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◆ 東京ヘイライド ◆

真保 孝
1    東京ヘイライド(1)Alan Jackson,George Jones   真保 孝
●開演のご挨拶。アメリカには沢山のラジオ番組がありました。それを真似して「ルイジアナ」ならぬ「トウキョウ・ヘイライド」を始めようと思います。麻生首相に言わせると後期高齢者は、今更趣味を持ってはいけないそうですが、思いつくままに書いてみます。惚け半分で、ミスはご容赦。管理人の鈴木さんには日頃お世話になっておりますので、微力ですが出来る限りのご奉公をします。
 
●アラン・ジャクソン。
本名は Alan Eugene Jackson。1958年 10 月17日、ジョージア州ニューマンの生まれで51歳。ジョージ・ストレートに次ぐ人気を持つが、残念ながら少し及ばない。身体検査をすると、長身で髪はブロンドで口ひげを生やして時には顎まで伸ばすこともある。眼の色はグリーンで、声はバリトン。もっぱらハットにジーンズを愛用。
10代の頃からの恋人で高校も一緒だったデニス夫人と1979年12月15日に結婚した。ジャクソンは21歳だった。子供は娘が3人。住まいはテネシー州のブレンウッドにある。この家は彼のデビュー2曲目のヒット「Here In the Real World 」(1990)にちなんで「The Real World 」と呼ばれている。
父はアトランタのフォード自動車会社で25年間も働いて引退した。母は専業主婦だが、以前は婦人下着工場の食堂で働いて家計を助けた。4人の姉のうちふたりは双子。
自動車の好きなジャクソンは16歳の時購入ローンを銀行と組んだ。有利な融資の代わりにその銀行員にギターを教えた。こうして購入した愛車をその後、生計の足しに売ってしまった。後日、妻のデニスは貯金をはたいて買い戻したと言う愛情物語がある。
カレッジを卒業して歌手になる前は自動車、靴、家具のセールスマン、大工、マート・スーパーでフォーク・リフトの運転手もした。その苦労が現在の彼の歌に人生の深みを持たせているのかも知れない。影響を受けた歌手はハンク・ウィリアムス、ジョージ・ジョーンズ、マール・ハガードなど数多い。
 父が2000年1月31日に他界した。73歳だった。その父の冥福を祈って各州のラジオ局では2月1日の午後5時に、以前(1996)ジャクソンが父のために作曲した「Home 」(第3位)を放送した。 
 
●ジョージ・ジョーンズ( George Jones )ニック・ネームは「Possum 」だが、以前TNNテレビで司会のラルフ・エメリーがその由来を聞いていた。どうやら初期の彼のヘヤー・スタイルから来ているらしい。ご存知若き日のジョージは角刈り、GIカットだった。この目つき、格好が「キタオポッサム」に似ていたことからつけられたらしい。今年78歳になる。
 
●この「キタオポッサム」はお酒と女性が大好きで、実はこれまで4回の結婚、離婚を繰り返している。まず1950年で娘が一人、1954年、息子が二人、そして1969年にタミー・ワィネットで娘が一人である。しかし1975年タミーとも離婚。 
このうち現在のナンシーは賢夫人らしく、酒と麻薬に溺れていた不規則な生活からジョーンズを立ち直らせた。そのアルコール中毒の生活の中で聴いた「強く生きよう」(He Stopped Loving Her Today )はカーリー・プットマン(第5回に登場の予定)とボビィ・ブラドックの作品だった。プロデュースに当たったのは、あのビリー・シェリルだ。シェリルは1980年のはじめからこの曲に目をつけて、版権を買って温めていた。カーリー、ボビィ、シェリルのコンビは「D-I-V-O-R-C-E」(タミー・ワィネット)も手がけた名トリオだ。
 
 
更新日時:
2009/09/23
2    東京ヘイライド(2)メリー・エリザベス・ホワイト、G・ジョーンズ  真保 孝
●メリー・エリザベス・ホワイトと言っても、誰も知らない。だが故ジム・リーヴス夫人と言えば「へーっ」とくる。古い話になるが、彼女は10年ほど前にナッシュビルの自宅で他界している。年齢は不明。
1964年にジムがあの痛ましい飛行機事故で急死した後、夫のメモリアル記念館の運営に努めてきた。他界の少し前に他の人にその経営を譲ったとも聞いた。ここから出ている賞を熊本のチャーリー永谷が先年受賞している。
 プロ野球選手を目指していたジムは23歳の時に滑り込んだセカンド・ベースで足首を痛めてセントルイス・カージナルスの契約を破棄された。生命保険のセールスマン、ボクサー、トラックの運手、造船会社の事務員と転々と職を変えた。野球と共に少年時代からの夢であった歌手を目指した。
 シュリブポートの放送局でアナウンサーの職を得たが、同局で「ルイジアナ・ヘイライド」のアナウンサーをしていたメリー・ホワイトと知り合い結ばれた。局に来る前、学校の先生をしていた彼女は、ジムの死後未亡人として独身で過ごした。
 
 
●グランパ・ジョーンズ。「オールド・ラットラー」(Old Rattler)。グランパ・ジョーンズがオープリーに出演すると云うニュースを聞いて、シドニィ・ネイザン(キング・レコードの社長)がシンシナティからナッシュビルにやってきた。そして出る以上、ヒットを出そうと相談して、グランパはステージで歌うための曲を作ることになった。
グランパは「Old Ratter」についてかねてから興味を持って調べていたので、ネイザンがやってきたとき、急いでWSM局のスタジオでこれを録音した。セッションには、妻のラモーナ(Ramona)がベース、友人のカウボーイ・コーパスがリズム・ギター、グランパがバンジョーを担当した。後でこのレコードはそれまでのどのレコードよりも、よく売れたと関係者から聴かされた。それでこの曲を契機として、グランパはギターよりもバンジョーを手にするようになった。
 
●「ロザリー」(Rosalee)。グランパが妻のラモーナとデュエットした曲。ジョン・レァ(1894 〜1985。John Lair )はこの曲を古い曲で、WLSラジオのソング・ブックの中から発見したと云っていた。それにこの曲は誰でも知っているとも云っていた。
 
●「マイ・カロライナ・サンシャイン・ガール」(My Carolina Sunshine Girl )。グランパは1928年、家族とオハイオ州のアクロン(Akron,Ohio)に引っ越しをしたとき、そこのWendell Hallで開かれたコンテストでこれを歌い優勝した。とても好評のために翌日ラジオ局はこれを放送した。「私はこれまでにもジミー・ロジャースの曲を沢山歌ってきたが、この頃が一番多かった。ほかに「Dear Old Sunny South By The Sea」もそのうちの1曲だった」(グランパ)。
 
 
●「ブラウンズ・フェリー・フォー」について。「私(グランパ)は賛美歌を歌うのは好きだった。1941年、WLWからWWVAに移った時、これまでにないくらいによい機会に恵まれて沢山のミュジシャン達と出会うことが出来た。その中でもデルモア兄弟、マール・トラビスとは親友になった。4人は賛美歌のチームを作ることにした。チームの名前はアルトンが ジョーンズの生まれ故郷の近くを東西に横切る「Brown’s Ferry Road 」 に因んでBrown’s Ferry Four と名付けた。
 
 
 
更新日時:
2009/09/23
3    東京ヘイライド(3)ジェニー・ルー・カーソン  真保孝
●ジェニー・ルー・カーソン(1915.01.13〜1978.12.16 )の仕事について書こう。シンディ・ウォーカーと共に、女性作曲家の双璧。イリノイ州ディケイター
(Decatur)で生まれて、カリフォルニア州トーランス(Torrance)で他界。63歳だった。
1932年、シカゴのWLS局のナショナル・バーン・ダンスに妹のEvaと姉のEvelynと共に三人姉妹によるOverstake Sistersの一人Lucilleを当時名乗っていたJenny Louは、トリオ(Three Little Maids)の一員としてデビューした。1933年、シカゴのワールド・フェアーに出演後、ソロでラジオ局に。1940年代始めにWLS局のモーニング・ショウ「Smile a While」に出てから、腰を据えて作曲を始める。
この頃、生涯の良き友人となったフレッド・ローズと出会う。1945年、「Jealous Heart」(テックス・リッターが歌い、第2位、23週間)がメジャー・ヒット、1945年、デッカに歌手として録音。入社してファースト曲「You Two―Timed Me One Time Too often 」(自身も歌う)をテックス・リッターも歌い、第1位、11週間のヒットになる。
1946年、ヒル・アンド・レンジ社と作曲家として契約。1947年、RCAと歌手として録音。1954年発表の「Let Me Go Lover 」はJoan Weberの歌で、第1位、16週間。売り上げ300万枚。しかし我々にはテレサ・ブリューワー(Teresa Brewer )盤がお馴染みで、ポップス・ヒット、第6位、200万枚。ペギー・リーで26位、17万5000枚、パティ・ペイジで第7位、90万枚、ハンク・スノウでカントリー・チャート、第1位、16週間。
 
●「Don’t Rob Another Man 's Castle 」はエディ・アーノノルド、アーネスト・タブとアンドリュー・シスターズ、テネシー・アーニー・フォード盤と多い。この曲、油井孝太郎さんの説によると「他人の城を奪うな(直訳)、すなわち他人の恋人(妻)に手を出すな、と言う意味。エディ自身の体験から?
「Jealous Heart」は自身のカーソン、ロイ・エイカフ、ジーン・シェパード、フロイド・クレーマー、テレサ・ブリューワー、タブ・ハンター、レス・ポール、メリー・フォード盤とこれまた多彩だ。「Marriage Vow」(結婚の誓い)はハンク・スノウが良い味を出して絶妙。「Many Tears Ago」はエディで、これもたまらない。そして「Chained To A Memory」はエディ、ジャック・ガスリーも歌う。
更新日時:
2009/08/19
4    東京ヘイライド(4)Lester Flatt, Billy Hill  真保孝
●レスター・フラット。(Lester Raymond Flatt )。1914年6月19日〜1979年5月11日、ナッシュビルで他界。私見だが、器楽演奏中心(ストリング・バンド)のカントリー音楽にソロ・ヴォーカルを持ち込んだロイ・エイカフに対して、ともすればテクニックを競う器楽本位なブルーグラスに甘くまろやかなヴォーカルを加えたのはこのレスターであった。滋味溢れた彼の歌声は、ハイ・ロンサム偏重のブルーグラス砂漠のオアシスであった。
  作曲も多く、「Little Cabin Home On The Hill 」は自身(1977)を含めて、ビル・モンロー(1947)、ポーター・ワゴナー(1955)、ジョン・ハートフォード(1976)、オズボーン・ブラザース(1978)、リッキー・スキャッグス(1979)、ジム・アンド・ジェッシー(1980)、そしてエルビス盤(2006)まで幅広い。
他に「My Cabin In Caroline」はアール・スクラッグスと(1948,)、ソロで(1963)と2回、ビル・モンロー(1977)、オズボーン(1992)。「Sweetheart You Done Me Wrong 」は1948年にビル・モンローのバンドに在籍中に。デル・マッカーリー(1968)、ピーター・ローワン(1985)、エルビス盤(1990)がある。「My Little Girl In Tennessee」はアールと(1949)年に、オズボーン盤は(1968)。200年に作曲家として殿堂入り。
 
●ビリー・ヒル( Billy Hill。1899年7月 14日〜 1940年 12 月 24日)。マサチューセッツ州で生まれ、同州のボストンで41歳の若さで他界した。数多くのカウボーイ・ソングの名作を書いた。
 作品には「In the Chapel in the Moonlight」「Empty Saddle 」「The Last Round-Up」「There’s a Cabin in the Pines」「They Cut Down the Old Pine Tree」「Have You Ever Been Lonely」「Wagon Wheels」「The Call of the Canyon」など、今に残るスタンダードばかり。1982年作曲家殿堂入り。
 
●多彩な経歴の持ち主で、はじめバイオリンを学んでボストン交響楽団に入った。つぎにモンタナで実際にカウボーイ生活を経験しながらデス・バレーで鉱山測量技師をし、再び音楽の世界に戻った。
「都会育ちの父は、洗練された大衆がヒルビリーと言う名称を蔑んだので、ビリー・ヒルの名前が嫌いでした」(娘のLee Hill Taylor )。後年実名に戻したが、別にGeorge Brown の名前も使用した。
 
●上記の作品中、天下の名曲「The Last Round-Up」の版権はなんと僅か25ドルだった。当時極貧の生活をしていたので、見かねて彼の将来性を見込んだASCAPの社長は200ドルを貸した。
 
 
 
 
更新日時:
2009/08/23
5    東京ヘイライド(5)Vaughn Horton,Rex Griffin,Curly Putman  真保孝
●ヴォーン・ホートン(George Vaughn Horton)。ペンシルベニア、ブロードトップ(Broad Top)生まれ。1911年6月5日〜1988年2月29日。フロリダ州ニュー・ポート・リシーで他界。享年61。前職は炭坑夫。1927年〜34年、弟のロイとチーム「パイントッパーズ」を組んで近郷の週末ダンス会場出演を経て、アルツーナのラジオ局に。1929〜30年頃、名作「Mockin’ Bird Hill 」を書く。
1935年ニューヨークに。作品:「Teardrops in My Heart 」「 Hillbilly Fever」「 Till the End of the World 」「 Sugarfoot Rag 」(ハンク・ガーランドと共作)「 Jimmie Rodgers Blues 」、「 Dixie Cannonball(レッド・フォーリーと共作?)。1971年作曲家、殿堂入り。
 
 
●レックス・グリフィン(Rex Griffin。1912.年8月12 日〜1959年 10 月11日)。アラバマ州生まれで、ニューオリンズで他界。享年47。
処女作「The Last Letter 」(1937年)は識字的に読んでも、新しい鑑賞に堪える画期的な歌詞との評価を得た。自身を含めて、カーター・ファミリー、ブルースカイ・ボーイズ、ウィリー・ネルソン、ジャック・グリーン(1968)、コニー・スミス(1968)。「Just Call Me Lonesome」(1955)。
1939年に書いた「Lovesick Blues 」は10年後にハンク・ウィリアムスが同曲を書くひとつのベースにしたともいう。1970年作曲家、殿堂入り。
 
●カーリー・プットマン(Claude Curly Putman Jr.)。1930 年11月20日、アラバマ州プリンストン生まれ。学生時代はバスケットのスター選手。靴や、住宅リフォームのセールス・マン、製材所勤務を得てこの道に。
1960年マリオン・ワースの「I Think I Know」を書き、1964年ナッシュビルへ出て出版社「ツリー」(Tree)と契約。1965年、大ヒットの「Green, Green, Grass of Home 」(1967年、トムジョーンズ)を書く。1968年、歌手としてABCレコードと契約して「My Elusive Dream」を歌う。他にボビィ・ブラドック(Bobby Braddock)と共作で「He Stopped Loving Her Today」(1980年、ジョージ・ジョーンズ)がある。
更新日時:
2009/08/30
6    東京ヘイライド(6) Roy Acuff, Ernest Tubb  真保孝
●ロイ・エイカフ(Roy Claxton Acuff  1903年〜1992年、享年89)
野球の選手を希望したが、練習中に日射病にかかり2ケ月間もべッド生活を送り断念した。高くふるえるエモーショナルな歌声は独特な持ち味。人格的にも高潔で、多くの後輩歌手たちから慕われた。
「ロイ・エイカフは僕が初めて聴いたカントリー・シンガーだった」(ジョージ・ジョーンズ)。ジョージはまだ初期の頃、ロイと並んで撮った写真を巡業用バスの寝室の壁に貼っていた。彼は毎晩それを見ながら、ツァーをしていた。
 「カントリー歌手は誰でもロイに借りがある。何故なら、パイオニアーとしてこの道をつけてくれたからだ。皆はたやすく歌手生活を続けられる」(ケニー・ロジャース)。
 1942年、フレッド・ローズと「エイカフ・ローズ・ミュージック」(Acuff ―Rose Music )を設立して、ナッシュビルを「Capitol City of Country 」の基礎を築いた。1991年、元大統領のジョ−ジ・ブッシュとオープリーのステージでヨーヨー・ゲームをした。
 
 
●アーネスト・タブ。(1914年〜1984年)享年70。パッツイ・クラインの初録音に骨を折ったほか、ハンク・スノウ、ジャック・グリーン、トム・T・ホール、ハンク・トンプソン、スキーター・ディビス、ロレッタ・リンなどのオープリー・デビューをステージで紹介した。
「奥ゆかしい彼(タブ)は、生涯それらに対して決してリターンを求めようとしなかった」(ロレッタ・リン)。「人格的にも清純な精神の持ち主の彼は、永遠にカントリー音楽の歴史の中で生き続けている」(マーティ・スチュアート)。
 
●タブは生涯に約150曲の心に残る名曲を書き残した。そのホンキートンカーの流れは、バック・オウエンス、マーティ・スチュアート、ドワイト・ヨーカムに引き継がれている。「フランク・シナトラがボビー・ソッカー(10代の女の子たち)のヒーローなら、タブはテキサス・カントリーの英雄(ヒーロー)だ」(ウィリー・ネルソン)。
 
●タブはジミー・ロジャース未亡人(Carrie )からジミー生前愛用のステージ衣装とギターを買った値段は50ドル。1939年タブは扁桃腺を病み、ヨーデルが歌えなくなった。そのため、従来のロジャースの模倣スタイルを離れて、自己のスタイルを確立することになる。
オープリー巡業で訪れたニューヨークは彼を歓迎したが、彼が市民に語った言葉は「Country Music is good. It is humble, simple and honest and relaxed. It is a Way of life」。
 
●1943年にオープリーにデビューしたタブは直ぐに人気者になった。4年後にブロードウェイ通りにレコード・ショップを開店した。ここでオープリーが終わった後、開かれる「ミッドナイト・ジャンボリー」から無名のロレッタ・リン、エヴァリー・ブラザース、エルビスなどが歌い、自信をつけて大きく飛び立った。
 
更新日時:
2009/09/11
7    東京ヘイライド(7) ショウジ・タブチ  真保孝
●ショウジ・タブチ。ビル・グッドウィン(Bill Goodwin )はシュリブ・ポートに事務所をかまえる大手のヒューバート・ロング・エイジェンシーに勤めていた。
1972年のある日、そのビルのもとにデビィッド・ヒューストンがバンドのメンバーにいいフィドラーを探しているという情報が入ってきた。ビルはティルマン・フランクスにもしテキサス地域でプレイできるなら参加して欲しいと云ってきた。その時カンザス州のウィチタに住んでいる日本人の若者を思いだした。それがショウジ田淵であった。その後彼はデビィッドのバンドに入団して、ブランソンに自身の劇場を経営するまでの今日の成功の道を歩き始めた。
 
●刑務所についての歌は沢山ある。古くはジミー・ロジャースの「In The Jail House Now」、ジョニィ・キヤッシュのライブ「Folsom Prison Blues 」、エルビスの「Jailhouse Rock 」などなど....。実際に刑務所に入った歌手もいる。レフティ・フリッゼルは12歳の時にジミー・ロジャースの歌を聴いた。10代ですでに故郷の小さな町(テキサスのパリス)の放送局で歌っていた。1946年にはメキシコのロズウェルで自分の番組を持った。1947年結婚していたのに、婦女子暴行で刑務所に入ったが、ここでやることがなく、毎日思いついた曲を書き始めた。
 「I Love You A Thousand Way 」は結婚した若い自分の妻への想いを書いた。1950年、彼はコロムビアのドン・ロゥのもとに数曲のデモ・テープを送った。ドンはその中から「 If You’ve Got The Money I’ve Got The Time 」に興味を示した。誰に歌わせるかと考え、リトル・ジミィ・ディケンズはどうか?と聴かせてみたが、迷った末に、本人のレフティの方がぴったりと思った。
 1950年6月、レフティ盤は発売された。10月にはいるとランクを上げて、遂に第1位(22週間)になった。このヒットによって翌51年、オープリーに迎えられた。晩年アルコール中毒から心臓麻痺を起こして惜しまれて他界した。享年47の若さだった。後半は人気を落としていたとはいえ、惜しまれる。
 
 
更新日時:
2009/09/19
8    東京ヘイライド(8) Pee Wee King, Patsy Cline   真保孝
●ピィ・ウィ・キング(1914〜 2000)と「テネシー・ワルツ」を書いたレッド・スチュワート(Henry Stewart, 1921〜2003)。スチュワートはギター、フィドルとスムーズな歌声、テネシーで生まれ、ケンタッキーで育った。1937年、16歳の若さでキングのバンドに入団した。キングが書いた曲には、「Slow Poke」「Bimbo」「You Belong To Me」などがある。キングがアーネスト・タブと合作した「Soldier’s Last Letter」(1944年)も佳曲で忘れがたい。
 キングは2000年の2月から心臓発作で入院加療中であったが、3月7日に容体が悪化してケンタッキー州ルイビルで息を引き取った。享年86。カントリー歌手の出身者の少ないウィスコンシン州で生まれた。ルイビルはキングにとってジーン・オートリーに認められて世に出た思い出の地だった。
キングはポーランド系のドイツ移民の子供で、父親が地元でカントリー系のポルカ・バンドで活躍していた。ポルカのメイン楽器であるアコーディオンを10代の終わり頃から勉強した。やがてWLS局のナショナル・バーン・ダンス番組に出ていたオートリーが素質を見抜いてシカゴに呼び寄せた。ピィ・ウィの名前はこの頃サキソフォン奏者として人気のあったウェイン・キング(Wayne King )にあやかってつけられ、ルイビルの放送局に出演した。
 
●パッツィ・クライン(Patsy Cline)。1963年3月5日、カンザス州でのチャリティ・コンサートからナッシュビルに戻る途中、テネシー州キャムデン付近で飛行機事故で亡くなった。同乗者にホークショウ・ホーキンス、カウボーイ・コーパスがいた。ジェシカ・ラング主演の彼女の伝記的映画に「Sweet Dreams」(1985年)がある。西海岸のパサディナでフォー・スター・レーベルに3曲あるが未発売。
デビュー曲は「A Church, A Courtroom and then Goodbye 」はデッカにおける第1回目の録音(1955年 6 月)の4曲のうちの1曲だが素晴らしい。記録に残るバックは、ハロルド・ブラッドリー(ギター)、オーエン・ブラッドリー(ピアノ)、ドン・ヘルムス(スチール)、トミー・ジャクソン(フィドル)、グラディ・マーチン(エレキ・ギター)、ボブ・ムーア(ベース)。パッツィはこの時23歳、享年は29。僅か6年間の活躍だった。日本ではあまり人気がないが、米国ではカントリー音楽以外にも圧倒的なファンがいる。
 
 
更新日時:
2009/09/25
9    東京ヘイライド(9) Original Carter Family   真保孝
●オリジナル・カーター・ファミリー。A.P.カーター(Alvin Pleasant Carter ,バス・ヴォーカル)、A.P.カーターの妻のサラ(Sara Dougherty Carter、ヴォーカル、リード・ギター、オート・ハープ)、サラの従姉妹のメイベル(Maybelle Addington Carter、ヴォーカル・ハーモニー、リード・ギター)のトリオ。注目を浴びたのはサラの画期的な親指ギター奏法であった。リズムとメロディを一緒に弾く奏法はCarter lick と呼ばれて、後の後継者たちに多大な影響を与えた。3人がぼくたちに残してくれたのは、何とも云えない絶妙なハーモニー、シンプルなメロディに包まれた、心に響くストリート・ソングの数々。
 
●時代はすでに新しいメディア、ラジオの普及に入っていた。1925年10月にナッシュビルではWSMラジオ局がすでに開局していた。ラジオで使用されるソフト、レコードのためのタレントが求められ、レコード会社は人材発掘に各地に走った。自宅付近の集会や教会で歌っていたのど自慢や腕自慢が対象になった。全米的に見てまだシアーズ通信販売が行き届かない地域、バッテリー式のラジオの普及度が遅れていたヒルビリー地帯が対象になった。その典型がテネシー州とヴァージニア州の州境に近いブリストで行われた。
 
●1927年、はるばる東部のニューヨークから300ドルを懐にやってきたラルフ・ピァー( Ralph Peer )は早速地元の新聞にタレント、歌手募集の広告を出した。50ドルの出演料だった。スタジオには臨時的に空室になっていたブリストル市内の帽子工場の作業場が利用された。これに応募してきたカーターズの3人とは別にジミー・ロジャースもいた。奇しくもこの1927年にはラルフ・スタンレーが生まれている。
 
●「カントリー音楽史上、最も重要なイベント」(ジョニー・キヤッシュ)。「すべてはここから始まった」(ジュニアー・ブラウン、ギターリスト)などの評価を得た。彼らの持ち歌のルーツの多くは、「Keep on the Sunny Side 」「Will the Circle be unbroken」など教会音楽の中に深く根ざしていた。名作「I’m Thinking Tonight of My Blue Eyes 」は後に「The Great Speckled Bird 」「 Wild Side of Life 」「It Wasn’t God Who Make Honky Tonk Angels 」などを系譜的に生んだ。
 
●1998年にオープリーに参加して、1992 〜94、97年と「 Vocal Group of the Year」を受賞している6人組の人気バンド「ダイヤモンド・リオ」。ここのジミー・オーランダー(ギター)はメイベル奏法の影響を強く受けている。その証拠に彼のギターには、メイベルの写真が貼られている。「彼女は僕にとって単なる憧れのアドマイヤーではない。生前、彼女に僕のスタジオまで来て貰ったことがあった」。
フロイド・クレーマーは自分のピアノ奏法にメイベルのギター奏法を置き換えて改革したと云われる。これをNote― Slurring Style と云う。
 
●カーターズはその活動期間中に約250曲を録音した。殿堂入りはその功績に比して遅く、ジーン・オートリーに次いで1970年、ビル・モンローと同時の17人目だった。1915年に結婚したA.P.カーターと妻のサラは、1936年に離婚した。A.P.カーターは1960年に69歳で他界したが、7歳若いサラは81歳の1979年まで生きた。
 一方、メイベル(1978年他界)はエズラ・カーター(1975年他界)と1926年に結婚して、ヘレン(1998年他界)、ジュン(2003年他界)、アニタ(1999年他界)の有名な3人姉妹を生んで、彼らの音楽的な伝統は引き継がれたが、ジュンの死去によってその第1期の伝統は途絶えた。
 
 
 
更新日時:
2009/09/25
10    東京ヘイライド(10) 音楽の街メンフィス、 ボニー・オウエンス   真保孝
●音楽の街メンフィスには多くの観光客が訪れる。観光名所のひとつはエルヴィスを生んだサン・レコード・スタジオだ。所在地はダウンタウンのユニオン通りとマーシャル・アベニューが交わる角地にあった。住所で言えば706 Union Avenueで、隣にはMrs. Dell のレストランがあった。
 
●開店に先立ち、サムは秘書兼受付係として以前、放送局(WREC)時代の知り合いでメンフィス生まれの女性を連れてきた。マリオン・カイスカーと言って離婚した彼女には9歳の息子がいた。33歳だった。
1953年の夏の暑い日、エルヴィスがドアーを開けて初めて訪ねてきたとき、応対したのは彼女だった。何か(サムシング)を感じて、エルヴィスの対応メモを残した彼女こそが後に運命の糸をつないだ金の卵、エルヴィスの最初の発見者だった。後年、ふたりはドイツ(駐留軍在籍)で感動的な再会をしている。
 
●「私たちは何処へでも、何時でも、どんなことでも、録音のご用に応じます」(We Record Anything Anywhere Anytime. )。このキヤッチフレーズは1950年1月開店当初に、サム・フィリップスが店頭に掲げたものだ。
 オープンはしたものの2年間は本来の音楽の仕事はなく、結婚式、葬儀、時にはバーでのライブ録音(仕事)などで糊口を凌いだ。はじめの会社名は「Memphis Recording Service」だったのを、1952年3月にサン(SUN)のレーベル・マークを登録して、スタートした。
 
●ボニー・オーエンス。世の流れに沿って、カントリー音楽でも女性歌手の大衆の好感度が大きく変わった。田舎の音楽(ヒルビリー)にも美顔でスリム、スタイルのよい歌手に人気が集まるのが今日だ。ステージ衣装もポップスに対抗して、露出度の高いきらびやかなものが多い。キティ・ウェルス、ローズ・マドックス、ウイルマ・リーなどはもはやお呼びではない。ジェーン・シェパード、コニー・スミスあたりが出てきたときが、ひとつの波だったかも知れない。
そんな昔風な?一人、ボニー・オーエンスが好きだ。美人ではないが、ぽっちゃりとして親しみやすい愛嬌ある飽きない顔だ。オクラホマで生まれた彼女は少女時代には神経質で気が弱くて、「どもり」のために他人と話すのが苦手だった。高校時代、積極的に好きな歌うことでそれらを克服した。同様にメル・テリスもこの「どもり」を克服している。
1947年故郷を出てバック・オーエンスと知り合い結婚した。15歳だった。バディ・アランはこの時の子供である。2人はベーカーズフィールド移住する。彼女の最初の録音はファゼィ・オーエンスとのデュエット曲「Dear John Letter 」(1950)だった。これはファーリン・ハスキーとジェーン・シェパードの大ヒットよりも、3年も前のことである。未聴で比較を書くことが出来ないが、ひとつにはマイナー・レーベルの宣伝不足からか?後にバックと離婚した彼女はマール・ハガードと再婚、離婚をしたが、終生親しい交際は続いた。離婚後、2006年4月24日に他界した。享年74。
 
更新日時:
2009/09/29
11    東京ヘイライド(11)ジミー・マーチン   真保孝
●「キング・オブ・ブルーグラス」のジミー・マーチンが来日したのは、今から35年も昔のことだ。「10年一昔」と言うが、アメリカと戦った日米戦争を知らない若いフアンにはピーンとこないだろう。ジミーはまさに48歳の油の乗った盛りだった。
事実、この頃ジミーは本国で「Sunny Side of the Mountain」「This World is not My Home 」などのヒットを飛ばしていた。ステージでは予想通り、ハードだが渋いヴォーカルと力強いリズム・ギターで独特のハイロンサム・サウンドを聴かせてくれた。
 
●3月7日、来日のステージ(東京公演)で、予想外のハプニングが起きた。ジミーは客席にいた私の友人のSさんを見つけて、ステージに上がってきて一緒に歌えと声を掛けた。
Sさんは1970年の6月から1ケ月間ばかり、渡米してジミーのバンドとツアーを共にしていたのだ。突然呼ばれてびっくりした Sさんはとにかくステージに上がり、在米ツアー中にいつも歌っていた「Sunny Side of the Mountain」を歌うことになった。5年間の空白期間で歌詞を忘れていた。バックでジミーがサポートするとの約束も実行されなかった。
Sさんはこの日、出産間近の奥さんを放ってコンサートにやってきた。罰が当たったのかも知れない。翌々日無事に産まれた赤ちゃんの名前をリサと名づけた。ちなみにジミーの娘さんの名前はLisa Sarah である。
 
●終わりに古い話だが、ジミーが人命救助で表彰を受けた記事を思い出した。地方巡業の途中、自動車のオイル・チェンジとガソリンを補給しようと、ガス・ステーションに立ち寄った。その時、彼は大きな物音を聞いた。彼が見たのは、大きな炎の中の自動車だった。
車の中には母親と彼女の子供がおり、彼は身の危険をかえりみず、救出したのだ。一人の子供を救い出した後、まだ姉娘が車中に残されていた。翌日の新聞のヘッド・ラインには「ナッシュビルのカントリー音楽の英雄」の文字が載った。短気で暴れん坊と言う先入観が強かった若き日のジミーの意外な面を見た思いだった。2005年5月、ジミーは治療中だった膀胱癌で他界した。78歳だった。
 
 
 
更新日時:
2009/10/03
12    東京ヘイライド(12)リトル・ジミー・ディケンズ   真保孝
●リトル・ジミー・ディケンズはウエスト・バージニアで13人の子沢山の長男として生まれた。少子化が嘆かれる現在の日本では考えられないことだ。小さい身体に有名なヌゥディ(Nudie)のコスチュームで着飾り、元気一杯のパフォーマンスで観客を喜ばせてきた。
 昔「彼こそがエンタテイメントの固まりだ」とディケンズを尊敬してラスベガスから駆けつけたヴィンス・ギルがオープリー在籍50周年を記念してステージでギブソンのギターを贈呈した。
「有り難う、今使用しているギターは1956年から愛用しているので、そろそろ引退させようと思っていたところです。私とともに1年間平均して10万マイルも旅をしてきたギターです。昨年から年齢的なことも考えてツアーを止めました。でもファンの皆さん、オープリーに来れば会えますよ」(ディケンズ)。
 
●当夜はCMAの創立40周年記念もかねていた。その席でディケンズとリアン・ライムスが隣り合って座った。これを見たある人が「どちらの背が高いかな?」と質問した。答えはライムスがハイヒールを履き、ディケンズはカウボーイ・ハットをかぶっていたので正確にはわからないが、まあ同じくらいだろうと言うことになった。ディケンズの3人目の夫人モナ( Mona )は彼よりも首ひとつ背が高いブロンドの超美人で、祝福されて仲良くお祝いのケーキにナイフを入れた。
 
●そのディケンズも今年で89歳になり、今ではカントリー音楽界で最長老だ。生前のハンク・ウィリアムスと親しく、実生活を知る数少ない一人だ。
言うまでもなくディケンズのデビュー・ヒットは「Take An Old Cold ‘Tater ( And Wait ) 」(1949)だ。このファースト・ヒットにちなんで彼のニック・ネームを「ジャガイモ」(Tater)と名付けたのはウィリアムスであった。これからもふたりの親交ぶりがうかがわれよう。しかし自動車事故で亡くなったドティ・ウェスト(1932〜1991、58歳)は「Sweet Tater」と呼んで親しんだ。
この曲を書いたEugene Monroe Bartlettの息子の回想によれば、1920年代初め頃コミック・ナンバー4部作のひとつとして作られた。もともとカントリー・ソングとしては考えていなかったのを、ディケンズが取り上げてヒットさせた。Bartlett(1894~1941)はミズーリー州生まれで、沢山の賛美歌を書き音楽出版社に長く勤務貢献して「南部ゴスペル音楽の父」と親しまれた。
 
 
更新日時:
2009/10/11
13    東京ヘイライド(13)ミュージック・ロウ   真保孝
●気になるニュースが耳に入ってきた。かって隆盛を誇ったナッシュヴィルのミュージック・ロウが人影もまばらだという。娯楽が多様化して、若者文化の象徴的な音楽産業もひと頃の元気がないようだ。数多くの音楽出版社や録音スタジオが並んでいた。その中でRCAのスタジオBが有名だが、16番地にあるのがCBSスタジオ。
コロムビアのスタジオはかまぼこ型兵舎の建物で、音楽関係者から親しまれてきた。ここは1956年にあのデッカ・レコードの辣腕プロデュサーのオーエン・ブラッドリーが設計建築したものだ。どういう理由からか、後に(1962)コロムビア・レコードに売却された。パッツイ・クラインの「 I Fall To Pieces 」、マーティ・ロビンスの「 El Paso 」、レフティ・フリゼルの「 The Log Black Veil 」など数々の名曲が録音された。
 
●歳月を経て老朽化したために、1982年6月に取り壊されることになった。スタジオ最後の録音は、ひげを生やして少し強面のジョン・アンダーソンが歌うレフティの晩年のヒット「The Long Black Veil」であった。
残念ながらリバイバル・ヒットはしなかったが、アンダーソンがこの曲を選んだ理由は、前年に同じレフティの「I Love You A Thousand Way 」を歌いヒットさせたことからか?と推測する。ちなみに彼の好きな歌手はご多分に漏れずレフティ、ハンク、ジョージ・ジョーズ、そしてなんとデルモアである。
 
●1954年、フロリダ生まれのアンダーソンは隠れて姉のギターで練習して(後に貰い受ける)10代でロック・バンドに参加した。それをカントリー音楽へ方向転換させたのは、ロイと言う隣人のカントリー音楽フアンだった。隣人はいつもジミー・ロジャースやデルモア・ブラザースなどのレコードを聴かせた。やがてナッシュヴィルに出たが、世の中はそう甘くはない。転々と職業を変えた。その一つ、新オープリー・ハウスの屋根瓦づくりは彼の仕事である。
 
●一時ナッシュヴィルから撤退した彼はある日、偶然デルモア・ブラザースのアルトンの息子であるライオネル・デルモアと知り合う。一緒に曲作りをした内の2曲「 The Girl At The End Of The Bar 」(1978、第40位)、「 You Lying Blue Eyes 」(1979、第15位)がワーナーの眼に留まり、同社と契約の糸口になった。ふたりの最高作は「Swingin’」(1983,第1位)である。彼の面白い題名曲に「Tokyo Oklahoma」があるが未聴。
 
更新日時:
2009/10/17
14    東京ヘイライド(14)Tanya Tucker     真保 孝
●1980年に発売されたグレン・キャンベルとタニア・タッカーのデュオ「Dream Lover」はチャート的にはふるわなかったが、ふたりのスタジオ・ロマンス(不倫)という副産物を生んだ。この曲は1959年にボビー・ダーリンが作り、歌ってヒットさせた曲だ。
その後、タニアが自叙伝「Nickel Dreams」(1997)を出したが、さすがにこれには触れていない。グレンと恋愛問題がささやかれたタニアも今年51歳になった。当時ふたりの年齢はグレン(45)、タニア(23)で22歳も離れていた。結局タニアの父親の反対で、恋は実らなかった。
 
●テキサスで生まれ、アリゾナで育った彼女のデビュー曲は「Delta Dawn」(第7位、17週)だったが、その大人っぽいハスキーな声で堂々と物怖じしない唱法に人々は驚かされた。まさかこれが13歳の少女の歌声とは誰も思わなかった。事実、会社側はしばらくは彼女の年齢を隠し続けた。前例に15年前のブレンダ・リーがいた。それまで平穏無事だったカントリー音楽界に投げかけたデビュー当時のタニアの衝撃は今でも強烈だ。
デビュー当時から派手でセンセーショナルな話題を振りまいていたが、その後多忙な日々を送る中、西海岸に居を移したとき空手を習うなどシェープアップにも努めてスタイルの魅力も増していた。もし別れていなければ、1999年に作曲家のJerry Kasterと結婚していた。グレンは離婚歴3回、タニアと別れて現在のキム夫人とは3年後の1983年に結婚した。
●父親のBeau Tuckerはウディ・ガスリーの名曲で知られるオクラホマの「ダスト・ボール」の体験者で、何とブルー・ヨーデルのジミー・ロジャースの愛好者だった。よちよち歩きの少女時代から「Pure & Simple」の精神をたたき込まれ、クラシック・カントリーを歌わされたから、ただの10代歌手ではない。未聴で信じがたいが「Delta Dawn」以前に、マール・ハガードとの「Mule Skinner Blues」の録音があるらしい。
それを裏付けるひとつの出来事がある。1990年の始め、慣例のジミー・ロジャース・フェスティバルがメリディアンで行われた。この時出席した女性歌手は彼女一人で、ハガード、ジョージ・ジョーンズ、タブ、スノウらと隣り合って椅子に座っていた。いまその記念の額はミュージアムに飾られていると言う。スージー・ボッガスも歌っているタニアの「Someday Soon」は味わい深い曲である。
更新日時:
2011/08/31
15    東京ヘイライド(15)グレン・キャンベル&ジム・ウエッブ    真保 孝
●長い下積みのスタジオ・ミュジシャン(ギタープレヤー)だったグレン・キャンベルのスター歌手へのスタートは作曲家ジム・ウェッブとの出会いから始まった。その頃のふたりは「恋はフェニックス」(1967)「ウィチタ・ライマン」(1968)「ガルヴェストン」(1969)と驚異的な連続ヒットを飛ばした。
 ふたりの仲はひと頃、ニューヨークに住むジムがナッシュヴィルに住むグレンの家をはるばる毎年、誕生日毎に訪問するほどである。「恋はフェニックス」はまだロスで下隅の生活をしていた頃に書かれた。ジムは故郷のオクラホマからカンサスにドライブしているときにひらめいた曲だと言っている。音楽出版社に持ち込んでから2年目に認められた。
 「僕らはどんな曲でもまず歌詞の美しさを第1に考慮に入れて考える。そうすればどんなに時代が変わってもいつまでも人々に口ずさんでもらえる。たとえばあのテネシー・ワルツのような曲を目指して...」
(グレン)。しかし彼らの歌詞は、特に英語に弱い日本人には難解な部分が多いようだ。
 
●ジムは牧師の息子で6歳の時からピアノ、9歳からは教会のオルガンを習った。だからグレンがジムの自宅を訪ねると、オルガンで曲造りの打ち合わせをする。作曲を始めたのは、13歳の頃からだという。才能は豊かでカントリー畑に限らず、広くポップス系の歌手たちにも提供している。ウェイロン・ジェニングスでお馴染みの「MacArthur Park」(1969)は、後にドナ・サマー(1978)で広くヒットしていたが彼の作品だ。
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2011/08/31
16    東京ヘイライド(16)デル・ウッド、ウエッブ・ピアス、ルービンBrs.    真保 孝
●ナッシュヴィルで生まれて、1989年に亡くなったデル・ウッド(69歳)。1953年にオープリーに登場、自分のテーマ曲の、後にも先にもただ1曲のヒット「Down Yonder」(1951年、第5位)で過ごした。年代は忘れて公演はなかったが、この人日本にもやってきて面会したことがある。
 人気アナウンサー(DJ)のラルフ・エメリーは最初に彼女に会ったとき、彼女はまだフレッド・フォスターの元で伴奏をつけていた。フォスターは後にモニュメント・レコードを創設してロイ・オービソンやドリー・パートンを発掘した人だ。
 
●1950年の始め、人気急騰中のウェッブ・ピアースがラジオに出演のためにスタジオに現れたとき、彼のマネジャーだったヒューバート・・ロングはインタビュアーにきつく言い渡した。
「いいかい、個人的な生活、特にマイクの前では彼のワイフについて聞いてはいけないよ。何故って彼には沢山の女性のフアンがいるんだ。彼女たちに彼の私生活をあまり知られては困るんだ。だから彼が独身であるような立場でインタビューして呉れよ」。今も昔も、ショービジネスの世界にはこのようなイメージがまだ大切だった。事実は、ピアースはこの時、既に結婚をしていた。
 
●またたく間に、全米を席巻したロックン・ロール旋風にとまどった歌手やグループは多かった。その中のひとつにアイラとチャーリーのルービン・ブラザースもいた。
 宗教的なソングから出発した彼らは伝統的なカントリー音楽を推進していた。それだけに受けた被害(侮辱)もひときわ大きかった。彼らは突然降って湧いたような変化に対してもがき苦しんだ。しかしロッカビリーが流れ星のようにはかないものに、いつかは終わるだろうとも考えていた。
 そんなある晩、WSM局のスタジオで「Friday Night Opry」の公開番組が開かれて、約300人ほどの観客が集まった。終了後、その中の数人がショーの中で拍手を受けたアイラのマンドリンに腹を立てて、口論となった。彼らのひとりは興奮して、もともと短気なアイラと争い自慢の愛器(マンドリン)を入り口(ドアー)に向かって投げつけてしまった。
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2014/02/22
17    東京ヘイライド(17)マーティ・ロビンス     真保 孝
●1957年からおよそ1972年の間にカントリー音楽の名盤は主としてナッシュヴィルのWSMラジオ局内のスタジオで作られた。1940年代のハンク・ウィリアムスの主要なレコードはこのスタジオで録音されたし、カウ
ボーイ・コーパスの「Tennessee Waltz 」も同じであった。ちなみにこれはオリジナルの次の最初のカバーであった。またパティ・ペイジの同曲もここでWSMラジオのエンジニアーの手によって作られた。
 建築当時は彼らの技術を集めて入念に作られたが、歳月の経過と共に、煉瓦で覆われた壁は薄汚れ、四角い沢山の穴の開いた防音プレートも劣化してきた。出演者たちは大半の時間を当時の新素材である耐熱性の合成樹脂板が張られたテーブルを前に椅子に腰を掛けて出番を待った。
 部屋のコーナーにあるグランド・ピアノを一番に愛用したのは、マーティ・ロビンスであった。マーティは日本公演でも見せたマーチンのベビィ・ギターを弾いた。放送やステージで沢山の観客を前に歌うマーティは、本来とてもシャイ(恥ずかしがり屋)であった。初対面の見知らぬ人にはとてもそれが強く、ドアの後ろに隠れてその人が立ち去るまで姿を見せないこともあったと言う。
 
●マーティの連続テレビ・ショーを古いビデオで探し出して観た。ドン・ギブソンがゲスト出演して仲良く「Oh Lonesome Me」「I Can’t Stop Lovin’ You」をデュエットした。この珍しい取り組みの後、マーティが歌ったのは「Take Me Home, Country Roads 」だった。
 マーティの愛妻、マリゾナ(Marizona)が2001年7月10日に癌で他界した。マーティは一時この愛妻の必死の介護で奇跡的に快復したが、1982年に心臓病で他界している。その時の感謝の気持ちを込めたアルバムが「My Woman, My Woman ,My Wife 」(1970年、第2位、35週間)で、その年の「Grammy Best Country Song」に選ばれた。
更新日時:
2011/08/31
18    東京ヘイライド(18)Hank Williams     真保 孝
“...and now, ladies and gentlemen . Here is the son of a legend. After all of these years, the memory of Hank Williams is reborn ( 生まれ変わった) ?..”。会場にアナウンスが流れ始めた。
1962年はハンク・ジュニア( Randall Hank Williams 、シュレブポート生まれ)が登場した年だ。彼はまだ14歳。13年前の1949年6月11日父のシニアが「Lovesick Blues」を歌って登場していた。
 
●この時の模様を1962年1月号の雑誌Saga はエド・リンのペンで次のように紹介していた。「ハンク(父親)は31年前に6回のアンコールを観客から受けた。司会のレッド・フォーレーはそのスピーチをしばしば中断せざるを得なかった。その結果、予定していたその後の当夜のスケジュールを変更しなければならなくなった」。
そして今夜若者のジュニアの登場である。この歴史的なステージを観ようとチケットは数ヶ月前に既に売り切れていた。
紹介のアナウンスに続いて、ジュニアは物怖じせずにマイクに向かった。身長は6フィート。まず曲のシグネチュアーであるヨーデルから歌い始めた。するとここでも観客たちの歓声で、たちまちかき消された。彼ら(観客)は13年前のシニアの姿をそこに観る思いであった。「息子の君は亡霊(Ghost )だ。間違いなく父親の亡霊以外の何者でもないよ」(辛辣なレッド・フォーレー)。
 
●時代は流れて、1996年9月21日に孫のハンクV(Shelton Hank Williams 、1972年、ナッシュヴィル生まれ)がオープリーに登場した。当夜のデビュー紹介者はハンク3代を知り尽くしていたリトル・ジミィ・ディケンズであった。驚くべきはこの時も孫が歌ったのはなんとあの「Lovesick Blues」であった。カントリー音楽版世襲?
 父親のジュニアは何回か結婚をしているが、孫は第1夫人のシャロンとの間の子供らしい。ついでにジュニアのロマンスをひとつ紹介しよう。
4人目の夫人マリー・ジェーン・トーマスと知り合ったのは、ワシントンDCで行われたビーチ・ボーイズトのコンサーにゲスト出演したときだった。リムジンに乗ってきたハワイ系の美人モデルの彼女に一目惚れしてしまった。早速アタックして、デートにこぎ着けたが、挙式まで6年もかかってしまったと言う。今も二人の生活は続いているのだろうか。
 後で知ったが、この年の11月に彼(孫)は来日して大阪のライブハウス「ブルート」で歌ったという。チャージはビールつきで、1万円とは稀少価値としては高いか、安いか?
 
●ハンク3代のアルバムが発売されていたので、最後に紹介しておこう(廃盤か?)。「Hank Williams SR, Jr,V:There Hanks : Man with Broken Heart 」(Curb 77818)。第37位までチャート、未聴。
更新日時:
2011/08/31
19    東京ヘイライド(19)テックス・リッター     真保 孝
●テックス・リッターの頑固さはその情熱(パッション)と同等であり、終生故郷テキサスを愛し続けた。同郷のモハメド・アリ、ボブ・ウィルスもその地の生まれを誇りにしていた。東部(演劇)、西海岸(映画)で主に活躍して、ナッシュヴィルに来てオープリー(1965年)に立ったのは遅かった。
このナッシュヴィルに住んだとき、ワイフのドロシー(Dorothy )と家族(子供2人)をカルフォルニアに残して単身赴任だった。息子の一人ジョンはテレビや映画で活躍していた。2軒の家の世話をするドロシーは忙しい生活を強いられた。
 
●しかしドロシーとテックスは離れた生活を逆に新婚時代のような環境に置き換えて楽しんでいた。ドロシーは月に1回、ロスからナッシュヴィルにやってきた。決まって午前3時に空港に到着する便だった。忙しいときテックスは空港に人をやって出迎えた。彼女はいつもテックスの好物だった手製のクッキーを持参した。ドロシーはテックスを「Daddy 」と呼んで、借りていたアパートへ入った。ドロシーは優雅で物静かな女性だった。
 
●テックスのバンドのギター弾きデイールが不都合を働きナッシュヴィルのメトロ刑務所に入った。その彼を訪問した時、刑務所内で心臓麻痺を起こしたと言われる。1974年1月に他界したが、まだ66歳だった。
テックスの遺体はテキサスのヴァイダー(Vidor )に運ばれた。追悼の曲はレッド・フォーレーの「 Peace in the Valley 」と「 Beyond the Sunset 」が歌われた。それから13年後、ドロシーが同じ心臓ストロークで倒れて、直ぐにハリウッドのアクタース・ホームに入院して他界した。テックスが「I Dreamed Of a Hill-Billy Heaven 」(第5位)を歌ったのは1961年のことだった。二人は今のその中にいる。
 
●テックスが司会した人気番組、例えば「ランチ・パーティ」などでのフィナーレの言葉は「Adios, Amigo .This is where you ride off into sunset・vであった。
 言うまでもなく、彼の数多くのヒットの中で最もポピュラーなのは、映画「真昼の決闘」(High Noon, 1952 )である。ディミトリー・ティオムキンの51歳の時の作品だが、後から名作テレビ・ドラマ「ローハイド」を書いたネッド・ワシントンも協力してその年のアカデミー賞を受賞した。
 この曲を歌えば、全米何処へ行っても大入り満員になったが、当時体調を壊していたテックスは出掛けられなかった。代わりに広く大衆に受けたのはフランキー・レインで、テックスの曲はビルボードのチャートにも登場していない。
更新日時:
2011/08/31
20    東京ヘイライド(20) 愛馬        真保 孝
●Bウェスタン映画のヒーローたちはいずれも愛馬を持っていた。ロイ・ロジャーの愛馬の名前はご存知のトリッガーで、夫人の共演者だったデール・エヴァンスよりも出演料が高かった。エヴァンスの愛馬はバター・ミルク。トリッガーは惜しくも1965年に33歳で他界した。剥製がバター・ミルクと一緒にロイ・ミュージアムに陳列されている。
先輩のジーン・オートリーの愛馬はチャンピオン号で、これは人気映画俳優エロール・フリン(若い方、この人ご存知?)が主演した「ロビン・フッドの冒険」の中で共演のオリヴィア・デ・ハビランドが乗った馬をオートリーが西部劇映画に出るために買い取った。
 
●続いて、ケン・メナードはターザン、ウィリアム・ボイドはトッパー、ジョン・ウェインはデューク、テックス・リッターはライトニング、レックス・アレンはココ、ハンク・スノウはシャウニーと名付けた。
 
●1959年公開の映画「リオ・ブラボー」の挿入歌に「ライフルと愛馬」(My Rife, My Pony and Me )があった。劇中、保安官事務所の中で、ディーン・マーチン(1995年,78歳)、リッキー・ネルソン(1985年飛行機事故で45歳)とウォルター・ブレナン(ハーモニカ)の3人かけ合いで歌うが、そのオリジナル・サントラ盤はない(と思う)。この曲が聴きたいばかりにこの映画のビデオ、DVDを買った人もいた。これに応えるためにマーチンがソロで再レコーデイングをした1959年、原盤キャピトル。
 「♪...太陽は西に沈み、馬たちは小川の水場に急ぐ。ツグミは巣に戻る。それがカウボーイの夢見る時さ...♪」。軽くスイングするように、鼻にかかった声でマーチン(口笛)は歌い、これにハーモニカとリッキー・ネルソン(ギター)がからむあたりはたまらない雰囲気だ。西部劇に歌が挿入されると価値が数倍上がる。シンプルなメロディの自然で美しいバラードは日本における最初の隠れたヒットになった。
なお、この曲はフランキー・レイン、ジョニーー・ホートン、キャッシュ、マーティなども取り上げているらしいが、未聴だ。ロシア生まれのデミトリー・ティオムキン(1979年他界、80歳)とポール・フランシス・ウェブスターの作品。
更新日時:
2011/08/31
21    東京ヘイライド(21)Willie Nelson       真保 孝 
●ジャンルを超えて、幅広い活躍を続けるウィリー・ネルソンの評価を一体どのように位置づけたらよいのだろうか?数多くの曲を書き上げた栄冠の現代吟遊詩人、農園(ファーム)の詩人、ある時はアウト・ロー、そしてひたすら旅を続けるホームレスにも似たホーボー歌手...どれも正確に的を得ていない。
 1933年、テキサスのアボットで生まれた彼は、幼年時代に両親が離婚したために、祖父母に育てられた。よって彼の音楽的な環境はこの二人によるところが大きい。祖母はアマチュアの作曲家で、その感化を受けたウィリーは早くから音楽に興味を持ち、5歳の時は既に曲作りをしたという。6歳の時に祖父がギターを買い与え、弾き方を教えた。
 カントリー音楽に惹かれたのはオープリーの放送を聴いてからだった。背景の精神的な面は綿畑で働く黒人たちからのブルースであった。多様な周囲の音楽的な環境の中で成長したことが後の「スターダスト」や「ジョージア・オン・マイ・マインド」「ブルー・スカイ」などにみられるアメリカン・ミュージックの歌心のベースとなった。
 
少年時代のアルバイトは綿畑での1日1ドル50セント。「毎日、暑い畑ので仕事はいやでいやでたまらなかった。そんなときはいつも空想をした。近くを自動車が走るのを見るといつか自分もあのような自動車を運転する身分になりたいと」。小学生になったとき、近くのチェコスロバキャ人が多く住む地域でのポルカ・バンドに一晩10ドルで出演できた。
 
●姉妹のボビィがバンドでベース、フィドルを担当していたバッド・エレッチャーと相愛になり結婚した。バッドはテキサス生まれで、ボビィはピアノを弾いていた。ウィリーはまだ高校生で、ボーカルとギターを弾いていた。「バンドが認められてラジオに出たとき、嬉しくて、気持ちが高揚して、生涯この様な生活が送れたらいいナー」と考えた。
更新日時:
2011/08/31
22    東京ヘイライド(22)ジョニー・ブッシュ       真保 孝
●好漢ジョニー・ブッシュは2歳年上のウィリーと親交が深い。二人とも共に故郷がテキサス生まれと言うことだけでなく、一つの曲が二人の間をつないでいるからだ。曲の名前は「Whiskey River」で、今ではウィリーのテーマ・ソングになっているが、ウィリーがこの曲を歌ったのは、実に30年も昔(1978)の46歳の時だった。
脚光を浴びてリバイバル・ブレークさせた「Blue Eyes Crying In The Rain 」(はじめての第1位曲)から3年は過ぎていたが、チャートでは12位まで昇り、12週間の中ヒットになった。日本では坂本孝昭が確か自分のバンドの名前にしていた。
 
●もともとこの曲はブッシュが自分の古い曲「If the River Was Whiskey 」を書き直して、1972年に発表した(第14位)。内容は「酒が大好きな男がウィスキーが河の水が流れるようにあったらいい。決して涸渇してくれるなよ、お前こそが俺の命の糧...」と言ったもので、さしずめアメリカ版「養老の滝」である。
1960年代の初め頃、ウィリー、ブッシュ、そしてレイ・プライスはサン・アントニオのクラブで一緒に働いた時期があった。サイド・メンのブッシュはドラムを担当していた。そしてウィリーとレイの「チェロキー・カウボーイズ」に在籍したこともあった。
 
●DJだった伯父の影響でボブ・ウィルスを聴いてホンキー・トンクへの道を目指した。17歳で大志を抱いてサン・アントニオに出て、小さなクラブで歌ってチャンスを待った。ブッシュ(Johnny Bush)と云う名前は、たまたまラジオ局のアナウンサーが間違えて紹介したことからで、本名はJohn Bush Shinn V。声の良さと歌の上手さで「カントリー音楽のカルーソー」と言われたが、大ヒットには恵まれなかった。1981年に再吹き込みした「Whiskey River」が最後のチャート曲(第92位)になっている。
更新日時:
2011/08/31
23    東京ヘイライド(23)ディフォード・ベイリー      真保 孝
●「Yes We Can !」の掛け声と共に、オバマ大統領が黒人系で初めての米国大統領として就任。 先頃、チャーリー・プライドが大統領夫妻からホワイトハウスに招待された。彼がここで披露した曲は「Is Anybody Going to San Anton」「 Kiss an Angel Good Morning 」などお馴染みのヒット曲であった。一緒に招待されたのはアリソン・クラウス、ブラッド・ペイズリーである。
●黒人野球リーグのプロ選手から転向したチャーリーは、功成り名を遂げた現在、どこのレーベルとも契約せずに、自由な活動を行っている。なにしろ現役時代の第1位曲(財産)が29曲もある。
カントリー音楽の黒人歌手として初めて殿堂入り(2000年)を果たしたチャーリーだが、実は彼の前に大先輩歌手がいた。ディフォード・ベイリーがその人だ。彼はオープリーのステージに最初に登場した黒人で、ハーモニカ、バンジョー、ギター、歌手として人気を集めた。亡くなったレス・ポールは少年時代に鉱石ラジオでオープリーにダイヤルを合わせて、ディフォードの演奏を聴くのが楽しみだった。レスが最初に興味を持った楽器はハーモニカであったからだ。
●資料によるとディフォードは少年時代から病弱で、やや猫背、片足が不自由であったが、そんな暗い少年時代から独学で楽器をマスターして(祖父はフィドルのチャンピオン)、特にハーモニカは巧みで、犬や鳥の鳴き声、蒸気機関車などの物真似擬音は素晴らしかったらしい。
WSM局が発見(スカウト)して1926年6月19日にWSM Barn Dance (後にオープリーに改名)に歴史的なステージを踏ませた。1928年にはオール・アフリカン・アメリカンのキャスト・メンバーに登場させた。「ハーモニカの魔術師」のキャッチ・フレーズで観客を大いに沸かせて、一時はレギュラーの地位を確保できたかにみえたが、やはり社会的に人種的な偏見の壁を克服することが出来なかった。特に白人至上主義の強い南部でそれが強い。
●堅苦しい人種差別に絡む法律的な論争が、彼の音楽的な才能を阻み続け、次第にステージから遠ざかっていった。オープリーを追われたディフォードは靴磨きなどをしながら生活を支えたが2度とステージに上がらず、1982年7月2日、他界した。享年83だった。
同じ頃、44歳のチャーリーは「You’re So Good When You’re Bad」「Why Baby Why 」「More And More」などのヒットを出していた。チャーリーが大先輩のディフォードのことを知っていたか、どうか?それを知る資料はない
●時を経て1997年2月にナッシュヴィルに黒人系のカントリー音楽関係者の組織「Black Country Music Association」(BCMA)が設立された。順調に運営されて約90人ほどのアーチストが在籍すると聞く。
更新日時:
2011/08/31
24    東京ヘイライド(24)ベニー・マーチン       真保 孝
●さすがアメリカのカントリー、音楽の裾野も広く、奥行きも深い。
 
フィドル奏者にはトミー・ジャクソン、ポール・ワーレン、チャビィ・ワィズなど数多い。
 
ベニー・マーチン( Benny Martin )も知る人ぞ知る名フィドラーである。テネシー州のスパータ(Sparta )で音楽一家(5人姉弟)に生まれた。余談だが、同地はレスター・フラットが音楽界に入る前に織物工として働き、愛妻のグラディス(Gladys)と出会った場所でもある。
 
11歳で自宅近くのノックスヴィルに出たベニーは、13歳の時にヒッチハイクでナッシュヴィルに向かってプロを目指した。1941年頃のことである。ここでビッグ・ジェフ・ベスというラジオ番組やフェスティバルを運営するプロモーターと知り合い、ガール・フレンドと一緒に下町ブロードウェイ(ライマン公会堂の後ろ)にあった小さなバーを買った。これが後にオープリーへの登竜門となったカフェの現在のTootsie’s Orchid Lounge(1960年改名)である。
 
●折から1948年2月、ビル・モンローのバンドからレスターとアールが独立して退団した。一緒にチャビー・ワイズが抜けた後の「Bluegrass Boys」に入団したが、翌49年にはドン・レノとレッド・スマイリーの「Tennessee Cutups 」に移籍した。次のバンドは1952年からコロムビア時代のレスター・フラットとアール・スクラッグスのバンドで、7曲の録音を残している。ひと頃エルヴィスのマネジャーとして有名なトム・パーカーをマネジャーに迎えたこともあり、その縁で初期のエルヴィス・ショーの前座を勤めたこともある。
 
●ステージでは常にショーマンシップに溢れて声量も大きく、アグレッシブ(前向き)なスタイルで、ニック・ネームは「The Big Tiger」(吠えるタイガー)と呼ばれて人気を得た。彼こそ「エンタティナーの中のエンタティナー」と評価する人もいる。
 
2000年頃、半ば引退したベニーをデル・マッカリーのフィドラーであるジョン・カーターが訪ねたが、歌は止めて、フィドル演奏だけでフェスティバルに出ているとのことだった。
 
2001年3月、その「吠える大虎」も亡くなった。72歳だった。
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2011/08/31
25    東京ヘイライド(25) チェット・アトキンス       真保 孝
●1946年頃、シンシナティで有名な放送局WLWの番組、「Boone Country Jamboree 」に「ジョンソン・シスターズ」と名乗って出演中の双子の姉妹が人気を得ていた。二人の名前はレオナとロイス・ジョンソンと云った。チェット・アトキンスはそのひとりレオナと結婚した。そして生まれてきた娘の名前をマールと付けた。言うまでもなく親友のマール・トラビスに由来する。
●いまひとりのロイスはチェットが生涯の友としたホーマー&ジェスローの片割れケネス・バーンズとその後結婚した。ロイスの方は11歳から活躍しており、息が長く1970年代の始めまでハンク・ウィリアムスJr.とツアーを共にしていた。
1949年にラジオのテーマ曲になった「Galloping On The Guitar」ではマールとホーマー&ジェスローがバックをつけている。また同年後半のヒット「Main Street Breakdown 」でもアニタ・カーターに加えてホーマー&ジェスローがバックに付き合っているのは2人の奥さんが姉妹であることにも起因する。
●両者の長いつき合いはその後、RCAに入ってからも続き、ご存知の最大のポップ・ヒット「Battle of the Kookamonga」(ジョニー・ホートンの「Battle of New Orleans」の替え歌)のプロデュースも担当した。ちなみにこの曲はその年のグラミー・コメディ賞を受賞した。
 チェットはその後、シカゴのRCAを通じてマザー・メイベル & ザ・カーター・シスターズにリード・ギターとして参加する。
●ミズーリー州のスプリングフィールドにあるKWTOラジオ局でこのグループの演奏を聴いたひとりの歌手がいた。ナッシュヴィルに戻った彼はWSM局の重役たちに「凄いプレイヤーがいる。早くオープリーに呼んだ方がいい」。この歌手の名前はジョージ・モーガンで、うわごとのようにあまり「凄い、凄い」と連発するので、ジョージがそんなに言うのなら間違いなかろうと、首脳陣はこのグループとチェットを呼んで契約した。
●チェットが「Mister Sandman」のデビュー・ヒットを出す前の1950年のことだ。チェットはソロでも出演していたが、やがてその腕前を買われてレギュラーとして契約した。よく眼にする故ハンク・ウィリアムスのステージ写真において左後方でギターを弾いているのはチェットである。「チェットの音楽的なセンスは抜群で、当時会社(レーベル)を超えて陰ながら「Kaw―Liga 」「Cold, Cold Heart」「Jambalaya」など多くのヒット曲のアレンジにアドヴァイスを貰ったものだ」(フレッド・ローズ)。
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2011/08/31
26    東京ヘイライド(26) ロリー・モーガン       真保 孝
●ローリー・モーガンのフル・ネームはLoretta Lynn Morganである。すると気の早い皆さんは「ハハーン、親父のジョージ・モーガン(1924〜75年,51歳)はきっとロレッタ・リンにあやかって名前を付けたのだろうと思うだろう」と考える。だが注意深い人は「少し待てよ、年代的に少し合わないのでは?」といぶかるだろう。
年代の数字を少し整理してみよう。ローリーが生まれたのは1959年、ジョージが35歳の時の娘で、何と「Candy Kisses」がヒットした10年も後のことだ。
●一方、ロレッタは1934年の生まれで、ローリーが生まれたときには既に25歳になっていた。マイナー・レコードの「ゼロ」と契約をして1960年にデビュー曲「I’m a Honky Tonk Girl 」(第14位)を出してはいたが、その名はまだ未知数で、とてもその名前がジョージの元に届いていたとは考えにくい。よってこの推理には無理がある。
 少女時代のローリーはオープリーの袖で父親のステージを観たことを述懐している。「勿論、父は当時、その後有名になったロレッタの名前を認識してはいなかったし、この名前はとても耳に馴染めやすいと言うことからつけてくれたものです」(ローリー)。
●ジョージは妻のアンとの間にローリーの姉のキヤンディ、ベス、リンダ、そして兄のマーティをもうけた。姉の名前は勿論ヒット曲に関係がある。蛇足だが、ロレッタ・リンの名前は往年の名女優ロレッタ・ヤングに由来する。
 ローリーの結婚歴はめまぐるしく、追いかけるのが難しい。分かっているだけで、1回目がジョージ・ジョーンズのベース担当だったロン・ゴディス、2回目が有名なキース・ホイットリー(1989年死別)、3人目が巡業バスの運転手のブレッド・トンプソン(1993年離婚),4人目が歌手のジョン・ランダ(1999年離婚)、そして現在のサミー・カーショウ(2001年結婚〜離婚?)となっているが、このうち本当に彼女が心を通わせたのはキースだけだったのではないか?
二人は「Does Fort Worth Ever Cross Your Mind 」のデモを録音中に知り合い1986年11月に結婚した。式を挙げたキースと選んだ新婚旅行先はフロリダだった。1987年に息子のジェッシーをもうけた。キースははアルコール中毒で他界した。
(補足)カーショウとはやはり2003年11月法廷闘争の末に離婚した。
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2011/08/31
27    東京ヘイライド(27) マーティ・スチュアート     真保 孝 
●それは1972年の労働感謝の日がある週末だった。早朝、午前2時30分頃、マーティ・スチュアートは南部のアテネと言われたナッシュヴィルに向かって自宅を出た。「私の住んでいたフィラデルフィアから430マイルのバスの旅だった。その前の年の夏、ブルーグラス・フェスティバルでレスター・フラットのバンドでマンドリンを弾いていたローランド・ホワイトに会って友達になった」(マーティ)。ローランドとの友情は続き、ナッシュヴィルの彼に自宅に招待されていた。彼はレスターに紹介して入団の仲介(13歳)もしてくれた。
 
●コニー・スミスが歌って歌っていたミシシッピー州フィラデルフィアのChoctaw Indian Fair でマーティはコニーと結婚することを母親に告げた。一説には母親同士が古い友人であったとも言われる。
1990年の中頃、彼はコニーのアルバムをプロデュースしていた。ふたりの仲はその時はまるで馬鹿げたことのように思えた。第一、年齢が違った。15歳も離れた姉さんだった。だがマーティは言った。「You’re out of your mind, heart 」と頻繁に手紙を書いた。
1997年7月8日、サウス・ダコタのインディアン居留区で二人は式を挙げた。あれから12年が経つ。マーティは以前・ジョニー・キャッシュの娘のシンディと結婚していたことがある。だからジョニーのツアーのメンバーにもなっていた(1979〜85年)。
 
●マーティの活躍の範囲は広く、歌手や作曲家、プロデュサーとしてだけではなく、写真家としても著名であり、これまでに数冊のカントリー音楽に関する写真集を出して著作もある。また1991年以来CMFの役員の要職にあり、行政面でも活躍している。微笑ましいのは、趣味の世界で、故人の歌手(H.ウィリアムス、E.プレスリー、E.タブ他多数の)の楽器、衣類、遺品のコレクターとして知られて、その数は200点を超す。その中で一番大きい品はタブが巡業用に使用した凝ったインテリアのツアー・バス(シルバー・イーグル号)である。
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2011/08/31
28    東京ヘイライド(28) アスリープ・アット・ザ・ホイール     真保 孝
●「アスリープ・アット・ザ・ホイール」(Asleep At the Wheel )が1993年11月に出した「Tribute To The Music Of Bob Wills And The Texas Playboys」(Liberty 81470)はこの年の3つのグラミー賞に輝いた名盤である。ゲストにC.アトキンス、S.ボーガス、G.ブルックス、ブルックス&ダン、V.ギル、M.ハガード、W.ネルソン、D.パートン、M.スチュアートを迎えている。内容はタイトルから推察できよう。
●リーダーのレイ・ベンソン(ヴォーカル、ギター)とリューベン“ラッキー”オーシャン(スチール・ギター)は高校を卒業して、故郷の西ヴァージニァの農場でのんびりと演奏活動を開始した。1970年にバンドを設立したが、まだ名前は付いていなかった。
やがて1年の内250日もバスで巡業するようになり(ACN’s Best Touring Band )、運転手は寝る時間もなくなった。ある日、リューベンが納屋に鍵を掛けに行き、蜂に刺された。この時何故かバンドの名前が浮かんだという。AATWと省略されるこの名前の意味は車を運転していて寝てしまう居眠り運転から転じて、注意を払っていないとの意味になる。米国の俗語辞典に載っているらしい。
●レイがこのグループをボブ・ウィルスのスタイルを継承させて創立したが、以来カウボーイ・ソングの味を加えながらも活動してきた。保守的でありながらも時として聴かせる革新的なサウンドや他に類を見ないユニークなスタイルは、特に熱気のこもるライブ・ハウスで人気が高い。
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2011/08/31
29    東京ヘイライド(29) レス・ポール&メリー・フォード    真保 孝
●昨2009年も多くの人を天国に送った。いずれも僕たちに音楽の楽しさを教えてくれた人々だった。8月13日、肺炎でレス・ポールが鬼籍には入った(94歳)。ギター・プレイヤーの頂点に立った彼の出発点が、カントリー音楽にあったことは誇らしく、また嬉しいことだ。今回はその彼の成功の側面を支えたメリー・フォード夫人について書く。
 
●メリーを名乗る前の彼女の名前は、アイリス・コーリン・サマーズと云った。若く美人の彼女は1940年代に西海岸で凄い人気の歌手だった。20歳まではソロで、その後「サンシャイン・ガールズ」としてチームを組み、これまた人気のジミー・ウィークリーの番組では欠くことの出来ない存在であった。
 
●陸軍から除隊したジーン・オートリーは早速自分の番組「メロディ・ランチ」を復活させた。クリーフィ・ストーンの番組からメリーを引き抜いた。ジーンと共に各地をまわった彼女は、遠く離れた家族が恋しくて泣いたという。今この当時の彼女の歌声を聴こうとしても、残念ながら、音盤は残されていない。
 
●1945年のある日、彼女はレスからオーディションの電話を貰った。高名なレスから誘いに胸は高鳴り、1940年型のプリモスに乗り込むと、レスの自宅に車を走らせた。着いてみると、レスは作業衣を着て自宅前の庭で草刈りをしていた。庭師と間違えたコーリンは「すみません。レスさんにお会いしたいのですが」。「あそこの奥にあるガレージに行ってみな」。やがて間もなくレスが決まり悪そうやってきた。背が高く、もっとスマートな男性を想像していたのでコーリンは失望を隠せなかった。
 
●ブロンドの髪はしっとりと濡れて肩まで流れ、21歳の若々しい均整のとれたスタイル、声はヒルビリー・ヴォイスでコンビとしては申し分なかった。ひとつの問題はすでに名前が有名であったことだ。解決策は新しい名前をつけることだった。フォードという名前はレスが電話帳をめくり、自動車王のヘンリー・フォードの名前から取られた。
 
●1949年正式にコンビになった二人は町から町へ巡業する間に、互いに離れがたい虜になっていった。レスは初めてあったときから恋に落ちたと、語っており、何回も何回も執拗にコーリンにデートの電話をかけた。実は彼女には恋人がいたのだ。「フォイ・ウィリングとパープル・セイジ」のフォイであっが、彼には妻がいた。しかし同様のレスは前夫人のヴァージニアと離婚が成立した。二人はその年の12月29日、ミルウォ−キーの裁判所で僅か15分間のあわただしい式を挙げた。その日はよく晴れ渡っていたが、肌寒い日だった。メリーは地味な色合いのハイ・ネックのワンピース、髪には一輪の花がさしてあった。レスが33歳、メリーが25歳だった。
 
●レスがメリーに電話を入れる前にはエピソードがあった。レスが自宅のガレージを改造してスタジオを造る時、録音機械のテストを助けてくれたのはエディ・ディーンであった。この時レスは自分のNBCの番組に女性歌手を加えたいとエディに希望をもらした。「レスが探している歌手のタイプを聞いたら、これはコーリンしかいない、と思ったね」(エディ)。
これには他に紹介者はジーン・オートリーだとの説もある。「レス、君の番組にぴったりの歌手を知っているよ。彼女は現在トリオで歌っているけど、今度紹介しよう。気に入ると思うよ」(ジーン)。結婚したした後のふたりの活躍については、又の機会に譲ろう。
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2011/08/31
30    東京ヘイライド(30) ボブ・ウィルス      真保 孝
●”San Antonio Rose”。ボブ・ウィルス。1915年のある日、10歳になるボブ・ウィルスはドキドキしながら、父のダンス・バンドのフィドラーとしてステージに上がる時間を待っていた。近隣のアマチュア・バンドでの経験はあったが、父が率いるバンドへの参加には緊張のあまり、胃がきりきりと痛む思いであった。
 やがてステージに立った少年を「何をやらかすか?」と、観衆は疑い深い目で見ていた。ボブは父から借りたフィドルを手にすると、その日のために練習してきた観客が喜びそうなスタンダードな曲を弾き始めた。
●少年時代のボブは、毎晩自宅のポーチで古いカントリー・ナンバーを彼なりに新しいものを加えることに、工夫を凝らしていた。14歳の時、ボブは家を離れて音楽修行の旅に出た。大都会、田舎の町、白人、黒人、ジャズ、ブルースなど色々なバンドに参加して音楽的なセンスを磨いた。大衆の需要に応えた彼の音楽にはこの時の体験が生きている。マール・ハガード、レイ・プライス、アスリープ・アット・ザ・ホィール、近くはジョージ・ストレートなどが彼の影響を受けて、私淑している。
●ボブの本名はJames Robert Wills、祖父と父はフィドラーだったし、彼もその道を選んだ。1932年、ビクターと契約、3年後の1935年にオリジナル「Spanish Two Step」を録音した。テックス・メックス・ダンスやスパニッシュ音楽の影響を部分的にかなり受けていたので、テキサス、オクラホマ地方ではよく売れたが、地域的に限定した売れ行きで、大きな人気が出なかった。
それからさらに3年後のある日、コロムビアのA&Rマンであるアート・サザレー(1889〜1986)から、何か新しい曲の提出を求められた。
●話を少し戻して、ボブはまだ世に出ない頃、ニューメキシコのロイと言うところで床屋を開業、夜はダンス・バンドの演奏と言う掛け持ち生活をしていた。ロイにはメキシコ人が多く住み、当然彼らの踊りやすい音楽が求められた。「Spanish Two Step」はそのような背景から生まれた曲であった。
●アートはこの曲をすでに聴いており、「このような曲が作れないか?」と頼んできたわけだ。ボブは肩をすくめて「作れないことはないが。すぐには無理だ。少し時間を呉れないか」「いいとも、それじゃー、予定する録音のマスター・ナンバー用に、そうだなー、仮の曲名”San Antonio Rose”とでもして空けておこう」。
しばらくして「メロディは完成させたんだが、いい曲名が浮かばないんだよ。何か名前を考えてくれないか、アート?」(ボブ)。「困ったナー、それじゃ、やはり仮の名前の”San Antonio Rose”でどうだい?」(アート)。「まあ、いいだろう。よし、それで行こう」(ボブ)。
●こうして世に出た”San Antonio Rose”は当然器楽ナンバーで歌詞が付いていない。が、ダンス・ナンバーとして人気を集めて、1939年には全米的なヒットになった。するとニューヨークのアービング・バーリーが経営する音楽出版社から版権買いの引き合いが来た。折り返し送られてきた楽譜を見たバーリーは「歌詞はどこにあるんだい?」「そんなものは始めからないんだ」「歌詞の無いシート・ミュージックなんか駄目だ。商売にならん!」。かくして版権料の300ドルは宙ぶらりん。ボブはトミー・ダンカン、エヴァーレット・ストーンなどのバンド・メンバーと相談して歌詞を考えた。こうして考えに考え、迷いに迷って書き上げたのが、現在歌われているものだ。
更新日時:
2011/08/31
31    東京ヘイライド(31) パティ・ラブレス       真保 孝
●今は昔、「故郷に錦を飾る」と云う言葉があった。かって功成り、名を遂げて生まれた町に帰るのは、ひとつのステータスであった。アメリカ人は出身州を大事にする。米国には各地に有名になった歌手の名前をつけた街通りは沢山にある。
パティ・ラブレスの故郷ケンタッキー州パイクヴィルには、彼女の名前が付いた「Patty Loveless Drive 」がある。有名なのはルイジアナ州知事を2回勤めたジミー・ディビスの名前を付けた橋が彼に地元にあったことを記憶している。たしか「サンシャイン・ブリッジ」だったか?
 
●美人には二通りある。近寄りがたい美人と、親しみやすい美人である。親しみやすい美人で、名前も素直?な彼女のファンである。その彼女も今年で53歳になる。これまでに単発的だが、第1位曲を5曲、ベスト10は14〜5曲出している。名前が好きだと書いたが、ラブレスというのは、高校を卒業してナッシュヴィルに出てきたときポーター・ワゴナーの事務所のドアーを叩いた。才能を認めたポーターは、ウィルバーン・ブラザースを紹介した。資料によると、彼女はロレッタの家系(クリスタル・ゲイル、ペギー・スーなど)とは遠い従姉妹関係にあるらしい。このよう彼女の音楽のルーツはケンタッキーの山裾にある。
 
●さて、ウィルバーンは丁度この時、ロレッタ・リンが独立して、その後任の女性歌手を探していた。話がうまくつながり入団したが、ここのドラマーと恋に落ち、結婚した。19歳の時である。ラブレスという名前はこの時旦那の名前Terry Lovelace( Loveless )からである。ちなみに彼女の本名はPatricia Ramey。
 旦那の影響からか結婚後、ノース・カロライナに移り、ロック・グループとして演奏を7年間ほどしている。兄のロジャーの忠告で離婚してナッシュヴィルに戻ったが、これは正解。初のトップ10が入ったのは「If My Heart Had Windows 」で、これはかってのジョージ・ジョーンズのヒット、リバイバル曲(1967)である。
 
●パティは8人兄姉の独りとしてケンタッキーで生まれたが、高校卒業後、兄のロジャーに誘われて、14歳の夏休みに上記のナッシュヴィルに出た。この時彼女は既に30曲余の自作曲を持っていた。
オープリー・デビューは1988年6月11日、28歳の時である。蛇足だが、彼女が生まれたパイクヴィルからは彼女の1年前にドワイト・ヨーカムが生まれている。互いに面識があり、高校生活も一緒だった可能性もある。
その一つの証左に1990年にドワイト・ヨーカムが出したアルバム「If There Was A Way」(Reprise 26344 )の中で、ふたりが「Send A Message To My Heart 」をデュエットしている。
 
●すでに2010年春のツアーが予定されている彼女の新作アルバムが昨年9月に出た。2001年の「Mountain Soul 」(Epic)に次ぐモノで、「「Mountain Soul U」(Saguaro Road)であり、噂では前作よりも好評のようだ。プロデュースは1989年2月に再婚したエモリー・ゴーディ.Jrである。
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2011/08/31
32    東京ヘイライド(32)  ジミー・C・ニューマン / ジョニー・ロドリゲス    真保 孝
●ジミー・C・ニューマン。1995年の秋、往年の大ヒット「Cry, Cry Darlin’」(1954)で知られるジミーが、生まれ故郷の町から名誉のキイを授与された。市庁舎の壁には彼の名前が刻まれた。本名はJimmy Yeve Newman で、ジミーはステージ・ネームで、ミドル・ネームのCはケイジャン(Cajun )を意味している。
これから想定されるように、生まれはケイジャン音楽の本場、ルイジアナ州で地元のルイジアナ・ヘイライドを経て、オープリーにデビューした。若き日の彼に影響を与えたのは、ジミー・ロジャースであり、カーター・ファミリー、ボブ・ウィルスであった。
プロの出発は土地柄ケイジャン・バンドでフランス語で歌ったが、ヒルビリー・ソングは英語で歌った。両方の分野で活躍したジミーの次のヒットは、翌年のダーリン・シリーズの「Blue Darlin’」(1955,第7位)だった。 「A Fallin Star」(第2位、21週)はドット在籍の最後の曲だったが、この3曲が彼の3大ヒットとされている。次のレーベルはMGMであった。今年83歳になる。
●ジョニー・ロドリゲス。1970年代の始めに売り出したメキシカン系のエキゾチックな甘いマスクの歌手、日本でも女性ファンから人気を集めた。73年から74年にかけてのヒットの連発はもの凄かった。連続して第1位曲が3曲、それも2回も続いた。 レーベルがマーキュリー、エピック、キャピトルと変わり、1989年、最後のヒットは「Back To Stay 」(78位)だった。
●半ば忘れかけていたその彼が1995年、ニュースを賑わした。ウィリー・ネルソンの娘のラナとテキサスで結婚式を挙げたことからだ。オースチンから4マイルほど離れたウェスタン・タウンの教会で、式には150人ほどが祝福に集まった。ちなみにこの町はウィリーが建設した町で、陰でウィリーも応援していることが分かる。
 当時、ジョニーは44歳で若くはない。ラナの年齢は分からない。フレディ・フェンダーと共にメキシカン系歌手としては最も成功したひとりであるが、4部屋しかない家で、国境の近くで生まれた。少年時代に父親が癌で、カントリー音楽を教えてくれた兄が自動車事故の重なる不幸の中を過ごした。18歳までに刑務所生活を実に4回も経験した。この刑務所生活の中で歌とギターを修得した。
●転機は20歳の時に聴いたトム・T・ホールとボビー・ベアーの歌だった。トムを頼って片道だけの切符でナッシュビル行きのグレイハウンド・バスに乗った。認められて、トムのバンド「Storytellers 」のリード・ギターに採用された。チャート・デビューの「Pass Me By ( If You're Only Passing Through ) )が出たのは、翌1972年だった。
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2011/08/31
33    東京ヘイライド(33)  メル・テリス / パム・テリス    真保 孝
●親子で活躍している歌手は数多いが、メル・テリス(父)とパム・テリス(娘)はそのうちの一組。多くの例にもれずここでも子供が親を凌駕するほどに成功したとは言いがたい。パムはメルの最初の妻ドリスの子供で8歳の時に父とオープリーのステージに立っている。
 「このとき私と妹弟の4人一緒だったけど、本当に緊張して、エルヴィスのように足がびくびくと震えて痙攣してしまったわ」(パム)。
●しかし10代の頃は、カントリー音楽に対しては反逆的で、彼女が最初に目指したのはロックやポップ、ジャズ畑(ピアニスト)だった。入学した州立テネシー大学もノックスビルでロック・バンドに入り活躍するなど、結局退学している。
 16歳の時に自動車事故で大怪我をして、顔を30ヶ所も縫う大手術をした。現在一見人工的にも見える美貌はその時の後遺症かも知れない?彼女の強みは歌だけでなく、父親譲りの音楽性で作曲に強いことである。ダン・シールズ、リーバ・マッキンタイヤー、コンウェイ・トゥイッテなどにヒット曲を提供している。
●やがてナッシュヴィルに戻り、カントリーでのチャートデビューは27歳の時の「Goodbye Highway」だった。ワーナーからレーベルを変えてアリスタ(1990)に移ってから芽が出てきた。これまで各賞にはノミネイトまでは入るが、受賞には至っていない。娘と言っても結婚もして今年53歳になる。「ナッシュヴィルで多くのオープリーの歌手たちにも会い、カントリー音楽の素晴らしさも分かってきた。他のジャンルとの違いも私なら解決できる。両者の橋渡しの役もして行きたい」(パム)。
更新日時:
2011/08/31
34    東京ヘイライド(34)  リッキー・スキャッグス    真保 孝
●ブルーグラスの分野からカントリー音楽にトラバーユしたリッキー・スキャッグスの快進撃は1982年の1月から始まった。「Crying My Heart Out Over You」「I Don’t Care」「Heartbroke」と、以下すべて連続して第1位に7曲をヒット・チャートに送り込んだ。彼はそれまでブルーグラス系のアーチストとして活躍をしてきたのだが、一転、カントリー畑に鞍替えをした結果の成績であった。引き金になった彼の後に続いたブルーグラス系の歌手の台頭もめざましいものがあった。
 
●ブルーグラスをルーツにカントリーの畑で活躍している歌手は彼の他にも多数いる。そんな彼ら(彼女ら)は時々、古巣に回帰してブルーグラスのアルバムを出す。前歴を知らない人は、「おや?」「何故?」と不思議がる。
 リッキー(56)のルーツは1970年代のラルフ・スタンレーのスタイルを目指しているように思える。
 彼はブルーグラス・ステーツと言われるケンタッキー州、ローデルの生まれだ。5歳の時からマンドリンを弾き始めた。1969年、15歳の時にスタンレー・ブラザースのバンド「クリンチ・マウンテン・ボーイズ」に参加、20歳でカントリー・ジェントルメンに参加と言う凄いキャリアーの持ち主だ。
●その彼が一念発起してカントリーに方向転換したのは26歳の時だった。以後1986年までの間に、実にトップ10ヒットを13曲、うち第1位曲を10曲という偉業を残した。ブルーグラスをまだマイナーな分野と見ていたカントリー界の人々をあっと云わせた。その彼がビル・モンローの他界を機会に再びブルーグラス界に戻ってきた。
●「あの時点で、風向きが変わった。確かに風はトラディショナルな方向に吹き始めた」とするリッキーの予言は、いまの現状からして正しかっただろうか?1997年に全力を傾注した「Bluegrass Rules」なる素晴らしいアルバムをリリースした。これはその年のグラミー賞のブルーグラス・アルバム部門にノミネートされた傑作となった。
●再びリッキーは語る。「こういった回帰現象は10年か、15年置きぐらいに周期的にやってくるものだ。僕がナッシュヴィルへやってきた1980〜81年頃、古いサウンドがもてはやされていた。あの頃、人々はスティーブ・ウォリナーやクリント・ブラック、ジョー・ダッフィーなどを好んでいた」。温故知新、流行は繰り返す、この世界も別ではないようだ。
更新日時:
2011/08/31
35    東京ヘイライド(35) アリソン・クラウス       真保 孝
●ことにこの分野における女性陣はこれまで誠に狭き門であった。アリソン・クラウスの出身母体となったブルーグラスのジャンルに於いても、その活躍は男性陣に押さえられて? カントリー音楽以上に、パッとしない時代を永く続けてきた。
最近、あまり話題に登らないのが残念だが、アリソン・クラウスはその壁を突き破った独りである。1995年の夏現在で、100週間を超えて、驚異的な売れ行きを示したアルバム「Now That I’ve Found You :A Collection」( Rounder 0325)は、いまだに語り草だ。
 
●当時、そのクラウスが住む自宅が定期観光バスのルートに組み込まれ、人混みで大変な迷惑がかかった。地元紙のシカゴ・トリビューンによれば、あまりの沢山の観光客が押し寄せるために、道路はぬかるみ、庭はゴミで溢れ、まわりはタバコの吸い殻で一杯、おまけに安心して洗濯物も干せない有様になった。物見高い、人の心は洋の東西を問わず、同じようである。
 
●名前から推測して、ドイツ系の移民が祖先と思われるクラウス(Alison Kraus )の魅力は、トラディショナルな味わいを残しながらも、独特の滑らかな歌声がそれを嫌味なく同化させている。持ち楽器はフィドルだが、唱法もしっかりとした技量に裏打ちされて、安定感を持っている。そして何よりも流行に媚びずに、自己のスタイルを崩さないのがよい。
 
●少女時代から両親から楽器に対する興味を植え付けられて育った。5歳でフィドル、12歳でバンドを結成し、周辺のフィドル・コンテストを総なめにした。14歳の時に彼女のデモテープを聴いたラウンダーのオーナー、ケン・アーウィンはその素晴らしい才能に唖然として、しばし声が出なかったという逸話が残されている。
 
●直ちにラウンダー・レーベルと契約、第1作「Too Late To Cry 」(1987)のセッションには破格のサム・ブッシュ(マンドリン)、ジェリー・ダグラス(ドブロ)などそうそうたるサイドが参加した。続くアルバム「Tow Highways 」では自分が結成したバンド「ユニオン・ステーション」がバックを勤めた。それから5年後の1982年は彼女にとってさらに飛躍に燃えた年になった。アルバム「Every Time Say You Goodbye」( Rounder 0285 )はさらにバンドとのコンビネーションを発展させた会心作となった。
 
●オープリーへの登場は22歳の時で、この時のステージ紹介は大先輩のジム・アンド・ジェッシーが務めた。ブルーグラス系女性歌手としては最も若い歌手だろう。最近、レーベルはラウンダーを時々離れて、他のレーベルでも録音している。
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2011/08/31
36    東京ヘイライド(36) アン・マレー      真保 孝
●カナダでのオリンピックが終了した。テレビ中継の開会式でアン・マレーを見た人がいた。カナダ出身の歌手はほかにもいる。思い出すのはまず、いかにもカナダ人らしい鷹揚としたウィルフ・カーターの存在だ。ご存知苦節10年、重鎮のハンク・スノウ、ステージではいつもテンガロン・ハットをかぶり、カウガール・スタイルで決めている素晴らしいテリー・クラーク、反対にファッショナブルなのがシャナィア・トゥエインだ。他にK.T.ラング、サラ・マクラクラン。女優ではご贔屓のセリーヌ・ディオンもいる。
●アンのブレークは1970年の「Snowbird」でやって来た。カントリー音楽だけでなく、ポップスでも大ヒットして、その名を世界に広めた。この時彼女は24歳だった。ハンク・スノウと同じノヴァスコシア州(バンクーバーと反対の大西洋側にある)の小さな鉱山街で生まれた。
父は町医者、母は看護婦、5人兄弟で、娘は彼女だけだった。9歳になったある日、自動車の前席にいて彼女の歌を聴いた同乗の叔母が、母親のマリオンに「ちょぅと、この娘の声は素晴らしいよ。歌手にしたら?」と言った。6歳でピアノを、15歳でクラシック唱法を学んでいた。
●彼女がその頃聴いていた歌手は、バディ・ホリー、コニー・フランシス、クラシック・カントリー、フォーク・ソングなど幅広かった。好みはパティ・ペイジ、ビング・クロスビー、ローズマリー・クルーニーなどクルーナー系で、それがハートウォーミングな彼女の今日のスタイルを形成している。州都のハリファックスの大学に学び、歌手の前職は学校の体育の先生だった。スノウも少年時代を過ごしたこのハリファックス市のCBSテレビ局の「Sing Along Jubilee 」に出演し、この番組を担当していたのが後に夫君になるビルだった。
 
●「Snowbird」から4年後、彼女の本当ヒットは「He(She ) Thinks I Still Care」で、堂々の第1位 (17週間 )。これは1962年のジョージ・ジョーンズのリバイバル(女性版)だ。
 終わりに彼女のアルバムを1枚紹介しよう。「Country Croonin’ Timeless Country Classics」で収録曲はI Fall to Pieces / Anytime/ Tennessee Waltz / A Fool Such As I / Make the World Go away / Bye, Bye Love /For the Good Time/など全30曲(2枚組)。
●「このアルバムはきっと私のキャリアーのハイライトになるわ。私の知っている曲の全てを歌いました。エヴァリー兄弟の曲は少女時代に彼らのショウを観てすっかりファンになりました。「Oh、Lonesome Me」はかってハリファックスで歌った想い出の曲です。カナダで育った私はオープリーの中継を聴く機会はありませんでした。でも、ポップスの番組を通じてキティ。ウェルスのことは知っていました。もちろん、スノウが我が町の出身であることもよく知っていました。「Singing the Blues 」はマーティでなく、ガイ・ミッチェルで聴いていました」(アン)。
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2011/08/31
37    東京ヘイライド(37) レイ・チャールズ      真保 孝
●芸能人たちにとって大統領からホワイト・ハウスに招かれて歌う(演奏)することは名誉なことに違いない。カントリー音楽でもニクソンとロイ・エイカフの「ヨーヨー・ゲーム」を初めとして交流が盛んだ。ソウル・シンガーのレイ・チャールズが少年時代にカントリー音楽と交差したことは後で書くが、そのレイのホワイト・ハウスでのエピソードが残っている。
盲目のハンディの上に人種差別という2重苦を背負ったレイはステージ以外では意外と冷たい態度を見せる。コンサートが終了した後、ある政府の高官がサインを希望した。「悪く思わないで呉れ。先日もホワイト・ハウスに招かれて、大統領からサインを頼まれたけどお断りをしたんだ。あなただけではなく、私はサインをしない主義なんだ」。
●15歳の時、レイはフロリダのタンパでサザーン(カントリー音楽系?)の音楽バンド「The Florida Playboys 」にピアノとリード・ヴォーカルで参加したことがある。その時、ヨーデルも習ったという。
このあたりが後日(1960)、レーベルをアトランティックからABCパラマウントに移籍リリースしたカントリー・アルバム「Modern Sound in Country & Western Music 」(1962)に関係するのではと、勝手に推測をする。このアルバムはベスト・セラーになり第2集も発売された。
 
●「ある日、この企画を言いだしたとき、プロデュサーを初め関係者たちはこぞって反対した。黒人のお前が白人のカントリー音楽を歌うなど、これまでのフアンの多くを失うことになるぞ!と」(レイ)。
 レイの依頼で会社側が集めてきた250余曲のカントリー音楽のリストの中から収録する曲を自身で選曲した。選ばれたのは「Bye, Bye Love」「Born to Lose」「Half As Much」「I Love You So Much It Hurt」他である。
●その中で大ヒットになった「I Can’t Stop Lovin’ You 」がある。この曲は作者のドン・ギブソンが最初からタイトルを決めて気に入って書き出した作品だ。レイが選び出したのも、実にこの曲の最初のフレーズに惹かれたからだ。
「カントリー音楽のアルバムを出そうと考えたのは、チャーリー・プライドになりたかった訳でもないし、まさかカントリー音楽歌手に転向する気もなかった。ただ、カントリー音楽の名曲を私なりの解釈で歌ってみたかったからだけさ。この曲(I Can’t Stop Lovin’ You )だってカントリー音楽風ではなく、ちゃんと自分なりに歌っているよ」(レイ)。
●功績によりジョニー・キヤッシュ・ショウ(1970)やオープリーの創立58周年記念のステージにゲストとして出演した。レイは2004年6月、カリフォルニアの病院で肝不全のため他界した。享年73。
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2011/08/31
38    東京ヘイライド(38) マルティナ・マクブライド    真保 孝
●マルティナ・マクブライド(Martina McBride)が1992年、黒みがかった眼とロング・ヘアーで、チャート・デビューしたときの美人度と将来性は言いようがなかった。果たして3年後には「Wild Angels」を第1位(20週間)に送り出した。現在この曲をふくめて「A Broken Wing」(25)、「Wrong Again」(26)、「I Love You」(33)、「Blessed 」(32)が彼女の代表作となっている。( )内数字はチャート週間数で、すべて第1位。
●この美人歌手が現在の夫、ジョン・マクブライドと結婚したのは1988年、22歳の時だった。当時彼女はウィチタの田舎のカントリー・バンドで(臨時歌手)歌っていたが、当地に巡業にやってきたのがガース・ブルックスだった。ガースの巡業コンサートで音響の技術者(PA)として働いていたのがジョンだった。知り合った二人は共に働いたが、マルティナは会場の受付でガースの名入りのTシャツの売り子だった。腕の良いジョンは現在、ナッシュヴィルで最も忙しい技術者として会社を経営している。今年43歳を迎える彼女の最新のヒットは2007年の「For These Times」(第35位)である。
●「音楽界で成功するには?」。アメリカのある音楽雑誌が飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃のガース・ブルックスに聞いた。
 「第1にはまずカレッジを卒業することだ。何をするにもこれは最低限必要なことでベースになる。4年間の学習が私を成長させてくれた。次に、もし君がカントリー音楽界で成功したいのなら、ナッシュヴィルに来るべき。人々はそこでチャンスを与えてくれるだろう。君は働きながらじっとそのチャンスを待つべきだ。これらは私が実際に体験、実践してきたことだ」。
●ガースは言葉の通りオクラホマ州立大学を卒業している。専門はマーケティングで学位を修得している。ナッシュヴィルには?2回挑戦している。1回目は1985年で、この時は23時間も雨に打たれて、失意の中を故郷に戻った。1987年、2回目の挑戦。この時は前の夫人サンデイと知り合い結婚した。以前のバンドを解散、新しいバンドを結成、1989年、遂にオープリーにデビューした。ちなみに再婚した現在の夫人は人気者だけに大きく報道されたトリシア・イヤーウッドである。このロマンスについては、また稿を改めよう。
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2011/08/31
39    東京ヘイライド(39) メイ・ボーレン・アクストン     真保 孝
●メイ・ボーレン・アクストンをご存知?女性作曲家でナッシュヴィルでは「曲造りの職人」と言われている。有名にしたのはエルヴィス・プレスリーの世界的な大ヒット曲「Heartbreak Hotel 」の合作者の独りであることからだ。息子のアクストンもカントリー歌手である。
 
●1955年の秋、恒例の全米のDJ たちが一堂に会するコンヴェンションがナッシュヴィルで開かれていた。エルヴィスのマネージメントを務めるトム・パーカーの姿もあった。この年のビルボードの人気投票で「最も将来性のある新人歌手」部門で25万票を集めたエルヴィスは、大勢の人々に囲まれて忙しかった。
 そこへ以前トムから依頼されていたメイ・ボーレンが自信の自作曲を持ってやってきた。「エルヴィス、この曲はもしRCAと契約できて歌ったら、必ずミリオン・セラーになるわ。最初にシングルで発売するなら、提供してもいいわよ」(メイ)。人々の対応に忙しくて、始めは相手にしなかったエルヴィスをボブとメイは外に連れ出して曲を聴かせた。
 
●エルヴィスは改めて聴いてみるとすっかり気に入ってしまった。「凄いよ、メイ。もう一度聴かせて」と何度も聴き返した。曲の内容は、失恋の若者が集まるホテルが主題であった。エルヴィスは曲を全部覚えてしまった。「決まりだ。これは次の曲だな」、ボブとエルヴィスは共にうなずいた。自分の思うように、ことが運んだメイは黙って二人をそのままにして置いた。
 
●「Heartbreak Hotel 」はメイとトミー・ダーデンと言う人の合作である。ことの始まりはトミーがある日読んだ、マイアミの地方新聞「マイアミ・ヘラルド」に載った「淋しい通りを歩く」というメモを残して自殺した男の記事がヒントになった。
「この淋しい通りの先にハートブレーク・ホテルがあると考えたらどうかしら?とトミーに提案したんです」(メイ)。「そうだ、親戚や親しい友人の誰からも看取られないで死んで行った孤独な男の気持ちを歌詞にしたら、これは凄いブルースになるぞ」と思いました」(トミー)。
 
●テキサス生まれのメイは高校の教員上がりで、フロリダ州の広報担当として働いていた。時々非専属で新聞や雑誌に記事を書いていたが、その中で「何かカントリー音楽の記事を」と頼まれ、まったく未知のカントリー音楽の世界に首を突っ込むことになった。そこでナッシュヴィルに出掛けて、ミニー・パールの紹介でフレッド・ローズと知り合い、やがてトム・パーカーやハンク・スノウの広報も務めるようになった。
1997年4月、メイは自宅のバスタブの中で死んでいるのが発見された。享年83歳。CMAはその弔電の中で、「最も素晴らしいカントリー音楽の宝石」とその死を惜しんで、綴った。
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2011/08/31
40    東京ヘイライド(40) アーネスト・タブ       真保 孝
●1940年代の始めに、土の香りとモダンなエレクトリックギターを組み合わせて、独自のホンキィ・トンク・サウンドを創造したのはアーネスト・タブであった。そのタブがある晩、酒場でステージ演奏を終えたとき、カウンターで飲んでいた男が声をかけてきた。 「おい、兄さん、ジューク・ボックスからから聞こえてくる歌手よりも、今のお前の方が上手かったぞ」「それは、どうも...」。一体どんな歌手かとよく聴いてみると、ジューク・ボックスからの歌声は、何と自分のレコードからだった。
●タブが生涯の師としたジミー・ロジャースの夫人が、若き日のタブに、「あなたの素ッ人ぽさがいいのよ。決して上手に歌おうなんて思っちゃ駄目よ。観客はそんなことを望んじゃいないわ。ジミーも生前、いつもそれに気をつけて歌っていたわ」とアドヴァイスした。
タブのよきフアンであった南部の多くの労働者階級の観客は、タブの乾いたような、突き放すような素っ気のない歌い方が気に入っていた。長身で痩せた身体からひねり出すような歌声は人々の心を捕らえた。
 バリトンで母音を意識的に伸ばしてゆっくりと歌い、いつも人生の悩みを抱きかかえるような歌詞が流れるとき、誰も心一体となり自然と落ち着くのだった。
●「1941年当時、私はテキサスのフォートワースのKGKOと言う放送局で働いておりました。給料は週給わずか10ドル、だから余暇をドラッグ・ストアーで働き、75ドルを稼ぎました。そんなある日、街にディブ・キャップ(デッカ)が偶然録音機を持ってやってきました。
 その時、余暇を見て作曲した曲を4曲ほど持っていました。聴かせると、ディブはそのうちの1曲” I Wonder Why You Said Goodbye ”に興味を示してくれて、第1回目はこれに決まりかけました。しかし私は「ディブ、申し訳ないんだが、私としては” Walking The Floor Over you “の方が気に入っているので、やりたいのだが...」。ディブは暫く考えていましたが、同意してくれました。この曲は予想通り大ヒットになったので、以後、ディブはタブを信用するようになり選曲の選定を任されるようになった。
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2011/08/31
41    東京ヘイライド(41)ジョニー・ラッセル、ロイ・ニコルス     真保 孝
●チット・アトキンスが亡くなった2001年6月30日の数日後の7月3日、二人の作曲家、プレイヤーがひっそりと亡くなった。
●一人はジョニー・ラッセル(61歳)で、一人はロイ・ニコルス(68歳)。ロイはベーカーズフィールドの病院で、死因は心臓疾患だった。彼は以前(1965 年頃)、マール・ハガードのバンド「The Strangers 」でリード・ギターを担当していた。その存在はバック・オーエンスにおけるドン・リッチのような立場で、マールはその死を悼み追悼のコンサートを開いたほどだった。
マールのバンドに来る前、若干まだ16歳のロイはローズ・マドックスのバンドで信頼されるギターリストとして働いていた。1963年頃レフティ・フリツェルとツアーを共にした。レフティが録音したあの名盤「Sings The Songs Of Jimmie Rodgers」のセッションにも参加していた。
 
●さてジョニー・ラッセルは歌手兼作曲家として活躍したが、歌の方は成功したとは云えなかった。彼の偉業のトップは、バック・オーエンスの「Act Naturally」(1963年、合作)の作曲である。その名声をさらに上げたのは、1965年にこの曲がビートルズによって取り上げられて世界的に知られるところとなった。
その彼が病で弱った巨体(小錦クラス)を車椅子でオープリーのステージに現すと、観客の声援は凄かった。彼は持病として、あの恐ろしい糖尿病と心臓病の持ち主だった。その余病が致命的に遂に巨体を支える足を浸食した。4月17日、ナッシュヴィルのバプティスト病院で両足を切断手術したが長くは持たなかった。
 見舞いに行った友人の話では、医師からもう、好きなもの食べてよいと言われ、故郷の名物「Catfish」を食べたいともらしていた。「Catfish」とは「なまづ」のことでフライにすると美味しい。ナッシュヴィルにも専門店があり、フライド・ポテトと盛り合わせて人気がある。
 葬儀の日は生憎、チェットの葬儀と重なり、人々の流れはライマン公会堂に集中した。現地でもあまり大きく報道されなかったのは残念だった。他方、チェットの葬儀の模様は全米にテレビ中継され、地元紙「テネシーアンズ 」はトップ記事として前例のない全3ページにわたって大々的に紙面を飾った。
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2011/08/31
42    東京ヘイライド(42) トム・T・ホール       真保 孝
●トム・T・ホールのことを「カントリー音楽のシェークスピア」だと言ったのはウィリー・ネルソンだった。厳つい顔をしているが、カントリー音楽界には珍しい知識人でインテリだ。煉瓦職人を父に、この業界に入る前、15歳で裁縫工場、軍に入隊(朝鮮戦争)、ラジオ局のDJ,など転々と職業を変えた。だが何処の街へ行っても図書館に通い歴史書や著名な小説を読んで、ヒントをメモに残した。ニック・ネームの「The Story Teller 」には誰も異存はない。
 
●作曲家として成功を続ける彼のバックには、その頃の蓄積が生きている。ラジオ局ではわずか1分間のCMをどうやって造ったら、人々の心を捕らえることができ、最も有効かを研究した。それが今、彼のリスナーの心を捕らえる歌の作詞、作曲の中にも生きている。
「KY、時局(時代)の風を読む」...それが生かされた典型が1968年にジニー・C・ライリーに歌わせて全米的なクロス・オーバー・ヒット(600万枚)になった「Harper Valley P.T.A.」だ。ミニ・スカートをはいた母親のミセス・ジョンソンが保守的なPTAを攻撃する内容で、後日テレビ・ドラマにもなった。
●彼の作曲に対する姿勢は他の人とあまり合作をしないことだ。「仕事は頑固に一人に限るというのが私のモットーだ。作曲は孤独なものだよ」(トム)。気分転換には余暇を釣りや狩に、小説を書くことに使う。これまでに10冊の小説を書き上げている。
大分前にヒットに恵まれなかった時があり、古い友人から電話が来た。「どうして僕が生きていると分かったんだね」(トム)。「君の作ったレコードが家の近くのラジオ局から流れてきたからさ」。流れた曲はアラン・ジャクソンの「Little Bitty 」(1996)第1位、20週間のヒット。
 
●故郷はケンタッキー州のオリーブ・ヒル。「オリーブ・ヒルは小さい町だけれど、魅力的で静かなところだ。8歳で詩を書き、ギターと一緒に旅を重ねた。妻のナンシー・ムーア(デキシー?)とはフロリダで会った。
彼女は小鳥のように歌うんだ」(トム)。11曲を第1位に、トップ10には実に26曲を送り込んだトムは74歳である。カントリー音楽だけでなく、例えばアール・スクラッグスなどにも曲を提供している。今年ナッシュヴィルで開かれた第36回(2月)のブルーグラス保護(維持)協会主催の人気投票でも「ブルーグラス・ソング・・ライター」部門でノミネイトされていた。
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2011/08/31
43    東京ヘイライド(43) アール・スクラッグス      真保 孝
●アール・スクラッグスが夫人のルィーズ・サートン・スクラッグスと出会ったのは、1946年オープリーの舞台で紹介された時である。2年後の1948年2人は結婚した。この年はレスター・フラットとアールが、ビルモンローのバンドから独立「フィギー・マウンティン・ボーイズ」を結成した年でもあった。
ルィーズが育ったのはナッシュヴィル郡ウィルソンの農村。向学心に燃えた彼女は少女時代に玩具のタイプライターで練習をした。現在このタイプはホール・オブ・フェイムに展示されていると言う。
19歳の時に経理を学び、会計士の資格を取得した。1956年頃からアールのバンドのブッキング・マネジメントを始めた。主婦業の傍ら2人のやり方を見ておられなかった。当時、彼らの自宅はテネシー州のマディソンにあり、ここがそれからの彼らの目の回るような音楽活動からの逃れられる唯一の避難場だった。
 
●「あの頃、我々は世界中を駆け回ったよ」。当時74歳を迎えたアールは回想していた。安らぎの場所は我が家にしかなかった。「50年間、よく続けてこられたって...いやー、特別に何もないよ」。だが傍らのルィーズは笑いながら、「あの頃はすべてがうまく回転していたのよ。でも最後は愛情、情熱、相互理解ね」。そうは言ってもその頃、アールは大きな自動車事故に遭っており、その後遺症はいまだに骨盤に残っている。
 
●1960年代の始めになると、折からのフォーク・ブームに乗って大学のキャンパスや中産階級の間にブルーグラスが人気を集めた。この流れに便乗して、レスターとアールを売り込んだ彼女の手腕は見事だった。その一つはテレビ・シリーズの「じゃじゃ馬億万長者」(The Beverly Hillbillies )の主題曲「The Ballad of Jet Clampett 」である。さらに1968年には映画「Bonnie & Clyde 」に使用された名曲「Foggy Mountain Breakdown」が見事に甦った。「Foggy...」は彼らが1949年にマーキュリーに録音し、1968年にコロムビアに再録した曲である。
 
●1968年3月5日は彼ら「Foggy..」が来日した日である。彼らは前日の4日に羽田に到着した。その晩、宿泊先のホテル・オークラの食堂で会うことになった。翌日のステージの打ち合わせである。
若干、猫背気味で小柄なアールとルィーズ夫人が現れた。レスターは飛行機嫌いで疲れて部屋に残った。当時の日本のブルーグラスの状況は15〜20年ぐらい米国の現状に比べて立ち遅れていた。無理はなく、それはカントリー音楽に於いても同じであった。その間、共に邦盤レコードの発売がまったくなされてこなかったからだ。
 
●話は翌日のステージでの演奏曲目の選定に入った。こちらが側が希望した曲目はいかにも古く、今の彼らが演奏している曲は少なかった。「出来ない。忘れた」などと、押し問答が続いた。曲ごとにルィーズが「どう、出来る?」とアールに聞く。田舎オジサンのアールはボソボソと小声でそれに答える。2度と聴くことが出来るか、どうかの機会だ。どうしても譲れない曲、演奏して貰いたいひとつに「Jimmie Brown the Newsboy 」があった。この曲のギターの弾き方を見るために駆けつけたファンは食い入るように観ていた。
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2011/08/31
44    東京ヘイライド(44) エバリー・ブラザース     真保 孝
●1956〜8年頃、ハードなロックがやや下火になってきたが、それをベースにカントリー音楽のメロディックさとリズムを加えたスタイルが芽を出してきた。この時期にこのスタイルを台頭させたグループにエヴァリー・ブラザースがいた。カントリー音楽のお家芸であるドンとフィルの兄弟チームは、ある資料によれば遠くスタンレー・ブラザースやルービン・ブラザースの流れを引いているとも言われるが、彼らに一番強い影響を与えたのは、身近な両親であった。
 
●1956年のある日、マディソンンの町の床屋に一人の男がやってきた。歌好きな店主から現在ナッシュヴィルに売り込みに行っている2人の息子の自慢話を聞かされた。聞かされた男の名前はボードロー・ブライアントで、店主は今は引退したエヴァリー兄弟の父親のアイクだった。
 アイクと妻のマーガレットはかって近郷のラジオに出演するなど、人気のあったチームだったが、成功しなかった。兄弟は父の希望を実現させるべくナッシュヴィルを目指した。一説にはこのために600ドルの資金で売り込みのデモ・テープを作成したという。
 
●ナッシュヴィルではかっての父の縁故で、チェット・アトキンスの紹介を得て、ドンが作曲家としてエイカフ・ローズ音楽出版社と契約できた。この頃、キティ・ウェルズによって「Thou Shalt Not Steal 」が、また他の2曲はジャスティン・タブとアニタ・カーターによって採用された。一方、フィルの方はコロムビアと契約できた。しかし残りの4曲は未発売で2人とも成功には遠いものだった。
 
●床屋で髪を刈った男ブライアントは後にエヴァリー兄弟のヒット曲「Bye, Bye Love」「Wake Up Little Susie」などを書くことになる作曲家であった。ジョージア州生まれでフランス系移民の彼はクラシックやジャズの演奏家として活躍してきたが、後に作曲家に転じて妻と協同作業で成功した。
ブライアントは妻のフェィリスと協同でカントリー音楽の名曲を数多く残した。ブライアンとフェィリスはミルウォーキーのホテルで働いているときに知り合って結ばれた。彼はボート部門で、彼女はエレベーター・ガールとして働いていた。僅か5日で心を通わせた2人はミルウォーキーを去った。
 
●ボードロー夫妻はエヴァリー兄弟にだけでなく、その後多くの歌手たちにヒット曲を提供した。
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2011/08/31
45    東京ヘイライド(45) ルイジアナ・ヘイライド     真保 孝
●人々が集まる場所には数々の交流が生まれる。1950年代のルイジアナ州シュリブポートの「ルイジアナ・ヘイライド」はまさにその典型であった。「スターの揺りかご」といわれたこのステージを目指して各州から腕とのどに自慢の若者たちが群がってきた。ハンク・ウィリアムス、ウェッブ・ピアース、ファロン・ヤング、ジム・リーブス、ジョニー・ホートンなど挙げれば枚挙にいとまがない。
●1962年に生まれた「Wolverton Mountain」はクロード・キングとマール・キルゴアの合作だが、ここを舞台に生まれた大ヒットだ。オクラホマ州生まれのマールは、1950年にはシュリブポ−トにやって来て育った。
やがてここ地元出身でラジオ局のDJをやっていたクロードと知り合った。クロードは以前、リトル・ロックでウェッブ・ピアース、ファロン・ヤングなどと親しいティルマン・フランクスとバンドを組んで、マイナー・レーベルに吹き込んでいた。顔の広いティルマンの仲介でコロンビアと1961年契約がとれた。トップ10ヒットを2曲ほど出した後の、1962年にこの曲ができた。ちなみにティルマンは後日、バック・オーエンスのマネジャーとして来日している。
●この曲の主人公となったクリフトン・クロワーなる人は、アーカンソー州で生活をしていた実在の人だった。ビルボードで第1位を26週間もチャート、あまりにヒットしたので、後にアーカンソー州知事のフランク・ホワイトは、1981年8月7日、「Wolverton Mountain Day 」と任命した。
 マールは母親と祖母がオザーク山脈近郷の出身であったことから、以前からこの地方にルーツとしての興味を持っていた。これが作曲への引き金となった。少年時代から曲造りに興味を持っていた彼は、1952年にはあの「More and More」(ウェッブ・ピアース)を発表している。
●マールは生前の故ハンク・ウィリアムスをよく知る一人であった。初期のハンクのギター・ボーイ、パート運転手も務めた。それ故に、サー亡き後、ジュニァのよき相談相手になり、後見人的な存在であった。多才な人で、作品としては他に、「Ring of Fire 」「Johnny Reb 」(J.ホートン)、「Old Records」(マギー・シングルトン)などを残している。
「Ring of Fire 」は公式にはマールとジュン・カーターの合作となっているが、実はキャッシュの作品だ。結婚前にお金に困っていたジュンの窮状(当時2人は不倫の中)を見かねてキャッシュがその合作権利を譲ったと言われる(キャッシュの前妻ヴィヴィアンの回想記による)。
●マールは2005年に肺ガンを治療中に、心臓麻痺でメキシコで他界した。享年70。作曲家の殿堂入りを果たしていたので、ライマン公会堂で葬儀は行われた。墓はナッシュヴィルの郊外、キャッシュ墓の近く、ヘンダーソンヴィルにある。 一方、クロードは1983年に他界したという記録がある。
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2011/08/31
46    東京ヘイライド(46)ビーチャー“バッシュフル”ブラザー・オズワルド・カービー   真保 孝
●今の若いファンにはまったく認識はないだろう。サイド・メンとして最も知られて人気の高かったオープリーのビーチャー“バッシュフル”ブラザー・オズワルド・カービーがナッシュヴィルの自宅で亡くなったのは、8年前の2002年10月だった。享年90。
 
●1936年、King of Country Music” として名を馳せたロイ・エイカフとスモーキー・マウンティン・ボーイズに入団。ロイが他界した1992年まで在籍した後、ソロ(ドブロ奏者)として活躍したが、癌におかされる1999年までステージに登った。あの独特な大きな(オーバーな)笑い声、ユーモアに溢れて枯れた演技、歌や演奏は古いフアンにはたまらないパフォーマンスだった。
 
●彼は1964年6月にロイと共に来日していた。この年は2月にハンク・スノウ、5月にジミー・ディケンズ、9月にランゾー・アンド・オスカー、11月にマーティ・ロビンスとオールド・ファンにとっては夢のような年だった。
この時のステージで、いまだに眼に残るのはロイと一緒に来た女性歌手ジューン・スターンズだった。当時まだ25歳、世に出るのは4年後の1968年の「Empty House」まで間があり無名だった。薄手の水色の衣装は年輩メンバーの多い(ロイ、61歳、オズワルド53歳)「スモーキー・マウンティン・ボーイズ」の中では、ういういしくひときわ輝いていた。ちなみに彼女は来日最初の女性歌手だった。
 
●オズワルドのバンジョーとドブロがなかったらロイの独特のヒルビリー・ヴォイスは生きなかったろう。疑いもなく彼はバンドのバック・ボーンであった。「ステージの主役はいつも彼と私だった。初めて会ったときから彼と私は親友になった」(ロイ)。
「少年時代を振り返るとき、毎週、ラジオから流れてくるオープリーの中継でオズワルドの演奏を聴くのが楽しみだった」(スクラッグス)。のちのスクラッグスのバンジョーに対する憧憬の遠因はここにあったのかも?
 
●当時テレビ中継はなく、スクラッグスのようにラジオの聴取者たちには判らなかったが、実際にステージを観た観客は道化師としてオズワルドの風変わりな服装にまず驚いた。 次いでそのしゃがれた豪放な笑い声に田舎風のユーモアを満喫することが出来た。履いていた靴も常識以上に大きかった。「あれでどうやって舞台でダンスを踏むことが出来たか、私には今でも説明できない」(スクラッグス)。
 
●丸太小屋で生まれたオズワルドは楽器を独学で、全て耳から修得した。特にドブロは彼がギターを弾いているうちに、金属製の円錐にある共鳴音に興味を持ち、2年をかけてアルミ製のリゾネイターをつけて、1992年に楽器として創案した。これを舞台で演奏してポピュラーなものにした。
通常Oswaldで呼ばれるが、いつの間にかあだ名が付いて、今のように長くなってしまった。Brother(兄弟のような)、 Bashfull (はにかみや)は共にロイが親しみを込めてつけたものだ。
更新日時:
2011/08/31
47    東京ヘイライド(47)カール・スミス       真保 孝
●今年(2010年)1月16日に亡くなったカール・スミスのヒット曲に「もしも、落ちる涙が銅貨であったなら、失恋に泣く私はとっくに大金持ちになったでしょう...」と言う大意の曲があった。原曲名は「If Teardrops Were Pennies 」(1951)で、日本題名はたしかそのままに「落ちる涙が銅貨なら」とつけられた。英語の歌詞には、このように比喩的で、ユーモアのある内容が多い。以前に挙げた「ウィスキー・リバー」(ウィリー・ネルソン)も酒好きがウィスキーの川で溺れる中で、どうか川の水(ウィスキー)が枯れないで、彼女の愛も続くようにと、歌っている。
昔は何にでも余裕があったせいか、このようになかなかオツなタイトルを日本の会社(担当者)も考えた。今は映画の題名にしても骨惜しみをしてそのまま片仮名に直したイージーなタイトルが多く、後世に残る名訳は少ない。
 
●「落ちる涙...」はカールの初めての第1位曲となる「Let Old Mother Nature Have Her Way 」のひとつ前の曲で、第8位で止まったが彼の持ち味が充分に楽しめる佳曲だった。この曲は後に(1962)「Don’t Let Me ・Cross Over 」(第1位)のヒットを飛ばした夫婦コンビのカール&パール・バトラーの旦那さん、カール・バトラー(以下、バトラー。1927 〜1992)の1951年のペンになる曲だ。
話題性もあり、まずドリー・パートン、ポーター・ワゴナー(1973年、第3位)のリバイバルを始め、ローズマリー・クルーニー、カールの妻のゴールディ・ヒル(共に51年)、近くはブルーグラスのリン・モリス(99年)など多くの歌手によって歌われている。
 
●ノックスビル生まれのバトラーと、ナッシュヴィル生まれの奥さんのパール・ディー・ジョーンズ(1927〜1989 )。作曲にも才能のあるバトラーは、ノックスビル時代から下積み時代に同地のラジオ局にいたカールのために曲を提供してきたが、名前が売れ出すと、ロイ・エイカフ、フラット&スクラッグス、ビル・モンロー、タミー・ワィネットなどにも幅広く曲を書いた。面白いことに、妻のパールは出世作の大ヒット「Don’t Let Me...」」が出るまでは夫と共にステージに立つことを厭がった。
 
●また夫婦はノックスビル時代の縁で、12歳の少女時代に次いで、6年後に再度ナッシュヴィルに成功を夢見てやって来た身寄りのないドリー・パートンの無名時代に宿泊先などの世話をした。
この親切が身にしみたドリーが国民的な大歌手になり、大成功後も毎年クリスマスには夫婦に小切手を送り続けたエピソードがある。ドリーがバトラーの「If Teardrops...」をリバイバルさせたのも、こんな縁があったのかも知れない。そんなことを頭に置いてドリー&ポーターのデュエットで聴くのも悪くはない。
 
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2011/08/31
48    東京ヘイライド(48)カール・スミス       真保 孝
●カール・スミスを続ける。オープリーでハンク・ウィリアムスが急死した後、その後継者と噂されたと言われた歌手が数人いた。一般のファンからの評価の最右翼はレイ・プライスだったが、アーネスト・タブのバック・アップを受けていたカールを業界の玄人筋は推していた。当時。カールの立場はトラディショナルとコンテンポラリーの中間に立っていた。
 コロンビア専属となったカールはオープリーと1950年に契約していた。通常それまでオープリーはチャートでシングル・ヒットがなければステージに立つことは出来ないのがしきたりであった。
●ピアー・インターナショナル出版社は、あの故ジミー・ロジャースをスカウトしたラルフ・ピアーの創立になる楽譜出版社である。ここにトロイ・マーチンというタレント・スカウトがいた。このトロイは最初にカールの才能を認めてナッシュヴィルに連れて行って、オープリーのジャック・スタンプに売り込んだ。
結果、オープリーにデビューすることになり、その初ステージはハンク・ウィリアムスの番組「Duckhead Overalls Show 」で、1950年3月のことだった。   歌わせてみて、最初の数週間、ジャックとドン・ロウ(コロンビア)はどちらが契約するか迷ったが、最終的にジャックが契約をし、次にドンが契約を終了させた。それを祝ってハンクがカールのために2曲(曲目は不明)を作ってくれた。
●ロイ・エイカフと同じテネシー州メイナーズヴィルで生まれたカールは、故郷から25マイル離れたノックスヴィルにやってきて、高校時代の夏休みにプロ・バンド(キャス・ウォーカー)のオーディションを受けていた。州知事選に出馬したくらいの大先輩のロイに憧れたわけでもあるまいが、16歳の少年は何が何でも、歌手になりたかった。
高校卒業後、軍隊に入り、除隊。1948年、以前出演したWROL局に戻ってきてここでスキーツ・ウィリアムソンのバンドでベースを担当した。このスキーツの姉(妹?)がモリー・オーディだった。彼女のコネでフレッド・ローズやハンクとはすでに知り合っていた。
●ハンクが他界した1953年の前に、既にカールは「Let’s Live A Little」、「Let Old Mother Nature・v「Are You Teasing Me 」などのヒットを出して、1952年5月チャート・デビューのレイをわずかにリードしていた。
 ルックスではインディアン系の血筋を引くレイに比べて、カールは白人系の美男子、当時のイケメンである。1956年、ジュン・カーターと4年間の結婚生活を解消して、1957年美人歌手のゴールディ・ヒルと再婚してあっと云わせた。現役で活躍中のカーレン・カーター(55歳)は前妻のジュンとの間の娘である。彼女、1990年代中期まで元気だったが、最近の動きは少し淋しい。
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2011/08/31
49    東京ヘイライド(49)エルヴィス・プレスリー     真保 孝
●優秀な競走馬は血統にもよるが、優れた調教師と名騎手がいなければ成立しない。芸能人も才能を認めて育ててくれた人と、巧みなマネジメントをする人がいなければ、厳しい音楽ビジネスの世界を生きぬくことはできない。
 
時代の変わり目に遭遇したという幸運があったとしても、エルヴィス・プレスリーが頂点に立てたのは、サム・フィリップスという育ての親と、売り出しに巧妙なマネジメントを駆使したトム・パーカー・“大佐”がいなければ、南部の一人の歌手に終わったかも知れない。
 
●大佐という呼称は南部地方でよく使われる敬称で、軍隊の階級ではない。業界で辣腕を振るったパーカー大佐についての仕事ぶり評価の「功・罪」は相半ばしている。1955年8月以降から独占的にエルヴィスのマネジャーを務め、1997年1月に他界した。享年87。
 
ある人はその売り込み作戦を褒め称え、ある人はそのずるがしこさを嫌う。少し前までパーカー大佐の生い立ちについては謎(不明)の部分が多かったが、最近少しずつ判ってきた。いつ頃からカントリー音楽の世界に入り込んできたのか?。1940年頃から小屋がけのカーニバルを率いていたパーカー大佐は、そのアトラクションのひとつとして、ロイ、エイカフやミニー・パールなどを呼んでナッシュヴィルとのつながりを深めていた。
 
●ピー・ウィー・キングのバンドも呼ばれたが、エディ・アーノルドがキングのゴールデン・ウェスト・カウボーイズから独立したときに、エディのマネジャーに滑り込んでいる。「どんなに沢山の客が入っても、彼はいつもそれ以上の観客動員を考える努力をしていた。ラジオや新聞の広告、会場の使用料、売店でのグッズの売り上げなど、細かくチエックしていた」(キング)。
 
1950年代の始め、エディとの分裂はラスベガスにおけるショウの膨大な宣伝広告費の支出の分担にあったと伝えられる。この後、パーカー大佐は同じレーベルのRCAのハンク・スノウと契約を結ぶが、これが後のエルヴィスとつながることになる。
 
この点である人に言わせると、エルヴィスの最初の発見者はハンク・スノウだったともいう。エルヴィスの初期のマネジャーはギターのスコッティ・ムーアが務めていたが、人気が出て多忙で片手間では手に負えなくなり、専門のマネジャーが必要なっていた。
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2011/08/31
50    東京ヘイライド(50)ファロン・ヤング      真保 孝
●人は誰でも、人生の最終を迎える場面を選ぶことは出来ないが、1996年の年末に飛び込んできたニュースは衝撃的だった。
ファロン・ヤングが自殺したのだ。12月9日、自宅で38口径の拳銃で、こめかみを撃ち抜いた。残されていた日記の最後の日付は、午前11時40分。
 前のバンドのメンバーで古い友人の一人、ロイ・エメットが訪ねたのは、12時30分。玄関のドアからの呼びかけに返事はなかった。家に入ってみると、ベッドで危篤の状態だった。入院させたが、甲斐なく息を引き取った。享年64。
 「これがベストなんだよ」。息を引き取る前に立ち会った友人のジニー・シリー(*)にファロンは言った。ヒット曲の「Live Fast, Love Hard, Die Young 」は予言のようだった。「彼はうぬぼれ屋(smart aleck )だったけど、確かに美しい思い出を充分に残したと思う」(ジニー)。
 
*女性歌手、前ハンク・コクラン夫人。
 
●確かに1989年2月の「Here’s To You 」(第87位)以後ヒットから見放されていた。しかし50年代のヒット・メーカーが、不死鳥のように1961年「Hello Walls」 ( 第1位、23週間 )によって甦ったときは、半ば忘れかけていた人々をあっと云わせた。この曲は売れない時代に苦楽を共にした親友のひとり、ウィリー・ネルソンの作だ。
 1986年、愛し合ったヒルダ夫人と離婚(その後も友人として交際)、肺気腫を病んで酸素タンクを使用、友人の多くが距離を置くようになり、次第に落胆、孤立を深めて行った。
 「何回電話をしても、返事の電話はなかった。会ったときに、『何故なの?』」(ジニー)と聞くと、「君は僕に元気を出せ出せ、何とかしろと云うけど、僕はもう何をする気にもなれないんだ」(ファロン)。生前、ツアー・バスも売り払い、名誉のトロフィーの数々も処分、愛犬、倉庫も空っぽになっていた。
 
●1951年5月、ファロンは地元ルイジアナの高校を卒業した。成績は全生徒242人中、236人目だった。在学中からウェッブ・ピアースのひきで、ラジオにアルバイト出演していた。ウィルバーン・ブラザースのテディとは少年時代からの友達だった。兄弟は妹を誘ってストリ−ト・ミュージシャンをしていた。
 両親は大学への進学を望んだが、ウェッブは業界に入ることを奨めた。当時ルイジアナ・ヘイライドで人気のウェッブは自分のショウに出演させるなど、自分の子供のように扱ってくれた。1952年、ウェッブが「 Wondering 」の大ヒットにより、オープリーに引き抜かれた後、ファロンはヘイライドにとってなくてはならない大スターに成長して行った。キャピトルのA&Rマン、ケン・ネルソンが街にやってきたのは、この前後である。
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2011/08/31
51    東京ヘイライド(51)ロレッタ・リン        真保 孝
誰もが悲しみで胸がいっぱいだった。「数日前に、最後に病室で彼(ムーニー)に会ったとき、『 feeling good 』(大分、いいようだ)と云って元気だったのに....。体調もよさそうだったので、しばらく2人で昔の想い出話をして別れました」(ロレッタ・リン)。夫のOliver “ Mooney “ Lynnは1996年8月に69歳で他界した。
 
●ロレッタが夫のムーニーと知り合って、結婚したのは1949年1月のことだった。結婚式の日に、ロレッタの祖父は言った。「いいかい。もし俺の可愛い孫娘を不幸にしたら、絶対にお前を殺すからな」。ムーニーは息を引き取るまでこの言葉に忠実だった。結婚の同意を貰うとき、家から遠いところには住まないことを、父親から約束させられた。
 
●しかしロレッタが妊娠7ヶ月、最初の子供を生んだとき、実家から2000マイルも離れたワシントン州カスターという遠方に住んでいた。知り合って僅か5ヶ月、13歳で結婚したロレッタは、18歳のその時すでに4人の子供の母親になっていた。毎日の単調な家事から離れて好きな歌を歌うことを始めたロレッタに、ムーニーは中古で17ドルのギターを買ってやった。
 
●「少女時代、アーネスト・タブの歌を、毎週土曜日に聴くことが楽しみでした。彼が歌う『 It’s been so long darlin’ since I had a kiss from you 』のフレーズにはいつも泣かされました。それは戦争中でしたので、父は電池を無駄にしないように節約しておりました。古かったけれど、ラジオは貧しい一家にとって貴重でした。そのラジオは今でも家にあります」(ロレッタ)。
 
●ギターを手にしたロレッタはやがて地元のコンテストで優勝するなど、お定まりの道を歩み始めた。マイナー・レーベルの「ゼロ」と契約して「I’m Honky Tonk Girl 」を出した。ムーニーは妻の写真を2分の1に縮小コピーした宣伝用チラシを作って、全米の放送局に送った。無名時代に自動車で2人が放送局を回る、このあたりの状況は映画「歌え!ロレッタ愛のために」(Coal Miner’s Daughter)の中で観ることが出来る。デモ・レコードはデッカのオーエン・ブラッドリーにも送られた。
 
●手応えを感じた2人はナッシュヴィルを目指した。69歳の生涯のうち、ムーニーは実に47年間をロレッタと共に過ごした。病室でのその想い出話が最後の会話になった。葬式の最後にロレッタの歌う「He Could Have Called 10,000 Angels 」が流された。
その歌声はムーニーが眠るWildwood Valley Church of Christ の墓地に広がっていった。最愛の夫の死後約3年間ほど、虚脱状態に陥ったロレッタはストレスのために公演活動のすべてをキャンセルした。
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2011/08/31
52    東京ヘイライド(52)エルヴィス・プレスリー     真保 孝
●来る8月13日はエルヴィス・プレスリーの命日だ。1977年6 月にチャート・ランキングされていた「Way Down 」がヒットする中、息を引き取った。
 
 1954年9月26日、ゲストとしてオープリーのステージに立ったエルヴィスに対する観客の反応はあまり気乗りのしない拍手で迎えたと、当時の記録に残されている。この頃のエルヴィスはローカルとは言え、メンフィスでも3万枚のレコードの売り上げがあったから、将来性ありと、若干の期待もされていた。
 
ジョーダニアースの一員のゴードン・ストッカーによる「もし、今晩オープリーの状況がよくなかったら、また運送会社のトラック運転手に戻った方がいい」と皆から忠告された話が残されているほどだ。こんな雰囲気の中、気落ちしたエルヴィスは泣きながら自宅に帰ったとされている。
 
●メンフィスからナッシュヴィルまで車で約200マイルの距離を、4人はサム・フィリップスの1951年型のキャデラックに乗って出発した。トランクに収納しきれないビルのウッド・ベースは車の上に縛り付けられた。彼らの出演については、事前にサムが売り出し対策として、オープリーのマネジャーに再三「とにかく機会だけでも与えてやってくれ」と執拗に頼み込んだ結果であった。
 
●その結果、ハンク・スノウがホストをする番組の中で1曲だけ「Blue Moon Of Kentucky 」が歌えることになった。到着したライマン公会堂は3人にとって古臭くてオンボロの建物に見えた。ラジオの中継では聴いていたが、誰も実際の舞台を見た者はいなかった。
楽屋では人気歌手や演奏者たちが気楽に団欒をしていたが、彼らにはそんな余裕はなかった。遠くにまだ新人で売り出し中のマーティ・ロビンスの不安そうな姿もあった。チェット・アトキンスを見かけてエルヴィスは自分のバンドのスコッティが憧れていると、自己紹介をしたが勿論チェットは無愛想な表情で対応した。
 
● 3人が一番顔を合わせたくなかったのは、ビル・モンローであった。それは彼らがサン・レコードで「「Blue Moon...」を録音し、当夜もステージで歌う作者であり、オリジナル・シンガーであったからだ。保守的なファンからはこの曲の取り組みに対して名曲を冒涜したという非難が多かった。しかし地味で黒っぽいスーツを着て、トレード・マークの白い帽子をかぶり、43歳にしてはすでに風格と威厳を備えたビルに会ってみると、意外にもほめ言葉と協力を約束してくれた。
 
●やがて午後10時35分、グランド・ターナーがスポンサーのロイヤル・クラウン・コーラを伝え、ハンク・スノウが最近売り出し中のメンフィスから来た若者たちに「さあ、拍手で!」と紹介をしたのだが、ハンクは肝心のエルヴィスの名前を忘れてしまっていた。
 だが、エルヴィスはいつものように列車にでも飛び乗るような早さで舞台に出ると、ひとつだけ許された「Blue Moon...」を歌い始めた。スコッティとビルは、いつもとは違う礼儀正しいオープリーのステージで終始落ち着かなかった。
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2011/08/31
53    東京ヘイライド(53)ジミー・オズボーン      真保孝 
●記録的な夏でしたが、老体、何とか生き延びました。レトロな「東京ヘイライド」の「シーズン・2」を、そろそろと転ばないように開幕しましょう。
●世界中の注目を浴びている、チリ北部コピアポ近郊の鉱山落盤事故で作業員救出のための縦穴が10月9日に貫通した。生き埋めの33人を助ける掘削が始まって33日目だ。この事件が起きた時、昔のひとつの同じような事件とヒット曲を思い出した。ちなみにチリでは本日(13日)に救出作業が開始された。
●惨事は1949年4月に、米国カリフォルニア州サン・マリアで起きた。当日、キャスイー・フィースカスという3歳の少女が9歳年上の姉たちと遊んでいて、古井戸の中に誤って落ちた。井戸の幅は約40センチ、深さは31メートルぐらいで、1903年に父親が掘ったのが見捨てられ忘れられていた。
この事件は忽ち全米に伝わり、救出の模様がテレビやラジオで中継された。掘削機つきのブルドーザーがきて、近くのハリウッドからはクレーンが持ち込まれ、救出の大作戦が昼夜を分かたず行われた。見物人は1万人も集まってきた。
●この痛ましい惨事を曲にしたのは、ジミー・オズボーン(1923〜1957)というカントリー歌手だった。昔から戦争、殺人事件、列車の大破、火事など社会的な出来事を歌い綴るのはカントリー音楽の得意な領域であった。
彼は5月には作詞・作曲して「The Death of Little Kathy 」(キング盤)と云うタイトルで録音、リリースした。全米の注目を浴びた事件だけに曲は6月には第7位、6週間の大ヒットになった。曲調はバラードで物悲しく、ギター・スチールなどをバックに今でも鑑賞に堪える、決して際物的な造りではない。彼はこの曲のロイヤリティの半分を、結局救出できなかった少女のメモリアル基金に寄付した。
●「ケンタッキーのフォーク・シンガー」と言われたオズボーンは、このような傾向の曲を作るのが上手だった。ほかに北朝鮮と韓国が戦った朝鮮戦争を主題にした「God, Please Protect America」(神よ、アメリカを守りたまえ)、確か硫黄島の玉砕を歌った「A Million People Have died」(百万人の人々/兵士が死んだ)などがあり、いずれもヒットした。
1947年にはルイジアナ・ヘイライドに登場、一時期ベィルス・ブラザースに参加した実績もある。60曲余を残した晩年は、ルイビルに戻りレコード店を経営し、同地で34歳の若さで他界した。死因は自殺であった。
更新日時:
2011/08/31
54    東京ヘイライド(54)ルービン・ブラザース     真保 孝
●ニュースによると、チャーリー・ルービン(83)が膵臓癌とそれにともなう脱水症で闘病生活を送っている。7月下旬に痛み止めの外科手術を受けたが、次回9月の治療はその後の様子を見て医師が診断することになった。自宅居間の長椅子に横になりながら、本人は8月31日のアーネスト・タブの「ミッドナイト・ジャンボリー」には出たいと語っていた。その後のニュースでは9月の手術の結果はあまりよくなかったらしい。
 
 国民健康保険のない米国の病院での治療費は膨大に高額である。治療費にかかるチャーリーの経済的環境も苦しい。このために友人歌手達が募金コンサートを開始したと聞く。
 
●日本では彼ら、ルービン・ブラザースの存在(名前)は比較的早く、1950年頃から知られていた。それは駐留したアメリカ兵士が古レコード屋に残した1枚のレコードからだった。アイラが手にした楽器、フラット・マンドリンの音色から当時のファン達は彼らをブルーグラスのチームと勘違いをした。
 
恐らく日本で1枚しかないだろうこのレコードを聴くために、ファンは遠方からレコード・コンサート(今では死語?)に通った。ビル・モンローのマンドリンを認識するよりも前だったかも知れない。
 
 これに輪を掛けたのが後に(1957年)、文化放送から流れた番組「サンディ・ウェスタン」のテーマ・ソングとして、彼らの「Are You Washed In The Blood 」(賛美歌)が使われたことからだ。発足当初のテーマ曲はハンク・スノウの「 I’m Movin’ On 」だった。
 
今にしてみれば正確には彼らのスタイルはブルーグラスではなかった。独特の美しいクロス・ハーモニーと輪唱スタイル、マンドリンに騙されていた?わけだった。しかしその間違いを情報豊かな現在、責めることは出来ない。彼らはブルー・スカイ・ボーズなどのオールド・タイミーの流れを継承していたからだ。
 
●アイラ(兄)とチャーリー(弟)の兄弟がオープリーにデビューしたのは、1955年2月。この年彼らは「When I Stop Dreaming 」のヒットを飛ばして、3年前にはすでにキャピトル・レコードと契約していた。カール・スミス、ウェッブ・ピアス、ハンク・スノウなどが人気を分け合っていた時代だった。
 しかし兄弟は1963年8月のイリノイ州でのステージを最後に分裂する。原因ははっきりしないが、もとは短気なアイラか?チャーリーはソロ歌手としてその後も活躍を続けて今日に至る。
 
一方のアイラは1965年6月、ミズーリ州で自動車事故を起こし同乗していた妻のアンと他界した。今でも彼らの人気は根強く、全盛時代に残したアルバムは貴重である。
更新日時:
2011/08/31
55    東京ヘイライド(55)、ミズーリ州出身の歌手     真保 孝
●カントリー音楽と云えば、テネシー、ケンタッキー、テキサス州などの出身が圧倒的ですが、馴染みの薄いほかの州、例えば中部のミズーリ州はどうでしょうか。ここの州都は、昔開拓者たちが「西部へ入り口の町」としたセントルイスだと勘違いをしがちですが、ジェファーソン・シティです。ここにはビールでお馴染みのバドワイザーの本社があります。
思いつく人数は少ないのですが、サラ・エヴァンス、スゥー・トンプソン、ロンダ・ヴィンセント、ティム・スペンサー、ポーター・ワゴナーなどがまず頭に浮かびます。意外と云えば、意外です。
●マール・ハガードはこれまで何回か結婚していますが、2回目(1978〜83年)?に結ばれたレォナ・ウィリアムス(1943年〜)もここの生まれです。バック・オーエンスと1940年に別れたボニー・オーエンスはマール・ハガードとも1965年に離婚します。
レォナはマールがボニー・オーエンスと不仲で別居中の頃、ツアーに参加してステージで一緒に歌っていました(その後、結婚)。ハガードと離婚後、ソング・ライターのディブ・カービーと結婚、2004年にカービーが他界するまで一緒でした。彼女はマールとは別に、ロレッタ・リンの前座歌手をしていた経歴もあります。
 チャートには8曲ほどを送り込んでいますが、地味な実力派で、レーベルの出発はロイ・エイカフが所有したヒッコリーからでした。そんなわけでマールとデュエット曲も出し、また彼女自身も「Sings Merle Haggard 」(Ah― Ha,2008年)を出しています。
刑務所慰問ではジョニー・キャッシュが有名ですが、彼女は女性歌手として初めて訪問して出したアルバムがあり、話題を呼びました。「San Quentin’s First Lady」( MCA,1976)です。
●バック・オーエンスのバンド「バッカルース」での2枚看板、ドン・リッチのフィドルと共に、スチール・ギターを担当したトム・ブラムリーもミズーリ州の出です。父は有名なゴスペル歌手、作曲家のアルバート・E・ブラムリーです。父の作品には「I’ll Fly Away 」「I’ll Meet You in the Morning」「Turn Your Radio On 」などがあります。
 地元で4人兄弟のバンドを結成、ラジオに出演後、兄弟のひとりで先に契約したアルバートの縁でキャピトルにスチール奏者として入りました。入社早々、腕前を見込んだバック・オーエンスが早速採用、1963〜69年まで在籍しました。「Act Naturally 」「I’ve Got a Tiger By the Tail」「Together Again 」などで聞かれるスチールのユニークなスタイルは「The Brumley Touch 」と呼ばれました。彼も2009年2月3日、心臓病でサンアントニオで亡くなりました。享年73。
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2011/08/31
56    東京ヘイライド(56)、ホークショウ・ホーキンズ    真保 孝
●好漢ホークショウ・ホーキンズの本名はハロルド・フランクリン・ホーキンズ。 ホーキンズと言う芸名は、昔近隣の友人から釣りに行ったときにつけられた。消えた釣り竿の行方を追跡して探し出したことから、当時コミックの主人公として人気のあった探偵(ホークショウ)の名前がホークショウだった。近隣の友人がつけたのものです。
 
だが彼には愛称として別に生前、「Eleven Yards of Personality 」(11ヤード半の個性)のニック・ネームで親しまれた。その由来は彼の美声が11ヤードも遠くまで聞こえたのか、愛すべき親しさがそれほど遠くまで届くと云うことからか、分からない。
 
その頼もしさに惹かれた?ジーン・シェパードは恋に落ちた。1960年11月26日、カンサス州ウイチタの教会で式を挙げたが、ステージでファンの前でも披露された。立会人には2人に縁の深いケン・ネルソン(キャピトル・レコードのプロデュサー)が引き受けた。
6フィート5インチ(約2メートル)と云う背の高さではスリム・ホイットマン、テキサス・ジム・ロバートソンと並ぶ。
 
昔、オープリーのステージでリトル・ジミー・デイケンズがホストの時に、デイケンズがステージに踏み台を持って出てきた。やがてマイクの前に現れた相手はホーキンズで、それでも肩にほどしか届かなかった。
 
●シェパードはこの時27才、すでに7年前に全米的なヒット「A Dear John Letter」を出していたが、60年代の始めに入り少し不調であった。ホーキンズは初婚ではなく1940年に16才年上の女性と結婚、1958年に離婚していた。
  
2人が出会ったのは共に出演していたオザーク・ジュビリーであった。ホーキンズの好唱は日本のファンに人気のご存知「The Sunny Side Of the Mountain」(1952)にとどめを刺すが、他に「Pan American」(1948)、「Slow Poke」(1951)があり、すべてキング盤である。2人の所属がキング、キャピトルと異なっていたために、生前デュエット曲が実現しなかったのは、残念だ。
 
●最初のベビィが生まれた(1961年12月)楽しい結婚生活は長く続かず、3年後の1963年、あのキャムデンでの飛行機事故の大惨事に遭うのである。
パッツイ・クライン、カウボーイ・コーパスなど一度に多くの歌手を失った史上最大の事故については、改めて触れるとして、彼のラスト・ソング「Lonesome 7―7203」は墜落した3月に発売されて第1位、何と25週間ものロング・セラーになった。
 
電話番号を主題にした失恋バラードのこの曲は、アーネスト・タブの長男で来日したこともあるジャスティン・タブのペンになるものだった。
 
実はホーキンズは1959年に古巣のキングを離れてコロムビアに移籍していたが、キングは墜落のニュースに接すると直ちに反応して、わずか2週間後に在籍中に残したこの曲を臨時発売した。
更新日時:
2011/08/31
57    東京ヘイライド(57)、ファーリン・ハスキー     真保 孝 
●「私ほどに実りのある人生を過ごした人間は少ないのではないだろうか?」。かって80才を迎えたとき、数回の闘病生活を終えて人生を達観したファーリン・ハスキーは、これまでの日々を振り返って述懐した。それから約5年を過ぎた2010年2月23日、ハスキーはやっと秋のCMAの殿堂入りアナウンスを貰った。現在85歳、過去の実績からすれば遅すぎた栄光である。
 
●「これまで何人かの私よりも若い人たちが殿堂入りをしている。彼らは私のことなどよく知らないだろう。知っていても、もう病気で駄目なんじゃないか、と思っているかも知れない」(ハスキー)。
 ベーカースフィールドのパイオニアーなのに、後輩のバック・オーエンス(1996年受賞)に先を越された口惜しさは考えられる。しかも今回の受賞のカテゴリー(部門)は「ベテラン時代の歌手」としてで、ジミー・ディーンと一緒である。
 最大ヒットのひとつ「Gone」はC&W部門で第1位、ポップスでも第4位。バック・コーラスにジョーダニアースを配して最大の効果を上げた。「そのサウンドは誰にも、どこにも演出できないハスキー独自の仕上がりになった」(ビリー・シェリル談)。
 
●カリフォルニア時代はクリーフィ・ストンの指導で、テリー・プレストン、サイモン・クラムなど3つの名前を使い分けた才能の持ち主だ。友人にはダラス・フレイザー、トミー・コリンズがいたことも心強かった。「その後長い間、ハスキーの音楽ビジネスに対抗できる者は出てこなかった。彼はその時代を背負った真のビッグ・ライブ・アクト(big live act)だった。グレート・エンターティナー(Great Entertainer )! 」(マール・ハガード)。受賞の連絡電話を貰ったハスキーは最後に「でも、生きて待った甲斐があった。体力は落ちたので、式には自家用の飛行機で行こうかな」。
更新日時:
2011/08/31
58    東京ヘイライド(58)、ファーリン・ハスキー    真保 孝
●(前回のハスキーに続く)。ギターを背にした若者と2人の友人が演奏の仕事を求めて、1946年頃、ジェファーソン郡にある小さな居酒屋のドアーを叩いた。オーナーが出演料を聞くとセントルイスからここまでのガソリン代と、3人に一晩各10ドルを要求した。
 
高すぎると断ると「では、店先の外で演奏させて欲しい。その結果を見てから雇っては呉れないか」と申し出た。若者の名前は若き日のファーリン・ハスキーである。生まれ故郷のミズーリ州フラット・リバーはセントルイスから南に約50マイルの所にあった。この頃からハスキーは気位が高く(今でも)、自分を安売りはしなかった。「僕のギター(演奏)は10ドル以下ではギター・ケースの中から出てこないよ」と応答したという。
 
●キヤピトル入りは当時テネシー・アーニー・フォードのマネジャーをしていた西海岸の大御所、クリフィー・ストンの紹介だった。入社して何曲かの不発の録音曲の後に回ってきたのが、「Dear John Letter 」だった。
 
相手のジーン・シェパードにとっては入社して最初の曲だった。朝鮮戦争の前線の兵士に、故郷に残した恋人から留守中に心変わりをしてしまった手紙が届く内容だ。しかもその不倫の相手がなんと実の弟と云う悲劇だ。バックに手紙を読むハスキーの「語り」が印象的に入る。
「ある日、ケン・ネルソンからスタジオに呼ばれた。ジーン・シェパードなんて歌手の名前は知らなかったし、知識もなかった。呼ばれてスタジオに入ったときは、てっきりスタジオでベースでも担当させられるかと考えていた。いきなりケンが僕の方を向いて『誰がレセテーション(語り)をやると思うかね?』『ええっ?僕がやるの?』『上手くやれるかね?』」。
 
●録音に入る前、ジミー・ブライアントとスピーディ・ウェストなどは、これまでの経験から「ガール歌手にはストリングス・セッションは売れないよ」と言い張って牽制していた。事実これまでの、例えばキティ・ウェルスが良い例であまり成功していなかった。
 
後で判ったことだが、実はネルソンはハスキーの語りについて事前に周到な下調べがしてあった。以前からハスキーはベーカーズフィールドなどの放送局でラジオのDJもしていた。だからまだ独立系時代のボニー・オーエンスやファゼィ・オーエンスなどの名前はよく知っていた。ネルソンは放送でのハスキーのラジオ・ヴォイス(キャラクター)を聴いていて「Dear John Letter 」での効果的なナレーションを充分に考慮していた。結果は大成功であった。
 
●ハスキーの来日公演が行われたのは、1963年4月、東京大手町の産経ホールであった。今にして思えばこれが何と記念すべき一般公開の日本で最初のカントリー歌手の来日であった。
 
帰国して1970年代に入り、闘病生活が続いた。何回かの持病の心臓病の手術、足の凝血病、2009年4月には肺炎、(7月には快復)。受賞のステージにチャーリー・プライドがエスコートするらしい?元気な姿を見たいものである。ハンク・ウィリアムスに傾倒しており、その歌の上手さは天下一品だ。ハンクの曲名ばかりで歌い綴った「Hank’s Song」(トミー・コリンズとの合作)はまさに名調子である。
更新日時:
2011/08/31
59    東京ヘイライド(59)、ビリー・シェリル     真保 孝
●ヒット曲が生まれると、歌った歌手にばかり脚光が当たるが、それは氷山の一角に過ぎない。作詞・作曲者、プロデュサー、バック・メンバーたち、陰の功労者たちを見逃してはいけない。
ファーリン・ハスキーと共に今秋CMA殿堂入りを果たしたビリー・シェリルに一般のファンはどのくらい関心をもっているだろうか?
 
「今回の受賞は、自分のこと以上に嬉しいことだ」。シェリルと並んで座って連絡を受けたジョージ・ジョーンズは、さらに「彼こそがミスター、ナッシュヴィルだよ」。シェリルは照れてぶつぶつと言いながらも「久しぶりにいいニュースを聞かせてもらった」と半分は笑いながら、古い友人に言った。
●「Almost Persuaded 」「He Stopped Loving Her Today 」「Stand By Your Man 」「Behind Close Doors」....これらはシェリルがプロデュースした曲のごく一部だ。
 1960年代の中期から1970年代の前半にかけて、シェリルがプロデュースした曲はスマートで斬新な曲造りでことごとくヒットした。人々はこれを「ミラクル・エピック・サウンド」と呼んだ。
ストリングス中心のナッシュヴィル・サウンドが飽きられて、ややカントリー色の強い曲が待たれていたのかも知れない。シェリルは最初(1962年)コロムビアに入社したとき、リズム&ブルース部門を担当したが、すぐに姉妹レーベルのエピック(1964年)に異動した。
●ここでディビッド・ヒューストンやジム・アンド・ジェッシーなどを受け持った。キャピトルでの全盛時代の後に、移籍してきたジムたちを初めてヒット・チャートに登場させた「Cotton Mill Man 」「Diesel On My Tail 」「The Golden Rocket 」「Freight Train」などは彼の手腕によるものだ。このアルバムは日本でも発売されたが、彼らのブルーグラスの神髄をなんと20年近くも遅れてフアンに始めて紹介した価値ある1枚になった。
シェリルのモットーは「feeling with beat」であった。このラインで彼が多用したのは、ヒューストンやタミー・ワィネットとソング・ライターのグレン・サットンであった。
●ちなみにヒューストンでそのヒットをたどってみると、「Almost Persuaded 」「My Elusive Dreams」「With One Exception」などと1位の曲が続く。ワィネットとのデュエット曲は夫のジョージ・ジョーンズとの黄金夫婦コンビで稼ぎまくった。
シェリルは宗教の巡業伝道師を父にアラバマで生まれて、今年74歳。エルヴィスの発見で当てたサン・レコードのサム・フリップスは売り上げを伸ばして、余勢を駆ってナッシュヴィルにも支社(スタジオ)を出した。
リズム・アンド・ブルース・バンドを経て、まだ下積み時代のシェリルはこの時、この支店でしばらく修行をしていた。恐らくここでの経験が後のプロデュースの役に立っていたと思われる。
シェリルは幾多の歌手を育てたが、後期のひとりにエピックでデビューしたシェルビー・リンがいる。彼女は映画「モンタナの風に抱かれて」の主題曲を歌ったアリソン・ムーアの妹である。
更新日時:
2011/08/31
60    東京ヘイライド(60)、I Saw the Light     真保 孝
●ハンク・ウィリアムスの「I Saw the Light」は賛美歌だが、誰でも知っている人気の高い曲である。ウィリアムスがこの曲を作ったのは、まだ無名に近いバンドの「Drifting Cowboys 」が全ての巡業予定を終えて、アラバマ州モンゴメリーを目指していたときであった。中古の巡業用自動車のエンジンは調子があまりよくなく、いつ故障をするかびくびくしていた。
 
 バック・シートで仮眠から目を覚ましたウィリアムスは、遙か彼方に空港の航空標識の灯りを見つけた。「オイ、みんな灯りを見つけたぞ。町は近い。もう大丈夫だ」。こう云って元気づけた。
 
●現在、残された記録を見ると、ウィリアムスが「I Saw the Light 」の下書きを1942年1月に始めて、その後2回にわたって書き直している。最終的に録音に使用したのは、最初の歌詞である。
 
例によって酒に酔って、車のバック・シートから見たのは、ディニリー・フィールド空港の標識灯であった。この時「Hank, wake up! We’re nearly home 」と起こされたらしい。目を覚ましたはウィリアムスは「I just saw the light 」と云った。
 
●1953年1月4日午後2時30分から生まれ故郷のモンゴメリー市の市民会館で行われた葬儀。その式場でまずアーネスト・タブが「Beyond the Sunset」を、次に「Peace in the Valley 」を歌ったレッド・フォーレーは涙にむせんで最後まで歌いきることが出来なかったと云われる。
 
 最後はカール・スミス、ウェッブ・ピアース、ジミー。ディケンズ、ジョニー・&・ジャックたちがこの曲を歌って、在りし日を偲んだ。
「I Saw the Light」の録音は1947年4月21日、ナッシュヴィルのキャッスル・スタジオで、「Six More Miles 」「(Last night) I Heard You Crying in Your Sleep 」「Move It On Over 」の3曲と一緒であった。この年ウィリアムスはまだ24歳、夕日の彼方に行くまで約6年があった。
 
毎年12月になると、あちこちで日本だけのことらしいが、ベートベンの「交響曲第9番」が演奏される。
 
カントリーのコンサートの最終場面は、唱和しやすいこの曲か「You Are My Sunshine 」による全員合唱が多いようだ。
更新日時:
2011/08/31
61    東京ヘイライド(61)、 Deana Carter     真保 孝
●毎年、成功と名声をめざして、全米各地からナッシュヴィルを目指して腕とのどの自信家たちがやってくる。だが、人気を得てそのままナッシュヴィルに定住できる人の数は少ない。しかし幸運にも?地元ナッシュヴィルで生まれ育ったミュージシャンもいる。古くはキティ・ウェルス、デル・ウッド、ローリー・モーガン、中堅ではディアナ・カーター等。
 
 カーターの父親はナッシュヴィルで名の売れたスタジオ・ミュージシャン(ギターリスト)であった。あったと書いたのは、父のフレッド・カーターJr.は、昨年7月に76歳で他界したからである。故郷の「ルイジアナ・ヘイライド」を経て、1950年代の始めにナッシュヴィルへやってきた。ウィリー・ネルソン、ドリー・パートン、ボブ・ディラン、サイモンとガーファンクルなど多彩なセッションに参加した。
 作曲にも手を出してハンク・コクラン、ハーラン・ハワードなどとも交友があった。こんな音楽的な家庭環境の中でカーターは生まれた。
カーターのデビューは1996年のCMA Single of the Year に輝いた「Strawberry Wine 」(第1位、2週間)で、今後を期待させるに充分であった。だがその背景には翌年に発表された「Did I Shave My Legs For This 」があった。彼女は1994年のウィリー・ネルソン主催の野外コンサート「ファーム・エイド・コンサート」に女性歌手としてただひとりで参加していた。発表前にこの曲のデモ・テープを父の友人のネルソンに事前に聴いて準備をしていた。キャピトルの契約にもネルソンが協力してくれた。
 
ネルソンが主演した映画「忍冬の花のように」(1980)の主題歌に「On the Road Again 」(第1位、グラミー賞受賞)がある。2007年発売の6枚目のアルバム「The Chain 」の中に「He Still Thinks I Care 」などと彼女はこの曲を収録していた。
 
嫌味のない親しみやすい美人度の彼女も今年44歳、1度の離婚を経験して、2009年10月にボーイ・フレンドだったブランドン・マローンとマリブで結婚式を挙げた。
更新日時:
2011/08/31
62    東京ヘイライド(62)、 Jean Shepard    真保 孝
●神様は公平で、ステージのアイドルも客席のファンも、みな同じように歳をとらせる。
このところオープリーのステージに登場するジーン・シェパード(76)は中年オバサンそのもので、貫禄がついて恰幅もよく、体型をカバーしてか、ほとんどズボン(パンツ)・スタイルである。ターン・チェックのシャツにギンガムのフレアー・スカート、ジーンズの若々しかったヤンキー・ガール時代が懐かしい。
 1955年にオザーク・ジュビリーにデビュー、その年の11月にはオープリーと契約した。そのころオープリーに在籍した女性歌手たちにはジャン・ハワード、ジニー・シーリー、スキーター・ディビスそしてシェパードがいた。このグループを人々は「The Grand Lady’s of the Grand Ole Opry 」と呼んで親しんだ。夫のホークショウ・ホーキンズを飛行機事故で失ったとき30才だった彼女は1968年に歌手のベニー・バーチフィールドと再婚して、現在77才になる。
●彼女は出発点となったベーカーズフィールドでの娘ばかりのバンド「メロディ・ランチ・ガールス」(Melody Ranch Girls)を1948年に結成、ベースを担当することになった。このために両親は家具を質にいれて、中古のベースを購入してくれた。しかし歌手として成功したとき、数倍も高級な家具を家に運んでお返しをした。
後に、地元に巡業に来たハンク・トンプソンに認められてキャピトル入りをしたエピソードは有名だ。出世作となった朝鮮戦争を背景にした「Dear John Letter」(第1位)は大ヒットして、同年10月にはアンサー・ソング「Forgive Me John」(第4位)も生んだ。
●「Dear John Letter」は3人の作者によって書かれた。そのうちのひとりはファゼィ・オーエンスと云ってスチール・ギター奏者として有名である。
彼はタリー・レコードのオーナーでもあり、若い頃の無名のマール・ハガードを売り出していた。オーエンスは始めこの曲をボニー・オーエンスに歌わせようとしていたが、ケン・ネルソンはボニーよりも1歳若いシェパードを起用した。
「そうだな、私の記憶ではこの曲を最初に聴いたのはベーカーズフィールドの『クローブ』と云うクラブでだった。その時、この曲はヒットする予感したね。それで知人でスクーターを販売していた会社のコマーシャル・ソングとしてどうか?と聞いてみた。
すると、3番目の歌詞を少し直せばいいんじゃないか、と云う返事だった」(合作者のひとりルイス・タリー)。
 
このタリーは名前でも分かるように、従兄弟のオーエンスと一緒に「タリー・レコード」を経営していて、スタジオ・ミュジシャンでもあった。オーエンスはこの曲を10ドルで買ったが、これが大化けしたわけで、彼の生涯の財産になった。
更新日時:
2011/08/31
63    東京ヘイライド(63)、 Carol Lee Cooper     真保 孝
●オープリーの舞台、センター・マイクで脚光を浴びて歌う人気歌手の正面左手後方の少しライトの暗い場所に4人の男女バック・コーラスの姿が観られる。毎回、どんな歌手や曲が出てきても、それに併せて巧みに曲趣効果を盛り上げる職人的な芸だ。
この陰の功労者チームの名前は「キャロル・リー・シンガース」(Carol Lee Singers )という。リーダーのキャロルはもうオープリーに25年以上も在籍しているベテラン女性歌手である。
 
「私たちの頭の中には、あらゆる歌手たちの歌詞、ユニゾン、サスペンション、キィーコードが既に登録されています」(リー)。
 
毎週巡業先の各地から金曜日にはオープリーに戻ってくる。事前のリハーサルは金〜土曜日の午後だ。 
 
●彼女の父(フィドル)と母(ギター、バンジョー)はオールド・ファンならご存知の往年の人気夫婦チーム、ウィルマ・リー & ストニー・クーパーである。
 
彼らのバンド名前は「The Clinch Mountain Clan」と云い、当たり前にBoysやFamily?などとはせずに、Clan(一族、一味)としたところが南部的でユニークである。
 
ヒット曲には、「Big Midnight Special 」「Come Walk With Me 」「There’s A Big Wheel 」(いずれもヒッコリー原盤)などがあり、たたみかけてくるヒルビリー調の泥臭い迫力は今でも一聴に値する名唱である。
 
●リーは14才で父母のチームに加わり、パッツイ・クライン、ロイ・エイカフ、レイ・プライスなどとツアーを共にしていたが、結婚を機に一時引退した。この時の相手がハンク・スノウの息子のジミー・ロジャース・スノウだった。生まれた娘の一人の名前はシャノン・スノウ・ロジャース(Shannon Snow Rogers )。
 
間もなく離婚したが、約14年間の空白期間の後、チャーリー・プライドがツアー同行のコーラスを探していたのをバッド・ウェンデルから紹介されて現役復帰した。
 
●30年以上もオープリーにいると活躍の場は広く、パテイ・ペイジ、ダイナ・ショアからガース・ブルックス、ジョージ・ストレート、アラン・ジャクソン、マール・ハガードなど、中でも忘れられない共演者はドリー・パートンの公演だと言う。
 
尊敬するコーラス・グループはザ・ブラウンズで、彼らの「I Take The Chance」(1956年、第2位)にはとても感動したという。
 
コーラス・ハーモニーの取り方は父母が教えてくれた。メンバーは変更がなければ、ノラ・リー・アレン(アルト)、デニス・マッコール(テナー)、ロッド・フレッチャー(バス)、そしてリー(ソプラノ)だ。
更新日時:
2011/08/31
64    東京ヘイライド(64)、ハンク・コクラン     真保 孝
●ハンク・コクラン。2010年7月15日、ヘンダーソンの自宅で亡くなった。享年74。死因は膵臓癌らしい。人体にはなお未知の部分が多いが、その中でも「暗黒の臓器」と言われて難解なのが「膵臓」と言われている。膵臓癌はあらゆる臓器の中でも、ダントツの性格の悪さを備えている。膵臓は身体の裏側にあり、人間ドックの検査でも手の届かない場所にある。初期には殆ど自覚症状が無く、見つかったときには、例え初期であっても手遅れのケースが多い。仮に手術が可能でも難易度が高く、熟練の医師の手腕が問われる。コクランは2年ほど前に発見されたが、病魔から逃れることは出来なかった。
 
●コクランは著名な作曲家になったが、一般のファンに広く知られたのは、1969年、ジニー・シーリーの夫君であったことからだ。シーリーのデビュー曲「Don’t Touch Me」(1966年、第2位)は彼の作品である。
 
1961年頃、シーリーはロスで銀行へ就職しようと学校に通いながら、なお歌手になる夢を追いかけて、ラジオのDJをしていた。なかなかラチがあかないので、ナッシュヴィル行きを決意した。
 
現地で短期間だがアーネスト・タブの番組に出ることが出来たがレギュラーではなかった。ロスへ帰ろうとしたシーリーをコクランがナッシュヴィルに留まるように忠告したという話、ロスからナッシュヴィルに行けとの話が二つある。やがてノーマ・ジーンの抜けた後を探していたポーター・ワゴナーのテレビ番組出演のチャンスを得た。
 
 シーリーの抑揚を押さえた歌声は「Don’t Touch Me」の魅力を十分に発揮させる曲だった。たちまちオープリーの観衆を魅了したが、その持ち味を遺憾なく発揮させた曲を作ったコクランこそが陰の功労者だった。同曲のグラミィ賞受賞を祝うようにして二人は結婚した(1969年、10年後に離婚)。
 
●コクランとウィリー・ネルソンは貧しくて売れない下積み時代にナッシュヴィルのダウンタウンのひとつ部屋に同居した仲だったが、1961年4月に出会った新進のハーラン・ハワードと合作した「I Fall To Pieces 」(1位、39週間)はその輝かしい出発点となった。
 
「I Fall To Pieces 」はコクランがあらかじめ完成させていたが、巧くまとめることが出来ずに、ハワードの知恵を借りた曲だった。以後、エディ・アーノルドからリアン・ライムスに至るまで、彼の曲を歌わない歌手はいないほどに幅広く、ヒットを提供した。ソング・ライターの殿堂入りは1974年。
 
 他界する前日の14日の夜、たまたまコクランの自宅に立ち寄った人々は元気な顔を見ていた。一緒に歌を歌ったという話もある。
 
「今日、親しい隣人を失った。もっとも愛して尊敬していたのに。彼ほど、いい奴はいなかった」(オーク・リッジ・ボーイズ、ジョー・ボンサル)。
 
葬儀は、再婚した妻(スージ)と子供達だけでごく内輪で執り行われた。
更新日時:
2011/08/31
65    東京ヘイライド(65)、ビル・ヘイリー     真保 孝
●「リズム・アンド・ブルースの夜明け」。バンド「サドルメン」を率いてC&Wの分野で活躍していたビル・ヘイリーは「ビル・ヘイリーとヒズ・コメット」と名前を変えて新しくリズム・アンド・ブルースに転向した。
その内容は未熟で未完成ではあったが、この分野に手を出した恐らく初めての歌手ではなかっただろうか?ごく初期の記録に次の2曲が残されている。「(We’re Gonna )Rock This Joint Tonight 」「Rocket 88 」。2曲とも1952年の作品で、オリジナルはあきらかにブラック・ミュージックからのイミテーションであった。
 
●翌1953年、初めてのナショナル・ヒット「Crazy, Man ,Crazy 」を出す。この曲はビルボードのポップス・チャートで最初のロックン・ロール曲となった。「1950年代の初期の音楽界は新しい、何かを求めて飢えていたようだった」(ヘイリー)。
 
「デキシーランドの曲の1番目と2番目をドロップさせて、2番目と4番目を強調することによって、リスナー達は手拍子をとって乗ってきた」(ヘイリー)。しかし多くの白人達はそのリズムの新鮮さに気付かずに、軽蔑して嫌った。ビルの音楽はブラックのリズムとブルースとホワイト・カントリーをブレンドしたものだった。
 
●ステージの衣装にもひと工夫を加えた。髪の前髪を少し額に垂らしてセクシーな感じを出した。このスタイルは後のエルヴィスに受け継がれた。メンバーはオーソドックスだが派手なカラーのタキシード姿で登場した。それはカンサス・シティのブラック・ジャズマン達の真似であった。楽器を持ち上げて曲芸的に頭の上で弾いた。これらはすべて後のロックン・ローラー達の典型的なステージ・モデルになった。
 
●ヘイリーの出発は東海岸でのカントリー・バンドから始まり、ヨーデルのチャンピオンにもなった。R&Bに転向してからも、長く人気が出なかった。ブレークは映画「The Blackboard Jungle 」の中で使用された「Rock Around the Clock 」で、1981年2月に55歳で他界した。
更新日時:
2011/08/31
66    東京ヘイライド(66)、アラン・フリード     真保 孝
●オハイオ州クリーブランドのラジオ局WJWラジオ局でディスク・ジョッキーをしていたアラン・フリードは彼ら(ヘイリーたち)にいち早く(1951年)注目をした。後で彼は自分自身こそが「Father of Rock & Roll 」と主張して、その先見性を語っていた。しかし、識者の研究によれば、リズム・アンド・ブルースの芽はすでに1930年代に芽生えていた。
 
ヘイリーが動き出した頃、白人系のオーナーによって経営されていた多くの放送局はR&Bに対して冷淡であったが、ティーン・エイジャー達の間に人気が高まってくると、無視できず次第に番組を増やしていった。
 
●1955年に封切られた映画「The Blackboard Jungle 」が大反響を呼んだ。ここでヘイリーが例の「One?.Two・hree O’clock・our O’clock Rock・vと歌い始めるや、10代の若者たち(特に女性)は飛び上がって拍手をした。まさに若者と大人の社会主役の逆転であった。
 
ヘイリーの「Rock Around the Clock 」(1955)は前年の1954年がオリジナルであった。1955年の夏には各ラジオ局は競って電波に乗せた。こうして1956年、若者カルチャー先駆けの洪水のゲートは開かれた。その波はポピュラー音楽界へ満ちる潮のように流れ込んでいった。
 
●チャック・ベリー、ファッツ・ドミノ、クリフ・リチャードの出現はエルヴィスの登場につながった。
 
その背景にはサム・フリップスのサン・レコードがあった。白人系のカントリー歌手達のR&Bへの鞍替えが始まった。
 
1955〜58年はエルヴィスの黄金時代で、「King of Rock & Roll 」の名に恥じず、第1位曲が45曲、そのチャート数は120を超えて、当然、イミテーションも生まれた。1957年8月5日、ディック・クラークの人気番組「American Bandstand 」(ABCテレビ)はこの勢いの前に陥落した。
 
●フリードは厳密には彼が初めてではなかったが...、リズム・アンド・ブルースをロックン・ロールと呼称した。本名はアルバート・ジェイムス・フリードと云い、愛称は「ムーン・ドッグ」でダンス・バンドのトロンボーン奏者だったが、戦争で耳を傷めてから大学在学中にラジオのDJに興味を持つようになった。クラシック番組を担当していたが、ある日スポンサーだった地元のレコード店に招かれたとき、店内で流れていたリズム・アンド・ブルースを聴いた。
 
 1951年7月、時代の先を読んで番組の名前を「ムーン・ドッグズ・ロックン・ロール・パーティ」と変更して人気を得た。1954年9月、契約の満期時に、最高の契約金を提示したニューヨークの全米No.1のAM局WINSラジオに移籍した。しかし人気に溺れて、ペイオラ問題(*)から人気を落とし、最後はアルコール中毒になり、1965年1月、肝硬変で他界した。享年43の若さだった。
 
(管理人注)
 
ペイオラ:DJなどが甘い汁を吸って、本来は良くない作品に、手心を加えた発言をする。
更新日時:
2011/08/31
67    東京ヘイライド(67)、ガース・ブルックス    真保 孝
●昨年12月、ナッシュヴィルは十数年ぶりの降雪によるホワイト・クリスマスを迎えたらしい。ガース・ブルックスがその少し前の17日から3日間、久しぶりにナッシュヴィルに帰ってきた。これは1998年?以来のことで、昨年5月の春の大洪水に見舞われた市への救援基金が目的で、ナッシュヴィルのブリジストン・アリーナでコンサートを開いた。
「災害を聞いたときから、市郊外のヘンダーソンの小さな教会で被害の少ないことを祈り続けてきた。ボランティアー・ステートの愛称を持つテネシー州を誇りに持って住んできた。ナッシュヴィルを目指す次の若者たちの希望の灯を消さないためにも...」(ブルックス)。 復興資金の入場料は25ドル。「We All Tennesseans Helping Tennessee 」をスロ−ガンに、コンサートには州知事のフィル・ブレッドセン、市長のカール・ディンらも出席した。
 
●ブルックスはオクラホマの生まれだが、ナッシュヴィルでの夢を目指して失敗、1989年6月に2回目の挑戦の後、ついにオープリーに立つことが出来た。27歳の遅咲きの出発であった。
歌手を目指す前、水道メーターの取り付け工事人、ナイト・クラブの用心棒などをしていたが....これは顔つきからして適任だとは思いませんか。「その頃は何が何でも、お金が欲しかった」(ブルックス)。
 
●ブルックスがその頂点を極めたのは、1997年8月7日夜、ニューヨークのセントラル・パークで開いた野外コンサートにあった。他の州からもジャンルを超えて多くの観客が集まった。その数はテレビ局の集計では75万人と発表された。
この数は前のポール・サイモンの集客数60万人を超えた新記録と宣伝された。.....が、その後、市警察が航空写真で集計した数は実25万人と認定され、水増しと判った。もちろん、これは彼の責任ではない。幅100メートル余のステージで、黒いカウボーイ・ハットをかぶり精力的に歌い、田舎の音楽(ヒルビリー)のカントリー音楽が東部の大都会で大奮闘したと云えるだろう。 
 
●ニューヨークでの世紀の一大コンサートを成功させた後、2001年には生まれ故郷のオクラホマに戻り、セミ・リタイヤした格好だった。この間労苦を共にしてきたのは最初の妻のサンディで、出会ったのは1986年。あるクラブのトイレの前で、たまたますれ違ったのが縁で結ばれたと云うが、これは用心棒時代だったのか?
その彼が遠く海外の我々ファンの目にも怪しく思われた行動を続けていたが、やはり遂に離婚して噂のトリシア・イヤーウッドと再婚した。統計ではアメリカでは4人に1人は離婚経験者だと言う。ひとりで2回も3回も離・結婚する猛者もいるから実数にはならない。
 
●実は相手のイヤーウッドも再婚で、前夫のマーベリックスのロバート・レノノルズ(ベーシスト)とはライマン公会堂のステージで挙式を挙げていたが、1999年5月に離婚していた。
今回のコンサートにも共演したイヤーウッドはジョージア州の出身でハニー・ブロンドの髪の毛で、目はブルー・グリーン、身長は高くて5フィート8インチある。ずんぐり体型のブルックスの方が低いかも知れない。彼女の目標歌手はリンダ・ロンシュタットで、最終地位はそこに置いているが、どうだろう?彼女が最初に買ったレコードはキャロル・キングで、ブレークしたのはエルヴィスを聴いてからだった。
更新日時:
2011/08/31
68    東京ヘイライド(68)、ガース・ブルックス(2)     真保 孝
●(ガース・ブルックスの続き)。
 
昨年12月に行われたガース・ブルックスのナッシュヴィルでのコンサート開催について、反響の声を拾ってみよう。米国ファンの気質を知る上でも参考になる。
 
個々の歌手のファン・クラブも存在していて、その全米組織(IFCO)は強大であり、レコード会社もラジオ局もその行動には一目置いている。毎年5〜6月にナッシュヴィルで定期的に開催されている「ファン・フェアー」はその一端である。
この時期、歌手達は地方ツアーを自粛して、このステージへの出場やブースでのファン達との懇親に努める。共に過ごす食事会、握手が出来るサイン会はご贔屓のファンたちで長い行列が出来、満員になる。
 
●★さてそのファンの声。ラッキー!幸運にもチケットを手にすることが出来た。洪水被害者の助けに少しでもなれば幸いです。★チケット購入のためにカード会社に入りました。運良くチケット入手のドアーを通り抜けられればよいのですが。
 
★まるで宝くじを買うような気分だ。なるべくステージの近くの席をとりたいと4枚のチケット申し込んだ。★幸運にもチケット入手のひとりになれることを祈り興奮しています。★すごい、すごい!ブルックスにナッシュヴィルで会えるなんて!コンサートの日が待ちきれない。★ブルックスはこれで一流のエンタティナーであることが証明された。多くの人々が当日のパーフォーマンスを期待していると思うが、私もその一人に選ばれたことを喜びます。
 
●★妹と2枚のチケットを予約しました。手ごろな値段の入場料金で有りがとう。★ナッシュヴィル以外の人々の希望者にすべて行き渡らないと思うけど。ブルックス、君の慈善行為はこれからのよい前例になると思うよ。★12月20日にルイビルを出発します。ビール代を節約してチケットを買いました。ナッシュヴィル市ブロードウェイの復興の足しになれば。
★ノース・カロライナのヒッコリーではチケットの入手は制限されています。それでも売り出しの2分後に申し込んで4枚を手に入れることが出来ました。★ダフ屋が横行して最前列の席は3600ドルの値が付いているそうです。チャリティ・イベントに傷をつけるような彼らの行為は恥ずかしいかぎりです。(以下略)。
更新日時:
2011/08/31
69    東京ヘイライド(69)、レオン・ペイン      真保 孝
●昨年暮れも押し詰まった28日、新聞の訃報欄に演歌歌手で作曲家の竜鉄也(74)の死亡記事が載った。ご当地ソングで自作の「奥飛騨慕情」(1980)により全国的歌手になった。
 
 竜同様に、眼が不自由だった海外の歌手にはレイ・チャールス、そしてカントリー音楽ではドック・ワトソン、レオン・ペインがいる。年月を越えてペインがまだ我々の記憶に残っているのは、彼が次の曲を書いたためである。「I Love You Because 」「Lost Highway 」「Blue Side of Lonesome」などなど、今に残る名曲ばかり。
 
●1917年生まれの彼は1969年9月に心臓麻痺で他界している。享年52だったが、その3ヶ月前の7月に、青森県三沢の米軍基地に勤務していた軍人と結婚した娘を訪ねて来日している。
 
ペイン夫妻は娘と孫と再会した後、三沢の近くの盲学校で生徒のためにコンサートを開いていた。「レッド・リバー・ヴァレー」「峠の我が家」などを生徒と合唱したという。彼の細やかな気持ちが伝わってくるエピソードだ。
 
●生まれながらに盲目だった彼は盲学校に通い、そのハンディを克服してラジオとレコードからカントリー音楽を学んだ。楽器はギター、ピアノ、ドラムス。妻(Myrte Velma Cormier )とはテキサスのオースチンにある盲学校で知りあった。卒業後、一時交際が途切れたが再会、プロポーズして結ばれた。この頃の恋人(妻)への募る思いは「I Love You Because 」の中に盛り込まれている。
 
ペインの死から39年後の2008年、夫と同じサンアントニオで亡なくなった妻の葬儀では、この思い出の曲が会場で演奏された。 
 
●「 『I Love You Because』は妻のために書きました。 曲のアイディアはサンアントニオのあるクラブで、ちょっとした弾みに口からでたメロディからでした。でも、それが後日どうしても思い出せなくて焦りました。数ヶ月後にやっと思い出せまして、歌詞をつけることが出来ました。
 
大ヒットしたので、他の多くの歌手達がカヴァーして歌いましたが、妻は私の歌が一番いいと言ってくれます。個人的にはジム・リーブス盤が気に入っています。彼とデュエットしたプライベート盤もあります。リーブスが飛行機事故で亡くなったのは、その後でした」(レオン・ペイン。来日時のインタビューから)。
 
●1949年、出来上がったこの曲を渡されたフレッド・ローズの息子のウェズリー・ローズはしばらく鞄の中で眠らせていた。ウェズリーはこの曲をカントリー音楽だけではなく、ニューヨークのポップス畑で売り出そうと考えていたからだった。しかしペインのキャピトル盤に次いで、アーネスト・タブ(デッカ)・クラウド・ムーディ(キング)と売れ始め、次々に火がついたためにそれが出来なくなってしまった。
更新日時:
2011/08/31
70    東京ヘイライド(70)、ロレッタ・リン      真保 孝
●昨年秋の金曜日の夕方、テネシー州ハリーケンズ・ミルスにあるロレッタ・リン・ミュージアムに沢山の人々が集まってきた。それはリンの歌手生活50周年を祝うための祝賀ステージのためだった。
 
 「目を閉じれば私が11歳の時まで暮らした粗末なワンルームの小屋が今でも浮かんできます」(リン)。リンはアパラチアン山脈に囲まれた貧困の炭坑村で育った。マーティ・スチュアート、ジョニー・キャッシュ、ジャック・グリーンなど多数の歌手達も、皆地方のルーラルな土地からナッシュヴィルに出てきた。
 
●「もう亡くなってしまったジュン・カーターとは、以前、一緒に3枚のセイクレッド・アルバムの仕事をしたことがありました」(リン)。カーターはリンよりも10歳ほど年上だったが、仲のよい友達だった。  
 
 新人時代のリンを陰に日向に支えてくれたのは、パッツイ・クラインだった。先輩の女性歌手としてステージや家庭での悩みはクラインが相談に乗ってくれた。
 
リンは早婚でデビューの時すでに4人の子供がいたことは知られている。経済的に余裕のないリンに、気前のよい彼女(クライン)はたびたび自分の手持ちのステージ衣装を与えて応援してくれた。
 
●50周年を記念して彼女の最大の自叙伝的なヒット曲「Coal Miner’s Daughter 」のニュー・ヴァージョンが現在活躍する新進のミランダ・ランバート、シェリル・クロウなどによって歌われた。
 
これを収録したアルバム(2010年11月発売)にはマルティナ・マクブライド、アリソン・ムーア、テリー・クラーク、アラン・ジャクソンから現在人気急昇中のキャリー・アンダーウッドまでが参加していると云う。
 
●リンの祝賀はまだ続き、10月12日には3回目のグラミー賞を祝う会が開かれた。式でホステスに選ばれたリーバ・マッキンタイヤーは次のような挨拶をした。
「カントリー音楽がこれまで、人生の真実性を持つことに恐れないで立ち向かってきたことを、今夜私は誇りに思う。リンは私たち女性のために先頭に立ってその権利を擁護し続けてきてくれた。
それはタミー・ワイネットの「Stand By Your Man 」の時代を経由して多くの歌が生まれ、歌われてきた時代...」。マッキンタイヤーの言うとおり、リンは16曲の第1位と70枚のアルバムでそれらを歌い、殿堂入りを果たしていた。
更新日時:
2011/08/31
71    東京ヘイライド(71)、ミランダ・ランバート&ブレーク・シェルトン      真保 孝
●昨年秋、ナッシュヴィルのブリジストン・アリーナで行われた第44回CMAアワード賞の授賞式は、ミランダ・ランバート(27)とブレーク・シエルトン(34)のカップルが主役だったようだ。共にこの年の男女のトップ・ヴォーカリストに選ばれた二人はこの春(2011年)に結婚する。
 
ランバートは初婚だがブレークは再婚だ。二人は2006年にCMT主催の「100 Greatest Duets Concert 」で知り合った。以後、曲の合作、歌う曲のバックをお互いにつけあったりして親交を深めて、CMTのビデオ授賞式で正式に婚約を発表した。
 
●「どうしてこんな賞を貰うようになったか、私自身にも分からない。シェルトンにも言ったんだけど、二人で教会にお礼に行かなくてはねと。でも、私の受賞がほかのカントリー音楽の女性歌手達の地位を広げる道路の舗装の助けになるのなら、嬉しいわ」(ランバート)。
 
 楽屋ではロレッタ・リンがランバートの受賞を心から喜んで待っていた。
 
ステージで名前読み上げたリーバ・マッキンタイヤーも喜びで涙を流してくれた。
 
●テキサス生まれのランバートの父親は警官を退職後、フランス系の?妻のビヴァーリーと共同でアメリカには多い私立探偵をしている。仕事のかたわら父のリチャードはカントリー音楽の作曲にも手を出していた。
 
両親は彼女が9歳の時、ガース・ブルックスのコンサートに連れて行った。これがカントリー音楽に入る動機になり、16歳の時アーリントンで公開していたジョニー・ハイ主催のショウに出演できた。ちなみにこのショウは以前、あの「Blue」ヒットを出したリアン・ライムスの少女時代、売り出しにも関係していた。
 
●一方、シェルトンはオクラホマ州の出身で、2001年にワーナーからデビューした。ランバートの2004年より少し先輩にあたり、これまで第1位曲が4曲ほどある。しかし「Dead Flowers」「White Liar」(2009年)、「The House That Built Me 」「Only Prettier」(2010年) と続く、ランバートの時流に乗ったヒット連発の勢いは留まるところを知らない。
 
●夫婦カップルの同時受賞は、これまでティム・マッグローとフェイス・ヒル(1997年)、ロリー・モーガンとキース・ホイットリー(1990年)、リッキー・スキャッグスとシャロン・ホワイト(1987年)、そしてジョニー・キャッシュとジュン・カーター(1969年)と、さほど珍しいことではない。
更新日時:
2011/08/31
72    東京ヘイライド(72)、Orange Blossom Special      真保 孝
●「オレンジ・ブロッサム・スペシャル」。 日本では2027年の開業を目指してリニア中央新幹線の計画が、具体化してきた。
 
2013年度中には本格的な試運転を開始する。
 
西部劇などでお馴染みのアメリカ大陸鉄道は,これまで歌の格好のテーマとして造られ、歌われてきた。
 
19世紀のアメリカでは、西へ西への開拓が進み、1840年代に起きたゴールド・ラッシュは人々の西部への憧れに拍車をかけた。
 
しかしこの頃の米大陸の東西をつなぐ交通手段は幌馬車と駅馬車だけだった。
 
1861年、南北戦争が起きると、多くの軍人や軍需物資を速く運ぶために、鉄道の利用が一番便利であることがはっきりとしてきた。しかしその後の米国は自動車の時代に入り、鉄道は大きく衰退した。現在、オバマ大統領の提言で、環境汚染の関係から再び、大都市間を結ぶ鉄道が注目されている。
 
●さてさて、古くはまず「Wreck of the Old 97」「Wabash Cannonball」あたりが頭をよぎるが、ここでは「Orange Blossom Special」を考察してみよう。どの盤も好唱、好演で優劣はつけがたい。歌入りではスタンレー・ブラザース、器楽演奏ではトミー・ジャクソン盤がある。
 
時代を少し若くして、ジョニー・キャッシュ盤(Columbia 9109,1965年)を取り上げてみよう。この盤はキャッシュの12枚目(米国)のアルバムで売れ行きはよくて第3位、14週間のチャート記録が残っている。ただキャッシュ盤は意欲的で?主役はなんとフィドルではなく、ハーモニカ、サキソホンが多用されている。
 
●「それは確か1960年頃のマイアミでのコンサートの時でした。楽屋にひとりの控え目ですが、人を惹きつける老紳士が訪ねてきました。簡単な自己紹介の後、少し口ごもりながら数年前に自分が書いた曲が数曲あるというのです。
 
椅子を勧めながら、『それはどんな曲ですか?』と尋ねると、その問に直接答えずに、自分はこれまで古い民謡や美しい南部の海岸地方に伝わる伝承に興味を持っていることを話し、『自分はいま、最高のフィドルの曲を持っている』と答えました」(キャッシュ、同アルバムのライナー・ノーツより)。
 
●この曲こそが「Orange Blossom Special」でした。目の前にいる作者の男はアーヴィン・トーマス・ローズと名乗った。こうしてキャッシュはこの曲をタイトルにしたアルバムを作ることになる。
 
それまでこの曲は巷間、フィドルの名手、チャビー・ワイズの作とされてきた。だがローズはニューヨークからマイアミに帰る途中にこの曲のヒントをつかんで、1939年にすでに録音をしていた。
 
ワイズとローズは古くからの友人で、確かに二人はこの曲について作業をした事実はあった。しかし早く広く世に出たワイズ盤が知名力の点で、知れ渡ってしまった。
 
フロリダに住んでいたローズはこの日、妹の自転車を借りてはるばるキャッシュを訪ねてきたのだ。事実を知って感動したキャッシュとローズの交友はその後も続いた。
更新日時:
2011/08/31
73    東京ヘイライド(73)、Chubby Wise     真保 孝
●久しぶりにチャビー・ワイズの名前が出た。彼の本名はRobert Russell “Chubby “ Wiseと云い、フロリダで生まれて15歳からフィドルを手にした。
 
腕を上げて1938年に「Jubilee Hillbillies 」に出演する。ビル・モンローのバンドに入団したのはこの3年後の1942年で、1949年まで在籍した。
 
この48年から49年にかけての短い間だがクライド・ムーディと一緒で、モンローの第1期黄金時代を築き上げた。
 
後日ムーディ(1915~1989, 73歳)は「キング・オブ・ワルツ」と呼ばれて「Shenandoah Waltz」(合作)、「Carolina Waltz」と秀曲を残した。
 
●一方ワイズはフラット・アンド・スクラッグスの「Foggy Mountain Boys」を経て、1954年に名門のハンク・スノーの「Rainbow Ranch Boys 」に入団する。
 
スノウの曲造りとマッチしたのか、気性が合ったのか、長く1970年頃まで一緒に活躍した。記憶が正しければこの時代に来日して、今はない新宿の厚生年金会館でドキドキと夢のようなステージを観ることが出来た。
 
 在籍中にもセッションマンとして、マック・ワイズマン、レッド・アレンなどとも録音を残している。1984年、69歳で故郷のフロリダに半ばセミ・リタイヤーのかたちで帰郷したが、時々頼まれれば演奏会に出たという。
 
●ワイズが亡くなったのは、1996年6月6日のことで、メリーランドのボウイにある親戚の家を訪問中に、心臓麻痺で息を引き取った。享年80だった。ブルーグラス、カントリーにこだわらずに、幅広く正統派として渋く味のある演奏を聴かせたくれた。
 
ソロ・アルバムはマイナー・レーベルから7〜8枚出ている。入手が難しいと思うがスターディから出ている「Chubby Wise and the Rainbow Ranch Boys」「同、Tennessee Fiddler」は聴いてみたい2枚でもある(未聴)。最後のアルバムは1995年に出た「An American Original」(Pinecastle )である。
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2011/08/31
74    東京ヘイライド(74)、 ランディ・トラヴィス      真保 孝
●ニュース短信。ランディ・トラヴィスが永年ビジネス・マネジャーとして支えてきてくれた妻のエリザベス・トラヴィスと昨年10月に離婚した。同席した二人は今後それぞれの家庭生活は別にするが、ビジネス関係は継続すると発表した。
 
トラヴィスは10代の頃タレント・コンテストで優勝し、1970年代の始めにノース・カロライナのナイト・クラブでエリザベスと知り合い結婚した。二人は以後34年間、ビジネス・パートナーと夫婦生活の両方で良好な関係を続けてきた。
 
●エリザベスは歌手としてのトラヴィスの特性を最もよく知り、業界活動の良きガイド役を果たしてきた。
 
それは6ヶものグラミー賞を獲得させた実績が実証している。2004年「Rise and Shine」によりアルバム・カントリー音楽部門グラミー賞を受けたとき、二人は仲良く揃って出席していた。
 
またトラヴィスは2008年3月には新進のキャリー・アンダーウッドを次のオープリーの背負う歌手としてステージ紹介をしていた。
 
●次に、1年前の3月、アリソン・クラウスがマネージャーのデニス・スティフと契約を終えた。「我々は23年間共に成功を目指して活動してきたことを誇りに思う。ここに至るまで互いに難しい決断があったが、プロとして考え方の違いを埋めることが出来なかった。別れても尊敬と愛情は持っている」と同席して語った。 
 
 クラウスは独立系のレーベル、ラウンダーと契約したのは14歳の時で、以後27ケのグラミー賞を受けている。これは女性カントリー系歌手としては最初である。
 
●リアン・ライムスが昨年11月のCMAアワード会場に現れてボーイ・フレンドで俳優のエディ・セブリアンとの結婚説を改めて強く否定した。「私はこの悪質な噂に怒っています。もう何回も否定してきたのに!私の母までが先日呼びつけて正したのよ。絶対にそんなことはないと言ったわ。ツイッターやeメールで流されるのは、本当に迷惑だわ。真実ではないのよ」(ライムス)。
 
 そのライムスが昨秋、「Lady and Gentlemen」と云うアルバムの中でデビュー・ヒットの「Blue」のニュー・ヴァージョンを録音した。プロデュースはヴィンス・ギルである。「Blue」はライムスが13歳の時の曲で、彼女は現在28歳。
 
●昨年5月のナッシュヴィル洪水時にケンタッキーにいたギルは、自宅に大きな被害を受けた。長女の結婚式の準備もあったが、永年コレクションしてきたヴィンテージ楽器(ギター)の多くが水浸しになってしまった。約40台のギターの中には、愛妻エミー・グラントからの贈り物や二人が1994年にアルバム・セッションに使用した楽器などがすべて悪臭の河水の中にあった。
 
10歳でギターを、15歳で自分のバンドを持ったギルは、一時期Bluegrass Allianceに籍を置いたほどのテクニシャンだ。ブルーグラスにも手を伸ばすテクニシャンのギルはご多分に漏れず、マーティ。スチュアートと共に楽器マニアである。推薦のCDは大分古いが1998年に発売されたフィドル、スチールが絡む本格的正調カントリーが満喫できる「The Key」(MCAD 70017)である。今でも入手が可能?
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2011/08/31
75    東京ヘイライド(75)、 リアン・ライムス      真保 孝
●リアン・ライムスが前回ニュースの婚約否定を取り消した。まさに「舌の根も乾かないうちに」、「嘘も方便」と言うべきか、実の母までを裏切って(親子の共同作戦?)のコメントだった。
 
12月26日、一転して今度は婚約の事実を認めた。「私自身も大変ショックで、皆さんもこんなニュースは読みたくはないと思うけど、婚約して二人とも素晴らしい将来にとても興奮しています。」(ライムス)。
 
相手は予想通りに映画俳優のエディ・セブリアン(37歳)で彼は2001年にモデルと結婚し、2009年8月に離婚していた。前夫人との間には7歳と3歳の子供がいる。
 
●一方、ライムス(28歳)は2002年にダンス・トレーナーと結婚して、2010年6月に離婚している。
 
セブリアンは祖母がキューバ人で、4年ほど前の全米雑誌の人気投票でセクシーな男優として100人中の第2位に選ばれたことがある。二人は3年ほど前に共演したテレビ映画の仕事で親しくなった。
 
今回の離婚騒動について前セブリアン夫人は「こんな不健全な交際について語る言葉もありません。(ことわざを引用して)ダンスでタンゴを踊るのには二人が必要で、ひとりでは踊れません。この事件は私ひとりの責任ではありません」とコメントしている。つまりタンゴに限らず、ダンスはひとりでは踊れない。必ず相手が必要で、不倫も同様だと言うこと。
 
●女性歌手の低年齢化の記録は、「リトル・ダイナマイト」の呼び名で、1957年にデビューしたブレンダ・リー(13歳)の「One Step At a Time」に始まる。
 
次いで1972年にはタニア・タッカー(14歳)が「Delta Town 」で現れて、その少女離れした歌唱力に驚かされた。
 
以来24年ぶりに出た、今回のリアン・ライムス(14歳)も天才少女歌手と評された。
 
この3人に共通して云えることは幼い頃からの徹底した芸能界に売り出しを目指したステージ・パパ、ママの家庭教育である。ライムスはビジネス(ツアー)に忙しく家庭教師を雇い、満足に学校教育を受けていない。音楽活動の意見の相違からか、両親は離婚した。父がプロデュース、マネジメントまで手を出している。
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2011/08/31
76    東京ヘイライド(76)、 ネーミング        真保 孝
●バンドやグループの名前に興味がある。AKB48, EXILE, NUC, AAA, SMAP...これは紅白に出場した邦人グループの名前である。彼らが歌う聴き取り不能な歌詞の内容もさることながら、つける名前の西洋化にも驚かされる。
 
カントリー音楽の日本のアマチュア・バンドの命名にもそれぞれに工夫がされているようだ。多くは本場の自分の好きな歌手やバンドにあやかった名前が多い。なかには名前負けしているのもあるが、本人たちはその気になって演奏しているから微笑ましい。
 
●翻って、米国でのグループ(チーム)のバンドとしての活躍と人気の広がりは想像以上に大きい。各アワードには個人とは別にグループとしての受賞部門も設定されている。米国の場合、端的にはボーイズとかランブラーズ、ブラザースが多いようだ。
 
個人的に一番始めに覚えたグループ名は「Sons of the Pioneers 」だった。「開拓者の息子たち」、これはまことにシンプルで覚えやすい。だが彼らもこれに至るまでにメンバーの入れ替えと共に、「Rocky Mountaineers」」「International Cowboys」などの名前を使ってこの名前にたどり着いた。レパートリーにはその名前に偽りなく反映されていて、どんな盤でも安心して買うことが出来た。
 
●これに似た「Sons of the Desert」(荒野の息子達)は1989年の創設で、バンドの名前は昔の喜劇映画の人気チームであるローレル・ハーディの映画のタイトルに由来していると云う? メンバーの移動は次の通り。Drew Womack(ギター、リード・ヴォーカル)は1990年に参加したが、自動車のセールマンに転向するために退団した。現在のメンバーはテキサス生まれのTim Womack(Drew の弟で、ギター、ヴォーカル)、Doung Virden(ベース)で、次のScott Saunders(キー・ボード)、Brain Westrum(ドラムス)はDrewが抜けた後釜として、1993年に入団してきた。5人組である。Epicレコードから現在はMCAに移籍したが、ベスト10ヒットは1曲のみで淋しい。女性歌手のLee Ann Womackは兄妹かも知れない。
 
去る1月5日に亡くなった山下敬二郎が最初に所属したバンドは「サンズ・オブ・ドリフターズ」だった。
 
●昨年、6月に特別コンサートが開かれるなど、脚光を浴びてきたグループに「スタットラー・ブラザース」(Statler Brothers )がある(現在は引退)。スタートは古く1955年だが、人気が出ないで色々と名前を変えた。
最初はチャーチ・トリオ(Church Trio)、次いでキングスメン(Kingsmen)と名乗った。現在のグループの名前はある晩、彼らが宿泊したホテルの部屋に置いてあったティッシュ・ペーパーの箱からヒントを得た。当時「スタットラー・ティッシュ」なる会社があったかどうかは判らないが...。
 
このグループの人気はそれ以来すごい。1972〜77年、次の78年が駄目だったが、翌79,80,84年とCMA Vocal Group of the Year に輝いている。彼らのお手本はブラックウッド・ブラザース(ゴスペル・ハーモニー)であったから、レパートリーの多くは南部系のゴスペルだと言われている。米国人の宗教歌に対する嗜好(関心)が強いのも、彼らの人気長期持続の原因だ。
更新日時:
2011/08/31
77    東京ヘイライド(77)、 クリスタル・ゲイル       真保 孝
●クリスタル・ゲイル。ロレッタ・リンにはペギー・スゥーとゲイルという2人の妹がいて,従姉妹にはパティ・ラブレスがいる。
 
ゲイルは姉のリンよりも16歳ほど年下だ。母親によると歩く前に歌を歌ったという。夏休みには姉のツアーに参加していた。
 
しかし成長したゲイルは「姉のショウの一部にはなりたくなかった」と姉の威光(七光り)によることをとても嫌ったが、姉の夫のムーニーがマネジャーにつき、しばらくは姉の陰を背負っていた。
 
彼女のチャート・デビュー曲となった「I’ve Cried( The Blue Right Out of My Eyes 」は姉が書いてくれた曲だ。
 
●青い(ブルー)瞳、腰までの長い黒い髪の毛は彼女のトレード・マークだ。容姿は多分に東洋的な雰囲気を持つせいか?1979年中国(China )へボブ・ホープ率いる慰問団に参加して万里の長城まで行っている。これはカントリー女性歌手としては最初である。ちなみに1978年には来日して、武道館でコンサートを開いていた。
 
ゲイルの本名はブレンダ・ゲイル・ウェッブと云ったが、契約したデッカ・レコードには、すでによく似た名前のブレンダ・リーがいた。紛らわしいと名前を変えることになった。思いついたのが、全米でハンバーガー・レストラン・チェーンを展開しているクリスタル・ハンバーガーからだった。
 
「名前はどうでもよかったの。歌えて、レコードが録音できれば。分かりやすく、覚えやすい名前で気に入っている」(ゲイル)。
 
●1974年、姉のいるデッカを離れて、プロデュサーのアレン・レイノルズと知り合い、ユナイトに移籍した。
 
彼女の名前の紹介にはいつも「Loretta Lynn’s Little Sister」とか、時には「Baby Sister」とミスプリントされることもあり、耐えられなかったのだろう。
 
やがてそれらの呪縛から解き放され、1977年「Don’t It Make My Brown Eyes 」(邦題、瞳のささやき?)がブレークして第1位、ポップスでも第2位になった。グラミー賞、CMAのソング・オブ・ジ・イヤーにも選ばれた。同年「I’ve Cried」もリバイバル・ヒットした。
 
●おしまいに、昨年10月から日本ではタバコが値上げになった。姉妹の母親はすごいヘビィ・スモーカーで1981年11月に肺ガンで亡くなった。彼女はそれを悲しみ「Don’t Smoke 」を録音して、現在「American Cancer Society」の運営に協力している。
更新日時:
2011/08/31
78    東京ヘイライド(78)、ファロン・ヤングとウィルバーンブラザース      真保 孝
●ステージにあがった若者を、「皆さん、今夜は新しく将来性に富んだ青年歌手を紹介します」とフランク・ペイジはファロン・ヤングを観客に紹介した。紹介者のペイジはルイジアナ・ヘイライドで半世紀近くもアナウンサーを勤めてきたヴェテランだった。隣にいたウェッブ・ピアースもヤングのテンガロン・ハットのトップをぽんと叩きながら「さぁ、行け!」と激励してくれた。1951年10月のことだ。
 
●地元シュリブポートで生まれ、少し前の5月に高校を卒業したヤングの成績は在籍生徒244人中、236番目だった。両親はそれでも進学を望んだ。ヤングは歌手かカレッジにすすむか迷ったが、親身に後押しをしてくれるピアースの言葉に従って、父親の同意を得て歌手の道を選んだ。通学したフェアー・パーク高校ではウィルバーン・ブラザースのテディ・ウィルバーンとは同級生だった。
 
●テディ(1931〜2003)とドイル(1930〜1982)のウィルバーン兄弟はヤングよりの少し先の先輩チームとしてデビューを果たしていた。彼らは少年時代の1937年頃から、姉妹を交えた街角演奏「ストリート・ミュジシャン」から出発していた。在校時代には3人組で、ファロンのギターに合わせてキャンパスで歌っていた。
 
ウィルバーン兄弟のルイジアナ・ヘイライドのデビューは1948年である。その後1952年6月にはアーネスト・タブの紹介でオープリーに立った。その人気は1963年から74年まで自身の番組を持って全米テレビ局のシンジケートを張ったほどだった。ちなみにドイルは一時期、マギー・ボウーと結婚していたことがある。
 
●このショウには沢山の女性歌手がレギュラーになったが、売り出し中のロレッタ・リンが独立した後、抜擢されたのがパティ・ラブレスであった。兄弟のデビュー・ヒットは同じヘイライドで仲の良かったウェッブ・ピアースと一緒のあの名作「Sparkling Brown Eyes」(1954)を歌ったことも懐かしい。
 
 ヤングが新進歌手としてデビューした1週間後に楽屋にやってきたヤング・ガールたちに会った。彼女たちはウィルバーン・ブラザースを観にダラスからステート・フェアーにやって来た4人組であったが、ヤングを観てたちまち虜になり、「ぜひ、ヤングのファン・クラブを作りたい」と申し出た。アメリカではフアン・クラブの存在勢力は想像以上に大きく、強大であり無視できない。まだ独身でイケメンのヤングを見逃すわけがなかった。ちなみにファンクラブの会長には女性が多い。
更新日時:
2011/08/31
79    東京ヘイライド(79)、リーバ・マッキンタイヤー     真保 孝
●リーバ・マッキンタイヤー(Reba McEntire )が1992年に歌ったヒット「Greatest Man I Never Knew 」(第3位、20週間)はロデオ・チャンピオンであった父親のために書いた曲だと言われているが、実は違う。レイイング・マーティンという人の作品だが、ステージで歌う彼女のあまりにも感情を込めた歌い方が、それと思わせるほどに現実味に溢れていることからだ。
 
少女時代から父を尊敬して育った気持ちは今でも変わらない。オクラホマ生まれの彼女もロデオの出身で11年間も続き、最初の結婚相手もロデオのチャンピオンであった。
 
●ある日、やって来たロデオ好きのカントリー歌手のレッド・ステンゲルにスカウトされて、歌の道に入った。ルックスもヤンキー系の美人で、映画の出演本数も多い。
 
1974年、ステンゲルはオクラホマ市のロデオ大会で歌っている小柄だが当時20歳の若さ溢れるマッキンタイヤーを観た。すぐにナッシュヴィルに連れて行きマーキュリーと契約させた....これが今までの通説だった。
 
ところが実状は少し違う。ロデオ大会ので好印象は残ったが、ステンゲルはそのままホテルに戻った。しかしマッキンタイヤーの母親は周囲の人からこの話を聞いて娘のためにホテルまで追いかけてきて、ステンゲルを廊下で待ち伏せて売り込んだのである。母親の執念である。
 
●テキサス出身のステンゲルにはベスト10ヒットはないが、80年代まで堅実にヒット曲を出していた。歌手としては成功しなかったが作曲では高名で、ロデオのライターとしても、馬の飼育者としても知られている。
 
 ステンゲルの目に狂いはなく初期のマネージメントを取り仕切り、マッキンタイヤーは見事に開花していった。やがて1983年、数々のヒット曲をマーキュリーに残して、MCAに移籍した時、二人の関係は切れた。マッキンタイヤーは今年歳56歳、歌手生活35周年を迎える。
更新日時:
2011/08/31
80    東京ヘイライド(80)、Blue Eyes Crying In The Rain     真保 孝
●「Blue Eyes Crying In The Rain」。タイトルをそのまま訳せば「雨の中で泣いていた青い目」となるが、歌詞全体を通して読みとると、「雨に濡れたような青い瞳の恋人」と考えた方がいいと思うが如何ですか?
 
 「たそがれ迫る薄明かりの中で、最後のお別れの(「死」?)キスをした二人、もう永遠に会うことはない。燃えつきて残り火にも似た恋だったが、決して忘れることはないだろう」。「歳過ぎて、いま私の髪の毛も白髪に変わったが、別れて過ごしてきた人生は空虚に満ちたものだった。何時の日か(someday )会えるとしたら、互いに手を取り合って、2度と別れることのないこの地(天国?)で語りあおう」。
 
●この曲はフレッド・ローズがロイ・エイカフと組んでAcuff Rose 出版社を設立した年1945年に作曲された。多分オリジナルはエイカフ盤だと思うが、その後多くの歌手たちによって繰り返し歌われ生き続けてきた。それが約30年後の1975年の7月に、突然ウィリー・ネルソンによって見事にヒット、チャートに生き返った。
この年、ネルソンはアトランティックからコロムビアに移籍していたが、その第1作であった。第1位、18週間の記録である。パッツイ・クラインの「Crazy 」に始まり、長く作曲家としての名声を続けてきたネルソンは、この曲によって、歌手としての遅い地位もようやく確立した。
 
●さて、ネルソンの名唱も捨てがたいが、ここではハンク・スノウ盤を強く推したい。イントロのスチール・ギターに続き、37歳(1951年録音)の円熟のスノウはこれでもか、これでもかと例の独特の巻き舌で抑揚の効いた声で歌う。間奏に入る、むせぶように計算されたような単音のスチール・ギターはまさに圧巻で、曲の背景を彷彿とさせ、感傷的に泣かせてくれるには充分だ。
 
●ローズはそれまでにないカントリー・フレィバーに溢れた曲を作り続けて、人々から「Song Doctor 」と呼ばれて慕われた。ハンク・ウィリアムスの数々の名曲も彼の協力なくして完成しなかった。
その昔、ヴィンス・ギルが使用する楽屋の部屋はかってロイ・エイカフが生前、常用していた部屋だった。エイカフは部屋のドアーを閉めようとはしなかった。それは誰でもいつも気軽に入ってきて、話しあうことが出来るようにとの配慮からだった。アーネスト・タブも、そしてエイカフも大御所としての謙虚な気遣いを常に持っていた。それも多くの歌手達から慕われた所以でもある。
更新日時:
2011/08/31
81    東京ヘイライド(81)、 ジム・リーブス    真保 孝
●「私は何回もあんな小さなプロペラ機で飛ぶなんて、危険だと警告した」(チェット・アトキンス)。
 
47年前の7月31日、カントリー音楽の歴史に残る事故が起きた。巡業先からナッシュヴィルに帰る途中のジム・リーブスと、バンドのピアノ・プレイヤーとロード・マネジャーを兼ねたディーン・マニュエルが飛行機事故死した。
 
訃報を聞いたアトキンスは「悲惨だ。これ以上の惨めさはない。この悲しみを超えてゆくことは出来ないだろう」と語った。
 
●事故の3日後、人々は墜落したと思われる場所、ブレントウッドの周りに残骸を求めて、もしやの期待を含めて探し回った。その土地はマーティ・ロビンスやエディ・アーノルド達が住んでいる場所に近く、100人に近いボランティアが捜索に協力した。ナッシュヴィル市郊外の森林地帯で大破した機体や座席、エンジンなどが散乱していた。
 
 「このニュースを運転中の自動車のラジオで聴いた」と云うブラウンズのジム・エド、マキシンとブラウンはすぐに自動車を道路の脇に止めて、しばし沈黙した。「僕たちは探しに、探しました。チャーターしたヘリコプターに乗って30分以上も捜索した」(エディ)。エディの事務所は墜落した場所からわずか半マイルの所にあった。
 
●その結果、マニュエルの遺体は機内に残されていたが、リーブスの遺体は無惨にも機外に投げ出されていた。翌日のナッシュヴィルの教会には悲しみを嘆く人々で溢れていた。アトキンス、アーノルド、フロイド・クレーマー、ブラウンズ、そして奇禍を聞いて駆けつけたレッド・フォーレー、スキーター・ディビス、ファーリン・ハスキー、ウェッブ・ピアース、ドティ・ウェストなどなど...。「後から来た人々は教会内に入りきれずに外に立っていた」(アーノルド)。
 
●いま、リーブス(James Travis Reeves )は故郷のテキサスのパノラ・カントリーの墓で眠っている。9人兄弟の一番下の子供として、1923年8月23日、貧しい農家に生まれた。享年40。
 
 この年の7月遺作となった「I Guess I’m Crazy 」が第1位を快走中だった。続く「I Won’t Forget You」が第3位、「This Is It」、「Is It Really Over?」が共に第1位を占めた。そして死後も評価は長く続き、1980年代はじめまで衰えることはなかった。
更新日時:
2011/08/31
82    東京ヘイライド(82)、 ハンク・スノウ     真保 孝
●「イエロー・ローゼス」。ハンク・スノウが1955年に出した「Yellow Roses」(第3位)は、「Let Me Go Lover!」(1944年、第1位)のひとつ前のヒットだった。知る人ぞ知る格調高い名曲で、前作の「Let Me Go Lover!」に比較して見劣りがしないどころか、むしろ何故これが第1位にならなかったのかが、不思議である。
迂闊にも同名の曲名がドリー・パートン(1989年、第1位)にもあり、てっきり同じ曲のリヴァイバルかと早合点したことがあった。パートン盤は彼女の自作で内容は同じく失恋であるが、彼女の広いネーム・ヴァリューからか、現在ではこのほうがかなり幅広くカヴァーされている。悪くはないが、心情を歌う説得力から評価すればオールド・ファンにはやはりスノウ盤であろう。
 
●黄色いバラの意味(花言葉)は「恋に飽きる」、「失恋」、「嫉」などがある。歌詞はこれをふまえて、ある日、恋人から黄色のバラと一緒に別れの手紙が届くことから始まる。男はそのバラを彼女の写真の横に飾り、過ぎし日々を回想する。バラはやがて枯れて、その時二人の恋も終わるのである。これはスノウ盤であるが、パートン盤も内容は失恋である。聴きながら時々、スノウの代表曲「(Now And Then, There’s ) A Fool Such As I 」と重ね合わせることがあるが、思い過ごしであろうか?
 
●作詞者はケン・デヴァイン、作曲者はサム・ニコルスである。ケンについて詳細は不明(カナダ人?)だが、ニコルスは1918年にテキサスで生まれている。背が高く(6フィート)、ステージでは通常「カウボーイ・サム・ニコルス」と名乗り、バンド「Melody Rangers 」を率いていた。18歳の時にシボレー自動車のコンテストで優勝してこの道に入ったがチャート上のヒットはない。
 
●さてこのように「黄色いバラ」は別れを意味するが、別に「テキサスの黄色いバラ」(The Yellow Rose of Texas )と云う曲もある。ジョン・フォードの映画の主題歌として、ミッチー・ミラーのヒット(1955)などでこの曲の方がむしろ有名である。
曲趣は反対に明るく軽快で陽気である。小坂一也も歌っていたが、原曲はアメリカ南部の古い民謡である。メキシコ領から独立戦争をしたテキサス州を当時、勝利に導いた若い女性エミリー・モーガン(モルガン?)を人々は愛称として「黄色いバラ」と呼んだ。
 
●色彩的には黄色いバラが大好きで、どうしてもこの色を買ってしまう。同様に亡き名優のヘンリー・フォンダも黄色のバラを好んだ。画家としても才能のあったフォンダは自宅でバラを栽培して、ついに黄色いバラの品種「ヘンリー・フォンダ」を創りあげた。そしてここでも映画「荒野の決闘」で、スクエアー・ダンス・シーンでの、はにかみながらキャシー・ダウンズ(クレメンタイン)と照れくさそうに踊るフォンダを思い出す。
更新日時:
2011/08/31
83    東京ヘイライド(83)、 Rest In Peace     真保 孝
●2人のスチール・ギター奏者の他界。年が改まった2011年、正月早々からチャーリー・ルービンを始めとして、ナッシュヴィルでは悲しみの葬儀が続いた。知名度、人気の大小はあるとしても、その人の歩んだ道の功績の評価は高く、ご冥福を祈りたい。
 
●まず少し(大分?)古くなるが、1月11日にトミー・クラインが郊外のフランクリンの自宅で、他界した(59歳)。
 
クラインと云う人は、現役時代にチャーリー・ダニエルス・バンドで長くギターリストだった。右腕として信頼してきたリーダーのダニエルスにとって痛手は間違いなかった。
 
「私たちはまたひとりの大切な友人を失った。音楽業界は想像力が豊かで、お金ではもう買うことの出来ない貴重な人材を...」(チャーリー)。クラインは引退後、妻の乗馬に寄り添い、時々求めに応じてステージにも立っていた。
 
●クラインはナッシュヴィルで生まれ育って、1975年にダニエルスに入団した。抑え気味(セーブした)ギター・ワークはバンド全体のサウンドを構成する上で大切な存在だった。曲造りもして約60曲に近い作品を残していた。ちなみに同バンドの始めての第1位曲「The Devil Went Down To Georgia」は彼の作品である。
 
生前クラインは生涯の思い出として「2002年、ジミー・カーター元大統領にホワイトハウスに招かれて、プールサイドで演奏したことだ。この時、カーターの息子のエミーが遊んでいて、私の鞄をプールの中に落してしまった。シークレット・サービスが拾い上げてくれたが、エミーはもう2度とこんなことはしないと、謝ってくれた」と語っていた。
 
●さらにルービン他界のニュース(26日)の陰に隠れるように、27日にバディ・チャールトンがヴァージニァ州の自宅で息を引き取った。肺ガンで72歳だった。
チャールトンは1962年から72年までアーネスト・タブのバンド「テキサス・トルバドールス」でスチール・ギターを担当していた人だ。
 
●バンドを退団した後、ワシントン・DCでスチール・ギターの学校を始めたが、ここで学んだ生徒の活躍がすごい。ブルース・バートン(G.ブルックス、R.マッキンタイヤー)、ピート・ファイニー(ディキシー・チックス、P. ラブレス)、ロビー・ファイント(A.ジャクソン)、トミー・ディトモアー(G.ストレート)トミー・ハンナム(E.ハリス、R.ヴァン・シェルトン)などのバンドにプレイヤーを輩出している。
 
●チャールトンは音楽界にはいるまでは煉瓦積みの職人をしていた。時々頼まれてパッツイ・クラインのバンドで働いたが、その腕を見込んでクラインがタブのバンドに紹介してくれた(バディ・エモンズの後釜かも?)。この時チャールトンは自宅に電話がなかったので、タブは彼の自宅近くのラジオ局のDJに頼んで入団の連絡を取ったという。翌日、23歳の彼はヒコーキでやって来て、オレゴンで演奏中のタブのバンドに合流した。
更新日時:
2011/08/31
84    東京ヘイライド(84)、 メル・ティリス     真保 孝
●昨年はカントリー音楽をテーマとした「クレイジー・ハート」だったが、今年第83回のアカデミー賞で「英国王のスピーチ」が4部門で受賞した。
 
内容は吃音(きつおん)に悩んだジョージ6世とスピーチ・セラピストの交流を描いたもの。
 
 カントリー音楽ではメル・ティリスが幼年時代にマラリヤの余病から吃音になったが苦労の末、克服した。パン屋だった父親は家族を捨てて去り、母親が缶詰工場で働いて一家を支えた。その母親がすこしづつカントリー音楽の楽しさを教えてくれた。
 
●「僕は6歳で、学校に通うようになったけど、それまで自分が吃音だとは知らなかった。僕がしゃべると友達は僕のことを笑うので始めて気がついた。家に帰って母に聞いてみた。『ママ、僕は吃音なの?』『そうよ』『それでみんなは笑うんだね』『笑われたって気にしてはダメよ』
 
その日からティリスの吃音を矯正するための努力が始まった。ある日、その矯正の方法として歌を歌うことに気がついて、音楽の道を選んだ。歌っているときに不思議に吃音にないことに気が付いたからだ。
 
●オープリーのミニー・パールはティリスのその考えに賛同して応援をしてくれた。オープリーにデビューした頃、ティリスを呼んで諭してくれた。「もし歌手を続けるなら、歌い終わった後、観客に向かって曲の紹介を言いなさい。怖がらないで、落ち着いて語りかけることによって、あなたの吃音は少しずつ治ると思うわ」...と。
「でもパール、観客は笑わないかな」「ノー、決して笑わないわ」。「それで決心して次のショウ、確かジョニー・キャッシュのステージだったか?しゃべってみた。こうしてだんだんと自信をつけたことで、後のテレビ番組に乗り遅れないで済んだ」。
 
ティリスは現在まったく吃音にならないで歌っている。
 
●一説にはティリスは1000曲近くを書き、そのうち約600曲が幅広くメジャーな歌手達のヒットにつながった。「Detroit City」「Ruby Don’t Take Your Love To Town」「Good Woman Blues」などがある。60枚のアルバム、36曲のトップ10ヒットを残してセミ・リタイヤーしたティリスは、ブランソンに自分の劇場を開館したが、1992年に売却した。数々の賞を受賞して、2007年に栄えある殿堂入りを果たした。日本ではもっと聴かれてもよい偉大な歌手である。
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2011/08/31
85    東京ヘイライド(85)、 チャーリー・プライド     真保 孝
●チャーリー・プライド。
しばらく活動をスローダウンしていた今年73歳を迎えるプライドが、実に5年ぶりにこの3月に新しいアルバムを出したという。
 
「私のフアンたちは以前のように、私に歌い続けることを希望しているようだ。出来れば毎年新しいアルバムを出したいと思う」(プライド)。
 
言葉通りにファンからの要望は強い。
 
ごく最近のステージ・ショウではセミ宗教的でノスタルジックな曲(このアルバムにも収録?)「American the Great」を歌い、観客から大きな拍手を貰った。
 
●「これからの仕事はよりよい歌詞と心を打つエモーショナルな曲を提供するつもりだ。それらを創造して実行して行きたい」(プライド)。
 
 少年時代のプライドにカントリー音楽のよさを知らせたのは、ミシシッピの自宅にあった古いフィルコ社製の一台のラジオであった。
 
貧しい小作人の家では、オープリーの中継放送を聴くことが週末の唯一の楽しみだった。ラジオからはロイ・エイカフやアーネスト・タブ、ハンク・ウィリアムスの歌声が流れてきた。
 
●しかし家族は何故プライドがカントリー音楽に興味を持つようになったか不思議でならなかった。
 
きびしい綿畑で働いて得たお金で、シアーズ通販でギターを買った。
 
まわりの人々は黒人にとって、白人のカントリー音楽なぞ無用な存在だとしきりに諫めた。
「だけど少年の僕は好奇心が強かった。初めはとても困惑させられた白人のカントリー音楽は、僕にとってとてもユニークだった。彼等は何故あんなサウンド(スタイル)を好み、演奏するのか?」(プライド)。
 
●プライドが過ごした南部の青春時代は、バスも公衆トイレも区別されてまだまだ人種差別が強かった。
 
 「もし君と僕が街中で出会い、一緒のドラッグ・ストアにソーダ水を飲みに入ったとする。だけど僕と君は別々の入り口から入り、そして違って離れたカウンターに座るんだ。ウェイターはまず君の注文を聞きサービスをしてから、僕の所にやってくるんだよ。これじゃー、お互いに会話をすることなんか出来やしない」(プライド)。
 
●キング牧師の悲しい暗殺事件後、時代は大きく変わった。
 
唯一の希望であった、黒人としての大きな夢が叶えられるプロ野球選手を目指した。当時は野球とボクシング以外に黒人が社会的に活躍する場は認められていなかった。
カリフォルニア・エンジェルスから投手と外野手のポジションを与えられ、正式な選手登録もされた。しかしヒジに怪我をしたことから1950年の後半、野球をあきらめてモンタナに戻った。
 
そして1960年代の始めに勇気を出して音楽の道に転換、ナッシュヴィルに挑戦することになる。
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2011/09/01
86    東京ヘイライド(86)、 ラルフ・ムーニー      真保 孝
●ラルフ・ムーニー。 今年に入ってスチール・ギター奏者の訃報が続いているが、3月20日にラルフ・ムーニーがテキサスのアーリントンの自宅で腎臓癌で他界した。82歳だった。
 
この人を知らないとは言わせない。あのレイ・プライスの大ヒッ曲「Crazy Arms」(1956)の作者の一人である。「Talk To Your Heart」でデビュー(1952)、「星を見つめないで」(1952)で躍進、「リリース・ミー」(1954)でその位置を確保したプライスはこの曲によって必ず売れるスター歌手として認められた。
 
●1956年はロックン・ロールと正調カントリー音楽、関ヶ原の戦いの年だった。年間ベスト・ヒット10の内、実にエルヴィス・プレスリーが5曲近くを独占していた。その中でこの曲はプレスリーの「Heartbreak Hotel」(17週間)を押さえて、20週間のチャート数を記録した。
 
しかしこの年を境として、カントリー音楽のヒット・チャートはロックン・ロールに市場を次第に奪われてゆく。
 
一説には、プライスが並み居る諸先輩に先駆けて1996年に一足早くCMAの殿堂入りが出来たのもこの動向のお陰だと言われている。
 
●オクラホマで生まれたムーニーはペダル・スチールの考案者として有名だ。少年時代にボブ・ウィルスのバンドにいたレオン・マッコーリフの「スチール・ギター・ラグ」を聴いたのが、この道に入る動機になった。
 
早くから西海岸に出てキャピトル・レコードのスタジオ・ミュジシャンとして働いた。バック・オーエンスの「Under Your Spell Again」「Foolin’ Around」、マール・ハガードの「The Bottle Let Me Down」「Swinging Doors」などのセッションにも参加していた。
 
●だから当時、「彼(ムーニー)のユニークな足のペダルがハガードをスター歌手に仕上げた」と言われるくらいだった。ホンキー・トンクを源にしたドライブのかかったエネルギッシュなトーンは一聴してムーニー・サウンドと区別された。
 
後年ウェイロン・ジェニングスを助けて大成功させ、さらに晩年はセミ・リタイヤーした彼を自宅まで訪ねてきたマーティ・スチュアートの心意気に感じた。昨年発売のアルバム「Ghost Train : The Studio B Sessions 」で楽しむことが出来る。
 
●「ぜひ、ナッシュヴィルに戻って欲しい」(スチュアート)。二人はムーニーの自宅の庭で、真夜中までセッションを続けた。満月でサボテンの花の香りで一杯だった。終わってスチュアートは丁寧に楽器を室内に運び入れて、別れを告げた。
「私の人生の中でもパーフェクトな一日だった。子供の頃、ベーブ・ルースに憧れて一緒に野球をするのが夢だった。それと同じようにムーニーとプレィをするのが生涯の夢だった」(スチュアート)。
 
スチュアートは2011年、海外ツアーの直前1月に健康を害したムーニー宅を再訪している。「彼はいつまでも活躍を続けるように、激励してくれた」。
 
ムーニーの墓は自宅近くのアーリントンにある。
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2011/09/01
87    東京ヘイライド(87)、カールトン・ヘイニー     真保 孝
●ブルーグラス創始者の他界。
人の成功と名声はその人の努力や才能にもあるが、陰でそれを支えてくれた妻や家族、そして関係者達の協力があったからだ。ビル・モンローは「ブルーグラスの父」と言われて久しいが、彼をあそこまでの存在に立たせたのは、この3月に亡くなったカールトン・ヘイニーが居たからである。
 
 ヘイニーはマイナーだったブルーグラスを商業的なベースに乗せた貢献者のひとりである。特に野外フェスティヴァルは彼の企画・実行力から出発したと言ってよい。それまでの「Bluegrass 」と言う言葉を「Blue Grass」としたのも彼の発案だった。
 
●1965年のレーバー・デイ(労働記念日)の週末にヴァージニア州のロアノークで開かれた野外「ブルー・グラス・フェスティヴァル」(第1回)に顔を揃えた出演者たちの顔ぶれを見て人々は驚嘆した。モンロー、マーチン、ワイズマン、レノ・アンド・スマイリー、ワトソン、スタンレーなどほとんどの歌手、演奏者が出演していた。ハイライトは主催者のヘイニーが司会し、ラルフ・リンズラーが助言者となった「The Story of Blue Grass Music 」だった。当時まだ地域的な広がりだったブルーグラスだが、ここまでの顔触れを一同に集められたのは、ヘイニーのこの分野における実力に他ならない。
 
●以後、「フェスティヴァル」は毎年開かれ、最後は確かヘイニーのホームタウンの近くノース・カロライナ州キャンプ・スプリングまで続いた。業界で力をつけたヘイニーは、ラジオ、テレビなど全米各地でショウを開催したが、カントリー畑にもプライス、ワゴナー、ハガード、リンなどの公演、録音にも手を出した。
 
 遠い日本で米国の野外ブルーグラスの開催を知ったのは、彼が発行したブックレット「Muleskinner News 」(初期はガリ版タイプ印刷)が送られてきたことからだった。多分これらはフェス会場でプログラム替わりに配られたものだったかも知れないが、最新のニュースが掲載されて楽しみだった。
 
●ヘイニーは1928年9月にノース・カロライナ州レイズヴィルで生まれた。この町は別名「Football City 」と呼ばれ、昔はアメリカン・タバコの大会社があって雇用が促進されて栄えたが、後日会社は閉鎖され、人口は現在15,000人ぐらいだ。
 
高校時代に野球の捕手を勤め、週末には家族でオープリーをラジオで聴いた。兄弟は友人とバンドを組んでいたが、彼のビジネスの商才はこの頃から芽生えていたらしい。ラルフ・リンズラーの後、ビル・モンローのブッキング・マネージメントを務めたのを手始めに、レノ・アンド・スマイリーなどのエージェントも手広く任された。
 
●資料で読むと、この彼がブルーグラスの業界に興味を持ったきっかけは何とビル・モンローの娘(メリッサ、16歳)との出会いにあったと言う。息を引き取ったのは2011年3月16日、ノース・カロライナのグリースボローの病院で、死因は心臓麻痺だった。享年82。
 
「まるで、ブルーグラス音楽を支えてくれていたドアーのかんぬきが折れたようだ。亡き後、僕ら第2世代が頑張らなくてはならない」(ドイル・ローソン、1968年以来フェスに参加してきた)。
更新日時:
2011/09/01
88    東京ヘイライド(88)、レフティ・フリツェル     真保 孝
●「パパとママのワルツ」。5月の「母の日」に続く、6月の第3日曜日は「父の日」だ。「あのパパとママに会えるなら、どんなに遠くまで歩いても構わない。子供の頃に愛する2人のそばにいたとき、どんなに幸せだったか判らない」。この曲はレフティ・フリツェルの名作だ。
 
邦題はそのままに「パパとママのワルツ」として発売され、かって、小坂一也の持ち歌として人気を得て、小坂盤がオリジナルと勘違いした人もいた。
 
●「テキサスのダラスにいた頃、失業して毎日空腹で暮らしていた。そんなときに、いつも思うのは故郷のテキサスの西部に住んでいる両親のことだった。例え何マイル歩いてでも、優しい父母のもとに帰りたくなった。そんな思いを込めてこの曲を作った」(フリツェル)。
 
 フリツェルの故郷はテキサス州のコルシカナで、その顔だちからも判るようにインディアンの血を引いて生まれた。
 
石油労働者、移動農民だった父には8人子供がいて、兄にアラン・フリツェル、弟にディビッド・フリツェルがいた。
 
●後年、ディビッドは兄のアランと結婚したシェリー・ウェストと組んで(1981〜82年,CMA. Vocal Duo Award)ヒット曲(バックのギターはアランが担当)を出しているが、このシェリーはあのドティ・ウェストの娘である。
 
フリツェルは来日していないが、ディビッドは2003年11月に来日公演(関西のみ)して、兄の持ち歌を聴かせてくれた。
 
●フリツェルが当時どのくらい米国で人気があったか。連戦連勝で1950年7月にオープリーと契約したときの条件は、1949年契約のハンク・ウィリアムスと同格の待遇で、楽屋・化粧室もハンクと同じランクの部屋が用意された。
多忙な巡業のスケジュールを消化するために、カントリー歌手としては最初に飛行機を使用した。この飛行機のパイロットはミニー・パールの旦那のヘンリー・キャノンだった。自家用車は最新のキャデラックが3台、ハンクもエルヴィスも、ピアースの誰もがキャデラックを所有することが歌手としてのステータスであった。
 
●順風万帆のフリツェルに1951年の秋、アルコール中毒と金銭上のトラブルから、オープリーの楽屋で逮捕されるという事件が起きた。それ以来次第にヒットが出ず、人気も衰えるようになる。1964年の「Saginaw, Michigan」(第1位、26週間)は奇跡的な大ヒットだった。
 
 1975年7月19日、心臓麻痺で他界した。まだ47歳という若さだった。ちょうどこの日、フリツェルの影響を受けたウィリー・ネルソンの「Blue Eyes Crying in the Rain」がチャートの第1位を飾っていた。他の歌手たちにも影響を与え、ジョージ・ストレートもアルバム「Something Special 」の中で「Lefty’s Gone」を歌っていた?。
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2011/09/01
89    東京ヘイライド(89)、レッド・フォーレー     真保 孝
●レッド・フォーレーとパット・ブーン。いきなりパット・ブーンが出てきて驚かれると思うが、話を続けよう。
 
古い人だからフォーレーを知らない人も多いと思う。
 
その昔ロイ・エイカフとフォーレ−はカントリー音楽界における東西両横綱の存在だった。4歳若いエイカフがオープリーで名声をあげれば、フォーレーはシカゴのWLSラジオ局の「ナショナル・バーン・ダンス・ショウ」「オザーク・ジュービリー」などで人気を集めていた。その彼(フォーレー)と夫人のジュディ・マーチンとの間に生まれた娘のシャーリーはパット・ブーンと結婚した。
 
●二人はナッシュヴィルの高校が一緒で教会主催のパーティで知り合って結ばれた。「この出会いは神様によるまったくの偶然的なものだった」(ブーン)。
 
シャーリーは16歳だった。フロリダで生まれたブーンは移住して少年時代をナッシュヴィルで過ごしていた。家族(4人姉妹)は信仰心が強く、「Boon Family」と云う名で各地を巡業したくらいだった。この二人の間に生まれたのがデビー・ブーンである。現在ロスに住むブーンは宗教活動に熱心で、人気の第1戦を退いた後も数多くの賛美歌のアルバムを出し続けて、この世界ではカリスマである。
 
●義父のフォーレーは殿堂入りを果たした翌年、1968年に58歳で他界した。
 
「少年時代からの僕のアイドルはビング・クロスビー、ペリー・コモなどだったけど、彼女(シャーリー)と出会うまではカントリー音楽についてはなんの興味も持っていなかった。デートを重ねてある日、彼女の自宅を訪ねて、義父に会った時から大のフアンになってしまった。それからは義父が出番の夜、オープリーの舞台の袖で楽しんだ。義父が観客に友人のようにくつろぎと暖かみを与え、素素晴らしい声で歌った。こんな世界で歌いたいと勉強を続けた」(ブーン)。
 
●フォーレーの功績はカントリー歌手として時代的にも一番早くポピュラー畑まで、その領域を広げたことだ。彼の後、多くの歌手達が続き貢献したが、フォーレーこそがパイオニアーと言える。「Shame On You」「Alabama Jubilee」「Chattanooga Shoeshine Boy」などのヒットは当時、ヒルビリーからカントリーへの大きな転換の起爆剤となり、両分野から愛された。「ステージで芸達者な僕はどんな歌手の物真似も出来たけど、フォーレーの真似だけは出来なかった」(サミー・デイヴィス Jr)。
 
「Chattanooga...」はビング・クロスビーも歌ったが、第1位はフォーレー盤であった。
更新日時:
2011/09/01
90    東京ヘイライド(90)、 ドット・レコードとランディ・ウッド   真保 孝
●(先週に関連して)。1950年代に軽音楽界の保守と革新の戦い?と言われた代表選手がエルヴィス・プレスリーとパット・ブーン。
 
プレスリーがメンフィスのサン・レコードを初めて訪ねた1953年7月、同じ年の11月にはブーンはすでにレッド・フォーレーの娘で同級生のシャーリーと結婚式を挙げていた。
 
両極端の二人の共通点は、共に神に対する強い信仰心で、それぞれが心のこもった賛美歌のアルバムを録音している。
 
 しかしシングルの第1位曲では、プレスリーの14曲に対して、ブーンは5曲と大きく水を空けられている。
 
「彼は素晴らしい声の持ち主だ。特にバラード・ソングは抜群だ」(プレスリーのブーン評)。ブーンのリズムのノリは前ノリで、プレスリーのようにバック・ビートでは歌えなかったらしい。
 
●ブーンはドット・レコードの専属だった。近着の雑誌でドットの設立者ランディ・ウッドの他界記事(4月9日)が載っていた。今年94歳のウッドは自宅の階段から転落し、複雑骨折が死因とされている。「私にとってよき助言者であり、指導者でもあった。私は13年間ドットに在籍していた」(ブーン)。
 
このドットの発足は1950年だから、サン・レコードとほぼ同じ頃になる。ナッシュヴィルでの家電販売店から始まり、ついでに店の片隅に置いたストック・レコードが人気を呼び、ティーン・エイジャー向けの通信販売に切り替えた。マイナーなレーベルはキングにしてもアボット、スターディにしても、みな通信販売から出発している。
 
●順調に業績を伸ばしたドットは、カントリー音楽でも大きな勢力を持つようになった。トミー・ジャクソン(1952〜55)、ジミー・C・ニューマン(1954〜57)、カウボーイ・コーパス(1957)、ロイ・クラーク(1968〜77)、バーバラ・マンドレル(1975〜77)、ドン・ウィリアムス(1974〜77)、トミー・オーヴァーストリート(1969〜78)など。
 やがて1956年ハリウッドに進出した後、パラマウントを経てMCAにつながり1974年に幕を降ろすことになる。
 
●記憶に残る3つのこと。「砂に書いたラブレター」(Love Letters in the Sand )はブーンによってリバイバル・ヒット(1954年)したと知られているが、実はそれより数年前にすでにワイズマンによって歌われてファンの中では好評だった。
 
その2、1957年歌手としての実績のなかった映画俳優のタブ・ハンターに目をつけて「Young Love」を歌わせてオリジナルのソニー・ジェームス盤を抜いたこと。
 
今ひとつはウッド(ドット)がマック・ワイズマンと契約、同社のブルーグラス部門を活性化させたこと。ワィズマン(1955〜61年在籍)は自身「Ballad of Davy Crockett 」(第10位)、「Jimmy Brown the Newsboy」(第5位)のヒットを出して期待に応え、またレスター・フラットとのアルバム・プロデュース「Lester ‘N’ Mac」(1971)、「Country Boy」 (1973,共にRCA発売)もした。
 
ウッドのモットーは「Simple and Easy to Remember」であった。その意味で最近のカントリー音楽は複雑になり過ぎたように思えるのだが、杞憂だろうか?
更新日時:
2011/09/01
91    東京ヘイライド(91)、 ケニー・ベーカー     真保 孝
●友人から電話でベーカー他界の知らせを貰った。85歳だった。長年ビル・モンローのもとでフィドラーとして文字通りモンローの右腕として「ブルーグラス・ボーイズ」を支えてきた。
ボーイズの初代フィドラーはトミー・マグネスだったか?次はチャビー・ワイズ(1957年?)になった。以後、次々とメンバーが変わる中で、ベーカーは一番長く(1984年頃まで?)モンローを支え続けたひとりだった。
 
●そのベーカーが1984年の秋に遂に袂を分かった。原因は定かではないが、機嫌のよいときは陽気だが、短気で怒りっぽく頑固なモンローは、自分の曲の演奏に細かい要求を出していたらしい。常に最高を目指すミュージシャンとしては当たり前のことだが・・・・。
 
後味の悪い離別の後バンドを去り、その後1994年頃まで和解することはなかった。再会したのは、モンローが主催したビーン・ブロッサムのフェスだった。この時ベーカーはドブロのジョッシュ・グラビスと共演した。
 
●歴代で、初代のマグネスはまだオールド・タイミーなスタイル奏法で、次のワイズはカントリー色の強い奏法だったが、ベーカーはどちらかというとヒルビリー的だった。門外漢で詳細は判らないが、独自にジャズの奏法を取り入れて「ロングボウ」と言うスムースなスタイルを発展させた。「ブルーグラスにはジャズ的な要素はないが、ヒルビリーにはそれを求める余地が残されている」(ベーカー)。
 別れたとは言え、ベーカーは以前に「Kenny Baker Play Bill Monroe」〔1977年、County 761〕と言うアルバムを出して尊敬?していた時代もあった。
 
●ケンタッキーで生まれたベーカーの祖父、父は共にフィドラーであった。独学で8歳の時からフィドルを始めた。炭坑で働き、地元のローカル・ダンスでの演奏が主だった。
 
 1953年、ベーカーはノックスヴィルのWNOX放送局に出演中のドン・ギブソンと出会い、ギブソンのバンド・メンバーとなった。
 
当時のギブソンはヒットが出ずに、まだ無名だった。「Sweet Dreams」「Oh ,Lonesome Me」が出るには、まだ5年ほど後になる。
 
 ここで大胆な仮説を考えてみた。日本でラジオ番組のオープニング曲にもなり、人気のあったブルーグラス調のフィドル・ナンバー「Carolina Breakdown 」は、実はこのベーカーが弾いていたのではないかと?この曲は米国では殆ど人気がなかったらしく、データも残されていないが、一度聴いたら忘れられない。
 
●いつも艶のある音色を心がけていた負けず嫌いで努力家のベーカーは週の初めから心臓を病んでいたが、7月8日(金)息を引き取った。
 
「私見だが、モンローのサウンドはベーカーがいてこそ、その魅力を発揮できたと思う」(ビル・アンダーソン)。
 
口論もしたが、モンローもステージでベーカーを立てていた。二人は天国でどんな会話をしているだろうか?
更新日時:
2011/09/01
92    東京ヘイライド(92)、 ケニー・チェズニー     真保 孝
●5月の中旬、ケンタッキー州レキシントンのステージに立っていたケニー・チェズニー(42)は、ショウの途中で急な観客のどよめきと喝采に驚かされた。振り返るとステージの後方に大先輩のレジェンド、ジョージ・ジョーンズ(80)が立っていた。
 
 まったく予告無しの出現に驚いたバックのバンドは、急ぎ体制を整えてジョーンズのかってのヒット「I Don’t Need Your Rockin’ Chair」 (1992年)を演奏して迎えた。これまで何回もの公演直前のドタ・キャヤンで有名、「ノー・ショウ・ジョーンズ」のあだ名までついていただけに「この飛び入りにはまったく驚かされました。ショックでした(completely shocked)」(チェズニーの広報責任者)。
 
●しかしチェズニーに心当たりがないわけでもなかった。それは昨2010年10月に発売した彼6枚目のアルバム「Hemingway’s Whiskey」に収録した内の1曲「Smale Y’ll」(ボビー・ブラドックの作品)がジョーンズをフィーチュアーした曲だったからだ。このアルバムの評判は高く、ビルボード、ワシントン・ポストなど幅広く多くのメディアから取り上げられて、そのどれもからベスト・アルバムの評価を得てベスト・セラーになっている。
 
●チェズニーはテネシー州ノックスビルの生まれだが、育ったのは同州のラットレルで、ここはチェット・アトキンスの生地でもある。父親は小学校の先生、母親はヘアー・スタイリストだった。一人息子で妹がひとりいた。例によってクリスマスに貰ったギターが引き金になったが、野球とフットボールが好きな少年時代だった。
 
20歳の頃自家製のデモ・レコードを作り、1000枚を売り上げた。この利益で初めて憧れのブランドのギターを手に入れた。
 
●卒業したのは東テネシー州立大学(広告学科)。クラブで歌っていたのを友人のBMIヘッドが、オープリーランド・ミュージックの担当に紹介してくれた。「東テネシー大学を卒業した歌手で曲も造る男がいるけど、オーデションを受けさせてやってくれ」。チェズニーは自作の5曲を持参してテストを受けた。合格はしたが、契約してくれたカプリコン・レコードでは泣かず飛ばずに終わった。
 
そのうちにカプリコンはナッシュヴィル支社を閉めて、アトランタに移転してしまった。次に契約したのが現在に続くBNAレコードだったが、ここでも長く芽が出ない年月が続いた。ようやく火がついたのは3枚目のアルバム「I Will Stand」(1997年)に収録した「She’s Got It All」で、これは第1位、20週間の大ヒットになった。
 
●チェズニーが如何に遅咲きの歌手であったか、少し古い資料には名前が載っていないことからもる。1995年頃から人気の出てきたコンテンポラリーな分野に入る歌手である。サウンドの構成は今日的でドラムスとエレキ・ギターで重厚で歯切れのよい音の広がりを造っている。
 帽子は野球帽かカウボーイ・ハットを使い分けている。つけられたニック・ネームが「ヒルビリー・ロックスター」(Hillbilly Rockstar)とはうまいネーミングだ。
 
●少し長くなるがチェズニーの紹介で、次のエピソードを書かないわけには行かない。それはあの有名美人女優のレネー・ゼルウィンガーとのロマンスと破局である。二人は2005年5月にセント・ジョンでのツナミ慈善コンサートで知りあった。8人の男達と離別を繰り返してきた恋多きゼルウィンガーに用心しなければならなかったのに、一挙に燃えた二人は4ケ月後の9月には結婚した。予想通りゼルウィンガーから意味不明の詐欺訴訟が起こされて、3ヶ月後の12月に離婚した。さすがのチェズニーも精神状態が暫く落ち着かなかった。
更新日時:
2011/09/01
93    東京ヘイライド(93)、 ラルフ・スタンレー  真保 孝
●ラルフ・スタンレーの近況。近着の雑誌でラルフ・スタンレーの近影写真を見る。歳をとったなぁー。さすがに鼻から両頬にかけての深いしわに老化を感じさせるが、白髪が年輪の風格を高めている。しっかりと愛用のバンジョーを抱えてフレット・ネックを押さえる指先は自信に満ちて確かで強靱だ。1966年に2歳年上の兄のカーター(41歳)を失ってすでに45年が過ぎた。
 
●今年84歳。年の初めに心臓にペース・メーカー(心臓に取り付ける脈拍調整器)を入れた。来る10月には活動65周年の記念コンサートが予定されている。いまだに18歳の曾孫と50歳のジェームス・シェルトンと共に、老躯にむち打つようにして年間100〜120のショウに出演している。
 
 傍目にも、すべての行動(身体の動き)がスロー・ダウンしていているが、それをうち消すようにして新しいアルバム「A Mother’s Prayer」(Rebel)を発売した。「老いたと言われるけど、私は今回の仕事(録音)で少しのトラブルも起こさなかったよ」(ラルフ)。
 
●このアルバム14曲の収録に、延べ2日間の10時間がかかった。「レコーデイングをするという行為は現在の私にとって1曲、1曲に縁取り(ふちどり)をつけるようなもので、ごく自然な感情から湧き出てくる、日常的な仕事なんだ」(ラルフ)。
 
「その通りだ。彼(ラルフ)は特に練習もしなかったし、何か特別なことをするわけでもなかった。いつものようにスタジオに入り、仕事を終えた」(ギターでバックをつけたジェームス・アラン・シェルトン)。
 
●「人々はラルフのサウンドが若い頃に比べてより古典的(昔の?)に近づいたようだと語る。その感想は多分当たっているかも知れない」(シェルトン)。これに答えるように「出来るなら昔に戻りたい(I want back to older times really)。僕のこんな気持ち判るなぁー」(ラルフ)。
 
最後によく聞かれる質問の引退について、「神の思し召しがあるまで....」と語り、さらに「I’d just like people I don’t have any set time to retire. I play to play on as long as I’m able and the God Lord’s willing 」と老兵ラルフは答えた。
更新日時:
2011/09/01
94    東京ヘイライド(94)、 サラ・エヴァンス    真保 孝
●今や中堅歌手として、サラ・エヴァンス(Sara Lynn Evans)は期待したとおりに成長した。彼女のデビュー曲は「True Lies」(1997年)となっているが、実はその前に古いファンを喜ばせた曲を取り上げて注目を浴びた。バック・オーエンスの大ヒット「I’ve Got A Tiger By the Tail」(1965年、第1位、20週間)を歌ったのである。
 
エヴァンスはこの時26歳、若い年代とは言えなかった。しかし突如として現れたオーソドックスなスタイルの元気なアルト・ヴォイスに、誰もがその前途を嘱望した。ある人はコニー・スミスの「Once A day」(1964年)による登場を思い出した。
 
●実はエヴァンスはこの曲のデモ・テープを作者のハーラン・ハワードのもとに事前(1年ほど前)に送って感想を聞いていた。「そうだなー、ひと頃のパッツイ・クラインを思わせるような個性的な歌い方をする歌手だと感心したので、RCAのデレクターの方に持ち込んで相談をしてみた」(テープを聴いたハワード)。
 
ここでもある意味でスミスの再来を予想したのかも知れないがデレクター(レニー・ベル)はさらに上層部に推薦した。「実際にスタジオで歌って貰い、部屋に戻ってどんな歌手に、どんな曲が歌いたいのかを、会話をしてみた。明快な意見を持っており、明るく優れたタレント性の持ち主であることも判り、契約をすることになった」。
 
●直ちに専属のプロデューサーが選ばれ、ピート・アンダーソンに決まった。次の時代のウェスト・コースト・サウンドを牽引していたオール・ラウンドのギターリストでプロデュサーのアンダーソンは、ドワイト・ヨーカム、マール・ハガードなどから信頼されていた辣腕であった。RCAとしてはアンダーソンを起用して、エヴァンスのキャラクターからしてナッシュヴィルにない西海岸のマーケットを目指したことが判る。
 
デビュー・アルバム・タイトルはチャート2曲目の「Three Cords And The Truth」から取られた。「スリー・コード・・・」と言う呼称は一般に3つのギター・コードから作られるシンプルなカントリー音楽を指していると言われている。
●エヴァンスはミズーリのたばこ農園で6人兄弟のひとりとして生まれた。はじめブルーグラスに興味を持ちマンドリンを習い、兄弟でチームを組んで週末には各地のフェス、教会の集いなどで演奏した。
10歳の時にカントリー音楽に転向、16歳の時に故郷近くの客数が2000人ほど入るダンス・ホールの専属になった。ナッシュヴィルに出たのは1991年で、ここで最初の夫と知りあったが(その後離婚)、活動は失敗、故郷に戻る。
1995年再度ナッシュヴィルに出て、今回のオーデションにつながった。「なんとハワードは若輩の私に会ってくれ、自分の作品をリバイバルさせてくれたことに感謝してくれました。そして出来ることがあれば、協力しようとまで言ってくれました」(エヴァンス)。
 
●エヴァンスの新作はこの3月8日に発売されたスタジオ・アルバム「Stronger」である。前の夫との離婚訴訟問題のごたごたも片づいて、精神的な立ち直りが出来たこともある。収録曲のひとつ「A Little Bit Stronger」の出来のよさは評判である。
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2011/09/01
95    東京ヘイライド(95)、 マーシャル・グラント   真保 孝
●マーシャル・グラントの他界。世に出る前のジョニー・キャッシュ出発のバンド「Tennessee Two」のオリジナルメンバー(ベース)だったグラントが8月7日の早朝、亡くなった。83歳だった。
今ひとりのルーサー・パーキンス(エレキ・ギター)は1968年にすでに亡くなり(40歳)、ナッシュヴィルの郊外ヘンダーソンにあるキャッシュの墓の近くで眠っている。
 「ツゥ」から「スリー」に替わったのは1960年頃で、新しくW.S.ホーランド(ドラムス)が加わった。彼はまだ健在である。
 
●グラントの存在はキャッシュのサウンド(スタイル)を構成する上で、極めて重要なポイントだった。「I Walk the Line 」「Ring Of Fire」「Sunday Morning Coming Down 」、そして「Folsom and San Quentin in Prison」と続くレコーデイングの中で果たした役割は計り知れない。
 
「彼、グラントがいない私(キャッシュ)はとても考えられない」。キャッシュは生前娘のロザンヌに語っていた。「その通り、グラントがいなかったらその後の父の成功はなかった」(ロザンヌ)。
 
 バンド在籍の1954年から1980年までプレイヤーとしても、また友人としてもキャッシュから信頼されていた。1960年〜70年代にかけてキャッシュが麻薬に溺れた困難な時代を、二人目の妻のジュン・カーターと一緒に陰で支えた。
 
●「グラントとパーキンスに父が初めに会ったとき、2人はメンフィスで自動車修理工をしていました」(息子のジョン・カーター・キャッシュ)。キャッシュは空軍を除隊してドイツから帰国、最初の妻ヴィヴィアンと結婚していた。音楽仲間を探していた3人を引き合わせたのはキャッシュの兄ロイの紹介であった。
 
キャッシュも含めて3人とも正規の音楽教育を受けていなかった。自己流で無知だったことが、束縛のない新しいサウンドを創ることにつながった。グラントの持ち楽器はギターだったが、街の楽器屋で中古のベースを25ドルで買ってきて担当を変えた。サン・レコードで名前が売れだした頃から、ツアー・マネージャーをグラントが勤めた。
 
●「Tennessee Three」を退団した後、グラントはスタットラー・ブラザース(本コラムの74回を参考)の活動を助けた。今夏、8月3日、キャッシュ追悼のフェスのリハーサルを終えてホテルで長旅の疲れを癒していたとき、病魔が襲った。救急車で運ばれ、緊急の手術が行われたが成功しなかった。コンウェイ・トゥイッティと同じ動脈瘤だった。
 
 2007年に「Tennessee Two」は、エルヴィスの初期のバンド「Blue Moon Boys」と一緒に、その功績が認められて「Musicians Hall of Fame」入りをした。街の素人仲間による、よきひとつの時代を駆け抜けた栄光のバンドだった。
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2011/09/01
96    東京ヘイライド(96)、 チェット・アトキンス   真保 孝
●チェット・アトキンス。10指に余るカントリー音楽界のギターの名手たち。その中でも男性的なマール・トラビス、女性的なチェット・アトキンス...はよく使われる比較だ。トラビスとアトキンスの年齢の差は7歳ほどだが、アトキンスがギター・プレヤーに転向、専念したのはシンシナティ時代にWLWラジオ番組でトラビスの演奏を聴いてからだった。
 
●アトキンスは1939年頃まで少なくても、あれこれ色んな楽器に手を出して、自分の確固たるギターのスタイルを持っていなかったが、WLWラジオの番組でトラビスのユニークな奏法に傾聴した時、自分の進むべき道を見つけた。そして右手を強調するファースト・スリーフィンガー・スタイルを研究し始めた。トラビスの右手を活用する奏法に注目したからだ。
 
●アトキンスが手にした最初の楽器はウクレレだった。次いでフィドル、9歳の時に兄から古い宝物のピストルとギターを交換した。1930年の恐慌が近づいており、どの家庭も苦しく、貧しかった。その中を生まれつきの持病だった喘息の治療のためにテネシーからジョージアに移転した。キング・レコードの設立者シド・ネイサンも喘息がひどくて、後年気候のよいフロリダに転居している。
 
●この頃のアトキンスは病み持ちで繊細な神経の持ち主で、呼吸を楽にするために背もたれのついた特別な椅子で睡眠をとった。その時気をまぎらわせるために愛用のギターを抱いて(側に置いて)寝る癖がつき、この習慣は終生変わらなかったという。
 
●1942年、ハイスクールを卒業したアトキンスはノックスヴィルのWNOXラジオ局に採用され、ここで担当したのは、フィドルとギターだった。この時のバンド・リーダーはビル・カーライルで、コミック担当はアーチ・キャンベルが在籍していた。バンドの名前はラジオ局がつけてくれたDixieland Swingsters と云う名前。次に所属した局はWLWラジオで、ここは憧れのトラビスが以前に在籍した局だった。
 
●約6ヶ月後にジョニー・アンド・ジャックのチームに参加したが、これが後日のオープリーにつながることになる。シカゴに出て名門WLSラジオ局のレッド・フォーレーのオーディションを受ける。番組はお馴染みのNational Barn Dance だ。こうして一歩一歩成功への階段を登ってゆく。1946年、フォーレーのチームの1員としてオープリーのステージに立った。この時代の録音スタジオで後のライバルとなる、オーエン・ブラッドリーとも会っている。
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2011/09/01
97    東京ヘイライド(97)、 マール・トラビス   真保 孝
●マール・トラビス。 ハンク・トンプソンが1955年初夏に発表した器楽曲「Wildwood Flower」のメイン・ギターリストが、実は親友のマール・トラビスであることはよく知られている。「ブラゾス・ヴァレー・ボーイズ」をバックにした、あの歯切れのよい、ダイナミックな胸のすくような演奏はトラビスの真骨頂である。カーター・ファミリーの古典もここでウェスタン・スウイングのアレンジにより、まるで別の曲のように見事に生まれ変わった。
 
●二人はプライベートな付き合いも深く、何とトラビスの4人目になった最後の奥さんのドロシーはトンプソンの夫人だった女性だ。3人目までは離婚を繰り返したが、ドロシーだけは1983年10月(63歳)、息を引き取るまで夫婦だった。アトキンスに限らずトラビスを尊敬、私淑する歌手は多いが、ドック・ワトソンもその一人で、息子にマール・ワトソンと名前をつけている。
 
●1977年に殿堂入りをしたトラビスは歌手として2曲のナンバー・ワンを出しているが、記憶に残るのはやはり、テネシー・アーニー・フォードが歌った「Sixteen Tones」(1955)の作者としてである。
 
この曲はフォードの3大ヒットのひとつになっている。南部で活躍を始めたトラビスはキング・レコードを経て、海軍を除隊後に西海岸のキャピトルに入社した。そして同社ヒット・メーカーのウエズリー・タートルの縁でクリーフィ・ストーンと知り合った。才能を見込んだストーンは後日フォードのマネジメントを長く担当した。
 
●デレクターだったストーンはラジオ番組も持っていた。トラビスに次のアルバム(テックス・リッターのための?)の収録曲を依頼してきた。「何かフォーク・ソング調の曲がいいのだが...、バール・アイブスが歌うような」(ストーン)。当時トラビスは週に5時間の番組を持たされて忙しかった。引き受けたが、なかなか作業が進まなかった。ストーンからは催促が来た。「手元にあった材料から、少し手直しをして渡すことにした」(トラビス)。
 
●水道も電気もない、貧しい炭坑夫を父にケンタッキーで生まれたトラビスは、少年時代(1929年の世界大恐慌)の炭坑作業の苦しんだ父のきびしい労働生活で実体験していた。近所に住む貧しい老人の生活からヒントを得たとの話もある。これを「16トン」の重荷として、人生の生活苦に重ね合わせて作られたのがこの曲だった。
 
 
 
更新日時:
2011/09/04
98    東京ヘイライド(98)、 16トン     真保 孝
●「シックスティーン・トーンズ」(人生の重荷)。ある時、もともとラジオのアナウンサーとして働いていたフォードが、たまたまストーンの番組収録会場に来合わせた。その時以来ストーンは友人のフォードの歌手としての才能を認めていた。
 
この時フォードは歌手としてすでに「Mule Train」(1949)、「The Shot Gun Boogie」(1950)の大ヒットを放っていた。だからトラビスの作品が出来上がったとき、ストーンの推薦により「16トン」は魅力的なバリトーンの持ち主のフォードに歌わせることに迷いはなかった。
 
●曲中印象的に聞こえる指を鳴らすスナッピングの音について二つの記録がある。
 
ひとつはリハーサル中にフォードが調子をとるために無意識に自分の指をスナッピングしてリズムを取ったが、これが気に入られ採用されたという説。
 
また本番収録後、この音に気づいたが後の祭りで、プレスされたレコードをそのまま発売したという説。
 
発売に先だってNBCのテレビ番組で紹介したところ、僅か5日間でリクエストのハガキが1200通も寄せられた。レコードは当然第1位で21週間のチャートを記録した。他にフランキー・レイン盤が発売されたが、トラビス自身はフォード盤が自分の気持ちをよく伝えていたと語っていた。日本でも小坂一也、フランク永井盤が人気を得た。
 
●現役を退いたトラビスはオクラホマの自宅で、肥りすぎのために心臓病を患い、薬の乱用から、1983年、63歳で息を引き取った。生まれ故郷のローズウッドには、その功績をたたえて記念碑が建てられた。除幕式には最初の妻との間に出来た娘のパティが出席した。
 
 
 
更新日時:
2011/09/10
99    東京ヘイライド(99)、 ティム・マックグロウ     真保 孝
●ティム・マックグロウ。カントリー歌手で映画に出演している人は数多い。
 
何時ごろのことからか、タイトルの次のクレジットに「キャステイング」という役割を担当した人の名前が載っている。
 
原作、脚本を読んで、監督と一緒にその作品の内容に最も適した配役の人選を行う重要な仕事だ。スター主義の昔は、人気男優、美人女優だけで観客を動員できたが、現在はあまり通用しない。多くの人材の中から審査・演技力などから選ばれることは名誉なことだ。
 
歌の世界でもその時の人選次第で、ヒットしたり、不発に終わったりするケースが多い。そこでその時にはヒットしなかったが、後に別の歌手で大ヒット、リバイバルする話も自然生まれる。
 
●マックグロウ(1967〜)は、映画出演のその厳しい人選に合格して、1本だが好演技を残している。映画の名前は「プライド/栄光への絆」(2004)だ。
 
テキサス州の高校でのフットボールのチームが、試練に耐えて勝利を掴むまでの実話である。
 
ここでマックグロウは息子(選手)の父親役を演じている。出演までには経過があった。前に「パーフェクト・ストーム」(2000)の映画化の時に、丁度アワード賞の関係でロスを訪れていた彼はこの原作を読んでいたく感銘して、是非出演したいと直接関係者に足を運んだ。
 
●映画は北大西洋で実際に起きた100年に1度の大嵐と戦う人々の姿が描かれた。作品がマサチューセッツ州の漁師町を舞台にした海洋劇だったことから、南部的な(ルイジアナ州生まれ)雰囲気の強い彼には相応しいとは認められずに不合格になった。しかし人選のリストには彼の名前が記録されていた。
 
そして出演できた「プライド」では、父親役でアルコール依存症の乱暴な役柄でした。映画出演では先輩にドワイト・ヨーカムが有名です。ここでも一時はヨーカムが候補に挙がったが、最終的にマックグロウに決まった。
 
●その頃、美人歌手のフェイス・ヒルと結婚して(1996年)、人気も上昇中のマックグロウのスケジュールの調整は大変だった。だが、原作を読んで気に入った彼は自家用の飛行機を飛ばしてやって来ました。この映画の予算は限られていましたが、最高の人気を誇っていたヒルの高額な出演料に支えられ、自身の役柄に惚れた情熱で新人の出演料で承諾しました。
 
条件は空港に歌のステージ出演のために往復するための自家用飛行機の離発着用のスペースを用意することだけでした。
 
●最初に彼(マックグロウ)を観たのは、1996年のファン・フェアの野外ステージでした。カーブ・レコードですでに数曲の第1位曲を出して、男性的な迫力のあるパフォーマンスをしておりました。その後、レーベルの壁を超えて(カーブ→ワーナー)奥さんのヒルと組んだヒット曲も出し、現在彼はナッシュヴィルを代表する歌手に成長しました。
 
ニュースによると、この1月に女優グルーネス・パルトロウの夫役で「Country Strong」という映画に出演している。そして3月には新しいアルバム「Emotional Traffic 」(今夏発売予定)の宣伝を兼ねて、約5ヶ月の全米、カナダ・ツアーに出発、ナッシュヴィルを留守にするようだ。
 
 
 
更新日時:
2011/09/17

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Last updated: 2014/2/22