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「東京ヘイライド」(158) 真保 孝 |
●中国の古い言葉に「棺を蓋(おお)いて事定まる」がある。人間の評価と言うものは、この世を去ってから、初めてその人の生前の真価が定まるものだ、と言うことです。
●振り返って、昨年(2013年)生前に、私たちを楽しませてくれた多くのアーチスト達が鬼籍に入られた。
1月。(元旦はハンク・ウィリアムス(1953年)に始まって、驚かせるニュースが多いが)昨年はまずパティ・ペイジ(85)の訃報が飛び込んできた。多くを語る必要はない。彼女の功績は「Tennessee Waltz」と共に永遠である。
3月。ゴードン・ストッカー(88)。ナッシュヴィル・サウンドの陰の功労者で、多くの歌手(エルヴィスは特にご指名)のバック・コーラス「ジョーダニアース」のメンバーで、4人組の最後のひとりだった。クロード・キング(90)。ただ1曲、1962年の「Wolverton Mountain」(第1位、26週間)を歌い続けた。少年時代、野球選手を目指した彼が、名手マール・キルゴアーと組んで作った曲だった。曲はキルゴアーの叔父に当たる実在の人物のエピソードが主題になっていた。そして奇跡的な入退院を繰り返していたジョージ・ジョーンズ(81)。まさに最後の本格的なホンキー・トンカーだったかも知れない。今は残された小節(コブシ)のきいた、いぶし銀のジョーンズ節の遺曲を聴くよりない。
5月。”Jolly Green Giant”(野菜缶詰のCMマスコット)のニック・ネームで親しまれたジャック・グリーン(83)。グリーンはアーネスト・タブのバンド・メンバー(前座歌手)から独立、「There Goes My Everything」の大ヒットを出したときは、すでに36歳の時だった。最期はアルツハイマーを病んでいた。
6月。スリム・ホイットマン(90)。広い音域と美声で鳴らした大歌手。ヨーデルでも多くのファンを持っていた。中でも「I’m Casting My Lasso Towards The Sky」(大空に投げ縄を投げれば)は、眼の覚めるような超快作である。2回録音しているが、これは絶対にRCA(1950年3月)の盤に限る。名前のスリムは尊敬したモンタナ・スリム(ウィルフ・カーター)から拝借した。ジャック・グリーン同様に少年時代にどもりで悩んだ。
(以下、次回に続く)。
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「東京ヘイライド」(159) 真保 孝 |
● 「棺を蓋(ふた)して事定まる」(後編)。
7月。チャールス・カー(79)。この人については、少し説明が必要だ。1953年の暮れから元旦にかけて、地方巡業に向かったハンク・ウィリアムスのラスト・ドライブ(死への最後のドライブ)で、キャデラックを運転した若者だった。彼は長いことウィリアムスご指名の運転手で、当時まだ20歳前であった。8月に飲酒問題からオープリーを解雇されていたウィリアムスは、折からの雪混じりの道をすでに契約していたニューイヤー・コンサートの会場(ウェスト・ヴァージニアとオハイオ)へと向かった。途中のホテルでの遅い夕食をはさんで、バック・シートで息を引き取ったと言われるウィリアムスの最後の謎を解明する証人であった。ウィリアムスと同じ故郷のアラバマ州モンゴメリーで亡くなった。
8月。カウボーイ・ジャック・クレメント(82)。歌手、作曲家、プロデュサー、スタジオ経営のどれをやらせても一流の万能選手。サン・レコード時代に当時のワン・マイクロホンで限界までサウンド効果を上げた音響エンジニアーは、サム・フリップスの成功を陰で助けた。ジョニー・キヤッシュをはじめ、ここで彼の世話になった歌手は数え切れない。サンを離れてナッシュヴィルで育てた代表歌手のひとりにチャーリー・プライドがいる。トムポール・グレィザー(79)。3人兄弟のグレィザー・ブラザースの一人(リード・シンガー)。長い闘病生活(6年間?)の末、ナッシュヴィルで病院に搬送される車の中で息を引き取った。ウィリー・ネルソン、クリス・クリストファーソンと組んで、1970年代のアウトロー運動を推進させた中心的な存在。
9月。ビル・ウェスト(80)。ペダル・スチール・ギター奏者だが、作曲家としても有名だった。また故ドティ・ウェストの元の夫(1972〜1980年の間)でもあった。ウェストを世に出した「Here Comes My baby Back Again」(1964年、第10位、15週間)を作曲した。ウェストはこの曲によりグラミー女性歌手賞に輝き、一流歌手の仲間入りを果たした。シェリー・ウェストは二人の娘である。
10月。キャル・スミス(81)。Carl とCalの違い、カール・スミスと間違えないで、前者よりも5歳ほど若い、オクラホマ生まれ。1962〜67年、アーネスト・タブのバンド「The Texas Troubabours」に在籍して(ヴォーカル、リズム・ギター、司会)人気をあげて独立した。歌のうまさには定評があり、タブは在籍中から「彼は将来必ずナンバー・ワンになる」と予言していた。3曲の第1位曲を残して、ブランソンで亡くなった。
12月。レイ・プライス(87)。しばしば健康不調のニュースが流れていたホンキートンクの英雄もやはり病(膵臓癌)には勝てなかった。今のところ、残る最年長者はリトル・ジミー・ディケンズだけになった。プライスの業績について語ることは知り尽くされていることから、蛇足になる。今年はジョージ・ジョーンズと共にテキサスが生んだ二人を失った。今でも耳に残る彼らのヒット曲は、時代を超えて長く歌い継がれるだろう。
( )内は死亡年齢。
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「東京ヘイライド」(160) 真保 孝 |
●女性の時代。気がつけば、いつのまにか世界は女性優位の時代に入っている。米連邦準備理事会議長(ジャネット・イエレ)、GMの最高経営責任者(メアリー・バーラ)、ドイツの首相(アンゲラ・メルケル)、駐日米大使(キャロライン・ケネディ)など。ここにきて、STAP細胞の開発成果の小保方晴子が伝えられた。このほかスポーツの世界を見ても、いまやまさに女性優位の時代である。ソチ冬季五輪では、参加選手の数が男子を上回った。やれやれ男はくたびれ果てて、女性は元気一杯だ。1900年代にシャナイァ・トゥエイン、フェース・ヒルで始まったと考えられるガールズ歌手は、今やキャリー・アンダーウッド、テイラー・スゥィフトらがチャートの常連だ。しかしこのように女性の躍進著しい米国でも、1950年代はまだ遅れていた。以下はその一例。
●1959年、D.キルパトリックがオープリーを去ってエイカフ・ローズ社に移籍した。その後任にオーチス・オット・ディヴァイン(Ottis “ Ott “Devine)が就任してきた。ディヴァインは1933年から1957年まで、WSMラジオ局に勤務してきた実力者であった。その彼を迎えて、オープリーの古い体質は改革されるか、と思われた。しかし、誰でもが出演して歌えるという自由で、開放的な夢の道にはまだ遠かった。
●ディヴァインは期待に応えて、その垣根を低くしようと試みた。彼のオープリーでの在職期間は9年ほどだった。その間にオープリーに登場できた女性歌手は、パッツイ・クライン、ロレッタ・リン、ジャン・ハワード、コニー・スミス、そしてドティ・ウェストらであった。これらのリストからオープリーの慎重な方向転換が、女性歌手の登用にどう傾いたかがうかがわれる。
●ストリング・バンド中心の器楽演奏のステージが、ロイ・エイカフによる歌うステージに、ついでボブ・ウィルスによるドラム、ホーン、そしてエレキ楽器の登場...と、流れてきたオープリーは、この頃から社会の女性進出の流れに沿ってこれを認める体制に次第に移行してゆくようだった。
その最初の歌手がキティ・ウェルズであった。彼女を不動なものにしたのは、「It Wasn’t God Who Honky Tonk Angels 」であった。古風で内気なウェルズはオープリーからの誘いに、当初はあまり乗り気ではなかった。彼女の夫君はジョニー・アンド・ジャックのジョニー・ライトであり、彼がマネジメントをしていた。その彼が妻を後押しして、オープリーに立たせた。
●ロイ・エイカフも初めてのウェルズが、果たしてオープリーのステージでやって行けるかどうか、疑問だとライトに漏らした。これに対してライトは「ウーム、とにかくやらせてみるだけだ」と決断した。
その後、引退をしたウェルズの後を次いで、オープリーの大奥になったのはジェーン・シェパードで、遅れること3年後の1955年であった。当時オープリーの正式契約ソロ女性歌手はウェルズとミニー・パール、そしてピアノのデル・ウッドの3人ぐらいであった。非公式にはロッカビリー代表で、ワンダ・ジャクソンが1回、ローズ・マドックスは数ヶ月の在籍であった。
●ジャクソンはその夜のことを次のように回想している。「オープリーに出られるというので、早速、白と赤いフリルのついたセクシーなドレスを新調しました。舞台の袖で、それを見たアーネスト・タブが『君がワンダ・ジャクソンかい?出番は次だよ』。『OK,いつでも、いいわよ』『でも、その格好じゃステージには出られないね。もっと肩からの肌を少なくした衣装にしなくちゃ』。
私は仕方なく楽屋に戻り、レザーの肩かけを着て上品な衣装にしました。せっかく、みんなに見て貰おうとしたのに。もう、情けなくって帰るときに、もう2度とこんなところに来るもんですか!と云ってやったわ」。
●対して、ウェルズは当夜ギンガムの可憐なシャツに長いドレスを着用して現れた。若さ溢れるジャクソンが、その魅力をどんなセクシーなドレスで登場したか、見当はつく。やがて2000年代に入り、肩もあらわなギンギラの女性歌手達の衣装を見たら、タブは腰を抜かすだろう。歌手が本来の歌のうまさに加えて、スタイルや美貌が必要なビジュアルな時代に入っていった。
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「東京ヘイライド」(161) 真保 孝 |
● 東京、雪の日のハンク・スノウ。
2月14日(金)夜半から降り出すとの予報通り、東京に2度目の雪が降った。雪で思い出すのはやはりその名の通り、ハンク・スノウ(Snow )である。今から50年前の1964年2月16日の朝早く、スノウとレインボー・ランチ・ボーイズは羽田空港に到着した。新しいフアンのために惚けを承知で、当時を回想しておきたい。当時はまだ成田国際空港は出来ていなかった。国内線も海外線もすべて羽田発着であった。
● 翌17日の記者会見で、メンバーは好きな酒を止めて演奏に専念するとその意気込みを語った。非公式な後楽園ボクシング・ジムでのジョニー・キャッシュ公演を除いて、前年の1963年5月に大手町のサンケイ・ホールでファーリン・ハスキーの来日公演が行われていた。
● 18日午後7時の新宿厚生年金会館ホールでの公演を皮切りに、3月2日までの約2週間わたるスケジュールが開始された。この当日、東京ではまさかの洒落の粉雪が舞っていました。LPレコードで繰り返し聴いていたスノウとそのメンバーが目の前で演奏しているのです。ステージでは邦人女性歌手の原マサコとアニタ・カーターとのデュエット曲(Down the Trail of Achin’ Hearts)も歌ってくれました。あのスノウのいぶし銀の声、フィドル、スチールで迫ってくる一体感、その感動を今のファンに伝えることはとても不可能です。今もし、人気のジョージ・ストレートが来日したとしても、比較は出来ません。
● 帰国したスノウは米紙ビルボードの記者に「欧州、韓国など海外公演をしたが、あれほど熱狂的な観客の前で歌ったことはなかった」と語っていました。興行収入は当時で約3万ドル(2週間)でした。滞在中に多忙なスケジュールを割いて、横浜の盲学校で慰問コンサートもしておりました。それは遠くスノウの少年時代に義父から受けた虐待体験からでした。招聘してくれたのは、ビクター芸能(当時)の鳥尾 敬孝さんの力によるものでした。鳥尾さんは以前、小坂一也のワゴン・マスターで活躍していました。この後、同じ鳥尾さんの尽力で、5月にロイ・エイカフが来日し、カントリー歌手の来日ラッシュが始まるのでした。
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「東京ヘイライド」(162) 真保 孝 |
●「次のレジェンドは誰だ?」。朝日新聞(2月17日)に1面に「不屈のレジェンド、挑戦は続く/葛西紀明、銀メダル」(ソチ冬季五輪)と大きく掲載された。ひるがえってナッシュヴィルでもいま、次のレジェンド(Legend/伝説)を探しているように思える。昨年(12月)物故したジョージ・ジョーンズもその一人だが、その最有力候補は故ジョニー・キャッシュだろう。幾たびかの入退院を繰り返して、2003年9月にその生涯を終えた。
●葬儀はナッシュヴィルの郊外、ヘンダーソンヴィルのファースト・バプティスト教会で行われた。ここはその年の4ケ月前に妻のジュン・カーターのために、キャッシュ自身が追悼の祈りを捧げた場所でもあった。家族や友人達はきっとカーターが天国から彼(キャッシュ)を呼び寄せたのだろうと、語りあった。葬儀の規模の大きさ(ニュース性、会場、参列者の数など)がレジェンドのひとつの目安になるかも知れない。
●生前から親しかったグラハム牧師は「彼はもうここにはいない。けれど天国の彼は私たちの心の中で生き続けている」と。ウィリー・ネルソンも「音楽は音楽。それはすべての壁を突き破るものだ。一度でもキャッシュを聴けば、その意味が分かるだろう。下手な考えを止めさせる、それがキャッシュだ」。親しい友人だった元副大統領のアル・ゴアも出席して、「数百万のアメリカ人が彼を知り、歌を愛した。歌手でも伝道師でもなく、ただの政治家に過ぎない私には、彼を讃える言葉はない」。作曲家でプロデュサー、これも故カウボーイ・ジャック・クレメントは「My friend, the famous person・・・」と前置きをして追悼の詞を読んだ。
●娘のロザンヌ・キャッシュと結婚していたロドニー・クロゥエルは「すべての魂をしっかりと握りしめて、義父は天国に昇って行った。この世にはもう何も残されていない」。2人はデュエットを組んで、ファミリーとしてロード・ツアーを共にしていた。
葬儀の最後に、キャッシュ自身の遺言とも言える遺作曲「Meet in Heaven 」が披露された。「――At the end of Journey, when our last song is sung. Will you meet me in Heaven someday 」。
●そして2012年3月、改めて後押しするように、ナッシュヴィルのダウンタウンで、キャッシュのミュージアムが開館された。初日には海外からのフアンも含めて、開館4時間の間に300人が来館した。キャッシュの生前の功績を物語る品々(楽器、黒色中心のステージ衣装、手書きの楽譜、少年時代からの写真など)が展示されている。同時に記念の切手も売り出されたと言う。
●開設(運営)に努力したのは、ビル・ミラーという人で、夫人のシャノンと共に夫婦でキャッシュの熱心なファンであった。ファンになったきっかけは、9歳の時に聴いたラジオ番組からで、友人のガール・フレンドから「あれはジョニー・キャッシュという歌手よ」と教えて貰ったことからだ。両親にねだってレコードを買って貰って、夢中になりファン・クラブに入った。
「プレスリーにはグレースランドがあるが、キャッシュは何処にもないのは淋しい。フアンとして何かよりどころが欲しい。私の収集品も陽の目を見なければ・・・ただの宝の山だ。フアンがここに集まれれば嬉しい」(ミラー)。
日本でも昔(60年ほど?)、杉並区に田所さんと言う熱心なファンがいて、フアン・クラブ(日本支部)を組織していたことを思い出した。歌手ではまだ現役で元気な斎藤任弘さん(日本のキャッシュと呼ばれて)が、昨年6月の渋谷のキャッシュ祭りに出演していた。
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「東京ヘイライド」(163) 真保 孝 |
●モンローとプレスリーにみる相互革新性(1)。ビル・モンローがはじめてオープリーに出演したのは1939年のことだが、それから15年経過した7月5日の夜、ひとりの若者がオープリーのステージに立った。19歳のエルヴィス・プレスリーである。プレスリーはエレキ・ギターのスコッティ・ムーアとベースのビル・ブラックと一緒にゲスト出演した。
3人はサン・レーベルのオーナー、サム・フリップスが運転する1951年型のキャデラックに乗って、はるばるメンフィスからナッシュヴィルに200マイルの道をやってきた。自動車の屋根にはウッド・ベースがくくりつけられていた。
●この頃、メンフィスで地域的な人気を得つつあったプレスリーを、フリップスはどうしてもカントリー音楽のひのき舞台であるライマンのステージに立たせたかった。それは全米的な人気につながる売り出しの早道であったからだ。このためにフリップスは数週間前から、つて(伝手)を頼ってオープリーのジム・デニーに再三にわたって執拗に「とにかく機会を与えてくれ」と頼んでいた。
●その結果、ハンク・スノウが司会をする番組の中で、1曲だけ歌う機会が与えられたのだ。ライマン公会堂に着いた3人は、はじめて見るその古くさい建物に驚いた。ラジオの中継では聴いてはいたが、誰もオープリーの実際の舞台を見たの者はいなかった。舞台裏ではラジオの中継で聴けた人気歌手たちが歩き回っていたが、彼らはただびくびくとするだけで落ち着かなかった。やがて出演の時間がやってきた。メンフィスでのライブのように、勢いよくステージに飛び出した若者3人は、いつもとは違う礼儀正しい、広く格調のあるステージと観客にとまどった。
●初舞台に興奮していると、スノウが「最近ヒットを出しているメンフィスからきた若者だ」と紹介したが、肝心のプレスリーの名前は忘れてしまっていた。この夜プレスリーが選んだ曲は「Blue Moon of Kentucky」だった。「わかってはいたけれど、自分を捨てた不実の恋人を、ケンタッキーの青い月よ、照らしておくれ」と綴るこの曲は、ビル・モンローが1946年に作った曲で、前年の46年には「Kentucky Waltz」が作られている。
プレスリーがサン・レコードで最初に録音を許されたシングルは(1954年7月)、A面が「That’s All Right」で、B面がこの曲だった。たくさんのカントリー音楽の曲を聴いて育った彼が、この曲を選んだことは意味が深いが、この後も彼の愛唱歌の一つに入っていた。
●さて、3人がこの晩、一番に会いたくなかった人はビル・モンローであった。それはブルーグラスの父と言われるモンローの名曲を冒涜したと非難されていたからだ。もちろん、モンローはこの3人とはまったく未知であった。だから挨拶をされたとき「君たちはどなたですか?」といぶかしく聞いたと言う。そして大人のモンローはよそ目にはともかく、「君たちが私の曲でオープリーをスタートするのなら全面的にいくらでも助けてあげよう」と励ました。
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「東京ヘイライド」(164) 真保 孝 |
● モンローとプレスリーにみる相互革新性(2)
●歌い出したプレスリーは自分なりに自由奔放のアレンジで、中途からアップ・テンポに転調して素晴らしかった。その証拠にさすがにモンローも脱帽したのか、1946年9月の自分のオリジナル盤を早速その年の10月には参考にして?スロー・ワルツのテンポに手を加えて、再録音をして残した。一部では狷介頑固で知られながらも、新しい時代の流れにも目を向けるモンローの姿勢の現れだとみられた。
モンローはその夜、特別な気持ちでプレスリーの歌を聴いたのだったのかも知れない。自分の音楽が20年近くを経て、若者のロカビリィという世界で歌われているという事実に。その夜のモンローは地味な黒っぽいスーツにトレード・マークの白い帽子をかぶり、43歳にしてはすでに風格と威厳を備えていた。
●しかしこのプレスリーのステージは一部の保守的な関係者や観客たちからは不評であった。その代表的な言葉は「go back to driving a truck!」(トラックの運転手に戻れ!オープリーのマネジャー、ジム・デニィ)で、ちなみに運転手はプレスリーの以前の職業であった。
モンローからほめ言葉を貰ったが、傷心の気持ちでメンフィスに戻ったフィリップスとプレスリーはくじけなかった。すぐにライバルであるルイジアナ・ヘイライドに挑戦した。デレクターのホーレス・ローガンに手紙と電話で出演を申し込んだ。
若手歌手の登竜門でオープリーよりも革新的な姿勢のヘイライドは、テストの末、その年の11月に契約が成立した。プレスリーには週給18ドル、ムーアとブロックにはそれぞれ12ドル、毎週土曜日の出番だった。
●ひるがえって、兄を頼ってモンローが故郷ケンタッキーを後にして、シカゴに向かったのも18歳の時だった。
世界的な大恐慌の中、農村部の農民たち(若者)は職を求めて大都市に集まった。低賃金の石油工場で働いた後、兄弟のバーチ、チャーリーとバンドを組んだ。折からラジオが普及して、ラジオ局はどこも音楽バンドを歓迎していた。兄弟にしても、賃金の安い工場で働くよりも収入の割がよかった。ラジオの番組は地方からやってきた出稼ぎ労働者向けのヒルビリーやスクェアー・ダンスが人気だった。モンロー(ブルーグラス)もプレスリー(ロッカビリー)も、時代は違うが、若くして自分の新しい音楽の世界を志向した姿勢は同じだった。
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「東京ヘイライド」(165) 真保 孝 |
● 野球選手からカントリー音楽に(1)
●春めいてプロ野球のキャンプの便りで賑わっている。ベースボールは米国の国技?である。Baseballを日本語の「野球」としたのは俳人の正岡子規だと、どこかで読んだことがある。野原で球(ボール)で遊ぶから野球と名付けたのか、名訳だ。米国はさすが野球王国だけに、少年たちの多くは将来の夢は選手になることだ。今回も2回に分けてそのあたりを書いてみます。
● カントリー音楽歌手にも野球崩れ?の人が多い。その嚆矢はロイ・エイカフである。10代の後半にセミプロの野球チームでピッチャーをつとめた。その実力はメジャーリーグからも注目された。しかし2度の日射病で倒れて夢は消えた。ボールから手に変えたのはフィドル(バイオリン)だった。村にやってきた薬売り(強壮剤)のショウ(メディシン・ショウ)のオーナーがその腕前を見込んだ。薬売りを手伝いながら、やがて自分のバンド「クレイジー・テネシアンズ」を結成した。後にオープリーにデビューしたとき、この名前は州名を汚すと「スモーキー・マウンテン・ボーイズ」に変更された。
● ミシシッピの小さな田舎町でこのロイ・エイカフやハンク・ウィリアムスを聴いたのはチャーリー・プライドだった。古い中古のラジオで毎週末にオープリーの中継を聴いた。不思議なことにオープリーのファンは彼だけで、家族は誰も関心を示さなかった。だが、プライドが本当になりたかったのは、プロ野球の選手だった。ニグロ・アメリカン・リーグに入り、1961年にはロサンゼルス・エンジエルスで投手と外野手でプレイした。しかし肘を痛めて野球をあきらめてモンタナに帰った。
● ヘレナの町にラジオの公開番組のためにレッド・フォーレーとレッド・ソヴィナンがやってきた。自己流で歌った「Lovesick Blues」を聴いたソヴァインはナッシュヴィルにくることを勧めた。デモ・テープを聴いたチェット・アトキンスは、伝統的な白人の音楽を黒人が歌うという違和感を持ったが、思案の末にRCA と契約をしてくれた。しかしはじめリスナーの拒否感を考慮して宣伝に顔写真は出さなかったので、レコードやラジオで聴いた人は、白人と思った。
● 番外編。本家「歌うカウボーイ」のジーン・オートリーは事業の世界でも大成功した。ホテルや放送局、そして大リーグ「カリフォルニア・エンゼルス」のオーナーにもなった。このきっかけとなったのは、二人目の妻(前妻は病死)、ジャッキーの薦めがあったと思われる。1980年の終わり、メディカル・センターで開かれた慈善募金集めの会でふたりは出会った。当時友人ジミー・ロングの姪だった妻を亡くしていた。お悔やみの会話の後、再び自分のホテルで開いた新年会にオートリーはジャッキーを招待した。
● ジャッキーは銀行で要職にあり金融業務に精通していた。事業を拡大していたオートリーにぴったりだった。大学でスポーツ学科を専攻しただけに、オートリーの死後、アメリカン・リーグの名プレジデントにも就任して、遺業を継いだ。大柄でオートリーよりも少し背の高いジャッキーに野球帽はよく似合ったという。
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「東京ヘイライド」(166) 真保 孝 |
● 野球選手からカントリー音楽に(2)
●テキサス生まれのジム・リーヴスも6歳でギターを覚えたが、野球選手として奨学金を受けてテキサスの大学へ進んだ。中退して、ヒューストンの造船所で働きながら、セントルイス・カージナルスでプレイ中に、セカンド・ベースに滑り込んだとき膝に怪我をした。イースト・テキサス・リーグでもプレイをした後、次に選んだのがラジオのDJでシュリブポートのKWKH 局(ルイジアナ・ヘイライド)のアナウンサーで就職した。
● 当時アナウンサーは8人ほど在職して、それぞれが番組を担当していた。ある日、出演が予定されていたハンク・ウィリアムスが2度目のステージで、酒に酔って歌えなくなった。急遽、局内で代役が求められ、日頃歌がうまいと言われていたリーヴスに白羽の矢が立った。もしウィリアムスが泥酔しなかったら、その後のリーヴスの成功はなかったかも知れない。局内で歌手として認められた。そして「Mexican Joe 」(1953)に始まる活躍はご存じの通りだ。マイナー・レーベルのアボットを経て1956年にはRCA と契約した。
● リーヴスがルイジアナのラジオ局にいた頃、「ヘイライド」の人気レギュラーは、ウィリアムス、ウエッブ・ピアース、そしてこのスリム・ホイットマンらだった。フロリダ生まれのホイットマンはリーヴスやドン・ウィリアムスと同様に米国以上に欧州で人気が高かく、特に英国人から好まれた。野球への道は海軍を除隊してからで、左腕投手として投げ、打率もよかった。
● 25歳で歌手に転向した時、才能を見抜いたのが、ハンク・スノウ、プレスリーらもマネジメントした辣腕のトム・パーカーであった。少年時代からのアイドル、モンタナ・スリム(ウィルフ・カーター)に因んでスリムと命名したという。ヨーデルの素晴らしさが先行しているが、伝統的なクラシック曲も推薦できる。
● 昨年(2013年)6月に5日間のホスピス入院後、自宅で息を引き取った。90歳だった。「ヘイライド」時代からの親友、ソニー・ジェームスは健康に注意して、共に酒もたばこも嫌った仲だったのにとその死を悼んだ。以上、代表的な歌手を紹介したが、他にも(記憶が正しければ)コンウェイ・トゥイティ、エディ・レイヴン、、ビリー・レイ・サイラス、リー・グリーンウッドなどがいる。
● 番外編。ティム・マグロー。10年ほど前にアメリカのマスコミで彼と実父との再会ニュースが話題になった。1967年、マイナー・リーグの選手だった父は、ひと夏の恋でマグローを生んだ母ベティと別れて去った。だから11歳までトラックの運転手をして育ててくれた父を、実の父だと思ってきた。去った実父のタグはニューヨーク・メッツやフィラデルフィア・フィリーズでリリーフ投手として活躍したが、2004年に他界した。
● 学生時代にスポーツ選手として才能を開花してきたマグローは、膝の怪我であきらめて歌手の道を選んだ。アイドルはキース・ホイットリー、チャーリー・プライドらだった。憧れのナッシュヴィルで下積み生活の末に手に入れたのは、歌手としてのほかに、美人歌手のフェイス・ヒルだった。
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「東京ヘイライド」(167) 真保 孝 |
●売り渡された名曲。先頃、耳の不自由なふりの作曲家が他の作曲家に作曲を依頼して、あたかも自分の作品のように発表してきた事件が公になった。 カントリー音楽ではどうか?と、少しまとめてみた。
●その最初の曲(1)は、「You Are My Sunshine」だろう。一般にはジミー・デイヴィスと当時デイヴィスのバンドでスチール奏者だったチャールズ・ミッチエルの作とされてきた。しかしデイヴィスが1940年に録音(デッカ)する前に、すでに2組のチームが録音していた。オリジナルはパイン・リッジ・ボーイズで1年前の1949年8月にブルーバードに録音していた。2番目はリッジ・ブラザース・ギャングという4人組で1ヶ月遅れて同年の9月にデッカに。曲を書いたのはこのチームのオリーバー・ フードという人である。デイヴィスはこの曲が気に入って、会社を説得してどういう手法でか?権利を手に入れ、1944年、自身のルイジアナ州知事選挙のキャンペーン・ソングに採用した。3番手の録音で、ちゃっかりと自分の名前でコピィライトも1940年と登録している。現在この曲はルイジアナ州の州歌になっている。ちなみにこの選挙戦でディヴィスが乗った馬の名前は「サンシャイン号」である。
●ハンク・ウイリアムスの「Wedding Bells」(2)も実はそうであることが判った。「Lovesick Blues」の数ヶ月後に発売されて、第2位、延べ29週間のヒット曲である。この曲は長い間クラウド・ブーンのペンになる作品として、公式に登録され知られてきた。しかし本当はアーサー・Q・スミスと言う人が作り、1947年にわずかなお金(25ドル)でブーンに売り渡したものだった。ブーンとスミスはノックスヴィル に住んで友人同士で、互いに金銭的に了解の上で権利を譲った曲だった。この事実を突き止めたのは、地元ノックスヴィルに住むテレビ局のアンカー・マンで、米国ではすでに大方の理解がされている。
●スミスはジョージア州の生まれで、司会者、ラジオ局のDJとして活躍していたが、大酒飲み(アル中毒)でいつも多額の借金に追われていた。この人は才能に恵まれていたらしく業界に交友関係も広く、はっきり とした証拠はないが他の歌手にも皆さんお馴染みの「あっと、驚く!」有名曲を15〜30ドルぐらいで売り渡していた。54歳で他界したが、その時ポケットには7セントしか入っていなかったという。まるでニューヨークのホテルで貧困の中、他界したスティーブン・フォスターの最期を連想させる。
●売り渡された名曲(3)。赤子の時に両親が離婚したウィリー・ネルソンは妹と共に祖父母のもとで育てられた。そうした環境から二人の絆は強く、同じバンドでピアノを弾いて助け合っている。才能があるのにチャンスに恵まれず、長い下積み生活が続いた。曲を作りながらラジオのDJなど職を変えて、わずかな収入で食べつないだ時代に書いた曲「Family Bible」(50ドル)、「Night Life」(150ドル)などを売り渡しと言われる。
●ネルソンは歌手としてよりも先にソング・ライターとして有名になった。作品には「Crazy」「Hello Walls」 「On The Road Again」などご存じの曲が並んでいる。今年81歳だが、元気にツアーを続けている。 脱帽!
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「東京ヘイライド」(168) 真保 孝 |
●大人のDJの選曲。(その1)。毎週日曜日の朝、7時30分からNHK第1放送(ラジオ)で落合恵子の「絵本の時間」と題した番組が始まる。落合さんは文化放送時代からアナウンサーとして、長い経験と実力を持つ第1級の人である。落ち着いた語り口、経験豊富で幅広いジャンルからの選曲はさすがである。大人感覚の選曲から時々カントリー音楽系の曲がかかるのが嬉しい。最近では「谷間に3つの鐘が鳴る」(スリー・ベルス)と「モッキン・バード・ヒル」が聴かれた。
●「谷間に3つの鐘が鳴る」(The Three Bells)。チーム、ブラウンズは1956年メジャーのRCAと契約して、契約更新の?最後の1959年に出したのがこの曲だった。ジム・エドワードは高校時代からシャンソンが原曲であるこの曲に親しんでいた。それでチェット・アトキンスにRCAに残るラスト・チャンス録音を希望した。各小節のイントロの後に入るボン、ボン、ボンと言うあいづちが洒落ていた。3人のハーモニーも素晴らしいが、プロデュースしたアトキンスのアレンジ力に負うところも大きい。
●「この曲が当たらなければ、私は会社(RCA)を去ってもいい」(発売に当たってのアトキンスの自負)。小さな谷間の村の教会でジミーブラウンと言う少年の一生の間に3回の鐘が鳴る物語。それは誕生、結婚、そして葬式の日である。チームは契約が更新されて1967年まで?在籍した。途中1965年頃、ジムはソロ歌手として独立、活躍を続けた。1976年からはヘレン・コーネリアスとデュオを組み、ヒットを飛ばした。なお「三つの鐘は・・・」もソロで再録音(1969年)したが、29位に終わった。
●3人姉弟チーム(長兄のエドワード(弟)、長姉のマキシン、妹のボニー(妹))で1953年にプロ・デビューした。翌54年にマイナー・レーベルのフェーバーから出した「Looking Back To See」が第8位までランクされた。しかしメジャーのデッカから出たジャスティン・タブとゴールディ・ヒル盤(第4位)に負けた。社長のフェーバー・ロビンソンはレコードを自分の自動車に積んで、こまめにお店を売り廻ったが、全米的に取扱代理店数に勝る大手のデッカとでは勝負にならなかった。ちなみにジャスティン・タブはアーネスト・タブの息子、ゴールディ・ヒルは後日1957年にカール・スミス夫人になった。
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「東京ヘイライド」(169) 真保 孝 |
●ホワイトハウスとカントリー音楽。あわただしい日程をこなして、バラク・オバマ大統領が韓国へ向かった。米国での歴代大統領とカントリー音楽とのつきあいは深い。古くは1974年3月、リチャード・ニクソンはナッシュヴィルのオープリーを訪ねた。この年はオープリーランド内に新装なったオープリー・ハウスが建った年だった、と記憶する。これを祝って駆けつけてステージに立ったニクソンに、ヨーヨーのレッスンをしたのが、まだ元気だったロイ・エイカフ(70歳)であった。この時の写真は有名だ。
●2012年7月にはブラッド・ペイズリーがホワイトハウス内の庭園で、ハウス内で働く従業員約1200人の慰安のための野外コンサート(オバマ夫人主催?)で歌っている。2011年11月にはクリス・クリストファーソン、ライル・ラビットが招かれていた。
●少し前の2009年7月、ホワイトハウスのいつもの東棟でコンサートが開かれた。出演者はアリソン・クラウス、ブラッド・ペイズリー、チャーリー・プライドらだ。司会はWSM局のアナウンサー(フィドラー)エディ・スタッブス。クラウスは「Let Me Touch You For A while」をバンド、ユニオン・ステーションをバックに、ドブロのジェリー・ダグラスを加えて、2曲目はギターにDan Tyminski(普段はマンドリン)を加えて映画「オー、ブラザー」で使用された「I Am A Man of Constant Sorrow」を聴かせた。プライドはお馴染みの「Is Anybody Goin’ to San Antone」と「Kiss an Angel Good Morning」。ペイズリーは自分の新しいアルバム「American Saturday Night」から「Then」、そしてクラウスとデュエット「Whiskey Lullaby」を披露した。
●コンサートを終わってオバマのコメント。「知っての通り、私は都会育ちのシティ・ボーイだ。だけど多くのアメリカ人が好むようにカントリー音楽が大好きだ。人々の心の中に生きていてあらゆるジャンルの音楽に影響を与えている。カントリー音楽はアメリカの人々に希望を与えて来た音楽だ。不安と焦燥が渦巻く現代、今日のような演奏が元気を与えてくれる。私の知る典型的な歌手はハンク・ウィリアムズとウィリー・ネルソンだ」(オバマ大統領)。
●大統領選で民主党のオバマが勝利した州は、ミネソタ、オハイオ、イリノイ、ヴァージニァ、ノース・カロライナだ。反対に共和党のマケインの勝利した州は、ルイジアナ、アーカンソー、オクラホマ、テキサス、ケンタッキーなどカントリー音楽に親しい州だった。カントリー音楽はやはり保守的なのかな?
●お断り。次回予定していた「大人のDJ選曲」(第2回)は、次の回に掲載します。
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「東京ヘイライド」(170) 真保 孝 |
●大人のDJの選曲。(その2)。「Mockin’ Bird Hill」。この曲も経験の浅い今の若いDJ(特にタレント上がりの)の選曲では、なかなか取り上げられない珠玉の懐メロだ。オリジナルはパイントッパーズと言うチームで、1950年(第3位、13週間)の発表。この曲にも作られた背景がある。
●1949年、35歳だった作者のヴォーン・ホートンは父が入院していたペンシルベニアの病院に毎週末、見舞いに通っていた。列車に乗るのが好きだったホートンは、車中いつも曲の構想を考えていた。ある日出来上がった曲を早速病院内で父と看護婦に聴かせた。父は「今までおまえが作った曲の中では、とてもいい曲だよ」とほめてくれた。
●自信を持って発表してみたが、どこの出版社、レコード会社からも注文は来なかった。そこで1950年9月、自身がチーム(パイン・・・)を作って録音した。やがてクリスマスの週末にビルボードに載るようになった。レス・ポールとメリー・フォード盤、パティ・ペイジ盤その他が市場に出た。いずれもトップ1位から20位に入った。今では世界中で愛されている。曲中、Tra-la-la twit-tle-dee dee deeと歌われるパートが愛らしい。モッキン・バードは米国南部に住み、他の鳥の鳴き声をまねるのが上手で、ミシシッピ州の州鳥になっている。
●1911年にペンシルベニア州で生まれたホートンは1988年にフロリダの自宅で他界した(77歳)。他の作品に「Hillbilly Fever」「Till the End of the World」「Dixie Cannonball」がある。作曲家殿堂入りは1971年。弟に3歳違いのロイ・ホートンがいる。二人は1935年にニューヨークに出てきて、共に音楽の道を歩んだ。ロイは1975年にCMA の会長だったヒューバート・ロングが急死した後、その要職を継いだ。曲名が似た曲で、主に器楽曲(フィドル)として親しまれている「Listen to the Mockingbird」(1855年)があるが、別の曲である。
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「東京ヘイライド」(171) 真保 孝 |
●マック・ワイズマン、CMA殿堂入り。近着の「切り抜きカントリー倶楽部」でこの朗報を知った。遅きに失した人選で、なぜ遅れたか不思議である。去る2010年5月23日、85歳の誕生日を祝うコンサートが「トルバドール劇場」で開かれた。親しい人たちによるプライベートなショウだったが、さすがWSMラジオは「The Voice with Heart」のニックネームを持つワイズマンを讃えて実況中継した。彼は1958年CMA創立当時のメンバーのひとり、またIBMA(ブルーグラス)の役員でもあった。
●1949年にビル・モンローのブルーグラス・ボーイズに入団したワイズマンは、”Can’t You Hear Me Collin”ほか1曲を録音して、その冬にはバンドを去った。その後席を狙って入団したのがジミー・マーチンであった。ワイズマンは退団した後、しばらくソロ活動(自分のバンドを作る)をしていたが、それが退団の理由か?
●「限りなく甘いテナー・ヴォイスの持ち主は最高年齢者(今年89歳)として、ブルーグラスの要(かなめ)と言える。マックは間違いなくヒーローのひとりだ。”Me and Bobby McGee”は多くの歌手達に歌われているが、マックの歌が一番好きだ。私は熱心なブルーグラスのフアンではないがマックは別だ。もし彼が歌ってくれるなら、私の人生のハイライトになるだろう」(W・ジェニングス)。
”Me and Bobby…”はヒッピーの自由賛歌がその内容と聞いているが、それをブルーグラス・フェスティバルで歌ったワイズマンが、その反対にカーネギー・ホールでは、“Jimmie Brown, The Newsboy”をジョニー・キャッシュと歌ったと、ニューヨーク・タイムズが報じていた。
●「私は若い頃、彼のヒット”Love Letter in the Sand”を聴いて、すぐにファンになった。彼はブルーグラスに籍を置いているけれど、それ以上のものを持っている。グレート、グレート・ヴォイスの持ち主だ」(マール・ハガード)。
ハガードが言うように、フォーク、カントリー、ブルーグラス、ロカビリーとレパートリーの幅の広さには驚かされる。その足跡はカバーも含めて、65枚に余るアルバムに盛り込まれている。しかもそのアルバム・タイトルの名前のつけかたが実に上手い。どれも買いたくなる気にさせるのは困る。
●ヴァージニア州生まれで、少年時代に手足が動きにくくなるポリオを病み、畑仕事をして克服、ギター、ピアノを弾けるようになった。他界したニュースは聞いていないが・・・、長生きをして欲しい。
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「東京ヘイライド」(172) 真保 孝 |
●「それぞれのネーミング」。熱戦の大相撲夏場所も中盤戦を過ぎて、白鵬が負けた。幕内42人中、外人が15人(うちモンゴルが10人)と国際的だ。つけられた四股名(名前)がユニークで面白い。エジプト出身は大砂嵐。荒鷲、玉鷲、時天空(以上、モンゴル勢)、蒼国来(そうこくらい、中国)とそれぞれお国柄を反映している。人気の遠藤(日本)は(遠藤聖大)本名からだ。
●日本のアマチュア・バンドの命名も色々と考えている。ジミーとかハンクとか、やはり好きな歌手や敬愛するコピィ・バンドからが多い。名は体を表すと言うが、レパートリーの曲も研究してカバーしているようだ。
近頃は西洋化して何でもカタカナ語をつけたがるが、老人の私は少し反対である。前の東京都知事石原慎太郎が地下鉄の新線に「大江戸線」と名付けたのはよかった。社会的にももっと日本語を大事に多用しよう。ライブ・ステージで歌う前に曲への理解の手助けとして、大意を少しでも話してくれるバンドは有り難い。英語に強いお客ばかりではないし、カントリー音楽に詳しい人ばかりでもない。
●さてアメリカについて少し拾ってみた。BR5-49は実在しない架空の電話番号からつけられた。もとはコメディアンのジュニアー・サンプル(1983年他界、57歳)が人気テレビ番組「Hee Haw」の中で使っていた。ダイアモンド・リオは米国トラック会社のDiamond Reoの名前をミス・スペリングしてつけてしまった。レイシー・ジェイ・ダルトン(Lacy. J. Dalton)のレイシーは友人の名、Jは彼女の名前のJillから, ダルトンは歌の先生の名前を組み合わせたものだ。
●ディキシー・チックスはアルバム・タイトルの「Little Feat Song」の「Dixie Chicken」からとの説がある。ラテン系アメリカ人のフレディ・フェンダーは本名をバルデマール・ウェルタと言ったが、レコード会社と契約が成立したとき、有名な「Fender」のアンプや楽器(エレキ・ギター)の会社の名前に変えた。ロレッタ・リンの実妹のクリスタル(Crystal)・ゲイルは、同じ発音のKrystalと言う米国のハンバーガー店名を参考にした? ゲイルは彼女のクリスチャン・ネームである。サザーン・ロックのマーシャル・タッカー・バンドは自分たちの練習場ホールの名前から。ゴスペルから出発したオークリッジ・ボーイズは、テネシー州東部にあるノックスビルの近くの地名から。
●ボビィ・ジエントリーは観た映画の名前から。ソイヤー・ブラウンはナッシュヴィルの街通りの名前から。スタットラー・ブラザースは宿泊したホテルの部屋にあったティッシュ・ペーパーの名前から。コンウェイ・トゥイッティはアーカンソー州にあるConwayと言う地名と、トゥイッティはテキサス州の町の名前からそれぞれ考えた。本名はハロルド・ロイド・ジェンキンズで少年時代をアーカンソーで過ごした。まだありそうだが今回はここまで。他にあったら、教えて欲しい。
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「東京ヘイライド」(173) 真保 孝 |
●ラルフ・スタンレーに名誉学士号。アメリカ東海岸にあるコネティカット州。ここは米国史の初期に英国から渡ってきた人たちが住み着いた州(土地)だ。全米でもっとも豊かな人々が住んでいる(1位か2位?)。この州のニューヘブンにある名門イエール大学から5月に、ラルフ・スタンレーに名誉ある博士学位を授与された。イエール大学は1701年の創立で、ハーバート大学とならぶ高等教育の拠点であり、卒業生のひとりにジョ−ジ・ブッシュ大統領がいる。白人が多いこの州は全米1位の教育州でもある。マンハッタンで働く高級エリート達は隣接するこの州から通勤しているとも聞く。
●ラルフの博士学位の授与はこれがはじめてではなく、1976年にテネシー州の大学からも授与されていた。スタンレー兄弟が生まれたヴァージニア州も東海岸にあり、コネティカット州にも近く同様に米国建国の歴史に貢献している。
当日(5月19日)、ラルフは教授用の赤いロープをまとって、オーケストラが奏でる映画「O Brother」のサウンド・トラックから「Man of Constant Sorrow」を演奏する中を演壇に向かった。出席者は全員起立し、その功績に拍手を送った。
●今年87歳の大長老。トラディショナなアパラチアン音楽を広く啓蒙、世界に広めたことが高く評価されたと思う。2歳違いの兄のカーターと組んでザ・スタンレー・ブラザースを創設したのは、1946年12月。音楽歴は実に68年になる。途中、1966年にはよきパートナーのカーター(41歳)を失ったが、くじけなかった。ラルフが来日したのは、1971年、44歳の円熟の時だった。
●カーターのきびきびとした元気なリード・ヴォーカル、ラルフの高音(テナー)に加えて、さらに参加してきたハイ・パートで聴かせるピィ・ウィ・ランバート(フィドル)のからみは、今にしてみれば深みのある絶品であった。1947年後半にマイナー・レーベルのRICH-R-TONEに初録音、1948年後半には名門コロムビアに移籍した。
●因みにこの年はフラット・アンド・スクラッグスがビル・モンローのバンドを離れた年でもあった。ラルフのバンジョーもツゥー・フィンガーからスリー・フィンガー・スタイルに変化した時期でもあった。最新のアルバムは息子と組んだ「Side by Side」(3月発売?)で、ジャケット写真ではタイトル通り、隣り合って2人仲良く並んでいる。孫も成年を過ぎている。ラルフが家族と過ごす晩年を祝いたい。
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「東京ヘイライド」(174) 真保 孝 |
●ジョージア州の桃。いよいよ6月、美味しい果物、大好きな桃が出まわる季節だ。そこで名作「Peach Picking Time Down in Georgia」を取り上げよう。ジョージア州は別名 「The Peach State」と呼ばれる。ミシシッピ州生まれのブルー・ヨーデラー、故ジミー・ロジャースがこの曲を歌った。ミシシッピ州の州歌はレイ・チャールスの「Georgia On my Mind」となり、残念ながら指定こそされなかったが、今でも数え切れない歌手達によって歌われる人気曲だ。
曲の主人公は、故郷を離れて方々各地の農園に出稼ぎに出た労働者だろう。貧しいけれど、陽気で心はいつも明るい。それが曲のメロディによく出ていて何回聴いても楽しい。「ジョージアで桃の収穫が始まる頃、テネシーではリンゴの収穫が始まる。ヴァージニアでは青草(ブルーグラス)が茂り、テキサスでは牛集めが忙しい。僕は指輪を買って、恋人の待つ故郷に帰ろう」と歌われる(大意)。
●ロジャースが録音したのは、人気がすでに定まった1932年8月だったが、発売されたのは翌年の4月だった。翌年の33年に天国へ旅立った。
●ロジャースの曲にはすぐれた作品が多いが、「Dear Old Sunny South by the Sea」と共に個人的 好みでもベスト10に入る曲だ。イントロから南部の空気のようで、無理のないメロディ・ラインは心地よくヒルビリーの源流にたどり着く。桃は実が柔らかく、傷みやすい。果物屋さんで上にうっかり荷物を置いたら親父さん(店主)に怒られた思い出がある。冷えた桃を食べながら、この曲を聴けばまさに至福の時である。
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「東京ヘイライド」(175) 真保 孝 |
●「父の日」は、毎年6月の第3日曜日に決まっている(「母の日」は5月第2日曜日)。日本ではいつ頃から定着してきたのだろうか?「母の日」に比べて、影が薄いのは男性(父)としては寂しい。カントリー音楽の父はもちろんジミー・ロジャースだ。母は3人の姉妹歌手を生んだメイベル・カーターかな?ウェスタン・スイングはボブ・ウィルス、ブルーグラスの父はビル・モンローと異論はないだろう。
駐日米大使のキャロライン・ケネディさんが15日、「父の日」を前に思い出を海外紙に寄稿していた(朝日新聞、18日)。自分が生まれる数日前に父が、「男の子が生まれたら、政治家になって欲しいか?」と質問されたとき、「娘が生まれたとしても、何らかの役割を果たして欲しい」と語った。
ハンク・ウィリアムス・ジュニアを引き合いに出すまでもなく、ジャスティン・タブ、ロリー・モーガン、ランディ・スクラッグスなど、偉大なる成績を残した父の跡を継ぐことは、それぞれ誰も大変なことだ。
●マール・ハガードが書いて歌ったのに、「Daddy Frank (The Guitar Man)」という曲がある。ハガードはベーカーズフィールドのバック・オーエンスのスタジオで録音したアルバム「Let Me Tell You About a Songs」(1971)の中からシングル発売した。母は高熱から耳が不自由になり、(彼女は歌詞を唇の動きで聴きとって覚える、読唇術)、生まれつき盲目な父がギターを弾く生活が歌われる。家族はこのハンディキャップを乗り越えて生きてゆく。ハガードはその動機については明らかにはしていないが、いつも彼のスタイルで外連(けれん)なく歌うのが印象的。
●ハガードの父親はオクラホマから1930年の世界的大恐慌に追われてカリフォルニアに一家で逃れてきた。彼は家族の暮らしを支えるために色々の仕事に就く。そのひとつ、鉄道会社の修理大工はサンタフェ鉄道での職だった。だから昔の写真で見ると、ハガードのツアー・バスのボディ横腹には、「Santa Fe Railroads」の文字が画かれてあった。
●父ジェームスはフィドルを弾いた。厳しい母は教会の合唱団のメンバーだった。「家族はみんなミュージシャンだった。父はジミー・ロジヤースを真似て歌い、教会ではバスを担当していた。「Cripple Creek」をフィドル演奏したのを記憶している。だから母が妊娠したとき、生まれてくる子供に彼の音楽的素質(遺伝)が受け継がれることを期待した。ハガードはヴァイオリンを習わされた。牧歌的な環境を求めて父とよくドライブに出かけた。1946年、その父が心臓病で亡くなった。ハガードは9歳だった。母子家庭になり、無賃乗車など(拘留)、非行に走るようになっていった。
●父についての曲はほかにもあるが、「My Son Calls Another Man Daddy」はハンクの中でも好きな曲だ。1950年1月9日の午後、ナッシュヴィルで録音された「Lone Gone Lonesome Blues」ほか3曲のうちの1曲。内容は悲惨だ。獄中にいる男には別れた?妻との間に息子がいた。妻は再婚した。実の息子はその男を父と呼び、もう自分をお父さんと呼んではくれない。その悲しみに暗い牢獄で今宵も悲嘆の底に落ちるのだ。
●実際にハンクの父親も復員してから病弱で入院生活が長く、働き者の母と姉と3人で働いて家計を支えた。故にハンクは生涯、たくさんの母の曲を書いていた。
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「東京ヘイライド」(176) 真保 孝 |
●ケンタッキーの我が家。去る6月20日の関西発・ラジオ深夜便(NHK)で、
スティーブン・フォスター没後150年の特集番組が流れた。「Father of American Music」(アメリカ音楽の父)と言われたフォスターの遺した曲は、日本でも広く親しまれている。遺曲を聴きながら、天国に旅立ってからそんなに経つのか?と感慨無量だった。フォスターとカントリーの関連性については、遠くて近いのだが? 皆さんそれぞれに判断の基準があると思う。
●アメリカでは2010年に一つの動きがあった。1970年に設立された「Nashville Songwriter Hall of Fame」がフォスターの殿堂入りを発表した。ここには翌年の2011年にはガース・ブルックス、アラン・ジャクソンが入っている。選考の基準は判らないが、1970年にはニューヨークのソングライター殿堂には、フォスターはすでに入っていた。偉大な作曲家であるだけに、個人的には遅かった!と思う。
●さて、知る限りではカントリーもブルーグラスの歌手達は、特定の曲を除いては、あまりフォスターの曲を取り上げていないようだ。殿堂入りを果たしたその年に、タイミングよく「Sing the Stephen Foster Songbook / Sons of the Pioneers」(CD)が発売された。タイトルの両者の組み合わせと言い、何とも興味が惹かれる内容である。果たして期待を裏切らなかった。いまならもう値段もそれほど高くはないだろう。
●私事だが、昔フォスターゆかりの地、ケンタッキー州中部の町バーズタウンを訪れた。州内では2番目に古い町で、その昔ジェッシー・ジェームス、ワィアット・アープも泊まった駅馬車の駅舎がある。ハンク・佐々木さんの引率で、同行者は管理人の鈴木経二さん、今は亡き伊集院博さんほかである。ナッシュヴィルから自動車で約2時間30分ぐらい、夜は居酒屋風の店で?ライブを楽しんで一泊した。
この町は「My Old Kentucky Home」が書かれた場所(1852年)としても有名であり、遺されたその小屋も訪れた。遺品を保存した博物館のガイドは幸運にも横浜生まれの若い女性で、日本語で案内された。この曲はケンタッキーの州歌(1928年)に指定されている。名を冠した広々とした緑したたる州立の広い公園内には階段式座席の野外劇場もある。時期にはミュージカルが上演されると言う。
●フォスターは1864年にニューヨークのマンハッタンの下町ホテルで他界した。37歳の若さだった。大都会に出て収入減、酒に溺れて、胸を病んでいた。残された財布には38セントしかなかったという。伝記を読むとあまり幸せな生涯ではなかったようだ。親しみやすいメロディが多いので、アレンジを加えて日本のバンドも、もっと取り上げて演奏して欲しい。
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「東京ヘイライド」(177) 真保 孝 |
●ジミー・C・ニューマンの他界。ルイジアナ州生まれのニューマンの本格的なデビュー(1950年代初め)は、当然のことのように地元の「ルイジアナ・ヘイライド」のステージだった。
その頃のヘイライドはハンク・ロックリン、キティ・ウェルズ、ジョニー・ライトなどそうそうたるメンバーが活躍していた。やがてエルヴィス・プレスリーが数年遅れて登場してきた。
「私にはそれまでどこにも見たこともない奇妙なスタイルの歌手だった」(プレスリーのステージを見たニューマン)。「我々はステージの袖(そで)で、彼が頭をくねくねと揺らすように体を震わせて見えた。そして我々にはとても真似が出来ないと、語り合った。こんな歌い方は、きっと一時的な流行に終わるだろうとも、話し合った」(ニューマン)。だが、眉をひそめるニューマンたちを尻目に、メンフィスから来た「The Hillbilly Cat」と言われたエルヴィスはその後、急速に人気を拡大していった。
●ニューマンはフィドルとアコーディオンで軽快・陽気に奏でるなケイジャン音楽の推進者として人気を集めた。CajunのCからニック・ネームがついたが、他に「The Alligator Man」の名前もあった。「C」と名付けたのはナッシュヴィルのアナウンサー(DJ)のトミー・カーターだった。
少年時代に憧れたのはやはり、ジミー・ロジャース、カーター・ファミリー、特にアーネスト・タブがアイドルだった。そして西部劇映画の影響もあってジーン・オートリー、ロイ・ロジャースにも憧れた。そのせいか、ステージでは数少ないカウボーイ・ハットがよく似合う歌手だった。ケイジャン音楽に入ったのは、近くにいたプロのケイジャン・フィドラーの影響からだった。余談だがハンク・ウィリアムスのいくつかの曲には、多分にケイジャンの影響を受けている形跡が見られる。
●売り出し前、27歳のニューマンに世に出る人気の機会を与えたのは、ドット・レコードだった。同じルイジアナ生まれで、ケイジャン・バンドでギターを弾いていたJ.D.ミラーと知り合って合作した「Cry, Cry, Darling」(第4位、11週間)はスチールをバックにのびのある美声で、大ヒットした。ドット・レコードを離れる前(1957年)の「A Fallen Star」(第2位)も大ヒットさせた。そして1958年MGMに移籍、ヘイライドを離れて、オープリーに移った。ミラーはたしか「It’s Wasn’t God Who Made Honky Tonk Angels」(キティ・ウェルズ)も作っていた。
●オープリー時代のエピソードの一つにドリー・パートンのデビュー?紹介がある。パートンはオープリーに2回挑戦しているが、これはその前のステージである。年代を整理してみると、パートンは10歳で伯父からギターを買って貰ってローカル・テレビ番組に出ていた。これが縁でオープリー(フライディ)のアトラクション・ゲストに出演したのだった(1959年)。この時13歳の少女パートンを観客に紹介したのがニューマンだった。
外紙によると、ニューマンのオープリーでの最後のステージは2014年6月6日だったと言う。プロとしての気力をふるって歌い、わずか15日後には帰らぬ人になったわけだ。死因はやはり癌だった。 享年86。
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「東京ヘイライド」(178) 真保 孝 |
●夏山にヨーデルがこだまする季節だ。欧州アルプスで生まれたヨーデルはスタイルを変えて、新大陸の移民開拓者たちによって米国に根付いた。「ブルーヨーデル」の故ジミー・ロジャースは知るところだが、技巧派の歌手にエルトン・ブリットが頭に浮かぶ。1940年代をメインに人気を集めたオールド・ファンには懐かしい歌手だ。スリム・ホイットマン、ケニー・ロバーツも忘れられない。ヨーデルとは通常の歌声と裏声(ファルセット)を交互に素早く切り替えて歌う歌い方だ。いまでも米国ではカウボーイ・ソングと共に根強いファンを維持して、捨てがたい魅力を持っている。
●ブリットの少年時代の憧れは、やはり故ジミー・ロジャースだった。10歳の時に通信販売で4ドル95セントのギターを買って貰った。アーカンソー州マーシャルの生まれで、父親は近郷で鳴らしたフィドラーで、半分はインディアンの血が流れていた。ちなみに州名のArkansasはスー・インディアンに属するクアポー族に、他のインディアンが与えた呼称とされている。州名の発音もアーカンソーとするか、アーカンザスとするかで、もめたが1881年の州議会でアーカンソーと決められた。(横道にそれた)
●1931年、14歳の少年がラジオのタレント・コンテストで優勝して、翌年西海岸のロサンゼルスのラジオKMPC局にスカウトされた。空港に到着したブリットを、当時の新聞の見出しは「1万人のフアンが待ちかねた15歳のフィドル・ボーイがやってきた!」(Gosh, Everybody Meet Boy Fiddler from Arkansas!)と人気沸騰ぶりを伝えていた。写真で見る粗末なつなぎ服を着たそばかす顔の少年は「こんなにたくさんの観衆の出迎えも、飛行機に乗ったのもはじめてです」と恥ずかしそうに感想を語った。
●こうして少年は月曜日を除く毎晩10時から番組を持つことになったが、Elton Brittと言う名前はこの時についた。以後、約30年間RCAに在籍して生涯およそ600曲の曲を残している。代表作はブリット自身とボブ・ミラーの合作によるお馴染みの「Chime Bells」(1934)である。
なかでもヨーデル曲ではないが、最大のヒットは「There’s A Star Spangled Banner Waving Somewhere」(星条旗はためくもとに(何処かに))と言う曲で、これもボブ・ミラーの作。日本がアメリカと戦った第2次世界大戦中の、愛国心をあおる戦機高揚ソングだ。1942年にレコードが発売、当時の社会的状況(蓄音機の保有台数など)の中で驚異的な400万枚を売り上げ、シート・ミュージック(楽譜)は実に75万枚売れた。
●しかしこの曲を始め「Detour」「Beyond Sunset」「Candy Kisses」などを聴くと、彼が単なるヨーデラーだけではなく、すぐれたバラッド歌手であることも判る。個人的に好きな曲に、もうお馴染みのロザリー・アレンと組んだ「Tennessee Yodel Polk」がある。気分爽快、文句のつけようのない曲だ。ブリットは生前、ヨーデルの声量を高めるために常に水泳で呼吸法を鍛えたという。
●最後に、往年の女性ヨーデラー、ベティ・コーディの訃報(7月の始め、享年92歳)に接した。夫のハル・ロン・パインと組んで(RCAレーベル)夫婦ヨーデル・デュオとしてキティ・ウェルズと並ぶ絶対の人気があった。では、♪ヨール・レイ・レイ・キー・・・♪
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「東京ヘイライド」(179) 真保 孝 |
●「オープリー歌手の飛行機事故」。運、不運は紙一重(ひとえ)だという。このところ、世界各地で連鎖的に次々に起きた飛行機事故は、その一重が生死を分けている。1963年3月にナッシュヴィル郊外で起きた事故は、カントリー音楽史上最大の惨事でいまだに記憶に深く残る。
●昨年3月、ナッシュヴィルではB・アンダーソン、J・シェパードたちが集まって、悲劇の50周忌の追悼会が開かれた。この事故で当日飛行機に乗り合わせた人、あやうく難を逃れた人たちは、まさに命運を分けた。
●悲劇の発端は、前年に自動車事故で他界したラジオの人気DJの追悼慈善コンサートだった。親しかった歌手達が、未亡人と幼児のために生活資金を集めようと企画した。その呼びかけにパッツイ・クラインは応じた。夕方、アラバマ州バーミングハムの公演から戻ったクラインの自宅に立ち寄ったロレッタ・リンは、クラインから参加(出演料50ドルで)の声をかけられたが、すでに契約がされていたショウ(70ドル)が入っていて断った。そしていつものように気前のよいクラインから舞台衣装を貰って家に戻った。
●呼びかけに賛同したカンザス・シティ公演当日の出演者は、カウボーイ・コーパス、ホークショウ・ホーキンズ、P・クライン(以上が犠牲者)、ドティ・ウェスト、ビリー・ウォーカー、ジョージ・ジョーンズ、ウィルマ・リーたちであった。公演(2回)は無事に終わったが、収益は思ったよりも少なく、3000ドルほどが遺族に手渡された。
●翌朝、飛行機でナッシュヴィルに帰る予定であったが、あいにくの強い風雨と霧の悪天候に離陸できなかった。プロペラ機で4人乗り、操縦はコーパスの娘キャシーの夫でギターリストのランディ・ヒューズであった。出発の朝、ウォーカーは父親が心臓発作を起こしたという知らせを受けてキャンセルを考えた。ホーキンズはその時ウォーカーの部屋に行き、これなら(空路)早く愛妻ジーン・シェパードと息子のもとに帰れると、変更して座席を譲ってもらった。
●2階の部屋で休んでいたクラインは誘われて1階のレストランに降りてきて、珈琲を飲んでいた。そこへ夫のビル・ウェストと自動車でナッシュヴィルに帰る準備をしていたドティ・ウェストが一緒に同乗して帰ろうと誘いに来た。風雨はまだ強く止んでいなかったので、その気になって2階の自分の部屋に戻って荷造りを始めた。しかし降りてきたクラインは断った。ナッシュヴィルまで自動車で約16時間余かかるので、子供にも会いたいし、早く戻って自宅で残してきた仕事を片付けたかったからだ。
●「あんな小さな飛行機には乗って欲しくなかったので、ヒューズには天候が回復するまで飛ばないでね」と、ドティは頼んだ。ヒューズは免許を持っていたが、計器飛行訓練は練習しておらず、有視界飛行だけのものだった。ヒューズは飛び立つ前に「もうすぐ離陸する。ナッシュヴィルにすぐに帰るから」と妻に電話を入れて楽観的だった。
●午後6時過ぎに、墜落現場近くに住む人たちは大きな爆発音を聞いた。機の残骸はナッシュヴィルのダウンタウンから約90〜100マイル離れた郊外キャムデンの森の中で発見された。
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「東京ヘイライド」(180) 真保 孝 |
ジェリー・バード、ハワイアンへの道(1)
●夏本番。カントリーもいいが、夏はやはりハワイアンが旬だ。両者の関係は遠いようで、近い縁にある。友人でも嫌いだと言う人はあまり聞かない。フォーク・ソングがベースで、共に弦楽器で演奏される。中でも魅力的なスチール・ギターはその両方の主役だ。日本の歌手でもハワイアンからカントリーに転向した人がいるが、米国でもカントリー畑の出身で、ハワイアンに転向したスチール・プレイヤーに、ジェリー・バードがいる。
●オハイオ州で生まれたバードは、12〜5歳の頃から移動するテント・ショウや酒場でカントリーのバックをつけていた。ハワイアン音楽への憧憬はすでに78回転レコード(SP)で聴いた少年時代から芽生えていた。2人の兄弟(ウクレレ、リズム・ギター)とスチール(バード)でチームを組んで、ラジオ出演した。
●ペダル・スチールの時代ではなく、ラップ・スチールを弾いていた。カントリー時代にバックについた歌手にはE・タブ、P・クライン、R・フォーレーなど40〜50年代に活躍した歌手たちは幅広く好んで彼を採用した。それは何よりも自分(歌手)の持ち味を最高に引き立ててくれるプレーヤーだったからだ。なかでもハンク・ウィリアムスの「I’m So Lonesome I Could Cry」「Lovesick Blues」「Mansion On the Hill」など貴重なオリジナルにもつきあった。デビューしたてのドリー・パートンもバックで助けた。1944~45年にはオープリーにも出演していた。その頃の彼のバンド活動をいくつか拾ってみた。
●レッド・フォーレーの場合。ケンタッキーからやってきて当時人気絶頂だったフォーレーは、どんなプレヤーからも最高の資質を引き出す名人だった。「Tennessee Saturday Night」「Chattanoogie Shoe Shine Boy」などは全米的なヒットだった。ステージでいつもバック・ミュージシャンにどうしたら曲の持ち味を出せるかを競わせていたが、反面プライベートな面倒を見るのもよかった。
●バードが新婚でナッシュヴィルに家を購入したとき、フォーレーはそんな無駄なお金は使うべきでないと忠告した。ある日、新しい曲をフォーレーが取り入れたとき、特別ボーナスを支給するからその曲についてアレンジを研究するようにバックのメンバーは頼まれた。バードはゼブ・ターナー(エレキ・ギター)と工夫をして絶妙なハーモニー・パートを考案した。ステージで大成功だった。しばらくして「ボス(フォーレー)、約束のボーナスは何時貰えるのかい?」(バード)。「そうだったなー、まあ明日のステージが終わってから考えようか」(フォーレー)。でも結局、ボーナスは出なかった。 (次回に続く)。
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「東京ヘイライド」(181) 真保 孝 |
ジェリー・バード、ハワイアンへ道(2) (前回に続く)
●ジョージ・モーガンの場合。モーガンからバードに電話が入った。レギュラーのスチール担当のドン・ディヴィスが軍役にとられるので、その後任を探していた。月給が500ドルに巡業手当をつけると言う条件で、承諾した。その結果、バードは以前カウボーイ・コーパス盤で録音していたモーガンの当たり曲の「Candy Kisses」をここでも厭と言うほどに演奏することになった。当時「Candy Kisses」は6人の歌手の競作となっていた。
●マーティ・ロビンスの場合。天才肌のロビンスは、気分屋でスタジオに入ると独裁的だった。内気で人見知りも強かったが、私(バード)とはひと目見てすぐに仲良くなった。ロビンスもハワイアンが好きだったので、私とも話があったわけだ。暇が出来ると、ロビンスはいつも私のコレクションのハワイアン・レコードを聴きたがった。(注:その後、ロビンスは多数のハワイアン・レコードを出した)。
●推測だが、ロビンスをハワイアンの魅力に取り込んだのは、バードだったのかも知れない。ロビンスはすぐにストレスの溜まる性格で、彼の気持ちを落ち着かせるために、私(バード)は愛用のスチール・ギターで彼の好きな「Drowsy Waters」を弾いて聴かせて、心を和ませた。
●アーネスト・タブの場合。ある日、バンド「Texas Troubadours」のベース奏者のジャック・ドレークから、リーダーのタブが君の入団を希望しているよ、と言う誘いがあった。後日熱心にも、彼はわざわざ自宅までやってきてくれた。私はあの派手なウェスタン・ドレスとブーツが好きでなかったが、当時結婚したばかりで、お金が必要だったのでサインした。
●毎日のように忙しく巡業に出かけ、土日にはオープリー出演のためにナッシュヴィルに戻らなければならなかった。新婚の私は少しでも妻と共に過ごす時間が欲しかった。そんな矢先、私は持病が悪化して、長期の巡業に耐えられなくなって退団した。
●やがて、バードにハワイアン畑に転向を決意する日が近づいた。前回書いたように、少年時代からハワイアンが大好きで、兄弟とバンドを作り「Paradise Isle」「My Little Grass Shack」などハワイアン曲を演奏していた。彼の奏法はビブラートの効いた甘いトーンが魅力的だったから、ホンキー・トンクではなく、それを生かしたかったのかも知れない。
●1970年代のはじめ50歳の頃にナッシュヴィルを離れて、ハワイに住居を移して現地で若いプレイヤーを育てて本格的に活動を開始した。実績が認められて、ワイキキにある1927年創業の名門ホテル・ロイヤル・ハワイアン・ホテルの専属バンド(トリオ)になった。30枚近くのアルバムを録音、Hawaiian Music Foundationにも加えられた。その後、2005年4月にパーキンソン病で85歳、他界するまでハワイで活躍を続けた。憧れのハワイで息を引き取ったことは、本望だっただろう。
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「東京ヘイライド」(182) 真保 孝 |
●集中豪雨による災害。北に、南に今年の日本列島は何かに呪われたように、集中豪雨に見舞われた。
多くの人命を失った広島市での土砂災害は特に痛ましい。カントリー関係の豪雨(水)の被害について少し振り返ってみた。
●記憶に新しいのは2010年5月に起きたナッシュヴィルでの災害である。西ケンタッキー、西テネシー一帯近辺に被害が及んだ。市内のブロードウェイ通りを突き当たるところにカンバーランド河がある。
推測だが、多分この流れが溢れたのかも知れない。以前はこの船着き場から、オープリー・ランド行きの船が出ていた。乗船して、のんびりとデッキで河風に吹かれて飲むアイス・ティは美味しかった。
●ホール・オブ・フェイムとミュージアム、イベントが行われるブリジストン・アリーナなど大難を逃れたが、歴史的な建物を含む市全体は大きなダメージを受けた。特に大切に所蔵されていた有名歌手たちの楽器類(遺品)は水に浸かり、修復に費用と時間がかかったという。
5月20日にはジョージ・ジョーンズ、アラン・ジャクソンなどの呼びかけで、6月22日にはブルックス・ダン、ティム・マッグロウとフェイス・ヒル夫妻、リアン・ライムス、キャリー・アンダーウッドなどオール・スターで、それぞれ洪水救済基金コンサートが開かれた。
●歌手達の協力の結果、修復、復旧は早かった。オープリー・ハウスは9月28日には再開できた。ライマンの会場にいたブラッド・ペイズリーのそばにロリー・モーガンがやってきて、ハグをした。
「ペイズリー、信じられる、こんなに早く・・・」「そう、考えられないくらいに立派に修復されたよ」。
マルティナ・マクブライドは衣装室(愛用のドレッシング・ルーム)に入り、以前よりも座り心地のよさそうな新しいベルベットの椅子を眺めて、「夢のようなゴージャスさね」と感心した。最高齢で常連のジミー・ディケンズは「まるで昨日のオープリーが帰ってきたようだ」と感嘆した。
●スタンレー・ブラザースのマーキュリー時代後期の作品に「The Flood」(洪水)がある。地味な曲だが、「White Dove」など共にワルツ調の彼ら兄弟の持ち味がよく出た曲である。歌詞の内容は非力にして正確には分からない。カーターのギターとリード・ヴォーカル、ラルフのバンジョーとテナー、そしてバックの効果的なマンドリンはダレル“ピー・ウィ”ランバートである。私はこの曲を駐留軍兵士が売り残していった古レコード屋からの45回転盤で、「Lonesome River」などとはじめて聴いて、魅力にとりつかれた。
この頃ファンはマウンテン・ミュージックと呼んでいた。年月を経てこの曲、ラルフはカーター亡き後、ロイ・リー・センターと組んで再録音をしたと聞いたが、まだ未聴だ。
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「東京ヘイライド」(183) 真保 孝 |
●仲秋の名月。小坂一也が歌った曲に「モンタナの月」がある。1997年5月、62歳を迎えた小坂は最後のコンサートを新宿の厚生年金大ホールで開いた。たくさんのヒットのなかで「古い曲だけれども、いつも歌う好きな曲です」とこの曲を歌った。歌い終わってかぶっていた黒いカウボーイ・ハットをいつものように客席に投げ入れた(プレゼント)。そして6ヶ月後の11月1日に亡くなった。62歳だった。
●この曲、邦盤では作曲がレイモンド服部となっているが、小坂の曲の大半がそうであったように、元歌がある。原曲はあきらかに「Moon Over Montana」で、1946年にジミー・ウェイクリーが歌った曲である。ウェイクリーは1940〜50年代にジーン・オートリー、ロイ・ロジャースらとハリウッドで活躍した人気のバラード歌手である。小坂は自分の甘い声にマッチしたこの曲が好きだったらしく、ステージでよく歌っていた。生前ラジオで自分のDJ番組を持っていた頃、お月様の曲の特集をしたいので、ウェイクリーのこのレコードを借りたいと電話で頼まれたことを思い出した。
黒田美治、ジミー時田、そして小坂を失った後、日本のカントリー界はテレビの番組から姿を消した。このジャンルに次のアイドルが出てこない。時代の流れが大きく変化して、寂しい限りである。
●今年の仲秋の名月は9月8日だった。「月」を題材にした曲は沢山ある。有名でお馴染みなところでは、「Blue Moon of kentucky」、@「Mister Moon」、「When My Blue Moon Turns to Gold Again」、A「Howlin’ at the Moon」、B「Moonlight and Skies」など。@はカール・スミス、Aはハンク・ウィリアムス、B故ジミー・ロジャースの曲。
●地名を入れた曲には「Tennessee Moon」(渡米して活躍しているハンク佐々木の自作だが、カウボーイ・コーパスが1948年に。もちろん、同名異曲)、「Missouri Moon」(ミズーリ生まれのロンダ・ヴィンセントが、恋に落ちた月の夜の情景を圧倒的エモーショナルで歌う。まさにブルーグラスの歌姫。)、「Southern Moon」(デルモア・ブラザース、1940年)、「Moonlight in Vermont」(ウィリー・ネルソン)。ロマンチックなタイトルではヴィンセントと親友のドリー・パートンの「Slow Dancing with the Moon」がある。洋の東西を問わず、お月様はロマンチックである。
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「東京ヘイライド」(184) 真保 孝 |
●敬老の日。2014年9月15日現在、75歳以上の老人が8人に一人(総務省人口統計)と言う数字が出た。区役所と町会からお祝い金を若干だが頂いた。かたじけない。アメリカに敬老の日があるか、どうかは分からないが、以下、CMFA編集のエンサイクロペディア(人名、百科事典)を開いて、高齢歌手の周辺を調べみた。(2014年9月現在)。
●活躍中?の現役歌手。最高齢はリットル・ジミー・ディケンズ(93歳)、ソニー・ジェームス(85歳、現在フロリダに住むと聞くが?)が横綱クラスだ。大関はブレンダ・リー(69歳、10代でデビューしたのでキャリアが長い)。
●物故した歌手の最高年齢者。ジミー・ディヴィス(101歳)が群を抜く。その後をキティ・ウェルズ(92歳)、ジーン・オウトリー(91歳)、ハンク・ロックリン(91歳)、スリム・ホイットマン(90歳)、ロイ・エイカフ(89歳)、エディ・アーノルド(89歳)、アール・スクラッグス(88歳、レスター・フラットは64歳)、デール・エヴァンス(88歳、夫のロイ・ロジャースは86歳)、レイ・プライス(87歳)と続く。
●惜しまれる若手歌手。ハンク・ウィリアムス(29歳)、パッツイ・クライン(30歳)、ジミー・ロジャース・ブルー・ヨードラー(35歳)、ジョニー・ホートン(35歳)、ジム・リーヴス(40歳)、レッド・スマイリー(46歳)、レフティ・フリッゼル(47歳)、ジョン・デンヴァー(53歳)、タミー・ワィネット(55歳)、マーティ・ロビンス(57歳)。まだまだ円熟に入るこれからが期待された人ばかりだ。
●その他、物故の人気歌手たち。ハンク・スノウ(85歳)、ビル・モンロー(84歳)、グランパ・ジョーンズ(84歳)、チャーリー・ルービン(84歳、アイラは41歳)、ジョージ・ジョーンズ(81歳)、ポーター・ワゴナー(80歳)、ジミィ・マーチン(77歳)、バック・オーエンス(76歳)、ジム・マクレイノルズ(74歳、ジム・アンド・ジェッシー)、テネシー・アーニー・フォード(72歳)、ジョニー・キヤッシュ(71歳、妻のジュン・カーターは73歳)。
●フアンの私たちも暴飲暴食を慎んで、健康に注意して長生きして、楽しくレコードを聴きましょう。追記。この原稿を書き終えた日に、井原高忠さんの訃報(85歳)を知りました。多分若いファンは知らないと思います。1948年頃のチャックワゴン・ボーイズを黒田美治らと結成したオリジナル・メンバー(ベース)で、日本テレビを経て、米国(アトランタ)に渡りました。
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「東京ヘイライド」(185) 真保 孝 |
●カントリー音楽大使、ハミルトンを偲ぶ。
Music Row BBS(9月19日)でジョージ・ハミルトンの訃報を知った。心臓病で享年77だった。ちょうど「切り抜きカントリー倶楽部」の名曲選で彼のヒット「アビリーン」の資料を集めていた最中だった。記事が両方に重複するがまとめてみた。
●「僕の祖父は本物のヒルビリーで、ブルー・リッジの山中から降りてきてノース・カロライナ州に住み着いた山男だった。鉄道で働いていた祖父の膝の上で、子供の頃、78回転のSPレコードでカントリー音楽やバンジョーを聴いた。週末の土曜日の夜は、祖父と一緒に遠くテネシー州から流れてくるオープリーのラジオ中継も楽しんだ」(ハミルトンW)。
●こんな環境の中で、生涯を通じてオープリーへの憧憬(DNA?)は強かった。「10代の頃から、将来オープリーに出演することが最終的な目的だった。あの頃は故郷のノース・カロライナから長距離バスに乗って何回もライマンを訪れた。オープリーは僕のホームプレイスだ」(ハミルトン)。
●そのハミルトンの出発は意外にもポップス(2〜3曲の大ヒットがある)で始まったが、1960年頃に家族とナッシュヴィルに来てカントリーに定着した。憧れのオープリーには1960年2月にデビューした。RCAへの契約はチェット・アトキンスが推薦した。出世作となった1963年「Abilene」(第1位、24週間)を経て、1966年頃にはカナダ系の「Steel Rail Blues」(66)、「Early Morning Rain」(66)などフォーク・ヒットを出した。
●1960年代は米国でもフォーク・ソングの復活が叫ばれ、ピーター・ポ−ル・アンド・マリー、チャッド・ミッチェル・トリオ、キングストン・トリオ、ブラザース・フォーなどが活躍した。時流に乗ってハミルトンも片足を踏み入れたと推察する。日本のライブでは、「Detroit City」(ボビイ・ベア)はよく歌われるが、ハミルトンの「Abilene 」は滅多に聴かれない。いい曲だと思うのだが・・・。私的に「Take Me Home, Country Road」(ジョン・デンヴァー)と共に望郷3大名曲と考えている。
●記憶ではハミルトンのアルバム・ジャケットでは、カウボーイ・ハットなどいわゆるカントリー臭いデザインを見たことが少ない。細身で(ナイーブ)都会的でアイビー調な雰囲気のキャラクターだった。しかし幼い頃に愛聴したハンク・ウィリアムスの追悼盤を出し、追悼コンサートを行うなど芯の強さもあった。訃報のニュースは米国、カントリー音楽だけではなく、生前「音楽大使」(The International Ambassador of Country Music)として全世界(欧州、ソビエト、アフリカなど)をまわった実績から幅広いメディアが取り上げていた。
●錦辺美智子さんから「敬老の日」(第184回)に注文ありましたので、追加します。●物故した楽器奏者。チェット・アトキンス(77歳、癌)、フロイド・クレーマー(64歳、癌)。●活躍中の楽器奏者。チャーリー・マッコイ(73歳、2009年殿堂入り。今秋、京都オープリー来日予定)。
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「東京ヘイライド」(186) 真保 孝 |
●レイ・プライスのラスト・アルバム。「ありがとう。もうそろそろとは、思っていたよ。実は忘れられていたかと、思い始めていたんだ。嬉しいね」(1996年、プライスが殿堂入りをしたときの言葉)。プライスはこの時70歳を迎えていた。レーベルは1985年からステップ・ワン(Step One)にいた。初めての第1位曲「Crazy Arms」から40年が過ぎていた。その間に従来のホンキィトンクと南西部的な音楽エッセンスを結合させた独自のシャッフル・ビート・スタイルを完成させた。
●遅ればせながら昨年(2013年)12月に鬼籍に入ったプライスのアルバム「Final Session」を聴いた。米国では4月に店頭に並んだらしいが、アルバムは2013年の10月に完成していた。87歳、入退院を繰り返してすでに最期を予期していたプライスは、この年の初めに永年の友人でプロデューサーのフレッド・フォスターと最後のセッションを相談していた。その内容はポップ系とカントリー・バラードであった。さすがに往年のホンキィ・トンクは入っていない。
●声の衰えはそれほど感じさせず、10数曲をパワフルに心地よい安らぎを与えるサウンドでまとめてある。2〜3曲をヴィンス・ギルとマルティナ・マクブライドがつきあっている。1950年代に、次のハンク・ウィリアムスと期待されて路線を歩んだが、回想録によると彼の本当の心はクロスビーやシナトラのようなヴォーカリストが希望のようであった。ひと頃、彼はカントリーのトニー・ベネットと、呼ばれたことがあった。このアルバムにその思いと45年連れ添ってきた妻ジャニーへの感謝が込められている。
●プライスのヴォーカリスト志向としての兆候は「Make The World Go Away」あたりから表れたが、「Night Life」ではさらに強く出てきた。1967年スチールのバディ・エモンズをはずしたアイリッシュ・バラードの「Danny Boy」が3月に発売された。伝統的な美しい曲のメロディに惚れたプライスはフル・オーケストラをバックに録音した。
●彼を支持してきたそれまでの保守的なファンからは総たたきにあった。地元テキサスのいくつかの放送局から放送を断られた。サン・アントニオのステージでは観衆から非難されて最後まで歌えなかったとも伝えられた。「彼ら(ファン)は立派だけれど、僕の気持ちも理解して欲しい」(悲しみに耐えるプライス)。
●プライスは1996年4月に来日している。東京公演では宮前ユキと、大阪では黒田美治が共演していた。ステージでは「New San Antonio Rose」「Heartaches By the Number」などを聴かせ、アンコールに「Release me」を歌ってくれた。
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「東京ヘイライド」(187) 真保 孝 |
●夕刊の新譜ガイドを見ていたら、「88歳と28歳、珠玉のデュエット」のタイトルが目に入った。トニー・ベネット(88)とレディー・ガガ(28)のCDアルバム「チーク・トゥ・チーク」の紹介だった。ガガの迫力と色気をがっちり受け止めてスイングするベネットのさすがの貫禄、とあり、今年屈指の名盤の評であった。名盤でも、これは私にはあまり関心のないCDなのだが、これに似通った大分古いカントリーの出来事を思い出した。
●それはリーアン・ライムスの「Blue」(1996年、Curb)についてである。このデビュー・シングルによってこの年のグラミー賞をはじめ、数々の賞を受賞した。ミシシッピ州ジャクソンの生まれの彼女は、この時なんと13歳だった。ブレンダ・リー、タニア・タッカーと並ぶ若年の登場でメディアの話題を呼んだ。彗星のように出てきたようだが、カントリー音楽好きの両親により、7歳でテレビにデビュー、8歳でテレビのレギュラーに、11歳で最初のアルバムを出した実力派だった。同郷のジャクソンからはフェイス・ヒルが1937年に出ている。
●米誌は彼女を「prodigy」(神童、天才、驚嘆すべき)と表現していたが、若いから声量もあり、声ののびも充分で、とても13歳の少女とは信じられない歌唱力だった。「Blue」はスターデイやヒッコリー・レーベルなどで働いていたベテランのビル・マックが1959年に、パッツイ・クラインのために書いた曲だったが、クラインのあの突然の飛行機事故でお蔵になっていた曲だった。カーブ・レコードでは早速大ヒットしたこの曲を目玉にアルバムが作られたが、収録曲の1曲に往年のエディ・アーノルドの「Cattle Call」(1955)が選ばれた。
●日本でも大人気の「Cattle Call」は、テックス・オーエンズの1934年の作品だ。作曲の背景を後日、未亡人が語っていた。「夫は歌手になる前、カウボーイとしても働いたことがありました。彼は依頼を受けてミズリー州カンザス・シテイのラジオ局に出演中に、市内のホテルに泊まっていました。窓の外を見ると雪が降り始め、やがて本降りになり視界を遮るほどになりました。その時、彼(オーエンズ)は昔働いた牧場で、寒さに凍える牛たちのことを思い出したそうです。餌を与えるために呼び集めようと・・・。約30分ほどで曲を完成させたそうです」(ミセス・オーエンズ)。
ヨーデルを加えて、牧歌的にのどかに聞こえる曲とメロディだが、作者の動機には愛情が込められている。オーエンズのオリジナル盤も出ているので、機会があったら聴いて欲しい。
●ライムス(13歳)とアーノルド(77歳)はデュエット録音した。孫と祖父のようなふたりの交友は、ライムスが自筆の手紙を書いた1995年頃から始まっていた。「私は時々居間で、テレビを観て彼女のことは知っていた。キュートな彼女にこの曲が歌えるだろうか、始めは心配だった。私とのデッエットも相性が合うか・・・も。両親とも会い、お互いに好印象を持って、疑問は解決した」(アーノルド)。高齢なアーノルドはスタジオで先輩としてのアドバイスを与え、必要以外は椅子に座っていた。私の聴く限り、上々の出来であった。オーエンズは1962年(70歳)、アーノルドは2008年(89歳)で他界、少女だったライムスも今年30歳(一度離婚?)を迎えた。名曲はこれからも歌い継がれてゆくだろう。
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「東京ヘイライド」(188) 真保 孝 |
●「Hot Country Singles」。先日の読売新聞で、ビルボード誌「ホット100」(シングル)、「ビルボード200」(アルバム)のチャート作成責任者をしているシルビオ・ピエトロルオンゴと、タワーレコードの創業者のラス・ソロモンが来日していることの記事を読んだ。参考にして少し補足して書いてみよう。
●記事によると、従来のジューク・ボックスの利用回数や、小売店での売り上げ、ラジオ局でのリクエストの回数などで計算してきた人気度が2000年に入り、大きく変化した。それは「ストリ−ミング」と言う機能が主流になったことだ。これはご存知のように、インターネット上の映像や音楽を受信しながら再生する方式をさす。
●全米レコード協会の統計によると、ストリ−ミングが2012年から13年にかけて約40パーセント売り上げを伸ばしている。この時代の変化に対応してビルボードでも、従来のデータ要素に加えて動画サイトを含むストリ−ミングの再生回数を反映させている。
●1944年に始まった従来の「Hot Country Singles」は各地のジューク・ボックスでコインを入れて聴かれた曲の回数を、毎週集計してランク(順位づけ)して掲載していた。カントリー音楽の場合、すべての分野の「Best Sellers」チャートから分離して、カントリーを「Folk Records」のタイトルで出発したが、時代の流れと共に何回もタイトルが変わって、現在のタイトルになった。今後も変わるかも知れない。
●1949年頃からはラジオ局に寄せられた視聴者のリクエスト数も加わった。この時代の変化は交通輸送機関が鉄道から自動車の時代に変わり、トラック・ドライバーたちからの運転中に聴きたい曲のリクエストが多く寄せられるようになったこともある。ドライバーたちを主人公にした曲も多く作られたことはご案内の通り。58年頃からはさらにレコード店での売り上げも集計に加わり、30位までが載せられるようになった。現在では確認していないが、100曲ぐらいになっているらしい。データの公正を確保するために、1990年頃からは第三者機関の有名な調査会社のニールセンに調査、集計を依頼している。
●新しいCDショップ・チェーンとして、タワーレコードは1960年にカリフォルニア州で創業された。ナッシュヴィルでのファン・フェアーの会場内にも期間中、大規模な店を出店して人気を集めた。しかしこの本国のタワーは2000年代半ばでスーパーや量販店の攻勢にあい、経営破綻してしまった。幸い日本の法人はそれ以前に独立して株式会社を設立していて、現在も営業中だ。
●記事によると、ラスさんは第一線を退いたが、「日本では世界で珍しく、まだCDのニーズが高い。パッケージの質もいいからCDを所有したくなるのだろう」。音楽商品の売り上げのうち、約8割をCDなどのパッケージ商品が占める日本に対して、米国では3割程度だという。「米国や他の国ではストリ−ミングの将来性がある。でも日本ではわからない」と話した。いずれにせよ、新聞、雑誌と同様にネットの進出で音楽業界も大変だ。
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「東京ヘイライド」(189) 真保 孝 |
●「L.A.国際空港」。後期高齢者は時々暇つぶしに、歌謡曲の懐メロ番組を観ている。先日、変なことを思い出した。画面では亡き青江三奈(2000年、59歳)が「国際線待合室」(ビクター、1970年)を歌っていた。曲の冒頭に飛行機のエンジン音とエアーポートのターミナル内放送が入り、臨場感を盛り上げている。
●ムードを込めて多少のエコーを効かせたアナウンスは「BOAC航空851便、東京、アンカレッジ、ロンドン行きの出国手続きはまもなく終了します・・・」と流れる。この手の手法は曲の効果を盛り上げるためによく使われる。放送番組では午後11時20分からのラジオ関東時代の懐かしい人気番組「ポート・ジョッキー」(ハーバー・ライト風に)の導入で、船の汽笛と港のしじまの空気を伝えてムード満点だった。
●背景の空港は羽田かと思ったら、大阪空港だそうだ。女(青江)は海外に帰って行く(去って行く?)恋人を見送りに来ているらしい。青いランプの誘導路の先には、海外へと続くはるかに遠い滑走路(ラン・ウェイ)がある。会えばつらいと知りながら、女は異国(時代を感じさせる)に消えた人(恋人)を慕ってたたずんでいる(作詞/千防さかえ)。クラブ歌手出身の青江は情感を込めて、夜霧に包まれた空港待合室の女の姿をつづる。
●この空港曲で連鎖的な回想をしたのが、スーザン・レイ(Susan Raye)盤である。古いファンならバック・オウエンズの来日ステージを観ているだろう。1967年2月、東京公演は中野サンプラザだったと記憶している。オウエンズはバンド「バッカルーズ」とスレンダーな美人女性歌手のスーザン・レイを連れてきた。不覚にもまったく知らない歌手だったのも道理、来日前にローカルのナイトクラブで歌っていたのをオウエンズのマネジャー、ジャック・マクファデン(公演にも同行来日)がスカウトしたばかりだった。オウエンズに引き合わせるとすぐに同意、自分のツアーに入れた。
●レイはオレゴン州の出身でこの時23歳だったが、帰国した翌年1971年に出した「L.A. International Airport」(ロサンゼルス国際空港)がトップ10入りの大ヒットした。最大のヒットは「(I’ve Got A) Happy Heart」(第3位、1971年)だったが、彼女は76年まで、終生この曲(L.A.)を自分のテーマ曲とした。オウエンズともデュオを組んでヒット(アルバム)を出した。
●当時「C&W誌」を編集していた私はレイを宿泊ホテルに近い、赤坂見附の日枝神社に観光をかねて誘った。帰国したレイはナッシュヴィル以外の場で、オウエンズやハガードの支えもあったがウェスト・コーストで、はじめてメジャーな女性歌手となった。1972年、「バッカルーズ」のドラマー、ジェリー・ウィギンスと結婚、6人の子供を産んだ。しかし1970年代半ばにはいると、トミイ・コリンズ、ワンダ・ジャクソンなどのように、歌手の道を閉ざして家族と信仰の道(神学も学び)に入った。1985年にはファイナル・アルバムを出して、完全に引退した。
●2003年8月、ロス空港は開港75周年を迎え、野外ステージで記念のコンサートが開かれた。招かれたレイ(59歳)は赤いシャツにジーンズ姿で、多少中年太り気味ではあったが、元気に歌を披露したという。空港は来る2028年には100周年を迎える。なお、本曲を最初に歌ったのはレフティの弟のディビッド・フリッゼル(70年、67位)だったが、レイ盤(71年、9位)には及ばなかった。ハスキー・ヴォイスの青江盤とは逆に、レイ盤はギターをバックにたたみかけるように、軽快に歌いヒットの要素を備えていた。
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「東京ヘイライド」(190) 真保 孝 |
● 「夫婦愛」(1)ジム・リーヴス・ミュージアムと夫人。
●人気作家の司馬遼太郎の奥さん(福田みどり)が亡くなった(11月12日、85歳)。夫人は大阪生まれで、産経新聞社に入社、文化部で記者をしていた時に司馬さんと知り合った。退社して取材旅行などに同行して執筆活動を助けた。死後(1996年)も、設立された記念館を支える財団理事長としてこれまで運営に努力してきた。
●内外を問わず、内助の功の話は多い。近刊の元米大統領の「フランクリン・ルーズベルト」(中央公論社刊)でも、2歳年下の妻エレノアが下肢マヒで車椅子生活を送った大統領を助ける姿が書かれている。因みに大統領が他界した1945年は、日米の第2次世界大戦が終了して、ブルーグラスを確立させたビル・モンローのバンドにフラット・アンド・スクラッグスが加入した時代であった。その後のモンロー、フラット、スクラッグスの成功の陰にはそれぞれにやはり夫人の大きな助力があったことは、もうご存じの通りだ。次回と2回でまとめてみた。
●マーティ・ロビンズと同様に、ヴァーサタイルな活動をしたジエントルマンのジム・リーヴスが飛行機事故で急死したのは、1964年だった。伝統的なカントリー・ヴォイスでなく、ソフトなビロードの美声と言われたリーヴスの急死を惜しむ声は多かった。その声を受けて、未亡人となったメアリィ・リーヴスは夫の偉業を偲ぶ記念館を設立した。館内には予想通り、受賞したトロフィやゴールド・ディスク、生前愛用していた日用品、ギター、楽器などが陳列された。
●遺品の中で数奇を極めたのが、ツアーに使用されていたバスであった。リーヴスはBlue Boysと言うバンドを率いてBig Blueと命名された巡業用の大型バスで全米各地を回った。米誌によるとこのバス、不要になったため売りに出されて、ウィルマ・バーガスが購入、次にナット・スタッキー→ウィルバーン・ブラザース→?と転々とした。すでに半世紀を経た現在のことは不明だが、なんでもリーヴスの生地、テキサスの何処かの博物館に塗装し直されて保管されているそうである。アーネスト・タブのツアー・バスはマーティ・スチュアート(コニー・スミスの夫)が購入したことは有名?
●記憶をたどると年月は不明だが、メアリー夫人は来日しており、その時の写真(手にしたのはリーヴスが表紙の「C&W誌」)が出てきた。夫人は9人兄姉の末っ子としてテキサスで生まれた。高校時代にダンス・パーティで5歳年上のリーヴスと出会った。夫人は17歳だった。交際中、リーヴスはプロ野球選手を目指すが、足の怪我で断念、ラジオ局のアナウンサーに職を見つけた。1947年9月ふたりは結婚した。
●美声に加えてフレンドリーな語り口のアナウンスで人気をあげて、カントリーが好きなことから「ルイジアナ・ヘイライド」を放送するラジオ局に採用された。夫人はその成功への道をいつも内助の功で助けた。夫人の本名はMary Elizabeth White。リーヴスの死後、1969年に教会の説教師と再婚、1999年にナッシュヴィルで他界した。69歳。ミュージアムは大分前に他人の手に渡ったと聞いた。ちなみに11月22日は「いい夫婦の日」だった。お互いに「ありがとう」の言葉を贈りたい。
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「東京ヘイライド」(191) 真保 孝 |
●「夫婦愛」(2)。「愛しているといったっけ」。
1930年代から40年代後半にかけてのシカゴ、WLSラジオ局の番組「National Barn Dance」の人気は凄かった。当時、WLS 局はナッシュヴィルのWSM局の「オープリー」との間で南部2000万人余の聴取者をめぐって、ライバル同士だった。
「National Barn Dance」の司会は人気のレッド・フォーレーが勤めていたが、絶好調の人気を支えていた夫婦チームにルル・ベル・アンド・スコッティがいた。夫婦は「Hayloft Sweetheart」(干し草置き場の恋人)、後に「The Sweetheart of Country Music」と呼ばれた。当時の新聞は「このふたりの人気を再現することは難しいだろう」と書いていた。
●夫婦チームの人気を支えた代表曲に「Have I Told You Lately That I Love You」があった。夫のスコッティ・ワイズマン作のカントリー・バラッド(1945年)で、この曲を知らない人はいない。ジャンルを超えて、ビング・クロスビーからエルヴィスまで録音した。カントリーの曲としては最初のクロス・オーヴァーであった。
「シカゴの病院に入院していた私を、ある日、妻のベルが見舞いに来た。帰り際に残した言葉『近頃、愛しているって、言ったかしら?』にヒントを得てその日のうちにこの曲を作った。聴かせると妻も気に入ってくれた。」(ワイズマン)。まさに、いまだに色あせない心温まる名曲である。
●ワイズマン(5弦バンジョー、)の妻は4歳年下のルル・ベル(ギター、ヴォーカル)、共にサウス・カロライナの生まれ。父親は幼いベル(本名のクーパー)をWLS ラジオのスタジオに連れて行き歌わせた。数週間後に正式なオーデションがあり、合格した。街の劇場に出演の時につけられた名前がルル・ベルであった。19歳で「National Barn Dance」のステージでソロ活躍を始めた。美人だったので、フォーレーとの仲も噂されたが、1934年にワイズマンと結婚して夫婦コンビでさらに人気を高めた。
●1958年コンビを解消、後年(1960年頃?)引退したワイズマンは昔からの夢であった教師になったと記憶しているが?1981年、心臓マヒによりフロリダで他界した。ベルは夫の死後、再婚して1999年に86歳で他界した。干し草のような香りの愛らしいこの曲を聴くと思い出す。「愛していると、言ったっけ?でも、また言わせておくれ。ダーリン、君のことばかり夢に見ているんだ」。
●「偕老同穴」、ベルとスコッティのふたりが同じ墓地に眠っているかどうかは判らない。J.キャッシュ
とJ・カーターはナッシュヴィル郊外の同じ墓地に埋葬されている。生前から確執が伝えられたH・ウィリアムス
とオードリーの墓も並んで建てられている。
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「東京ヘイライド」(192) 真保 孝 |
●クリスマス・クラシック「赤鼻のトナカイ」。
●師走も大詰めに近づき街は喧噪に包まれ、人々は商魂に踊らされる日が近づいた。この時期、聴かれる曲に「Santa Claus Is Coming to Town」「Boogie Woogie Santa」「White Christmas」「Blue Christmas」などが代表的なシーズン・ソングだろう。米国ではかってプレゼントにシアーズ等の通販で憧れたギターを買って貰って、将来に歌手を目指した少年少女が多かったが、いまはどうか?
●クリスマス・ソングの中で、「歌うカウボーイ」ことジーン・オートリー(1907〜98年)が歌った「Rudolph ,The Red-Nosed Reindeer」(赤鼻のトナカイ、1949年)は、60数年を経た今でも歴史に残る大ヒットだ。初年度だけでも当時としては記録的な250万枚の売り上げで、カントリーの枠を越えて広く、とりわけ子供たちから愛唱された。当時オートリーとロイ・ロジャースは全米のアイドルだった。最初の本邦発売の日本語盤の訳は(故)草野昌一がつけた。蛇足だが、草野さんは雑誌「ミュージック・ライフ」の発行人で、エイカフ・ローズ社(ハンク・ウィリアムスの版権所有)の極東支配人でもあった。
●さて、この曲はもともとはシカゴのデパートの販売促進用パンフレット記事から作られた。作者はロバート・L・メイというコピーライターで、実話に基づく子供向きの物語がヒントになっている。9匹仲間のトナカイの中で、一人(匹)だけ鼻が赤いルドルフはいじめられる。メイも少年時代から痩せて背丈も低く、クラスではいつもいじめられていた。そんな心情が背景にあったのかも知れない。会社の上司から「トナカイでなく、別にいいアイデアを出せ」と催促されていた。
●プライベートにメイは少し前に妻を癌で失ってシングル・ファーザーだったが、トナカイのモチーフを捨てられなかった。後日大ヒットとなり、多額のお金が入ってきた。妻の治療費(借金)とその後の生活費(裕福な)を確保することが出来た。歌詞が出来た時、メイは義理の弟のジョニー・マークに見せてメロディをつけて貰った。
●オートリー盤は1949年12月、タイムリーにクリスマスに向けてリリースされた。オートリーは前年の1948年に「Here Comes Santa Claus 」をリリースしていた。私生活でオートリーは2度結婚していた。最初の妻の伯父は親友ジミー・ロングで、その姪はアイナ・メイであった。ふたり(ロングとオートリー)は鉄道会社で働き、音楽仲間だった。互いに自宅を訪問し合っていた。因みにあの大ヒット「That Silver-Haired Daddy of Mine」(1931年)はこのふたりの合作である。
●1932年、オートリーはシカゴに向かう途中にロング宅を訪ねて、そこではじめてメイを紹介されて、その美しさに驚きすぐに恋に落ちた。早速プロポーズ、その日(4月1日)の午後に結婚した。
この曲「Rudolph・・・」が持ち込まれたとき、始めオートリーは好きになれなかったが、妻のメイはストーリーが面白く、子供たちにもきっと受けるからとしきりに勧めたので、録音に踏み切った。彼女の予想は正しかった。実は彼女、出会う前に音楽の教師を目指していたのである。不幸にもふたりの間には子供は出来なかった。1980年、メイは他界した。しかしその後、オートリーは素晴らしい女性と出会い、再婚する。プロ野球チームのオーナーになったのもその彼女の助言による。
●今年もシーズン4の「ヘイライド」を読んでいただきありがとう。間違いも多くあったと思いますが、お許しください。今回で一応、終了とします。
よいお年を!しばらく休んで、気力があればまた、お目にかかりましょう。
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