鏡よ鏡・とわの別れに
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ありがとう山下菊二さん   
                         
 『だから人間なんだ』の表紙に絵を描いてくれた画家
の山下菊二さん(67才・1919年徳島県に生まれる)
が、1986年11月23日午前10時頃急性心不全のため神
奈川県川崎市の自宅で亡くなられました。24日の新聞に
は午前10時ということになっておりましたが、山下菊二
さんが亡くなる時、あいにくと奥さんは仕事で外出され
ていて、おひとりだったということで、確かなことは誰
も見ていませんでした。              
 この日、朝5時頃に起きて、朝食を食べ、奥さんが仕
事で出かけ、新宿から6時20分頃に家へ電話して話をし
たのが、山下菊二さんと奥さんの最後の会話になってし
まったそうです。その後、山下菊二さんは、いつものよ
うに居間で仮眠するように、毛布をかけてねむりについ
たそうです。そして、近所の方が、お昼の手伝いで見え
られて、山下菊二さんに声をかけられた時、返事がない
ので揺り起こすようにさわってみたら、すでに手がつめ
たくなっていたということです。だから、山下菊二さん
は、仮眠している間に静かに亡くなられたようです。
 わたしは、生前、と言ってもここ二年程の間に、山下
菊二さんの自宅へ行き来して、話をしてきた者のひとり
として、山下菊二さんのことを記憶にとどめているひと
に、この場を借りて、わたしの中の山下菊二さんについ
て報告したい。
 山下菊二さんは、1950年代以降、日本の前衛美術
運動の中で、社会的・政治的テーマを背景にした絵画を
描いてきた人だそうです。わたし自身、最近までこの頃
の時代の画家たちの世界を直接知りませんでしたから、
その点では、針生一郎さんや、この時代を共に生きてき
た人たちの話を聞かれたり、書かれたものを読まれたり
する方が正確な情報を手にすることができるでしょう。
わたしは、あいにく山下菊二さんから、この時代のこと
については、さわりの話しか聞く機会がなかったので、
ほとんど知らないのと同じで、特にここではその話には
触れません。                   
 しかし、聞きかじりではあっても、わたしは、次のこ
とだけは触れておきたいと思います。山下菊二さんの絵
画の方法は、シュールリアリズムと言われているが、そ
うした傾向の絵の中でもあまりにもオドロオドロした絵
を描いているので、好き嫌いの好みのふるいに掛けられ
て、評価が二分しているということです。近年、好まれ
ている「飾るにふさわしい絵」という絵ではなかったた
め、画家としては、描いた絵が高い値段でせっせと売れ
ていたかというとそうではなく、いつも日の当たる場所
を歩いてきたわけではないと言えるでしょう。しかし、
日の当たる処を歩いてこなかったことを、山下菊二さん
は、微塵もくやんだりしていなかったというのが、わた
しの山下菊二さんからえた印象です。        
                         
 そもそもわたしが、山下菊二さんを知るきっかけは、
1984年12月に行なわれた『冤罪と人権』展という絵
画展が東京で企画されて、その準備の裏方を少々手伝っ
たことからです。わたしがそこで、山下菊二さんに初め
て会ったのは、12月23日の「野間宏・山下菊二・司修」
さんの鼎談に山下菊二さんが出席された時でした。
 その頃の山下菊二さんは、すでに12年前頃より、筋無
力症の発症で体に障害を抱えて生きていて、しゃべるこ
とにも口元がスムースについていかない状態でした。し
かし、その生きる姿勢や絵に対する情熱は、山下菊二さ
んの話ぶりから、ひしひしと感じられ、年を経てから障
害を持って生きている人としては、すでに、迷いを振り
捨てていました。
 このことをきっかけに、わたしは、その当時すでに企
画して、準備作業に入っていた、障害者の仲間の文章な
どを集めて、一冊にまとめる本の表紙の絵を、絵を描く
障害者の中から山下菊二さんにたのむことを、共同企画
者でその本『だから人間なんだ』の共同編集者の遠藤滋
さんと相談して決めたのでした。
 そして次の年、原稿の取りまとめ作業を進めながら、
山下菊二さんにこの本の表紙のカバーに絵を描いてもら
いたいと、お願いに伺ったというわけです。更に、『だ
から人間なんだ』にわたしが書いた文章に、『冤罪と人
権』展の鼎談で山下菊二さんがしゃべっている言葉から
引用させてもらいたいということを、諒解してもらいま
した。                      
 この1985年始めの訪問の時、山下菊二さんはすで
に体がきつく、ここ4、5年ほどは本格的に絵を描いて
いないという話の中で、わたしたちの本の表紙の絵に取
り組んでくれたのです。このわたしたちの突然のお願い
に心よく応じてくださったことから、わたしは山下菊二
さんの家へ、いくたびか訪ねて、いろんな話をする時間
をもちました。                  
 けれど、わたしは、今年(1986年)の4月はじめ
に山下菊二さんを訪ねて以降、島田事件の赤堀政夫さん
の自白を再検討する作業に半年がかりで取りかかってい
たため、しばらく行けなかったのですが、それもようや
く一段落したので、そのうち時間をみて、また、山下菊
二さんの処へも顔を見せに行こうと思っていた矢先に、
この山下菊二さんが亡くなったという悲報を受け取った
のでした。                    
 この間の山下菊二さんは、奥さんの話によると、この
12月初めに、パリで行なわれる、日本の50〜60年代
の前衛美術展に自分の作品を2、3点出品されることに
なり、この機会に奥さんと二人で、この展覧会に合わせ
たパリ行きのツアーに参加されるのを楽しみに、8月頃
から心待ちにしていたそうです。そして、この旅で、山
下菊二さんは、スペイン(マドリード)のプラド美術館
にある『ボス(Bosch ネーデルラントの画家・スペイン
名エル・ボスコ/ヒエロニムス・ファン・アーケンとも
呼ばれる/作品にはヒエロニムス・ボスと署名・145
0〜1516)』の絵『快楽の園』三連祭壇画の実物を
見ることを、非常に楽しみにしていたということです。
(この絵は、平凡社版世界の名画4『Bosch ボス』でも
見ることができる。)
 しかし11月になって体調をくずし、いやがっていた病
院へ通院することになり、そこで、パリ行きを断念する
ことなってしまったそうです。この間、山下菊二さんの
心の中でいろいろな葛藤があったということですが、体
力を回復させたら、改めてパリにも行き、絵も描けるよ
うにするんだという意欲を持っていたということです。
そこで、やむなくふんぎりをつけて、病院に入院するこ
とにしたそうです。
 けれど、『だから人間なんだ』の本の表紙の絵を描い
て以降(1985年7月以後)、山下菊二さんは、絵と
しての完成した作品を描くことができずにいました。そ
んなことから、いみじくも、障害者の文章を寄せて作っ
た本の表紙の絵にこめた思いが、画家・山下菊二さんの
最後の作品になってしまいました。
 
 わたしが山下菊二さんに話したこと(その内容は『だ
から人間なんだ』にまとめたこと)に関して、山下菊二
さん自身が本音のところでどういう感想や意見を持って
いたか、いまとなってはわかりません。だが、わたしの
感じた中では、障害者としてのわたしたちの思いに対し
て、山下菊二さんも同じ思いを感じていたのではないか
と思います。                   
 このことに関して、奥さんから、山下菊二さんが、わ
たしたちの思いに同感するものがなければ、絵を描くこ
とを引き受けたりしない人でしたという話を聞いて、わ
たしは山下菊二さんに出会えたことをうれしく思ってい
ます。                      
 その山下菊二さんが、突然、この11月23日に亡くなっ
てしまったのです。なぜ、もっと早く山下菊二さんを訪
ねなかったかと、悔やまれてなりません。亡くなってか
ら、人を訪ねて見ても、楽しくもなんともないものだか
らです。                     
 けれど、自分でもよもや死ぬなどと思いもよらない死
を、山下菊二さんは迎えてしまったのではないかと思い
ます。告別式の日、わたしも、山下菊二さんの同時代を
生きて来た画家の仲間のみなさんにまじって、半分、息
子になったつもりで、山下菊二さんの最後の見送りをし

 最後に、山下菊二さんの絵の仕事について、奥さんか
ら改めていろいろ話を聞いたりして、感じたことに少し
だけ触れてみたいと思います。山下菊二さんは、自身で
『ボス』の強い影響を受け、特に『快楽の園』という作
品が好きだったということを、奥さんにも話をされてい
たということを、先日(1986年11月28日)わたしが
遠藤滋さんと彼の介助の豊田くんと訪ねた時に話してく
れましたが、その時、ボスの『快楽の園』の絵はがきを
見せてもらいました。
 この絵(絵はがき)を見ながら、わたしは、ああ、こ
こに山下菊二さんの描きたかった世界があったのかと、
初めて山下菊二さんのこれまで描いてきた絵の世界の秘
密(山下菊二さんが根拠にしてきたもの)を見た思いが
しました。
 この絵は、祭壇に描かれた絵で、右と左に開く扉(長
方形)のそれぞれの内側に対照的な二つの世界が描かれ
ており、その扉を開くと、この二つの絵を二分するよう
に祭壇の中央部に別の世界が描かれている絵です。左側
に描かれた世界は、たぶん当時の宗教上の理想とする世
界「エバの創造/地上の楽園という説明をつける解説が
あるが、作者自身は何も解説していない」であり、右側 
に描かれた世界「地獄」は、人間の言葉や態度が人のい 
のちとして生きることを否定したり、あるいはまた、戦 
争や身分制度で人間が虐げられたり、串刺にされたり、 
差別されたりしている人間たちの怒りや恨みに満ち満ち 
た世界でした。そして、この二つの世界を割って描かれ 
ている中央部の「快楽の園」は、人種の違いもなく人間 
たちや動物たちが生身の姿で、生きあう情景が描かれて 
いるものでした。                  
 これまで、山下菊二さんは、この『ボス』の『快楽の 
園』にある、人間が不正にあったり、虐待されたり、差 
別されたりすることに対する人間の恨みや怨念を、戦争 
や狭山裁判などをモチーフに描いてきたのだと思いまし 
た。そして、最近の山下菊二さんは、そうした現実とそ 
れを突き破る世界をあわせたテーマで、いのちを肯定し 
て生きる世界を何よりも描きたかったのではないかと、 
わたしには思えました。               
                          
 その意味では『だから人間なんだ』の表紙カバーとし
て描いた世界は、いみじくも、山下菊二さんがこれから 
描こうとしたテーマに触れる作品になっているのだと思 
います。この絵は、左右(表表紙と裏表紙)に二つの顔
を描いており、裏の顔は顔の右半分の明るい部分(陽)
と左半分の暗い影を持った(陰)の部分に描きわけてお
り、その目は山下菊二さんの言う「目をくりぬいて塗り
つぶすことで恨みや怨念をもつ感情を表現」しており、
表表紙の顔の目は、ひとみが描かれており、その目から
受ける印象は、明るいときめきや驚きが現れている。こ
の二つの人間の顔を通して、山下菊二さんは、一方で、
いのちの否定と肯定を使いわけて、なおかつ自分だけが
こんな目にあうんだ、という思いで生きる人の顔を、裏
(過去)のものとして描き、そして、表の顔では現在か
ら未来に続く時間に向かい、自分からはいのちを否定せ
ず、いのちを肯定して生きればいいと決断する人間が、
生きることの驚きやときめきを感じる喜びを描いている
のだと、初めて思えるようになったのです。

 山下菊二さんは最後まで、次の絵に本格的に取り組み
たい気持ちをはち切れんばかりに高鳴らせて、生き抜い
たのだとわたしは思います。

 山下菊二さん、ほんとうにいい出会いをありがとう。
                       (1986・12・8)

 
ありがとう山下菊二さん
          1986・12・8
                     
最後にあなたが残したものは
「カサ、カサ。サク、サク」ぶつかりながら 
乾いた音をたてた白い骨と青い絵具     
それにすがすがしさを感じた        
わたしでした               
                     
でもなんと、とうとつな死だったことか   
きっとあなたも
自分が死ぬとは思いもよらないで
ひと眠りするつもりの眠りについたのでしょう
                     
父の世代のあなたに
半分、息子になったつもりで        
あなたの67年の人生の中の         
ほんの、最近の2年間を          
行き来していたにすぎないけれど      
わたしは
あなたのいちばんいい時間に        
めぐりあえたのだと思います
 
しかし、一緒に夢のひとつも体験できずに
あなたを失うなんて
思いもよらず残念でたまりません

でも、わたしはこれからも
ありのままのいのちを肯定して
いのちを生かしあう仲間たちの中で
あなたと生きていきます
あなたはわたしの中でいまも
生きています

 
ある少女の詩
     1986・9・26 PM11

言葉をしゃべれないその口許で
いくつもの思いを口にしていたんだね
動かないその手のぬくもりに
いくつもの思いを伝えていたんだね

あなたの思いがあの時のわたしには
わからなかったけれど
あなたはいろんな思いを      
そのからだにあふれさせていたのだと
わたしはいまやっと        
思えるようになった        
いのちを燃やし尽くして      
ひとり大地に帰って行き
あなたの思いを生かせなかったけれど
これからはわたしは        
あなたと同じ思いも生かしたい

 
徳武 昇くん逝く       
     1978・9・5〔お通夜にて〕
                                
忘れないよ!          
16、20のいのちといわれた君が  
29の年まで生きたことを     
「生きる場」の交渉の中で    
はじめて知った君
ひろこさんといっしょになることで
悩んでいた君を         
去年の十月、生保を受けて
二人で生活を始めた君
今年の一月
猿ケ京の温泉に行った時
夜の湯舟で君と話したことも

心臓障害の体で
一日、一日を
生きることがたたかいだった君は
29の夏の終わりに
ひとり旅立った
ことしの夏のはじめ
あまりの暑さに
クーラーを入れたいと言ったら
ケースワーカーに
「電気を止める」といわれ
断念させられた君の体に
この夏の暑さは
一段とこたえたのだろう

すべてがこれからだという時に
いろいろやっていこうとする時に
いまはもう           
君とこれからを語れない     
さびしいよ           
これから先も君と語り      
君とやって行きたかったのに

忘れないよ           
君の生きぬいたいのちを     
あきらめていた結婚に      
いいひととめぐりあい
一年たらずの生活だったけれど
ぼくは             
君のいのちを祝福するよ     
                
残されたぼくは         
君といっしょにやっていくつもりで
これからも生きていくだろう   
でも
やはりさびしさは残る      
                
さようなら           
のぼる君            

---------------------------------------- 
1978年9月4日午後6時30分、心臓マヒ
にて死亡。未就学。兄弟の家庭教師で学ぶ。
川口(埼玉)障害者の生きる場をつくる会で
活躍。

 
伊吹重代─追悼の日に
   (尾道駅西第一踏切にて)
     1986・3・17

1981年3月17日午後10時31分の
事実が目の前でよみがえり
ショックが体の中をかけぬける
今、1986年3月17日午後10時31分
貨物列車は汽笛をならし
踏切をかけぬける

この一瞬
友 伊吹重代は
列車にはねとばされて
死んだ
即死だったという             
この一瞬                 
車イスの仲間と踏切に立った        
わたしの心も               
ひきくだかれた              
「黙祷!──」              
事実は                  
わたしの前から              
あなたの姿を奪った            
                     
電動車イスに乗ったあなたが        
列車にはね飛ばされて亡くなったのはこの日。

 
ある日のこと
  (鈴鹿洋子の思い出)    
     1986・5・10       
                
男の人って 胸の大きな人がいいの
『どうして』(松本勇さんと私) 
だってわたし胸が小さいんだもの 
お嫁さんにしてもらえないかも知れないもの
わたし
『そんなことないよ』(松本さんと私)
○○さんと比べたらとても小さいんだ
『大丈夫だよ 洋子ちゃん
そういうことって男の人によりけりだよ』
そうかなあー
『そうだよ』
「私ならどっちでもいいよ」(松本さん)
『ぼくはどっちかというと
大きいのって──にがてだな』
 (本当は○○さんの前でわたしは
  彼女を傷つけることを言っていました
  ごめんなさい。)
ふーん
「洋子ちゃんなら大丈夫だよ」
『そうだよ 大丈夫だよ』

──洋子は、女として
男の人と 出会うことがなかったけれど
せいいっぱい いのちを燃やして
事実 生きぬいたのです──
 
だから、洋子ちゃん    
きみは
すばらしい女の子でしたよ 
はたちのいのちを     
せいいっぱい       
生きぬいたではありませんか
はたちからの時間を    
きみが持てなかったことは 
非情に残念だったけれど  
きみはきみの       
持てるいのちと      
持てる時間を       
生かしたのだから──

 
鈴鹿洋子 はたちの死     
(川口・心臓障害)──お通夜の日に
     1985・5・3        
                    
                    
ありのままのいのちを          
祝福して生きれたかい          
洋子ちゃん

五月の風は心地よいというのに
とわの別れは
心にいたい

ありのままのいのちを祝福して
生きることを
心にきざみあって
さぁ、もっともっと
生きていこうと
思っていた矢先に──

一人、大切ななかまを
失うことは
なおつらい
 
 
家では心をいためていたという。元気にな
ったら家を出て生活することを考えていたと
もいう。5月1日、病院へ行った先で発作を
起こし、そのまま帰らぬ人となった。
 徳武広子さんの家に行っては、ホッとした
気分になっていたともいう。洋子ちゃんの死
の知らせの時(5月2日)に松本勇さんの死
(ガン)を白子さんより知らされる。

 
ふしぎな風            
     1980・7・3      
                  
おまんはなんちゅうたっけね
おまんとうのえ(家)は       
おらんのえのすぐとなりだったじゃん 
おべえだした おべえだしたよ    
おまんとはチチきょうでいだっただよな
よくおべぇてるじゃん        
おまんとはよくあそんだっけね
はっはっは             
おらんはおまんを よくいじめたずら
おまんはおとなしかったから
いまでもおとなしいけんど
おらあ、ガト(ワル)だったから
よく人が見ていんと
おまんのこと ちょこっとこずいて
さっとにげたずら
忘れてねえずら おら忘れてねえよっ

けれどおまんもよく生きておったじゃん
もうみんな死んじまって
おらんようになったな
いま生きとるのは
わしら二人じゃけん

 通りすぎた風にゆらめいて
 よみがえる記憶は
 少女のころの昔の風景
 年老いた少女のまわりを
 ふしぎな風が吹きぬける

 (母方の祖母をしのんで──)

 
死亡通知
     1980・11・26         
                   
きのうと同じように仕事をし      
今日も一日が暮れる          
そんなくり返しの毎日に        
突然まいこんだ知らせ         

雨にうたれた街の中の         
おぼろげな記憶のなかに        
よみがえるあいつ           
どうしているんだろうと        
たまには思いださなかったわけではないが
あいつの姿をもう見ることはない
                   
ずいぶん遠くまで歩いてきたものだ   
わかれた街角にもうもどっても     
あいつはいない            

 
わかれは言わない
        1987・12・6

きみのいのちが断たれても
死んだなんて言わせない
もっとやりたいことがあるんだろ
生きつづけようとした
きみの求めるままに

わたしと出会ったきみを
記憶の中にとじ込めない
もっと生きたいと思うだろ
生きつづけようとする
わたしとこれからも

きみのいのちは断たれたが
悲しいなんてもう言わない
もっと生かしたいと思うから
これまで生きてきた
きみのすべてを

 (今年、二人の若者に旅立たれて)

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