●「エンド・オブ・ザ・ワールド」。1956年4月にハリウッドのサンセット通りとヴァイン通りの交差点にレコードの形をした斬新なデザインのキャピトル・レコードの本社ビルが姿を現した。
この建築資金の大半は同社の創生期に活躍した人気歌手ナット・キング・コールによる数々のヒットの売り上げでまかなわれ、別名キング・コール・ビルとも言われた。名曲「Too Young」は並みいるコールの大ヒット曲の中でも最も売れた曲だった。
●この「Too Young」(1951)の作詞者はシルビア・ディーと云う女性で、この人はスキーター・ディビスの「The End Of the World 」の作詞者でもある。ディーは本名をJosephine De Sylviaと云い、アーカンソー州リトルロックで生まれて、1967年にニューヨークで亡くなった。新聞社でコピィライターとして働いていたが、53歳の若さだった。不確かだが、エルヴィス・プレスリーの「Blue Hawaii」も彼女の作品だったか?
●「The End Of the World (1962,第2位、24週間)」はRCAでチェット・アトキンスのプロデュースにより、スキーター・ディヴィスの歌によりミリオン・セラーになった。
「あなたの愛が終わり、この世が終わりだというのに、なぜ太陽が輝き、波は浜辺に打ち寄せ、鳥はさえずり、星は輝き続けるのでしょうか?」。歌詞の内容からすると、失恋の歌のように考えられるが、そうではなく愛する肉親の死を悼む気持ちが綴られたもの。それは
「この歌詞は私が14歳の時に、亡くなった父を偲んで書きました」(ディー)の言葉からも確定できる。
●ナッシュヴィル・サウンドによるこの曲のお陰で、見事に生き返ったディヴイスはプレスリーやローリング・ストーンズ達と肩を並べて全米に広くツアーを続けることが出来るほどに人気を挙げた。
振り返ればディヴイスの生涯はドラマチックであった。ケンタッキー州生まれの彼女の出発は、高校時代の友人のベティ・ジャック・ディヴイスと組んでディヴイス・シスターズと名乗り、RCAから出した「I Forgot More Than You‘ll Ever Know」(1953,第1位)が大ヒットしたことからで、しかし今後を期待されてそのヒットの真最中に自動車事故に遭った。
●ベティは即死、ディヴイスも重傷を負った。再起を図りベティの妹のジョージアとデュオを組んだが成功せず、1956年にソロ歌手に戻り、この曲と出会った。
ヒットが出る2年ほど前に、有名なカントリー音楽番組の司会者のラルフ・エメリーと結婚(1960〜64)したが離婚し、ロック・バンドのベーシストと3回目の結婚をした(1983〜96)。2004年、癌で他界した。72歳だった。熱心なキリスト教の信者で、動物好きとしても知られていた。
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