2015/04/14
東京ヘイライド(193) 真保 孝 |
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●アーネスト・タブ・レコード・ショップ(1)。
管理人さんからの連絡で、タブのレコード店が幕を閉じるうわさがあると聞いた。本当なら寂しい。今では海外から自由にメール・オーダーで買うことが出来るが、サービスのよいネット(アマゾンなど)で買う人が多い。シンシナティにあったジミー・スキナー・ミュージック・センターと共に日本でもお馴染みの老舗だった。
●終戦後、国の規制で個人では外貨(ドル)が使えなかったとき、駐留軍の兵士が売り出した古雑誌の広告で、新譜案内を見るだけの羨望の時代が続いた。輸入業者を通して買うと、30センチLPが2500円した。月給が12000〜3000円ぐらいの時だ。到着するまで1ヶ月から1ヶ月半もかかった。当時為替は固定で1ドル、360円もした。古いファンなら、シュワンのカタログも覚えているだろう。毎月の新譜は冊子のセンターページ(色つき)に載っていたが、ただ読むだけだった。
●タブがレコード・ショップをナッシュヴィルに開店したのは、1947年9月だった。以来68年間、世界中のカントリー音楽ファンからの利用に応えてきた。戦後は70年であるから、その歴史の長さが分かる。海外旅行が自由化されて、ナッシュヴィルを訪れた人は、みなブロードウェイ通りにあるお店のギター型看板の下で記念写真を撮った。店内に置いてある無料の総合カタログが何よりの日本へのお土産になった。
●ヘイライドの「シーズン5」(5年目)を始めます。根気、記憶力はますます衰えていますが、おつき合いください。内容は時に「切り抜きカントリー倶楽部」と重複する記事もありますが、ご了承ください。
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2015/04/21
東京ヘイライド(194) 真保 孝 |
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●アーネスト・タブ・レコード・ショップ(2)。
実はタブの店は始めから今の場所にあったわけではなかった。720 Commerce Streetで開店したが、オープリーのライマン公会堂に近い現在の場所のほうが、客のためにも商売にも便利で移転した。さらにオープリー終演後の客寄せにライブ「Midnight Jamboree」も開催した。巡業ツアーは過酷な年間300日、200万マイル、バス「Green Hornet」は乗りつぶして2台目「Green Hornet No.2」を購入するほどだった。
●1951年8月に現在の場所ブロードウェイ通りに移転した。開店(1947年)をしたタブは、3年前に「Try me One More Time」(第2位)でデビューして、「It’s Been So long darling」「Rainbow At midnight」(いずれも第1位)のヒットを続けて知名度は上がっていた。ラジオの出演だけでなく、各地をツアーでまわった。その体験から、開店の理由を次のように語っていた(自叙伝から)。
●「巡業先のどこでも、観客から聞かれた。どこへ行けばビル・モンローのレコードは買えるんだ?ロイ・エイカフのは?お前のレコードは買えるんだい?と」(タブ)。「私の父はお金儲けのために店を開いたのではなかった。地方のフアン達の便利のためにだった」(タブの息子、ジャスティン)。
●開店にはタブの妻やマネジャーもアイディアの点で協力してくれた。「万一、失敗したら花屋にでも転向するつもりだった」(妻のElaine)。開店時にタブの名前を付けることが決まった。地方のフアンのためにメール・オーダーの制度も取り入れた。当時、通信販売が社会的にまだ信用できる状態でなかったが、タブの名前を付けることで信用度が増した。(この項続く)。
●関係者の話では、このホーム・ペイジも開設以来、10年を迎えるという。毎日、毎週、継続することは容易ではない。挫折するケースが多い。一番怖いのはマンネリになることだ。カントリーを好きな人でも、考えや好みは同じではない。蒐集してレコードを楽しむ人、ライブでなければ厭な人、歌って楽器を弾くのが好きな人、さまざまである。管理人はそれらをまとめて運営してゆく。ご苦労さん。
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2015/04/27
東京ヘイライド(195) 真保 孝 |
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●アーネスト・タブ・レコード・ショップ(3)。
人気上昇のタブの名前を冠した通信販売による広告の効果は絶大で、営業成績はよかった。広告によりファン達は、まだ知らなかった多くの歌手達の存在を知った。「私は今までテックス・リッターやジョニィ・ボンドの名前を知らなかった。タブの広告がその溝を埋めてくれた」(一フアンの声)。アメリカは広い。南部では有名でも、西海岸では曲を聴いたことのない未知の歌手が多くいた。
●タブのレコード・ショップの成功を見て、他の多くの歌手達も自分の名前を付けた店を出すことが各地で流行った。E.アーノルド(テネシー)、ジミー・スキナー(シンシナティ)、クライド・ムーディ(ワシントン)、カール・ストーリー(フォートワース)、ピ・ウィ・キング(ルイビル)など。しかしそれらはブームに乗った一時的な開店に終わり、後まで長く営業を続けたのはタブとスキナーの店だけだった。
●「本ヘイライド」初登場のスキナー(1909~79年)は味のあるすぐれた歌手、作曲家であったが、ビジネス・マンとしても優れていた。ケンタッキー州生まれで、故ジミー・ロジャースに私淑した。ホンキートンクが出る前のヒルビリーの時代、彼はブルーグラスもよくした。商売上手で多くの人の目につく、シンイナティ市内のグレイハウンドバス発着所の近くに店「Jimmie Skinner Music Center」を構えた。タブ店同様にライブ・ショウ、ラジオの番組も持った。以後20年余、営業は続いた。タブの店に対抗できたのはここだけで、米国内だけでなく広く海外からの注文も多く、日本からもあったという。
●終わりに、タブの店が終始順調に終始したわけではなかった。思わぬ障害に見舞われたこともあった。そのひとつ。開店当時のレコードはSPレコード(78回転盤)で、かなりの重量と大きさがあった。梱包の技術も未熟で、輸送中に破損するケースが続出した。数量にして約40パーセントは無事に届くことがなかったと言う。この問題を解決したのは、割れにくい45回転盤(EP盤)の登場であった。
●さて、タイミングよくこの4月26日(1941)は、タブの大ヒット曲「Walking The Floor Over You 」がオリジナル録音された日でもある。またタブの名曲「Let’s Say Goodbye (Like We Said Hello)」(1946)はスキナーとの合作である。なんとも粋なタイトルではありませんか。
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2015/05/06
東京ヘイライド(196) 真保 孝 |
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●先頃、訪米した安倍首相は、アメリカ議会上下院合同会議の演説の中で、最後の章「未来への希望」(Hope for the future)で次のようなことを語っていた。
●「まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました」。続く説明は、落ち込んだとき、困ったとき、・・・目を閉じて、私を思って、私は行く。あなたのもとに、たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために・・・と言う内容だった。これが首相のその後の政治行動のひとつの姿勢になったらしい。安倍首相が聴いた曲がキングの何という題名か分からないが、キングは60年代のポップ・シーンに多くの影響を与えていた。首相が当時カントリー音楽を聴いたとは思えないが・・・?。
●ひるがえって、我等のジョージ・ストレートもキングの歌に深い感銘を受けていた。高校在学中に友人とよくノックスヴィルのシビック・オーデトリアム(市営公会堂)にマール・ハガードなどのカントリーのライブを観に行っていた。ある週末、キャロル・キングやジェームス・テイラーなどがやってきた。「My God, listen to these melodies!」(ストレートの感動)。ストレートはこの時、今につながる多くのメロディを彼らの曲から習ったと語っていた。
●「ポップスやロックン・ロールも好きだ。だが騒々しいだけなのは、いやだった。涙や感動を伝えるキングやテイラーの歌には何か得るものがあった」。あのとき聴いた記憶は、その後のストレートのヒット曲「The Chair」や「Marina Del Rey」のなかに生かされたと、語った。いい曲はジャンルを問わずに、何処かでつながっている。
●先のタブの閉店、近着の「切り抜きカントリー倶楽部」紙によると閉店はオン・ライン・ショップだけで、店頭では継続しているとのこと。ひと安心だ。
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2015/05/13
東京ヘイライド(197) 真保 孝 |
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●ジョージ・ストレイトのラスト・コンサート。
2010年11月、人気絶頂のG・ストレイトは人気の「The Cowboy Rides Away Tour」を2014年に止めると宣言した。当然、撤回を求める声が全米各地から出たが、彼の意志は固かった。愛着のあるツアーの名前は、彼の悲しいメロディの中で男を失恋させた女の話の「Cowboy Rides Away」(1985年)に由来している。「長い間歌わないで仕舞っておいた曲だったが、招かれてキャンプディビッドにてジョージ・ブッシュ元大統領のコンサートで久しぶりに歌ったのを機会に歌い始めた」(ストレイト)。
●「私は他の歌手のように華々しくラスヴェガスなどでライブをやる気持ちはない。『Cowboy Rides Away』は長年続けてきた愛着のあるツアーだが、止めることにした。現役を引退をする気はないが、孫も生まれて一緒に過ごす時間や、親しい仲間達と釣りに行ったり、ゴルフを楽しむ時間を作りたいから」(ストレイト)。作曲家として目をかけている長男に2011年9月孫が誕生している。
●約2時間にわたったツアーのラスト・コンサートは2014年6月、テキサスのアーリントンにある室内AT&Tスタジアムで、観衆約105,000人を前に開かれた。この集客数は1981年に行われた同スタジアムでのローリング・ストンの記録(8,800人)を破った。
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2015/05/22
東京ヘイライド(198) 真保 孝 |
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●カントリー音楽の文化遺産。先頃、明治時代の日本の産業革命遺産を、ユネスコの諮問機関「イコモス」が最高レベルの評価があるから登録せよと、勧告してきたと、新聞各紙が報じた。
●ブリストルは、ヴァージニア州とテネシー州にまたがる町。市内メインストリートの中央のラインが州境となっている珍しい双子のシティだ。まぎれもなく、ここはナッシュヴィルのライマン公会堂とともにカントリー音楽の歴史的な重要な遺産である。1998年、米国連邦議会はこの地を「カントリー音楽発祥の地(BCM)」(Birthplace of Country Music)と承認にした。
●1927年の夏から秋にかけて、この町をビクター・レコードのラルフ・ピアーが訪れて滞在した。ピアーが広い米国各地の中から同地を選んだのは、南部に移民してきた人々の間に、隠れた素晴らしい曲があることを知らされたからだ。折から発明王のエジソンがトーキング・マシン(蓄音機)を発明して、この分野の今後の需要が期待されていた。ピアーは録音機を持ち込んで、市内の古い工場の中に臨時のスタジオを造って今に残るジミー・ロジャース、カーター・ファミリーの数々の名曲を録音した。
●1892年に礼拝堂として建てられたライマン公会堂は1943年にお馴染みのグランド・オール・オープリーの演奏会場になった。その後、テーマ・パーク「オープリー・ランド」に会場は変わったが、94年再び演奏会場と博物館として再開、今日に至っている。ここも2001年、アメリカ合衆国国定歴史建物として認定された。
●最後に、1950年、サム・フィリップスによって造られたメンフィスにあるサン・スタジオ。多くの有名なロックン・ローラーがここから生まれたことは周知のこと。このスタジオも2003年7月にアメリカ合衆国国定歴史建物として認定されている。
●後記。ここからは前回(197回)の続き。ストレイトの最終ツアー・コンサートの記事を読まれた友人から、以下の情報を頂いた。このコンサートの実況盤(DVD,CD)が発売され、米国内だけの発売でウォール・マートの独占契約である。誠に残念であるが日本では購入できない。いずれ購入可能になる日が来るかも知れない。私は幸運に観ることが出来たので、その一端を参考までにお知らせする。
●まずアリーナ一杯に埋め尽くされた10万5千人という大観衆に驚かされる。スーパー・ボールの試合会場で、通常収容人員は8万人だが、立ち見席を入れると11100人まで可能という。
会場の圧倒的な熱気が直に伝わってくる。怒濤のような歓声に包まれて、黒いカウボーイ・ハットにラングラーのジーンズ姿のストレイトが花道から登場する。ステージは回転式の円形である。歌い出したストレイトの格好の良さにしびれる。花を添えるゲスト歌手も豪華だ。女性歌手ではマルティナ・マクブライドが出色で、息のあった掛け合いで「Jackson」「Golden Ring」を歌った。少し太り気味のヴィンス・ギルとは「The Love Bug」を、アラン・ジャクソンとは「Murder On Music Row」を歌った。このふたりは大男だ。特にジャクソンの背丈は高く、並ぶとストレイトは首ぐらいしかなく小柄だ。だが、伸びのある声量、ツボを得た歌い回し、まさにカントリー・フィーリングで魅了してくれる。そのカリスマ性は凄い。合計約3時間のコンサートだが、見応えがあった。この興奮の臨場感を文字では伝えられないのが、残念。
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2015/06/02
東京ヘイライド(199) 真保 孝 |
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●「97年型の大破」。全米鉄道旅客公社(アムトラック)の列車脱線事故(5月13日、新聞各紙)が起きた。ペンシルベニア州フィラデルフィア市、制限時速80キロのカーブで、最高速度170キロで走行して脱線したと言う大きなニュース。多くの死傷者が出た。
●カントリー音楽で有名な列車事故の曲には、「The Wreck Of The Old 97」がある。元歌は作者不明であったが、歌い継がれる間に、改作(歌詞)が重ねられていった。この列車は1903年、ワシントンDCとジョージア州アトランタの間を走る米政府国有の郵便用列車として開通した。
●時代は物騒な西部開拓時代で、それまでの駅馬車と競合していたとも推察されるが、正確に早く配達されると人気も上々であった。サザン鉄道会社のドル箱として、1年間に15,000ドルを稼ぎ出した。列車はその後工場で大修理されて、出没する列車強盗など物騒な時代を乗り越えたが、1935年にスクラップされたと言う。
●大事故が起きた時、列車はヴァージニア州モンローを通過した時点で、予定の時刻を1時間ほど遅れていた。機関手はその遅れを取り戻そうと、規定よりもスピードを上げたが、これは誰にも出来ない無理な仕事であった。運悪く折しも列車は下りのカーブを走っていた。しかもその先に川にかかった木製の陸橋が待っていて、大惨事となった。
●事故はすぐに格好の歌(トピカル・ソング)の題材となった。タイトルの「Wreck」は船の難破事故を意味する。これはこの曲のオリジナルが、「The Ship That Never Return」と言う古謡であったことから、船を列車に読み替えて作られ、歌われたことからと、考えられる。
●人気の曲だけに実に多数の歌手によって歌われているが、個人的にはハンク・スノウ盤が好きだ。何回聴いても飽きがこない。開拓時代から「アイアン・ホース」(鉄の馬)と言われた列車についての曲は「Wabash Cannon Ball」「Night Train To Memphis」「Waiting For A Train」など実に多い。どの曲も在りし日の躍動感と懐かしい蒸気機関車の姿を彷彿とさせてくれる。
●折しも近日、米メリーランド州知事が来日して、山梨リニア中央新幹線(JR東海)に試乗するとの明るいニュースがある。もし採用・契約されれば、東部のワシントンとメリーランド州ボルティモア間60キロが約20分で結ばれる。将来はテキサスにも採用されるとの話もある。
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2015/06/12
東京ヘイライド(200) 真保 孝 |
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●ジーン・リッチの他界。
訃報を聞かされて、早速、年齢を調べた。92歳の高齢だった。カントリーのフアンには影の薄い存在のように思われるが、底辺でエミルー・ハリス、リンダ・ロンシュタット、キャシー・マティア、ドグ・ワトソン、マール・ハガードなど、多くの歌手に影響を与えてきた。ケンタッキー州の生家は18世紀から6代続くスコットランド、アイリッシュ系の血が流れていた。フォーク・ブームでは、社会派のジョン・バエズのように陽の当たる場にこそ出なかったが、玄人筋には強い人気を持った実力派歌手だった。
●主として少女時代に習い覚えた3弦のアパラチアン・ダルシマーを弾いて(ギター、オートハープも)、各地のフォーク・フェステバルで歌った。少女時代に「いつも玄関先の階段で、曲を選んで夕方まで歌っていた」(リッチ)。故郷を出たとき約300曲に近いトラディショナル・バラードを覚えていた。ソプラノで透明な声は、赤毛に飾らない質素な服装によくマッチした。カーネギー・ホール、ニュー・ポート、ロイヤル・アルバート・ホール(ロンドン)などでも演奏した。
●州立の大学を卒業してニューヨークに出た。ここでアラン・ロマックスと出会い、そのサークルに入ったことが、ピート・シーガー、ウディ・ガスリーなどと交際の幅を広げた。ここで結婚の相手を見つけ、夫が他界後、生まれ故郷のケンタッキーに戻り、晩年を過ごした。数年間心臓病を病んでいたが、6月1日(月曜日)に自宅で息を引き取った。
●「フォーク・ソングは、時として人々の注目を浴びるけど、時としてまた忘れ去られる。でも川の流れのように決して止まることはない」(リッチのインタビューから)。ニューヨークに出てからも、遠く故郷のケンタッキーを偲びながらトラディショナル・フォーク・ソングの世界で生きた。ローズマリー・クルーニー、エヴァリー・ブラザースともに2001年にケンタッキーの音楽殿堂入りをした。
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2015/06/20
東京ヘイライド(201) 真保 孝 |
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●ジム・エド・ブラウンの他界。
去る6月11日に、肺ガンで入院中の病院で亡くなった。81歳。約52年間、よく反響する甘いスムーズなバリトンで、数々の心に残るヒット曲を楽しませてくれた。その実績が認められてこの3月に殿堂入りが決まったばかりだった。米国のポップスを越えて国際的なヒットになった「The Three Bells」(1959年)については、以前、このコラムでも取り上げた。最大のヒットはご存じの妹のマキシンとボニーと組んだ「Looking Back To See」(1954年)である。
●息を引き取る1週間前に殿堂入りを伝えるビル・アンダーソンが、メディカル・センターの病室を訪問した。殿堂館内に飾られる肖像画を見せて、記念のメダルを首にかけてあげた。感激のジムを含めて病室にいた全員が喜びの涙を流したと言われる。「殿堂入りの確信はあったけど、嬉しい。私は100パーセント幸せな人生を送ってきたけど、この受賞によってより完全なものになった」(ベッドに横たわるジムの言葉)。
●アーカンソー州生まれで父親は農夫、木こりをしていたが、その後、レストランやナイト・クラブを経営した。ここには売り出し前のエルヴス・プレスリーがよく立ち寄ったらしい。一家は毎週土曜日の夜、ラジオでオープリーの中継を聴いた。ラジオからはロイ・エイカフ、ハンク・ウィリアムス、ビル・モンロー、ハンク・スノウなどの歌声が流れていた。
●1952年、18歳のジムは妹たちとリトル・ロックのラジオ局が主催したコンテストに挑戦して、ハーモニー部門で第2位に入った。1954年にアボット・レコード(マイナー・レーベル)と契約、ここから「Looking Back To See」(第8位、15週間)を出した。翌年55年、メジャーなRCAに入社し、チェット・アトキンスからは特に可愛がられた。
●しかし鳴かず飛ばずが続いたとき、学生時代から聴いてきた古いシャンソンが原曲の「The Three Bells」を思い出してレコーデイングを申し出た。「いいかい、もしこの曲が当たらなかったら、君たちは引退だよ」(アトキンスの最後勧告)。結果は彼らの最大の武器、ハーモニーを生かし、「ボン、ボン、ボン」を加えた効果的なアトキンスの絶妙なアレンジもあり、大成功に終わった。谷間の村に響いたこの「スリー・ベルス」の最後の鐘はお葬式の知らせだった。
●1967年、妹たちは家庭生活に戻って、ジムひとりがソロで活躍を続けた。その中にはヘレン・コーネリアスとのデュオもあった。1965年10月、アトキンス、ロックリン、スキーター・ディビスとザ・ブラウンズとして来日していた。
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2015/07/01
東京ヘイライド(202) 真保 孝 |
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●「雨のケンタッキー」 (Kentucky Rain)。
東北地方が梅雨入りして、全国的なシーズンになった。雨の曲はたくさんにあるが、今回はそのうちの1曲を。
●1968年の秋頃、ラマー・ファイク は気にかかる曲のデモ・テープを耳にした。ファイクはエルヴィス・プレスリーと会って以来の心の許す親友になったが、ヒル・アンド・レンジ音楽出版社にも勤めていた。1957年まで交友が続いた仲で、ツアーも共にしていた。ファイクが聴いたデモ曲の作者は、エディ・ラビットと名乗る当時まだ無名に近い若者だった。(曲はデイック・ヒアードとの合作)。
●ちょうどその頃、プレスリーは次のシングル盤A面収録の曲(B面は「My Little Friend」)を探していた。ファイクはラビットにしばらく連絡を待つようにと伝えた。思わぬ大物からの連絡にラビットは、一日千秋の思いで待ったが、数ヶ月後にやっと具体化した。「プレスリーとの採用が決まったとき、嬉しくて、気絶するようだった。曲がヒットしたとき、私自身でも歌えばよかったと、少し後悔もした」(ラビット)。
●明けて1969年1月13日の夕方はとても寒い日で、アメリカン・サウンド・スタジオのチップス・モーマンは、この日収録の「Kentucky Rain」のバック・ミュージシャン達(ピアノはロニー・ミルサップ?)の来るのを待ちかねていた。「7日間の寂しい日々、いくつかの街で君を捜しながら過ごした。あの夜、手を伸ばせばそばにいた君はもういない。君が何故去ったのか判らない。写真を見せて歩き尋ね続けた靴には雨水がしみ込んできた」(要約)。プレスリーはいつものロック調の激しさはなく、静かに熱情的な歌い方で、曲の情感を盛り上げて見事だった。カントリー・フアンには彼にスロー・バラードを好む人が多いと聞く。何故かこのレコードは翌年(1970年)まで発売されなかったが、2月にリリース、31位までランクされた。
●常勝のプレスリーとしては物足りない順位だったが、その後はこの曲を好んで歌い、ラビットの才能も高く評価して、死後の彼の「ベスト・コレクション・ボックス」にも収録された。プレスリーのお陰でラビットもソング・ライター業界でトップに躍り出た。
●プレスリーの方も磨きをかけて、1970年のラスベガスのステージでの歌唱はレコードよりも出来がよいと評価された。生前ふたりは1回だけ会っていたが、それは多分このステージの楽屋裏でと思われる。「彼(プレスリー)はステージで全力熱演のせいか、とても疲れていた。話す時間も短かったが、楽しいひとときだった」(ラビット)。
●彼(ラビット)がナッシュヴィルにやってきたのは、1960年代の初め頃である。就職先がなく、トラックの運転手、ジュース・スタンド、果樹園勤めなどを経験した。やっと見つけた出版社「ヒル・アンド・レンジ」でのサラリーは週給37ドルだった。大きな成功をつかんだが、1997年に見つかった肺ガンで98年5月、56歳の若さで、ナッシュヴィルで息を引き取った。
●修正。第201回で、マキシンとボニーを妹と書きましたが、マキシンは1932年生まれで現在83歳(姉)、ボニーは37年生まれで現時77歳(妹)で、まだ元気のようです。
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2015/07/14
東京ヘイライド(203) 真保 孝 |
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●「米国で同性婚を承認」。
米国のすべての州で、同性婚が認められるか、どうかが争われてきた訴訟で、連邦最高裁は去る6月26日、「結婚の権利」があると判決した。これにより同性カップルが結婚する権利が法の下で認め得られた。(新聞各紙)。
●同法をうけて、14州では解禁され、テキサス州では早くも80代のふたりが祝福を受けて婚姻届を提出した、と報道された。国内では、渋谷区がこの条例を議会に提出するらしい。
長らくタブー?とされてきたこの問題が、ようやく陽の目を見たことになった。自分がこの立場にあることを明らかにする時に、「come out」(態度や秘密を明らかにする)の言葉がよく使われる。
●記憶が正しければ、一番昔に明らかにした歌手は、k. d. Langだったと思う。カナダ、アルバーター出身の実力女性歌手で、カム・アウトしたのは1992年だった。今日と違いまだ偏見が大きかった頃だから、大変な勇気が必要だった。カレッジでカントリーに夢中になったが、9歳の時すでに同じカナダ出身のアン・マレーに自作曲を送っていた。チャート・デビューはロイ・オービソンとデュエットした「Crying」(1987)でグラミー賞を受けた。パッツイ・クラインの曲を歌ったのが縁で、オーエン・ブラッドリーに認められた。以来派手なヒットはないが、2002年のCMT女性歌手40人に選ばれた。2010年ナッシュヴィルに移住後、13年にオレゴン州のポートランドに住んでいると伝えられる。現在53歳、短髪でボーイシュな顔だちはそれらしさを連想させるが、結婚したというニュースは聞いていない。2013年カナダのカントリー音楽殿堂入り。
●比較的新しくは、シェリー・ライト(45歳)がいる。2010年にソングライターでこの運動活動家との間に噂が出て、彼女自身もそれを認めた。人気雑誌の「ピープル」のインタビューでカム・アウト(ゲイ)した。「なにも秘密にはしていないし、恥じることはなにもしていない。この行為は人々が同意しなくても、我々ふたりが合意すればいいことだ。ただ社会の理解が得られないのは残念だ」(ライト)。
●ライトも人気の高い歌手で、カム・アウトで一時レコードの売り上げは激減したが、その後音楽活動に傷つくことはなく、中堅として歌い続けている。「Single White Female」(1999年、31週間)は第1位にランクされた。
●最後に未確認だが、ケニー・チェズニー(40)について読んだ記憶があるが、噂の限りで真実は解らない。彼は女優のレネー・ゼルウィンガー(39)と結婚したが(2005年)、数ヶ月後に別れた。この時の原因としてゼルウィンガーが洩らしたというのだが、本当か、どうか解らない。チェズニーの今の活躍を見れば疑わしい。
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2015/07/24
東京ヘイライド(204) 真保 孝 |
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●「ハンク佐々木さんを偲ぶ/出会い」。
管理人さんから訃報を知らされた。突然のことで、一瞬言葉が出なかった。あのやさしく人懐こい笑顔が目に浮かぶ。佐々木さんとの交友はそれほど深くなく、長い年月でもなかった。知り合ったのは、佐々木さんが案内するアメリカ旅行に参加したことからだった。遅れて知り合った私は彼の福岡時代の活躍は知らないが、すでに各地に多くのファンを持っていたのを後で知った。参加のメンバーはその大半だった。
●大阪の友人の伊集院博さん(故人)、鈴木経二(管理人)さんも行くというので、佐々木さんの人柄も知らないままに、即決した。別便の飛行機で行き、現地のナッシュヴィルで合流した。たちまち10年来の友のように話が弾み、ナッシュヴィル郊外にある自宅に招かれ、手製の焼きめしをご馳走になった。これは佐々木さん特有の「おもてなし」であったらしく、多くの人たちも世話になっていたようだ。個人的に名物(人気)?のナマズ料理のフルコースも食べに行った。
●10数名のツアーだったが、フォスターゆかりの地、ケンタッキー州バーズタウンに案内されたのが最高の収穫だった。かって駅馬車が停まった歴史的遺産の駅も残っていた。静かで緑豊かな小さな町だが、フォスターは同地の従兄弟を訪問したとき、「ケンタッキーの我が家」を書いたと言われる。記念館も野外劇場もある。佐々木さんはここの野外ステージに出演して「テネシー・ムーン」「アメイジング・グレース」「カウボーイ・フロム・ジャパン」などを歌った。ドライブの途中、「アメリカン・ドリーム」と洒落て宝くじを買ったけど、誰も当たらなかった。夜は広いご自宅の庭で、バーベキュー・パーティが開かれた。
●その後も、帰国するたびに昼の空き時間を利用して(夜はライブ)、JR渋谷駅のハチ公の銅像前で会った。曲作りにも興味を持っていた佐々木さんは常に題材(ヒント)を探していた。本屋で探した詩集(日本語)の本を手にしていたこともあった。
●私たちは日米の架け橋となったひとりのパイオニアーを失ったが、年齢的にも無理が近づいていたように思っていた。意欲的なカウボーイ、佐々木さんは今頃、「From Japan!」と、天国でも曲作りに励んでいるかも知れない。ご冥福を祈りたい。
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2015/08/03
東京ヘイライド(205) 真保 孝 |
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「ハンク佐々木さんを偲ぶ/テネシー・ムーン」
●佐々木さんが生前好んで歌った自作の曲に「Cowboy From Japan」「Tennessee Moon」の2曲があった。どちらもよいが、叙情派の私は「テネシー・ムーン」が好きだった。前回の「出会い」で書いたようにナッシュヴィルに着いた夜、遅い夕食を食べ終わってレストランを出た。ふと夜空を見上げると、ネオンの多い大都会の東京に比べて、ナッシュヴィルの夜空は澄み切っていて、月がとてもきれいだった。
●佐々木さんも日本を離れて、はるか異国の地で月を見て、この曲を作ったのだな・・・と柄になく感傷にふけった。月は人をどうしても感傷的にするから、多くの名曲が生まれた。故ハンク・ウィリアムスに刺激されて佐々木さんが福岡を離れたのは、1990年と聞いていた。覚悟はしていたが、米国での現実は苦しく、思ったように進まない現実に悩みもあつたと思う(勝手な推測)。
●「愛する家族を残してきたものの、テネシーの月に恋をしてしまった私。成功するまでは帰れない」(大意)。作った日の夜、先生をしている奥さんはミシガン州に研修に出かけて留守、佐々木さんはひとり裏庭のベンチにいた。ギターを弾いているうちにメロディが浮かび、次にタイトルが自然に浮かんできた。孤独の中で、夢を求める気持ちが主題になってきた(生前の聞き取りから)。
翌日、音楽仲間のジミー・スマートに聴いて貰った。「ハンク、いいじゃないか」。歌詞の内容を少し直してくれた。曲がまとまったところで、奥さんにも聴かせ感想を聞いた。実はこの「Tennessee Moon」と同名の曲がカウボーイ・コーパスにもあるが、佐々木さんは勿論知らない。
●佐々木さんは処女作「Making My Dream Come True」を日本にいる頃作っていた。カントリー音楽を愛する日本人が本場のナッシュヴィルに乗り込んで歌い上げると言う意欲作である。終戦後、駐留軍の細菌?から少年に伝染したカントリーの逆輸出である。曲を聴いた本場の人々ががどう反応するであろうか?「Cowboy From Japan」は第3作目に当たる。これはオリジナル盤よりも、冒頭にステージでの観客の喝采を加えた再録音盤が臨場感があり、成功している。
●「現地に来て色々と挑戦、試行錯誤を繰り返しましたが、やはり歌手としての限界を感じました。それで作曲の方に力を入れております」(佐々木さん)。「志(こころざし)、半ば」で倒れたのは無念だったと思う。私たちはその功績を忘れてはならない。テネシーの月よ、いつまでも輝け!
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2015/08/12
東京ヘイライド(206) 真保 孝 |
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「第2次世界大戦とカントリー音楽」
●この8月15日は終戦記念日であるが、今年に入ってにわかにマスコミを賑わせている言葉に「戦後70年」がある。皆さんの中で第2次世界大戦を体験して、苦しい戦後を生きた人はもう少数派かも知れない。1941年12月、日本は無謀にも米国を始め、世界の各国と戦いを始めた。この悲惨な戦争は1945年8月まで続いて、無条件降伏の日を迎えた。
●戦時中は「♪肩を並べて兄さんと、今日も学校に行けるのはお国のたに戦死した、兵隊さんのお陰です♪」と「兵隊さんよありがとう」の歌を軍国教育に洗脳された小国民(子供)は歌った。都合の悪いニュースはすべて隠した国の報道姿勢に、今の北朝鮮を笑えない。兵士(国民)の命よりも軍事(国)を優先する発想で、「生きて捕虜になる」ことは恥ずかしいこととされた。
●あれから今年で70年を迎える。「Remember Pearl Harbor 」(真珠湾を忘れるな)はハワイにある真珠湾の海軍基地を宣戦予告なしで奇襲したことを忘れるな!と言うアメリカ人に共通した恨み節だ。戦争中は「黄色い小人」「イエロー・ジャップ」「Evil of Japan」とさげすまれた。
●対戦する日本では、「To hell with Roosevelt! To hell with Babe Ruth! To hell with Roy Acuff!」(くそ食らえ!地獄に堕ちろ!ルーズベルト(時の大統領)、ベーブ・ルース、ロイ・エイカフ)、そして「鬼畜米英」「進め一億、火の玉で」の標語で対抗した。
米国でも時局に合わせて戦機高揚ソングが歌われた。12月8日の真珠湾奇襲攻撃を受けて、フレッド・ローズは2週間後に「Cowards Over Pearl Harbor」を早速作曲した。歌詞は「穏やかな安息日の早朝(ハワイは当日、日曜日だったのか?)、卑劣で臆病者の攻撃によって、憎しみの戦争が始まった・・・」と綴られて、カウボーイ・ソングを得意とするデンバー・ダーリンによって録音された(42年2月)。歌は不気味な戦争が起きて、今後世界はどうなって行くのだろうか?・・と、スローなテンポの中で、不安げに歌われる。ロイ・エイカフも1943年「Cowards Over Pearl Harbor」と「Searching Soldier’s Grave」をレコード化している。レッド・フォーレーも「 There’s Blue Star Shining Bright」(43年)録音していた。
●エイカフは南部のテネシー生まれで、れっきとした保守派である。日本が負けてから3年後の1948年、共和党から州知事に立候補していた。当時彼は「The Waltz of The Wind」「Tennessee Waltz」などヒット出して人気が高かった。エイカフが1974年オープリーのステージに、時の大統領リチャード・ニクソン(共和党)を迎えて、ヨーヨーを披露したシーンは有名だ。この時使用したヨーヨーはその後16,000ドルで落札された。第2次世界大戦で、カントリー歌手の多くが南太平洋の戦地に戦士として送られたことは、彼らのバイオグラフィを読めば分かる。
●しかし敗戦を機会に一転して、こんなに憎み嫌った米国の歌を愛好するようになった我々の気持ちを(自虐的に)、どう理解したらよいのだろう。しかもそれが米国では南部の白人貧民層を主体としたヒルビリー音楽であったことは、説明がつきそうにない。当時の在日駐留軍兵士の大半はカントリーを愛好する南部の出身者であったから、FENは積極的に曲を放送した。
●皮肉なことに、日本での愛好者が裕福な上流階級を主体とした若者達であったこと、有名大学(学習院、慶応、早稲田と言った)で、競ってバンドが結成されたことだ。多くの若者は駐留軍放送を聴いて虜になった。明るく豊かなアメリカの文化に触れて、抑圧された長い閉塞感に満ちた戦時体制からの開放感からかも知れない。そのDNAから今でも逃れられていない。
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2015/08/21
東京ヘイライド(207) 真保 孝 |
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●「リン・アンダーソンの他界」
猛暑が続いた去る8月2日、日本でも各紙朝刊が訃報を伝えた。亡くなった67歳の年齢は長寿時代の現在、まだ若いかも知れない(母のリズは81歳で他界)。ナッシュヴィルの病院で、死因は肺炎とも、心臓麻痺とも伝えられる。先のイタリー巡業中に肺炎にかかっていたらしい。アンダーソンのデビューは歌でなく、6歳の時、ロデオ大会(乗馬)で受賞していた。以来、女性乗馬チャンピオンとして、全米16回、世界8回を受賞してきた。ちなみにリーバ・マッキンタイヤーもロデオ・ライダーの出である。
●1970年の秋、実に久しぶりにカントリーの畑から世界16ヶ国でジャンルを問わずにクロス・オーバーしたヒット曲が出た。これまでカントリー音楽は長い歴史の中で、「Tennessee Waltz」「You Are My Sunshine」「Jambalaya (On the Bayou)」のように垣根を越えた数々のミリオン・セラーを生んできた。今回はアンダーソンを一躍世界的な人気歌手にした「(I’ll Never Promised You a ) Rose Garden」(ローズ・ガーデン)である。この世界では1曲でも当たれば、それを持ち歌として一生暮らせると聞くが世界的であるR&B,ポップスなどすべての分野でミリオン・セラーになった。このあたり前にも書いて重複するが、少し背景を書いて追悼としたい。
●彼女の歌でのチャート・デビューは「Ride, Ride ,Ride」(1966年36位)で、19歳だった。両親は作曲家としても著名で、マール・ハガードの代表作を初め、いい作品を残している。1968年、彼女は敏腕プロデュサーのグレン・サットンと結婚した(1977年離婚)。ある日、買い求めたジョー・サウス(1940~2012)のレコードにこの曲があり、聴いてたちまち虜になった。作者のサウスは南部出身で、1960年代にサザン・ロック・シーンを盛り上げたギターリストであった。どうしても歌いたいと、夫に頼んだがサットンは、これは男の曲だよ、君のスタイルには合わないと、承知しなかった。
●あきらめずに夫に説得を続けて、ついにその日がやってきた。初日、スタジオでうまく行かずに、アレンジをやり直しに一度自宅へ持ち帰った記録がある。翌日、予定していた録音曲のしわ寄せで、割り当てられた時間も残り少なくなった。それでも曲に賭けたアンダーソンはスタッフを激励して無事録音を終了した。
識者はこの曲がヒットした米国の社会的背景として、ベトナムとの戦いで泥沼化して屈折・沈滞していた人々の心に、アンダーソンの明るくびのびとした歌声が受け入れられたのでは?との意見もある。ちなみに美人だった彼女はベトナム戦争中に兵士のセクシー・ピン・ナップガールでもあった。
●たちまちカヴァーはジョニ・マティス、アンディ・ウイリアムスなど多数、発売された。カントリー音楽畑ではk. d. ラング、マルティナ・マクブライド盤(これは最高の出来映え!)がある。訃報を知った友人達の言葉。「彼女のいつも変わらない心使いが忘れられない。きっと天国のローズ・ガーデンで咲いていることでしょう」(ドリー・パートン)。「彼女と今一度、歌いたかった」(マクブライド、2005年彼女はアンダーソンとこの曲をオープリーでデュエットしていた)。「知らせを聞いて、心臓が壊れそう。ローズの歌詞が忘れられない」(ブレンダ・リー)。
●お酒が好きだったらしく、生前、飲酒運転で数回拘留されて、保釈金を払って釈放された。2014年の時はフアンにも謝罪して、ゴスペル・アルバム「Bridges」を出した。好きな乗馬を子供の精神病ホスピス治療にも使用しようと運動していた。
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2015/09/03
東京ヘイライド(208) 真保 孝 |
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9月1日生まれの歌手2人。
●連暑を越えて9月に入った。1日にはボックスカー・ウィリー(1931年、テキサス)コンウェイ・トゥイッテイ(1933年、ミシシッピ)が生まれている。2人とも、紹介が遅れて本ヘイライドでは初めての登場だが、本邦での知名度はトゥイッテイのほうが高い。
●ウィリーのソロ・レコードが日本で発売されたニュースは聞いていないが、知る人ぞ知る実力派である。古いスタイルの深みのある歌い方で、持ち味はトレード・マークの汽車シリーズ(Hobo 、Train)にある。本名はLecil Travis Martinで、ボックスカーとは鉄道の有蓋貨車をさす。
●生まれたときから生涯を通じて、レールロード(鉄道)とは切り離せない道を歩んだ。父親は鉄道マンで、フィドルを弾いた。3部屋しかなかった生家の玄関から、わずか120メートルぐらい先には線路があった。彼のニック・ネームは「Singing Hobo」。20年に近い空軍生活の後、この道に戻り、米国より先に英国で人気をあげた。ネブラスカ州のステージで知り合ったウィリー・ネルソンとの交友も続き、確か2人でアルバムも出していた。オープリーへの登場は1981年、50歳の時だった。若い頃はナッシュヴィルでは相手にされなかったようだ。
●ジャケット写真で見る服装は至って質素で、いつも親父風のひげ面の顔に、胸当てつきの作業ズボン、ストライプの着古したジャケットがトレード・マークであった。雰囲気はグランパ・ジョンズに近いかも知れない。30歳の時に4人目の夫人と結婚して、1986年からブランソンに劇場を建てて夫人(4人の子供)と住み着いた。1999年、ブランソンで他界した。享年67。華々しくチャートに載るヒット曲はないが、「Wabash Cannonball」などのトレイン・ソング、「Train Medley」(1980年、彼のオジリナル?)、どの曲も渋い捨てがたい味を持っている。
●コンウェイ・トゥイッテイ。野球→カントリー→ロック→カントリーと渡り歩いた。父親はミシシッピ河を行き来するボートの船長をしていた。ハロルド・ロイド・ジェンキンスの本名は、無声映画の人気俳優ハロルド・ロイドにあやかってつけられた。後の芸名は歌手を目指したときに、地図帳から地名(Conway →アーカンソー州、Twitty →テキサス州 )を見て選んでつけられたという。野球選手はプロから勧誘があったほどだったが、兵役に就いた。除隊後、音楽界に戻ったが、エルヴィス・プレスリーの「Mystery Train」を聴いて触発されロックに転向して、サン・スタジオのドアを叩いた。「It’s Only Make Believe」(1958年)の大ヒット後、1965年デッカと契約、カントリー畑に戻った。現在は判らないが、ビルボード誌のチャートでの生涯第1位曲数は、エディ・アーノルド、ジョージ・ジョンズに次いで第3位であったから、その人気のすごさが判る。
●1993年、人気コンビのロレッタ・リンらと公演先のブランソンからナッシュヴィルに帰る途中のバスの中で、腹部大動脈瘤破裂で他界した。享年59。ナッシュヴィルを訪れた時、郊外にあるトゥイッテイの遺産(住んだ豪邸)を見学した。すでに売却されて、某宗教団体の所有になってひっそりとしていた。
●ウィリーとトゥイッテイ、2人に共通することは、共に戦争に参加したことである。トゥイッテイは日本に駐留中(朝鮮戦争)にバンド「The Cimmarons」を結成していた記録がある。ウィリーは爆撃機B-29に搭乗していたから、日本を爆撃していたかも知れない。
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2015/10/03
東京ヘイライド(209) 真保 孝 |
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ボニー・ブラウンの癌
●ネット愛用の友人からの連絡によると、ザ・ブラウンズで一番年下の妹のボニー・ブラウンが肺ガンと診断されたとのこと。この6月に長兄のジム(81歳)が同じ癌で他界したばかりだった。ニュースによると、去る9月28日、今年の殿堂入りを先に祝う祝賀会の昼食会で、ボニー自身から明らかにされた。癌専門医の診断で、ステージ4と診断された。
●兄のジムと同じアーカンソーの生まれで、高校を卒業と同時に兄、姉のチーム「ザ・ブラウンズ」に参加して、トリオを組んだ。1955年、18歳の時で、ルイジアナ・ヘイライドが初舞台だった。その後トリオはご存じの数々のヒットを飛ばして、1967年に解散した。ジムのみがソロで活躍を続け、姉のマキシンとボニーは実家のアーカンソーに戻り、家事に従事した。彼女は今年78歳になる。
●「兄の喪に服しているとき、私にも最大の悲しみがやってきた。でも専門医による最良の治療を続けて、希望は捨てていない。今思い出すのは、昔アーカンソーの生家で一家揃ってラジオを囲んで、毎週土曜日の夜、聴いたオープリーが最大の楽しみだったことだ」(ボニー)。
●今から50年前の1965年10月、ブラウンズは来日していた。チェット・アトキンズ、スキーター・ディビス、ハンク・ロックリンなど、リーダーのチェットは米国で最高期を迎えつつあった「ナッシュヴィル・サウンド」を日本にも広めようとパッケージでやってきた。
●「想像以上の大歓迎を受けたことに驚いた。滞在中にストッキングが破れて、街に買いに出たが、日本の女性の脚は細くて(skinny)、私の脚には入らなかった(ボニーは大柄な体格)。何処の店でも買えずに困って、海軍兵士の売店(PX)まで行ってようやくサイズのあったのを買うことが出来た」(ボニーの自叙伝)。接待で食べた天ぷらなど、日本食にもふれていた。
●追記。なお、ボニーと一緒に今年殿堂入りするのは、オークリッジ・ボーイズとグラディ・マーチン(ギター)と言われている。快気を祈りたい。
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2015/10/19
東京ヘイライド(210) 真保 孝 |
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●ドリー・パートンが癌に?
ドリー・パートンのファンがとても不安になるニュースを聞かされた。パートンはその噂を否定しているが、その周辺を。
パートンが胃ガンになったという根も葉もない噂の元は、3週間ほど前に腎臓結石で入院、治療したことから流れた。現在は無事に退院している。「全く真実ではありません。癌だなんて、誰が言い出したのでしょうか。でも噂にしろ皆さんが私のことを心配してくれるのは、有り難いことです」(パートン)。
●元気なパートンは現在、自身のテーマ・パーク「ドリー・ウッド」の次の企画に専念している。それは12月に封切られる予定の新作映画「Coat of Many Colors」の準備である。
題名はご存じ、彼女の自作のヒット曲(1971年、第4位)からだ。貧しくて新しい服が買ってやれない母が、色の変わった端布を継ぎ合わせて、彼女のために作ってくれた思い出が歌われている。子沢山(12人)の極貧の家庭に生まれた、彼女の自叙伝的要素が込められた曲だ。
●パートンはこの曲をポーター・ワゴナーと組んでいた1969年頃、ツアー・バスの車中で考えた。その時、手元に紙がなかったので、ワゴナーが出したスーツのクリーニング領収書の裏にメモをした。パートンの日本での人気から、映画が日本で封切られるか、どうかは判らないが、希望したい。ロレッタ・リンの伝記映画「歌え!ロレッタ愛のために」(1980年)とも重ね合わせる。
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2015/11/05
東京ヘイライド(211) 真保 孝 |
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●訃報。モーリン・オハラとビル・キース。10月も後半に入り、続けて好きな女優と演奏者の他界を知らされた。女優のモーリン・オハラと、バンジョープレイヤーのビル・キースである。もちろん、二人の間には何の関連もないが、個人的には好きな二人だった。このコラムでは映画女優は似合わないと思うが、今回は我が儘をお許しください。
●今の若い人は、映画女優のモーリン・オハラをほとんど知らないと思う。後期高齢者の私には青春の憧れであった。映画館を出て、感激したその思いを下手な英語でファンレターを書いた。数ヶ月後に、家のポストにMGMのロゴ・マークの黄色いクラフトの封筒が入っていた。中には、オハラのキャビネ大のつや消し白黒ポートレート、To Takashi,のサインのインクは鮮やかな緑色だった。
●最初に観たのは「わが谷は緑なりき」(1941年、ジョン・フォード監督、白黒。名作中の名作)だったが、映画がカラー時代に入ってからが、彼女の真骨頂だった。美人が多いアイルランド生まれで、透き通るほどの白い肌、赤い髪の毛、グリーンの瞳は、まさに総天然色映画のために生まれてきたような美人だった。カラー女優として、数々の西部劇はもとより、「海賊バラクーダ」「船乗りシンドバッドの冒険」などの海洋活劇は戦後の青少年の心をゆり動かした。10月24日、自宅で就寝中に老衰で息を引きとったという。95歳。美人薄命は彼女には通用しなかった。
●1963年3月、オープリーに出演中のビル・モンローを尋ねて楽屋にひとりの若者がやってきた。2年前にカレッジを卒業したばかりのビル・キース、当時24歳だった。ボストン生まれで、はじめピアノとウクレレで楽器を手にして、後にバンジョーを弾くようになった。それはカレッジでフォーク・ソングに興味を持ち、その縁でピート・シーガーの教則本で学んだと言う。練習を重ねて、やがてフレキシブルな奏法でメロディックなスタイルを得意としていた。
●キースが訪れたこの年は、たしかデル・マッカリーがブルーグラス・ボーイズのバンジョーを担当していた?が、フィドラーのケニー・ベーカーがキースをモンローに推薦してくれた。その頃のボーイズは1948年にアール・スクラッグスを失った後、バンジョーの席を温める人材が定まっていない状態だった。ドン・ストーバー(57年)、ボブ・ジョンソン(58年1月)、エディ・アドコック(同年4〜5月)など、事実、このマッカリーも翌年の2月には退団している。
●モンローはその夜、テストとしてキースにメロディアスな曲「The Devil’s Dream」を演奏させてみた。合格したキースだったが、新しい分野(ジム・クェスキンのジャグ・バンド)を目指していた彼は、在籍わずか8ヶ月で退団した。楽器に弱い私には、キースの専門的な本当の技量は判らないが、あのスクラッグスも会ってその才能を認めたプレーヤーだった。10月23日、死因は癌だった。75歳。
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2015/12/08
東京ヘイライド(212) 真保 孝 |
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● 今日、12月8日は、74年前に我が国がアメリカに宣戦布告を告げた日である。今年は戦後70年という「キー・ワード」がさかんに使われた。それはこの日、ハワイの真珠湾を急襲して戦火を交え、1945年8月、無条件降伏をしてから70年ということだ。
● 74年前のこの日、ボブ・ウィルスのテキサス・プレイボーイズの専属歌手、トミー・ダンカン(1911〜1967)はテキサスのタルサにいた。レギュラーの正午のラジオ番組に出演中だった。緊急ニュースを聞いた血の気の早いテキサス生まれの彼は、「訳の分からない奴らが、戦いを始めやがった!畜生、俺は軍に入ってとことん戦ってやるぞ!」。戦況は当初、奇襲した日本軍に有利に進んだ。ミュージシャンの多くが招集されて戦地に赴いた。カントリー業界も各バンドが人手不足に陥った。生活のための物資も欠乏して、アーネスト・タブは巡業に回るバスのガソリンも配給制度になったと回顧していた。レコードを作る材料のビニールも不足して、満足に製作できなくなった。その後、実力に勝るアメリカは徐々に体制を建て直して、連戦連勝して勝利を得た。
● トミー・ダンカンはプレイボーイズの看板リード・シンガーで、その存在は当時まぶしいほどだった。ウィルスのビッグ・バンドはダンス・ホールや、ボール・ルームで踊る人たちのために演奏した。内容はカントリー音楽にとらわれずに、ブルーグラス、ラグタイム、ディシー、メキシカンと、観客が希望すればなんでも演奏した。「Bubbles in the Beer」「New San Antonio Rose」「Faded Love」などはリクエストの多い曲だった。
● ウィルス自らフィドルを弾き、いま写真で見てもずらり並んだフィドラー陣は壮絶だ。常に革新的だったウィルスは、初めてオープリーにドラムスを持ち込んだ。当然保守的な関係者から、クレームが出た。自説を曲げないウィルスはステージの幕の後ろでドラムを演奏した。ところが誤って幕を上げてしまった。主張が通らないオープリーに愛想を尽かして、その後、距離を置いて出演しなかった。
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2015/12/21
東京ヘイライド(213) 真保 孝 |
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●「ノース・ウィンド(北風)」。 暖冬の予測だが、北風が吹き出した。大分昔に、これをタイトルにした曲があったことを思い出した。小坂一也盤(1957年)、北原謙二盤(1964年)が発売されて、カントリー音楽だけでなく幅広く歌われた。♪north wind, north wind・・・♪と歌われるサビの部分が効果的で、加えてマイナー調で日本人に受け入れられた。シニア・フアンには懐かしい曲だ。
●面白いことに、人気が出たのは日本だけの現象で、ビルボードのチャートには載っていなかった。米国でのオリジナル歌手はテキサス・ビル・ストレングスだった。テキサスではなく、アラバマ州で生まれた彼は16歳の時、アマチュア・コンテストに入賞した。だが翌年、彼が歩む道を選んだのは、意外にも歌手としてではなくフルタイムのラジオのディスク・ジョッキーだった。歌手としては売れなかった?(自信がなかった?)、のかも知れない。
DJの仕事が好きだったのか、生涯16余局のラジオ局で働いた。当時全米には各地ラジオで約1800人ほどのDJがおり、互いに個性を競い合っていたが、1956年にはベスト50人に選ばれた。1990年にはその功績が認められてCountry Music Disc Jockey殿堂入りを果たした。
●各州のラジオ局でのDJの後、テキサスで歌手として4スター、コーラルと言うマイナー・レコードを経てキャピトルと契約した。ここで7曲ほど録音した中の1曲がこの「North Wind」であった。米盤は1956年の吹き込みだが、日本の東芝レコードの洋楽部が無名(ヒットしていない)に近いこの曲に、なぜ目をつけたかは疑問である。
●洋盤のヒットの受けて、小坂が歌ったのは当然だが、大阪市出身、ジャズ喫茶で歌い始めて(ロック調)、世に出た北原が取り上げた。B面は「カウライジャ」だった。彼(北原)のフィーリングの中に、カントリーの香りを感じるのは私だけだろうか?彼が歌う歌謡曲の「ふるさとの話をしよう」「若い二人」にも、そこはかとなくそれが漂っている。惜しくも2005年に他界した。これら曲は今でも根強くラジオでリクエストがある。
さて、オリジナルの作曲者はロッド・モリスと言い、ほかにジム・リーブスの「Bimbo」も彼の作品である。「恋人を連れ去った北風よ、どうか私に連れ戻してくれ・・・」(bring my baby, back again)が印象的だ。最近、アナログ・レコードが復活している。古いレコードを探して、ほこりを払って聴いてみたらいかがですか。
●「東京ヘイライド、5」、少し早いけど、今年は今回で幕といたします。どうぞ、よいお年を。
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