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東京ヘイライド(106) Hank Williams 真保 孝 |
●ハンク・ウィリアムスの他界。60年前の元旦は、このFENラジオのニュースから始まりました。伝えられたウィリアムス急死のニュースほど、衝撃的なものはありませんでした。今のようにインターネットによる情報もなく、はるか米南部での出来事をこの駐留軍向けのラジオだけが伝えてくれました。当時の米兵(特に南部出身)のウィリアムスに対する認知度は、今と違ってかなり高いものでした。
●ご存知のようにウィリアムスの生前の功績を伝える記念館(Museum)は、生まれ故郷のアラバマ州モンゴメリー市118番地コマースにあります。ここにはこれまでに全世界から沢山の、日本からも熱心なファン(私の友人たちも含めて)が訪問しております。運営を維持するために生涯会員Lifetime)は200ドルが必要です。現在、生涯会員220人中、日本人の友人の一人がこれに入会、運営に協力しております。
会員になると毎年1月に発行される特別製のカレンダーが送られてきて(10ドル)、自分の生まれた月日には自分の名前〔1ドル〕を印刷してくれます。例えば私の場合、ドリー・パートンと同じ月日になっていて、少し複雑な気持ちです。
●話によると、記念館は幹線道路から外れて、地味な建物だそうです。マネージャーはべッツ・J・ベティさんと言う、やや中年の女性だそうです。時は流れてアメリカでは、現在ウィリアムスの名前を知る人は少数になり、プレスリーの方が有名だそうです。参考までに住所を書いておきましょう。Hank Williams Museum 118 Commerce Street Montgomery , AL. 36104, USA
,●さて1年を過ごすに当たって必要なのは、やはりカレンダーです。ナッシュヴィルのCMA(公式)でも12枚綴りの大型(30センチ×30センチ、広げると倍に)を発行しています。こちらは現代風で、カラー写真は1月からTaylor Swift, Keith Urban, Rascal Flatts, Brad Paisley, Sugarland, Carrie Underwood .ときて、Miranda Lambert 、George Strait(12月)と人気歌手が登場しています。
こちらはその年代月日の出来事が印刷されていて便利です。例えば、1月1日、ウィリアムス、デル・リーヴスの他界、ジョニー・キャッシュがサン・クウェンティン刑務所の慰問訪問(この囚人の中にマール・ハガードがいた)などが載っています。参考までに私の誕生日を見てみると、何とフレッド・ローズとジーン・ヴィンセトが生まれており光栄です。
●部屋のインテリアによい、大西部の詩情や豊かな風景とカウボーイのカレンダーもあります。少し前まで銀座の伊東屋さんにカントリー音楽の好きな方がおられて、輸入して取り扱っておられましたが、どうでしょうか?問い合わせてみたら、如何ですか?
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東京ヘイライド(107) Hank Williams 真保 孝 |
●ハンク・ウィリアムスのラスト・ドライブ。
大分以前に長い間の沈黙を破って、ウィリアムスの最期を見届けたチャールス・カーが雑誌のインタビューに答えていました。その要旨をまとめてみましょう。
●12月31日、アラバマ州のモンゴメリーを出発した自動車は、折からの雪まじりの道を走っていた。運転手は近所に住む、18歳になったばかりのチャールス・カーで、彼はウィリアムスの気心の知れた友人のひとりで、半ば専属の運転手だった。
1952年も間もなく終わろうとしていた。8月に再三の契約不履行(飲酒による?)からオープリーを契約解除されていたとは言え、人気のウィリアムスはヴァージニア州のチャールストンと、オハイオ州のカントンで2つの新年ステージの仕事を貰っていた。
●当初、飛行機での予定が折からの降雪のために、自動車に切り替えられた。初日のチャールストンでの興行には明らかに間に合わなかったが出発した。行程はアラバマ、ジョージア、ノース・カロライナ、ヴァージニア、そしてオハイオ州にまたがるロング・ドライブである。
車のバックシートに横たわったウィリアムスは何曲かの曲を口ずさんでいた。そのうちの1曲はその年の11月にレッド・フォーリーが唄い第1位になったチェット・アトキンスとの合作になる「Midnight 」であった。
●やがて2人はノックスヴィルのホテルで小休憩をとることにした。ウィリアムスの発作的に出てきたしゃっくりを止めるためだった。呼ばれた医者はビタミンB12とモルヒネを注射した。
ホテルの時計は12月31日の真夜中の12時を回っていた。カーは2人のホテルの従業員に頼んで、ウィリアムスを車の後部座席に運んで貰った。車は再びカントンに向かって出発した。
●車がヴァージニア州に入って間もなくカーは後部座席からウィリアムスが何かを云っているような気がした。「何か言いましたか?欲しいものでも?」「いや、欲しいものはない。少し眠りたいだけだ」。薬が効いてきたのか、バック・ミラーに映ったウィリアムスは、この最後の言葉を言って、両腕を胸の前に組んでいた。
●暫くしてウェスト・ヴァージニア州オーク・ヒルの郊外6マイルの所にあるガス・ステーションで、冷たくなったウィリアムスにカーは気がついた。
謎に包まれたウィリアムスの臨終につては、他にもいくつかのリポートがあります。いずれ回を改めて紹介しましょう。
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東京ヘイライド(108) Liz Anderson 真保 孝 |
●リズ・アンダーソンの他界。昨年コラムを休んだ後に、リン・アンダーソンの母親で作曲、歌手の母親のリズが10月31日(夕方)に他界した。享年81。死因は肺と心臓の併発症とされ、入院加療中のナッシュヴィルのセント・トーマス病院で息を引き取った。
リズの訃報を人一倍深い悲しみで聞いたのは、マール・ハガードだったかも知れない。1951年5月、リズは海軍を除隊した夫のキャシーとカリフォルニアに移住した。1957年にサクラメントに転居したが、リズがポニィ・エキスプレスのコマーシャル・ソングのコンテストに応募して入選、公式に採用されたのを機会に、自信をつけて夫婦で作曲を始めた。背景には夫婦の生計が余り楽ではなかったこともある。
●当時、夫のキャシーは後にバック・オーエンスのマネジャーになるジャック・マックファーデン(オーエンス来日時に同行して、「イン・ジャパン・ライブ」を制作)と共同で自動車のセールス会社も経営していた。
他方、音楽好きの2人はレコード会社も興し、マックファーデンの依頼で、デル・リーブスの曲を数曲作っている。出来上がったレコードをナッシュヴィルに送ったこともあった。リーブスが「Girl On The Billboard 」をヒットさせる以前のことである。後に(1965年)、リズはナッシュヴィルのコンベンションでのチェット・アトキンスの紹介が縁でRCAと契約をした。
●西海岸に住んでいた頃のある日、「私たち(リズ夫妻)は近くのオレンジヴァールの牧場から2マイル離れた所で、ハガードのコンサートがあることを知りました。リズが観に行こうと言うので、出掛けました。見物人は12〜3人がいるだけで、ハガードも元気がありませんでした。
ステージの彼(ハガード)はどうやって観客の注意を自分に向けさせるか一生懸命でした。近くにいたハガードの弟のローウェルに夫は何かリズの歌を歌わせろよ、きっと反応があるよ、と伝えさせました」(リズ)。
●1996年にハガードが荒れた生活を送る放浪者の生活を歌った「I’m a Lonesome Fugitive 」(第1位、19週間)は、リズのペンによる曲である。売れない時代のハガードのコンサートを観に行ったわけには、次のエピソードからも伺える。
「夫がシボレーの販売店で働いていた頃、ハガードもアルバイトで一緒に働いていたことがありました。彼はすでにボニー・オーエンスと知りあった仲だったので、紹介してくれましたけど、私たちはすでにボニーを知っていました」(リズ)。ちなみにハガードがボニーと歌った「Just Between The Two Of Us」も「Strangers」もリズの作品である。リズの訃報はニューヨーク・タイムズをはじめカントリー音楽の枠を超えて広く全米に伝えられた。
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東京ヘイライド(109) Kitty Wells 真保 孝 |
●キティ・ウエルスの生き方。「私の本当の生き方は家庭での生活でした。家事をして、子供達と一緒に過ごす時間、ハウス・ワイフが好きでした。私たちが出会って結婚した頃、ナッシュヴィルの町を流れるカンバーランド川の川幅はまだ狭く、流れはゆるやかでした。音楽都市でもなく、町も河も小さかった。」(ウェルス)。
ウェルスが生まれ育った当時のアメリカの社会はまだ男性は外で働き、女性は家庭を守という社会通念が常識だった。それが徐々に崩れだしたのは、第1次、第2次世界大戦というたび重なる戦争のために、戦場に男性がとられ、社会が労働力の不足を女性の労働力に求め始めた事からだった。
●家庭での主婦業が好きな彼女は、料理が得意でこれまでに自分の名前をつけた料理の本を出版している。ツァーのない時はマディソンの自宅で大半を過ごす。
その自宅は道路に面しており、車から直ぐに入ることが出来る場所にある。大型のツァーバスも駐車できる。昔風な育ちをしたウェルスは自立しており、簡単な自動車の修理・点検も出来る。
●昨年夫ジョニー・ライトを失ったウェルスは3年前の8月の日曜日の午後、90歳を迎える誕生日のコンサートを開いていた。「私の歌手スタートは女性にとって困難の連続の時代でした」(ウェルス)。
コンサートの場所はアーネスト・タブのレコード・ショップで、当日はオープリーを放送するWSMラジオ局のアナウンサーであるエディ・スタッブが司会をしてくれた(後年「サヨナラ引退コンサート」の時も彼)。彼とのつきあいは1995年にバンドのフィドラーとして働いてくれた頃からである。
●この日、折悪しく少し健康を壊していたライト(95歳)だったが、愛妻の誕生日のためにステージに上がった。飾りのついたラインストーンのジャケットを着て(ポーター・ワゴナーのような)、足元がおぼつかないので杖をついて、それでも笑顔を浮かべて観衆の拍手に応えた。
地元ナッシュヴィル生まれのウェルスのために、市長のカール・ディンは「市民が愛する我等のクィーン、あなたが大好きです。次の100歳に向かってゆきましょう。ウェルスは笑っているけど、きっと約束できるでしょう」と祝辞を述べた。今年の8月で93歳、長生きして欲しい。
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東京ヘイライド(110) George Strait 真保 孝 |
●ジョージ・ストレート。1980年代の始めに「Unwound」で登場したストレートはその後、その方向性を失いつつあった1990〜2010年代のカントリー界を牽引する原動力(大黒柱)となった。現在まで歌えばヒットすると言う打率は驚異的である。
●幾多の賞を受賞しながらも、テキサスのサンアントニオ近辺で牧場生活を送る私生活を保持して、決められた定期のツアー以外、あまり華々しい公式のセレモニーに出席したがらない。家族と自分の生活を大切にする基本的な姿勢を崩そうとしない。
だから1986年に13歳の娘のジェニファーを自動車事故で亡くした時の心痛は余りある。「これですべてのことが終わった、と思った」。この言葉を残してストレート夫妻はすべてのことから身を引き、クローズ(閉じこもる)した生活に入った。そして後日、娘の名を冠した交通事故基金(ファンド)を設立、多額の寄付を行い、音楽活動を再開した。
●愛妻のノーマと2人は業界でも有名な仲のよい夫婦だ。ふたりの恋は高校時代に芽生え、一時途絶えたが、交際は復活してロマンスは再燃した。
「ノーマは僕にとって初恋の人だった。我々はテキサスの小さな町で育った。彼女は僕よりも2歳年下で、小柄でキュートだ。僕らは高校時代にデートをしたことはなかったし、彼女に特別の感情を持っていなかった。いや、一度だけデートらしきことをしたことはあったかな?でもその後は長い間会うことはなかった。
ある日、彼女のことを思いだして、再びデートを始めた。そして間もなく結婚した」(ストレート)。
●そのストレートがついに祖父になる。息子のブーバ?(George “Bubba” Strait Jr.)と妻のタマラの間に昨年9月6日に赤ちゃんが産まれたと言う。息子夫婦は2010年に結婚し、ブーバはすでにソング・ライターとして父の新作アルバム「Here For a Good Time」(9月発売予定)にも協力している。
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東京ヘイライド(111) Hank Snow 真保 孝 |
●アメリカへの夢/ハンク・スノウ。珍しく東京に雪が降ったので、スノウについてまとめてみた。実はウソでなく、過去、実際にスノウが初来日した東京公演〔新宿、厚生年金会館〕の日、雪が降ったのである。
1949年のある日、カナダの港町ハリフォックスにいたハンク・スノウはテキサス在住の友人から1通の手紙を貰った。彼女(ビァ・テリー)の手紙には地元ダラスの実業家(興行師)が会いたいという内容だった。
1936年にカナダRCAとの契約は果たしていたが、本命である米国本社のRCAとの契約は出来ていなかった。大先輩のウィルフ・カーターの後を追ってアメリカでの活躍はスノウの生涯の大きな願望であった。
●農業用のトラクターの運転しか経験のなかったスノウは、友人からバン形式の自動車を借りてアメリカに向かった。
ダラスに着いてテリーの教えてくれた実業家に電話したところ、相手は同地でFM放送局のDJをしている人(フレッド・エドワーズ)の人違いであった。エドワーズはフォートワースに住んでいて、DJ
の他にも、広くクラブや大きなショウも手がけるプロモーターであった。その実力はステージに米国で人気沸騰中のハンク・ウィリアムスを招くほどであった。
●幸い契約が成立して、まだ無名に近いスノウに20ドルの出演料を提示してくれ、満足した。この年、ウィリアムスはすでに6月にオープリーにデビューして記録的な6回のアンコールを貰っていた。
記録をたどると、スノウは後にこの契約のステージで初めてウィリアムスに出会ったのだが、すぐに好印象を持ったと語っている。こうした米国での小さな進出を手がかりに、スノウの知名度は徐々に知られていった。まさに跳ね返され続けて、再挑戦の苦節の時代だった。
●他方、スノウには米国に力強い友人が居た。その縁をたどれば共に故ジミー・ロジャースを私淑するところから始まると思う。友人は信義に厚いアーネスト・タブだった。
タブには兼ねてから米国、オープリーへの出演希望を伝えてあった。次第にテキサス地域の放送局からのインタビューや出演の依頼が舞い込むようになったが、一番心待ちにしていたタブからの連絡はなかった。
「くそっ!オープリーなんかには絶対に出てやらんぞ!」と苛だったこともあった。レコード・ショップのサイン会にも積極的に参加して自己宣伝にも心がけた。(続く)。
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東京ヘイライド(112) Hank Snow (2) 真保 孝 |
●ムーヴィン・オン/ハンク・スノウ。やがてダラスの名物番組「Big D Jamboree 」との契約も成立して、楽屋で多くの米国歌手との交友関係も広がった。その一人にカウボーイ・コーパスも居た。「彼ほど紳士的で信頼の出来る人に会ったことはない」(スノウ)。収入も増えて、新しいキャデラックを購入して、色は大好きなブルーにした。
しかし依然としてタブからの便りはなかった。スノウはこの頃の心境を次のように書いている。「I had been waiting and waiting and waiting. Finally, the big moment come!」(待って、待って、待ち続けて、遂にその時が、ビッグチャンスがやってきた!)。
●待望のタブからの電話による朗報が入った。「ハンク、電話が来たぞ!オープリーのマネジャーのミスター・デニーからだ。彼は君をステージ立たせることが出来るかも知れないと言ってきた」(タブ)
「喜んだが、私はどうやって、タブがデニーを説得させたのか分からなかった。第一私はまだ米国では1枚のヒット曲も出していなかったのだから?」(スノウ)。
事実、オープリーの規定では出場にはチャート・ヒットを出すことが条件だった。しかし示された案内は具体的であった。「出演月日は1950年1月7日、出演料は週給で75ドル」。この朗報は妻と(ミニー・ブランチ)、息子(ジミィ)には知らせたが、万一の失敗を懸念してダラスに残留させた。
●明るく晴れた朝、買ったばかりのブルーのキャデラックを運転して、単身ナッシュヴィルに向かった。車中考えたことは、どうやってタブは資格のない自分をデニーに説き伏せたかと言うことだった。「しかし、その時の私の気持ちは子供がクリスマス・プレゼントを貰ったようだった」(スノウ)。
ナッシュヴィルに到着して、約束通りタブに電話を入れた。タブはすでにブロードウェイ通りに自分のレコード・ショップを持っていた。
スタジオや大手のレコード会社が建ち並ぶ通りを2人は歩いたが、オープリーの超大物マネジャーのデニーが果たして一面識もない自分を気に入ってくれるだろうかと、心配が増してきた。
●この心配はすべて杞憂に終わった。デニーは本当に気持ちのよい紳士だった。タブとは遠慮なく何でも話し合える仲のようだった。面接を受けている内に気持ちが急に楽になっていった。タブの言葉を信用してか、デニーはスノウにあまり歌については聞こうとしなかった。
1月7日にスノウは自作の「I’m Moving On」を歌って憧れのステージに立った。観客からの大きな拍手、週給75ドルは定期的に保証され、最高のステージ、オープリーにも立てたのだ。「私はついに成功の頂点に立てた」(スノウ)。
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東京ヘイライド(113) Wanda Jackson 真保 孝 |
●高校生だったジーン・シェパードがハンク・トンプソンによってスカウトされたことは有名だが、このジャクソンもトンプソンによって世に出る機会がつくられた。
まだ13か14歳の高校生の頃、ジャクソンは学校が終わってから地元のラジオ局の15分番組(後に30分に拡張)に出演していた。
巡業で土曜日夜のショウ出演のためにホテルに宿泊していたトンプソンは、偶然その日の午後に彼女の番組を耳にした。
笑いながら電話で「もしもし、 Hank Thompsonです。一度、実際に君の歌を聴きたいので、土曜日の夜、ホテルにやって来ませんか」「えぇっ、ミスター・ハンク・トンプソン、本当にあなたですか?」。笑いながら「ええ、そうですよ。どうですか?」「そうですね、・・・・母と相談してみないと分かりませんが、喜んで・・・」「とにかく、待っていますよ」。
●結果眼鏡にかなったが、未成年のために正式な契約は後送りとなった。トンプソンと同じレーベルのキャピトル入りを希望したが、その後、諸事情からまずデッカに決まった。
次のチャンス、エルヴィス・プレスリーのツアーには1955年6月から参加した。当時プレスリーは2〜3曲のヒットが出て、少しは知られており、ジャクソンにツアー参加の頼みがきた。
メンフイスにいたエルヴィスのマネジャーのボブ・ニールも「ジャクソンを加えることはよいことだ」と賛成してくれた。「ニールはとても親しみやすい人で、ガール(女性)をショウに加えることはよいことだと、言ってくれました」(ジャクソン)。
●「ツアーでは私と父は54年型のプリモスに乗りました。父は現金を持たせてくれなかったし、自動車も持たせてくれませんでした。人気上昇中のエルヴィスはピンクのキャデラックに乗って、ツアーの先頭を走っていました」(ジャクソン)。
「私はまだ17歳か19歳で、プレスリーの人気はまだ低い頃だったので、2人はよく遊びました(デート?)。2人とも映画が好きだったので、ステージのない昼間は映画館に行きました。
その後ハンバーガーを食べて、あちこちドライブをしました。これは当時の典型的なティーン・エイジャーの行動パターンでした。彼は私に遊びで指輪をくれましたが、2人とも頭の中には結婚なんてありませんでした」(ジャクソン)。
●彼女の代名詞のように言われた、日本で爆破的なヒットになった「フジヤマ・ママ」(1957年)は本場米国ではノー・チャートだった。しかしタイトルの親しみやすさからか、1959年に来日公演(日劇、ウェスタン・カーニバル)をしている。
この曲は彼女がオリジナルのように思われているが、実は黒人のR&B女性歌手アニスティーン・アレンが彼女の3年前にすでに歌った曲だった。しかしカントリー音楽にまったく関係が訳ではない。
作者はアール・バローズ。
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東京ヘイライド(114) John Denver 真保 孝 |
●ジョン・デンバー。米国の運輸安全委員会は、1997年10月にカリフォルニア州海岸沖で、自家用機飛行中に墜落事故死したデンバーについての原因報告書を発表した。それによる、操縦席から燃料用の計器が見えにくくて、燃料切れに気がつくのが遅れた、としていた。
デンバーの父は空軍のパイロットで毎年30日ぐらいは家を留守にしていた。カントリー好きの父はテキサスのデル・リオにある5KWの出力を持つXERF放送局で演奏もしていた。
こんな父の影響でデンバーも音楽と操縦が趣味になった。軽飛行機を所有して、毎週操縦を楽しんでいた。事故機は1週間ほど前に購入したばかりで、操縦に習熟していなかった。ギターは祖父が買ってくれた。
●デンバーの最大のヒットは「Take Me Home, Country Roads」であることは言うまでもない。厳密に言えば、デンバーの世界はホンキィ・トンクではなくて、フォーク・カントリー音楽である。前身はチャドミッチエル・トリオというフォーク・グループに属していた。
しかし後述するような経過からヒットが生まれ、ジャンルを超えた世界的なヒットになった。ナッシュヴィルのCMAは彼をカントリー音楽の分野にとらえて、1975年第1位を快走した「Back Home Again」を対象に「Song of the Year」の受賞を決定した。
●修正とお詫び。読者より指摘があり、前回のワンダ・ジャクソンについて次の通り訂正します。「フジヤマ・ママ」はアール・バローズの作品です。レフティの「The Long Black Veil」を書いたマリジョン・ウィルキンはワンダの「No Wedding Bells For Joe」(1956年。フジヤマ・ママよりピューなカントリー曲)を書いたのでした。勘違いしておりました。ご指摘、有り難う。
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東京ヘイライド(115) ベーカーズフィールドの三国志(1) 真保 孝 |
●南にナッシュヴィル・サウンドがあれば、西にベーカーズフィールド・サウンドがある。南のボスがチェット・アトキンスとすれば、西はキャピトルのケン・ネルソンだろう。この西海岸の資料が散逸しないうちに、連載で少しまとめておきたい。
自然、両者に対抗意識はあっただろうが、切磋琢磨してライバル同士で競い合うことはいいことだ。事実、ネルソンは頻繁にナッシュヴィルを訪れて、アトキンスやフレッド・ローズらと交友を深めて、人材の発掘に暖かい協力を貰って感謝していた。
1911年生まれのネルソンも大恐慌の頃、28歳になってシカゴで音楽ビジネスに関係していた。後にキャピトルの要職に着くリー・ジレットと青年時代からの親友で、「Campus Kid」と言う3人組のチームを組んでいた。
●やがて1948年、先に入社したジレットから誘われてキャピトルに入社した。そして1950年にはジレットの後任として要請を受けてチーフ・プロデュサーに就任した。RCA、コロムビアと言ったメジャーに対抗して、後発の新興キャピトルとしては何としても、早急に有望な歌手の発掘が急がれた。
そのためにネルソンは毎月のように全米各地の放送局をまわり、埋もれていた有望な新人を捜し続けた。こうした草の根努力の成果、ファロン・ヤング、ジーン・ヴィンセントらがスカウトされた。
数え切れない業績を残して、ネルソンは1976年に現役を引退した。そして2001年に殿堂入り、2008年1月、カリフォルニアの自宅で老衰のため他界した。96歳だった。
●伝統・保守のナッシュヴィルに対して、ロスは常に新しさを目指して革新的だ。別名ウェスト・コースト・サウンドとも言われるこのスタイルの種がまかれたのはいつ頃のことだろうか。
ナッシュヴィル・サウンドはRCAのBスタジオが発生とされているが、こちらは1956年4月にオープンしたハリウッドのキャピトル・タワーの1階にあるA、B、Cスタジオかも知れない。ここのスタジオは外部からの震度を完全に遮断するために、アスファルトを染みこませたコルクで包み込んでいる。壁は可動式の反響板で仕切られて、音響面では当時としては最新の設備を誇った。
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東京ヘイライド(116) ベーカーズフィールドの三国志(2) 真保 孝 |
●アトキンスが畑を耕して種からまいたのに対して、ネルソンは集まって、芽生えてきた若い芽を大切に肥料を加えて大きく育てた。若い感覚(センス)を柔軟に受け入れる大きな懐を持っていたから、若い歌手やプレイヤーは続々とやって来た。
やがてバック・オーエンスやマール・ハガードらによってその頂点を極めたが、裾野は広く、それまでの揺籃の時代は長くて古い。点と線を結ぶ流れはボブ・ウィルスあたりまで溯るかも知れない。
●根元的には1929年のあの世界大恐慌によるかも知れない。オクラホマ、テキサス、アーカンソーなどで干ばつと不況の波に見舞われた貧しい農民達(小作人たち)はT型フォード、貨物列車で新天地のカリフォルニアを目指した。この状景は映画「怒りの葡萄」(スタインベック原作、ジョンフォード監督)で見ることが出来る。マール・ハガード(1937年生まれ)の家族もこの中にいた。
これらの人口の大移動が、後の(1960年代)西海岸の娯楽産業のナイトクラブ、ダンス・ホール、飲食店、音楽産業の隆盛に結びついたと言える。もちろん、ハリウッドの映画産業も大きいが。
●人口の増加は地域経済の発展につながり、雇用に結びつく。1940〜50年代のベーカーズフィールドは急増した日雇い労働者向けの安いダンス・ホールやホンキー・トンク酒場(blackboard cafe)の開店を拡大した。酒場でのバンドはボブ・ウィルスやローズ・マドックスらが人気であった。
不思議とウェスト・コースト系のアーチストは、まずスタジオ、あるいはバック・ミュジシャンとして出発し、才能を認められてその後歌手として人気を得るようなった。
グレン・キャンベルをはじめ、このような流れのパターンが多い。ロイ・ニコルス、ウェイン・スチュアート、トミイ・コリンズ(楽器演奏者)あたりも頭に浮かぶ。オーエンスとハガードもまずサイドマンとして名前を売った。彼等はその次の時代の後継者であった。そして続く現在の中心はドワイト・ヨーカム、サラ・エヴァンスあたりだ。
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東京ヘイライド(117) ベーカーズフィールドの三国志(3) 真保 孝 |
●アリゾナ生まれのロイ・ニコルスはマール・ハガードのバンドにペダル・スチール、ギターマンとして20年以上も在籍していた。ハガードのヒット曲のバックにはいつも彼がいた。父(ベーシスト)の影響で音楽に興味をも落ち、11歳でローカル・バンドに加わり、週25ドルを稼ぐ腕前になった。
16歳の誕生日の少し前に、ローズ・マドックスのバンドのフレッド・マドックスと出会い、週休90ドルという待遇を受けた。彼がどれほど優れたプレイヤーだったか、「90ドルは大金だが、彼はどんなスタイルでも合わせて演奏できた。彼(ニコルス)のようなピッカーはどこのバンドでも欲しがっていたんだ」(フレッド)。
フレッド(1919〜1992)はマドックス兄弟の3男で、ベースを担当していた。ウェスト・コーストで最もカラフルな人気バンドだったが、1956年の惜しまれて解散した。
●アリゾナ州メサで行われたマドックス・ショウのステージの最前列には、まだ10代の男女が観覧していた。バック・オーエンスとボニー・キャンベル・オーエンスであった。それ以来2人はニコルスに夢中になった。
ハガードは14歳の時にニコルスにギターを習いたいと希望した。「その頃ニコルスはレフティ・フリツェルのバンドにいた。フリツェルも僕の大好きな歌手だったので具合がよかった。それ以来、ニコルスは僕の生涯ギターのアイドルになった」(ハガード)。
1987年、ニコルスはハガードのバンドを退団して、引退した。
1996年、そのニコルスに心臓麻痺が襲い、左手が利かなくなり、車椅子の生活になった。「彼がバンド「ストレンジャース」の基礎を作った。ニコルスを失った時、僕は自分の左腕を失ったようなものだった。僕ら(The Strangers)はその困難に耐えた。彼の存在は例えれば、バック・オーエンスにおけるドン・リッチのようなものだ」(ハガード)。
2001年7月、ニコルスは心臓麻痺が再発して他界した。68歳だった。ベーカーズフィールドで行われた葬儀は当然、ハガード取りしきった。
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東京ヘイライド(118) ベーカーズフィールドの三国志(4) 真保 孝 |
●ロイ・ニコルスのように、サイドマンとしてあまり表に出てこない人が他にも沢山いた。例えばビル・ウッズだ。ケン・ネルソンより13歳若いが、生前彼は陰のパイオニアー(Father of the Bakersfield Sound)と言われていた。なんともヨキ名前のバンド「Orange Blossom Playboys」のリーダー(ギター、フィドル)として、またラジオのDJとして15年近く活躍した。
まだ青臭いバック・オーエンズがテキサスからがアリゾナを経て西海岸にやってきて、最初にエレキ・ギターの職に就いたのはウッズのバンドだった。「彼(ウッズ)は真のカントリー(Pure Country)を理解していた。ベーカーズ・サウンドを知りたければ彼に聞くのが一番だ。頼ってくる誰もを暖かく助けた」(レッド・シンプソン)。
●西海岸のアーチストにはテキサスの出身者が多いが、ウッズもテキサスの生まれで、1940年(16歳)に一家でカリフォルニアにやってきた。ウィルスのバンドでトミイ・ダンカンとプレイしたこともある。2003年7月に心臓の病で他界した。75歳だった。葬儀にはファーリン・ハスキー、トミィ・コリンズらが参列した。
●ハスキーも初期のベーカーズフィールドの発展には深く関わった重要なひとりだ。どうしてもジーン・シェパードとの「A Dear John Letter」(1953年)が頭に浮かぶが、その前から活躍していた。偏見だが、その西海岸における存在が大きかったために殿堂入りが、他の歌手に比べて遅れたのではないか?ジョーダニアースをバックにした「Gone」(1957年)は西海岸側が明らかにナッシュヴィル・サウンドを意識(対抗?)した曲と言える。
●14歳の有望でタレント性のあるダラス・フレィジャー(ベーカース育ち)を連れてきたのもハスキーだった。この時期、ベーカースには珍しいブルーグラスのアーチスト、ハイロ・ブラウンもやって来ていた。1954年、ブラウンは「Lost To A Stranger」を作り、ケン・ネルソンに送った。11月に録音されたこの曲が彼のキャピトルにおける最初のヒットになった。
1957年のある日、ブラウンの元にレスター・フラット&アール・スクラッグスから連絡が入った。「あなたのレコードを聴いたけど、ぜひ私たちのバンドの加わって欲しい」と。
要請に応えてブラウンはゲストとして数年間、「フォギー・マウンテン・ボー一ズ」に参加した。マーサ・ホワイト製粉会社がスポンサーの番組で、この時代の模様は先頃発見、発売された貴重なDVDで観ることが出来る。
さて、キャピトルでのブラウンのレコードはビルボードには載らなかったが、確実な売り上げを示した。ケンタッキー州でロレッタ・リンの生地にも近い土地で生まれた彼は、2003年、80歳で他界した。
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東京ヘイライド(119) ベーカーズフィールドの三国志(5) 真保 孝 |
●ハスキーとほぼ同じ時期に、古巣のコロムビアを離れた(一時期、MGM )ロイ・エイカフがキャピトルに移籍してきた。生粋のナッシュヴィル人脈のロイが何故だろうか? ネルソンとフレッド・ローズはシカゴ時代からの親友で、ローズの斡旋にネルソンはためらうことなくエイカフとの契約に応じた。
何しろ相手は「King of Country Music」である。1955年にリリースされたこのアルバムは8万枚売れた(東芝から邦盤も出た)。当時出遅れて、日本では名盤として名高い、彼のコロムビア盤の入手が難しかったので、セピア調のいかにもヒルビリーらしいジャケットにも惹かれて飛びついて購入したが、モダン化されて期待したロイの魅力は半減されていて失敗?だった。
●ハスキーがジーン・シェパードと組んだ「A Dear John Letter 」は1953年のヒットだが、この1年前に同じ朝鮮戦争に題材をとったスキーツ・マクドナルドの「Don’t Let The Stars Get In Your Eyes 」(星を見つめないで)が生まれており、この曲の方が広くポップス(ペリー・コモ、雪村いずみ盤)まで歌われた。ヒットこそ少ないが、マクドナルドもベーカーズにおける重要なポジションを占めて忘れられない歌手だ。
マクドナルドはネルソンのもとにウェイン・スチュアートを連れてきたが、スチュアートはその才能を認められて即座に契約がされた。そしてこのウェインの録音に際して、さらにスタジオにベース・マンとして連れてきたのが、無名だった作曲家志望のハーラン・ハワードであった。
●1956年と言う年はボビィ・ベァ、ワンダ・ジャクソン、ジーン・ヴィンセントなどが契約を結んだ。まだ16歳だったジャクソンは当時火のついたロッカ・ビリーの最前線に「女性エルビス」と命名されて否応なしに送り込まれた。
オクラホマの信心深い家庭に育った彼女は1961年、正調カントリー路線に戻るまでその路線で歌った。
ヴィンセントはヴァージニア州のノーフォークのラジオ局(WCMS)のディスク・ジョッキーからの紹介だった。ロックン・ロールの「Be Bop A Lula」を歌って人気が出ているとの地元情報だった。ネルソンはこれからは音楽産業はこれだ!と直感していた。
「もし君(DJ)が5月4日までに彼(ヴィンセント)をナッシュヴィルに連れてこられるなら、契約しよう」と伝えた。しかしネルソンにも1回しか聴いていないヴィンセトと契約して、事を急いては失敗するかも、という不安はあった。だがレコードは成功して、7月を頂点に17週間の大ヒットになった。ネルソンは叫んだ「I felt we had a winner!」と。
ヴィンセントの本名はVincent Eugene Craddockという、とげとげしくて言い憎いものだった。デビュに当たって、もっとなめらかで、親しみやすくて言いやすい名前に変える必要があった。会社側はヴィンセトの了解を得て変更したが、彼も喜んで使用したという。
●ナッシュヴィルのホール・オブ・フェイムのミュージアムでは2012年4月24日から2013年12月31日までベーカーズフィールドの栄光と功績をたたえて、ナレーターにドワイト・ヨーカムを当てて、特別展示を開催する計画がある。
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東京ヘイライド(120) ジャック・クレメント 真保 孝 |
●カウボーイ・ジャック・クレメント。昨年(2011年)の6月日曜日の午後、ナッシュヴィル郊外ベルモント、ブルーバード通りにあるクレメントの自宅と併設されたスタジオが焼失した。瀟洒な建物はチュダー調のディザインで有名だった。午後2時頃、火災のアラームが鳴ったとき、クレメントは裏庭で昼寝をしていた。
●火もとはスタジオの屋根裏からで、幸い怪我人は出なかったが大事に愛用してきたギターが消失した。1951年に買ったギブソンJ―200アコースティックで、これを弾いて多くの名作を作ってきた。「Ballad of a Teenage Queen」「Guess Things Happen That Way」(キャッシュ)、「Does My Ring Hurt Your Finger」「Just Between You and Me」(チャーリー・プライド)ほかジェニングスやジョージ・ジョンズなどの曲に。もちろんその他の楽器も、マスター・テープ類も、資料も焼失した。
●カウボーイというあだ名はメンフィス州立大学時代にローカル・バンドでスチール・ギターを担当した時代につけられた。本名はJack Henderson Clement。一時期、ブルーグラスのバンドにいたこともあった。
クレメントがメンフィスのサン・レコードのサム・フリップスに採用されたのは、1956年6月のことだった。スタジオで録音技師として働き、多くの歌手を育て、クラシックの名曲を手がけた。キャッシュ、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス、チャーリー・リッチなど。サムから斬新なサウンド造りを学んだ。
1959年にナッシュヴィルに移住した。チェット・アトキンスのアシスタントとして学び、働いた。担当した中で最も成功したのは、チャーリー・プライドの売り出しを成功させたことだった。はじめのアルバムから数えて合計20枚のアルバムをプロデュースした。プライドは恩人に頭が上がらない。
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東京ヘイライド(121) クレメントとプライド 真保 孝 |
●RCA時代のある日、ロニー・ストンマンが数人の友人と話をしている部屋にカウボーイ・ジャック・クレメントが一人の男を連れて入ってきた。見るからにルックスのよい黒人の男性だった。
持参したテープをみんなで聴くことになった。聴き終わったとき「この曲をどう思う?」。居合わせた誰もが「素晴らしい(fantastic!)」。「歌っている歌手は誰か判るかい?」。「いいや、判らない」(全員)。「実は今ここにいる男なんだよ。今、彼をRCAに入れようとしているところなんだ。でも、会社側はサイン(契約)をしようとはしないんだ。彼のよさが判らない会社はクレイジーだ。何とか説得してくれないか」(クレメント)。
●そのあとアトキンスの事務所に行って再度テープがかけられた。テープはリールからリールに巻き取られていった。「これはグレート・シンガーだな。本当に良い声をしている。一体誰なんだ」(アトキンス)。「君の前にいる男だよ」(クレメント)。天下のアトキンスに褒められた27歳のチャーリー・プライドは少し恥ずかしげに立っていた。クレメントは遠慮気味のプライドをアトキンスの机の方に押しやった。
●以上はストンマン・ファミリーの一員だったロニーの回顧談からだが、別のエピソードも残されている。
プロの野球選手から怪我が理由で歌手に転向した人はロイ・エイカフ、ジム・リーヴスなど沢山にいる。プライドもその一人だ。メジャー・リーグのカリフォルニア・エンジェルスから正式に選手登録までされた才能だった。練習中に肘にひびが入る事故から断念した。
●歌手への転向に迷っていたある日、地元の放送局が主催するコンテストに応募した。この時の審査員がレッド・フォーレイとレッド・ソヴァインだった。白人主義のフォーレイは余り関心を示さなかったが、人種問題に寛容なソヴァインはその才能を認めてくれた。
「もしナッシュヴィルに来るときは寄ってくれ」(ソヴァイン)。黒人として白人系のカントリー音楽の世界で成功できるか否か、プライドは悩んだ末に、ナッシュヴィルを目指した。ソヴァインはアトキンスを紹介してくれて、RCAでの担当プロデュサーはクレメントに決まった。
●RCAでの契約は決まったが、その売り出しの戦略について議論が沸騰した。まずはプライド個人が心配したように、人種問題の解決であった。レコーデイングはされてレコードはラジオの電波に乗せられたが、黒人であることは当分伏せられて(隠されて)いた。リスナーからは問い合わせの電話が鳴り続けたという。
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東京ヘイライド(122) ロイ・ロジャース 真保 孝 |
●グラミー賞はさておき、1回でも難しいのに、歌手として誰でもが憧れるホール・オブ・フェイム(殿堂)入りに2回も入った歌手がいる。ロイ・ロジャースである。
1回目は1980年で、オリジナル・サンズ・オブ・ザ・パイオニアースのメンバー(名前はまだレオナード・スライ)として、2回目は1988年、個人のロイ・ロジャースとしての受賞だった。
100本に近いB級西部劇映画にロジャースの愛馬として出演したトリッガーは、ロジャースの次に映画の出演料が高額だった。その愛馬は1965年7月、カリフォルニアのアップル・ヴァレーの牧場で死んだ。人間の年齢では33歳の高齢だった。剥製はロジャースの記念ミュージアムに飾られている。
●映画の出演で「Singing Cowboy」としては先輩のジーン・オートリーの愛馬はチャンピオン号であった。ロジャースの愛称は「King of the Cowboy」、そして奥さんのデール・エヴァンスは「Queen of the West」。2人は自分の名を冠したテレビ番組で1951年から57年まで全米的に少年少女の人気を独占した。テーマソングの「Happy Trails」はエヴァンスが書いた。
1940年代から50年代にかけてのロジャースの全米での人気はディズニーランドと双璧であった。当時の少年達の将来に夢は「ロイ・ロジャースのようなカウボーイになりたい」というものだった。それまでのカントリー音楽は南部をベースにした地域的な音楽であった。それが全米的な広がりを示したのは、映画とそれに伴う音楽だった。オートリーとロジャースは家庭の居間に入り込んでその原動力となった。
●オハイオ州生まれのロジャースは18歳の時カリフォルニアに出てきた。シンシナティの生家は現在、野球のスタジアムになっていて、「僕の家は丁度セカンド・ベースのあたりだ」と笑って答える。
父親は小さな靴の工場を経営していたが、折からの大恐慌で倒産した。西へ西へと流れる大量の移民の流れ、この様子を書いたスタインベックの名作「怒りの葡萄」をロジャースも愛読した。
工場を手伝っていたが、長姉が結婚した先を頼ってロスに出てきた。音楽に転向して、従兄弟と「The Slye Brothers」を作ったが、やがてオリジナル・サンズ・オブ・ザ・パイオニアースに発展させた。
1998年7月6日に他界。87歳だった。1911年生まれ。本名はLeona-rd Franklin Slye。1943年7月12日号の雑誌「ライフ」の表紙になる。その歌手生活の中で、3回、名前を変えている。はじめはディック・ウェストン、パイオニアース時代にレオナード・スライ、そしてロイ・ロジャースである。彼のレコードをお子さま向けと侮ってはいけない。夫人のエバンスとのデュエット(「Happy Trails」他)も良い味で、聴いてみる値打ちはある。
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東京ヘイライド(123) アーノルドとライムス 真保 孝 |
●浮き沈みの激しい音楽界で70年近くに渡って現役生活を続けた歌手がいた。エディ・アーノルドだ。ヒルビリーの時代からホンキィ・トンク、ロッカビリー、ナッシュヴィル・サウンド、ポップスと時代の波を駆け抜けた。彼の偉業を語る具体的な例として数字が出される。ヒット・チャートに送り込んだ曲数はではジョージ・ジョンズの167曲に次いで、146曲と第2位である。第3位はジョニィ・キャッシュだ。
●テネシー州の貧農(小作人)で、10人とも言われる多兄弟の一人として生まれた。フィドルを弾いた祖父が10歳の時にギターを買い与え、母が教えた。
地元スクエアー・ダンスの伴奏で75セントを貰ったことから、お定まりのローカル放送局への足がかりを掴んだ。自ら名付けたバンドの名前「Tennessee Plowboys」(テネシーの農場の少年達)はデビューした1945年当時の情勢をよく表現している。そのアーノルドがテーマ・ソングとしたのは「Cattle Call 」だった。
●アーノルドが如何にこの曲に愛着を持ったか、それは時代の波に合わせ、アレンジして都合3回(1955,1963年)の録音をしていることからも判る。3回目は映画「ケンタッキアン」(邦題、ケンタッキー魂?)のためにユーゴ・ウィンターハルターと組んだサウンド・トラック盤であった。
そしておまけとして、1997年になんとあの「Blue 」(1996)で輝ける少女歌手、リーアン・ライムスとのデュオであった。突然、何でと?降って湧いたような話ではある。
●実は2人の出会いは前年の1996年の秋、あるテレビ局のライブ・ステージの楽屋にあった。推測だが、当時ライムスのマネジメントをしていた父親は古くからカントリー音楽に興味を持っており、デビューした彼女のレパートリにも神経を使っていたようだ。当然彼はこの名曲を知っていた。ライムスは手書きでアーノルドに直接手紙を書いた。
「彼女の活躍ぶりはテレビで見て知っていた。共演したらキュートな彼女にしてやれるか心配はあった。しかし実際に会ってみると、両親も立派な方で同意した」(手紙を貰ったアーノルド)。
●「スタジオで特にアドバイスらしいことはしなかった。若いライムスはどうしても情熱(感情)を全面に出しすぎる傾向がある。彼女の持ち前の個性を生かしながらも、その危険性は避けさせた」(アーノルド)。事実、アーノルドはスタジオでは椅子に腰掛けて、曲のイメージを崩さないことに心がけただけだった。
残念ながら、この曲はチャート・インしなかったが、歯切れのよいシャープなギターをバックに、15歳のライムスと79歳のアーノルドは曲のイメージを崩さずに、のびのびと歌い上げて好感が持てる。ライムスはこのラインで不朽のクラシック名曲「Born to Lose 」もレパートリーに取り入れており、一聴に値する。録音を終えて、「That’s my dear little daughter!」(スタジオ出たアーノルドの言葉)。
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東京ヘイライド(124) キャトル・コール 真保 孝 |
●冒頭から歌いやすいヨーデル入りの「Cattle Call」は日本でも比較的古くから良く知られてきた人気曲であったが、ただ皆さんステージで歌うだけで、その源を知る人は少なかったようだ。
大草原をイメージさせる牧歌的なこの曲の原作者はテックス・オーエンスである。オーエンスは1892年にテキサスで生まれ、1962年9月に70歳で、テキサスで他界した。彼のバンド名は「 The Texas Ranger」で、ニック・ネームはオリジナル・テキサス・レンジャーだった。文字通りテキサスで生まれ、同州で息を引き取った。
●職歴はコロラド州の町のシェリフ、自動車修理工、牧童、そしてラジオのDJとして働いたが、父親の影響を受けて放浪癖が強く、釣りや狩猟が趣味で実生活では落ち着きがなかった。
オーエンスはラジオ局で働いていた頃、カンサス市内のホテルに宿泊していた。ホテルの窓から外を眺めていると、降り出した雪が積もってきた。その時に牧童時代に過ごした過酷で苦しいカウボーイの野宿の生活を思い出した。口をついて出た言葉を直ぐにギターでまとめた。30分でまとめたと、生前語っていた。1936年その後、さらに推敲を重ねて録音にこぎ着けた。
●単調だが親しみやすいメロディは数多くの歌手たちに取り上げられた。テックス・リッター(1947)、キャロライナ・コットン(1951)、スリム・ホイットマン(1954)、エルヴィス(1970)、エミルー・ハリス(1992)らである。
余談だが、オーエンスの親族にはカントリー音楽の関係者が多い。妹にはカーリー・フォックスと組んだテキサス・ルビー(トレイラーハウスで焼死)が、娘にはボブ・ウィルスのバンドに最初に参加した女性歌手のラウーラ・リー(1920〜1989)がいた。
●確認したわけではないが、オーエンスは1948年にジョン・ウェイン主演の映画「Red River」(邦題、赤い河)にも出演して、この時は落馬して骨折したという。長いキャトル・ドライブを描いた内容は彼にぴったりだった。死因は心臓麻痺、1971年に「作曲家殿堂」入りをした。
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東京ヘイライド(125) キャンベルと名アレンジャー 真保 孝 |
●昨年6月頃、アルツハイマー(認知症)の疑いが出たキャンベル(本コラム第15回)が、約40年ぶりに今年1月にライマンにやってきた。「いまさらの感が深くて、きまりが悪く(困惑して)困っています....どう言ったらよいのか」(キャンベル)。
心配は無用でファンは暖かく、圧倒的な歓迎を受け、ステージの足元には沢山のバラの花束が積まれた。往年のヒット曲の合間にはジョーク(エルヴィスの物真似など)を交えて、まさに「グッド・バイ・アルツハイマー・ツアー」であった。この病はレーガン元大統領、コロンボのピーター・フォーク、そして英国の鉄の首相と言われたあのサッチャー首相までが晩年にかかった。
●さて、1967年夏に始まったこのキヤンベルの一大ヒット曲路線を裏方で支えていた名アレンジャーのアル・デローリーが2月5日にロスで他界した。死因は不明で、82歳だった。他界の知らせは運悪く華やかなグラミー賞受賞式や、ホイットニー・ヒューストン急死の陰に隠されるようにして、キャンベルの妻から小さく報道された。
●スタジオ・ミュージシャンを父にロスで生まれたデローリーは、少年時代からピアノとアレンジを学ばされた。入隊中もバンドを結成、除隊後はスタジオやクラブでピアノを弾いた。
1960年始めから父と同じようにスタジオ・ミュージシャンとして働きだし、ビーチ・ボーイズ、ティナ・タナーの仕事をした。やがてその実力が認められて、キャピトルのチーフ、ケン・ネルソンの要望により、キャンベル担当のアレンジャーに就任した。
「Gentle On My mind」「Galveston」「By the Time I Got to Phoenix」「Wichita Lineman」など連続した驚異的なヒットは、すべてデローリーの力によるものだった。
●「キャンベルの声質に合わせて、その持ち味を生かすことに全精力を向けた。特にライブでは私の期待を超えた力を発揮してくれた」(デローリー)。エレガントで洗練されて、説得力のあるキャンベル・スタイルの完成はカントリー・ポップスのひとつの時代を築いた。デローリーはその人生の後半をナッシュヴィルで過ごした。そこは妻が最後を迎えた土地でもあっ
たからだ。
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東京ヘイライド(126) カントリー・ジェントルメン 真保 孝 |
●セカセカ、ごみごみとした雑踏の都会生活にあって、最近は「カントリー」の言葉を聞くと何故かほっとする。
「カントリー・ジェントルメン」(複数)は1957年7月にチャーリー・ウォラーら4人組によって創設された。当時としては革新的(都会派?)なブルーグラス・バンドの名前で、後日メンバーを変えたが(バンジョーにビル・エマーソンなど)1972年を皮切りに数回来日している。このチームの影響を受けて、日本の各大学のバンドの殆どがそのスタイルをコピィして、こぞってレパートリーに加えた。
●個人的な感想だが、一般にブルーグラス系の人たちはレスター・フラットなどを除けば、器楽演奏は上手いが歌はあまり上手ではないようだ(偏見?)。しかし2004年、78歳で他界したリーダー格のウォーラーの歌の上手さは抜群だった。それもその筈彼のアイドルはアーネスト・タブ、ハンク・トンプソン、そしてなによりもハンク・スノウであったことからも伺える。1967年にはオープリーと契約していた。残された彼の妻は日本人で健在である。
●「カントリー・ジェントルマン」(単数)はチェット・アトキンスの器楽ナンバーで、ラジオ番組のオープニング(クローズイング)曲に常用されてきた。この曲がヒットしたことから、演奏に使用したアトキンスのグレッチのギターはこの曲の名前が付けられたという。愛用者にはロカビリー系が多いと聞くが、ハンク・コクランからエルヴィス・プレスリーまでも使用したらしい。
●さて、「ザ・サザーン・ジェントルマン」(南部の紳士)である。このニック・ネームを持つのはソニー・ジェイムスである。今年83歳になる彼が活躍したのは、1950〜70年代、特に60年〜70年代の爆発力は凄い。
1曲ヒットさせただけでも、贅沢しなければ一生生活に不自由はしない?と言われる米国の事情。いまそれを列挙するスペースはないが、とにかく歌った20曲近くのすべてが連続して第1位にランクされた。その輝かしい第一弾となったのが、1956年の「Young Love 」(連続24週間)であった。次回はそれを取り上げたい。
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東京ヘイライド(127) ソニー・ジェイムス 真保 孝 |
●「Young Love 」はプロの作曲家が書いた曲ではなかった。アラバマ州の高校生リック・カーティがガール・フレンドのキャロル・ジョイナーと2人で作った曲だった。それだけに歌詞も単純で、メロディもストレートで素人ぽっさに溢れていた。これまでの偽りに満ちた失恋のカントリー・ソングでなく、清らかな青春の初恋「ヤング・ラブ」が歌われていた。2人はクラスのバンドで録音したが、殆ど無名に終わった。
●あきらめきれなかった2人は自分たちのテープを放送局に持ち込んだ。運良く、対応したビル・ローリーと言うDJが注目してくれた。DJと言う職業柄、その予見は正しかった。ローリーはテープをRCA(スティーブ・ショウレス)とキャピトル(ケン・ネルソン)に送った。ネルソンとは以前ジーン・ヴィンセントのスカウトを通じて知己の仲だった。レコード会社もDJとして南部、特にアトランタ地方で人気・実績のあったローリーの推薦は受け入れた。
●郵便でテープを受けとったネルソンの行動は早かった。1952年に朝鮮戦争から帰国してきたジェイムスはキャピトル在社で3年目を迎えて、人気歌手として、一段の飛躍の時が考えられていた。
送ったローリーの本心はRCAでの採用を期待していたが、上記の事情からキャピトルの対応が早く電話が入った。「まず曲の出だしのフレーズが気に入った。アレンジ次第では、これはヒットする可能性があると確信した」(ネルソン)。
●録音の準備が進められ、推薦者のローリーもスタジオのあるナッシュヴィルに呼ばれた。だが、当のジェイムスは歌うことにあまり乗り気でなかった。「私の目にも彼(ジェイムス)は気に入っていなかった」(ローリー)。
実はジェイムスはこの曲よりも「You’re The Reason I’m in Love」(B面?)の方が気に入っていた。「自分にも合っていたし、100%ヒットすると確信していた」(ジェイムス)。ネルソン、ローリーの再三のすすめにもいい返事はしなかった。
●約2週間、ネルソンとローリーのヒットにつなげるアレンジの努力は続けられた。イントロのドラムスに続いてギター(ピート・ウェイド)を流して、ポップ的な要素のバック・コーラス(ジョーダニアース)を加える...など。特にバックにブラッシュする小刻みなスネア・ドラムスが効果的だった。
1956年10月30日、録音は終了した。発売して12月には遂に第1位を登りつめた。追いかけるように発売された英デッカのタブ・ハンター盤はポップス市場でさらに広く売れたが連続チャートではジェイムス盤に軍配があがった。
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東京ヘイライド(128) アール・スクラッグスとの別れ 真保 孝 |
●ハンク・スノウが亡くなったとき、ナッシュヴィルの新聞の見出しは、「ナッシュヴィルの柱」(Pillar )が倒れたと、書いた。スクラッグスの場合はどう書くかな?と興味があった。アメリカの全国紙とも言えるニューヨーク・タイムズ紙は「Earl Scruggs, Bluegrass Pioneer, Dies at 88」とした。
比較的ブルーグラスに冷たかったナッシュヴィルを、商業的な成功の実績をもって、ここまでひき上げたスクラッグス夫妻の果たした功績は大きい。南部地方ローカル中心のブルーグラスを演奏するフラット・アンド・スクラッグスが、広くアメリカ国民の前に姿を現したのは、1959年、第1回のNewport Folk Festival のステージだった。それは折からのフォーク・ソング・ブームに便乗したルイーズ夫人の作戦でもあった。
●かって1997〜8年頃、精力的にマネージヤーとして活躍していた妻のルィーズとの結婚生活50周年を記念した夫妻を祝うパーティが5月に開かれた。場所はナッシュヴィルの318ブロードウェイにあるギブソン・ギター・カフェである。
お祝いに集まってきたのは、コニー・スミス、ウェイロン・ジェニングス、キティ・ウェルス、パティ・ラブレスのそれぞれ夫妻たちだった。この頃はナッシュヴィルでも大物歌手の訃報が続き、人々の心も暗かったから、楽しいパーティになった。
●パーティはそのまま自然の流れで、楽器のジャム・セッションに発展した。息子のランディとゲイリー、デル・マッコーリー・バンド、楽器ならなんでものマーティ・スチュアート、元気だったジミー・マーチン、ジョン・ハートフォード、ザ・ホワイツ、など次から次へと役者に不足はなかった。
●やがて閉会の言葉。呼びかけ人のひとり、ギブソン社のヘンリー・ジェンキンス(社長?)がユーモアを込めて述べた次のスピーチが当夜のピカイチであった。
「ルィーズ夫人よ、スクラッグスは君と暮らした50年よりも長く、我が社ギブソン社と苦楽を共にしてきたんだよ」。その通り、スクラッグスは動くギブソン・バンジョーの宣伝を効果的に果たしていた。 レスターとビル・モンローのバンドを離れて独立してからも50年が過ぎていた。つまりのその年に夫妻は結婚して、マーキュリー・レコードと契約した。「Rollin’ in My Sweet Baby’s Arms」「Salty Dog Blues」を残して1951年にコロムビアに移籍した。
●一方のレスター・フラットはグラディス夫人と生前に離婚して養子がひとりいた。他界したのは1975年5月、64歳だった。ブルーグラスの新しい普及を目指して活躍した「フォギー・マウンテン・ボーイズ」の時代は終わったし、黄金時代(1950年代)のブルーグラスも幕を閉じた。(参考:43回)。
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東京ヘイライド(129) アール・スクラッグスとの別れ(2) 真保 孝 |
●父と慕われたビル・モンロー、玄人好みの独自の路線を歩んだレノ・アンド・スマイリー、革新派の先達者オズボーン・ブラザース、都会派で学生の人気を集めたカントリー・ジェントルメンなど多くの歌手やプレイヤー達の努力によって、米国内に市民権を持っようになったブルーグラス。今回のスクラッグスの他界をどう感じているだろうか。フアンの声を少し集めてみた。
●亡き父とスクラッグスは重なります。生前父はテレビで彼のプレイを観るたびに言いました。「いいかい、ペグでバンジョーの5弦を弾くスタイル(注:楽器に弱い筆者にはこのあたりのペグの説明の意味が不明です)、これがミスター・スクラッグスのやり方なんだ。彼が発明したんだ」。父は亡くなるまで彼のその華麗な演奏を、繰り返し楽しんでいました。(NY在住)。
●私は大都会のアトランタで育ちました。ある土曜日の夕方、テレビのチャンネルがローカル局につながりました。番組はポーター・ワゴナーが司会をして、ウィリアム・ブラザースとフォギー・マウンテン・ボーイズが出演しておりました。スポンサーは製粉会社のマーサー・ホワイトでした。
ロックンロールが流行って、カントリー音楽は青春期を迎えていました。しかしフラット・アンド・スクラッグスは何かそれらとは違った曲を演奏していました。それが私には印象的でした。(オレゴン州、ポートランド)。(注:恐らくこのあたりでワゴナーはスクラッグスの存在を、野球のベーブ・ルースに例えた発言をしたと思われる)。
●好運にも私は彼の生演奏をライマンのステージで2回観ることが出来ました。イノヴェーター、オリジネイターとしてスリー・フィンガー・ピッキング・スタイルを確立させた功績は偉大です。アトキンス、キヤッシュに次いでアメリカはMusic Legend を失いました。(在、ナッシュヴィル)。
●私の父はケンタッキー州ジャクソンで1940年代のはじめから1963年まで映画館を経営していました。その間フラット・アンド・スクラッグスを3〜4回迎えました。土曜日の夜のショウは、西部劇映画の上映が終わってからでした。
時間は1時間から1時間30分ぐらいでした。フラットが司会をして、スクラッグスはいつも無口でしゃべりませんでした。何かを聞かれても恥ずかしそうににやにやと笑うだけでした。
記憶では、2人の出演の時は決して席が空くことはありませんでした。満員の時は、次の公演のために左側のドアーの前に人々は並び、見終わった人々は右側のドアーから出て貰いました。(在、ピッツバーグ市)。
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東京ヘイライド(130) ドク・ワトソン、伝説のギター・ピッカーの他界 真保 孝 |
●5月29日、高年齢とは言え、またひとりの巨人が他界した。アコースティック・ギターの名手ドク・ワトソンである。21日の週にノース・カロライナの病院に入院、腹部の手術を受けていたが息を引き取った。89歳だった。
尊敬していたマール・トラビスから名前を貰った息子のマール・ワトソンは27年前(1985年)にすでに事故死(トラクター)していた。あるセッションで演奏を共にしたトラビスはワトソンのプレイを「鈴のような音色」と褒めた。
●本名はアーセル・レーン・ワトソンと言ったが、ある演奏会で観客の独りが「Call him Doc」と読んだことからドク(医者?)の呼び名がついた。彼に医者の風貌があったか、その理由は判らない。
深南部(ノース・カロライナ)の音楽的な家庭で生まれたが、1歳の誕生日を迎える前に失明した。盲学校に通ったが、はじめに手にした楽器はハーモニカだった。次に通販で購入したバンジョー、最後にギターをマスターした。入門曲はオリジナル・カーター・ファミリーの「When the Roses Bloom In Dixieland」であった。
●録音アルバムは60枚余り、8回のグラミー賞を受賞していた。その中には1971年、ナッシュヴィルで録音された「Will the Circle Be Unbroken 」(36曲)がある。参加したミュージシャンの顔ぶれが凄い。ワトソンのルーツをたどると、カーター・ファミリー、ジミー・ロジャース、デルモア・ブラザース、ビル・モンロー、そしてドン・ギブソンにもつき当たる。
アパラチアンの無名のワトソンを発見(1961年)して、檜舞台に引き出した功績者はラルフ・リンズラー(1934〜94年他界。Greenbriar Boys在籍)であった。
リンズラーは当時、フォークウェイズ・レコードのスカウト、ニューフォーク・フェスティヴァルのディレクターとして働いていた。ワトソンはたちまち頭角を現して、ブルーグラス、カントリー、ゴスペル、ブルースの幅広いジャンルで、ギターという楽器の奥行きの深さを堪能させてくれた。オールド・タイミー、トラディショナル・カントリーの世界にワトソン独自に境地を開いてくれた。
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東京ヘイライド(131) ファン・フェアの開催 真保 孝 |
●歌手もバンドもファンがあって、生活が保障される。人気の度合いは収入(ギャラ)に比例する。好きな歌手や素敵な曲に遭遇して人々はファンになる。そして少しでもアイドルに近づき知識を得たくなる。
●この両者(ファンと歌手)を結んでくれる近道がファン・クラブの存在だ。全米各地に各歌手個別のクラブ同志の連合体、組織が米国にはある。3人の姉妹によってもう40年余も前に設立された。本部はナッシュヴィルにある。毎年6月〜7月にかけて開催されるフェアーは秋のCMAコンヴェンションと共にナッシュヴィルの大きな行事だ。
●大きな勢力となっており、音楽業界でもビジネス上、無視できない存在にある。毎年定期的にナッシュヴィルで開かれる「International Fan Fair」であり、今年は7月7日〜10日の4日間、会場はナッシュヴィルの「Blue Shoes Hotels」(名前はあのカール・パーキンスの曲名から)で開催される。通しての入場料は30ドル?全世界から年によって違うが平均5000人ぐらいのファンが参加して街に溢れる。落とすお金も馬鹿にならない。
●カントリー、ブルーグラス。各レコード会社別、クラシック・カントリー音楽などに分かれて、それぞれのステージで演奏が開かれる。その一つにインターナショナル部門がある。カナダ、ドイツ、オースラリアに混じって日本人歌手も登場する。私の参加の時はジミー・時田が新婚旅行を兼ねて渡米、出演していた。
●歌手別にブースが作られ、机を挟んで直接、ご贔屓の歌手との会話や、サイン、肩を組んでの写真、時にはハグまで出来る。売店には歌手のグッズが売られている。例えば、ジョージ・ジョーンズの写真入りの特製シャツは20ドル、毛布は50ドルぐらいか?寝るときも彼に抱かれて一緒だ。
●カントリー音楽を産業として盛り上げたいと言うCMAも運命共同体だから、開催に積極的に共同参加している。エージェンシーも巡業ツアーを調整してこの期間に備え、歌手たちもなるべくナッシュヴィルに戻ってくる。
●1963年に歌手(確かロレッタ・リン?)のフアン・クラブを作り、1965年にこの難しい連合体の設立(1968年に正式認可)、尽力した発起人のひとり、ロレツタ・ジョンソンが2009年4月に癌で他界した。68歳であった。現在は残った姉妹2人で運営されている。日本からも沢山のファンが参加している。
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東京ヘイライド(132) モンタナ・スリム、ウィルフ・カーター 真保 孝 |
●前回のファン・フェアーの続きを少し。ステージの袖で偶然に出会ったジミー時田は、国際カントリー部門に日本代表として出演したが、宮地晴子と結婚(2回目)したばかりで、新婚旅行を兼ねての渡米だった。夫人は記念に買った革製の鞍型(サドル)の形をしたバッグを提げていた。カナダの代表はウィルフ・カーターだった。CMAは当時、広くカントリー音楽を広めようと、国際化に努力していた。
●その日の昼食会はミュージック・ローにあるBMI音楽出版社の会議室で開かれ、私も呼ばれた。テーブルで偶然隣会わせになったのが、ウィルフ・カーターであった。気取らず、高ぶらず、あまりに自然な姿勢に、カーターだとは暫く気がつかなかった。本当の実力歌手とはこういうものだ。ところが気がついた途端に私は緊張で食べ物が喉を通らなくなった。オールド・ファンにとって、1950〜60年代のカーターの存在は神様のようだった。
●米国と隣国のカナダが生んだカントリー歌手として、ボブ・ノーラン(パイオニアース)、ハンク・スノウ、アン・マレー、近くはテリー・クラーク、シャナイア・トゥエインがいる。しかしカーターは米国で最初に成功したカントリー歌手で、彼等の大先輩である。
東海岸の港町、ノヴァスコシアでスノウ(同郷)よりも10年早く生まれた。米国で人気を挙げて、ニック・ネームはラジオの公開番組で観客から呼ばれたモンタナ・スリムが気に入った。1996年にアリゾナで他界した。91歳だった。
●その人柄のようなヨーデルはテクニックを駆使したものでなく、旋律に沿って自然に流れ出る、牧歌的で心温まるスタイルだった。スノウ同様に故ジミー・ロジャースを敬愛した。時代的にレパートリーはカウボーイ物が多く、曲も500曲以上を書き残した。
(時田については、瀬谷さんの「カントリー四方山話(19)」参照)
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東京ヘイライド(133) ユアー・マイ・サンシャインと選挙戦 真保 孝 |
●秋に迫ったアメリカ大統領選挙の共和党候補にロムニー氏(前マサチューセッツ州知事)がほぼ決まったようだ。民主党のオバマ現大統領との戦いが見物だ。
テネシー、テキサス、ケンタッキーなど南部諸州は保守派の共和党の地盤だ。今は昔、カントリー音楽界からも州知事や議員に立候補した人たちがいた。ロイ・エイカフ、ジミー・ディビスたちだ。
ルイジアナ州知事選挙でディビスの選挙応援歌として歌われたのが「You Are My Sunshine」であることは有名だ。選挙キャンペーンではこの曲を歌い、「Singing Governor」(歌う知事)と親しまれた。
●州内で小作人のせがれとして生まれたディビスは州知事まで登りつめた、まさにアメリカン・ドリームの実践者だった。カントリー音楽だけでなく、ゴスペル歌手としても広く州民の人望を集めた。数枚発売されたアルバム、彼の歌うセイクレッド・ソングはいつも表現が豊かで、説得力があった。現在の選挙でもそうだが、米国で宗教問題は人種問題と共に、選挙での大きな要因である。
学識もあり州内の女子系のドッド・カレッジでは歴史学の教鞭もとっていた。授業では非公式だが、ヨーデルもまじえて教えたと言うから「Singing teacher」かも知れない。曲造りも上手で「New Moon Over My Shoulder」「Nobody's Darling but Mine」など。約40枚のアルバムを残している。
●驚異的な長寿を続けたが、2000年11月5日に他界した。年齢は101歳と55日だった。この記録は破れそうになかったが、2011年3月18日に101歳と56日の人が出て、新記録が出た。
ルイジアナ州知事として(1944〜48年)、(1960〜64年)、の2度にわたって州知事を務めた。その功績は今でも州の各地に残されている。ミシシッピ河をはさんで、ニューオリンズとバトンルージュをつなぐ橋の名前は「Sunshine Bridge」である。全長2500メートルの橋(4車線)は1964年に開通した。また「You Are My Sunshine」は州のステート・ソングに制定(1977年)されている。
●私生活では、最初の妻のアルバーナ・アダムスはシュリブポートの著名な家柄の出身で、文字通りファースト・レディ。1967年に他界したが、すぐに再婚した。相手のアンナ・カーター・ゴードンは有名な賛美歌チーム、オリジナル・チャック・ワゴン・ギヤングのメンバーのひとりであった。
●おしまいに、ディビスの生前の姿が観られる日本映画がある。米人と結婚してルイジアナに住むことになる、日本女性(ユキエ)がアルツハイマーにかかる物語で、タイトルは「ユキエ」(1997年)でDVDで観ることが出来る。推薦したい。
松井久子さんという方の制作、監督作品で、脚本は新藤兼人であるからしっかりとした作品だ。映画の最後に元気だったディビス(当時96歳)が車椅子で出てきて、実際に歌う。ディビスは「知的で温厚な紳士だった」(挨拶に行かれた松井さん談)。
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東京ヘイライド(134) 大統領とカントリー音楽 真保 孝 |
●現在のブラック・オバマ大統領は民主党の出身だ。5月11日に秋の選挙戦を前に大きな発言をした。「避妊中絶」と共に社会問題になっている「同性愛」について、個人的に支持を表明した。
カントリー音楽界では古くはケイ・ディ・ラング(K. D.Lang )がいる。カナダのアルバーター州生まれでグラミー賞も受賞した実力者である。レズビアンがまだ社会的に認知されていない時代に、ある雑誌で自身が勇気を持って告白した。
最近ではシェリー・ライト(Chely Wright)がいる。1970年、ミズリー州カンザスの出身で、こちらは2010年5月にテレビと雑誌「People」の中の自叙伝でカム・アウト(秘密を明らかにする)した。ライトも過去数多くの賞を受賞している。
●同性愛については、現在米国でも宗教的な価値観から、その是非についての賛否は伯仲している。保守的な共和党(ロムニー候補)は妊娠中絶と共に、これを認めていない。カントリー音楽フアンの多いテネシー。アラバマ、ケンタッキー、テキサスなど南部諸州では、圧倒的に共和党の地盤である。
オバマのこの表明に共和党のサンディゴ市長から思わぬ援軍が出た。「オバマの正しい決断に賞賛を贈る。これは平等と基本的人権の問題だ」。日常生活を歌うカントリー・ソングの中にも、多分これ(同性愛)についての曲があると思うが不勉強である。
6月、同性愛について若い世代の人気売れっ子歌手のキャリー・アンダーウッドが「同性愛を支持する」との公式の衝撃的な意見が述べられた。ブロンドで29歳、オクラホマ生まれ、少女時代にバプティスト教会で歌い始めたのがスタート。アメリカン・アイドルのこの発言が選挙戦にどう影響するか見物である。
●民主、共和の両党共に、大統領は年に数回音楽家をホワイト・ハウスに招いてコンサートを開く。数年前のオバマ大統領のケースを書いてみよう。夫人も同席してホワイト・ハウスの東棟で開かれた。招かれたのは、アリソン・クラウス、ブラッド・ペイズリー、チャーリー・プライドらであった。
クラウスは自身のバンドユニオン・ステーションをバックにドブロのジェリー・ダグラスを加えて「Let Me Touch You for a While」と、折からの人気映画「Oh’ Brother, Where Art Thou? 」で使用された「I am a Man of Constant Sorrow」(ギター:ダン・ディミンスキー)を聞かせた。
ペイズリーは新しいアルバム「American Saturday Night 」から「Then」(彼としては14曲目の第1位曲)、そしてクラウスとデュエットで「Whiskey Lullaby 」を歌った。プライドはお馴染みの「Is Anybody Goin’ to San Antone」「Kiss an Angel Good Morning」を。
●「知ってのとおり、私は都会育ちのシティ・ボーイだ。だけど多くのアメリカ人が好むように、カントリー音楽も大好きだ。人々の心の中に生きているあらゆるジャンルの音楽に影響を与えている。今日のこのコンサートは不安と焦燥の時代に生きている私にとって、元気の原動力になった。私の知る限りの典型的な歌手はハンク・ウィリアムスとウィリー・ネルソンだ」(オバマ)。
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東京ヘイライド(135) ガース・ブルックスとトリシャ・イヤーウッド 真保 孝 |
●2005年5月、ブルックスが長い間の友人だったイヤーウッドにバック・オーエンスが経営していたベーカーズフィールドにあるクリスタル・パレスでプロポーズをした。参列者の中にはマール・ハガード、ジョージ・ジョーンズ、レイ・ベンソン(アスリープ)などの顔が見えた。
クリスタルはオーエンスが約500万ドルの経費で建てて、晩年はほとんどツアーに出ないで、もっぱらこの土地でステージ活動を続けた。2006年3月に他界(76歳)したが、葬儀もここで挙げた。
●2人が初めて出会ったのは1980年代の中頃で、ブルックスが企画した最初のメジャーなツアーで、イヤーウッドがトップ・ゲストとして参加したときだった。2人はまだ中堅の歌手だった。親密になって、1991年に出した彼女のデビュー・アルバムでバック・コーラスに協力した。その返礼として彼女もまた彼の多くのアルバムに参加した。当然、キャピトルとMCAと言う所属レーベル間の障害はあったが、工夫して解決された。代表曲には「In Another’s Day」(1997)、「Squeeze Me In」(2001)がある。
●ブルックス(この時、43歳)にとっては1986年のサンディに次いで2度目で(2000年離婚)、3人の子供がいる。オクラホマ(子供たち)とナッシュヴィル(ビジネス)を往復して住んでいる。
イヤーウッドは40歳で2度目の結婚。子供はいない。1994年の相手はマーヴェリックスのベーシスト、ロバート・レイノルズで挙式はライマンのステージで挙げて、当時話題になった。
●式の夜のコンサートでブルックスはジョージ・ストレートの人気曲、「Amarillo By Morning 」と自作の「Friends in Low Places 」を歌った。クリスタルの会場壁にはCMAのように歴代の有名歌手たちの肖像画が飾られているという。ハンク・ウィリアムス、ボブ・ウィルス、ジョニー・キャッシュ、エルビス・プレスリー、ウィリー・ネルソン、やがてジョーンズ、ストレート、ハガード、オーエンス、ブルックスの額も飾られることだろう。(参考:38,67,68)。
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東京ヘイライド(136) キース・アーバンとニコール・キッドマン(1) 真保 孝 |
●この2人で、一般に知名度の高いのは、誰が見ても有名人気女優のキッドマンだろう。先輩の演技派のメリル・ストリープを目指して、彼女のどの作品でもその役作りに対する執念は素晴らしい。
カントリー歌手のアーバンはエネルギッシュな歌、第14曲目のヒット「You Gonna Fly」によって昨年ついにCMAアワードを受賞した。過去の彼の歩みからしても当然の受賞だった。
「文句なしに彼はワールド・クラスのタレントだ」(マーティ・スチュアート)。「数年前に彼が私の自宅に訪ねてきたときが、最初に見た彼のプレィ(ギター)でした」(コニー・スミス)。
●実はこの2人、相思相愛の夫婦である。2人は2005年1月ハリウッドで出会い、2006年6月にシドニーで結婚式を挙げた。2人の共通点は共にオーストラリア(ニュージーランド)生まれ育ちで、45歳と言うことでもある。
キッドマンの前夫はトム・ハンクスで、子供がいたが離婚した(1990〜2001年)。人気女優のキッドマンは2006年「最も出演料の高い女優」のひとりであったが、2008年に理由は判らないが、その割に「最も稼げない女優」の第1位になってしまった。アーバンはキッドマンの映画の宣伝で来日したとき、産まれた赤ちゃん(サンディ・ローズ)の子守役で付き添ってきたという。最近次の子供も生まれたらしい。
●生まれ育ったオーストラリア、ニュージランド、そして主にドイツで活躍していたアーバンが本場のナッシュヴィルにやって来たのは、1992年頃?か。得意のギターを武器に、ブルックス・アンド・ダン、アラン・ジャクソンなどのバックを勤めて実績を重ねた。評価を受けてガース・ブルックスのアルバムにも参加した。2009年にはCMA賞にもノミネイトもされた。
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東京ヘイライド(137) キース・アーバンとニコール・キッドマン(2) 真保 孝 |
●外国籍ではあったが、実績が十分にあったアーバンは今年の春、オープリーと正式に契約(メンバー)を結んだ。「私は皆さんと一緒にいられるこのオープリーのステージに立つことが望みでした。オーストラリアからナッシュヴィルへの道は遠いものでした」(アーバン)。
恐らく60数年前にステージに立ったカナダ国籍のハンク・スノウも同じ感慨だったに違いない。アーバンは売れないナッシュヴィルでの苦しい時代に麻薬(コカイン)に手を染めたこともあった。2006年にはカリフォルニアの更生施設に再度入院して、2007年1月に完全治療を終えた。
●実は受賞を受ける数週間前にアーバンは歌手としても最悪の喉の病魔に冒されて、手術を受けていた。その時、勝ち気で?涙を見せたことのないキッドマンが泣いた。「これで私たちのすべてが終わったか、と思った。彼の喉の病はそれほど深刻で計り知れないものだった。快復して最初に彼の声が聞けたとき、2人は抱き合って泣いたの」(キッドマン)。
「どれだけの人が自分の夫から再び最初の声を聞くという経験があるかしら。彼の声を聞けるまでは恐らく呼吸も出来ないはずよ」(キッドマン)。手術後、治療のために3週間は声が出せずに伝えたいことをノートで書き伝える日々が続き、笑いない日々が続いた。
●付記。人気女優とカントリー歌手とのロマンスはほかにもある。ジュリア・ロバーツとライル・ラヴェット。ケニー・チェスニーとレニー・ゼルウィガー、古くは故テックス・リッターの夫人ドロシー・フェイも女優だった。
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東京ヘイライド(138) キティ・ウェルズ、追悼(1) 真保 孝 |
●その日、突然ドアーをノックしてやって来たのは、前ハンク・ウィリアムス夫人のオードリーであった。ちょうど自宅にいたウェルズにむかって、「ガール、あなたはまさにいま、ヒット曲を手にしているのよ!現に、私がここに来る途中の自動車の中で、ラジオのダイヤルのどこを回してもあなたの「It Wasn’t God Who Made Honky Tonky Angels」(邦題「こんな女に誰がした」)が流されているじゃないの。現役を引退した私だけど、代わって現役に復帰して歌ってもいいくらいよ。きっと、ヒットするわ」(オードリー)。ご存知の通り、この曲はハンク・トンプソンの出世ヒット「Wild Side Of Life 」のアンサー・ソングとして作られた。
●その頃、夫(ジョニー・ライト)のチーム「Tennessee Mountain Boys」(ジョニー・アンド・ジャック)の女性歌手として、「ルイジアナ・ヘイライド」に出演していた。RCAと契約していたが、ほとんど無名に近い存在だった。レパートリーとした「Gathering Flowers for the Master’s Bouquet」ほか7曲はセイクレッド・ソングが主体だった。もともと家庭的で主婦業が好きなウェルズは前途をあきらめかけていた。
この曲が駄目だったら、引退を覚悟してデッカ・レコードのポール・コーヘンにサンプル・レコードを送った。しかしコーヘンからは何の連絡もこなかった。
●しばらくしてナッシュヴィルに戻り、毎週土曜日のアーネスト・タブ・コンサートに出演していた。そこへコーヘンが、なんとそのレコードを持ってやって来た。「ジョニー(夫君)、レコードを聴いたんだけど、彼女(ウェルズ)はまだ吹き込む気持ちを持っているかね?」(コーヘン)。
「それは俺には分からない。何ならもうじき、家に帰る時間だから、彼女に聞いてみたら?」(ライト)。一説には、ウェルズは吹き込みに始めあまり乗り気ではなかったらしいが、ライトの説得で録音に入ったという。
●昔からカントリー界ではヒットした曲へのアンサー・ソングが多かった。この曲もその一つで、J.D.ミラーが作った。「ルイジアナからの帰り道、いつものようにカー・ラジオを聴いていると、大ヒット中の「Wild Side Of Life 」が流れてきた。常々アンサー・ソングを書いてみようと考えていたんだが、なかなかうまく行かなかった。
だがこの時はひらめいたんだ。急いで車を道端に止めて、頭に浮かんだ言葉を忘れないうちに書き留めた」(ミラー)。
ミラーはルイジアナ生まれで、ジーン・オートリーを聴いてカントリー音楽に興味を持った。レフティ・フィリッエルとも交友が深い。1996年に心臓病で他界した。74歳だった。
●ネットに弱い私は恥ずかしながら大・大好きなウェルズの訃報を8月3日まで知らなかった。友人との会話の中で知り、やはり来るべき時が来たとの思いだった。生前、直接彼女に会おうと、ナッシュヴィルに出掛けたが3回とも会えなかった。一度は教えてくれた会場の案内人がウェルズをテックス・リッター夫人と間違えて居場所を教えたからだ(私の英語力の弱さ)。2度目に行ったところでは、エディ・アーノルドがいたので損はしなかった。(参考:第109回)。
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東京ヘイライド(139) キティ・ウェルズ、追悼(2) 真保 孝 |
●伝統のナッシュヴィルに対抗して西海岸のキャピトル・レコードで一大勢力を築き上げた辣腕のプロデュサー、ケン・ネルソン。多くの秀でた歌手を発掘したが、生涯での「千慮の一失」、ウェルズの獲得を逃したのだ。優秀な人材を求めて全米を旅したとき、折から移動中にカー・ラジオで聴いた「ルイジアナ・ヘイライド」で売り出し中だったファロン・ヤングに的を絞った。
そして地元プロダクションのヒューバート・ロングに助けを借りた。その時ロングから「ヤングもいいが、ついでにいい女性歌手がいるが、契約をしないか」と薦められたが、「ジョニー・ライトの奥さんのことかい?」とあまり乗り気にならなかった。
●その彼女がキティ・ウェルズであった。ネルソンが育てたトンプソンの「Wild Side...」のアンサー・ソングで、まさかウェルズが成功するとは!
ウェルズの成功は、それまでロイ・エイカフ、アーネスト・タブ、レッド・フォーレーと言う男性優位のカントリー音楽の世界から、一転して女性でもヒットが出せるという画期的な幕開けとなった。その意味でウェルズは女性歌手のパイオニアーであった。
今をときめくテイラー・スウィフト、キャリー・アンダーウッドなども遠く彼女の恩恵を受けているわけだ。
「今でこそ、女性歌手の全盛時代を迎えていますが、私たちは彼女(ウェルズ)の敷いたレールの上を走っているだけなのです」(ロレッタ・リン、リーバ・マッキンタイヤーなど)。
●独特のエロキューションで、しっとりとした情感を込めた歌い方はどんな曲にも味わうことが出来た。夫のジョニー・ライトは昨年の2011年9月に他界したが、結婚生活は実に74年間だった。
葬儀には沢山の人々が参列して別れを告げた。その一人、リッキー・スキャッグスはウェルズと会ったのは今から52年も前だと言う。「今日の葬儀に参加できたことを誇りに思う。私の目にはいま、天国の黄金の道を若々しい2人(ライトとウェルズ)が手を取り合って歩む姿が目に浮かぶ」(スキャッグス)。
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東京ヘイライド(140) タミー・ワィネット 真保 孝 |
●3年ほど前に発売されたエルヴィスのCD(2枚組)「Tupelo Welcome Home Elvis」は、1956年9月に故郷のテュピロに凱旋公演したときのライブ盤である。エルヴィスは1955年夏発売の「I Forget To Remember To Forget」以来すでに人気を急騰させていた。
このCDに添付されたブックレットの中の写真、野外のステージで熱唱するエルヴィス、詰めかけて熱狂する観客の中に、今回のワィネットの少女時代の顔を見ることが出来る。以前からのこのエピソードは語られていたが、実際にそれを確認できた。写真は群衆の中から特にワィネットの姿(顔)だけを取り出して、クローズ・アップさせてくれている。
●公演会場と同じミシシッピ州で生まれていたワィネットはこの時14歳だった。のちに「カントリー音楽のファースト・レディ」と呼ばれる彼女にもこんな少女時代があった。ちなみに彼女が好影響を受けた歌手はジョージ・ジョーンズ、ロレッタ・リン、コニー・スミスらである。反対の影響を与えた歌手には、トリシア・イヤーウッド、ミンディ・マックレディがいる。
ワィネットの生涯は華やかな光に隠されて、文字通り七転び、八起きの人生だった。その生涯を綴った書籍「Tammy Wynette」はサブタイトル「Tragic Country Queen」(悲劇のクィーン)は2010年に音楽書としてではなく、一般向けの書籍として発売された。しかし広く米国では読まれたらしく、早くも翌11年に軽装判として再版された。
祖父の農場で生まれ、8歳の時父(音楽家)を失った。生計を立てるために母は、翌年アラバマ州の軍関係の職を求めて引っ越した。歌う喜びは、通った教会で歌うレッスンから始まった。
●独立の機会は早く、17歳で結婚し、3人の子供をもうけた。やがて離婚、子育て(難病の子供)、女ひとりで生計を立てるために美容師の資格を取る。これが最初の挫折だったが、これがなければ後の国民的な歌手が誕生したかは疑問だったろう。因みに彼女は生涯5回の結婚をしていた。その後いくつかの地元ローカルでの音楽活動を経て、1965年ナッシュヴィルに向かった。
第2の転機はこの時に訪れた。後に大きな成功をもたらすパートーナーとなるビリー・シェリルとの出会いである。この時の幸運な出会いがなければ恐らく無名の歌手で終わったかも知れない。
ナッシュヴィルでいくつかのレコード会社やエージェントに売り込みに回った。自薦他薦の渦巻くナッシュヴィルでの売り込みは現実にそれほど甘くはなく、門前払いのケースが多い。
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東京ヘイライド(141) ビリー・シェリルとワイネット 真保 孝 |
●ビリー・シェリルはエピック・レコードのプロデュサーに就任していた。エピックはニューヨークで設立されたレーベルで、1963年にナッシュヴィルに支局を立ち上げていた。
メンフィスでサム・フリップスのサン・レコードで経験を積んだ彼はエピックにスカウトされて、主任プロデュサーの要職にいた。
●2人の出会いが運命的で面白い。普通、レコード会社の訪問(面接)は受付の秘書を通してアポイントが取られるが、たいがいはここで断られるのが普通である。ワィネットが訪れたときはちょうどランチタイム中で受付者が不在のために、そのまま直接、するするとシェリルの部屋に入り込めたらしい。
一説には、事務所が移転早々で、まだ受付の秘書が居なかったとも言われる。ともかく直接シェリルのオーデションを受けることが出来たわけである。
●ワィネットに対するシェリルの慧眼は正しかった。すでに「Almost Persuaded」ほかのヒットを飛ばしていたディヴィッド・ヒューストンと組ませる売り出し作戦が立てられた。ヒューストンはルイジアナ出身で油に乗った28歳だった。
曲には「My Elusive Dreams 」が選ばれた。発売されて人気をあげ、秋10月には第1位(18週間)にランクされた。25歳のワィネットのかすれたようなハスキー・ヴォイスとの組合わせは、今聴いてもゾクゾクとする絶妙のコンビネーションである。歌の上手さ、声の質、唱法もそれまでのカントリー女性歌手にはないものだった。
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東京ヘイライド(142) カーリー・プットマンとビリー・シェリル 真保 孝 |
●「My Elusive Dreams 」は日本題名「2人の青い鳥」と題されて、カントリー音楽だけでなくその後ナンシー・シナトラ、トム・ジョーンズなどポップス界の歌手にも多く歌われた。
幸福を捜し求めてテキサス、ユタ、アラバマ、ネブラスカなど、全米各地を旅する夫婦(恋人)の姿を歌った内容だった。結局それは自分たちの生活の身近にあったのである。
●曲を作ったのはシェリルとカーリー・プットマンであった。さきに書いたようにシェリルはR&B,ロックの畑の出身であったが、1960年にナッシュヴィルにやってきた。1963年エピックに入り、新しい感覚でそれまでのチェット・アトキンスやオーエン・ブラッドリーとはひと味違う新鮮なタッチの「エピック版・ナッシュヴィル・サウンド」を創り出して、注目を浴びた。
ストリングスを加えバック・コーラスを配して万人向きに洗練されたとは言え、従来のサウンドにはまだナッシュヴィル独特の昔風のカラー(DNA)が多分に残されていたが、彼の曲造りは爽やかでより都会風なセンスに満ちていた。
●協力したプットマン(作詞)はアラバマ州生まれで、81歳を迎えた現在も確か?現役である。彼をこの世界で一躍、有名にした曲は「Green ,Green Grass of Home 」(想い出のグリーン・グラス)である。
オリジナルはポーター・ワゴナー盤で、1965年に第4位までランクされたが、話題に登らなかった。それが翌年イギリスのトム・ジョーンズが歌い大ヒットになった。ジョーンズを好きだったプレスリーが直接自分でラジオ局にリクエスト電話をしたというエピソードは今も語られている。歌詞の3番目で、印象的に効果を盛り上げる「語り」が挿入されるのは、カントリー音楽の独壇場で、特に日本人は弱い。
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東京ヘイライド(143) カーリー・プットマンとビリー・シェリル(2) 真保 孝 |
●プットマンは自身でもこの曲「My Elusive Dreams 」(1967年)を歌手として歌っているが、第41位の惨敗であった。
「天は二物を与えず」だが、作詞では素晴らしい成果を上げている。例えばワィネットの代表曲「D―I―V―O―R―C―E」と「He Stopped Loving Her Today」(ジョージ・ジョーンズ)、そしてドリー・パートンのチャート・シングル「Dumb Blonde」(1967年)がある。
海軍除隊後、1964年にナッシュヴィルにやってくるまでに、製材所の工員、靴のセールス・マン、家のリフォーム・セールスなど苦労をしてきた。
●作詞の他にスチール・ギターも弾く彼は、やがてその才能を認められて「ツリー」(Tree Music)と契約した。「ツリー」は1951年に設立されたナッシュヴィルでは名門の楽譜出版社である。
プレスリーが1956年にRCAで最初に録音、発売した「Heartbreak Hotel」の版権管理もこの社である。勿論プットマンの「Green ,Green Grass of Home 」も管理している。1989年1月、ソニーに買収されてSony Tree (1994年)と名前を変えた。
●この作詞のプットマンとコンビを組んで数多くのヒット曲を作ったのはボビー・ブラドックである。前述の「D―I―V―O―R―C―E」と「He Stopped Loving Her Today」も2人のコンビ作である。
1981年に作曲家殿堂入りをしたブラドックについて、「彼の作品についてのヒントはいつも面白く、また涙を誘う曲も多い」(ビル・アンダーソン)。
早熟で10代の頃から曲を作り、ナッシュヴィルの会社に送ったが未開封で送り返されてきた。ピアノを弾いて生計を立て、ナッシュヴィルに出発した。
「作曲でやっていける自信はなかった。幸運なことにマーティ・ロビンスのバンドでピアノ弾きとして採用された。ツアーの合間を見て曲を書いていたが、そのうちに1曲がロビンスの眼にとまった。最初の曲は『Matilda』と言う開拓者の女性についてのカウボーイ・ソングだった」(ブラドック)。ロビンスの曲を書きながら、成功の道は少しずつ開けていった。(参考:第5回)
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●「東京ヘイライド」(144) アイ・ソウ・ザ・ライト 真保 孝 |
●カントリー・ソングの大半は少なからずその背景に宗教的(キリスト教)な影響を受けている。故ハンク・ウィリアムスが作ったこの曲は、ライブ・ステージの最後の場面で調子がよく景気づけのように歌われているが、賛美歌としても考えて欲しい。
日本だけではなく、アメリカでも多くの歌手達から繰り返し歌われている。あの日、車のバック・シートでうとうとしていたウィリアムスは、長い演奏ツアーからの帰り道(1948年)、故郷に近づいたときに、遙かに見えた空港の管制塔の灯りからヒントを得たと伝えられる。
●死を迎える数年前のある晩、ウィリアムスはサンディエゴのステージに立っていた。それは予定された2回目のステージでの1回目であった。終わりから2曲目にこの歌を歌おうとしていた。いつものようにかなり酒を飲んで、足元はふらつき、危なかった。同行していたミニー・パールと、主催プロモーターの妻は何とか素面にもどして、無事に次のステージつなぎたかった。
この曲を歌い出したが、途中で「ミニー、私は灯りが見えないよ。全然見えないんだよ」(ウィリアムス)と叫んで歌えなくなった。それほどにその時、病状が悪化していたのだろうか?
●1952年12月31日、ウェスト・ヴァージニア州チャールストン、そして1月1日はオハイオ州キャントンの市営メモリアル公会堂のステージのカーテンはスポット・ライトに照らされていた。
しかしすでに息を引き取ったウィリアムスの姿はなく、ここで観客は初めてウィリアムスの他界を知らされた。別便で到着していたドリフティング・カウボーイズは舞台に出ずに、カーテンの後ろに集められて「I Saw the Light」を静かに演奏した。
●翌年の1月4日に、モンゴメリー市の市民公会堂で行われたウィリアムスの葬儀には2000人以上の人々が参列した。外部にはラウド・スピーカーで流された。その中にはビル・モンロー、ジミー・ディケンズ、カール・スミス、レッド・フォーレー、エディ・ヒル、そしてウェッブ・ピアースがいた。ここでロイ・エイカフは棺を前に「I Saw the Light」を歌った。人々の目には慰めることの出来ない涙で溢れていた。
モンゴメリー市オークウッドのあるウィリアムスの大理石の墓石にはその一節、「Praise the Lord, I Saw the Light」の文字が刻まれている。(参考:本コラム、106、107)
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●「東京ヘイライド」(145) ウェッブ・ピアースと自家用プール(1) 真保 孝 |
●今でも実施されているか判らないが、昔、ナッシュヴィルのブロードウェイ通りの角から人気歌手の自宅を巡る定期観光ツアーバスが出ていた。地元のロケーションに不案内のファン(特に日本人)にとっては時間的にも効率がよく、便利な観光だった。
ナッシュヴィルはダウンタウンから少し車を走らせると、そこはゴルフ・コースもあり、緑溢れる郊外だ。人気歌手たちの自慢の豪邸が点在している。ハリウッドのビバリーヒルズにあやかって、「Hillbilly Hollywood」とも呼ばれた。
歌手にとってもナッシュヴィルに自宅を構えることは成功を誇示する大きなステータスシンボルだ。ハンク・スノウがカナダからやって来て、初めてオープリーと契約が出来、生活の設計が確立したとき、家族を呼び寄せた。その時土地(ナッシュヴィル)に不案内のスノウに不動産(自宅)を世話してくれたのは確かエディ・アーノルドだった。
●故ジョニー・キャッシュの自宅は自然の湖を庭に取り入れたスケールの大きい豪華な邸宅だった。正門には交番風なガードマンの小屋が建っていた。
現在のツアーがどのようなコースで見学させるのか判らないが人気のアラン・ジャクソン、ヴィンス・ギルなどははずせないだろう。
あの頃、見学のコースで一番の人気はウェッブ・ピアースの自宅だった。ピアースのデザインで、芝生の中のプールはギターの形をしていた。ネック、サウンドホール、ブリッジまでをプールの底にタイルで埋め込んで、ボディの部分が泳ぐ場所だった。
●人気絶頂でステージ衣装も含めて、何事にも派手なことが大好きなピアースはこの自家用のプールが自慢だった。ツアーでまわる観光客の人気もここが飛び抜けていた。建設費は当時(1974年)で35,000ドルと言われた。ピアースはやってきた観光客から入場料として5ドルを取り、サイン入りの自分のアルバムをおまけにつける商売上手だった。
それでも観光客は全米からバスを連ねてぞくぞくとやって来た。それを収容駐車するためにピアースは知事の許可を貰って専用のパーキング場を作った。それでも週末には人々であふれかえった。
所在地はオークヒルで、近くに知事の邸宅、ミニー・パール、ジェリー・リードなどの家もあり、それまでは閑静な環境だった。
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●「東京ヘイライド」(146) ウェッブ・ピアースと自家用プール(2) 真保 孝 |
●1976年のある土曜日には6台の大型バスと、50台の自家用車(バン)がやってきた。日曜日になると2500人もの観光客が大挙してやって来た。バスは警笛を鳴らし、婦人たちはカメラで記念写真を撮りまくっていた。あまりの騒々しさに、ついに近隣住民から苦情が出たのは当然だった。その代表はレイ・スティーヴンスで、訴訟問題にまで発展した。このスティーヴンスの自宅は後にロニー・ミルサップに転売された。
その後、このピアースの家とプールは一部が改装されて、現在はモーテルになっていると聞いた。ピアース自身は2001年に殿堂入りをしたが、その10年ほど前の1991年2月にナッシュヴィルで他界した。
●急速に人気を上げたハンク・ウィリアムスはオープリーに引き抜かれて、ルイジアナ・ヘイライドを去った。そして歌った「Lovesick Blues 」で歴史的な6回のアンコールを受けた。ウィリアムスなき後の「ルイジアナ...」のステージを埋めたのがウェッブ・ピアースであり、さらにその後をファロン・ヤングが引き継いだ。1950年代のピアースの人気は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。「Wondering 」を皮切りに1955年の「Why Baby Why」、まで連続して第1位曲が並んだ。
●当時学校を休んで午前のFEN(駐留軍放送)を聴いていた人は、毎日耳にタコが出来るほどに「Slowly」「More And More」などを聴かされた。担当したDJが資料室にレコードを取りに行くのが面倒で、毎日同じレコードをかけているのでは?と疑ったほどだった。そのせいでもないが、副作用として、ピアースの歌がだんだんと鼻につくようになった。
個人的な感想だが、彼の歌は調子はよいのだが、よく聴き込むと少し単調ではあった。そうは言っても、後年ロッカビリー調にスタイルを変化させたが佳曲も多く、やはりひとつの時代をカバーした偉大な歌手には違いない。
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●「東京ヘイライド」(147) ジョニー・ホートン(1) 真保 孝 |
●歌手の歌声を表現する時に、「ビロードの声」と言えば、ジム・リーヴスである。ジョニー・ホートンの場合は「ホース・ボイス」(馬のような声)が使われる。太くたくましいと言うことからだ。力強さもあるが、ホートンはその反面、優しさも兼ね備えた声の持ち主でもあった。
初めて第1位になった「When It’s Springtime in Alaska」のB面の「Whispering Pines」で聞かせる叙情的な歌声にはうっとりとさせられる。彼の誠実さが全面に出ている。
●持ち前の力強さが武器となった曲にはチャート・デビューとなった「Honky Tonk Man」(1956)があるが、さらにその知名度を上げたのは「The Battle Of New Orleans」(1959)、「North To Alaska」(1960、以上、コロムビア)など一連のマーチ風の曲である。
これらのヒットがなければ、カントリー音楽畑のごく当たり前の中堅歌手として終わったかも知れない。柳の下のドジョウで「Johnny Reb」「Sink The Bismark」と続く、一連の歴史シリーズの幕開けとなった曲だ。
●全米を席巻したミリオン・セラー「The Battle Of New Orleans」は、実は民謡研究家のジミー・ドリフトウッドの作品である。ドリフトウッドは学校の校長先生で歴史が担当だったが、音楽が趣味だった。「授業で米国独立戦争を講義していたある日、アーカンソーから来た生徒が教えてくれた古い歌”War of 1812“がヒントになった。実際に書いたのは1936年で、18年も前のことだった」(ドリフトウッドの回顧)。
この曲のヒットで一躍、陽の当たる場所に引き出されて、ホートンと共に1959年11月29日、この年のグラミー賞を受賞した。レコードの売り上げもこの年の最高を記録した。
古い歌とは「The Eighth Of January 」というスクェアー・ダンス曲だった。これは初期のロイ・エイカフのフィドリングで楽しいスクェアー・ダンス・ナンバーとして古いフアンにはお馴染みだが、現在入手は難しいのが難点だ。
●「The Battle Of New Orleans」は米国の建国、独立に絡む米英戦争末期(1814〜15年)の戦い(米軍の勝利)が主題になっている。「やって来たイギリス人兵士を撃ち殺せ。だんだんと敵の数も減ってきた。とうとう奴らは逃げ出した....」と勇ましい歌詞だが米国人にとっては気持ちのよい歌だ。
イントロは確かバンジョーで、次にエレキ・ギター、ドラムスをバックにマーチ風の軽快さが売り物だった。この曲が流行った1955年は、キングストン・トリオが第1回のニューポート・フェスティヴァルに登場した記念すべき年、つまりタイムリーにフォーク・ブームが始まったときだった。ドリフトウッドは1998年7月に心臓病で他界した。91歳の高齢だった。
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●「東京ヘイライド」(148) ジョニー・ホートン(2) 真保 孝 |
●その朝の5時(1960年11月5日)、ナッシュヴィルのホテルで、まだ就眠中であったジョニー・キャッシュは電話のベルで起こされた。キャッシュと妻(ジュン・カーターの前のヴィヴィアン)はラジオのコンヴェンションでナッシュヴィルに滞在していた。
昨日(4日)、ホートンが酔っぱらった少年の運転する自動車に衝突されて、亡くなったという知らせだった。キャッシュとホートンは初期の「ルイジアナ・ヘイライド」時代からの親友だった。
レイ・プライスと3人は釣り仲間で、ボートを漕いで、時間を作って湖に釣りに出掛けた。ステージの活動で、ストレスの溜まる彼等には、それを解消してくれる時間が必要だった。
●後に書く、ホートンの妻のビリー・ジーンも交えて、夫婦同士の交際であった。4人でよく旅行にも出掛けたし、自宅にも招きあった。短期間であったが、ジーンは故ハンク・ウィリアムスの前の妻だった。ウィリアムスに続いて、2人目の夫を急死させたジーンの悲しみは大きかった。
ホートンとウィリアムスは「ルイジアナ・ヘイライド」時代に数ヶ月だが一緒に働いた時期があった。ホートンはウィリアムスを尊敬しており、ジーンとも顔見知りであった。ウィリアムスもホートンの将来性を見通していた。車中のラジオから流れるホートンの曲を聴いたとき、「この曲はヒットするかも?この曲はヒットしないかも」と感想を語ることもありました(ジーンの回顧)。
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●「東京ヘイライド」(149) ジョニー・ホートン(3) 真保 孝 |
●アウト・ドアー派のホートンの釣り好きは有名で、釣り具用品を開発して、自身、釣具会社を経営するほどだった。ニック・ネームは「 The Singing Fisherman 」(歌う釣り人)。
ホートンの奇禍はテキサス州ミラノの近くの道路で橋をわたろうとしていたときに起きた。いつもはギター担当のトミーが運転をするのだが、この日に限ってホートンが運転していた。
現地での2つのショウを終えて、オースチン市内のコーヒー・ショップで休憩した後、シュリーブポートに向かった。これが家路への近道だった。しかしトミーは何故か、ホートンが急いでいるように思えたという。
●後日判ったことだが、やはりホートンは釣り仲間のクロード・キングと釣りに行く約束をしていた。道路では急に前方からピックアップ・トラックが迫ってくるのが見えた。
反射的に全員が身体を横にしたが、一瞬身体が宙に浮いた感じだった。衝突した相手の10代の少年は重傷を負ったが、一命を取り留めた。ホートンは頭部に重傷を受けて、助からなかった。35歳の若さだった。発売中の「North To Alaska」(第1位、22週)が遺作になった。
●因縁話ではないが、何故ホートンが最後となった公演地にオースチンの「Skyline Club」を選んだのか?ここはウィリアムスも生前の最後に選んだ公演地でもあったと言う。ジーンは期せずして伝説的な2人の歌手の未亡人となった。
ジーンはホートンが公演に出発した朝のことを覚えている。「ウィリアムスと同じように、私にキスをして、娘を抱きしめてドアの外に出ました。それから僅か12時間後に彼は帰らぬ人になったのでした」(ジーンの回顧)。
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●「東京ヘイライド」(150) パティ・ペイジ(1) 真保 孝 |
●プロパーのカントリー歌手でもないのに、ジャンルを超えて専門以上にカントリーのフィーリングを出す歌手がいる。ビング・クロスビー、ディーン・マーチンなどである。
ペイジもその一人だ。事実、ペイジはオープリーにも招かれ、チャートにも多数のヒッを送り込んだ実力者だ。「Tennessee Waltz」のあと、1961年には「Mom and Dad’s Waltz」を第21位にランクさせた。何故カントリー音楽のチャートにも載せられている。
それによる足跡をたどると、「Mockin’ Bird Hill」「Detour」「 Let Me Go Lover 」「Mom And Dad’s Waltz」などが目にはいる。
●1920〜30年代、この当時の歌手の生まれた環境は総じて貧しい家庭が多かった。例外に漏れず、ペイジの父親も鉄道の線路工夫、母と姉妹は綿花畠で作業をして生計を立てた。
ロレッタ・リンやジーン・シェパードの生家にも電気が来ていなかったらしいが、ペイジも同じだった。靴は1足しか持っていなかったので大切にして、普段は裸足で歩き、日曜日の礼拝の時にだけ盛装をして靴を履いたと回顧している。
●高校時代にオクラホマ州タルサの放送局のテストを受けた。テストで局の審査員があまり何回も、何回も歌わせるので、歌う曲がなくなった。「駄目なら、駄目と早く言ってください。もう歌える曲がありません」(ペイジ)。すると「イヤー、あまり貴女の歌が上手なので、つい何回も聴きたくてね」(審査員たち)。
合格して、18歳で地元タルサの放送局の15分早朝番組「Meet Patti Page」(ヒルビリー音楽)に出演していた。この番組のスポンサーが地元の牛乳会社で、「ペイジ・ミルク」と言ったことから、現在の芸名が付けられたのは有名だ。
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●「東京ヘイライド」(151) パティ・ペイジ(2) 真保 孝 |
●この番組を滞在先のホテルで聴いた人がいた。サックス奏者で自らもジミー・ジョイと言うバンドのマネージャーをしていた、ジャック・リールという人だ。スカウトしてバンドの専属歌手にした。この人、後に退団、独立したが、その後も長くペイジのマネージメントをした。
ペイジの本名はクララ・アン・ファウラーと言った。独立、バンドを離れたリールとシカゴに出て、ナイト・クラブなどで歌っていた。折から1945年、同地シカゴで新しいレコード会社マーキュリーが設立された。
●新興のマーキュリー・レコードは幅広く専属の歌手を集めていた。応募してきたのはビル・モンローと別れたフラット・アンド・スクラッグス、カール・ストーリー、後にスタンレー・ブラザース、ジョニー・ホートンがいた。ポップスではヴィック・デモン、フランキー・レイン、そしてペイジも参加した。
1950年「Tennessee Waltz」が同レーベルから生まれた。当時ミッチ・ミラーが同レーベルのA&Rをしていたが、これに関係したかどうかは不明。また一人多重唱、4重唱の新しい録音技術が導入されつつあったが、この効果が巧みに導入されてヒットにつながったこともある。
●最後に蛇足になるが、ペイジの生まれたオクラホマ州、特にマスコギー(Muskogee)はカントリー音楽に縁が深い。まずマール・ハガードの「Okie From Muskogee」(1969年、第1位)で同地は広く知られた。同地には市立の音楽ホール・オブ・フェーム(1997年建設)があり、州出身の成功者が入っている。ウディ・ガスリー、ジーン・シェパードまで。今をときめくキャリー・アンダーウッドの名も見えるそうだ。
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●「東京ヘイライド」(152) 「ローズ・ガーデン」ジョー・サウス 真保 孝 |
●遅ればせながら近着の雑誌でジョー・サウスの他界を知った。サウスの名前を知らなくても名曲「Rose Garden」はご存知だろう。1970年秋にリン・アンダーソンが放ってポップス界まで広げた驚異的なミリオン・セラーである。この「ローズ...」はサウスの作品である。
サウスは南部のアトランタ育ちで、その仕事ぶり(作曲)は真面目さで定評があった。彼のモットーは「曲は3分間の小説(ドラマ)だ」と、聴き終わってからも、長く心に残る物語(ストーリー)を目指していた。
●1960年代にナッシュヴィルにやって来た彼は、注目すべきスタジオ・ミュージシャンのひとりとして頭角あらわし、ボブ・ディラン、マーティ・ロビンスなどのセッションに参加した。
代表作にはフォーク・ロック調の「Games People Play」(1969年)があり、同年のグラミー賞を受けた。「ガーデン..」はその翌年の作品であった。1976年セミ・リタイヤーしたが、1979年にはその功績が認められて「作曲家・殿堂」入りを果たした。今年(2012年)9月5日、ジョージア州アトランタの自宅で他界した。享年72。
●カントリー界の歌姫アンダーソンがこの曲を知ったのは、ある日買って聴いたサウスのレコードからであった。1966年「Ride ,Ride ,Ride」(第36位)でチャート・デビューした彼女はベスト10ヒットを飛ばしてはいたが、以後これという歴史に残る代表曲に恵まれていなかった。
聴いてとりこになり、この曲をどうしても歌いたいと、夫のグレン・サットンに頼んだ。サットンは敏腕のプロデュサーとしてならしていたが、妻のスタイルには合わない、むしろリスクが大きいと同意しなかった。(参照、第108回、リズ・アンダーソン)。
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●「東京ヘイライド」(153) 「ローズ・ガーデン」 リン・アンダーソン 真保 孝 |
●しかしアンダーソンはあきらめずに、家庭でもスタジオでも夫を説得し続けた。そして、やがて彼女の希望が叶えられる日がやって来た。
振り返って、1970年、アンダーソンがチャート・レーベルから移籍したコロムビア・レコードの課題は、ロレッタ・リン(デッカ)、タミー・ワィネット(エピック)、コニー・スミス(RCA)に対抗できる女性陣の擁立であった。
人気のテレビ番組などでアイドル化したアンダーソンはベトナム戦争慰問で、兵士達のセクシー・ピンナップ・ガールであった。売り出しが彼女にしぼられて、レコードが企画された。
●依然として「ローズ...」吹き込みへのためらいはあったが、サットンはスタジオでアレンジに様々な工夫を凝らした。まず、テンポ、歌詞の内容、フレーズの区切りなど、愛妻のアンダーソンのスタイルにフィットするように細かいチェックを入れた。その結果、一聴すれば判るように、カントリー風にシンプルで切れのよい曲に生まれ変わった。その中でもアンダーソンの初めの希望は残されていたが、この選択は正解だった。
●いよいよ録音の作業に入った。「その結果、あまりに欲張ったためにとても平凡な感じの曲になってしまった。私にはそれがとても薄っぺらな印象を受けた」(サットン)。自宅に持ち帰り、改めて検討、新しく随所にストリングスを加えた。作曲のサウスも「始めコロムビアから話を受けたとき、まさかシングルで発売するとは思っていなかった」と回顧していた。
●月日は流れて2005年10月、このアンダーソンのオリジナルを超える曲が遂に出た(個人的な好み)。マルティナ・マクブライトのアルバム「Timeless」に収録されたのである。
ブライトは少女時代に親しんできた古い曲を集めた(18曲の選曲もよい)というアルバムで、この曲を取り上げた。これが素晴らしい出来映えで、アルバム全体の選曲を考慮しても購入に値する推薦盤である。
さすがに目の高い米国ファンは購入した。最初の1週間だけで185,000枚が売れた。12月には米レコード協会正式認定で、ゴールド、プラチナ・アルバムに認定された。(参考、第38回、マクブライト)。
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●「東京ヘイライド」(154) オーク・リッジ・ボーイズ 真保 孝 |
●現在活躍する大半の米国のグループ(チーム)の源泉は、賛美歌を歌うゴスペル集団にとたどり着く。それがカントリー音楽の領域に現れたのは、ブルー・スカイ・ボーイズ、デルモア・ブラザース、そして伝説的なグランパ・ジョーンズ、マール・トラビスらによるゴスペル・カルテット「ブラウンズ・フェリー・フォー」などである。
だから記憶が正確ならこのチームの起源は1940年代のヒルビリーの時代までさかのぼることになる。しかし2000年代の今、それを羅列したところで余り意味はないように思えるので、1960年代ごろから始めよう。
彼等(オークリッジ)はその間にチームの名前を数回変え(Oak Ridge Quartet → Country Cut Ups →Oak Ridge Boys)、入れ替わったメンバーの数は優に4〜50人に及ぶ。もともとゴスペルを歌うチームとして出発したが、1977年からは方針を変えて、カントリー・ポップスまでレパートリーを広げた。
●レギュラーの土曜日の夜、再発足(1977年頃?)をしてオープリーに登場したとき、まだ元気だったジミー・ディケンズの紹介で、このチームのために特にブッシュ前大統領から送られたお祝いのビデオが公開された。
「どんなグループのメンバーよりも、君たちのように高い名誉に値するチームはいない。オープリーと君たちオーク・リッジ・ボーイズはまさにアメリカの偶像である。今回の再結束を喜びたい。」(ブッシュ)。名誉ある大統領からのお墨付きを貰ったわけである。
●ディケンズから祝いの記念賞を手渡されたジョー・ボンサル(テナー)は、4人の新しいメンバーを紹介して、次のように感謝を述べた。「我々は何時までも愛するオープリーのメンバーでいたい。これまでお互いが兄弟姉妹のように尊敬しあって歩んできた。長い間苦しみが続いたけれど、今日を迎えることが出来た。その意味でとても意義深い晩だ。今夜はいつもとは違う」。
打楽器のタンバリンを打ち鳴らしながらの「Y’all Come Back Saloon」は、その1977年に発売され、7月に第3位、18週間の成績で再出発を飾った記念すべき作品だった。
(今回は錦辺さんのリクエストにお応えして書きました)
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●「東京ヘイライド」(155) オズボーン・ブラザース 真保 孝 |
●レコードの棚を整理していたら、オズボーン・ブラザースが出てきた。懐かしいブルーグラス・チームであるが、近況の活動を久しく聞かなくなった。無理もない兄のボビーは1931年、弟のソニーは1937年の生まれであるから、共にかなり高年齢である。1977年の40才代の円熟期に来日公演を果たしていた。
●ブルーグラスには兄弟チームが多い。ボビーはリード・ヴォーカルとマンドリン、ソニーはバリトンでバンジョーを担当した。ブルーグラスの父と言われたビル・モンローと同じケンタッキー州の出身で、初めは従来のモンローのスタイルを踏襲して世に出た。
しかしのちにソニーは次のように語り、一時期、スクラッグスのバンジョー・スタイルに飽きたらず、脱皮しようと試みた。” I realized in 1957 that I couldn’t play anymore , that I ‘d still have some time left “。マンネリを打破しようと、他の楽器のようにバンジョーでも独自のソロのプレイを考え、6弦のバンジョーまで開発したという。
●兄のボビーはまずスタンレー・ブラザースに入団してデビューした。一方、14才のソニーはモンローのバンドに入った。1953年、ボビーは軍隊(朝鮮戦争)に入隊したが、負傷して帰国した。翌年、それを機会に2人は揃ってジミー・マーチンのバンドに参加している。マーチンもどちらかと言えば新しさ目指していたが、彼等も常に革新的な路線を目指した。
2人は上記のように早熟で10代の頃からプロで活躍を始めていた。1958年、2人は歌の上手いレッド・アレンを誘ってようやく自分達のバンドを独立、結成した。
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●「東京ヘイライド」(156) オズボーン・ブラザース2 真保 孝 |
●1958年春、兄弟(オズボーン)はこのアレンと組んでMGMでチャート初ヒットの「Once More 」(13位)を放ち、待望のアルバムを発売した。
そしていよいよ、1964年8月にオープリーに登場した時、観客は彼等から「あっと!」驚きの演奏を聴かされた。何と保守的で伝統あるブルーグラスに、こともあろうに電気楽器を持ち込んだのである。
以後、革新を目指した2人は(アレンは退団)デッカと契約(1966年)して放ったチャート・ヒット数は、トップ10にこそ入らなかったが、大先輩のモンローを超えた。ブルーグラス・チームとしては見事な健闘である。
彼等の革新的な行動の後を追うチームがこの時代、「Progressive Bluegrass」「Newgrass」などと呼称されて次々に現れた。傾向は特にロック指向の強い都会派の若いプレーヤーたちの間に多かったが、現在は終焉気味である。2005年、ソニーは引退した。ボビーはまだ現役だと思う。
●さて、その中で私たちの記憶に残り、いまだに愛聴されている彼等の代表作は「Rocky Top」(第33位、1968年)であろう。この曲は「テネシー・ワルツ」(1955年)と共に、テネシー州の州歌(1981年)になっている。またテネシー州立大学ほか、カレッジのフット・ボールとバスケット・ボールの応援歌にもなっている。
ブルーグラスで正規に州歌に認定されているのは、この曲とビル・モンローの「Kentucky Waltz 」ぐらいである。
小気味のよいイントロのバンジョーに始まり、ハイ・テナーでぐんぐんと歌上げて行く元気あふれる曲調は、まさにぴったりである。間奏のバンジョー→マンドリン→フィドルとつなぐリレーも胸がすく思いである。
●「Rocky Top」を作ったのは、フェーリス(2003年他界)とブライアント(1987年他界)夫妻である。5才違いの夫妻は結婚してから共同活動を本格化して、ほかに同じケンタッキー出身のエヴァリー・ブラザースのために「Bye ,Bye Love」「Wake Up Little Susie」、「Country Boy」(これはジミー・ディケンズ)など数多くのヒットを書いて、作曲家殿堂入りをしている。
1970年の春、この曲のカバーが出てヒットした。リン・アンダーソン盤で、オリジナルを凌ぐ第17位まで昇った。彼女の世界的ヒット「Rose Garden」が出たのは、この年の秋であった。(参考、本コラム第108,153回)。
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●「東京ヘイライド」(157) オズボーン・ブラザース3 真保 孝 |
●「Rocky Top」の生まれた背景。アンダーソン盤はチャートでは上回ったが、この曲のベストはやはりオズボーンに尽きる。アーチ・キャンベルとチェット・アトキンスから依頼を受けた夫妻は、初め古いフォークソングからヒントを得ようとしていたが、それがスロー・テンポの曲で作業がなかなか進まなくなった。次第に自信を亡くし、次第に憂鬱になり、前に進む勇気も失せてきた。行き詰まってしまった。
そんなある日、思いついたようにフェリスが言った。「外に出て、空気を吸ってみましょうよ」。動きのとれない溝から抜け出た後、思いつくままにいくつかのブルーグラスを気分転換に口ずさみ書いてみた。「私たちは山荘にいたのだから、山についての曲を書いてみよう」と、ぶらぶらとスタートした。実際に曲の中で、電話も請求書も来ないと、山中でのストレスのない開放感を書いている。
●始めると約15分ほどで曲は完成した。「自分たちにとって、何ものにも替えがたい小さいけども宝石のような曲です。完成してみればやりがいのある仕事だった」(ブライアント)。
後日、山荘の暮らしがすっかりと気に入った2人は、この曲の思い出を込めて、スモーキー山脈の中に山荘を建てて住んだ。そして現在、2人とも鬼籍には入った。
ライブで、レコードで「Rocky Top」を聴くとき、2人のことも思いだして欲しい。
◆今回で予定の回数(シーズン3)を終えたので、しばらくお休みをいただきます。気力と命?があれば、シーズン4を書きたいと思いますが、あまり自信はありません。
なお、私は本コラムの他に、ミニコミ紙「切り抜きカントリー倶楽部」にも毎号書いています。鈴木管理人も愛読されております。興味のある方は下記にご連絡してみて下さい。
ご愛読、ありがとう。
302−0015
取手市井野台3−14−11
吉村 昭 「切り抜きカントリー倶楽部」。
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