野光郎、ドラム安藤・・・
カントリー・ジェントルメンに参加して驚いた事はまだまだ有りました!
寺本さんが歌を覚えるのが非常に早いのです・・・ その速さは半端ではないのです!
 
カントリージェントルメンの歌手は3人居りますが まずステージの最初に寺本さんが2〜3曲歌う・・・。 そして斉藤さんと深野さんが2曲づつ歌います、INSTが1曲入って又寺本さんがリクエストを含めて3〜4曲を歌います・・・時間が有ればINSTを1曲加えるのが普段のステージ構成です。
寺本さんの歌う曲数が多いので必然的に覚えて来る曲の数も多いのですが、驚くのはその速さで半端では有りません・・・ 伴奏に追われる?と言う言葉がピッタリでした。
 
当時のFEN放送の毎週のカントリートップ10の上位の曲は必ず寺本さんは歌って居ましたから,私達もそれを聴いて練習して置かないと寺本さんのペースに着いて行けないのです。 練習と云っても改めてスタジオを取っての練習ではなく、ジャズ喫茶のステージでのサウンドチェックの合間にやって居ましたが、次から次へと新しい曲が加わって来るので、当時寺本さんの歌う曲の伴奏を覚えるのが大変だったのを思い出しました。
 
ステージの合間に寺本さんは客席の女性ファンの方達と楽しんで居ても、私達は次のステージに歌う曲の練習に追われて客席のファンの所に行く事も出来ませんでした。
寺本さんに聞いた事が有りました・・・
どうしてそんなに早く歌詞を覚えられるのですか?の質問に 家中のあらゆる所に歌詞カードを貼り付けて有るのだそうです! 矢張り凄い努力をして居るのだ! と感心しました。
 
もう一つ寺本さんの凄いのはステージでは絶対に歌詞を見ない事です!
普段全く歌わない曲のリクエストが来ると休憩時間に歌詞ノートを見て次のステージで歌詞を見ないで歌いきってしまう凄さには脱帽です。
 
これが現在でも続いて居りまして今年の8月の銀座ナッシュビルに出演の時にお客さんのリクエスト曲,EDDY ARNOLDの「DON’T ANOTHER MAN’S CASTLE]を歌詞を見ないで最後まで歌いきったのには、驚き!感動しました。
 
現在77才 数年前に病気で入院されましたが、回復されて上記の様に頑張って努力して居る姿を見ると、尊敬の気持ちでいっぱいです!  最近自叙伝を出されたそうです、ぜひ見て下さい。
 
寺本さん、いつまでもお元気で歌い続けて下さい。
 
1960年代初期 私がカントリー・ジェントルメンに入団した頃だったと思います・・・
そうです! この時期に業界大革命が始まったのです!  それまではバンドの担当マネージャーはバンドボーイ経験者で事務所との連絡係りみたいな存在でしたが、渡辺プロが初めて大学卒の人をマネージャーに採用致しました! そして何とジェントルメンの担当マネージャーになったのです。
その頃の私達ミュージシャンにしてみれば、バンドボーイと担当マネージャーとの区別が余り無かったので、大学を卒業して初めてこの業界に入ったマネージャーをバンドボーイと同じように、こき使いました・・・
 
暫くして渡辺プロから担当マネージャーをバンドボーイの様に扱ってはならない! の御達しが出ました。
その時の業界第1号 大卒マネージャーで、カントリー・ジェントルメンの担当マネージャーだった諸岡さん!現在渡辺プロの専務取締り役「諸岡義明」で頑張って居ります、私にしては大変嬉しい事です。
 
その後 他のプロダクションも大卒のマネージャー採用が増えて芸能界も他の企業と同じように大学卒業生の就職先の目標に為るようになりました。 現在では上場している会社も有るようになりました。
(39)私とギターと人との出会い(16)  瀬谷福太郎
(39)私とギターと人との出会い(16)  瀬谷福太郎
写真は「日劇ウエスタンカーニバル15回記念撮影」
 
前列左から 高橋元太郎、長沢 順、ミッキー カーチス、山本紫朗、渡辺 晋、渡辺美佐、日劇事務方、パラキンのメンバー
 
2列目 フランツ・フリーデル、曲瀬のぶ子.、ジェリー藤尾、森山加代子、
山下敬二郎、石川 進、曲瀬社長、
 
3列目 北原謙二、坂本 九、寺本圭一、デニー白川、パラキンメンバー2名
 
4列目 瀬谷福太郎、エディー深野、斉藤任弘、水原 弘、ダニー飯田、の皆さん。
 
◆カントリー・ジェントルメンに参加してまもなく、メンバーの木村浩昭さんが「実は女房がアメリカからフェンダーのギターとアンプを持って帰って来たんだけど・・・」
何と! この夢のような話に私は飛び付きました!! 今迄 夢の中にまで出て来た幻のフェンダーのギターが・・・
 
早速 木村さんとギターの値段の交渉・・、渡辺プロダクションにはバンス(前借り)
の交渉! 当時は前記で書いた通りレコーディングで忙しく活躍しておりましたお陰で、渡辺プロとのバンス交渉も成立致しました!
 
ついに夢に迄見て居たフェンダーのギター、やっと私の物になったギター「ストラトキャスター 」
寺本圭一とカントリージェントルメンに参加、木村浩昭さんと巡り合い、お陰で夢にまで見たフェンダーギターに巡り合った事・・・。幾らお金を出しても欲しいものが買えない時代! そんな時代の物との出合い・・・、 人との出会いは運命でしかないと私は確信して居ります。
 
横須賀海軍基地の頃(26) 水兵が持って来たフェンダー・テレキャスターの時から続いて居たフェンダーギターへの執着と憧れ・・・ 。   やっと私の手に入りました!
この時の嬉しさは未だ忘れる事なく私の心の奥に残って居ります。
ストラトキャスターを手にした私はルンルン気分・・・、いつもの様にスタジオ入りして自分のポジションで楽器のセットをして居ると、他のミュージシャン達の目はフェンダー・ストラトキャスターに集中!
 
何だこれは!   の質問に・・・ 「アメリカの新しいタイプのソリッドギターと云う楽器です」と言うと、 ソリッドギター? 単に俎板に弦を張ったようなもんじゃないのかよ・・・、こんな楽器で商売するのか! と迄言われました。
 
当時スタジオミュージシャン達のギターはアコースティックのギブソン等のジャズギターが主流でしたからフェンダーのソリッドギターのタイプは、口の悪い人には「そんなのおもちゃだ」と迄言われました。
 
当時のジャズ系の人達は他のジャンルの音楽を、特にカントリーやロカビリー等を音楽として認めないと言うか馬鹿にしていました。
カントリーや、フォークソングや、ビートルズ等の音楽(シンガーソングライター系)の音楽には4/2小節を使った曲が多いが、彼等は余りそれを認めたがらない・・・。
きちっと8小節、16小節、32小節で決まって居るのが音楽だと思って居ました・・・。
だから私のフェンダーにケチを付けたり、4/2小節が入った曲は音楽じゃ無い! 等と平気で他のジャンルをけなす人も居ました。
所がアメリカからの60年代の新しいサウンドにソリッドギターの音がどんどん使われ始めると、今迄ジャズギターで偉そうにして居た人達もスタジオではソリッドギターを使用せざるを得なくなり、当然4/2小節も認めざるを得なくなりました。
私は日劇ウエスタンカーニバルの第1回目から出演して居りまして、原田 実とワゴン・エース、寺本圭一とカントリー・ジェントルメンとで参加、今回この15回記念写真は感無量です。
前にも書きましたが1回目はウエスタンバンドだけでしたが、2回目以後新しいサウンドと、若いバンドが増えて、写真の15回目の時にはウエスタンバンドは渡辺プロ専属の寺本圭一とカントリー・ジェントルメンだけでした。
 
ロカビリーが盛んになるにつれ、カントリーのゆったりとした2ビートのリズムに若い人達は物足りないのか寺本圭一とカントリー・ジェントルメンのステージが始まるとトイレが混むと云う現象が起きて居ました。
 
私がフェンダー・ストラトキャスターを買った事はバンド仲間で評判になり、私のストラトを見たさと、触りたくて出演バンドのメンバー達が大騒ぎ・・・ ストラトキャスターはビブラートがついて居るので、物珍しさも有ってアームを上げたり、下げたりしてキャーキャーと喜んでいました。
 
そんな時期に何と坂本 九さんの「上を向いて歩こう」のレコーディングが有りました
当時は大きなスタジオにオーケストラ全員と私達の特殊楽器(ギター、ドラム等)が
加わり大オーケストラの録音です・・・ これは物凄い緊張でした。
 
当時のレコーディングは殆ど同時録音が多く、中村八大さんのアレンジ,指揮で緊張のレコーディングにストラトキャスターを使用しました。
 
           瀬谷福太郎
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(40)私とギターと人との出会い(17)  瀬谷福太郎
(40)私とギターと人との出会い(17)  瀬谷福太郎
写真:寺本圭一とカントリー・ジェントルメン(1962年)
 
左から 木村浩昭、寺本圭一、東条、鈴木邦夫。藤井三雄、筆者、小野光郎、エディ深野、安藤、 の皆さん。
 
◆カントリー・ジェントルメンに入団して順風満帆の勢いで仕事に私生活に調子に乗りすぎた時期、私にとって2回目の大きな試練が待って居ました。
 
風邪をこじらせて、咳が止まらないないので近くの病院でレントゲン検査をしたところ結核の診断を受けました・・・ それも両肺に影が有るとの宣告です。
 
やむなく私は61年から約1年位在籍したカントリー・ジェントルメンを退団、病院に入院して結核の治療に専念する事になりました。
寺本さんの紹介で知人の小阪先生が内科部長をしている国立村山療養所への入院が決定。早速、私は身の回りの荷物と愛用のストラトキャスターを持って横浜からタクシーで立川の先、砂川の先の療養所まで行きました。
 
入院するのにギターを持った変な患者でしたが、内科部長の紹介・・・と云う事で大目に見てくれました。
 
戦争中は陸軍病院だったそうで、かなり古い建物で、廊下を歩くとギシギシ大きな音がしました。
 
看護婦さんの案内で6人部屋に案内され、割り当てのベッドに荷物を置き、先住の患者の方々に挨拶を済ませてやっと自分のベッドに腰掛けてホッとした途端に、今の自分に情けなくて涙が溢れ出て暫く声も出せずに泣いて居ました。
 
今までの派手な芸能界での生活と全く違う生活!朝6時起床・・・検温、7時〜8時朝食、午前中検査、12時〜13時昼食、13時〜14時昼寝、15時〜17時自由時間、18時〜19時夕食、21時読書、22時消灯、この規則正しい生活を毎日繰り返して、絶えず安静にする事が大事だときつく言われました。
 
入院して暫くは病院の食事が口に合わず、同室の人に食べて貰いましたが、1週間もすると、お腹が空いて何でも食べるようになりました。1ヶ月もすると病院生活が板に着いて見舞いに来た人が驚いていました。
 
私が入院して間もなく、カントリーの仲間達が私の為にチャリティコンサートを開催する・・・と云う情報が入りました。黒田美冶さん、ジミー時田さん、寺本圭一さん大野義夫さん、斉藤任弘さん等が挙って参加しての大コンサートを開催して、そのチケットの売り上げ金を私の療養生活の為に寄付して呉れると云うにです・・・ そして当日のコンサートの模様をラジオ関東(現ラジオ日本)が中継放送する・・・と云う事です。
 
放送の当日、私は自分のベッドの上に正座して聴いて居ました・・・。歌手の皆さんが次々に私に対して慰めのコメントをして懐かしい曲を歌ってくれました。そして寺内たけしさんが「瀬谷福太郎に捧げる曲」を作曲、演奏して呉れた時には思わず傍目も憚らず声を出して泣いてしまいました。
 
この時私がカントリーの仲間達から受けた恩義は一生忘れる事は出来ません・・・
私が日本のカントリーの為にと思い、いつでも心の底に有るのはこの事がルーツです。
 
入院して3ヶ月ほど経った頃に寺本さんが自分のバンド、カントリー・ジェントルメンを引き連れて療養所へ慰問にに来てくれました。そこで急遽病院内の広間に特設ステージを作りそこで演奏をして、私も愛用のストラトを持ってステージに参加致しまして、久しぶりの楽しいひと時でした。
 
 この日のお陰でその後の療養生活は一変・・・ モテモテで明るく楽しいものになりました。
(41)私とギターと人との出会い(18)  瀬谷福太郎
(41)私とギターと人との出会い(18)  瀬谷福太郎
写真:原田実とワゴン・エース(1964年)
 
慰問の模様を報じた朝日新聞の網点写真から転載。
 
左から 杉はじめ、原田実、筆者、エディ深野、花田 健 の皆さん。
 
◆療養所の生活にも慣れて、住めば都で療養生活が快適になって来ました・・・
 
私は、一日も早く治って退院したい気持ちが強かったから他の患者と比較して
模範患者だったと思います。
 
最初は不味くて食べられなかった療養所の食事も、時間が待ちどうしくなって来て、食欲不振の患者の分まで食べるように様になり、太ってしまい今まではいて居たズボンのウエストがきつくなってしまい仕方なく洋服屋さんに直しに出しました・・・
私にとって初めての経験でした。
 
当時の結核の薬は不味くて量が多いので全部飲まないで廃棄している患者さんも居ました!特に飲み薬のパスは顆粒ですが量が多く、一生懸命飲むと胃が悪くなり,胃薬も同時に飲むので、その他の薬と、一日飲む薬の量はかなりのものでしたが廃棄した事は有りませんでした。
 
この時期、結核の特効薬としてストレプトマイシン?通称(ストマイ)の注射が有りまして、結核には効くが難聴になる危険性が有るとの説明でしたが私は治りたい一心で敢えてストマイの注射を受けました。
 この時の後遺症か?私の頭の中ではいつもジイジイ蝉・・・ が鳴いて居ます。
入院しているベテラン患者は文句が多いのです、ほとんどの患者が何年〜何十年と長く入院して居るので、若い医者や看護婦さんよりも病気の事は詳しいのだ!
下手な処置をすると患者が看護婦さんに教える事も有りました。
当時医学が新しい方向に進みつつ有る時期で、医者の雑談で次の医療の目標は癌だから・・・癌の研究に力を入れよう・・・等と話していました・・・ 1960年代です。
その頃背中を開いて肺を外科手術するのが盛んに行われて居ました、私も外科部長から勧められましたが、私はギターを背負うので無理が有る・・・ と担当の内科部長小阪先生の反対で手術を止め、内科だけの治療に専念する事に致しました。
入院して約10ヶ月位したある日、肺の病巣が落ちついて来たので毎月の検診に通院する事を条件に退院が許されました。
私は飛び上がらんばかりに喜び!(但し酒、煙草、水泳、女性関係の禁止との厳しい条件が付いて居ました)。
早速皆に連絡しまくりました・・・
入院した当時私の為のチャリティーコンサートでも尽力して下さった田中正子さんから、横浜西口のステーションビルの6階にライブハウスを開店するからバンドを組んで専属になって・・・のお誘いを、喜んでお受けしました・・・ お店の名前は「ロンスター」でした。
早速 寺本圭一とカントリー・ジェントルメン時代の仲間だった斉藤任弘さんと組んでロンスター5を結成、ボ‐カル斉藤任弘、Eギター瀬谷福太郎、Sギター山田幸保、ベース、ドラム、5名のメンバーでした。
私は10ヶ月の入院で足腰が弱くなり、立ってギターを弾くことができず、椅子に腰掛けて弾いて居ました。
それと退院してから毎日、田中さん紹介の病院で栄養剤の注射をして貰いながらの演奏でした。
当時ラジオ関東(現ラジオ日本)から夕方の生中継放送が有りまして、アナウンサーの長崎 節さんはこの放送が最初の仕事と伺っております。
このロンスターに元ミュージカルステーションの金子洋明さんが女子学生カントリーバンドを率いて出演してヨーデルを歌って居ました。  この頃は学生バンドの数も多くプロを目指す人達も多いので横浜の自宅でギター教室を始めましてその頃の生徒でヴィレッジシンガーの小松久さん、大野義夫さんバンドの石黒怜さん等が生徒でした。
この時代が音楽の変わり目だったと思います。
E・プレスリーの出現でロカビリーが流行って、ツイストのダンスからよりビートの強いロックサウンドになって行く。
ベンチャーズの出現で一大ギターブームで下駄屋もギターを作ったと云う話も有る・・・
この時期、あの寺内タケシさんがブルージンズを結成したのは横浜ロンスターだったと思います。
6ヶ月位で私も元気になりまして、お世話になったロンスター5を解散して、私は古い仲間の原田 実さんのバンド、ワゴン・エースに戻る決心を致しました。
斉藤任弘さんはスチールギターの山田幸保さんが設立した会社「エコー」後の「エルク」に就職して新しい路に進みました。
 
私がワゴン・エースに戻ってからのある日、街で療養所時代の山中さんと偶然お会いしました・・・
山中さんはまだ療養生活中でして、結核回復者の為のコロニー建設計画をしている人でした。
 
これがきっかけで、私はお世話になった療養所の慰問を思い立ち、原田 実さんに相談したら、心良く受けて呉れて喜んで参加してくれました。
そして昭和39年7月(1964年)に原田 実とワゴン・エースの国立村山療養所への慰問が実現しました・・・ 当日は病院関係者、新聞各社等大変な賑わいでした。
          
(42)私とギターと人との出会い(19)  瀬谷福太郎
(42)私とギターと人との出会い(19)  瀬谷福太郎
写真は1965年に新宿百人町に開店したフォークヴィレッジのステージにて、
左から伊東きよこ、筆者。
 
◆原田 実とワゴン・エースに復帰した私は入院していた時にいろいろ考えて居た事・・・ これからはもっとアマチュアの人達との交流を深めて一緒に音楽を楽しもう・・・ との結論を実行する為に、まず東京田園調布に有る深野英明さんノ自宅の一室をお借りして、ギター教室を開きました。
 
田園調布と云う便利さもあって生徒が多くなりました。
横浜時代からの小松さん等数人と伊東きよこ(出張教授)、新たにあの加藤タキさんが仲間のグループ数人でバンドをやりたい・・・と習いに来ましたが、その頃からお母様のお手伝い等公私に忙しくて中々全員での練習が出来ないので大変苦労したのを覚えています。(その後加藤タキさんは海外留学の為退会)
当時の日本はカントリーミュージックが盛んで各大学には必ず2〜3本のカントリーバンドが有り、各バンドの交流も盛んでした。
小松 久さんが成城大学へ通っていた事もあって森山良子ちゃんも良く遊びに来て皆で歌ったり弾いたりして楽しんで居ました。
私は各大学のカントリーバンドを集めてコンサートを企画しました!「ジュニア カントリー&ウエスタン ジャンボリー」と長いタイトルでしたが1回目をコンサートホールで
立ち上げました。
演奏は大学バンドが中心でゲストバンドに原田 実とワゴン・エースの出演でした・・・
大きなホールでのコンサートの経験の無い学生バンドですが、皆頑張ってのステージに会場は盛り上がり,当時にしてはアマチュアコンサートは珍しく話題になりました。
この頃アメリカのフォークソングが学生の間で徐々に流行し始めました・・・
そして瞬く間に学生中心のフォークソング・ブームとなり雨後の竹の子のように数多くの音楽団体が生まれ活動を始めました!
私も成城大学の花岡さんを迎い入れてJ.J(ジュニア・ジャンボリー)と改名して新たな発足をしました。
金子洋明さんはスチューデント・フェスティバルを立ち上げフォークソング・ブームの幕開けです。
渡辺プロ所属でカントリーミュージックの代表の寺本圭一さんもフォークソングのグループを設立して活動を開始、世は正にフォークソング一色でした。
学生サークルから有能な人達が続々誕生!
森山良子、マイク真木、伊東きよこ、フォー・センイツ、ブロード・サイド・フォーなど等の出演でコンサートは満員の盛況で・・・ 当然マスコミ、プロダクション、レコード会社等が活発に動き始めました。
代表的なのはマイク真木の「バラが咲いた」で、最初、彼はあまり乗り気で無かったが、今にしてみれば大きな財産だと思います。
「小さな日記」のフォー・センイツ、「この広い野原いっぱい」の森山良子、「若者たち」のブロード・サイド・フォー。 
 
そして何と私のギターの生徒だった伊東きよこさんが「花と小父さん」でレコードデビューしました。
レコードキャンペーンでTV出演のお手伝い、 トワヱモアとのジョイントコンサートで地方巡業のギター伴奏と伊東きよこの後見人役で一緒に回る忙しい日々でした。
 
私は学生達にフォークソングをタップリ楽しんで貰いたいと思い、新宿区百人町にフォークソングの店「フォークヴィレッジ」を開店しました!
開店に合わせて各楽器メーカーに相談した所フォークギターが提供されて、ぞくぞく届けられました・・・
店の壁に掛けて、学生達が学校帰り手ぶらで来て好きなギターで弾ける様に・・・ との配慮です。
所が気が付くと壁のギターがだんだん減っていくんで良く見ると空のギターケースを持って来て帰りに壁のギターを入れて帰る・・・ 店が混んで居ると帰りにいちいちケースのチェックも出来ないし・・・
メーカー提供のギターはほとんど無くなりました!
しかし当時このフォークヴィレッジの評判は物凄く、新聞、雑誌、TV,ラジオ等の取材の連続で開店2−3ヶ月は大変でした。
1965年 この時期にもう一つ大きな仕事をしました!
当時、若者達に人気が有った週刊誌 平凡パンチが別冊 「平凡パンチデラックス」の発売に合わせて
フォークソングとウェスタン音楽の大特集を企画しました。
ジミー時田が学生バンドのリーダー達と語る「ウェスタンとフォークはぼくたちの歌」
黒澤久雄、 永 静雄、森山良子、等  企画は大成功! 発売日3時間で17万部即日完売!
第2号で瀬谷福太郎の「ギター専科」を手がけました!
64ページ 初心者向けの「ギター入門書」と「フォーク&ロック・ヒット曲集」でこの企画が大ヒット。
 
号を追うごとにますます人気が高まり、1年後の8号では「オール楽譜つきヒット30曲集・フォークソング専科」という別冊付録で、読者からは「デラパン歌本」と呼ばれている。
当時は忙しくて時間が無く、毎晩仕事が終わると築地の平凡社の近くの旅館に缶詰にされてアレンジをしたり、譜面を書いたりしていました。
 
その時は大変で辛かったけれど、今振り返ると懐かしい楽しい思い出です。
         
(43)私とギターと人との出会い(20)  瀬谷福太郎
(43)私とギターと人との出会い(20)  瀬谷福太郎
写真左から筆者、原 一夫、三田ひろし、岸邊成一、
 
◆ジュニアジャンボリー(J.J)時代の話です。
 
大阪のウェスタン同好会と共同主催で大阪御堂筋会館でのカントリーコンサートを企画しました。
 
所が開催日が迫って来るのに現地主催者から交通費が送られて来ないのです!
J.Jのスタッフは全員学生ですからお金の事となると全部私の所にきます・・・
 
東京からのメンバー(黒田美冶、ジミー時田、原田 実)その他バンドのメンバーとJ.Jのスタッフ等総勢20名近く連れて行くのに新幹線の予約乗車券を買わなくてはなりません・・・ スタッフからの報告に依ると事務所にそのお金が無いと云うのです!
 
私はJ.Jの責任者として仕方無く、当時ギター教室の生徒だった学習院大学ブルー・レンジャーズの青木元雄さんに無理矢理頼み込んで、私の愛用のギター「ストラトキャスター」を10万円で買って貰い、そのお金で新幹線の乗車券を買いまして全員無事大阪へ行けました。
 
この話しには後が有ります!
大阪のコンサートが終わり暫く過ぎてから青木さんに、あのストラトはご存知の事情が有って止む無く手放したが、どうしても欲しいギターなので改めて買戻したい・・・ と話しました。
 
所が「瀬谷さん実はあのギター盗まれてしまいました!」 私の手元に無いのです・・・
そしてその時のショックで青木さんはカントリーバンドを止めてしまわれたそうです。
「1950年代ストラトキャスター」 今誰が持って居るのか!
瀬谷福太郎愛用のギター 2台目の「WANTED」です。
この時の大阪御堂筋会館の会場に当時学生だった三田ひろしさんが楽屋に訪ねて来られました。大のカントリーファンで現在友達とバンドをやって歌を唄って居ます・・・
卒業したら上京したいので宜しく・・・ との事でしたので、その場でカントリーの大御所黒田美冶、ジミー時田さんに紹介しての初対面! 
ジミー時田さんから学校を卒業したら是非東京にいらっしゃい・・・との優しいお誘いの言葉・・・
その後三田ひろしさんは上京して当時私のバンド「ドクターズ」に参加して素晴らしい歌唱力で、当時流行って居たフォークソング、フォークロックのジャンルで活躍して当時の流行ソノシート盤にA面Eve Of Destruction(明日なき世界) B面Blowin' In The Wind(風に吹かれて)を録音、発売されました。
 
その後三田ひろしさんは杉はじめとホームタウナーズに参加、米軍基地のクラブ等ではジョ二ー三田の愛称で大変な人気でした。
 
原 一夫さんはフォークソングの世界で一世を風靡したサベージに参加しました。
 
岸邊成一さんはジャズドラマーとしてそれぞれ巣立って行きました。
 
嬉しい事は昔の仲間として今も皆さんとお付き合いが続いて居る事です。
(44)私とギターと人との出会い(21)  瀬谷福太郎
(44)私とギターと人との出会い(21)  瀬谷福太郎
写真左から筆者、トミー藤山。
 
◆1960年代日本ではフォークソングが大流行の頃にベトナム戦争が勃発しました。
トミー藤山さん(現、トミ藤山、文中ではトミーとする)から電話が有りまして「瀬谷さん、コカコーラのスポンサーでベトナムの米軍基地慰問の話しが有るんだけど力貸して呉れない!」の誘いの言葉に、その場で二つ返事で引き受けました。
早速メンバーを集めました・・・
ドラム加瀬沢道夫さん、ベース花田 健さん、Eギター瀬谷福太郎と決まりました。
 
同行メンバーでトミーさんの自宅での練習を数回重ねました・・・
 
今迄は父親が必ずついて居たのに、今回は妹に付き添いさせると言うのです!
 
年長者である私が親代わり? 責任の重い役割になりました。
いよいよ出発です!
羽田からエールフランス航空で、途中グアム空港で給油して一路ベトナムへ・・・
 
そして厳重な警戒のサイゴン空港(現ホーチミン)へ無事着きました。
ベトナムでの最初のショーはサイゴンの街の米軍専用ホテルのクラブでした。
ベトナムでの最初のトミー藤山カントリーショーはバカウケで大成功!
 
物凄く盛り上がって、2回も3回もアンコールを受けて、その度にビールやウイスキーを勧められるがままに呑んでしまうのでトミーさんはベロベロに酔っ払ってしまって、何をやって居るのか分からない状態になってしまい・・・ショーを終わらせるのが大変でした!
 
やはり父親から開放された気の緩みからか・・・ これから先の道中が思いやられました。
しかもこの後がありました!
担当マネージャーの話しに依ると、私達が演奏したホテルのクラブが次の日の夜にベトコン(communist)によって爆破された!と聞き・・・1日違いでの命拾いでした。
その後、私達は地図の下から上に向かい米軍基地を移動して行きました・・・
基地の中の宿舎に泊まったり、民間の家を借りた宿舎に泊まったりして居ました。
私達アーティストは米軍基地の中では将校待遇で、食事、トイレ、シャワー等々
あらゆる物が将校専用の物でした。
私達に護衛が着いたんです・・・ 夜、皆さん明日の予定は?との質問に「明日は
午後から海に泳ぎに行きたい」と云うと、何とジープで迎えに来て呉れました。
そして私達が遊んでいる間中ライフルを持ち護衛して呉れて居ました・・・
兵隊に質問しました ベトナムに来ていて「日本人の護衛をしていて寂しくないですか?」
彼は「私はベトナム戦争に反対です・・・こうして皆さんの護衛をしている間はべトコンと戦わなくて済むので嬉しい・・・」と云って居ました。
この兵隊の案内で軍の試射場に連れて行って貰いライフル銃と拳銃の試射をさせて貰いましたがかなりの衝撃が有るのに驚きました。
 
ダナンの民家の宿舎に泊まった時に暑いので水のシャワーを浴びようと蛇口を捻ると出てきた水はボウフラがいっぱいでした。
 
べトナムの水は沸騰させなければ絶対飲めないので私達はコカコーラかペプシコーラかジュースを飲むんですが、そんな水ですから氷も駄目なので苦労しました・・・ 暖かいコーラは不味い!
 
食事をすると蝿がブンブン飛んできて、私達はそれを追っ払うのでなかなか食事が出来ません。
 
現地の人達は真っ黒に蝿が集った食べ物を平気で口に持って行く、確かに口に蝿は入らないけれどなかなか出来ない行為でした。子供達の目、鼻、口に蝿が止まっても平気で食べたり飲んだりしていて、神経質に蝿を追う私達を不思議そうに見て居ました。
ベトナムの米軍基地の殆どが山の上に有り、移動は航空機で一旦海上へ出てから陸地に入るコースで、車を使うとベトコンに攻撃されてしまうのでこの方法しか無かったったようです。
 
基地が山の上と云う事で夜になると下のジャングルに居るベトコンをヘリコプターが照明弾を使いながら
機銃攻撃する光景はいつも見られました。
先に書きましたが米軍側の人員、物資移動は殆ど軍用機によるものですから、その量は莫大なものです。私達が移動で空港に行ってもあくまで軍需優先ですから民間人はいつ飛行機に乗れるかは全く分かりません・・・
2〜3日待った事も有りました。
待って居る間、私は体中にオリーブオイルを塗って日光浴をして居ました・・・
南国の太陽で見事な黒焦げで、現地人は呆れて見て居ました
 
現地人は日光を避けて日陰で暮らして居るのです。
ちょうどその頃ベトナム米兵慰問に来た伊藤素道さんやジョージ川口さん等をダナン空港へ出迎いに行きましたが、私の余りの黒さに見分けられず現地人だと思ったそうです。
不思議だったのは南国特有のシエスタと云って昼寝タイムが有る事でした!
 
朝寝坊の私達が起きて町に出ると、人は誰も居ない、シーンとして居て犬や猫だけしか居ない町・・・?  
まるで映画「真昼の決闘」を思い出させるシーンが毎日有るのです。
 
その代わり朝が早い!  朝の暗い内から市場は人がいっぱい、 ウジャウジャ人だらけ・・・そして朝日の出る頃には犬と猫しか居ない! 
 
夕方も太陽が沈むと 何処からとなく 人が集まり出して 夜店の屋台は 黒山の人だかり! 毎晩、毎晩日本の縁日みたいな賑わいだ!  これが南国ベトナムの一日でした。
 
私達がいつも移動に利用するプロペラ飛行機は軍用機ですから座席シートは有りません!
ハンモックが両サイドに吊り下がって居るだけの人間も荷物も一緒の厳しいものでした。
ところが機長は男性です・・・   トミーさんと妹さんの二人はいつも見事に愛想良くして機長室へのご案内でした。
私達は軍用の荷物と汗まみれの米兵達に挟まれてグジャグジャの移動でまるで西部劇の一シーンの様でした。
こんな話しは序の口で「トミー藤山、瀬谷福太郎のベトナム珍道中」は腹を抱えて笑う様な面白い話しが沢山有りますが、余り書くとプライバシーの問題があるのでこの辺にしておきます
トミー藤山さんと妹さんの二人はタイの米軍基地の慰問の仕事で別行動に、 私達は一週間の香港旅行で楽しみました。
この時ベトナムに持って行ったギターはヤマハのSGタイプのギターにファゼイの藤井三雄さんにアームベンダーをオーダー
して取り付けて貰いました。
現地のショーでは大好評でしたが、 帰国する時に現地の兵隊に譲ってきました。
 
東京に帰ってから知った大失敗が有りました。
ベトナムに行くので戦地の様子を写真にと平凡社からフイルムを預かりました。 ところが新しく買ったカメラに私が慣れてなくて全部NG!  アウトでした。
 
そんな訳でベトナム珍道中の写真は有りません・・・   残念です!
(45)私とギターと人との出会い(22)  瀬谷福太郎
(45)私とギターと人との出会い(22)  瀬谷福太郎
写真:デヴュー間もない頃の 南こうせつ さん
 
前回のベトナムの話しに続きがちょっと有ります・・・
私達が東京に戻ってから数ヶ月後に、あの時の楽しかった思いを求めて再度ベトナム戦線に戻った仲間が居ました。
 
所がベトナム戦争はその後の数ヶ月でベトコン側優勢になってしまいました。制空権100%でも、地上権はベトコン側ですからアメリカ軍はジャングルに枯葉剤を撒いたりして大変な戦争になってしまいました。
 
米軍基地には絶えず迫撃砲が打ち込まれて負傷者も多く出て、食事も冷凍食品ばかりで、それも食べられない時も有ったそうで、数ケ月前とは天国と地獄の差が有ったとの事でした。
 
2回目にベトナムへ行った仲間達は、本当に死ぬかと思った事が何回も有って、生きて日本に帰れないのじゃないか・・・と思った! 本当に命が縮まった!!と後悔していました。
 
私は東京に戻り、久し振りに新宿フォークヴィレッジに集まって来る若者達の元気な様子を見て感激しました。
 
日本は凄い! 東京は凄い! 特にあの時代の若者達は凄く元気が有ってそれぞれが学業、音楽、社会、政治等真剣に取り組んで居たように思いました。
 
当時音楽はカントリー、ロカビリー、ビートルズ、アメリカン・フォーク、オリジナル・フォーク、ボサノバ、等と若者達の中に広まって行きました。
 
特にフォー・クソングは世界的に流行しました。
 
世界中で反戦フォーク・ソングを歌うアーティストが増えて日本にも来て各地で公演してフォーク・ソングブーム、反戦ソングブームを起こしました。ジョン・バエズ、ボブ・ディラン、ピート・シーガー、P.P.M 、等がその中心でした。
 
反戦ソングを歌い新宿駅等で学生達が大勢集まり大騒ぎしていた時代も有りまた。
 
私が主催していたジュニア・ジャンボリー、金子洋明さんが主催していたスチューデント・フェスティバル等などが都内のあちらこちらのホールでコンサート活動が盛んになり、その中から元気な若いスター達が
続々誕生し始めました。M.F.Q、マイク真木、森山良子、伊東きよこ、フォー・セインツ、ブロード・サイド・フォー等、フォーク・ソング時代の新しい夜明けでした!
 
60年代音楽の流れが変わり始めた時代の思い出話しをします
 
私は横浜の日本楽器ヤマハ西口店のヤマハ音楽教室で25年間フォーク・ギターの
講師をして居りました。
 
60年代に音楽が盛んになり、日本楽器ヤマハがミュージックコンテストを企画、
各地で始まりました。 
 
1回目のタイトルが「ライト・ミュージック・コンテスト」だったような記憶です???
 
この当時は洋楽が全盛ですからアマチュアのジャズ・バンド、ハワイアン・バンド、ウエスタン・バンド、シンガー達とそれを応援するお客で大変な賑わいでした。
 
審査員は当時現役バリバリの猪俣 猛さん、大橋節夫さん、鈴木章治さん、薗田憲一さん、それに私、瀬谷福太郎等でした。
 
2回目か3回目辺りからタイトルを「ポピュラー・ミュージック・コンテスト」(ポプコン)となりまして、アマチュアの作ったオリジナル曲を中心に審査をするようになりました。
それまで日本の音楽歴にシンガー・ソングライターは殆ど無く、歌う人、作る人、の分業でした。
 
外国ではシンガー・ソングライターは当たり前で、特にカントリーやフォーク・ソングの世界では決して珍しい事では有りませんでした。
 
このコンテストに合わせて日本楽器ヤマハは合歓の里にホテルと研修室を建てて、全国のヤマハ支店からシンガー・ソングライターの卵を募り、大型バスで合歓の里に送り込み一週間の予定でプロの先生方とマンツーマンのレッスンを受けさせる事を始めました。
作曲の勉強したい、作詞を勉強したい、ギターを勉強したい人等など、一週間はどのコースでも
好きなだけ何回でも講習を受けられるシステムでした。
私も講師の一人として、この合歓の里特訓に参加致しましたが皆さん真剣にレッスンに取り組み
熱心な人は講習の終わった後、部屋に押しかけて来てレッスンをせがむ生徒も居ました。
しかしこの当時の音楽業界は洋楽が全盛でアマチュアの作った楽曲等、全く相手にしてもらえませんでした。
フォーク・ソング、シンガー・ソングライターと云う新しいジャンルの音楽をどうやって浸透させるか・・・しかしこの音楽の波は瞬く間に日本中に広まりました。
頑なにアマチュア音楽を拒んでいたラジオで、それも文化放送でのレギュラー放送が決まったのです。
バイタリス・フォーク・ヴィレッジと云う番組が始まりました。
アマチュアのシンガー・ソングライターが作った曲が初めて電波に乗り全国へ流れたのです・・・
日本の音楽業界の新しいスタートでした。
一箇所流れが出来れば後は時間の問題でした・・・
あちらでも、こちらでも、と徐々に新しい流れが出来始めて、日本中にシンガー・ソングライターの大きな流れが生まれました。
何回目かのポプコン審査だったかは忘れましたが、東京銀座ヤマハホールで開催のされたポプコンの出場者の中に何と「南こうせつ」さんが居たのです!
当日の審査カードには「南 高節」と有ったような記憶です・・・
なぜ私が数十年前のアマチュア・シンガー・ソングライターを覚えて居るか? 
本邦初公開の思い出話しで、次のような事が有りました。
当日の審査員は3〜4名だったと思います。
コンテストは順番に歌う人達を、それぞれの先生方が採点して最終的に審査員の出した得点を集計して、改めて審査員の先生方の意見を集約して、多数決で1位、2位、3位を決めるのです。
随分議論居たしましたが、私の推した南さんは残念ながら2位になってしまいました!
私は非常に残念だったので楽屋へ南さんを訪ねました。
そして今日の君の歌も曲も大変素晴らしかった・・・ 私は惚れ込んで1位に推薦したが残念ながら多数決で2位になってしまった。君の素晴らしいセンスは可能性が有るのでこれからも頑張って良いシンガーになって下さい・・・ と励ましました。
私は彼の歌にすっかり惚れ込みました! と云っても私はヤマハの講師ですから出場者の連絡先を事務所に聞く訳にいかず、音楽仲間を介して南さんにレコード会社を紹介しましょうか?と打診致しました。
南さんは、実は、先日、日本クラウンのオーデションを受けたので、もし不合格だった時には宜しくお願いします・・・との返事でした。
南さんはその後日本クラウンに合格した為、私との話しは消滅しました・・・ が この時の諸々の話しがあの「神田川」へと繋がるのです。
 
その後、南こうせつさんにお目に掛かった時に、この話しをしましたら南さんは覚えて居られました。
 
今、考えてみて あのコンテストで南さんが1位になって居たら「南こうせつ」さんにはどんな人生が待って居たのだろう???と思います・・・   これが運命なのでしょうか?
 
この時期、前記33〜35「浅沼 勇」さんが「吉田拓郎」さんと出会い、あのエリックレコードを創立一世風靡したのもこの時期で日本の新しい音楽の流れが生まれた時期で今の音楽の原点だと思います。
(46)私とギターと人との出会い(23)  瀬谷福太郎
(46)私とギターと人との出会い(23)  瀬谷福太郎
写真:左から林ゆたかさん、比企さん、エディー深野さん、瀬谷福太郎、小松 久さん、
 
◆1960年代日本の楽器メーカーは、グヤトーン、テスコ、日本楽器ヤマハ 等でエレキギターは前記のグヤとテスコが中心で、後は小さなメーカーがポチポチ作って居ました。
 
その殆どが自社のデザイン、自社のマグネットのピックアップなので私達が欲しがって居るMADE IN U.S.Aの楽器と比べるとデザイン、音色にかなりの差が有りました。
 
しかし欲しい楽器を買いたくても、その物が無くて買えない時代・・・
質屋等から運良く買った人は居ましたが、殆どの人は日本製のギターを弾いて居ました。当時 寺内 武さんでもグヤトーンのギターを弾いて居た時が有りました・・・
楽器の違いに依る音の違いで思い出話を一つ・・・
あのTokyo Grand Ole Opryのステージで初めて参加した「ウエスタン・キャラバン」(現サンミュージック相談役の相澤さんのバンド!) 何とスチールG、エレキG、アンプが全部フエンダー製でした。
彼等は横須賀海軍基地のある酒場で演奏して居て、水兵から買ったそうです!
彼達と私達のテクニックの差は無いと思いましたが出て来る音質の違いに皆驚愕!!!
あのSPEEDY WEST&JIMMY BRYANTの音がするじゃないですか!!
東京のバンドの連中は皆愕然 楽器の違いをマザマザと知らされました・・・
今でも相澤さんと会うと当時の話に花を咲かせます。
その後ベンチャーズブームでギターがバカ売れした時が有りました!
売れに売れて製造が間に合わないので 木工を扱って居る下駄やさんにもギターの製造を頼んだ!  との話しも有りましたが? これは楽器と下駄では使う木の材質が全く違う ので全くの「噺」だと思いますが?  猫も 杓子も・・・ と云う位凄いギターブームの時代が有りました。
その頃の事で、横浜のライブハウス「ロンスター」でのバンド仲間の山田幸保さんが経営の会社エコーに仲間で和製ジョニー・キャッシュ斉藤任弘さんが社員として就職して、新たにギター部を開設、社名をエルクと変更して新たに発足致しました。
エルクのギター部の責任者になった斉藤さんは早速外国のメーカーに負けないギターを
作ろうとU.S.A製の高級ギターえを分解して研究・・・ 新しい技l術を身に付けました。
 
エルク楽器は社長の山田幸保さんが自分のスチールギターを弾くのに使うアンプを作る事から始まった会社で、そのアンプもフエンダーのツイン・リバーブそっくりのアンプを作り使って居りました。
そのアンプが当時フエンダー製のアンプを買えない時代に大ヒット致しまして株式会社エルクは楽器メーカーとして知名度を上げました。
 
これに味をしめたのかフエンダーのジャガーそっくりのギターを作り売り出しました!
日本で最初のコピーギターの始まりではないか?と思います。
これがフエンダーを買えない層に中々の評判で、各大学のカントリーバンドやアマチュアのロっクバンド等のプレイヤー達に売れまくりました。
 
(因みに前記(株)エルクでフエンダーのジャガーそっくりのギターを作った斉藤任弘さんはその後(株)グレコギターの神田商会への転職、そしてあのフエンダー・ジャパン設立に多大な貢献をして同社の取締役で大活躍)
 
社長の山田さんから、瀬谷さんこの際もっとギターの宣伝する為のバンドを組んで活動して呉れない! と頼まれましたので急遽仲間を集めたのがこのメンバーです。
元カントリー・ジェントルメンの林さんと深野さん、一番弟子の小松さんとベースの比企さんです。 
早速このメンバーで株式会社エルクの楽器用パンフレット表紙の撮影から始まり各地のイベント会場でのデモ演奏と大忙しの大活躍でした。
その後林さんと小松さんはヴィレッジ・シンガーズで大活躍。
 
エディー深野さんは渡米してアメリカ本土でデビュー、現在はシアトル在住で現役で頑張ってます。
 
嬉しいのは小松さんからは絶えず連絡が有りまして、年に1〜2回はライブに誘って呉れて若い人と一緒の演奏を楽しんで居ります。
(47)私とギターと人との出会い(24)  瀬谷福太郎
(47)私とギターと人との出会い(24)  瀬谷福太郎
写真は久松定隆さん、
 
◆1960〜90年代はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌社等のあらゆるジャンルにカントリーファンなる人達が沢山居られまして、学生時代に仲間とバンド活動をした方々も沢山居られました。
音楽評論家の藤井 肇、高山宏之、和田誠司、油井孝太郎等の先生方には大変
お世話になり・・・ 高山先生のご自宅にはエディー深野さんと一緒に何回もお邪魔して、私達のつまらない質問にも嫌な顔をせず、あの独特のしゃべりで応対してくれました。
 
私達のカントリー&ウエスタン、フォーク・ソング等の音楽を広く普及させるにはマスメディアの強いバックアップがないと大きな発展は出来ません。
 
あの時代に強い力で応援してくれた方々は数多くいらっしゃいましたが、特に私達の音楽と云うか、日本の音楽の発展に力を注いで呉れた方がいらっしゃいました。
今や世界の「電通」と云われる広告会社・・・  あの電通社員の久松定隆さんです!
 
学習院出身の久松さんは大のカントリー大好き人間で、電通に出社するのにカントリースーツにウエスタンブーツで身を固めての毎日・・・ 電通の中では名物になる位強烈なウエスタン派で、広告業界では有名な方でした。
 
TBS「東京音楽祭」、「歌え太陽」、TV神奈川「ハウディ カントリー」、テレビ東京「タモリの音楽は世界だ!」、その他数多くの音楽番組を陰で支えるスポンサーサイドで力を発揮された方で、日本のカントリーを含めた音楽産業の為に貢献してくれた方です。
 
一つの番組を作るのには局側、スポンサー、制作会社、芸能プロダクション等々大勢のスタッフが集まり番組を作るのですが、一番大切な事はスポンサーが気に入る番組を制作出来るか否かで、久松さんの責任は大変重いのです。
 
しかしどんなに素晴らしい番組が制作されてもスポンサーサイドですから、字幕スーパーに名前が載る訳でも無く、いつでも縁の下の力持ちの役に徹して居るだけです。
 
東 理夫さんが企画,構成、私が音楽監修でお手伝させて頂いて強く印象に残った番組に「HOWDY'E COUTRY」が有ります。
 
それこそカントリー界を総動員したような番組でした!
 
司会 伊東きよこ、スマイリー小原
 
カントリー出演者
黒田美冶、ジミー時田、小坂一也、寺本圭一、大野義夫、宮前ユキ、森山良子、
斉藤任弘、尾崎紀世彦、清野太郎、エディー村田、坂本孝昭、かまやつひろし、
デーブ久保井、杉はじめ、ボビー岡本、ジャイアント吉田、
 
カントリー以外からのゲスト
薗田憲一とデキシーキングス、東京混声合唱団、相良直美、鳥塚しげき、辻 久子、
山下敬二郎、小野ヤスシ、細川俊之、菅原洋一、高石ともやとナターシャ・セブン、
なぎら健壱、伊東ゆかり、来栖あんな、アン ルイス、ダ・カーポ、加山雄三、他
そしてこの番組から、現在活躍中のあのコーラスグループ「サーカス」が誕生したのです!
 
この番組にはなんとサントリー、トヨタ、セイコー等のビッグスポンサーがずらり付いての放送!そしてゴールデンタイムと云われる午後7時からの放送で夢のような時間帯でした。
 
この番組の凄かったのは前記、カントリー以外のジャンルのゲストにカントリーを挑戦してもらう事でした。
 
クラシック・ヴァイオリンの第一人者 辻 久子さんが快く受けて下さいまして当日スタジオで「GOLDEN SLIPPER」と「WASHINGTON COUNTY」をあの名器ストラディバリで弾いて下さいました!  感激でした 素晴らしい音色に感動しました・・・こんな曲を弾かれるのは辻さんは恐らく初めての経験だったと思います。
 
加山雄三さは学生時代の仲間達、カントリークロップスのメンバーと参加して懐かしいカントリーソングを歌ってくれました。
テレビと云うのは普段観られない物を見せて呉れるものだ!とつくづく思いました。
 
久松さんは女優(故)河内桃子さのご主人です・・・
思い出に残るのは、ある時久松さんの発案でカントリー好きの仲間達を集めてバンドを作ろうとの事・・・ 早速仲間達に呼びかけました。
プロは私と伊東きよこ、鈴木恒雄さんで後は業界のカントリー好きな人達の集まりですが練習日には噂を聞きつけてギャラリーが続々と集まり大騒ぎになりました。
メンバーのスケジュールを合わせて時間が出来ると久松さんの自宅で練習が有ります・・・
 
ある時、河内桃子さんが私もテネシー・ワルツを歌いたい!  との事・・・
さらに何と 「瀬谷さんとデュエットで歌いたい」との希望で二人で歌った思い出、桃子さんの澄んだ声で歌った時の光景が今でも走馬灯の様に浮かんで来ます。
練習が終わると桃子さんの手料理を交えたご馳走で大宴会・・・  それが楽しみで参加して居た人も居たようです?
 
あの当時、久松さん等が音楽界に尽くしてくれた事が現代の音楽界の発展に繋がるもので、決して忘れては為らない方だと思います。
 
久松さん有難う御座いました
 
(48)私とギターと人との出会い(25)  瀬谷福太郎
(48)私とギターと人との出会い(25)  瀬谷福太郎
写真:加山雄三さんと筆者(品川プリンスホテルのステージにて)
 
今回、加山さんの事を書き始めて居る内にとんでもない事を思い出しました・・・
 
1960年代、原田 実とワゴン・エースで当時のジャズ喫茶「銀座アシベ」に出演した時の事です。
担当マネージャから、今日の早い時間にアマチュア歌手のオーデションが有るので伴奏を宜しくお願いしますね! と云われました・・・そして彼等が歌う曲名やキーの譜面を持って来ました。
 
いよいよオーデションが始まり数人の若い男女が次々とステージに上がり得意のカントリー&ウエスタンやロカビlリーの曲を歌っていきました。
ステージ前の客席にはプロダクション関係者等数人がアマチュア歌手達の唄を聴いて審査して居りました。
彼等の伴奏が全部終わり楽屋で休憩して居ると、担当マネージャが来まして、今日のオーデションのメンバーの中に俳優 上原 謙の息子が居たんだよ! との事でした。
言はれてみれば、ルックスの良い男性は居りましたが、私達が伴奏していてそれほど印象に残るシンガーは居なかった様に思いまして余り気にしてませんでしたが、この方が後の加山雄三さんだったとは! 
何と私と加山雄三さんの初対面のシーンでした。
それから数年して、俳優として、歌手として加山雄三の名前は有名になりました。
そして私が次に加山雄三さんとお会い出来たのは前記(28)(29)の秋元近史
さんの企画で品川プリンス・カントリーパーティーの時でした。
1978年10月20日「カントリー&ウエスタン祭り」です
会場 品川プリンスホテル ゴールドホール
司会 土居まさる 徳光和夫
出演
黒田美冶、ジミー時田、小坂一也、大野義夫、宮前ユキ、小野ヤスシ、
ゴールデンハーフ スペシャル、
清野太郎、清水和夫、井上 高、瀧 道彦、山室信一郎、ポップ上野、斉藤任弘、
松本 昇、曽根幸明、金子洋明、桜井輝夫、他
住吉 尚とチェロキー・カウボーイ、杉はじめとホームタウナーズ、
石田新太郎とシティ・ライツ、
原田 実、飯塚文雄、宮城久弥、山田幸保、Aラウフ、瀬谷福太郎、他
特別ゲスト
加山雄三とカントリークロップス
構成、演出 秋元近史、瀬谷福太郎
制作 日本テレビ・エンタープライズ
主催 ウエスタン27の会
このカントリーパーティーを日テレの秋元近史さんと企画、制作を致しました。
当時は映画スターとして有名だった加山雄三さんをカントリーのステージに
上げて演奏させる事は大変な事でした。
そんな加山雄三さんを正式に紹介されまして2回目の対面でした??
お陰で私は加山さんとこのステージで「Wildwood Flower」を一緒に演奏
した記憶が有ります(上記の写真)
秋元近史さんは日本テレビに入社して、シャボン玉ホリディーを担当する
ようになっても忙しい合間をぬってカントリー&ウエスタンの為にいろいろな
企画をたてて応援して呉れました。
前記の品川プリンスのカントリーパーティー、もう一つが赤坂27会です!
丸の内線赤坂見付の駅のそばにそのお店は有りました・・・
お店の名前は「くれーん」だったと思います?
現在は喫茶になって居ます。
お店のマスターと親しかった秋元さんが時々自分のギターを持ち込んで
楽しんで居ました。
ある時秋元さんが昔の仲間、新しい仲間を集めて月に1回位バンバン
楽しく遊べる日を作ろうと提案しました。   
  
仲間達が集まり相談して決めたのが毎月27日で(にしちかい)としました。
この会は難しい規約は無く、いつでも無礼講で、カントリーが好きならプロもアマも無くて黒田美冶さんでも、ジミー時田さんでも皆同格で、盛り上がるとプロアマ混成バンドでジミーさんが唄ったり、と夢のような光景、カントリー好きなら誰でもOKで酒を呑み、歌を唄って、楽器を弾いていつでも楽しく遊べるので当時27日会は大変な賑わいで席を確保するのが容易でない時期も有りました。
私が加山さんと3回目にお会いしたのが前記24章TV神奈川の番組でした。
企画、構成 東 理夫、 音楽監修 瀬谷福太郎
この時も学生時代の仲間カントリークロップスを率いての出演でした・・・
カントリーをやる時には昔の仲間が居た方が楽しいのでしょうね。
 
加山さんはメンバーが唄う「You Gotta Have A Licence」 「Invitation To
The Blues」 「Don't Laugh」「Honkey Tonk Man」 「Yor Cheating Heart」
「My Shoes Keep Walking Back To You」  
最後はご自分の歌で 「I Forgot To Remember」を唄って テーマ曲の  
「Wildwood Flower」を演奏、フェンダー・ストラトキャスターを弾きまくりまして素晴らしい番組が出来ました。
 
私はギターを弾いて居たおかげで、加山雄三さんと何回もお会い出来て
「幸せだなぁ・・・」と思いました。
(49)私とギターと人との出会い(26)  瀬谷福太郎
(49)私とギターと人との出会い(26)  瀬谷福太郎
写真:前列左から高島正伸、サーフメンバー、寿美花代、二人飛んで山岡恵美子、 後列左からサーフ2名、大輪好夫、サーフ、高島忠夫、3人飛んで筆者、鈴木昭宏。
 
1980年代 高島忠夫さんはお元気でラジオにテレビにと大活躍していらっしゃいました。
文化放送月〜金 朝9時から11時の帯番組、日本テレビ13時から「ごちそうさま」のレギュラー番組、この番組には大野義夫さんと何回か出演しました。
そして東京12チャンネルで高島忠夫さん司会で「ポップス倶楽部」と云うTVショーが
有りました。
 
私は藤井三雄さんのファゼイが招聘して来日したバディ・エモンズさんを番組に売り込みました。  番組に知り合いのデレクターが居たのと、高島さんのお陰で売り込み成功!出演が決定致しました。
ジャズ・スチールギターの売り込み宣伝をしました所、何とジャズ界の大御所「前田憲男とウィンド・ブレーカーズの伴奏、ゲストに阿川泰子さん、かまやつひろしさん、そして共演にカントリー・スチールギターの野口武義さん、石田新太郎さん、尾崎 孝さん、ギター瀬谷福太郎等が参加、豪華な番組になりました。
まずはバディ・エモンズさんのソロを中心に「The Preacher」をウインド・ブレーカーズとの共演! エモンズさんと日本の名プレイヤー達のソロ廻しには感動しました。
2曲目はエモンズさんを中心に野口さん、石田さん、尾崎さんを交えてカントリーの名曲のメドレーで「OKie From Muskogee」と「On The Road Again」を演奏しました。
3曲目はエモンズさんとかまやつさんの共演です!曲はジャズのスタンダードナンバー「All Of Me」でかまやつさんのスキャットとエモンズさんのアドリブの掛け合いはお見事でした。
 
ここまで一気書いて居ますが間、間には高島忠夫さんの暖かいコメントが加わる事に依り番組が成り立つ訳ですから・・・ そこの所を思い浮かべて下さい、念のため!
次に番組に売り込んだのはTOKYO JAMBOREE '83「NOSTALGIC COUNTRY NIGHT」の2枚組レコードの発売記念の企画でした。
出演は黒田美冶さん、ジミー時田さん、寺本圭一さん、大野義夫さん、伊藤照子さん、原田 実さん、瀬谷福太郎、ゲスト宮前ユキさん、大宅映子さん、等でした。
その気になって3回目の売り込みは森山良子さん、かまやつひろしさん、宮前ユキさん寺本圭一さん、当社専属のバンドで大輪好夫とサーフライダースでポップス特集でした。
 
この時に出演した当社の専属バンドを高島忠夫さんが大変気に入りまして、このバンドで是非ディナーショーをやりたいとの話しが有りまして瓢箪から独楽みたいな話しでした・・・
 
高島さんは椿山荘が好きなので目白の椿山荘でドバーとやりたい!
そして今回は息子達二人を加えてファミリーでやるんだと大張り切りでした。
早速椿山荘の営業部に相談致しました・・・ 勿論椿山荘側は大喜びの大歓迎でした・・・
いよいよ高島忠夫、寿美花代夫妻初めてのファミリーディナーショーの企画スタートです。
高島さんの自宅にバンドのメンバーを集めての練習が始まりました、政宏さんも正伸さんも何回か練習に参加しましてファミリーショーの雰囲気が出来て来ました。
当時の高島さんは売れっ子で前記ラジオ、テレビにと大忙しでした!
早速レギュラー出演している文化放送の番組の中で毎日何回もディナーショーの告知を始めました。
私の予想では毎日のラジオの告知でアッと云う間にチケット完売かと思いきや、お客様の反応が悪く、ポツリ ポツリしか売れませんでした。
当の高島さんはすっかり熱が入りまして、お客様に御出しするお料理の下調べ試食会をするほどの気の入れようでしたので、つい悪い現状を云いそびれて居ました。
12月が近付きまして、そろそろ限界に来ましたので高島さんに相談致しました・・・
すると 今度仲間の立川澄人さんの日曜日の番組に出るからそこで宣伝させて貰おう!との事でした。
 
TBS日曜日朝の番組を私達は事務所で待機して居ました・・・
番組の中で高島さん夫妻が、今度私達が椿山荘でディナーショーをやるの・・・ と言って
ポスターをカメラの方に向けて電話番号を見せた所! 突如事務所の電話が鳴り始めて、3台の電話で事務員総出で対応、電話が途切れる事も無くかかって来てその日一日でディナーショーのチケット完売でした・・・ 改めてテレビの力の凄さを知らされました。
 
1984年12月22日 目白椿山荘
出演
高島忠夫、寿美花代、高島政宏(ベ−ス)高島正伸(ドラム)
大輪好夫とサーフライダース
主催 (株)瀬谷インターナショナル
協賛 味の素株式会社
協力 日本テレビ、文化放送
本邦初の高島忠夫、寿美花代夫妻のファミリーディナーショーの開演です!
お席に着いたお客様は、まず高島夫妻が試食して確かめた料理に大満足でした・・・
そしてショーのスタートです
ショーの曲目
モンボウ・シャボウ、 
すみれの花〜シンプル・メロディー
ラモーナ
恋が欲しいの
セシボン
アブラサメ
久しぶりだね
リリー・マルレーン
パパ・ラヴス・マンボ
HEY!
キャラバン
ルート66
X’マスメドレー
恋のソンブレロ
その他
 
高島忠夫さんの歌とピアノ演奏とおしゃべり、寿美花代さんの歌とおしゃべり、
そして初めて見る政宏さんと正伸さんとの演奏にお客様方は満足されたと思います。
 
本邦初の高島忠夫、寿美花代夫妻のファミリー・ディナーショーは大成功で万々歳でした。
(50)私とギターと人との出会い(27)  瀬谷福太郎
(50)私とギターと人との出会い(27)  瀬谷福太郎
写真(1) ワゴン・エース・コーラス隊
左から鈴木恒雄、瀬谷福太郎、 井上 高、関口良信(すこし陰)
 
2011年6月2日の朝、いつものようにMUSIC ROWの掲示板を見て、最初に飛び込んで来たのが、訃報 井上 高の文字! 一瞬目を疑いました・・・
 
4月のナッシュビルのステージではちょっと顔色が悪いのが気になりましたが、本人は大変元気でお嬢さんの真紀さんとのデュエットが有ったり、私は奥様ともお話しが出来たりして楽しい一時でした・・・そして6月のステージに又会う約束をして別れました。
5月に或るお店のショーに出られなかった、との情報が有ったので事務局長の大野さんに電話をしました。すると、この所、食欲が落ちて居るので、自宅から通うのが大変なので病院に入院して点滴を受けて居ますが本人は元気ですよ・・・との事でしたのに・・・・
 
3日に横須賀市秋谷の自宅で行われたお通夜に参りました。
居間の沢山の花の中に安置された棺の中に井上さんのご遺体が・・・  その傍に目を真っ赤にして付き添って居る真紀さんの姿を見た時には慰めの言葉も有りませんでした。
最後に寺本圭一さんが井上 高さんにお別れの弔辞を述べられました。若い頃一緒に近くの海で遊んで、素潜りで魚を突いた話し等など・・・そして最後に、もう直ぐ私もそちらに行きますから待って居て下さい・・・との言葉に私も頷いて居ました。
原田 実とワゴン・エースから始まった私と井上さんとのお付き合い・・・ 又戦友が一人旅立ちました。
(51)私とギターと人との出会い(28)  瀬谷福太郎
(51)私とギターと人との出会い(28)  瀬谷福太郎
写真:1959年原田 実とワゴン・エース (第4期)
前列左から 井上 高、 関口良信
後列左から 岩倉 忠、鈴木恒雄、加瀬沢道夫、瀬谷福太郎、原田 実、
 
井上 高さんとの思い出が走馬灯の様にに浮かんで来ます・・・
 
私の記憶が消えない内に井上さんとの思い出を書いて置こうと思います。
 
関口良信さんはHank WillamsとMarty Robbisの歌を得意として居ました。
 
井上 高さんは頭のテッペンから出るような甲高い声が特徴で、Webb PierceとかTommy Collins等の曲を好んで唄って居ました。
What' Chagohha Do Now やYougotta Have a LicenseやI Guess I'm Crazy等が有ります。特にSacred Songが好きでした。
ある時井上さんから、デュエットだけで無くちゃんとした3声のコーラスSacred Songs等をやりたいとの提案が有りました。
メンバー達の賛成も有って、コーラスグループの結成が決まりました!
関口さんと井上さんは当然ながら鈴木さんと何と私も候補に上がってしまったのです。
前記母親から言われた「ドラム缶を叩くような声」から人前では唄った事が有りませんでしたので事情を説明して断りましたが井上さんが強引にメンバーにしてしまいました!それも何故か4人の中で私の声が一番低いと云う事でバスを担当する事になりました。
初めてのコーラスへの参加です。
 
早速、4人でコーラスの練習が始まりました・・・私は今迄唄った事が無いので歌詞を覚えるのに大変苦労しました。
関口さんと井上さんは歌手ですから、そちらの足を引っ張っては申し訳ないので、毎日、毎日、ちょっとでも時間が有れば歌詞を見て必死になって覚えました。
そしてワゴン・エースの一員としてステージでもコーラスが出来るようになりました・・・
本当に嬉しかったです。
この時期に若い高輪克彦さんが入団しましてコーラス隊が5人になりました。 そして井上さんと高輪さんの
デュエットでAlabamaがレパートリーに増えました。
コーラスのハーモニーが上達したワゴン・エース・コーラス隊に何とNHKラジオ番組から出演のお声が掛かったのです! 朝9時から15分の番組でダークダックスと交互の出演です。
1回目の録音では
1曲目に「The Three Bells」で井上さんの歌とコーラスです。
2曲目は井上さんと高輪さんのデュエツトで[Alabama]
3曲目も二人のデュエットで「Invitation To The Blues」
4曲目に「Oh Baby Mine I Get So Lonely」いよいよ私のバスの入ったコーラスです。
5曲目は井上さんと関口さんのデュエットで「I Don’t Believe You’ve Met My Baby」
2回目以降は次の曲目です。
「EL Paso」関口良信&コーラス
「Blues Stay Away From Me」井上 高、関口良信、高輪克彦
「Please Don’t Let Me Love You」関口良信
「Yon Oughta See Pikles Now」井上 高
「Homesick」井上 高、高輪克彦
「Angel Band」井上 高&コーラス
「Nearer My God To Thee」関口良信&コーラス
「Good Night Sweetheart」コーラス
「Kentucky」井上 高、関口良信
「Where Could I Go But To The Lord」井上 高&コーラス
「I'm Gonna Sing Sing Sing」関口良信&コーラス
「Tree Of Life」コーラス
「Someone Will Love Me In Heaven」井上 高&コーラス
「Are You Washed In The Blood」 井上 高、関口良信
「How Can You Refuse Him Now」関口良信&コーラス
「You Are My Sunshine」井上 高、関口良信&コーラス
「Calling You」関口良信&コーラス
 
ある時に井上 高さんの言った一言、Sacred Songsをコーラスでやろうよ・・・
 
そのお陰で私達は素晴らしい誇れる思い出を作る事が出来ました! 
 
     井上さん有難う御座いました。
 
2011年6月1日 井上 高(79才) 永眠  合掌
(52)私とギターと人との出会い(29)  瀬谷福太郎
(52)私とギターと人との出会い(29)  瀬谷福太郎
写真 左上は池 真理子、右上は並木路子、左下は安藤まり子、右下は川田正子、中央 二葉あき子の皆さんです。
 
前記、高島忠夫夫妻のファミリーディナーショーの大成功で、早速椿山荘の営業部からイベント企画の依頼が入りました。
 
そこで83年頃から日比谷の東京会館や芝の東京グランドホテルで行って居たカントリー&ウエスタン等のディナーショーの全てを椿山荘の主催で開催する事で話し合いがつきました。
 
そして記念すべき1回目のカントリーミュージック・フェスティバルは1985年12月に開催されました。
 
出演者はジミー時田さん、寺本圭一さん、大野義夫さん、伊東きよこさん、坂本しげみさん、斉藤任弘さん、瀧 道彦さん、ウィリー沖山さん、司会者に竹中裕史さんで゜した。
当時は未だライブ゛ハウスとかコンサート等が主流で、出演者もお客様もディナショーには慣れて居ないのでちょっとぎごちない感じのスタートでした。
所が1回目から大きな問題が起きてしまいました・・・
コンサート等の会場と違いましてディナーショーにお酒は付き物… お客様が注文すればウイスキーでもワインでもビールでも飲み放題! お客様にすれば席に着けば何杯注文しても自分の権利ですから、ショーの合間にファンのテーブルに来るアーティスト達に振る舞ってしまいます・・・
そんな訳で、早速客席のファンのテーブルに行ったジミー時田さんはお客の勧めるがままにお酒を呑んでしまいましてショーの始まる前に出来上がってしまいました。
ついに椿山荘からクレームが出まして「バンド関係者は客席での飲酒禁止」の命令が出ました。
椿山荘では今迄他のジャンルでは経験した事が無い出来事だった、と驚いて居ました。
この1回目のディナーショーから毎年開催、2004年迄20年間、20回のカントリーショーを行い第1回目から連続20年間出演した大野義夫さんに椿山荘から表彰状が送られました。
1988デキシーランド・ディナーショーを企画、園田憲一とデキシーキングスを中心に津村 昭とストリービル・ダンディ―ズや細川綾子さん、森サカエさん、井上 良さん、
司会者 志摩夕紀夫さん等の豪華な出演者でその後2000年迄12年間開催しました。
1989年 平尾昌晃さん、山下敬二郎さん芸能生活30周年記念ディナーショーを企画、開催。
1991年ラテンミュージック・フェスティバルを企画、アントニオ古賀さん、浜村美智子さん、宝とも子さん、前田はるみさん、トリオロス・ペペス、有馬 徹とノーチェクバーナ等が出演、2005年まで15年間開催。
1992年シャンソンのディナーショーを企画、 高 英男さん、石井好子さん、芦野 宏さん、中原美紗緒さん、深緑夏代さん、等が出演、2005年迄、14年間開催。
1994年からハワイアンディナーショーを企画、大橋節夫さん、南かおるさん、ジョージ松下さん等とフラダンスチームが出演ステージを賑わし2006年迄13年間開催。
作詞家永田文夫さんと30人のディナーショーを1997年と2006の2回に企画、開催・・・先生の作詞した曲を唄って居るシャンソン、タンゴ、ラテン、ポップス等、業界の大物スターがずらり参加の豪華なディナーショーで当時のマスコミの話題になりました。
1994年に「コロムビア5人会」のディナーショーを企画致しました。私にしては戦後ラジオで聴いた二葉あき子さんの「夜のプラットホーム」並木路子さんの「リンゴの唄」池 真理子さんの「ボタンとリボン」等の思い出の曲の数々!その憧れの往年のスター達「二葉あき子」 「池 真理子」 「並木路子」 「川田正子」 「安藤まり子」さん等の出演が決まりまして私は大変感動致しました!
そしてこの方達のディナーショーのプロデュースをさせて頂けた事を大変光栄で嬉しく思いました・・・
このディナーショーは1999年迄7回連続開催致しました。
このディナーショーがご縁で池 真理子さんの自宅に何回かお邪魔して懇意にさせて頂きました。
 
1996年にNHK 第27回「思い出のメロディー」への池 真理子さんの出演が決まりました。そして唄う曲は「ボタンとリボン」と云う事です。
 
すると何とNHKから私に池 真理子さんの伴奏の依頼を仰せつかりました!
私は早速カントリー仲間を集めて池 真理子伴奏バンドを結成しまして練習に入りました。
 
A・ギター瀬谷福太郎、フィドル鈴木恒雄、S・ギター大江俊行、アコーディオン清水納代、ベース藤田、ドラム清水、さん等のメンバーでした。池さんの唄に合わせてそれぞれにヘッドアレンジで演奏、最終的に私が纏めて何とかカントリー風「ボタンとリボン」が出来上がりました。
本番の収録は愛知県芸術劇場大ホールでした
1部は童謡で川田正子、孝子姉妹から始まり、次にベテラン歌謡曲歌手達がずらり・・・
コロムビア5人会でお世話になって居る二葉あき子さんや並木路子さん等もご一緒の出演でした。
2部はジャズコーラスのスリー・グレイセスがトップで曲は「イン・ザ・ムード」から始まりました!演奏は三原綱木とザ・ニューブリ―ド!  ビッグバンドのサウンドに乗って大きな回転舞台が廻り始めました・・・ スリー・グレイセスショーの始まりです。
スリー・グレイセスのコーラスとビッグバンドの楽器のハーモニーとの掛け合いの素晴らしさにお客様は声も出ない感じで息を呑んで居ました・・・
スリー・グレイセスの素晴らしいステージが終わりまして私達の番です・・・
鈴木恒雄さんのフィドル演奏に合わせて大きいステージが正面に向けて回転し始めました・・・だんだん見えて来る観客の顔、顔、顔、・・・  緊張の一瞬です。
 
舞台が正面に向いた頃が合図で、曲のイントロダクションに入ります。私のAギターのリズムに乗せて曲紹介のナレーションが入ります・・・(この時使用したAギターはヤマハ製で、あのポールサイモンがオーダーしたギターです。注文を受けてヤマハが同じ物を2台作りポールに好きな方を選ばせました。そこで残ったギターを担当者の中本さんが私にプレゼントして呉れた貴重なギターで、ポールと私とで世界に2台だけのギターです。)
 
「ボタンとリボン」 戦後の外国映画「腰抜け二挺拳銃」の主題歌に日本語の歌詞を付けて唄って大ヒットした曲!
 
当日の池 真理子さんの衣装はオレンジ色のロングドレスに黒い帽子を被り「ボタンとリボン」の歌詞に出て来るような素敵な衣装でした。
 
宝塚音楽学校卒業の池 真理子さんは、広いステージを軽い動きで唄い廻りまして、間奏では清水納代のアコーディオンと大江俊行のスチールギターの演奏に合わせてステージの中央で軽いステップを踏み・・・ その姿に客席から大きな拍手が何回も、何回も湧き起って居ました。
 
改めて往年のスターの素晴らしさを目のあたりに致しました・・・
この時の映像は今観ても込み上げて来るものが有ります !
 
池 真理子さんは2000年5月30日にお亡くなりになりました。   合掌
(53)私とギターと人との出会い(30)  瀬谷福太郎
(53)私とギターと人との出会い(30)  瀬谷福太郎
写真 前列左から菊池正夫(城 卓矢) 石橋イサオ、斉藤任弘、
関口良信、原田 実、   後列左から瀬谷福太郎、藤本精一、
黒田美冶、寺本圭一、かまやつひろし、
「TOKYO JAMBOREE」
このタイトルは1958年に東芝レコ―ドが発売した日本で最初のウエスタンの10インチ盤レコードのタイトルです。
先日、故草野昌一さん(シンコ―ミュ―ジック社長)の実弟で草野浩二さん(元東芝レコ―ド デレクタ―)から連絡が有りまして、今度「TOKYO JABOREE」(1)(2)集を纏めてCD発売を企画したので宜しくお願いします・・・との事でした。
当時、私しもこのレコ―ドは所有して居りました・・・がこの貴重なレコ―ドを見たい! 是非聴きたい! と云われると断り切れずについ貸してあげて何時の間にか行方不明になってしまいました、そんな訳でCD化の話は大変嬉しかったです。
早速、草野さんの会社にお伺いしてCDのサンプル盤を聴かせて頂きました。
上記の写真を見ながらCDを聴いて居ると当時の事が走馬灯の様に浮かんで来まして涙が溢れて止まりませんでした。
1958年12月 今回のプレイヤ―達は堀 威夫とスィング・ウエストと原田 実とワゴン・エ―スのメンバ―を中心に構成されまして、それぞれにジャズ喫茶の仕事を終えて集まって来ました。
当日、録音スタジオに集まった「ウエスタン関係者」達(当時はカントリ―とは云わない)歌手とプレイヤ―達で熱気がムンムンの雰囲気で、全員最初のレコ―ディングに興奮していました。
スタジオ料金が高いから無駄に出来ないので今夜中に録音を済ませたいので皆さん頑張って下さい・・・ との要請が有りました。
この時のレコ―ディグ・デレクタ―はハワイアンのエセル中田さんのご主人で故二荒さんでした。
プレイヤ―はSギタ―大森俊雄、原田 実、Eギタ―瀬谷福太郎、植田嘉靖、フィドル藤本精一、アコ―ディオン・ピアノ新井利昌、
ドラム田辺昭知、Wべ―ス植田嘉靖、佐野 淳、
歌手は菊池正夫(By The Water Of Minnetonka)
黒田美冶(Cold Cold Heart)
石橋イサオ(My Shoes Keep Walkin’ Back To You)
寺本圭一(Live First, Love Hard, Die Young)
かまやつひろし(Teenage Boogie)
寺本圭一(Time Changes Everything)
斉藤任弘(Candy Kisses)
関口良信(Long Gone Lonesome Blues)の方々と曲目でした。
各自、夜の仕事を終えて集まったメンバ―ですからスタ―ト時間が遅いので、今から約10曲の録音に全員徹夜を覚悟致しました。
歌手とバンドとの打ち合わせ・・・ 
皆ベテラン揃いのメンバ―ですからその場のヘッドアレンジでそれぞれのパ―トを決めてテスト演奏、本番のレコ―ディングの流れ作業で次々と進めました。
当時のレコ―ディングはバンドの演奏と唄と同録ですから、誰かが間違えると全員で最初からやり直すので、各自の責任は重大です。
藤本精一さんの演奏する(Devil’s Dream Medley)は私達が普段から
ステ―ジで演奏して居たのでテスト1回、本番一発OKでした。
(Wildwood Flwer)この曲は1955年にHank Thompson’sのインストにより大ヒットした曲で、植田嘉靖さんが早くから練習して居た曲なので1曲だけ彼にお任せして休ませて頂きました。
私は上記の1曲を除き6時間以上ギタ―を弾き続けました・・・
日本のウエスタンの歴史に残る第1集のレコ―ディグは無事終わりました。
長時間のレコ―ディングで全員疲れは有りましたが、達成感の方が強くて
皆清々しい顔をして居ました。
今回のCDは「想い出のカントリ―・ミュ―ジック」のタイトルで東芝EMIから2枚組発売です。
内容は「TOKYO JAMBOREE」の1、2集と原田 実とワゴン・エ―スの特集です、お近くのCDショップで探して下さい。
(54)私とギターと人との出会い(31)  瀬谷福太郎
(54)私とギターと人との出会い(31)  瀬谷福太郎
写真 左から武久 徹、瀬谷福太郎、ジミ―時田、ジョ―・ウォ―カ―・
メドウ、井上真紀、寺本圭一、大野義夫、草野昌一、
 
1989年 第1回カントリ―ゴ―ルドが開催された年、東京で上記の人達が集まり重要な会議が開かれました。
しかしこの会議の内容に関しては今迄誰にも洩らさずに20数年間閉じ込めて居りました。
 
先日古い写真の整理をして居ましたら上記の写真が見つかりました。
写真を見て居る内に当時の様々な情景が甦って来ました・・・
チャ―リ―永谷さん主催のカントリ―ゴ―ルド発足当時の裏話として
本邦初公開致しました。
 
チャ―リ―永谷さんさんが( 以後永谷とする )第1回目のカントリ―
ゴ―ルドを熊本阿蘇で開催致しました。
この時にナッシュビルから出演するカントリ―ア―ティスト達と一緒に
当時アメリカCMAのボス、ジョ―・ウォ―カ―さんが来日すると云う情報を得ました。
 
そこで当時CMA JAPANの事務局長だったシンコ―ミュ―ジック社長、(故)草野昌一さんにお願いして帰国前に是非東京に立ち寄って頂き私達との親睦会議に参加頂きたいと要望致しました。
 
ジョ―・ウォ―さんは快く受けて下さいまして第1回熊本阿蘇のカントリ―ゴ―ルドのコンサ―ト終了後、帰国前の1日を割いてわざわざ東京の帝国ホテルに寄って頂いて我々との話し合いの時間を取って呉れた事が有りました。
そんな訳でその時初めてジョ―・ウォ―カ―さんとお目に掛りました。
 
お会いする前、名前がジョ―・ウォ―カ―と聞いて私の想像では男性かなぁ、と思って居りましたが、お名前はジョ―・ウォ―カ―・メドウとの事で女性でした・・・
上記の写真に見られるように当日はスニ―カ―を履いて軽快な感じの素晴らしい
感じのレディでした。
早速お互いの自己紹介から始まりました。
ジョ―・ウォ―カ―・メドウさんは、私はカントリ―ミュ―ジックを愛し、アメリカ国内は基より世界中に広めようと努力して居ります。そして日本もその内の一つです・・・  日本でも益々カントリ―ミュ―ジックが盛んになる事を希望します、との挨拶が有りました。
 
私達は早速今回の熊本阿蘇のカントリ―ゴ―ルドの話題に入りました。
東京側としては、九州だけでなく東京でも開催が出来ないだろうか?
との質問にジョ―・ウォ―カ―・メドウさんは「今回 九州阿蘇のカントリ―ゴ―ルドのコンサ―トに私達はカントリ―ミュ―ジック
普及の為に来日致しましたが、日本の中心である東京でも開催出来れば大変嬉しいし、その事を私達も切に希望します。しかし永谷さんと交わした契約書では熊本阿蘇のコンサ―トのみで、寄り道する事無く帰国する! との約束なので残念ながら自分達の一存では決められので、東京側と永谷さん側とで話し合って欲しい」とのコメントでした。
 
早速私は熊本の永谷さんに電話を致しました。
永谷さんに現状を説明して、今 ジョ―・ウォ―カ―・メドウさんを含めて東京のカントリ―仲間達が集まって会議をして居る最中の電話です・・・と内容を説明、東京との共同開催の提案を致しました。
 
すると永谷さんは瀬谷さん等の仰って居る事は良く分かりますが、もし東京でも開催したら熊本阿蘇まで来てくれる人が何人居ますか?熊本だけなら日本中のカントリ―ファンが列車や飛行機の利用で来てくれる可能性は有りますが、同時期に東京でも開催したら
熊本阿蘇でのコンサ―トは成り立たないと思います・・・
だからこのコンサ―トは「熊本だけでやらせて欲しい」との事でした。
 
この事は即ジョ―・ウォ―カ―・メドウさんにお伝え致しました。
すると、今後共に東京でのコンサ―トの開催が無いと云う事は非常に残念です、 そして来日ア―ティスト達にもこれから先何らかの
影響が出るかも知れない?との事でした。
 
カントリ―ゴ―ルドはその後、永谷さんの思惑通りに全国から数万人のカントリ―ファンが集まり毎年大盛況だそうです。
反面アメリカのカントリ―ア―ティスト達の間では日本公演に行っても日本の端の熊本だけで、中心の東京に寄る事も出来ずに帰されるので何もメリットが無い! と多少「ブ―イング」が有るとも聞きます。
 
それが原因かは分かりませんが最近来日ア―ティストの格が落ちて来た感じがしないでも有りません。
 
そして2〜3年前から何故か日本人のカントリ―ア―ティスト達を参加させ始めました、それがどうしてか・・・は分かりません? 。
 
20回の峠を越えて23回目の今年、カントリ―ゴ―ルドの益々の発展を心よりお祈り致します。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(55)私とギターと人との出会い(32)  瀬谷福太郎
(55)私とギターと人との出会い(32)  瀬谷福太郎
1982年にビクターレコードから私のカントリーギター30周年記念
アルバム制作の話しが有りまして・・・ 大変光栄なお話でした。
私は今迄の過去を振り返り考えました、そして結論として、私の過去
30年間カントリーミュージックに携わって来た仲間達と「一体になったアルバムを作りたい」との条件を担当者に申し入れました。
 
暫くしてレコード会社からOKの返事が出ました・・・
勿論私は喜んで承諾しました、嬉しかったです・・・
アルバム制作は決定致しました
 
その陰には北条 誠先生のご子息 北条 暁さん、岡村 右さん、金子洋明さん等ジュニア・ジャンボリー時代の素晴らしい仲間達の
応援が有って実現したものです・・・感激です。
 
早速レコーディングに向けてのゲスト・アーティストの人選が始まり
ました。
歌手ではジミー時田さん、小坂一也さん、寺本圭一さん、大野義夫さん、
斉藤任弘さん、伊東きよこさん、
プレイヤーでは成毛 滋さん、小松 久さん、三浦裕史さん等の方々の
リストを作り上げました・・・早速皆さんとの交渉の始まりです。
 
ギターの三浦裕史さんは当時アメリカンドリーム・バンドの所属で若手ギターNo1のテクニックで活躍して居ました。
今回は1960年代に駐留米軍兵士から口三味線で教わった曲を私がアレンジしてツインギターで弾く合いの手として彼に白羽の矢を立てました。
プロダクション所属の彼は、事務所を通すと面倒だからと無断で名前を伏せて私のレコ―ディグに参加して呉れました。
 
ロックギターの名手 成毛 滋さんも快く参加を決めて下さいました。
そして速弾きの曲を二人で弾こうと云う事になり成毛さんの麻布の豪邸に何回かお邪魔して曲の打ち合わせや、練習をさせて頂きました。
ヴィレッジ・シンガーの小松 久さん、私の一番弟子ですか快く参加してくれまして、私の事務所に何回も来て呉れまして、選曲やハモリの練習、アドバイス等々私の右腕になって助けてくれました。
 
同時に私が今回リストに挙げた歌手の方々との折衝が始まりました。そしてジミーさん、寺本さん、小坂さん、大野さん、斉藤さん、
伊東さん、等と打ち合わせを重ねて全員の録音曲目等が決まりました。
 
古い仲間の斉藤さんが今回唄う(RIDERS IN THE SKY)のキーをC#mで唄いたいとの希望が出ました・・・
唄の伴奏だけならばどんなキーでもOKですが今回は私のギターの絡みも考慮すると大変難しく転調の多いアレンジになりました。
 
今回の音楽監督にはの古い音楽仲間の野口武義が担当してくれまして、諸々の問題点を上手く纏めての編曲もお願い致しました。
 
曲目
「COUNTRY GENTLEMAN」瀬谷福太郎
「EARI AMERICAN」    瀬谷福太郎、小松 久
「ANY TIME」       ジミー時田、瀬谷福太郎
「BARTENDER’S BLUES」 寺本圭一、瀬谷福太郎
「GUITAR BOOGIE」    瀬谷福太郎
「TODAY」         伊東きよこ、瀬谷福太郎
「WILDWOD FLOIWER」  瀬谷福太郎
「RIDERS IN THE SKY」  斉藤任弘、瀬谷福太郎
「WATER BABY BLUES」  瀬谷福太郎、三浦裕史
「CANNONBALL YODEL」 大野義夫、瀬谷福太郎、
「GOODBYE LITTLE DARLING」小坂一也、瀬谷福太郎、
「DRIFTER’ S POLKA」   瀬谷福太郎、成毛 滋
 
 このレコ―ドのタイトルが決まりました「クレストライン」です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(56)私とギターと人との出会い(33)  瀬谷福太郎
(56)私とギターと人との出会い(33)  瀬谷福太郎
写真は芝郵便貯金ホ―ルでリサイタル終了後の楽屋で出演者と仲間達と一緒に写した記念写真です、人数が多すぎて全員のお名前をかけません!!
出演者のお名前を見て想像して下さい 約29年前です・・・
 
“そしてサプライズです” 何と嬉しい事に仲間達の応援も有りまして
レコ―ド発売記念リサイタルを開催をする事が決まりました!!
1982年1月27日、芝郵便貯金ホ―ルです
 
あの大きなコンサ―トホ―ルで私の最初のリサイタルが出来るのです!!
私は夢見るような気持ちで当日を迎えました・・・
満員のお客様の前でギタ―を弾けるなんて本当に夢のような話で、
こんな素晴らしい音楽家冥利に尽きるチャンスを作って呉れた仲間達に
改めて私は心からお礼と感謝の言葉を送りました・・・
芝郵便貯金ホ―ル、当日のコンサ―トの事は私の記憶の中の貴重な
思い出の一つとして一生涯忘れる事は出来ません。
 
当日の総合司会を寺本圭一さんが務めて下さいました。
出演者
黒田美冶、小坂一也、ジミ―時田、寺本圭一、大野義夫、ウイリ―沖山、
かまやつひろし、斉藤任弘、伊藤照子、伊東きよこ、川内マキ、原田 実、
成毛 滋、小松 久、寺内タケシ、
 
演奏者
瀬谷福太郎とカントリ―・オ―ルスタ―ズ(レコ―ディングメンバ―)
小寺 八(ベ―ス) 島田忠男(ドラム) 宮城久弥(フィドル) 尾崎 孝
(ペダル・スチ―ルギタ―) 吉岡幸時、篠原国利(トランペット)
暮石次郎(トロンボ―ン) 谷口和典(テナ―サックス) 川上和彦(四弦
バンジョ―) 柳田六合雄(ピアノ)  久富ひろむ(オルガン) 
野口武義(指揮) このような方々が参加して呉れまして私としては
身に余る光栄で感激して居りました。
 
 
 
 
 
当日演奏した曲目
「COUNTRY GENTLOEMAN」  瀬谷福太郎
「GUITAR BOOGIE」         〃
「LILL MARLENE」       瀬谷福太郎、伊東きよこ、川内マキ、
「RIDERS IN THE SKY」     斉藤任弘、瀬谷福太郎、
「GOODBYE LITTLE DARLING」 小坂一也、瀬谷福太郎、
「TODAY」            伊東きよこ、瀬谷福太郎、
「EARLY AMERICAN」      瀬谷福太郎、小松 久、
「ARE YOU FROM DIXIE」    瀬谷福太郎、成毛 滋、小松 久、
「DRIFTER’S POLKA」      瀬谷福太郎、成毛 滋、
「BARTENDER S BLUES」    寺本圭一、瀬谷福太郎、
「CANNONBALL YODEL」    大野義夫
「ANY TIME」          ジミ―時田
 
ゲストが参加して・・・のコ―ナ― 
「DON’T LET’S STARS GET IN YOUR EYES」黒田美冶
「A FOOL SUCH AS I」             〃
「I WENT TO YOUR WEDDING」黒田美冶、ジミ―時田、
「SLOOWLY」     小坂一也、川内マキ
「KAW-LIGA」       小坂一也
「FOLSOM PRISON BLUES」斉藤任弘
「JACKSON」        斉藤任弘、川内マキ
「COULD I HAVE THIS DONCE」伊東きよこ、川内マキ
「どうにかなるさ」      かまやつひろし
「COTTON FIELDS」かまやつひろし、ジミ―時田
「TENNESSEE WALTZ」ジミ―時田、寺内タケシ
「RHUMBA BOOGIE」    ジミ―時田、
「HONKY・TONK ANGEL」 寺本圭一、伊藤照子
「GREEN GREEN GRASS OF HOME, THE」大野義夫
「GUNFIGHT AT THE O.K CORRAL」    〃      〃
「SHE TAUGTHT ME HOU TO YODEL」ウイリ―沖山、大野義夫
「SOUTH OF THE BORDER」     ウイリ―沖山
「I REALLY DON’T WANT TO KNOW」  〃
「STEEL GTUITAR RAG」     原田 実
「SAN ANTONIO ROSE」       成毛 滋
 
A TRIBUTE YO HANK WILLIAMS
「HEY.GOOD LOOKIN」      伊東きよこ 
「SETTIN’ THE WOODS ON FIRE」 寺本圭一
「TENNESSEE BORDER」     小坂一也
「LONG GONE LONESOME BLUES」大野義夫
「MY SON CALLS ANOTHER MAN DADDY」斉藤任弘
「LOVESICK BLUES」ジミ―時田
「ISAW THE LIGHT」 全員でコ―ラス
 
これだけ大勢のカントリ―・ア―ティストが一堂に集まっての
コンサ―とは今迄にも数少ないと思います。
大勢のカントリ―ファンと仲間達が私の為に応援、祝福して呉れた
コンサ―トは無事終了致しました・・・ 
そして私の心の中に一生忘れられない大きな感動を頂きました。
人生で人との出会いは運命た゛!! と私は思って居ます・・・
私は本当に良い人達とのお付き合いが出来た人生で幸せだったと
つくづく思います 残る人生でどんな方達とお会い出来るかが
楽しみです・・・ 宜しくお願いします。
 
 
(57)私とギターと人との出会い(34)  瀬谷福太郎
(57)私とギターと人との出会い(34)  瀬谷福太郎
おい 時田!!
 
写真は前列左から中西信雄、大野義夫、高橋(フィドル)石田(スチール)
後列左からジミー時田、名前不明
「自宅の俺の部屋にはいつも仲間達が大勢集まっていた(中西)」
 
昔、むかし・・・ 私は数十年前にジミーさんとの交際が深くなりまして一緒に居る時間が多くなりましたので、ジミー時田さんの仲間達とも交流が多くなりました・・・、 
その頃のお話しです。
 
その中の一人に、ジミーさんの事を何故か(おい 時田!! ) (おい 時田!! )と呼び捨てにする豪傑?? が居ました。
ジミーさんは「オゥ・・・」と軽く受け止めた返事をして居ました・・・
 
私は若い頃から学校の先輩、後輩でも社会に出ればそれぞれに肩書が有って活躍して居るのに学生時代の名残で名前を呼び捨てにするのが余り好きでないので、自分のギターの弟子でも「さん」、とか「君」を付けて呼んで居ましたので、何となくカチンと頭に来ましたので一応外に出まして私の考えを伝えました。
その方は中西信雄さんとおっしゃって「みやこ飴本舗」という有名な会社の息子さんだそうでした。
 
「貴方がジミーさんの学校の先輩だか何だか知らないが、今はスターとして活躍して居るので、ファンが周りに居る時にはジミーさんとか、時田さんと呼んで欲しいのです!!
そしてジミーさんと二人だけの時には「バカでもチョン」でも良いけど、ファンの前だけはジミー時田さんを立て呉れませんか・・・」
 
そして余計な事かも知れませんが貴方の「会社の社員に対しても、「さん」とか、「君」を付けて呼んだら貴方が大きく見えますよ・・・」と云うような事を「私が言ったらしいのです!!」   これが今回のテーマです・・・
 
無責任ですが、私はその様な事を言った事はすっかり忘れて数十年・・・
2009年に親友の山田幸保さんが亡くなり、その一周忌の時に中西信雄さんと久し振りにお会い致しました。 
 
その時に中西さんが、瀬谷さん! あの時瀬谷さんから云われた忠告を忘れずに守って居ますよ・・・  と言われました!!
 
一瞬・・・何のことか分からず?? キョトンと適当に話しを合わせながら内容を聞き出しました、すると前記のような事を私が言ったそうなのです。
 
(2)
話しが飛びますが永 六輔さんの弟で静雄さんは法政大学のカントリーバンド、 
カントリー・レンジャーズのドラマーとして活躍して居りまして彼の学生時代からの
長いお付き合いです。
 
彼等のバンドは白い上下のカントリー・ユニフォーム姿でのステージは華やか
で、プロのバンドをも凌ぐ人気が有りましたので強く記憶に残って居ります。
ある時、永ちゃんから電話が有りまして、現在、自分のバンドのメンバーで
フェンダーJのギタ―を買いたいのが居るので面倒見て欲しいとの事で紹介され
たのが坂田正美さんでした。 
 
早速坂田さんと待ち合わせをして坂田さんの希望するフェンダーJのギターを
購入してから近くのコーヒーショップで色々と昔話しをしている内に何と坂田
さんがマウンテン・プレイボーイズ初代のギタープレイヤーだった事が分かり
ました・・・  改めて人との出会いと運命を感じました。
 
私は嬉しくなってしまいまして、日を改めて、ジミーさんと良く遊んだ新宿の
焼き鳥屋で二人で一杯やりながら若かりし頃のジミーさんの話し、仲間だった
名倉 章さん、宮城久彌さん、松平直久さん等の話しに花を咲かせ、今迄私の
知らないジミーさん、名倉さん等の思い出話しが沢山出て来まして、それを酒の
肴にして楽しいひと時を過ごしました。
 
そして私と別れたその夜に何とあの中西信雄さんから坂田さんに電話が有っ
たそうなのです・・・
中西さんとは法政大の先輩、後輩で坂田さんには時々電話が有るそうです。
 
話しの中で坂田さんが今日、カントリーの瀬谷さんと一杯やったんだ・・・ 
との話しをした所、ちょっと待て! 瀬谷さんと云えば俺の方が昔から知って
居て「ジミーさん」の事で 忠告を受けたんだよ・・・ との昔話しの中で
前記の私が言った忠告の件の話したそうです。
そして今でもちやんと実行して仲間達をさん付けで呼んで感心されて居るよ
何たって、これは俺の宝物で! 瀬谷さんのお蔭だよ!! と言ったそうです。
 
坂田さんから翌日私に電話が入りまして、中西さんからの電話の内容をお聞き
しました・・・
私は感激して早速、坂田さんを通して中西さんに面会を申し入れました。
 
(3)
2011年10月9日
改めて坂田正美さんを交えて中西信雄とお会いしました。
そして初めてジミーさんと中西さんとの付き合いの深さを知りました・・・
 
中西さんのカントリー歴は古くて、あのウエスタン・ランブラーズとの付き合い
から始まって居たのです。
 
1951〜3年頃 当時、中西さんは小遣い銭が多かったのでバンドが出演している銀座ライオンに行ってはオダを上げて居たそうです。
その頃に外山さんから時田と云うのが居るよ・・・と言われて紹介されたのが時田圭介(悦朗)さんで、いろいろと話してみると父親が食堂を経営して居て、自分の父親とも知り合い・・・ そして本人が酒好きと云う事で一気に飲み友達になりました。
 
二人でランブラーズの追っかけをやって居る内に、俺たちもバンドをやろうか?
と云う事になり中西さんがメンバーを集めてカントリーバンドもを作ったそうです。
 
それがジミーさんと中西さん二人の本格的なカントリーの出会いでしたが、ジミーさんは青山学院大、中西さんは法政大と。学校は別々でした。
青学にはカントリーバンドが無いので法政大のカントリー仲間の多い中西さんの所にジミーさんが入り浸って居ったようです・・・。
 
会社の寮の中に中西さんの部屋があった為、飴やの倉庫の一角が若者たちの溜り
場になってジミーさん、大野さん、宮城さん、松平さん、藤井さん等が絶えず集まりカントリーミュージックを楽しんで居たそうです。
 
特にスチールギターの山田幸保さんとは小、中、高と一緒の学校で、あの原田
実さんを紹介してスチールギターを習わせたのも中西さんだそうです。
こんな仲間同士ですから名前の呼び捨ては当たり前で、フィドルの宮城久彌さん
にいつもの「宮城!!」で無くて「宮城さん」と呼んだら、さん付けは気持ち悪いから止めてくれ、やっぱり「宮城!!」でいいよ・・・との事。
ベースの住吉 尚さんも、今さら気持ち悪いから止めてくれ・・・
ジミーさんもお前から時田さんなんて呼ばれたら尻の辺りがコソバイから止めて
くれ・・・
私が主張した呼び捨てで無く「さん」付で呼べ! と云うのは所詮仲間内ではどう
も無理だったようです。
 
ここ迄書いて見て、どうも私が中西さん達、幼馴染の中に強引に割り込んで因縁
を付けた様な結果になりましたね??。   どうもスイマセンでした・・・
 
(4)
この私の無理難題を素直に受け止めてくれた中西さんは凄い人なのです。
 
中西信雄さんは現在(株)みやこ飴本舗 代表取締役会長と全国飴菓子工業協同組合 顧問理事の肩書を持つ大変な人で、いまや誰でも知って居るあのホワイトディを提案した人で、日本のお菓子業界の革命児として国から平成13年秋に藍綬褒章を受章、平成18年秋にも旭日小授章を受章して居ります
 
こんな立派な方が数十年前に1ミュージシャンの言った事を忘れずに実行して居た事に私は驚き、改めて中西信雄さんの懐の深さに敬意を表します。
 
中西さんは、社会に出てから色々な人に出会い、そこで先輩、後輩の差別なく私から言われた「さん」付けで名前を呼ぶと、相手から驚きと嬉しさを同時に感じられて、自分自身の気持ちが和やかになります・・・
「私は瀬谷さんから頂いたこの助言は一生の宝にします」
そして「この言葉を頂けた事を瀬谷さんに深く感謝して居ります。」と重ねて仰って居られました
 
今回、中西信雄さんとの昔話で ”言葉は生きて居るんだ” と云う事を実感致しました。
 
そして過去を振り返り、人様に云う程の事をして居なかった「自分の生き様」
につくづく反省をして居ります。 
          瀬谷福太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(58)私とギターと人との出会い(35)  瀬谷福太郎
(58)私とギターと人との出会い(35)  瀬谷福太郎
東京ジャンボリ―  NOSTALGIC COUNTRY NIGHT 1983
 
1983年当時、日本のカントリ―界全員の顔写真が載ったパンフレットの一部
 
写真の上段左から黒田美冶、ウイリ−沖山、斉藤任弘、井上 高、清野太郎、
 
中段左から小坂一也、寺本圭一、瀧 道彦、山室信一郎、伊藤照子、
 
下段左からジミ―時田、大野義夫、堀 威夫とスィング・ウエスト、
 
1983年東京麻布のアメリカンクラブに於いて東芝EMIレコ―ド制作で
東京ジャンボリ―のライブレコ―ディグとディナ―ショ―か開催
されましたが、そこ迄に漕ぎ着けるまでは大変な苦労が有りました・・・
 
まずは最初に音楽評論家、和田誠司さんと東芝EMIの佐藤恒夫等の協力で
何と日本のC&Wのレコ―ド制作の話が持ち上がりました・・・
それもLP二枚組の凄い企画だったのです!!
 
音源をスタジオ録音にするか、ライブ録音にするか何回も、何回も協議を
致しました・・・そしてライブ録音が決定しました。
今度は会場を決めるのが大変でした・・・
 
コンサ―ト会場にするか?、ディナ―会場にするか?
いろいろな会場を下見して最終的にカントリ―ミュ―ジュックのイメ―ジから
アメリカン・クラブが第一候補に上がりましたが、あのクラブは会員制のクラブで簡単には使えません。
そこで寺本圭一さんのお知り合いで会員の方のお名前を借りて交渉、無事契約する事が出来ました。
 
会場が決まりましたので今度は出演者の選択です!!
黒田美冶、寺本圭一、ジミ―時田、小坂一也、大野義夫、ウイリ―沖山、井上 高、斉藤任弘、清野太郎、瀧 道彦、伊藤照子、等 あの当時の現役バリバリのメンバ―が決まりました。
 
演奏プレイヤ―には原田 実、藤本精一、住吉 尚、宮城久彌、山田幸保、石田新太郎、市川郁夫、柳田六合雄、瀬谷福太郎、
 
この他に編曲者、野口武義さんが率いるスタジオミュ―ジシャンのグル―プと凄い顔ぶれが決まりました。
 
(2)
この凄い顔ぶれに更に花を添える企画を立てました・・・
堀 威夫とスィングウエストをゲストバンドとして寺本圭一さんを通してお願いしました。そしてパンフレット用の写真も受け取りました。
これで当時として、日本のカントリ―&ウエスタン史上最高の出演者を揃えた凄いディナ―ショ―を開催される事が決まりました。
 
そして主催、制作を(株)瀬谷インタ―ナショナルに一任されました。後援 東芝EMI 協力 (株)CBS・ソニ―ファミリ―クラブ、
ワ―ナ―・パイオニア(株)、(株)シンコ―・ミュ―ジック、(株)フェンダ―・ジャパン、(株)ベイリ―・ストックマン等の後援、協力を頂いて主催を任された当社にとっては心強いスタ―トと為りました。
 
アメリカンクラブ側も当日数百人の日本人か集まる訳ですから警護関係、駐車場関係もピリピリ・・・ 何回も打ち合わせに呼び出されました。
東芝EMIも録音機材の搬入セッティング等に初めての場所なので大変苦労して何回も下見をして研究して居ました。
 
各出演者の唄う曲目も決まりましてスタジオでの練習が始まりました。
 
私と寺本さんでコンサ―トのタイトルを決めるのに苦労して居ました。
メインタイトルは東京ジャンボリ―ですが今回のコンサ―トの趣旨を表すサブ・タイトルに苦戦しました・・・
散々頭をひねった挙句寺本さんの提案したNOSTALGIC COUNTRY  
NIGHTに決まりました。
 
今度はその文字をデザイン化しなければなりません・・・
外注すると余分なお金が掛り大変なので、当社専属デザイナ―だった星野由吏さんに頼んで、私が付きっきりで指示して何とか纏め上げてデザインは出来上がりました。
 
今度は、出演者の写真を集めてパンフレット制作の準備・・・
印刷屋さんとの打ち合わせ等々とやる事は山積みです。
 
(3)
私は今回のNOSTALGIC・・・のタイトルに合わせて全員の顔写真をあえて若い時の写真の使用を提案しました・・・
そして私の提案はスタッフの全員の賛成で採用されました。
(前記表示のパンフレットの写真)
 
出演者の曲目が全部出揃いました・・・
これを1部、2部に分けて1部をカントリ―オ―ル・スタ―ズ、
2部を野口武義グル―プの伴奏と区分け作業が大変でした・・・
と云う事は、2部はスタジオ・ミュ―ジシャンの伴奏なので全員の譜面を作らなけれはならないのです。
 
1部に関しても私が自分の不注意で指に怪我をしてエレキギタ―が弾けないのでピンチヒッタ―として若手No1のギタリスト沼野 勉さんを頼みました。
そして私の弾くパ―トを彼に教えたりと、かなりバタバタでした。
若い沼野さんは古いカントリ―には経験が浅くてかなり苦労して居ましたが、私が弾けないので仕方なく強引に押し付けました。
 
1983年代、当時は音楽を残す最高の手段はレコ―ド録音でした。
今回は、そのレコ―ディングをすると云う事で、全員の頭が一杯で
これを映像にして残すなんて事は誰も思い付きませんでした。
 
私の知人で、皮膚科医の今川一郎先生のお話でお友達の河野和幸さんが
カメラが趣味で素晴らしいプロが持つような映像カメラを持っている
・・・との情報を得て早速、先生を通して当日のコンサ―トの録画をお願いしました。
 
所が河野さんご本人は「私はカントリ―に詳しい訳で無いので今川先生に付いて行って居るだけで誰が何を唄って居るか分からないので、「とても自信が無い」と云われました・・・
私は取りあえず今回は私達の記念になれば良いから余り責任を感じないで映して下さい・・・と半ばごり押しに録画をお願い致しました。
河野さんは私の強引な攻めに負けた感じで引き受けて下さいました。
でもこの時、私の強引な説得が有ったからこそ今日、この映像が残って居るのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(59)私とギターと人との出会い(36)  瀬谷福太郎
(59)私とギターと人との出会い(36)  瀬谷福太郎
36章(1)
1983年NOSTALGIC COUNTRY NIGHT 出演者の記念写真
 
写真 前列左から井上 高、ウイリ―沖山、大野義夫、寺本圭一、
黒田美冶、ジミ―時田、瀧 道彦、小坂一也、伊藤照子、斉藤任弘、
 
2列目左から瀬谷福太郎、恩田叔彦、宮城久彌、原田 実、野口武義、
尾崎 孝、山田幸保、藤本精一、谷岡としお、市川郁夫、タイムリ―
 
3列目左から竹中祐史、柳田六合雄、住吉 尚、沼野 勉、熊坂 明、
長芝正治、三浦幸英、村上成生、他
 
いよいよ本番当日です・・・
当日は朝から戦争でした!!   音響照明とレコ―ディグ機材とバンド
関係機材と普段のコンサ―トの倍の量に、時間割は決めて有ったのですが
クラブの搬入口はグジャグジャで溢れ返って居ました。
下見の時は個々に来て確認して居ましたが、いざ本番になると中々上手く行かずちょっとしたズレから同時に集まって来てしまうと普段の機能が麻痺して働かなくなってしまうのですね・・・
それぞれが大変な苦労をしてやっと会場に搬入を済ませました。
 
当日、カメラの河野さんの持ち込んだ機材は素晴らしく、カメラもプロの
人達が使うような大きい物で驚きました!! そして録画テ―プもテレビ局で使うような大きな3/4タイプの物でした。
 
リハ―サルが終わり、後は本番を待つのみ・・・
ここで心配なのはディナ―ショ―なのでお酒が飲み放題!!
司会者の竹中裕史さん、黒田美冶さん、ジミ―時田さん、それぞれに酒好き、「今回は公開レコ―ディングだから皆さんお酒は控えて下さい」のお達しが東芝EMIから出ました。
 
いよいよ本番スタ―トです
司会の竹中祐史の紹介で寺本圭一さん開演の挨拶
M1  Folsom Prison Blues (斉藤任弘)
M2  I Forgot To Remember To Forget(清野太郎)
M3  Sioux City Sue(大野義夫)
M4  It Wasn’ t God Who Made Honky Tonk Angel(伊藤照子)
M5  I Don’t Hurt Anymore(瀧 道彦)
M6  The Cattle Call(ウイリ―沖山)
M7   I Guess I’m Crazy(井上 高)
M8  I Wanna Be With You Always(小坂一也)
M9   Jimmie Brown The Newsboy(ジミ―時田)
M10 Time Changes Everything(寺本圭一)
M11 I’m Moving On(黒田美冶)
M12 Have You Ever Been Lonely(黒田美冶)
この曲のイントロダクションの部分でギタ―の沼野さんがテンポを間違えて早く弾いてしまいまして、途中で黒田さんからテンポを落される光景も有り、私の責任を大きく感じました・・・「沼野さん御免なさい」
 
M13 Don’t Let The Stars Get In Your Eyes(黒田美冶)
M14 Steelin’ The Blues(恩田叔彦)
M15 Remember Me (I’m The One Who Loves You)(小坂一也)
M16  Tennessee Border(小坂一也)
M17  Speedin’ West(原田 実)
M18 Orange Blossom Special(藤本精一)
M19 Supper Time(斉藤任弘)
M20  Crazy Arms(斉藤任弘)
M21 A Satisfied Mind(斉藤任弘、寺本圭一、井上 高)
 珍しい三人の懐かしいコ―ラスでした
M22 Y’onder Comes A Sucker (井上 高)
M23  Old Country Church(井上 高)
M24 I’m Walking The Dog(高輪克彦)
元ワゴン・エ―スの専属歌手だった 高輪さん、今回は久し振りにコンサ―トを見に来ての飛び入り参加です。
M25  Golden Rocket(瀧 道彦)
M26 A Fool Such As I(瀧 道彦)
お客様として来ていた元ワゴン・マスタ―の鳥尾敬孝さんの挨拶が有って小坂一也さんとの昔話しをしました。
M27 Slowly(小坂一也、伊藤照子)
M28 She Taught Me How To Yodel(ウイリ―沖山、大野義夫)
 ヨ―デルが得意な二人のヨ―デル合戦は見ものです。
M29 I Went To You Wedding(黒田美冶、ジミ―時田)
  日本のカントリ―界の大御所二人のデュエットは素晴らしく必見です。
(3)
M30 Jambalaya(大宅映子)
   大宅さんは大のスィング・ウエスト・ファンで今回参加して下さいました・・・  最初は絶対に唄わないと言って居ましたか
寺本さんの押しの一手に負けて? 唄って呉れました。
最後に司会者竹中祐史の失言で「大宅さんが入ったら、これでレコ―ドが
売れない!!」のコメントにガックリ 酔っ払いの失言としか思えない!!。
 
M31 Gone(守屋ひろし)
   予定ではここから堀 威夫とスィング・ウエストのコ―ナ―のはず
   だったのですが、堀さんと田辺さんが急に海外の仕事が入ったとの事で
   ドタキャンになってしまい、二人抜きのメンバ―になってしまいました。
   もしここでスィング・ウエスト全員が参加して居れば当時のカントリ―
界の素晴らしい記録映像だったのですが・・・惜しい事です。
大森俊雄、植田嘉靖、新井利昌、大野義夫、清野太郎、市川郁夫(助っ人)、
守屋ひろしさんが今回の件に関して観客に対し謝り、次回このような催し
の時には二人の首根っこを押さえてでも連れて来ます・・・と言って謝罪
致しました。「この件は28年も前で時効なので初めて公に致しました」
M32 Columbus Stockade Blues(大野義夫、清野太郎)
   瀬谷福太郎主催者として挨拶をする。
M33 That’s Alright Nama(清野太郎)
M34 Bye Bye Love(伊藤照子)
M35 Four Walls(伊藤照子)
M36 Steel Guitar Blues(石田新太郎)
M37 Bud’s Bounce(山田幸保)
M38 Country Girl(寺本圭一)
M39 Let Old Mother Nature Have Her Way(寺本圭一)
M40 Ding Dong Polka(大野義夫)
M41 Singing The Blues(大野義夫)
M42 South Of The Border(ウイリ―沖山)
M43 Back In The Saddle Again(ウイリ―沖山)
カントリ―以外の曲も数多くレパ―トリ―に持って居るシンガ―の
ウイリ―沖山さん・・・  さすがに素晴らしい喉を聞かせて貰い
まして、お客様は大満足でした。
 
M44 Beaumont Rag(宮城久彌)
M45 San Antonio Rose(ジミ―時田)
M46 Tennessee Waltz(ジミ―時田)
 
 
(4)
( Hank Williams Medley)
M47 Move It On Over(ジミ―時田)
M48 My Son Calls Another Man Daddy(黒田美冶)
M49 Half As Much(ウイリ―沖山)
M50 Your Cheatin’ Heart(寺本圭一) 
M51  They’ll Never Take Her Love From Me(小坂一也)
M52 Long Gone Lonesome Blues(大野義夫)
M53 I Saw The Light(ジミ―時田&全員)
M54 Steel Guitar Rag(出演メンバ―の紹介)
約3時間近くになるような長い時間を帰るお客様も無く皆さん
最後まで残って応援して下さいました。
 
当日写した映像を後日VTRで頂きましたが、映像を一度確認して、他のVTRと一緒にして倉庫に入れてしまいました。
3年前に引っ越しの片付けの時に偶然VTRを発見・・・
早速、映し出された映像を見て余りの懐かしさに思わず涙してしまいました!!
 
私はこの映像を寺本圭一さんに送りました・・・
すると即寺本さんからの電話で「映像を見て涙が止まらなかったよ!!」
との連絡が有りました・・・
 
プロのカメラマンが撮った映像ではないので画質やアングルが決して
良くないですが、当時のカントリ―ア―ティスト全員の映像は他には
有りません。
 
この時に私はこの日本のカントリ―の歴史を記録した映像を残す決心を
致しました。
 
 
カントリ―界出身で日本の芸能界の重鎮と云われている方々堀さん、
岸部さん、相澤さん、等に相談しましたがもうこの様な物を買う人が
居ないから無理だよ・・・と云われ反対されました。
 
私は随分悩みました・・・又、色々な友人、知人にも相談致しました。
一時は諦めようかと思った時も有りましたが、知人の花見さんと園田さん等
お二人の支えに依って、やっとこの日本のカントリ―の歴史を残したDVDが
制作されました。
   
(5)
しかし、このDVDの制作は販売目的では無くてあくまで遺族の方々と
その方々のファンだけにお譲りすると云うシステムに致しました。
 
その様な訳で一般のお店ではこのDVDの購入出来ません・・・
都内のカントリ―ライブハウスには預けて有ります。
銀座ナッシュビル、Wバンジョ―、赤坂カントリ―ハウス、
高田馬場ロンスタ―カフェ等です
 
ノスタルジックDVD事務局 (株)エンテック03-6229-2786
E-mail: f.seya@beach.ocn.ne.jp <mailto:f.seya@beach.ocn.ne.jp>
この何れかに連絡すれはNOSTALGIC COUNTRY NIGHTのDVD(2枚組み)
が手に入ります。
未だ見て居ない方はぜひ一度見て下さい。
そしてぜひ元気だった頃、28年前の往年のスタ―達の映像を見て下さい・・・
私は何回見ても込み上げて来るものが有りまして、つい涙してしまいます。
ご覧になった方達はぜひ感想をお聞かせ下さい。
         瀬谷福太郎
 
 
(60)私とギターと人との出会い(37)  瀬谷福太郎
(60)私とギターと人との出会い(37)  瀬谷福太郎
写真1992年 左からジミ―時田、ラトルスネ―ク・アニ―
 
1953年1月1日の未明、オハイオ州キャントンでのニュ―・イャ―・
ショ―に出演のため走行中のキャデラックの後部座席で、ハンク・ウィ
リアムスの死体は発見された・・・ 
そして死因は心臓衰弱と判定された。
彼の訃報は全世界に衝撃を与えたが、一方、ハンクのこのような死は、
知人の間では何となく予感されていたといわれる。
29年の生涯、それも晩年の約7年間で100曲以上の作品を作り出す
という憑かれたような仕事ぶりに彼の生き急ぐ姿を予感しない者は
少なくなかった。
 
死後59年を経た現在でも、ハンクの名は忘れ去られるどころか、
その膨大な作品群との対決は、わずか29歳でこの世を去るまでに人生の
表街道と裏街道を同時に味わい尽くした、並の人間には容易になし得ない
生きざまの物凄さに、ただただ圧倒され、感動は深まるばかりである。
(島田 耕氏のハンクの音楽とその魅力から抜粋致しました。)
 
当時このHANKに滅茶惚れ込んだ男が居ました!!
その男の名はジミ―時田 彼はHANKが29歳で亡くなった事から俺も
29歳で死ぬんだ!! と云うのが口癖でした。
浴びるように酒を呑んで早くHANKの処に逝きたい、逝きたいと思って
居たが意に反して62歳まで長生き致しました。
HANKに憧れ、HANKに為りきって居たジミ―時田さんと、当時何故か
知り合ったラトルスネ―ク・アニ―さんとの思い出話を書いてみました。
 
前記23章でも触れましたが1992年5月6日に日本橋三越劇場でジミ―
時田のA TRIBUTE TO HANK WILLIAMsのコンサ―トを企画しました。
 
この企画を音楽評論家の故和田誠司さんに相談した所,そうゆう企画なら
1960年代に有楽町のヴィデオホ―ルで使用して居て今、お蔵入りになって
居るTOKYO GRAND OLE OPRYのタイトル復活第1回でやろうと提案
されました・・・ジミ―さんに相談した所、勿論OK!!  私も喜んで受け
入れました。
そしてA TRIBUTE TO HANKWILLAMsの企画がスタ―と致しました。
(2)
ラトルスネ―ク・アニ―さんは1991年頃に何処でどう調べたのか分かり
ませんが私の所に電話が有りました。
何処から電話して居るのかと聞くと南麻布のニュ―山王ホテルからだと
云う・・・当時私は南麻布の山王ホテルのすぐ前に事務所を持って居り
ましたのでビックリ!! 明治道りを挟んでホテルはすぐ目の前でした。
私は早速ホテルに居るというアニ―さんを訪ねました・・・
「このホテルは戦後、赤坂に有った山王ホテルが日本政府の資金で南麻
布に建てられた厚木基地の米軍関係専門の立派なホテルなのですが所謂
米軍施設なのでエスコ―ト無しでの出入りは出来ません」 
アニ―さんの息子さんが厚木基地に勤務して居ると云う事でこのホテル
を紹介されたそうです。
 
入り口のガ―ドマンにアニ−さんを訪ねて来た事を告げると暫くして
アメリカ人らしき男性が出迎えに参りました。
自己紹介で、今回初めての来日と云う事で同行したご主人が、私を迎え
にわざわざ来て下さいました。
 
初めてお会いしたアニ―さんは、たいへん美人で感じの良い方でした。
そして何故か日本のカントリ―の事を詳しく調べて居て小坂一也さん、
シミ―時田さん等の名前が次々に出て来たのには驚きました・・・
来日するのに日本のカントリ―事情をしっかり調べて来たようでした。
 
しかし私はラトルスネ―ク・アニ―の名前を聞いた事も無いのでホテル
での初対面は大変面食らい苦労しました!!
とにかく初来日のアニ―さんの演奏活動に協力すると云う事で、初対面の
話は終わりました。
 
早速、事務所に戻り資料で彼女の事を良く調べました所に依ると
ラトルスネ―ク(ガラガラへび)アニ―はアメリカのカントリ―の重鎮と
言われるウイリ―・ネルソンの熱烈な支援を受けてアメリカ全土は勿論
共産圏の3:ヶ国を含む21ヶ国もの国々で演奏して絶賛を浴び、マ―ル・
ハガ―ド、ビル・モンロ―等、カントリ―界の巨人達が熱烈な称賛を送る
特別な存在のア―ティストでしたので驚きました。
この年から毎年1回来日するようになりまして各地のライブハウス巡りを
して居ました。
92年に再来日した時にHANK特集の話しをして協力を求めました
するとアニ―さんは私の心の中にはHANKは未だ生きて居る・・・
是非参加したいと快くコンサ―トの出演を受けて呉れました。
これで出演者がほぼ固まりました。
(3)
ジミ―時田、三田ひろし、ケイコ・ウォ―カ―、レックス・アンヘルツ、
スペシャルゲスト ラトルスネ―ク・アニ―、
ゲスト プレイヤ―
山口玉三郎、林 孝明、野呂尚史、宇戸俊秀、野口武義。大江俊幸、
鈴木恒雄、清水納代、瀬谷福太郎、
司会 浅木 勝
1部
Y’ALL COME(ジミ―時田)
WORKIN’ MAN BLUES(三田ひろし)
CATTLE CALL(ケイコ・ウォ―カ―、三田ひろし)
MY SHOES KEEP WALKING BACK TO YOU( ケイコ・ウォ―カ― )
LODI( 〃 )
MYSTERY TRAIN( 〃 )
 
BYE BYE LOVE(レックス・アンヘルツ、三田ひろし)
FOR THE GOOD TIMES(  〃  )
SONG OF JNGHS KHAN(レックス・アンヘルツ)
 
ROLL ON MISSISSPPI(三田ひろし)
THERS A TEAR IN MY BEER(エディ村田,三田ひろし)
I CAN HEAR KENTUCKY COLLNG ME(三田ひろし)
 
INDIAN DREAM(ラトルスネ―ク・アニ―)
BLUEMOON OF KENTUCKY(  〃  )
 
休憩
 
2部  「A TRIBUTE TO HANK WILLIAMS」
(1)PAN AMERICAN(ジミ―時田)
(2)YOU WIN AGAIN( 〃  )
(3)LONESOME WHISTLE( 〃  )
(4)SETTIN THE WOODS ON FIRE(  〃 )
(4)
ここでとんでもないハプニングが起きました!!
ジミ―さんがカウントしたリズムテンポよりスチ―ルGの大江さんの
テンポがちょっと早かったのです・・・  
しかし大江さんが弾きだしたメロディ―に乗ってバンド全員がスタ―ト
して居ました・・・ 
所がジミ―さんはそのバンドの音を強引に中止させてしまいました!!
 
お客さんはステ―ジで何が起こったのか・・・ 全く分からず??
ただビックリ!! そして笑い出してしまいました。
奴っシラケと、その笑いの中でスチ―ルGの大江さんは気を取り直して
もう一度イントロを弾き直しました。
 
通常、コンサ―ト等の場合、本番では多少のテンポが速くても、遅くても
我慢して本番を何とか済ませる・・・と云うのかこの世界の常識なのです
が・・・  所がジミ―さんは絶対にそれが出来ない性格だったのです。
 
その昔、新宿のウィシュボンで新人の若いバンドがジミ―さんの伴奏を
した事が有りましたが、この時はメンバ―の一人がコ―ド演奏を間違えて
しまいました。
ジミ―さんは唄うのを止めてメンバ―に注意して再び唄い出しましたが、
余りのショックにバンドメンバ―はガタガタ振るえちゃって、そのステ―
ジは演奏が出来無くなってしまった事が有った事を思い出しました。
 
特にHANKの曲に関してはテンポ、イントロ、間奏とに拘って居て
自分の気に入ったものでないと絶対駄目で、ジミ―さんの伴奏の時は
皆ピリピリして居ます。
 
スチ―ルGの大江さんはジミ―さんの性格は知って居ましたが、でもこの
日のステ―ジ上での悔しさは未だに忘れられない出来事ったと云って
居ました。
 
(5)LOVESICK BLUES(ジミ―時田)
(6)HALF AS MUCH(ジミ―時田、ケイコ・ウォ―カ―)
(7)BLUES COME AROUND(ジミ―時田、三田ひろし)
(8)HEY.GOOD LOOOKIN(ジミ―時田、三田ひろし、ケイコ・ウォ―カ―)
(9)CALLING YOU (   〃   )
(10)I CANT HELP IT(ジミ―時田)
(11)SIX MORE MILES(   〃  )
(12)I’M SO LONESOME I COULD CRY(ラトルスネ―ク・アニ―、
ジミ―時田)
(5)
ジミ―さんとアニ―さんとのデュエットですが、この曲をやるのにアニ―
さんが事前の練習を要求して居ましたが、ジミ―さんは練習嫌いで
有名!!・・・大丈夫! 大丈夫!と最後まで練習無しのぶっつけ本番・・・ 
結果は何とも云えませんが??・・・
アニ―さんは、ジミ―さんのハ―モ二―にちょっと不本意な様子でした。
後で、あのHANKの曲は私にとっては大切な1曲、もう少しきちっと
したハ―モニ―を付けて欲しかった・・・と言って居ました。
 
(13) AMAZING GRACE(ジミ―時田、シャロ―ム・ゴスペル・
クワイヤ―、出演者全員)コ―ラス隊約50人がステ―ジに並びジミ―さん
を中心に客席も一緒に荘厳な讃美歌を唄いコンサ―トの最後を締め
くくりました。
 
ステージと客席が一体となった大合唱でA TRIBUTE TO HANK
WILLAMSのコンサ―トは無事終了致しました。
 
HANK憧れ、HANKに魅せられたジミ―時田さんが亡きHANKに
捧げたステ―ジ、HANKに対する熱い想いがステ―ジ上での
ハプニングに繋がりました。
その時の本人は為りきって居て、この曲はこのテンポ・・・この曲は
このテンポと、全くHANKに為りきってのジミ―さんの拘りなのです。
 
東洋のHANK WILLAMSと云われたジミ―時田さん!!
今は天国のHANK WILLAMSとデュエットを楽しんで居るかも知れ
ません・・・
 
私は今、振り返ってみてジミ―時田さんと同時代に生きた誇り、喜びを
しみじみと感じて居ます・・・ 
そして改めてジミ―時田さんの拘りの人生に敬意を表します。
              瀬谷福太郎
(61)私とギターと人との出会い(38)  瀬谷福太郎
(61)私とギターと人との出会い(38)  瀬谷福太郎
38章(1)
昭和51年(1976)NHK紅白歌合戦でのリハ―サル写真
左から名倉 章、瀬谷福太郎、不明 尾崎 孝、辻田 厳、加瀬沢道夫、
この年に赤組、佐良直美さんの伴奏バンドとして出演致しました。
前列は当日の紅組女性出演者、右後列は白組男性出演者
佐良直美さんとはカントリ―・ソングが好きな事でお付き合いが始まり
ましてコンサ―トや営業のお仕事などで、ご一緒して居ました。
この年に、「ひとり旅」作詞吉田 旺 作曲浜 圭介のレコ―ド制作に
カントリ―の雰囲気を出す為の伴奏効果にペダルスチ―ルギタ―使い
ました・・・ 私達の仲間の尾崎 孝さんです。
作曲家の浜 圭介さんは奥村チヨさんのご主人でヒット曲を沢山出して
居る作曲家ですがカントリ―ミュ―ジックが好きで時々、我々のライブ
ハウスに遊びに来ます。
これ迄はカントリ―ミュ―ジック以外の歌謡曲の伴奏にスチ―ルギタ―を
使う時は殆どハワイアンのプレ―ヤ―を使うのが常でしたが、この曲は
その意味でも画期的な事でした。
ある日NHKの担当者から連絡が有りまして今年の紅白歌合戦の司会者に
佐良直美さんが決まりました・・・  と同時に紅組の歌手としても歌う
ので伴奏バンドをお願いしたいとの事でした。
スチ―ルギタ―は尾崎 孝さんが決まって居るので、その他のメンバ―を
お願いしたいとの事でしたので早速、メンバ―を集めました。
バンジョ―名倉 章、ベ―ス辻田 厳、ドラム加瀬沢道夫、12弦ギタ―
瀬谷福太郎、そして尾崎 孝で当時のカントリ―界最高のメンバ―でした。
メンバ―が決まりましたが、普段別々の活動ですからお揃いの衣装が
有りません!!  急遽知人のシャツ屋さんにカントリ―シャツを作りたい
事を相談しました。
当時はカントリ―シャツの良い物が中々手に入り難いのと、我々の個性を
出したいのだ! との思いをご主人に伝えました。
シャツ屋さんもNHKの紅白歌合戦に出演するのだ・・・ と聞くと
イメ―ジアップのデザインを考えてと、大張り切りの乗り気でした。
リハ―サルと衣装合わせの日が決まって居るのでシャツ屋さんに何とか
せかせて頼みました。
そして出来上がったシャツは白の生地に袖口と肩の所に紺染めで家紋を
デザインした生地を張り付けて、いかにもMADE IN JAPAN風の出来
栄えでした
私達もこの和風デザインのカントリ―シャツを気に入りまして、全員
喜んで当日着させて頂く事に決まりました。
(2)
紅白歌合戦で大変だった記憶は事前の出演者全員の音合わせと、
衣装合わせでした!!
リハ―サルに決められた日にNHKに行くとロビ―は出演者で
ごった返し、あちらこちらで久し振りに会う人達等の会話に花が咲き
何とも賑やかな雰囲気でしたが、本当にウジャウジャと云う感じで、
NHKの担当者がその間を駆けずり回って居ました。
やっと私達のリハ―サルの時間が来ました・・・
事前に担当者との打ち合わせは済んで居ましたが、担当幹部全員の
前で初めてのお披露目です。
佐良直美さんは「ひとり旅」をちょっとカントリ―風に唄い方を
アレンジしたり、衣装もジ―ンズルックに白いテンガロンハットと
カントリ―風にバッチリ決めて居ました。
勿論私達も注文した家紋カントリ―シャツを全員着用しての演奏です。
緊張の演奏が終わりまして、そのあと担当者からの細かい質疑応答??
が有りました。
NHK紅白歌合戦と云う伝統行事、厳しい掟みたいの物がNHKスタッフ
全員から感じられて、特に担当チ―フの出す指示に現場スタッフが右往
左往お蔭で出演者関係も、訳も分らず皆ピリピリして居ました。
31日当日の入り時間、車のパ―キング、楽器搬入、楽屋関係等諸々NHK
流システムのクドクドとした説明に全員頭がグジャグジャ・・・
聞くところに依ると当日は、NHKホ―ルの搬入口は戦争のようだ! と
聞きました。
たった1曲の為の長い一日、無事リハ―サルが終わりまして後は本番を
待つのみに為りました。
(3)
12月31日「紅白歌合戦」本番の当日になりました!!
NHKホ―ルに着くと予告通りの大混雑、まず車を駐車するのが大変な
混雑・・・
車を指定の場所に駐車して自分の楽屋に着く迄が本当に戦争でした。
大きい事務所の場合、マネ―ジャ―が多いのでそれぞれが手配して
やるので問題無いですが、私達は弱小事務所ですから何でも自分で
遣らなければならないので大変でした。
楽屋に入ればNHKのスタッフ全員が目の色が変わる位に緊張して局内
を走り回って居ました。
出演者全員、本番前に通しリハ―サルが有るので、皆早めに食事を済ませ
ましたが、回りが忙しい、忙しいで局内全体が準備の為、バタバタした
感じですので私達も落ち着かない雰囲気で楽屋で待機して居ました。
暫くしてやっと佐良直美さんのリハ―サルの順番になりました!!
局の担当者の案内でステ―ジへ・・・
NHKホ―ルの大きな舞台いっぱいの華やかなステ―ジセッティングと
その人数には目を奪われました。
下手白組のステ―ジには小野 満とスイング・ビ―バ―ズのメンバ―と
東京放送管弦楽団がステ―ジにずらり・・・
上手紅組ステ―ジにはダン池田と二ュ―ブリ―ドのメンバ―と
東京放送管弦楽団がステ―ジにずらり・・・
その前に私達紅白の出演者が全員出揃って居る訳ですから凄い光景です。
私達の演奏する上手紅組のステ―ジは一段高い所に有りまして、
その下で紅組の応援団がずらりと並んで応援しようと云う訳です。
当日の佐良直美さんは司会の合間に自分も唄うと云う事で、着替えの
時間等の調整でかなり大変でした。
リハ―サルですから赤組、白組、がステ―ジ上に入り乱れての賑わいで
佐良さんの応援に白組の男性数人が赤組の方に入り込んでダミ声での
応援に紅白入り混ざったりと大変な賑やかさでした。
そしてテンガロンハットを被った佐良直美さんに合わせるかの様に紅組の
何人かがテンガロンハットを被って盛り立てて居りました・・・
無事に通しリハ―サルが済んで後は本番を待つだけです!!
本番前のひととき、局の担当者が各楽屋を回り、当日の注意事項等を
再度、大変詳しく説明を頂きました・・・
(4)
いよいよ本番です!!
総合司会 相川 浩アナウンサ―
審査員
池田弥三郎、浅丘ルリ子、中村梅之助、小野清子、村上 隆、
堤 加蓉子、ブラジル代理大使令嬢、若三杉寿人、川上哲治、
出演者 白組 
あおい輝彦、五木ひろし、内山田洋とク―ルファイブ、春日八郎、
加山雄三、北島三郎、郷 ひろみ、西城秀樹、堺 正章、菅原洋一、
田中星児、ダ―ク・ダックス、殿さまキングス、新沼謙治、野口五郎、
橋幸夫、フォ―・リ―ブス、布施 明、フランク永井、細川たかし、
三波春夫、三橋美智也、村田英雄、森 進一、
紅組 
青江三奈、梓 みちよ、いしだあゆみ、伊藤咲子、岩崎宏美、
太田裕美、キャンディ―ズ、研 ナオコ、小柳ルミ子、佐良直美
桜田淳子、島倉千代子、水前寺清子、ちあきなおみ、西川峰子、 
藤 圭子、二葉百合子、南 沙織、都はるみ、森 昌子、
八代亜紀、山口百恵、由紀さおり、和田アキ子、
司会 白組 山川静夫アナウンサ― 
赤組 佐良直美
1番 野口五郎、 (針葉樹)        
2番 山口百恵、 (横須賀スト―リ―)
3番 細川たかし、(置き手紙)       
4番 西川峰子、 (峰子のマドロスさん)
5番 フォ―・リ―ブス、(踊り子)    
6番 キャンディ―ズ、(春一番)
7番 堺 正章、 (苺の季節)      
8番 南 沙織、 (哀しい妖精)
9番 新沼謙治、 (嫁に来ないか)       
10番 太田裕美、(木綿のハンカチ)
11番 内山田とク―ルファイブ、(東京砂漠)
12番 佐良直美 (ひとり旅)
(5)
ここで佐良さんの衣装変えの時間稼ぎ赤組女性群のフッションショ―
まずは八代あきさんコットンの白と紺色の生地を縫い合わせたロング
スカ―トに白のウエスタンシャツ、背中の部分と胸の部分にロング
ホ―ンの刺繍が入っバッチリて決めていました。
桜田淳子さんは超ミニのジ―ンズのパンツ、こげ茶色と白の柄の
ウエスタンシャツにル―プタイと紺色のベスト、白いテンガロンハット、
それにウエスタンブ―ツと完璧なウエスタンルック・・・
流石カントリ―出身、相澤社長のサンミュ―ジックの感が有ました。
次の山口百恵さんはスリムのジ―ンズにジャンパ―にロングブ―ツに
サングラス、伊藤咲子さんはTシャツにジ―ンズのホットパンツ、
南 沙織さんはジ―ンズのオ―バ―オ―ルにハンチング。
そして極め付けは先程迄赤組の司会を務めて居た我らが佐良直美さんが
一変、白いテンガロンハットに白いカントリ―シャツ、ブル―ジ―ンズ
にブ―ツ姿にギタ―を肩から掛けて登場して来ました!! 
客席はどよめき・・・  そして拍手が沸き起こりました。
スチ―ルギタ―の前奏から始まり佐良さんの唄に入りました・・・
あれだけ司会をして居るのにいつも以上の素晴らしい歌いっぷりに
お客さんから感激の拍手が沸き起こりました。
1コ―ラス目が終わった所で
赤組全員の応援団がステ―ジ前に集結・・・それぞれにカントリ―色の
有る衣装で決めて、水前寺清子さんと桜田淳子さんが先程のファッ
ションショ―の時と同じ様に白のテンガロンハットを被り赤組応援団長の
ような応援に八代亜紀さん、森 昌子さん、山口百恵さん、青江美奈さん、
岩崎宏美さん等女性シンガ―全員の黄色い声の声援に客席も大いに盛り
上がりました。
この時、間奏が入った所で中条静夫さんと前川きよしさんの二人が
大きな看板を持って出で来ました・・・
それには「花婿募集中! ただ今大バ―ゲン! 」の文字が大きく書かれて
居まして、これには会場のお客さんが大笑いでした。
こんなアクシデントに苦笑いしながらも佐良さんは「ひとり旅」を歌い
切りました・・・素晴らしいステ―ジでした。
そして私成りの責任は果たせた!! と云う感じでした・・・
7番 西城秀樹  (若き獅子たち)     
8番 和田アキ子 (雨のサタデ―)
ここ迄の紅白歌合戦の中間集計では赤組優勢・・・ でした。
これで第27回紅白歌合戦の前半戦は終わりました。
私はNHK紅白歌合戦は初めての出演でしたが非常楽しい貴重な
経験で良き思い出になって居ます。
         瀬谷福太郎
(62)私とギターと人との出会い(39)  瀬谷福太郎
(62)私とギターと人との出会い(39)  瀬谷福太郎
(1) 思い出の「ざるそばカントリ―」
ざるそばカントリ―にて
左から寺本圭一、小坂一也、大野義夫、尾崎紀世彦、ジミ―時田、
1990年代に大野さんのマネ―ジャ―だつた高橋隆一さんが経営していた店
「北海きそば」北海道・蘭越町に本店がある日本そば専門店が有りました。
場所は西新宿の高層ビル街の傍、青梅街道をはさんだ東京医大前のビルの
地下一階に有ったお店でした・・・
元々高橋さんのお母さんが蕎麦屋を営業して居まして、その店が立ち退き
で青梅街道沿いのビルに移ってから高橋さんが引き継いだそうです。
最初は休業日だった日曜日を大野さんの後援会の寄り合いとして月に一回だけ
最終日曜日を開放したのが始まりでした。
最初の頃は大野さんのファンが集まり、大野さんの活動を応援する集まり
でしたから会合の最後にファンサ―ビスとして2~3曲歌って居ました・・・
伴奏もフィドルの藤本精一と二人でやったような記憶です。(大野義夫談)
それが数年過ぎた頃からか最終日曜日に大野さんが蕎麦屋で唄って居るよ・・・
と評判になり、だんだん人が集まるようになったそうです。
始めた頃はお茶菓子程度でやって居た会合も、お客さんが集まって来れば蕎麦を
食べたい!! 酒を飲みたいとの注文する人も出てきて、結局お店を休む訳にも
行かなくなり最終日曜日だけは臨時営業をするようになりました。
人が人を呼び、客が客を呼ぶとは良く言ったもんで新宿の繁華街から外れ
に有る日本蕎麦屋が月末の日曜日にはカントリ―ファンで一杯でした。
それはその筈で、美味しい日本蕎麦を食べて、お酒を飲んでカントリ―の
大御所、大野さんの歌が無料で聴ける場所は他に有りません。
すると酒の匂いに敏感なジミ―時田さん、原田 実さん、野口武義さん達が
寄って来るようになり、それを楽しみにお客さんが増えてちょっとしたライブ
ハウス以上の盛況振りでした・・・ 私が参加したのはこの頃だと思います。
参加して驚いたのは高橋さんは私達からは料金を全く受け取らない事でした!!
所が大きな問題点が出て来ました・・・
(2)
最初の内、お客さんは日本蕎麦を食べて酒を呑んで、大野さん等の唄を
聴いて・・・私たちの演奏を聴いて、ハイご馳走様!! で良かったのですが、
お店にしてはだんだん増えて来たア―ティストたちの食事、お酒代がかなり
の負担に為り始めました!!  先に書いた様にア―ティストから全く料金を
取りませんから・・・  そこで1,000円のチケット制にしました。
500円会費 500円食事券   追加券は1000円食事券としました。
参加するア―ティスト達が多くなり、お客さん達は今夜は誰が遊びに
来てくれるのかなぁ・・・と楽しみにして早くから並ぶ人も居ましたし、
満員で中に入れずに外の階段の所で蕎麦を食べてる人も居ました。
当時、寺本圭一さんは仕事場以外には絶対顔を出さない人だったのが
ざるそばに来てギタ―を弾いて居るのにはビックリしました。
あの時期にエレキギタ―を始めたばかりで歌の伴奏の勉強になるので
参加して、もしも間違えても責任の無いざるそばを選んだそうです。
ざるそばへ遊びに来る人はお酒を飲みたくて来るのですが、いくら飲ん
でも代金を請求されないので、つい飲み過ぎて立って居られ無くて椅子に
座って唄う人も居て、いつものジャズ喫茶等では見られない光景でした
お客さんも自分のテ―ブルにア―ティスト達が来て呉れたりして一緒に
お酒が飲めたり、奢ってあげたりと和気藹々の雰囲気で、それが楽しいと
お客さんは喜んで居りました。
あの時期にざるそばカントリ―に参加したア―ティスト一覧
大野義夫、ジミ―時田、原田 実、野口武義、小坂一也、寺本圭一、
斉藤任弘、伊藤照子、坂本孝昭、尾崎紀世彦、竹中裕史、藤井三雄、
石田新太郎、宮城久彌、小寺 八、市川郁夫、加瀬沢道夫、瀬谷福太郎、
いかりや長介、高木ブ―、中本工事、立川談志と子分達、山口軍一、
ベニ―愛田、富永一朗、その他大勢
高橋さんの長女と立川談志さんの長女と同級生だと云う事で談志さんも
良く来て居ました。
あの富永一朗さんは北海蕎麦の大ファンでのれんを書いて貰ったと高橋さん
自慢の一つでした。
(3)
さるそばカントリ―の主役は大野義夫さんですから、お客さんお待ちかねの
ショ―タイムは大野さんのオ―プニングショ―からスタ―トです・・・
大野さんの立派なのは、ジャズ喫茶であろうと、クラブのショ―であっても、
ざるそばカントリ―のようなステ―ジでも全く手を抜かない事です。
重いバンジョ―を抱えてのステ―ジは酒を飲んで酔っ払っては出来ません・・・
大野さんが毎月、毎月、最後のステ―ジまでお客さんに対して大切にお愛想を
して居たからこそ26年間も続けられたのだと思います。
そして高橋隆一さんが大変だったのは二つの顔が有る事でした。
一つは大野義夫さんのマネ―ジャ―としての顔・・・
一つは北海きそば屋の店主としての顔・・・
このざるそばカントリ―の時は二つの顔を同時に使い分け無ければならず
大変だったと思います。
大野さんのマネ―ジャ―としては当日来てくれた有名人には必ず
ご挨拶代わりのお土産を持たせて帰す・・・
主に、生の蕎麦と乾燥麺とお酒類とを組み合わせた物でしたが、
毎月の事なので大変でした。
マネ―ジャ―としても顔が広くて、当時のカントリ―歌手としては
珍しいクラブやキャバレ―等の仕事、米軍キャンプの仕事もグアム、
フィリピン、等々と海外でも大野さんは大活躍の仕事振りでした。
その高橋さんが病に倒れて亡くなりました・・・
息子さんが北海きそばの後を継いで、しばらく営業をしましたが上手くいかず
止めてしまったそうです。
26年間続いた新宿「北海きそぱ」での「ざるそばカントリ―」は1998年3月
29日をもって幕を下しました。
大勢の「ざるそばカントリ―」ファンからの炎を消さないで!!の要望に、会場を
新宿から高田馬場に移し、金平 隆さんのお店、「LoneStar CAFE」で「NEW
ざるそばカントリ―」として開催する事に決まりまして1998年5月24日から
現在迄毎月、最終日曜日に開催して居ります・・・是非一度足を運んで下さい。
出演メンバ―はVo大野義夫、Vo大野ゆかり、
スチ―ルG藤井三雄、ドラム市川郁夫、エレキG石黒 怜、その他です。
(63)私とギターと人との出会い(40)  瀬谷福太郎
(63)私とギターと人との出会い(40)  瀬谷福太郎
1984年 ウイリ―・ネルソンの思い出
写真はショ―が終わったある日、記者クラブでウイリ―の歓迎会が
有りました。
左から瀬谷福太郎、ウイリ―・ネルソン 黛 登、宮前ユキ、
山岡恵美子、西村 協、
1984年カントリ―界の大御所ウイリ―・ネルソンの来日が決定
したとのニュ―スが入りました。
そして招聘したキョ―ド―東京の三瓶宣伝部部長から連絡が入りまして
相談したい事が有るので至急会いたいとの事でした・・・ 
私は早速、当時青山に有った会社にお伺いしました。
三瓶部長から今回のウイリ―・ネルソン一行のギャラが高額なので、
東京ではどうしても日本武道館を使わざるを得ない・・・ 
しかし観客動員に不安が有るので何とか力を貸して欲しい!!
との要請でした。
当時日本の音楽事情はカントリ―、ジャズ、フォ―ク、ハワイアンと
あらゆるジャンルの洋楽が全盛の時代でしたのと、私の崇拝していた
ウイリ―・ネルソン待望の日本公演に、ひと肌脱ぐ事を約束致しました。
次の日からは音楽仲間達に電話のしまくり・・・ 
今回のコンサ―トが無い地域の友人から友人へ・・・知人から知人へと
毎日毎日が戦争のようでした。
日本音楽界でのカントリ―ミュ―ジックは特殊ジャンルになりまして
ウイリ―・ネルソン、クラスのア―ティストでも日本武道館を2日間
満員にする事は大変な事でした。
ちょっと話しが反れますが、当時キョ―ド―東京があのJOHNNY 
CASHの招聘を決めてチケットを売り出した事が有りました。
当時アメリカではELVIS PRESLEYと人気を二分して居た
JOHNNY CASHでしたが、何とした事かその人気が日本では全く
駄目で、余りにもチケットの売れ行きが悪いので止む無く公演予定を中止
にした事が有りました。
この時のチケットを買って今でも大切に持って居る方も居るようで、私の
友人も大切に保存して居ます。
CASHのようにメロディ―より詩の内容に重点を置いてるシンガ―は
日本では中々難しいのだと思います・・・  
日本の浪花節をアメリカ人に聴かせるような物だと思いますので!!。
話しを戻します・・・ 東海、関東地区と東北地区の方々を重点的に連絡を
しまして少しづつ手応えが出て来ました。
呼び掛けは日本人だけでは有りませんでした・・・
当時私達が仕事場にした居た米軍基地内のクラブに出演する時には
ウイリ―のチラシを持って行って兵隊達にもばら撒きました。
兵隊達の反応は大変良くて手応えを感じました。
彼等にとって出身地に対する思い入れは大変なもので私達の感じる
その物と全く違います・・・
特に南北戦争の名残で未だに南部と北部の出身の違いから喧嘩を
することが度々有るのが現状でした。
今回はTEXASのウイリ―・ネルソンですからTEXAS出身の兵隊
達は鼻高々、ウイリ―の曲を皆で唄い大騒ぎでした。
余り自慢し過ぎて、最後は他の州の人と喧嘩をしたりして居ましたが
私達には到底理解出来ない光景でした・・・
日に日に日本武道館開催の日が迫って来ました・・・
何回目かのキョ―ド―東京との打ち合わせでは、チケットの予約が良い
感じになって来たのでもう一踏ん張りして欲しいとハッパ掛けられました。
早速もう一度友人、知人に私から直接電話を掛け早めのチケット購入の
確認をしたりして、しつっこいように頼み廻りました・・・  
そしていよいよ本番の当日が来ました!!
スポットライトに浮かび上がったWillieはマイクの前で観客に向かい
「皆さん有難う御座います 私がWillie Nelsonです」の挨拶・・・
(M1) Whiskey River
1曲目が終わった所で被っていたテンガロンハットを客席投げ込みました
客席は大騒ぎでハットの取り合いをして居ました。
(M2) Mona Lisa
客席の騒ぎに構わず2曲目のイントロに入りました・・・
あの名曲の演奏に場内が一瞬静かになりました
(M3)Good Hearted Woman
間奏にBobbie NelsonのピアノとMicey 
Raphaelのハ―モニカが加わり華やかになりました。
(M4)Down Yonder
Bobbie Nelsonのピアノをフイチャ―のバンド演奏です
(M5)If You‘Ve Got The Money I’ve Got
The Time
この曲も間奏にピアノとハ―モニカが加わり華やかでした。
(M6)Working Man Blues
この曲はギタ―のJody Payneのボ―カルです・・・
Willieはコ―ラスをやったり間奏を弾いたりの活躍でした
(M7)Help Me Make It Through The Night
間奏はGrady Martinのギタ―ソロでした
(M8)Me And Bobby Mcgee
間奏ではWilleのギタ―が唸りました。
(M9)Harbor Lights
Willのギタ―の前奏で始まりました。
(M10)Blue Eyes Crying In The Rain
この3曲は曲目の紹介も無くひたすら唄いまくりました。
(M11)Under The Double Eagle
Willie Nelsonのギタ―インストです
ギタ―のソロ、ピアノソロ、ハ―モニカソロ、と回して居る時に客席に
居たアメリカ兵らしき数人がアメリカを象徴する「双頭の鷲の下に」の
曲に興奮してアメリカ国旗やTEXASのロンスタ―の旗を振るのが居まして
Willeも感激して胸に手を当てて敬意の挨拶をして居ました。
そして後半ではハミングでメロディ―を歌って大変に盛り上がったバンド
演奏でした。
(M12)Blue Skies
間奏はwillのギタ―ソロ
(M13)Georgia On My Mind
前の曲が終わるとすぐギターのイントロダクションに入る
そして間奏はMickey Raphaelのハ―モニカ演奏
(M14)All Of Me
Willのギタ―でイントロに入る・・・
間奏にはお待ちかねのGrady Martinのギタ―ソロが・・・
この合間に2回目のテンガロンハットを被りましたのでファンはいつ
ハットが飛んで来るか分からないので落ち着かなくなりました。
(M15)Stardust
Willのギタ―でイントロに入る
間奏は同じくGrady Martinのギタ―ソロ
(M16)My Hroes Have Always Been Cowboys
(M17)Mamas Don‘t Let Your Babies
Grou Up To Be Cowboys
続けて2曲歌いまくり、そして有難うの挨拶・・・
(M18)Angel Flying Too Close To The 
Ground
間奏はWillのギタ―ソロ
(M19)On The Road Again
Willのギタ―のイントロが入ると観客から手拍子が起きました
この状況が嬉しかったのか曲が終わると2個目のハットを客席に
投げ込みましたのて取り合いで大騒ぎでした・・・そして用意して有った
次のハットを被り直しました。プレゼント用に数個用意して有るようです。
(M20)Always On My Mind
イントロに入ると観客から拍手が起きました
間奏はGrady Martin Jody Payneのギタ―
デュエット、そしてWillのギタ―ソロ。
(M21)Will The Circle Be Unbroken
間奏はBbbie NelsonのピアノとMickey Raphaelの
ハ―モニカとソロと・・・この時に何とWillが番傘をさしてのパフォ―
マンスにお客さんは大喜びでした。
続けてGrady Martinのギタ―ソロとJody Payneの
バンジョ―ソロ、そして締めはWillのギタ―ソロでした。
この曲が1部の最後の曲で3個目のハットを観客席に投げ入れました・・・
ここで1部のショ―の終わり・・・ 一旦退場。
ここよりアンコ―ル
観客の大きな拍手に迎えられてWillが再登場しました!!
有難うの挨拶と・・・次の新曲の紹介からのスタ―トです
(M22)Who‘ll Buy My Memories
間奏はWillのギタ―ソロで曲が終わると4個目ハットを客席に
投げ込みました・・・そして次のハットを被りました。
(M23)Without A Song
間奏はWillのギタ―ソロ
(M24)Lukenback,Texas
1コ―ラスはWillの歌、 2コ―ラス目はギターのJody Payneの
歌とコ―ラスで盛り上げました。
(M25)Whiskey River
リズムの良い乗りに客席も盛り上がり手拍子するお客が多くてWillも
満足そうで間奏はハ―モニカの時に5個目のハットを投げ込みました。
そして最後の曲が終わりお別れの挨拶の時に6個目のハットを投げ込み
ました。   エンディングテ―マで突如ステ―ジから降りて女性ファンと
キッスをしたのには驚き!!  「ヤルモンダナァ」と思いました。
無事日本武道館初日の公演が終わりました
最初に心配したお客さんもかなりの動員が出来て私の責任も果たせて
ホットしました。
今回のコンサ―トで勿論Willは大好きですが、伴奏で同行したプレイヤ―
Grady Martinのギタ―に惚れ込んで居まして、私の他にも彼に会え
るのが楽しみにして居た方が多くいらっしゃいました。
そして今回のこのコンサ―とに協力した証としてパンフレットの片隅に
「FUKUTARO SAYA」と私個人の名前と会社の名称「SEYA 
INTERNATIONAL.INC」が書き込まれましたのがとても嬉し
かったです。
今回このエッセイを書くのに神奈川の内藤さんと東京の神山さんから資料の
提供を頂きました、有難う御座いました 心よりお礼申し上げます。
(64)私とギターと人との出会い(41)  瀬谷福太郎
(64)私とギターと人との出会い(41)  瀬谷福太郎
特集!! 想定外80歳の誕生日を迎えて・・・
 
写真 瀬谷、小松、Water Baby Bluesの演奏シ―ン
(村上元章さん提供の写真から、ありがとうございました。)
 
 
2011年、T.H.C.B.のリ―ダ―の樋口真一さんからこんな申し
入れが有りました。
 
実は横浜の野毛にぎわい座で毎年5月に開催して居たT.H.Pが来年は
4月28日に決まりました・・・
そこで相談ですが、瀬谷さんの誕生日が4月30日ですから、その誕生祝い
と、これまでの瀬谷さんの功績を称えるコンサ―トを企画したいと仲間達と
決めたんですけど受けて頂けますか?との事でした。
 
突然の申し入れに一瞬戸惑いを感じました、しかし樋口さんの暖かい思い
遣りにグッと込み上げて来るものが有りました・・・
私は今まで誕生日をイベント化するのが嫌いで公では一度もやった事が有り
ませんから、今回の事は80歳にして初めての経験です。
 
樋口さんの希望は「瀬谷福太郎と仲間達」として数人の方達を加えた楽しい
ショ―を考えて欲しいとの事でした。
ゲストの希望はウイリ―沖山、寺内タケシ、寺本圭一、大野義夫、斉藤任弘、
宮前ユキ、黒沢 博、浅沼 勇、小松 久さん等のそうそうたるメンバ−の
名前に一瞬ビックリ・・・ 
 
とりあえずその場ですぐ小松 久さんに連絡をして協力を求めました・・・
すると小松さんは瀬谷さんの誕生日だったら全面的に協力します!!と
心地良く受けてくれました。
これを聞きつけた浅沼 勇さんも瀬谷さんの誕生日だったら俺もギターを
弾くよ・・・と言って参加を決めて呉れました。
 
所が私の事務所所属のウイリ―さんは当日伊勢佐木町ワシントンホテルで
ディナ―ショ―出演でNG。
寺内タケシさんは県民ホ―ルのコンサ―ト出演でNG。
寺本さん、大野さん、斉藤さん等何れも仕事とバッティングでNG。
 
そんな時に私の方からこのコンサ―ト出演依頼する前に開催を察知した
宮前ユキさんから「私も参加させて!!」の申し入れに思わず嬉し涙が
出てしまいました。
横浜出身であの3年目の浮気でミリオンセ−ルに輝いた黒沢 博さんにも
出演の依頼をしました・・・
すると黒沢さんは快く今回の出演を引き受けて呉れました。
 
この事をさっそく主催者の樋口さんに報告致しました
樋口さん曰く、瀬谷さん凄いメンバ―を集めて頂いて有難う御座います・・・
ぶっちゃけた話し私達はプロの方達にお払いするギャラの予算が有りません
何とか交通費だけでお願い出来ませんかね!! 
こんな無理な申し入れに対しても今回のゲストの方達は全員気持ち良く参加を
決めて下さいました。
 
早速、それぞれのゲストの方達に歌う曲目も決めて頂いて伴奏はT.H.C.
B.のドラムの千葉さんとベ―スの金子さんとスチ−ルギタ―の野坂に手伝っ
て貰う事が決まりましたが、予算が無いのでギャラを払わないゲストの方々の
リハ―サルをどうするのか・・・
毎月出演して居る銀座ナッシュビルのステ―ジでやるのか?、横浜一品香で
ライブ前のリハ―サルの時にやるのか?? 諸々のスケジュ−ルがなかなか
決まりません。
 
そんな折、黒沢さんの三年目の浮気が「au」のコマ―シャル採用が決まって
忙しくなった黒沢さんのスケジュ―ル調整が益々難しくなってしまいました。
 
最終的にはプロの小松さん等のスケジュ―ルに合わせてリハはスタジオを借り
てやろうと云う事になり東京目黒のバンリュウジ・スタジオで、参加自由型で
一括リハ―サルをやる事に決まりました。
 
ゲストの方達の歌う曲目が出て来ました・・・
すると小松 久さんが宮前ユキさんが唄うお前とナッシュビルは僕の作曲で
伴奏に慣れて居るから序に他のゲストが唄う曲のコ―ド譜も制作をして上げ
ます・・・ との嬉しい言葉につい甘えて全部お願い致しました。
 
黒沢 博さんはGreen Green Grass Of Homeと
Hello Mary Louの2曲を選んで来ました。
 
宮前ユキさんはお前とナッシュビルとCotton Fieldsの2曲が
決まりました。
小松さんがHonky Tonk ManとJambalayaの2曲。
私の演奏する曲目ですが色々考えて、小松さんが参加して呉れて居るので
二人でバッチリ弾けるる曲を選びました。
そしてEARLY AMERICAN、WILDWOOD FLOWER、
YAKETTY AXE、WATER BABY BLUES、の4曲を
選び、その中から小松さんと相談して2曲を選びました。
WATER BABY BLUESは1957年頃、横須賀逗子の池子米軍
基地の兵隊から口移しで覚えたメロディ―を、私が勝手に解釈して子供達が
水遊びをして水飛沫が飛び散る状態をイメ―ジしてアレンジした曲で、
世界中でこのスタイルでの演奏は私だけの物で他に聞いた事は有りません。
 
1970年頃に、この曲の演奏を初めて聞いた寺本圭一さんは、瀬谷さん
物凄く激しい曲だね!
この曲の名前を「ブチカマシ!」にしようと命名致しました。
 
今回は小松さんにメロディ―のハ―モ二―を取って頂いてツインギタ―での
演奏です。
 
YAKETTY AXEは1965年にCHET ATKINS来日の時に
前座バンドで共演致しました折に彼から伝授された65年スタイルの奏法で
弾いてみたいと思います。
前半は二人の弾き合いですが、後半になると小松さんが難しいハ―モニ―に
挑戦しまして演奏を盛り上げます。
 
いよいよ本番当日が来ました
集合は11時・・・、ギタ―とハット、ブ―ツケ―スと衣装ケ―スを肩と
両腕に持ち10時30分頃によたよたとにぎわい座の楽屋に辿り着きました。
80歳にもなると楽器を持っての移動が一番辛いです!!
 
指定の楽屋に入ると、これまた狭い和室!!
普段は寄席で使用して居るので和服の出演者に合う用に作って有るので私達
には合わない楽屋だったです。
狭いので4名入ると荷物が有るので座る場所も無く、それぞれが立話みたい
な落ち着かない楽屋風景でした。
 
やがてサウンドチェックも無事終わりまして後は本番を待つのみ!!
13時30分 
4人の役人の歌からスタ―ト
13時50分
「草薙Mountain Boys」
14時20分
「Pancho&Denver」
14時50分
「龍美勇一&The Sugarfoot Boys」
15時20分
森山美果&Honky Tonk Devils
15時50分
「福原照晃」
17時00
「New Apple Seed」
「Ozaki Brothers」
「New Apple Seed&Ozaki Bros」
17時40分
「Town Hall Club Band
 
18時20分
樋口さんの呼び出しで私がステ―に出て皆さんにご挨拶・・・
「瀬谷福太郎&Friends」
(1) 浅沼 勇 
学生時代、私に出会ってからのカントリ―ミュ―ジックの魅力・・・
そしてCHTE ATKINSとの出会いの話し等。
「組曲城ケ島の雨」
(2) 瀬谷福太郎&小松 久
簡単な紹介から二人で「Yaketty Axe」を弾きました。
(3) 小松 久
小松さんの歌で「Honky Tonk Man」間奏は勿論
私が弾きました。
(4) 黒沢 博
軽快なお喋りで観客を盛り上げて流石だなぁ と思いました。
「Green Green Grass Of Home」
(5) 2曲目は小松さんのJバ―トン譲りのギタ―ソロを加えての
「Hello Mery Lou」
(6) 宮前 ユキ
小松さんの作曲した「お前とナッシュビル」を二人でデュエット
(7)2曲目は「Cotton Fields」
(8)瀬谷福太郎&小松 久
   「Water Baby Blues」
(9)小松、宮前、黒沢、樋口、瀬谷
   Jambalaya
(10)全員のフィナ―レ
「Will The Clrcle Be Unbroken」
私は80年の生涯でこんなに嬉しかった事は有りません!!
このコンサ―トを企画して呉れた樋口眞一さんと仲間達の皆さん、
そしてコンサ―トに一緒に参加した呉れた宮前ユキさん、黒沢 博さん、
浅沼 勇さん、小松 久さん等の皆さん、場内に来てくれた仲間達
小寺さん、津下さん、高輪さん、愛江さん、Music Rowの鈴木さん等の皆さん
本当にありがとうございます。
 
また、テレビ神奈川の山崎社長から直接花束をいただけた事など、本当にありがとうございました。
 
後、何年生きられるか分かりませんが、生きてる限り私はカントリ―
ギタ―を弾き続けます!!   
         瀬谷福太郎
(65)私とギターと人との出会い(42)  瀬谷福太郎
(65)私とギターと人との出会い(42)  瀬谷福太郎
紀世さん(尾崎紀世彦)との想い出
 
私は人の名前を呼び捨てにするのが好きで無かったので紀世さん・・・
と呼んで居りました、
あの時代は一歳でも年が違うと名前は完全に呼び捨てで先輩には頭が上がり
ません。
 
紀世さんはジミ―時田とマウンテンプレイボ―イズがプロダクション
ハワイアン・クラブに所属の頃に遊びがてらバンドに参加して居ました
髪はジョ―ジ・ジョンズの様な短いヘァ―カットでジミ―さんの歌の
合間にたまに歌わせて貰って居ました。
 
元々ハワイアン出身ですが器用で何でもそつなく唄う男でした・・・
しかしジミ時田さんが元気な頃は紀世さんがいくら頑張ってカントリ―
ソングを唄ってはジミ―さんの持って居るあのフィリングには及ばなかっ
た様で・・・それは彼自身が一番知って居たと思います。
 
あの「また逢う日まで」の大ヒットで一躍スタ―ダムに乗りましたが、
カントリ―の世界に来れば「おい紀世!」と昔のままでした。
この世界の習慣で外部でいくら偉くなっても古巣に戻ると昔のあだ名で
呼ばれるので、それが嫌で仲間の寄り合いに顔を出さない偉い人も何人か
居ます・・・。
 
紀世さんはスタ―になってもカントリ―の世界に戻ると皆から紀世、紀世と
可愛がられて居りましたし、本人もカントリ―の世界に戻るとホットすると
云うか・・・ 安らぎが有ったようでした。
 
前記、久松定隆さんの居た制作会社「イ―スト」が制作したテレビ番組で
「タモリの音楽は世界だ」と云うクイズ番組が有りまして、紀世さんには
カントリ―のクイズ、ハワイアンのクイズ等で何回か出演して貰いまして、
その時には私もギタ―を弾いて一緒に参加して居りました。
 
紀世さんはジョ―クを交えたお喋りが好きで、番組では結構重宝がられて
居りました・・・ 
その辺は落語が好きだったジミ―時田さんに良く似て居ました。
 
そんな紀世さんと昔、大喧嘩した事が有りました・・・
あのレコ―ド大賞の曲を歌い日本中知らない者が居ないような有名な
シンガ―として活躍して居ましたが、この頃から悪い噂が流れました。
 
問題は専属していたプロダクションが次々と手を退いちゃう!!
尾崎紀世彦が時間にル―ズでいつ来るか分からない、本当に来るのか?
本当に尾崎紀世彦ショ―が出来るのか?? 等々
 
2001年8月に横浜でチャリティカントリ−コンサ―トを企画、
会場は横浜みなとみらい大ホ―ルでの開催でした。
出演者は当社専属のウイリ―沖山。一番弟子の曽根孝明、太田きよみ夫妻。
5番弟子の山下敬二郎、直子夫妻。寺本圭一。大野義夫。宮前ユキさん等
のメンバ―に加えて曽根さんの弟子と云う事でしたので尾崎紀世彦さんを
メンバ―に入れても大丈夫だろうと思いまして参加を認めました。
 
本人との事前の打ち合わせでは入り時間、リハ−サルのスタ―ト時間、
本番のスタート時間等を綿密に打ち合わせをしていよいよ本番の当日、
何と紀世さんがリハ−サルの約束の時間を過ぎても本人は来ない!!
 
リハ―サルも終わり本番の時間が迫り、仕方無いので全員に出演の順番を繰り
上げての指示、2番目だった宮前さんをトップに替えて進行台本を全部それ
ぞれに尾崎紀世彦抜きの順番を指示して後はショ―のスタ―トを待つのみの
時間になりました。
 
其処へのっそり尾崎紀世彦が現れたのです!
私は頭に血が上って(この野郎!! 今頃来やがって約束が違うだろ・・・)
と怒鳴りつけました。
楽屋で危うく手を出しそうな私を周りの皆が止めに入って、まず紀世の本番が
出来るようにしようとアドバイスをされました・・・
 
この時止めに入って呉れたのはラジオ日本の三浦宏之さん、仲間の宮本 靖さん
等でした・・・  お二人のお蔭で何とかショ―をスタ―とする事が出来ました
もしあそこで私が間違いを犯していたら主催するコンサ−トはメチャメチャなり
大変な事になって居ました・・・今でも反省しています。
 
良かったのはバンドのメンバ―が元、紀世さんのバンドの人達だったのでリハ
無しで゛本番が出来た事がラッキ―でした。
ショ―はスタ―トしましたがステ―ジでの態度は余り良くなく、私と揉めた後
だったから仕方ないかもしれないがP.Aモニタ―に足を掛けたりしてお客様
も感じが悪かったと言って居りました。
この事は即、音楽仲間達にも話しました・・・すると瀬谷さん紀世が来ただけ
立派だよ最近は穴を空ける事が多くて、どこのプロダクションも紀世を敬遠
して居るようですよ・・・と聞きビックリしました。
 
信用が財産のこの世界でこんな噂が流れたら命取りです・・・
そんな訳で紀世さんの仕事はどんどん減り、本人も何処に居るか分からない
と云う状態と聞いて居ましたので心配して居ました。
その後の紀世さんとは暫く付き合いが無くてハワイアンの大橋節夫さんの葬儀
で久し振りに会いました・・・
過ぎ去った事は忘れてお互い笑顔で握手して、又何か一緒にやろうと約束し
て別れましたのが最後でした・・・
 
最近、仲間から聞いた話だと紀世さんの体調が大分悪くて、週3回の人口透析
をして居るので仕事はほとんどして居ないとの事。
旅の仕事は無理で、せいぜい都内での仕事ならなんとか出来るとの事でしたので、
年内に尾崎紀世彦を交えたカントリ―コンサ―トを企画して居ただけに残念で
なりません・・・
 
そんな矢先の先日4月17日に銀座ナッシュビルにひょっこり一人で遊びに
来てカントリ―を歌って帰ったよ・・・と小寺 八さんのコメント、
そして先日、紀世さんが亡くなった事を聞いて、昔自分のバンドのメンバ―
だったギタ―の片桐さん等が居る小寺 八とSUPER PICKERSに
まるでお別れに来たようだったね!! 
その時は大分痩せたけど元気そうだった との事でした。
私は次の日に銀座ナッシュビルに行きまして紀世さんが来た事を聞き、この日に
一日違いで会えなかった事が残念でなりませんでした。
 
あの破天荒男、紀世さんにもう一度会いたかったです!!
ご冥福を祈ります   合掌
 
 
 
 
 
(66)私とギターと人との出会い(43)  瀬谷福太郎
(66)私とギターと人との出会い(43)  瀬谷福太郎
「男たちの夜・・・かな?」 の仲間達
真ん中左サングラス、渡辺靖彰 右、(故)広川太一郎の後ろ瀬谷福太郎
前列右から2番目、東 理夫さん等以外の方達の名前を知って
居る人が居りましたら投稿して下さい。
 
1980年代にラジオ関東火曜日の深夜番組に「男たちの夜・・・かな?」
と云うハチャメチャな放送が有りました。
 
このハチャメチャ放送に、実は私も参加して居たのです!!
番組構成者としてカントリ―仲間の東 理夫さんが参加して居りまして、
或る日、東さんから連絡が有りまして、音楽担当として番組に参加して
欲しいと誘われました・・・
当時、私は(株)エルク楽器で昼間働き、夜はバンドの仕事と二足の草鞋で゛
ちょっと不安でしたが初めての経験なので番組への出演を承諾致しました。
そしてギタ―界のキリストの呼び名で毎週火曜日の深夜の番組に参加しました。
 
このハチャメチャ放送は声優の(故)広川太一郎さんを中心に当時のザ・
モ―タ―マガジンの渡辺靖彰さん、東 理夫さん等が参加して居ました。
 
第1部のAM1.00から2.00迄はリクエストによる毎週カントリ―の生バンド
の演奏と唄・・・
 
第2部の2.00を過ぎると広川組頭の一人舞台・・・「男たち劇場」
 
これが終わると後はグジャグジャでACBの横田紀一郎さんと俳優の黒沢 進さん
等はFMカ―を乗り回してバ―やゲイバ―等を探訪、おかしな深夜インタビュ―を
展開!!
 
アカマクという正体不明の迷人(?)に高い出演料を払いゴルフ情報と教室を
開く?。
 
深夜対談と称してブル―フイルム制作者や、盗聴の名人、怪奇現象研究家
と称する人物の有意義(?)な話が放送されたり。
 
マリ―・オリギンさんの声占いが有ったりして当時の若者達に大好評で
毎週のラジオ関東の出入り口と放送スタジオは応援団で一杯でした。
放送日、早速カントリ―仲間達を集めての演奏に狭いスタジオは身動きが
出来ない位の缶詰状態でした・・・ そしていよいよ演奏が始まりました。
出演者は斉藤任弘、デ―ブ久保井、トミ藤山さん等が駆けつけて呉れました
 
番組は電話でリクエストを受けて、待機して居るバンドによってその場で
すぐこたえちゃうと言うユニ―クな企画でした!!
 
深夜に生バンドが出演してギンギン演奏する番組なんて日本広しといえ、
当時他には無かったと思います。
 
ラジオ関東の電波は弱くて都内でも良く聞こえない箇所が有るのに
それでも深夜だと電波が遠くまで届くそうで青森、北海道、九州辺り
からも今聴いて居ます・・・との電話がバンバン入りまして嬉しかったです。
 
深夜2時過ぎたあたりから広川組頭の一人舞台 「男たち劇場」が始まり
ます・・・
声優の(故)広川太一郎さんが一人で色々な声を出して或るスト―リ―を
演じる所謂一人芝居みたいなもので、
いつも傍に居ての聞き役だったのですが・・・
或る時広川さんから私にお爺さんの声役を振られました。
 
突然の事だったのでビックリ・・・ 真っ青!!
あんなに驚いた事は今迄有りませんでした。
そしてマイクの前でしゃべるだけで無く、その場で演技も要求されました!!
これにはちょっと焦りまくりました。
 
この話には後が有ります!!
私は仕事の関係で演奏旅行で地方にも良く行きます・・・
或る時、旅先でどうしても火曜日に掛って番組に出演出来なくなりましたのて゛
その旨を広川さんに伝えた所、分かりました宿泊するホテルの電話番号を教えて
下さい・・・との事でした。
 
夜、広川さんから電話が有りまして今夜の「男たちの夜・・・かな?」の番組には
旅先から電話出演して下さい!! との事でした。
その件で支配人と相談をしたい事が有るので電話を回して欲しいとの事でした。
 
やがて支配人との交渉が終わりまして電話が私に戻って来ました・・・
広川さんの話しに依ると夜中の2時頃にラジオ関東からホテルにに電話を掛けて
私はホテルのロビ―でその電話を受けて、その場で「男たち劇場」に
参加する、との事でした。
 
夜、仕事が終わりホテルに戻り食事を済ませて一休みして居ると広川さん
からの電話で「男たち劇場」の打ち合わせでした。
 
深夜2時頃にラジオ関東からホテルに電話をするので、その時間にはロビ―
に居て欲しい、その時にはホテルの浴衣を着て、等々と条件をいろいろと指示
されました・・・  何の事か分からず取りあえずメモを取って置きました。
 
初めての事なので精神的に落ち着かないので2時前にロビ―に行きました所
すでにホテルの支配人がロビ―待機して居りました
そして先程、広川太一郎様からのお電話で今夜ロビ―で瀬谷様が演じる事を
しっかり見届けて報告して欲しいと頼まれました・・・との事でした。
 
何てこった、電話出演なので、私は軽く考えて居ましたが・・・広川さんは
それを見越して監視の役をホテルの支配人に頼んで居ました。
 
問題は私には台本が無いのでどんな事を遣らされるのかは、本番に為らないと
全く分からない・・・ 何となく旅行に行った瀬谷福太郎をちょっと遊んで
やろう・・・との意図が見えたので、私はこうなったら、とことん役に成り
きって演じてやろうと腹に決めました!!
やがて深夜2時!! ラジオ関東から電話が掛って来ました・・・
何せ30年も前の事なのでスト―リ―忘れましたが、内容はと云うと何しろ
私がフル活動をするように組まれた話しなのですよ・・・
 
浴衣を脱いだり着たり、スタジオからの電話に出てお爺さんの声で
広川さんとのやりとり・・・
浴衣の帯でタスキを掛けたり、あっちこっち走り回ったり、知らない人が
見たらアホじゃないかと思う様な演技(?)を深夜の2時過ぎに50男が誰も
居ないホテルのロビ―でたっぷりやらされました!! (想像してみてください)
ラジオ関東のスタジオ、聴衆者の皆さんは腹を抱えて笑って居たと思います
 
流石の私も、汗びっしょり・・・とうとう座り込んでしまいました
やがて広川さんからお疲れ様の言葉、そして支配人に電話を変わり私の
演技の確認、支配人は余りにバカバカしい深夜のドタバタ劇に面白半分、
呆れ半分の感じでしたが、私が真剣に、真面目に演技して居た事は広川
さんに報告して呉れました。
そして改めて広川太一郎さんから「大変ご苦労さんでした」の労いの言葉を
頂きました。
私が「男たちの夜・・・かな?」に参加して一番強烈な記憶に残った居る出来事
でした・・・ 
約30年前に、この時のラジオ放送を聴いた人が居たらお知らせ下さい。
         瀬谷福太郎

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