2016/01/17
東京ヘイライド(214) 真保 孝 |
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●あけまして、おめでとうございます。
1月も、はや月半ばです。早いですね。当「東京ヘイライド」は、もたつきながらもシーズン(6)に入ります。気力、体力、記憶力は、いよいよ衰えてきました。
●さて、63年前の1953年の出来事は、もはや歴史の1ページでにしか知れません。この年の元旦に、ハンク・ウィリアムスは他界した。1月での幕開けは、やはり前年の大晦日に急死したハンク・ウィリアムスの葬儀の模様から始めます。遺体は3日まで母が住む故郷のモンゴメリーに安置され、母と過ごした。そして4日、午後1時に棺はモンゴメリー市の市民会館に運び込まれ、葬儀は2時30分から行われた。
●棺は花々でギターのかたちに飾られた。棺のまわりには、今は主亡きドリフティング・カウボーイズのメンバーが囲んだ。用意された最前列の遺族席には、妻のオードリー、ビリー・ジェーン、母のリリアンが座ったが、父のカンは欠席だった。参列した人数は約25000人で、これはモンゴメリー市が始まって以来の人出だった。予想を超えて式場に入りきれない人々のために、式の進行模様を伝えるスピーカーが屋外に取り付けられた。
●葬儀ではまずアーネスト・タブが「Beyond the Sunset」を、次にレッドフォーレーが「Peace In the Valley」を歌った。しかしフォーレーは涙にむせて最後まで歌いきれなかったと言われる。最後はカール・スミス、ウェッブ・ピアース、リトル・ジミー・ディケンズ、ジョニィ・ライトとジャック・アングリン(カルテット)が「I Saw The Light」を歌って、在りし日のウィリアムスを偲んだ。
●遺作となった「Kaw-Liga」(A面)「Your Cheatin’ Heart」(B面)は時を待たずに1月に発売され、ともに第1位(34週間)、予想通りの大ヒットになった。2曲ともウィリアムスはもちろん他界を予期したものではなく、前年の9月にナッシュヴィルのスタジオで録音されていた。
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2016/01/26
東京ヘイライド(215) 真保 孝 |
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●「Footprints in the Snow」(思い出の足跡)。先日(16日)、東京にも初雪が降りました。以前、ハンク・スノウの来日公演の日に、雪が降ったことを書きましたが、今回は別のことを書いてみます。ちなみに米国でも(24日)大雪で、8000万人の人が被害を受けたと言います。さすがに桁(ケタ)が違います。
●1938年、ビル・モンローは兄のチャーリー・モンローと組んでいた「モンロー・ブラザース」を、バンド内の兄弟の主導権争いから解散した。一時アーカンソー州リトルロックに移動して、ここで再び自身の新しいバンド「ケンタッキーアンズ」を結成した。しかし兄弟チームで築いた人気も衰え、ドサ廻りが多くその活動は地域的に限定されたものでした。演奏の場はローカルの学校体育館や野外ステージが多く淋しいものだった。
●そんな8月の夏の日、訪ねてきたひとりの新人歌手をオーデションの上、入団させた。男はジョージア州生まれで、音楽的家庭で育った、クレオ・ディヴィスと名乗った。ちょうど、兄と分裂したモンローは、その後釜として共に歌えるシンギング・パートナーとギター弾き(マンドリンは自分が担当)を探していたところだった。ディヴィスがモンローを訪ねてきたには、およそ次のような背景があった。
●ある晩、ディヴィスのもとに警官をしているひとりの友人が、地元の新聞「アトランタ・ジャーナル」を持ってやってきた。載っていた広告には、「ギターが弾けて、オールド・タイムの歌が歌える歌手を求む」とあった。歌手を目指していたディヴィスにとってまさにぴったりの内容だった。早速、町の質屋で2ドル40セントの中古ギターを求めて、応募することにした。翌日、広告の住所を頼りに訪ねた時、モンローはフアンのひとりが貸してくれたガソリン・スタンドの裏にある古い家を練習の場にしていた。
●面接で何曲かを歌い、最後にモンローのマンドリンのキィに合わせて指示された「This World is not My Home」をモンローとデュエットした。歌い終わったモンローは傍らにいた妻のキャロラインに「どうだろうか?」と聞くと微笑んだ。「探していた歌手がやっと見つかったようだ」(I think I found what I’ve been looking for!)とモンローは共にうなずいた。
●「明日の朝の8時30分に、ここに来て欲しい」(モンロー)。翌朝、コーヒーショップで打ち合わせた後、楽器屋に行き37ドル50セントもするギターをモンローはディヴィスに買い与えた。それはディヴィスが初めて手にした高価なギターだった。さらにステージ衣装の洋服と、ステットソンの帽子も買って呉れた。いかにモンローがディヴィスに期待をしたかが判る。
●しばらくしたある日、モンローと新しい曲を練習中にディヴィスは少年時代に母が歌っていた古い曲を思い出した。オリジナルはアーネスト・ストンマンなどが「Little Footsteps in the Snow」ほかの名で1930年代に歌われていた曲だ。曲を聴かされて「おいおい、冗談じゃないぞ、俺に聴かせるだけでなく、こうは少し手を加えたら、お客が喜んでくれる曲になるぞ」(モンロー)。二人が手を加えたこの曲は、予想通りその後ステージでもっともリクエストの多い曲になり、コロムビアとデッカに2回録音された。
●ディヴィスの母は教会でオルガンを弾き、賛美歌を歌っていたので、そこで本曲を覚えたのかも知れない。「野外を楽しめる夏が好きな人は多いけど、僕は雪の降る冬の季節が好きだ。それは雪の日に彼女と出会ったからだ」と歌われる。邦題は「思い出の足跡」。ワイズマン、スタンレー、マーチンなど名盤が多い。
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2016/02/13
東京ヘイライド(216) 真保 孝 |
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●ラモーナ・ジョーンズの思い出。
お正月に海外雑誌のバック・ナンバーを見ていたら、11月にラモーナ・ジョーンズが亡くなっていた。失礼だが、皆さんの大半は多分ご存じない人だと思う。ラモーナは故グランパ・ジョンーズの奥さんであったが、それ以上にステージでコンビを組んで、素晴らしいパートナーであった。かねてからの噂の夫婦コンビが、来日したのは1976年だった。記憶が正しければ、東京公演は目黒の杉野講堂だったと思う。
●グランパはその後、1998年に他界(84歳)したから、今にしてみれば貴重な来日公演であった。生い立ちから見れば、グランパはカントリーと言うよりもオールド・タイム、ヒルビリーの分野の人かも知れない。ラモーナは幼い頃に父から学んで腕を磨いたフィドル(マンドリン、ギターも堪能)を担当した。二人の息のあったバンジョー、フィドルのコンビネーション演奏は、「Are You From Dixie」「Eight More Miles To Louisville」など夫婦とは言え素晴らしいのひとことにつきた。ラモーナは来日時52歳だった。
●二人が運命的な出会いをしたのは、シンシナティのラジオ局で1940年代のはじめだったが、1946年10月まで結婚しなかった。それは多分、グランパが第2次世界大戦で軍に入隊したためと思われる。ラモーナはインディアナ州の生まれで、この時21歳、グランパは31歳で、以後50数年の間、演奏活動を続け共に暮らした。離婚、結婚が茶飯事の、今の若い歌手達には爪のあかでも飲ませたい。結婚した二人はすぐにナッシュヴィルに行き、オープリーにデビューして、レギュラーになった。全米的に知名度を上げたのは、CBSテレビの人気番組「Hee Haw」(1969〜92年、22年間、バック・オーエンス、ロイ・クラークが主宰)に出てからだった。
●20年ほど前?にナッシュヴィルに行ったとき、郊外のグッドレッヴィルに住むラモーナの自宅を訪ねた。この地区は多くの歌手達が住む場所だ。緑の林に囲まれた中にある、住み心地の良さそうな木造(ウッディ)の田舎風の住まいは、いかにも彼ららしい質素な平屋だった。庭先で立ち話をした。写真を撮りたいというと、化粧をしていないから駄目だ、代わりに写真(プロマイド)をあげる、と言われた。現役を引退していたらしいが(70歳ぐらい?)、さすが芸能人だ、素顔は見せられないわけだ。3〜4人いる子供達(娘)は近くで音楽ビジネスに従事していた。お土産に庭でとれたスモモ(果物)を貰った。帰りに自宅の近所にあったグランパの墓に立ち寄った。小さなカントリー・チャーチの後ろに墓はあった。息を引き取ったのは、11月17日、心臓麻痺だった。享年91。
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2016/02/21
東京ヘイライド(217) 真保 孝 |
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陰の功労者、レッド・シンプソン追悼。
●西海岸のベーカーズフィールドを中心に、ナッシュヴィルの伝統的なオープリーに対抗した?ウェスト・コースト・サウンド。快活で明るいビートで歌い上げた曲がヒット・チャートの大半を占めた。主役のバック・オーエンズ、マール・ハガードを旗頭に、その人気はたちまち全米に及んだ。今年1月18日に心筋梗塞で他界したレッド・シンプソン(81歳)は、その陰の立て役者(功労者)であった。この地区のミュージシャン達の大半がそうであったように、オクラホマ生まれで、大砂塵と不況に追われて、西海岸に移住してきて両親と住みついた。
●10代から作曲に興味を持ち、14歳で初めての自作を発表した。コーストでは大物、親分格のファゼー・オーエンズに注目された。父は貧しい農業労働者で、自宅は政府が与えてくれたテント生活で暮らした。貧乏人の子沢山、12人の兄弟で育ち、ギターリストの兄がビル・ウッズ(2003年、75歳他界)のバンドに紹介してくれた。ウッズのバンドはその名も「Orange Blossom Playboys」であったが、シンプソンの名前のレッドは髪の毛が赤かったところからついた。ちなみにウッズはエレキ・ギター奏者でDJとしても活躍、ウェスト・コースト・サウンドの創立者であった。「ウッズのスタイルはピュアなカントリー音楽。ベーカーズを理解したければ、彼を聴くことだ。ここにすべてがある」(尊敬していたシンプソン)。
●やがて朝鮮戦争、徴兵されてメディカル救助病院船で働いた。船内でバンドが作られたが、船の名前が「Repose」(休息)であったことから、バンド名も「Repose Ramblers」と名付けられたという。除隊後、ファゼーは自分のクラブ(コーストで一番大きかった人気のクラブ)のピアニストとして週末(後にフルタイム)に採用した。ここで出演中だったバック・オーエンズと知り合ったのが、成功の糸口につながった。
●オーエンズと曲作りが始まった。最初のチャンスは「Sam’s Place」(1967年、第1位、歌、オーエンス)。キャピトルのケン・ネルソンからも注目を浴びた。シンプソンはキャピトル社に出入りをした当時、階段を降りて廊下で聞こえてきた曲は、いつも「Sixteen Tons」(テネシー・アーニー・フォード)だったと、述懐していた。その後路線を変えて、トラック・トライバーものに変更してマール・ハガードのために曲を書いたが、ネルソンは認めてくれなかった。しかし1970年代に入り、自動車社会の到来と共に、トラックものに脚光があたってきて、その将来がさらに開けた。
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2016/03/02
東京ヘイライド(218) 真保 孝 |
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●ソニー・ジェイムズの「Young Love」(前)。年齢的にも若しやの不安を持っていたが、訃報を聞かされた。2月22日(月)午後、87歳の生涯を終えた。1984年に引退を発表した後、夫婦でフロリダの地に住んでいたと聞いていたが、終焉の地はナッシュヴィルだった。
●ジェイムズと言えば、なんと言っても生涯における大ヒット、「Young Love」(1956 年、24週間)である。しかし個人的には「Born To Be With You」(1968 年、16週間)も忘れられない。共に第1位で、改めてレコードを聴いて欲しい。よって今回は売り上げ300万枚の「Young Love」の周辺を、次回はバイオグラフィーで、追悼原稿をまとめたい。
●ポップスをも巻き込んだミリオン・セラーの「Young Love」を最初に歌ったのは、ジェイムズだった。これを数週間の遅れで、映画・テレビで活躍していたタブ・ハンターが競作盤を出してきた。ジェイムズ盤はカントリー音楽では第1位になったが、ポップスでは広く知名度の高いハンター盤に譲り、第2位に甘んじた。聴き比べてみると、ジェイムズ盤は硬質で、バックもやはりカントリー的。ハンター盤はソフトで、全体に甘い感じだ。
●「Young Love」は当時、高校生(アマチュア)で恋人同士だった二人が作った曲だった。クラス・メイトのバンドをバックに録音したが知名度が低かったせいか?売れなかった。諦めきれない二人は自分たちのテープを放送局のDJに持ちこんだ。これをDJが認めてスティーブ・ショーレス(RCA)とケン・ネルソン(キャピトル)に推薦して送った。二人はショーレスが認めてくれることを期待していたが、郵便で届いたデモ・テープを聴いて、曲の出だしにヒットの可能性を見つけたネルソンの反応は早かった。採用、録音の準備が整ったと、早速電話が入った。
●プロデュサーのネルソンが歌わせる歌手として予定したのは、ジェイムズだった。26歳でキャピトルと契約したジェイムズは、社内的にはそこそこのヒットは出していたが、大きく売り出すために今ひとつの爆発的なヒット曲が求められていた。しかし言い渡されたジェイムズはこの曲に対してあまり乗り気でなかったようだった。(関係者の話)。事実ジェイムズは次作に予定されていた「You’re The Reason I’m In Love」の方が自分の持ち味に合っていると思っていた。だが、この曲は翌年発売されたが第6位に終わった。ヒットが生まれる背景はいつもこんな具合だ。
●さて、ネルソンと推薦してきたDJはヒットにつなげる工夫を盛り込んだ。時代はエルヴィス・プレスリー、カール・パーキンス、マーティ・ロビンス(Singing The Blues)などが現れ、すでにロッカビリーの兆しが見えてきていた。
まずイントロから最後まで歯切れのよい生ギターを流した。決定的なのは、バックにスネア・ドラムを加えたことだった。間奏には力強くエレキ・ギターを入れた。カントリーとしては少しポップス過ぎるのではないか?の危惧する声も聞かれたが、結果は大成功に終わった。その後、ジェイムズはRCAに移籍して録音したが、このスタイルは崩していなかった?ようだ。(次回に続く)。
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2016/03/14
東京ヘイライド(219) 真保 孝 |
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●ソニー・ジェイムズの歩み(後)。1951年の秋、約1年3ケ月の朝鮮戦争の兵役から除隊、帰国したジェイムズはナッシュヴィルに戻ってきた。「ケン(ネルソン)、最近、朝鮮戦争から帰国した歌手がひとりいるんだ。私は彼をとても気に入っているけど、私のレーベル(RCA)のリストは今一杯なんだ。成功する確率は高いと保証する。一度家に来て会って、歌を聴いてみないか?」(チェット・アトキンス)。アトキンスとジェイムズは以前、しばらくルーム・メイトとして暮らした仲だった。こうして1952年、キャピトルとの契約が成立した。
●契約にあたって、本名のジェイムズ・ヒュー・ローデン(James Hugh Loden)は売り出しの芸名にふさわしくないと、ネルソンは親しみやすく、覚えやすいソニー・ジェイムズに、ニックネームはサザーン・ジェントルマン(南部の紳士)とした。これは南部のアラバマ生まれで、ソフトな語り口、慎ましい振る舞い、礼儀の正しさとマナー・・・が備わっていたからだ。
●ブレンダ・リーはオザーク・ジュービリーで共演して知り合い、ツアーも共にして友達になった。リーが多分、まだ8〜9歳の頃だ。「彼のニックネームが何故サザーン・ジェントルマンなのか、最初判らなかったけど、ナイスの人柄でだんだんと理解してきた。ファミリー・バンド( Loden Family )はいつも彼を引き立てて、自分たちは2の次だった」(リー)。多くの人々に愛されたジェイムズは、1957年テキサスのダラスでドリスと結婚式を挙げた。
●3歳の時、アマチュア音楽家だった父の手作りのマンドリンが最初の楽器だった。次いでギターフィドルもマスターした。両親と4人姉妹でファミリー・バンドを作り、活躍を始めた。歌手として成功する前の楽器のテクニックは優れて定評があった。そのエピソードがいくつか残されている。
●ルイジアナ・ヘイライドのステージで、絶大な人気を誇ったスリム・ホイットマンのバックを数ヶ月だったが在籍して、ギターの伴奏をつけた。惚れ込んだホイットマンは自分のツアーに同行させた。テネシー州の何処かでジョニー・キャッシュがショウで共演したとき、深い尊敬の念を示した。その時、一緒にいたサム・フリップスも同様だった。キヤピトルと契約した1952年夏頃と推定されるが、同じ年にケンタッキーレコードを経てキャピトルと契約したジム・アンド・ジェッシーの最初のスタジオ・セッションでフィドルを担当した。「グレート・シンガーだが、フィドルもギターも2度と得難いテクニックの持ち主だった」(ジェッシー)。
●お断り。本稿、後日「切り抜きカントリー倶楽部」にも加除修正して掲載の予定です。
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2016/03/29
東京ヘイライド(220) 真保 孝 |
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●異色の組み合わせとも?思えるアルバムが4月に発売されると期待していたが、中止された。残念だが、理由はわらない。タイトルは「Del and Woody、(デル・マッコーリー、ウッディ・ガスリーを歌う)」だった。
●構想の企画が浮かんだのは、さかのぼる2009年、ニューポートのフェスティバルでガスリーの娘のノラが、出演中のマッコーリーのステージを観たときだった。きっと父のガスリーも「very much like Del’s」と思ったと言う。数ヶ月後にマッコーリーのもとにノラからCDと選曲の依頼、その意図を書いた手紙、数10曲のガスリーの歌詞が送られてきた。
●「早速、手紙を読んだ。ガスリーの曲は私(マッコーリー)のスタイルに無理はなく、とてもスムーズに聞き終わることが出来た。ノラは手紙で、もしあなたが自分なりに解釈してアレンジするところがあれば、私はノウとは言わないだろう。でも父は偉大なソングライターだったから自分の歌のすべてをチェンジすることは望まないだろう。メロディと歌詞の一部を変えれば、今の人々も受け入れてくれると思う。私はそうして貰いたいの」とも。(マッコーリー)。
●ノラは1950年の生まれで、今年66歳。ガスリーの2番目の妻との間の娘で、兄にアロー・ガスリー(68歳他界)がいる。父の亡き後もガスリーのファウンデーションのプレジデントとして、ソング・ブックの出版、功績の啓蒙などに尽力を続けてきた。
最近では2007年、ガスリー生誕100周年のセレモニーがホーム・ステートのオクラホマで開かれた。そのオール・スター・コンサートにアロー・ガスリー、ロザンヌ・キャッシュらとマッコーリーも出演していた。
マッコーリーは2003年にオープリに初登場したが、かってビル・モンローも認めた実力者で、伝統的なブルーグラスを90年代に見事に復活させた。さて昔、フォーク・ブームのころは、ピート・シーガー、アラン・ロマックスなどと喧伝されたが、ブームが去った近頃は忘れられた感じのガスリーである。ガスリーの曲は以前「This Land Is Your Land」(フラット&スクラッグス)があったが、改めてマッコーリーがどんな解釈で歌うか、聴いてみたかった。
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2016/04/12
東京ヘイライド(221) 真保 孝 |
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●追悼、マール・ハガード。
案じていたことが、ついに悲しい現実となった。昨年の暮れから入院を繰り返していた。海外誌によると、今年の1月末には肺炎で週末のメキシコでのコンサートを中止していた。回復しなかったので、さらに3月初めのコンサートの延期も報じられた。4月に向けての退院も、ドクターからは無理と診断されていた。
●ハガードの健康はすでに2008年頃から悪化していたらしい。この年11月、右肺の手術をしていた。健康を蝕んだ原因の一つは自己の健康管理の甘さと思われる。41歳のころから酒、ドラック、マリファナの常用者になっていた。特に問題となった、たばこの吸いすぎは有名だった。1991年にたばこを一時やめ、95年にはマリファナもやめた。しかし再び吸うようになった。2008年、手術時のドクターの診断は、肺がんとしていた。
●ハガードは5回の結婚、離婚をしていた。それぞれに子供をもうけたが、最初の夫人との息子(スコット)とは断絶状態だった。1度コンサートで顔を合わせたが、会話はなかったと伝えられる。トラックの運転手をしているスコットは、生涯ハガードが父親であることを否定していた。よってベッドでの最期を見届けたのは、現夫人(テレサ)との息子のベンであった。医者は、ベンにあと1週間ぐらいの命だろうと伝えていたらしい。ハガードはこれを予期して生前に葬儀式への希望を告げていた。コニー・スミスに「Silver Wings」を、マーティ・スチュアートと二人で、「Precious Memories」歌って欲しいと。二人は喜んで歌いたいと答えていた。
●訃報を聞いて、ウィリー・ネルソンあたりが一番にこたえていると思われるが?なんと、いま一番のアイドル歌手、キャリー・アンダーウッドがコメントを寄せていた。「Merle was a pioneer ,a true entertainer, a legend. There will never be another like him」と。
それにしてもハガードは波乱にとんだが、79年間の輝かしい人生を過ごした。健康に留意すればもっと長生きできて、私たちを楽しませて呉れただろうが、やり残した思いは少ないと思う。数々の素晴らしい曲や、彼が憧れた故人歌手たち(ジミー・ロジャース、ボブ・ウィルス、レフティ・フリゼルなど)の追悼アルバムも残してくれた。ありがとう、ハガード。 ご冥福を祈りたい。
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2016/04/25
東京ヘイライド(222) 真保 孝 |
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●ビル・アンダーソン(前)
アンダーソンが9月に自叙伝を出版する予定があると聞いた。欧米ではひとつの時代を駆け抜けて功なり遂げた人は、文章に強いライターの協力を得て、自分の生涯を1冊の本にまとめるケースが多い。多くの歌手たちも例外ではない。自叙伝により、当時の動向の背景を知ることができて、ファンには興味深い。若いころからの活躍を知っている我々としても、今年79歳になるアンダーソンがそろそろ自分史を出してもいいころと考える。
●アンダーソンを語るうえで、まず欠かせないのは弱冠19歳の時に書いた「City Lights」(1958)である。歌ったのは、レイ・プライスだ。プライスの「Crazy Arms」(1956)、「My Shoes Keep Walking Back To You」(1957)に次ぐ、大ヒットになった。アンダーソンは大学でジャーナリズム科を専攻してスポーツ記者を目指していた。在学中にラジオ局のDJを経験したが、その時にこの曲を書いた。
●1957年の夏はとても暑い日が続いた。ジョージア大学に学ぶアンダーソンは町のホテルから棟続きのアパートで暮らしていた。あまりの暑さにある晩、3階の屋上に出て、眼下の灯に輝く街並みを眺めた。空気は澄み切っていて、ふと夜空を見上げた時、この曲の着想が浮かんだという。
●早速曲をまとめて、デモ・テープを作り、多くの音楽出版社に送った。返事を呉れたのは1社だけで、制作したマイナー・レーベル社はラジオ局で流してくれた。これを聴いたひとりの音楽レポーターは幸運にもチェット・アトキンスと知り合いだった。レポーターからの推薦を受けたチェットは、この曲をディブ・リッチに歌わせたが、ラジオ局はあまり好意的でなかった。
●アンダーソンの願いはここで断ち切れたかに、見えた。だが、強運は続いていた。その後のある日、アーネスト・タブとレイ・プライスがゴルフをしていた。二人はゴルフ・カートに取り付けたラジオから、この曲を耳にした。「ボーイ、これはお前さん向きの曲じゃないかい?」(タブ)。自分には向かないと、はじめは取り合わなかったプライスは大先輩の勧めに次第に軟化して同意した。
●1週間後に、スタジオに入り、1958年の初夏にリリースされた。それはアンダーソンが作曲してから9か月後のことだった。大ヒットの後、音楽に進路を変更したアンダーソンはナッシュヴィルに出て、デッカと契約した。ナッシュヴィルへやってきたとき、音楽事務所の受付で、「City Lightsのビル・アンダーソン」と言うだけで、一見の彼はどこでもフリー・パスだったと伝えられる。
●「City Lights」が作られたジョージア州の町(コマース)では、その後、毎年6月にはCity Lights Festival が開かれると聞いたが、今はどうか?
2000年ごろにはジム・エド・ブラウンやコニー・スミスたちがステージに立っていた。またそのホテルの玄関前には、曲をたたえた記念碑が建てられた。改めてレコードに針を落とす。イントロから切れのよいフィドルで始まり、続く伸びのあるプライスの声、そして間奏もフィドルを受けたスチールの流れは、まさにカントリーがカントリーであった時代の極致といえる。
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2016/05/05
東京ヘイライド(223) 真保 孝 |
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●ビル・アンダーソン(後)
コニー・スミスをスカウト。
前回の「City Lights」のヒットから6年の年月が流れた。アンダーソンはナッシュヴィルでのその地位を確立していた。その足跡の中でコニー・スミスの発見は、彼の功績をさらに高めた。後述するように、二人の出会いもまた、運命的としか言いようがなかった。
●1963年の夏のある日、歌好きで平凡な家庭の主婦であったスミスはオハイオ州コロンバスで開かれたカントリー音楽のフェスティバルに出かけた。目的は出場するジョージ・ジョーンズのショウが観たかったからだった。現地では賞金のほかに、ナッシュヴィルのショウにも出場できるコンテストがあることを知った。日ごろ、地元のノド自慢で鳴らしていた彼女は、思い切って出場することを決めた。
●ステージでは「I Thought of You」(ジーン・シェパード、1955年)を歌った。それを聴いた審査員の一人だったアンダーソンは、大いに気に入り、ナッシュヴィル行きを勧めた。誘われたスミスは突然のことで、気持ちの整理もつかず何回も断った。23歳、家庭の主婦であり、子供もいた。中西部の保守的な家庭環境で育った彼女は、熱心なクリスチャンでもあった。プロとして大きなひのき舞台で歌うことに抵抗があった。
●「あの日から、突然のように音楽の世界に飛び込みましたが、私はショウ・ビジネスの世界になじむ自信はありませんでした。スターの座よりも子供の世話をしたり、夕食の準備をするほうが好きでした」(スミス)。
ナッシュヴィルに連れて行ったアンダーソンはまず自分が所属するデッカ・レコードのオーエン・ブラッドリーに推薦した。デッカは前年に有望なパッツイ・クラインを飛行機事故で失っていたが、女性歌手陣はまだ盤石で、乗り気ではなかった。そこでアンダーソンは友人のRCAのチェット・アトキンスに売り込んだ。しかしRCAもドティ・ウェスト、スキーター・ディビスらを抱えて布陣は充分であった。話を進めるうちに、「もし、君(アンダーソン)が曲を書いてくれるなら…」(アトキンス)という条件でまとまった。
●だが作った第1作はヒットしなかった。次いで出来上がった「Once A Day」が6月、いよいよ録音された。これが空前の大ヒットになった。長い間立ち込めていたナッシュヴィルの暗く、重い空気を吹き飛ばすような、コニーのはつらつとしたカントリー・ヴォイスにファンは歓喜した。
●コニーの魅力を一層引き立てたのは、バックのスチール・ギターであった。奏者はウェルドン・ミリック(2014年76歳で、他界)だった。レコードをプロデュースしたボブ・ファーガソンはこの曲のために、明るく力強いサウンドのスチールを求めていた。テキサス生まれのミリックは前年にナッシュヴィルに来ていた。腕前が認められて、オープリーのスタッフ・バンドのレギュラーに迎えられ、30数年を過ごした。後日、コニーが殿堂入りをしたとき、最初の言葉は「彼のスチールあっての…」と、ミリックへの感謝だった。まさに両者がかみ合っての大ヒットであった。
●アンダーソンの「City Lights」のケースと言い、今回のスミスの場合と言い、その成功への道は運命的であった。実はスミスがコロンバスの音楽フェスに出かけたのはジョージ・ジョーンズのステージが観たかったからだった。ところが、それは先週のプログラムで、当日はアンダーソンだった。もしジョーンズが審査員だったら、彼女の才能を果たして見抜けたであろうか?スミスは1972年、Country Explosion Show の一員として、テックス・リッター、ワンダ・ジャクソンらと来日した。
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2016/05/16
東京ヘイライド(224) 真保 孝 |
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懐かしのラジオ番組から
●「・・・遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休めるとき・・・」。空港での離発着のサウンド・エフェクトを背景に、このナレーション。見事な演出です。低音の美声を生かした穏やかな語りとジェット噴射音で始まるエフエム(以下、FM)東京の「ジェット・ストリーム」は昔のFM東海時代に始まった。FM東海(後に東京)は当時(1958年〜70年)日本のFM放送の始まりで、郵政省が東海大学の教育用ラジオ局(実用化実験局)として認可した。それまでのAM放送にないクリアーな音質が売り物で、リスナーはこぞって放送を聴いた。
●さて「ジェット・ストリーム」の放送回数は1万2千回を超え、民間FMでは国内最長寿番組に育った。「飛行機による旅への誘いをコンセプトにした番組」を発案したのは当時、営業部長だった後藤・FM 東京元社長。提案を受けた日本航空の宣伝部長が賛同してシカゴ駐在時代に好きだった米国のラジオ番組をヒントに、日本航空の単独提供で生まれた。
●1967年7月の第1回から進行役(パイロット/ナレーター)は、洋画の吹き替えで活躍していた城達也が担当した。選曲のよさと語りの間の取り方は絶妙であった。
やがて1970年にFM東京に移行する直前、実用化試験放送の条件で出発したFM東海は、放送免許をめぐる郵政省との和解交渉の結果、コマーシャルが放送できない期間が生まれて、広告収入がゼロになった。城はその間も、番組に愛着を持ち、ノーギヤラで出演を続けた。
●1994年11月、城に食道癌が見つかった。「年内いっぱい続けさせてください。この番組は私の生き甲斐ですから」(城)。番組は12月30日まで、27年間、合計7387回。降板後、翌年2月25日、城さんは63歳で死去した。
その後スポンサーの日航は経営危機から番組を提供できなくなったが、番組は継続され、ナレーターは4代目の伊武雅刀を経て、現在は大沢たかおが担当しているらしい(未確認)。ファンは多く、作家の童門冬二さんもiPodに当時の「ジェット・ストリーム」を入れて楽しんでいると昨年書いていた(週刊東洋経済、12月19日号)。
●最近の番組の担当(自称?デイスク・ジョッキー)は、意味不明の内容を早口でしゃべり続け(理解、聴き取れない)、メールをよこせ、リクエストをよこせと、番組のアドレスを連発するだけで、自分自身で選曲、解説資料の下調べをしないようだ。しっかりとした構成もなく、番組名に有名タレントの名前をつけるだけで売っている。新しい知識を得るところもなく、時間の浪費で疲れるだけ、聴くに値しない。困ったことである。
蛇足だが、私は昔、木崎義二と組んで、ラジオ関東で「ウエスタン・タウン」 ナレーション、大野まり子(大野義夫の妹)を企画構成したころを思い出した。関西ではカントリーの専門番組が盛んな様で、うらやましい。必ずしも継続する環境はよくないと思いますが、頑張ってほしい。(おことわり。今回は少し視点を変えて、管理人さんとの会話からこんな共通の話題が出て来ましたので、まとめてみました)。
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2016/06/04
東京ヘイライド(225) 真保 孝 |
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●ネッド・ミラーの他界
マール・ハガード他界のニュースは大きな反響を呼んだ。その陰にかくれるように、このミラーの訃報が伝えられた。米国ではさておき(ニューヨーク・タイムズ紙は報道した)、ミラーは日本では比較的マイナーな存在だったと思う。実際には3月18日に死亡していたのに、何故か妻のスゥーは5月まで公表していなかった。
●ミラーを一躍有名にした曲は、「From a Jack to a King」(1957年)である。この曲のオリジナル盤はマイナー・レーベルのフェィバーから出されたが、ヒットしなかった。その後、1962年にジム・リーヴスが歌い、話題を呼んだ。それでフェィバーは再リリースを行った。これが第2位、19週間連続のヒットになった。カバー盤にはエルヴィス・プレスリー、ボビー・ダーリン、ほかがある。ところが本曲、27年後にリッキー・ヴァン・シェルトンがリバイバルさせて、ついに第1位(コロムビア)にした。
●少し横道にそれるが、レーベルのフェィバーついて書きます。この小さなレコード会社はその名の通り、フェィバー・ロビソンというプロモーター(プロデュサー)が1951年頃設立しました。眼の効いたロビソンは、マイナーながらも将来的に見込みのあると思われる歌手を大勢発掘しました。ここで成功した彼らの多くは、その後、メジャーな会社にトレードされました。ジョニー・ホートン→コロムビアへ、ジム・リーヴス、ブラウンズ、ボニーギター→RCAへ、などです。ミラーも本曲によってキャピトルに移籍しています。当時アメリカでは各州にこのようなマイナーなレコード会社が沢山に設立、発足した。地元のコンテストで入賞した才能ある若者たちは、ここと契約結んでさらに大きな夢を目指した。
●この曲、内容はたしか、トランプ・カードのキングとクィーンになぞらへて、あなたの愛がぼくをキングにもする、と言うように歌われたと記憶しているが?アップ・テンポで、簡単なメロディ・ラインは素人でも歌いやすい。バックでリズムを刻むギターも軽快だ。日本のアマチュア歌手は取り上げて欲しい。
●しかしミラーは生まれつき、とても内気であったらしく、ステージで歌うことは苦手のようであった。そのためか1965年、メジャーなキャピトルに移籍したが、作曲に集中しようと1970年には歌手生活から身を引いた。作曲の仕事を陰で支えたのは、妻のクレラー・マガー(スゥー)であった。多数の合作の中に「Behind The Tear」があるが、これはソニー・ジェームスの大ヒット曲(1965年、第1位、22週間)になりました。
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2016/06/17
東京ヘイライド(226) 真保 孝 |
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●モハメド・アリの訃報。
プロ・ボクシングの世界で、蝶のように舞った彼も故郷の土に帰った。彼の生地、葬儀をあげたケンタッキー州ルイビルは、確かブルー・グラス(IBMA)の殿堂があった地だ(今は、どうか?)。
●ボクシングで思い出すのは、誰でもレフティ・フリッゼルだと思う。人気の小坂一也がエルヴィス・プレスリーの曲を歌う前に、フリッゼルの曲を大の得意としていた。あまりに上手に歌うので、ビギナーの日本のフアンたちは、小坂の曲をフリッゼルが歌っていると、思いこんでいたぐらいだ。実は本家はこちらだった。
●本名のウィリアム・オーヴィル・フリッゼル(テキサス生まれ)が「レフティ」の愛称で呼ばれたのは、歌手になる前アマチュア・ボクシング時代に左利きのパンチでライバルを倒したことによる。このエピソードはオールド・ファンなら誰でも知っていることだ。
●フリッゼル自身が「まだ若すぎた」と後悔した16歳での結婚、妻のアリスの希望で、ボクシングからやがて音楽への道を歩むことになる。14歳の時、学校の校庭でのボクシング試合でチャンピオンになって、才能はあったらしい。しかし一方、12歳の時に聴いた故ジミー・ロジャースのレコードは音楽への道の希望も募らせていた。音楽の道を選んだのは、正解だった。
●「レフティ」の愛称は歌手生活を始めたとき、所属していた音楽エージェントが売り込みのためにつけた。1950年代初期に数々のヒットを歌い、アイドルのロジャースの流れを次の後輩の歌手、マール・ハガード、キース・ホイットリー、ウィリー・ネルソンらにつなぐ役割を果たした。1975年7月19日に心臓麻痺で他界した。奇しくもこの日に、ネルソンが「Blue Eyes Crying in the Rain」を第1位にランクさせていた。このリバイバル・ヒット(18週間)は、今をときめくネルソンの初めての記念すべき第1位曲であった。
●さて、人種、宗教、ジャンルを越えたアリの交友範囲はカントリー界でも広い。キャリー・アンダーウッドからチャーリー・プライドまで。「彼も私も互いに黒人同士で交際があり、共にニガーと呼ばれて軽蔑視された。アリがナッシュヴィルの楽屋に訪ねてきて親交は深まった。アリが試合前に大口をたたいて相手をこきおろすけど、本当の彼(アリ)のキャラクターをとても尊敬していた」。(プライド)。
●「ハイウェイメン」で集まったW・ネルソン、J・キャッシュ、K・クリストファーソン、そしてジェニングスたちもアリと親交があった。なかでも一番親しかったのは、多分、ウェイロン・ジェニングスだったかも知れない。1978年のある日、彼はクリス・クリストファーソンに頼んでロスのレストランでアリに紹介してもらった。はじめは互いに好印象を持たなかったが、食事をしている間に打ち解けてきた。それ以後、どんな問題の意見でも、二人の答えはいつも同じだった。” He’s probably the biggest hero in my lifetime”( ジェニングス)。
●1969年、ジェッシー・コルターと結婚して生まれた娘のシューター・ジェニングスの名付け親はアリだと言われている。試合前に着たバスローブ、使用したグローブなど貴重な品をプレゼントされていた。パーキンソン病を患っていたアリが、その基金のためにディナー・ショウを開いたとき、ジェニングス夫妻は会場でアリのために作曲した曲を歌った(レコード化されていない)。
●バディ・ホリーのベース奏者として、この道に入ったジェニングスは2002年、他界した時64歳だった。アリは今年、74歳まで生きた。
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2016/06/30
東京ヘイライド(227) 真保 孝 |
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●私的ブルーグラスの終焉。
朝日新聞(6月26日、朝刊)の訃報欄で、ラルフ・スタンレーの他界を知った。朝日がブルーグラスを取り上げるのは珍しいことだ。寿命とはいえ、次々に懐かしい大物が鬼籍に入っている。元気で楽しませてくれた彼らの往事の演奏を知るオールド・ファンにとっては淋しい限りだ。ラルフはケンタッキー州の自宅で亡くなった。享年89。死因は長期療養中だった皮膚癌だという。こんな癌もあったことを初めて知った。実はラルフの体内には、すでに心臓ペース・メーカーも挿入されていた。こんな身体で演奏活動(年に100回以上)を続けてきた。「信じようと、信じまいと、彼はツアー・バスの中でもっとも頑丈でタフな男だった」(共に旅したアラン・シェルトン)。
●1966年、ラルフは2歳年上の兄のカーターを失った。41歳で、死因は肝臓癌だった。カーターは酒好きで(肝臓が冒される)、社交的、ステージでも適任の司会を務めた。無口で万事控えめのラルフはその陰で、バンドのマネジメントを務めていた。「兄を失ったとき、今後のことが心配で、途方に暮れた。一時引退も考えた」(ラルフ)。噂を聞いたフアンたちから、継続を希望する手紙が3000通、夜まで電話が鳴り続けた。サポートの声に励まされて現役に止まる決意をした。再出発にあたり、息子ほどの若手歌手がバンド入りをした。ラリー・スパークス、ロイ・リー・センターズなど。1970年代には、リッキー・スキャグス、キース・ホイットリーも入団してきた。最近は息子や孫まで参加していた。その後、数多くの賞にも恵まれ、ラルフに思い残すことはなかっただろう。
●少年時代に動物好きのラルフにバンジョーの手ほどきをしたのは、母だった。歌は歌えなかった母は、12人の子供にバンジョーの基礎を手ほどきした。その母を偲んでか、セイクレッド・アルバム”Mother’s Prayer” (Rebel, 2011年)をリリースした(未聴)。ラルフの音楽のルーツは19世紀の草深いアパラチアンにあると言われるが、その姿勢は終生変わらなかった。
●数々の名曲を残したが、私が一番はじめに聞いたのは(1954〜5年頃?)45回転盤の” Lonesome River”(1949)で、次に ”White Dove”(1951)だった。これは朝鮮戦争に参戦した米軍兵士が売り残した赤いレーベル?の古レコードだった。この移籍したコロムビア盤の前に彼らはすでにリッチ・アール・トーンと言うマイナーで何曲かをリリースしていたのだが、むろん知るよしもなかった。これしかない、この2曲は何回聴いたか判らない。
●フラット・アンド・スクラッグスのヒット曲も聴いたが、ハイ・テナーで歌いつづる彼のロンサムなスタイルは同じブルーグラスでも、メンタルで宗教色が強く、心情的に別の世界で英語に弱い日本人にも心打つものがあった。引退について聞かれたとき、「神の思し召しがある日まで、私はプレイを続けたい」(ラルフ、2011年5月)。後期高齢者の私は、幸い1975年に48歳の元気な彼のステージを日本で観ることが出来た。
● お断り。本稿は加筆補正して「切抜きカントリー倶楽部」にも再掲する予定です。
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2016/07/11
東京ヘイライド(228) 真保 孝 |
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エルヴィスの活躍を支えたギタ−リスト、スコッティの他界。
●売り出しから15年近くにわたって、公私ともにエルヴィス・プレスリーの活躍を支え続けたスコッテイ・ムーアが亡くなった。6月28日朝、ナッシュヴィルの自宅で、84歳だった。
●朝鮮戦争に参戦して日本で過ごしたムーアは、海軍を除隊して1952年1月、故郷メンフィスに帰ってきた。在軍中もビル・ブラック(ベース)とバンド( Starlite Wranglers/星明かりのカウボーイ)を作り、好きなギターは離さなかった。日本で買った日本製のギターはわずか3ケ月でフレットが壊れて使いものにならなかった。その頃の日本製品(Made in Japan)は総じて、今の中国製品のように品質の粗悪が有名だった。改めて買ったのは、ギブソンES-295だった。これを持参して町で開店したサム・フリップスのサン・スタジオを訪ねた。
●その頃、すこし前にフリップスは飛び込みで、吹き込みサービスを依頼してきた若者のバック・メンバーを探していた。若者の名前はエルヴィス・プレスリー。プレスリーの時と同様に応対に出た秘書のマリオンはムーアとブラックに「先日やって来た若者を捜して連れてきて欲しい。ボスはその若者が見込みがありそうだから、君たちは彼のバックをつけろと・・・」と名前と電話番号のメモを渡した。翌日の夜、サン・スタジオで3人のセッションが始まった。” I thought he was pretty good”(彼《プレスリー》はいい感じだと思った。けれどバラードでは高音に難があった。/ムーアの印象)。とにかく3人はフリップスのオーディションに合格した。バンドの名前は「ブルー・ムーン・ボーイズ」として、トリオの(後に、時々ドラムのD.J.フォンタナが参加し、常連に)に世界のポピュラー音楽界を席巻するスタートが始まった。最初の吹き込みは”That’s All Right Mama”だった。
●以後、卓越したギター奏者のムーアがプレスリーの活躍(人気)を陰で支えた功績は大きい。別れた後も活躍を続け、多くの殿堂入りも果たした。ムーアはテネシー州でもメンフィスから80マイルほど離れたところで生まれた。すでに男子を産んでいた両親は、娘の誕生を期待していた(4人兄弟)。8歳で家族や友人からギターを習い始めた。
●年長者の彼は、プロのマネージャーがつくまで、初期のバンドのマネージメントを任された。後に人気が出てからのプレスリーと3人のメンバーのギャラの配分率の格差が問題になったとき、役に立った。一説にはプレスリーが1500ドルの時、メンバーたちは200ドルであったという。この差はトム・パーカーの時代にはいると、さらに2万ドルと100万ドルと開いていったらしい。プレスリーの人気はそれほど高かったわけだ。余談だが、パーカーは前にエディ・アーノルド、ハンク・スノウのマネージメントをしていた人物だ。
●なお、いまひとりのビル・ブラック(ベース)は、早世で39歳の若さで、1965年に生まれ故郷のメイフィスで亡くなった。彼らの活躍から半世紀余の盛夏、夏草や兵どもが夢の跡(芭蕉)、彼ら「ブルー・ムーン・ボーイズ」は天国で演奏しているかも知れない。
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2016/07/26
東京ヘイライド(229) 真保 孝 |
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ジミー時田の「線路は続くよ」
●”I’ve Been Workin’ On the Railroad”。これは1863年から始まった米国の大陸横断鉄道建設に携わったアイルランド系移民の工夫たちの間で歌われたが、詠み人知らずの民謡がベースと言われる曲です。
大工事はやがて1869年にネブラスカ州オマハ郊外にあるプロモントリー・ポイントと呼ばれる地点で、東側から敷かれてきたユニオン・パシフィツク鉄道の路線と西側からのセントラル・パシフィツク鉄道が結ばれた。
●このあたりの情景は映画「大平原」(Union Pacific, 1939年)で描かれていた。両方の線路を結びつける最後の黄金の犬釘が打ち込まれた瞬間、アメリカの東西の公平、平等、均等が実現された。この過酷の工事に移民してきた中国人たちの労苦があったことは有名だが、何故か彼らの労働歌は残されていない。やはり米国では伝統的にアイルランド系が強かったせいかもしれない。
●この曲は海を越えて、日本でもいつしか幼稚園などの定番の唱歌として親しまれるようになった。その過程については割愛する。歌い継がれた過程で、さまざまな歌詞が生まれた。歌詞は、およそは次のような内容だ。「これまで一生、月日の経つのも忘れて、線路の仕事をしてきた。ほら、あの汽笛が聞こえないかい・・・あれは早朝の起床に合図だよ。工事監督の声も聞こえてこないかい・・・食事の合図にダイナよ、ラッパを吹き鳴らせ!と叫ぶんだ」。ダイナというのは調理担当(料理)の女性の名前だ。これから卑猥な内容に読み替える意味もあるらしい?
●ともかく鉄道は完成して、米国はひとつのまとまった大国として発展してゆく基礎が出来た。鉄道は各地を結び、人を、物資を、産物を、情報を運んできた。「ルート66」など、ハイウェイの道路網が完成して自動車社会が到来するまで、鉄道は人々の生活(文化)を支えた。
●私がこの曲をカントリー音楽として生声(ナマ)で正式に聴いたのは、ジミー・時田の生前のステージであった。彼(時田)はこの曲をレコードに残しているだろうか?何を歌わせても土着のアメリカ人のように違和感なく歌う時田は、この曲についても実に情感を込めて(天性の)鮮やかに歌い聴かせてくれた。それは唱歌ではなく、まさしく彼なりのカントリー・スタイルであった。いま、もし、あと数人のジミー時田が日本にいたら・・・と思う。
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2016/08/14
東京ヘイライド(230) 真保 孝 |
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●「W・ネルソンがR・プライスの追悼盤を」。
来月9月に、現役長老のウィリー・ネルソン(83歳)がレイ・プライスの追悼・アルバム「For the Good times」を出すニュースが話題を呼んでいる。プライスは2013年に膵臓癌で他界した。享年87。
●同じテキサス生まれの2人は生前長い間、親友だった。プライスは1951年にナッシュヴィルにやってきて、故ハンク・ウィリアムスの庇護を受けて、一時期ドリフティング・カウボーイズに加わり、その後コロムビアと契約した。丁度、ウィリアムスがオードリーと離婚した頃で、プライスの下宿先で2人は同居した日々もあった。
●ネルソンがナッシュヴィルに出てきたのは、さらに10年後の1960年。歌手としての芽が出ないまま、曲を作ることで生計を立てて時機をうかがっていた。その曲をプライスの関係した音楽出版社が管理してくれた。やがてネルソンはベース奏者、バック・ヴォーカルとしてプライスのバンド、チェロキー・カウボーイズに入団した。2人の友情はこういう背景で築かれた。「あなたの好きな歌手は?」「レイ・プライスとフランク・シナトラだ」(ネルソン)。共に生活を、ツアーを、演奏を、飲食をした仲だ。
●名門バンド、チェロキーからの卒業生は数多い。ロジャー・ミラー、ジョニィ・ブッシュ、ジョニー・ペイチェック、バディ・エモンズ、ジミー・ディ(スチール)、ウェイド・レイ(フィドル)などなど・・・。
後に、ミラーは”Invitation Blues”(1958年)、ネルソンは” Night Life”(1963年)のヒット曲をプライスに提供した。タイトルとしたこの曲”For the Good times”(1970年)は、クリス・クリストファーソンの作品(グラミー賞受賞)である。
●プロデュースをしたのはベテランのフレッド・フォスター。ナッシュヴィルに何回も挑戦して、故郷に戻っていたドリー・パートンの初期時代を助けた。モニュメント・レコードの創設者である。勿論ウィリーやプライスともこれまで、仕事をしてきた。このアルバムの収録曲は改めてくここで紹介するまでもなく、プライスの新旧のヒット曲が収められているので、お楽しみに。
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2016/08/20
東京ヘイライド(231) 真保 孝 |
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●街角のカントリー音楽。
終盤に近づいたリオ・オリンピック、18日の早朝、女子48キロ級レスリング決勝戦で、登坂絵莉選手が時間切れのまさに13秒前に、逆転勝利、金メダルの快挙を遂げた。喜びを伝えるアナウンサーが、登坂選手は富山県高岡市の出身だと紹介した。この高岡の地名で思い出したエピソードがある。ここは北陸新幹線の開通により、隣接する石川県の金沢市まで10数分の場所だ。
●私と同世代で、50数年來のカントリーの友人Mさんが最近鬼籍に入られた。その彼が会社の支社がある富山県に転勤していた頃、仕事で通りかかった高岡市内のクリーニング屋から、思いがけなくハンク・ウィリアムスの歌声(レコード)が流れているのを耳にした。万事控えめだった彼だったが、こんなところに・・・と?ファンだったので思い切って店に入った。店主はレコードをかけながら、商売のアイロンをかけをしていた。突然の訪問者に店主も驚いたが、話に花が咲いた。
●東京に戻ってからも、交友は長く続いたが、店は火災を起こして閉店し、交友は自然、絶えた。店主はジョージ・ジョーンズのフアンで、カントリーのファンクラブを作り機関誌「北陸ジャンボリー」(ガリ版刷り)を発行した。ハンク・スノウなどが来日すると、クラブで繋がった同好の北陸の友人達と上京した。1960〜70年代はラジオの定期番組もあったせいか、全国的に広くカントリー音楽を愛好するファンがいた。
●カントリー音楽が全米的に各地に広がってゆく過程を調べた資料(テータ)がある。その大きな現象のひとつに戦争があるという。全米から兵隊に召集されて、多くの人々が半ば強制的に軍隊に入れられる。そして各地の部隊に配属される。兵士たちの間で、東部、南部の固有の文化が自然に交流される。ジャズ、ブルース、ロック、カントリーなどの各地土着の音楽が話題になり、共通の認識を得る。除隊して故郷に戻ってその種は蒔かれる・・・と言う流れである。
●近くは70年代に起きたフォーク・ブームにある。学生として都会の大学キャンパスで親しんだ音楽生活は、卒業して戻った郷里の各地に根付くことになる。楽器の楽しさを覚えた人は定年引退後、街のライブハウスで腕前を披露したくなる。かくて地方都市のライブハウスはどこも花盛りである。これから日本のカントリーはどのような経緯を経て、その裾野(すその)を広げるのだろうか。この「Music Row」もそのひとつの架け橋と言えるだろう。
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2016/09/04
東京ヘイライド(232) 真保 孝 |
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●「おめでとう、パートン!」
先日の新聞(朝日、8月31日)で、日本で昨今、街中のコイン・ランドリーが増えていると言う記事を読む。全国のコイン・ランドリーは年間数百店のペースで増加している。主婦の共稼ぎ、育児や仕事に忙しい世帯、狭い部屋には干す場所がない、などが主な理由。洗う、乾燥、干すという一連の時間が短縮できる。今後も拡大する見込みだ。コイン・ランドリー(Coin Laundry)は和製英語で、米語では”Laundromat”で通じる。
●18歳のドリー・パートンが夢を抱いて、2回か3回目?の失敗、挑戦でナッシュヴィルにやってきたとき、ナッシュヴィル街のコイン・ランドリーで夫となったカール・ディーンと出会った。シボレー自動車で通りかかったディーンは店の前で車を止めた。「ガラス越しに私を見た彼は店に入ってきた。そして知り合った私たちは2年後に結婚した。私にとって初めての結婚だったけど、いまでは最後の結婚になるかも知れないわ」(パートン)。
●二人は4歳違いで、アスファルト道路工事の仕事をしていたディーンはナッシュヴィル生まれだった。派手なパフォーマンスで知られるパートンから意外に思えるかも知れないが、以来二人の結婚生活は50余年続いて、その仲はきわめて円満だ。「ディーンが母に、私(パートン)との結婚を告げたとき、ディーンの母はとてもナーバス(心配)で興奮した。無理もありません。ディーンの妹が前に駆け落ち結婚をしていたからです。それに私はまったくの無名歌手でしたから・・・」。
●2年後に二人はテネシー州でなく、チャタヌーガの先にある州をまたいでジョージア州リングゴールド(人口4000人ほど)で結婚式を挙げた。母はパートンに手製の白いウェディング・ドレスと、かわいい花束(ブーケ)、結婚を誓う小さなバイブルを呉れた。私はまだ、裁判所での正式の手続きによる結婚に迷っていました。それで街で小さな教会を見つけて、牧師に頼みました。「私たちを結婚させて呉れますか?教会の外の階段で記念の写真が撮れますか?」と。1966年5月、二人は晴れて結婚できた。
●それから50年、今年50周年の記念パーティを開いた。パートンは有名デザイナーのサマー・ドレスを、ディーンも高級なスーツを着て出席した。そして二人は再びあの思い出の街リングゴールドを訪ねて、近くの湖畔で数日間のキャンプ生活を楽しんだ。さらにこれを祝うように8月にリリースしたパートンのアルバム”Pure & Simple”は、最初の1週間(8月31日)だけで20107枚を売り上げ、アルバム部門で第1位を記録した。
●この記事は後日加筆して、「切り抜きカントリー倶楽部」に掲載の予定です。
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2016/09/29
東京ヘイライド(233) 真保 孝 |
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●「歌姫、シェパード逝く」
オールド・フアンのアイドルであったジーン・シェパードが9月25日、他界した。82歳。先週から体調を壊して、ホスピス・ケアを受けていた。「朝方呼ばれて、まだ安らかな母に会えた。今日は私たち家族にとって、もっとも悲しい日になった」(息子、ホークショウ・ホーキンスとの)。個人的にも好きな歌手なので、本コラムでも数回紹介してきたが、改めて重複の追悼をお許しください。彼女の生涯のブレークは大きく3つに分けられると思う。
●オクラホマの電気も水道もない家で生まれた。両親は節約して電気のバッテリーを求めて、一家でオープリーの中継ラジオを聴いた。ジミー・ロジャース、ボブ・ウィルスなどが人気だった。11歳の時、一家はカリフォルニアに移住したが、そこはベーカーズフィールドから100マイルほどの土地だった。高校時代(14歳?)に女性ばかりのバンド「Melody Ranch Girls」を作った。ベースを担当したシェパードのために両親は家具を抵当にお金を借りて、楽器を与えた。バンドはやがて土曜日のモーニング番組に出演するようになった。この頃からハンク・トンプソンはすでにシェパードに注目していたらしい。
●1952年、彼女が18歳の時に、自宅の街にハンク・トンプソンがコンサートを開くためにやってきた。才能を認めたトンプソンは宿泊先のホテルから電話をかけて、歌手になることを薦めた。キャピトル・レコードを紹介されたが、対応したケン・ネルソンは契約に応じなかった。キテイ・ウェルス、パッシー・モンタナなどは別格として、男性歌手が中心で、当時はまだ女性歌手のマーケットは成立していなかったからだ。
●シェパードはその伝統的なタブーを打ち破る責任ある立場に立った。ミリオン・セラーになった”A Dear John Letter”(1953年)の前に、出したデビュー・シングルは、”Crying Steel Guitar Waltz”(1952年)であった。魅力溢れる19歳の箱入り娘に心配した両親は、全米ツアーに同行して悪い男性の誘惑を監視したという。愛し合ったホーキンズとは、Ozark Jubilee で知り合い、27歳で結婚した。しかし人気絶頂の新婚間もない二人にキャムデンのあの飛行機事故の惨事が起きた。ホーキンズは息子ドン・ロビンを残して41歳で他界した。その後シェパードは2度の離再婚をして現在に至った。
●「彼女は私たち今日の女性歌手進出、スタートのピストルの合図を鳴らし、新しい道を切り開いてくれた。遠く、憧れの歌手だった」(カナダ出身のテリー・クラークの追悼)。
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2016/10/10
東京ヘイライド(234) 真保 孝 |
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●ザ・ホワイツを聴く。
遅ればせながら、管理人さんのご厚意で「ザ・ホワイツ」の演奏を初めて楽しむことが出来た。第1世代のクラシック・ブルーグラスを楽しんできたが、ラルフ・スタンレーも亡くなり元気を失っていた。ここで彼らを聴いて、遅れた認識不足を恥じて、にわかに興味を示した次第。このチーム、ステージのデビューは1971年の”Bean Blossom Festival”(ビル・モンロー)と意外に古い経歴にも驚いた。
●ザ・ホワイツ(The White)はリード・シンガーをつとめる娘のシャロン・ホワイツを中心とした家族チームである。妹のシェリー(ベース/1955年生まれ)と父のバック(1930年)の3人組でスタート。シャロンは1953年、テキサス州アビリーンの生まれで、63歳。1970年代の初めにナッシュヴィルに出たとき、ドブロ奏者のジェリー・ダグラスからその才能を注目された。「彼女の若くて(17歳ぐらいか?)まだ手あかのついていない素朴な美しいハーモニーが素晴らしかった」(ダグラス談)。
●その後、シャロンはエピックに在籍して、コンビを組んだリッキー・スキャッグス(”Love Can’t Ever Get Better Than This”のヒット)と知り合い、1981年に結婚した。”Love Can’t.”によりその年のCMA ヴォーカル・デュオ賞を得た。
●この娘にして父親のバックは、なんと1940〜50年代のあのブルースカイ・ボーイズのスタイルが大好きであった。妻のパットとアーカンソーに移り、The Down Home Folksなるバンドを作ってローカルのダンスホールを回った。この時代にブルーグラスのアルバムを出している。1973年、妻のパットが引退した後、エミルー・ハリスのアルバム”Blue Kentucky Girl”(ロレッタ・リン)の録音に参加した。そしてこの年、現在の「ザ・ホワイツ」を結成した。
家族チームとしてのオープリー・デビューは2007年だが、バック個人としてはかってピアノ奏者として、ハンク・スノウ、アーネスト・タブのバックをステージでつとめたことがあると言う。
●スキャッグス・ファミリー・レコードから出したアルバム”A Lifetime In the Making”には、ダグラスがバックとプロデュースに参加している。「私たちのグループはいつもトラディショナル・カントリーとブルーグラスの間を常にさまよっているように思える」(眼鏡をかけたシャロン)。これまで録音してきたレパートリー(“Send Me the Pillow That You Dream On”, ”Pins and Needle”など)を見ると、その通りである。ゴスペル、カントリー、楽器もドブロ、フィドル、マンドリン、曲に合わせてピアノも取り入れている。アコースティツクのブルーグラスが全米に突風のように吹いた映画”O Brother, Where Art Thou ”のサントラ(”Keep On the Sunny Side”)にも出演していた。今回はアメリカでのこのジャンルの奥行きの深さを、再認識させられた。
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2016/10/27
東京ヘイライド(235) 真保 孝 |
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●ランディ・トラヴィスが今年の殿堂入りをした。まだ57歳で年齢的には大分早いと思うが、大病をした後だけにCMAもそれを考慮したのかも知れない?
2年前の2013年に突然重度の心臓病で倒れて、6ヶ月間も生死をさまよった。その後も長くきびしい闘病生活を送っていた。危篤状態まで行き、快復は遅々として進まなかった。ドクターはほとんど見込みの薄いことを家族に洩らした。その中を献身的な介護をしてくれたのは、2度目の妻のメリー・ディヴィスだった。
●10月、殿堂授賞式に現れたトラヴィスは車椅子で出席。ステージへの階段を自力でゆっくりと登った。背丈より長い杖?につかまりながらタニア・タッカーにエスコートされてステージに立った。挨拶は少しためらいがちながらも、硬質のあのカントリー・ヴォイスで語る言葉はよく響いた。
●今年の受賞者にはチャーリー・ダニエルス(79歳)、フレッド・フォスター(85歳)も入った。小柄で57歳のトラヴィスはダニエルスの肩までの背丈だった。CMAのデレクターによると、今年の選考については、委員の誰からも不正な(政治的な)指摘も反対も特に異論はなかったと言う。
●トラヴィスは1981年、22歳の時ナッシュヴィルに音楽の成功を目指してやってきた。それまでは学校を中退して、兄弟でバンドを組み、数々の軽犯罪を繰り返し、荒れた生活を送っていた。勿論、ナッシュヴィルでは簡単に成功にはつながらず、ライマン近くの店のキッチンで働いた。以前から面倒を見てくれていたここのオーナーが、コックのかたわら、歌手としても認めて歌わせてくれた。オーナーの紹介で1984年、ワーナーのディレクターが目をつけてくれた。彼女(ディレクター)はトラヴィスが父や兄の影響で、ハンク・ウィリアムスやレフティ・フリゼルに憧れていたので、正統派のトラディショナルなスタイルを選ばせた。名前もRandy RayからTravisに変えた。
●この路線は当時のナッシュヴィルに、丁度欠けていた。デビュー・アルバム”Storms of Life “は発売最初の年だけで、100万枚売れた。バリトン・ヴォイスで歌ったこれまでの50数枚のシングルのうち、16曲が第1位にランクされた。狙い通り人気は急上昇した。
●「ツアー先でドアを開けると、若い男女で外は溢れていた。彼(トラヴィス)の歌はいつもストレートに観客に反応していたから。ヒットの”On The Other Hand”(1985年)を歌うためにゆっくりと大股でステージに上がった。彼が歌い始めると、女性たちは金切り声を上げてキャーキャーと叫んだ。それはエルヴィス・プレスリーのようであった」(アラン・ジャクソン)。
●1987年、”Forever And Ever, Amen”(22週間、第1位)で遂にグラミー賞、CMAシングル・オブ・ジ・イヤーを受賞した。授賞式で栄誉のメダルをかけてくれたのは、ガース・ブルックスだった。近況のトラヴィスはテキサスの牧場で妻のディヴィスの助けを借りて、ゆっくりとリハビリに励んでいる。昨年はカウボーイ・スタジアムに現れ、7万人のスタンディング・オベーションを受けたという。
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2016/11/13
東京ヘイライド(236) 真保 孝 |
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●先頃の東京都JR渋谷駅前のスクランブル交差点、ハロウィーンとやらで狂喜の人出と熱気。そこでふと、考えた。この活力、例えば選挙の投票に回せないものか?石原都知事の途中辞職に始まった都知事選、相次ぐ不祥事の連続で都民は莫大な税金を失った。1回の選挙で費用が約45億円かかるという。3人でしめて135億円。この費用、子供と老人対策にまわしたら?これがこれまでのあなた任せで、政治に無関心な人々の結果だった。都民のひとりとして恥ずかしい。幸い私はこの3人の誰にも投票していなかった。折からの富山市市民を笑えない。
●さて、ハロウィーン、私はその由来を知らないし、知ろうとも思わないが、欧米でキリスト教の行事として昔からあったらしい。2012年7月に96歳で他界したキティ・ウェルズの死因は心臓麻痺だった。夫のジョニー・ライトはすでに2009年に他界していた(97歳)。二人が結婚したのは、1937年10月30日、つまりハロウィーンの前日だった。宗教上の特別なこの日が選ばれたことについて、背景に何かあるのでは?とウェルズは当時疑ったと回想していた。18歳のウェルズは2歳年上の姉さん女房になった。いぶかしく思ったウェルズだがその後、70年以上の幸福な結婚生活を送った。離婚、再婚を繰り返す現在の若手にはとても考えられない。
●70年の歩みを振り返ると、まずファミリー・チームとしてローカル・ラジオに、チームを組みジョニー・アンド・ジャックとして出発した。1948年のルイジアナ・ヘイライドにメジャー・デビューしたが、”Poison Love”(1951年、第4位、17週間)のヒットによりオープリーより声がかかった。ウェルズの本名はEllen Murial Deasonだったが、夫のライトは読みにくいと、古いフォークソング”Sweet Kitty Wells”からKitty Wellsをとりステージ・ネームとした。
●歌手は男性にかぎるとの固定観念からも、チャンスはなかなか回ってこなかった。RCAでの録音曲はセイクレッド・ソングばかりだった。1952年デッカと契約した。ここで吹き込んだ”It’ Wasn’t God Who Made Honky Tonk -Angels”が大ヒットした。これはジェイ・ミラーが書いたハンク・トンプソンのヒット”The Wild Side of Life”のアンサー・ソングとしてで、ご存じの通り。今日、17〜8歳で人気スターになる女性歌手に比べて、この時なんと33歳の年齢だった。彼女の人気により、カントリーの世界にようやく女性歌手の地位が生まれたのである。それまではバック・コーラスの一員としてしか認められていなかった。夫君であるジョニー・アンド・ジャックがウェルズをソロ歌手としてツアーに加えたとき、ロイ・エイカフは宣伝広告の中に名前を入れることは止めた方がいいと、アドヴァイスしたという。ヒラリー・クリントンが大統領選挙で負けて、ガラスの天井が破れなかった(女性の地位向上)と悔しがった。ウェルズは64年前にすでに打ち破っていた。
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2016/11/23
東京ヘイライド(237) 真保 孝 |
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●米国、大西洋沿岸にあるノース・カロライナ州は性格の異なる3つの地域から成っている。東西にのびた州で、西から貧しいアパラチアン山岳地帯、中間の平坦なピードモント台地、そして湿度のある海岸平野である。州名の由来は英国王チャールズ1世が自分の名前をラテン名のカロルスにちなんでカロライナと命名し、南北に分割されたときに、北の部分がノース・カロライナとなった。主産業は煙草で、ウィンストン・セーラムの本社がある。商品のキャメルは有名だが、アメリカン・タバコ社はラッキー・ストライクを作っている。
●ノース・カロライナ州の州都はローリー(Raleigh)だが、シャーロットの方が知名度も高く、人口も多い。創立当初のブルーグラスのIBMAがあったのはケンタッキー州のオーエンズボロだったが、現在ナッシュヴィルに移動した。今回のグリーンズボロはノース・カロライナ州にあり、間違いやすい。ブルー・リッジ、グレート・スモーキー山脈などに囲まれ、多くのミュジシャンを輩出している。例えば、ドン・ギブソン、アール・スクラッグスが有名だ。今回のトランプvs クリントン、大統領選でも15人の投票選挙人を有して、彼らは共和党のトランプに投票した。
●話題を変えて、実は昨年(2015年)の暮れから、にわかに国産のヒコーキ生産が話題にのぼっている。実は私はこれにとても興味を持っている。去る2月12日の夕方、NHK総合テレビは「大空へ航空機エンジン開発」を放映した。内容は約30年間にわたるホンダの技術者達の空への結晶だった。一方、三菱航空機では、国産ジェット旅客機MRJの試験飛行に成功していた。しかしその後何回も、何回も納入時期の延期を繰り返して、国際的信用を落として現在に至っている。ホンダはビジネス・ジェットが米国での権威ある「型式証明」が取得されて、世界販売の道が開けた。ホンダは創業者の本田宗一郎が航空機事業への参加を表明した1962年から、半世紀をかけて実現した。
パイロットを含めて7人乗り、ジェット機としてはもっとも小型機である。燃費効率もよく、デザインもいかにもホンダらしいと好評で、早くも100機の受注が集まった。
●ホンダが最大市場の米国で、製造・サービスの拠点とするために選んだ土地が、このブルーグラス、オールド・タイムが盛んなこのノース・カロライナ州のグリーンズボロだ。ここで地元1400人の従業員を雇用し、年間110機の製造体制を整える。現在、この小型機の世界での需要は年間で800〜1000機ぐらいあり、米国とブラジルが圧倒的なシェアを握っている。ホンダは当面、15パーセントを目指す。ホンダとソニーは日本が生んだ国際的に成功した企業だ。ホンダが何故生産の地をノース・カロライナに選んだかは判らない。ちなみにホンダは昔、テレビのCMソングに”Together Again”を選んだことがあった。ホンダと同じ頃、日本が世界に売り出したソニーは、その後失敗の紆余曲折があり、元気がないが早く取り戻して欲しい。
●今朝(11月13日)の新聞によると、ホンダはジェット機を月産2〜3機から6〜7機に増やして年間80機体制にするという。欧米ではすでに100機以上の受注があり、これまで約20機を顧客に引き渡したと報道した。戦後焼け野原で、自転車にバタバタエンジンを取り付けたバイクから出発したホンダを応援したい。日本のブルーグラスの普及も、米兵が帰国に際して処分した古レコードから芽を出し、同じような足跡で今日に至った。
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2016/12/01
東京ヘイライド(238) 真保 孝 |
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● 「東京ヘイライド」(238)。 真保 孝
●「フレッド・ローズを偲ぶ」。かって、ナッシュヴィルで「ソング・ドクター」(Song Doctor)と、愛情を込めて呼ばれた人物がいた。名曲を作り、ハンク・ウィリアムスを陰から助け、初めてカントリー音楽専門の楽譜出版社を設立したフレッド・ローズである。今日12月1日は62年前(1954年12月1日、ナッシュヴィルで57歳)に亡くなったローズの命日である。
●ローズのプロ音楽家としての道はピアノから始まった。ピアノ弾きを目指して、1917年、19歳の時に大都会シカゴに出た。ポール・ホワイトマンのジャズ・オーケストラに籍を置いたこともあった。インディアナ州で生まれて(両親はすぐに離婚)、ナッシュヴィルに出た。WSM局で「Rose’s Song Shop」という番組を持った。折からカントリー音楽の隆盛が始まった頃だった。歌うカウボーイことジーン・オートリーが人気をあげてきた。ローズは次々にオートリーの曲を作って提供した。”Be Honest With Me” ”Tears on my Pillow” など。映画に使用された曲もあり、知名度も広がった。ウィリー・ネルソンを世に出したリバイバルの名作 Blue Eyes Crying in the Rain”もローズの作品だ。
●ロイ・エイカフ、ルーヴィン・ブラザース、レッド・ソヴァインなど、数多くの歌手を成功させた。まだ無名だったハンク・ウィリアムスがオードリーとローズのオーデション受けに、はるばるナッシュヴィルにやってきた。最近封切られた映画「アイ・ソー・ザ・ライト」でも出てきた?シーンだ。才能を見いだしたローズは、その後も長く公私にわたって面倒を見た。ヒットしたウィリアムスの曲の多くに、ローズの指導(手直し)が入っている。
●1942年、エイカフと共同で、かねて念願のAcuff-Rose 音楽楽譜出版社を設立した。ウィリアムスを中心にここから作曲家、有名歌手のヒットが生まれた。ナッシュヴィルが ”Music City USA” と呼ばれるようになった理由のひとつでもある。日本の新興楽譜出版社(シンコー)はここと契約しており、今もそうだと思う。ウィリアムのヒット・ソング集が出版された。息子のウェズリー・ローズが同社専属のドン・ギブソンのキャンペーンで訪日したことがあった。音楽産業(ビジネス)は表面的には、ミーハー的に?人気歌手だけに眼が映りがちだが、裏で多くの人たちのバック・アップがあってこそである。
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2016/12/16
東京ヘイライド(239) 真保 孝 |
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●鉛筆の時代。
全米各地を放浪して歩いたウディ・ガスリーは、その旅先でいつも感じたこと、体験したことを短い鉛筆(クレヨン?)で書き取っていたと言う。のちに大衆に愛された彼の遺曲はそれが元になっていた。ジョニィ・キャッシュの最初の妻ヴィヴィアンは、キャッシュが食事に入ったレストランで、頭に浮かんだ曲のヒントをすぐに手元の紙のナプキンに鉛筆で書き留めていた。彼はいつも頭から新しい曲への着想が離れていなかった、と書いていた(彼女の自叙伝)。キャッシュに限らず、音楽に携わる人は皆同じである。
●ニュースによると、ノーベル文学賞に選ばれたボブ・ディラン自筆の歌詞が12月10日ニューヨークで発見された。半世紀前の「風に吹かれて」「自由の鐘」はいずれもホテルの便箋に丁寧な筆記体で、何回も推敲を重ねられて、鉛筆で書かれていたという。この後、ディランはタイプライターで打つようになるが、やがて再び手書きに戻った。確認された年は1962年と記録されていた。詞を綴る推敲の過程で、師と仰ぐガスリー同様の手書きの感触に感化されたのか?これらの下書きはサザビーのオークションにかけられた。予定落札価格は約3400〜5700万円。(新聞報道による)。
●ピィ・ウィ・キングとレッド・スチュアートはテキサスの巡業からテネシーに帰る途中の自動車のラジオで、ビル・モンローの「Kentucky Waltz」を聴いていた。「ケンタッキー州にワルツ曲があるのに、どうしてオープリーのあるテネシーにはないんだろう?」(スチュアート)。この会話から生まれた州名のワルツ曲の着想を、手元のあった古いマッチ箱に鉛筆で書いた。これからあの大ヒット「テネシーワルツ」が生まれた(ピ・ウィ・キング)と言う。
●現在、ボールペンに押されている筆記用具の鉛筆は、この時代、万年筆と共に日常的に大切な用具だった。このように文字で書き留めるという行為(記録)は、すぐに忘れる人間の記憶力を助けてくれる有力な武器である。
2001年にハンクの評論家、コーリン・エスコットほかが、まとめたハンク・ウィリアムスの写真集(ピクチャー・ブック)には数々のヒット曲の鉛筆による下書きが載っている。そこにはどの曲も棒線が引かれたり、新しく文字が挿入されたり、消されたり、何回も書き直されて、ウィリアムスが推敲を重ねた形跡が伺われる。私たちにとっては貴重な資料である。
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