鏡よ鏡・ヒロコへのメッセージ
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ヒロコへのメッセージ
 
1 はじめに  1985・12・18  
 〔めぐりあうキッカケ〕           
                         
 何よりもまずあなたに、わたしを直接ひきあわせてく
れたのは、世田谷の光明養護学校の教師・遠藤滋さんで
した。それは、去年の暮れのうちだったか、今年に入っ
てすぐのことだったろうと思いますが、何れにしても、
ほぼ一年前のことだったと思います。        
 その頃のわたしはと言えば、84年3月いっぱいで、そ
れまで6年近くをいっしょに過ごした女性とその子供と
の生活に別れをつげ、6月に入ってそれまで住んでいた
板橋の都営アパートを引き払うことになり(この間には
さまざまなこまかい事実がつまっているのですが)、常
識的にいえば、一人でわびしい思いもして、実家へまい
もどったのでした。そして、悪くしていた十二脂腸潰瘍
と歯の治療に4月中頃から専念するようになり、ほぼ治
りかけたこの年の10月の世田谷の雑居まつりに「無実連
/無実の人々を救おう連絡協議会」というグループで参
加した時、たまたま遠藤さんの家へフライパンを借りに
行ったことがキッカケで彼と再会したのでした。
 その時の彼は、丹下左膳ふうにヒタイにキズをもって
いました。「どうしたの」と聞くと、「中野へ治療にい
った時にころんだ」のだというではありませんか。「こ
のごろうまく歩けなくなってきた」というのです。
 そんな彼とわたしは、1984年の10月おわり頃の訪
問がキッカケで、改めて足しげく行き来するようになっ
たのです。それからはちょくちょく、わたしが彼を訪ね
ていろんな話をするようになりました。二人の間には、
それまで5、6年近い空白がありましたから、その間を
別々の空間で生きてきた二人が、それぞれに感じてきた
思いを、とりとめもなく語り合いました。
 二人にとって、こうした中で話したことや、84・10・
19の中曽根首相の「アブノーマル発言」に対して公開質
問状を出そうということで、文章を相談してまとめたこ
と以上に重要だったことがあります。        
 それは、たとえば遠藤さんがこの先、二度と歩けない
ままで生きたとしても、また、障害者として介助もまま
ならない生活をおくることによって、たとえのたれ死ぬ
ようなことがあったとしても、その時はその時のこと、
のたれ死んでもいいではないか。わたしも同じようにの
たれ死んでいくから、二人とも安心してのたれ死ぬこと
にしよう。                    
 だからこれからは、わたしたちがたとえどんなことに
なったとしても、どんなことにも惑わされることなく、
心おきなく障害者として生きていこうじゃないか。そし
て二人でいっしょに障害者としての自分たちのすべてを
かけて、やりたいことをやっていこう、と確認しあえた
ことでした。                   
 そんな行き来をしていた間のことでした。遠藤さんが
まだ学校へ行っていた頃に出していた学級通信のコピー
をわたしのところへ送って、わたしに読ませてくれたの
は──。                     
 その学級通信のなかに、あなたの「ヒロコからのメッ
セージ」が載っていたことが、あなたにわたしを引き合
わせてくれたそもそものキッカケでした。
 わたしがヒロコの文章を読んだ時、はじめに感じたこ
とは、「あっ、ヒロコはいまの世界を突き破って、向こ
う側に足をふみ入れているな」という思いと、「このま
まもたもたしていると、自分たちで何もやれないまま、
他の人に先をこされて、取り残されてしまうぞ。──さ
あ、たいへんだ」という思いでした。それを遠藤さんと
話すなかで、わたしたちもここらで一つ障害者として生
きてきた中で感じてきたことをすべて文章にまとめて出
してみよう、ということになったのです。そうすれば、
いままで不充分ながらも胸のうちに感じてきた思いのた
けがなんだったのか、はっきりさせることもひょっとし
たらできるだろう──。
 そしてこの際だから、いま集められる限りの障害者の
すばらしい文章も集めて、わたしたちの文章とあわせて
一冊の本にまとめよう、ということで始まったのがこの
『だから人間なんだ』という本の本づくりでした。それ
は1985年1月にはいってからのことでした。

2 ヒロコからのメッセージ

 なぜヒロコが、「この世界の限界を突き破って、向こ
う側に足をふみ入れている」なんていう、たぶんヒロコ
自身も思いもよらない受け止め方を、わたしや遠藤さん
がしたか、少し話をしておきます。(「ヒロコからのメ
ッセージ」については『だから人間なんだ』遠藤滋・白
砂巌共編にあるのでここでは再録しません。)    
                         
 あなたの文章からすると、あなた自身は、痛みからく
る硬直のため寝たきりの生活を余儀なくされ、しかも病
院のベットの上で3年を過ごす間に、目が見えなくなっ
た上、耳まで聞こえなくなり、不安とさびしさの中で、
ひとり心の中でもがきながら、なんの気なしにふと思い
ついたままを書いただけなのだと思います。     
 だから、何の先入観ももたずに、自分でも気付かない
うちにふとそこに立って言えた言葉なのだと思います。
とりあえず、その一節だけは、ここでも引用します。 
                         
 入院した当初は、「自立」とか、「親ばなれ」とかい
う言葉をきくと、行動の形として一人でやらなければな
らないような先入観がありましたが、今では、身体的に
は、人に頼ることはあっても、精神的には、たとえ身体
が動かなくても、しっかりした自分の考えや「生きてい
く」という自信、「生きがい」、これだけはできるとい
うことを一つでも見つけ、それを支えにして生活できる
状態にもっていきたいと思っています。

 これまで「自立」というと、あなたの言うように、ま
さに一人でやらなければならないというか、何か行動の
形として自分でできるようになること、という先入観の
中でわたしたちは生きてきた。だから、行動の面で何も
できなければ、精神的な面で、しっかりした自分の考え
や「生きていく」という自信などまず誰も持ちようがな
いし、また持ったところで何にもならないというのが、
大方の人の見方だと言っていいでしょう。
 けれども、そうした先入観の中の「自立」をくぐって
きた人たちの間で、年を経てから障害を持って生きるよ
うになったら、そのことで自分をみじめに感じたり、ま
た田中角栄さんのように総理大臣になった人でも生身の
自分をさらけ出せずに(いまの自分を決していいとは言
えずに)生きている始末です。それは、それまでもずっ
と、自分のいのちの自然なありようを否定して生きてき
た結果に他なりません。いかに「自立」しているようで
いても、自分のいのちに立って、どんないのちのありよ
うでいても自分のことをいいとはいえない、すばらしい
とは思えない「自立」でしかないのです。
 

 これまでも自分で自分のいのちを否定して生きてきた
ばかりか、しかも人生のおわりに自分はみじめだ、なん
で自分がこんな目にあわなくてはならないんだという結
論しか導き出さないものでしかないのだとしたら、そん
なことで「自立」したとか、「自立」しているとか言っ
てよろこんでみても有り難くもなんともないし、少しも
いいとは言えません。そこを、あなたは「──先入観が
ありましたが」と、これまでの「自立」についての考え
方というものが、先入観によるものであったことを指摘
していると同時に、その上で、しっかりした自分の考え
や「生きていく」という自信を持って生きていきたい、
つまりはそうした自信を持って生きていけばいいのだ、
と書いています。                 
 あなたの文章に出会う頃のわたしも、実はあなたと同
じように考えるようになってはいたのです。しかし、わ
たしにしてもその思いをはっきりした言葉で自信をもっ
て言えるようになっていたわけでもないし、もし、この
思いを言った時、重度障害者から「そんなことは言えっ
こないよ」と一蹴されたりしたら、とてもその言葉に対
して言いかえせるだけの自信もありませんでした。  
 それが、あなたの文章に出会ったことによって、重度
の障害者もわたしと同じようなことに気付いている事実
を教えられ、少なくとも、それまでわたしが感じ続けて
きた思いは、けして独断ではなかったという安心感をも
てるようになったのです。そして重度障害者としてのあ
なたがすばらしい可能性をもっていたように、わたしが
この先もし障害者として重度の状態になったとしても、
なんの不安を持つこともないわけだし、軽度障害者とし
てこれまで気付けないでいる「真実」を、今度は重度障
害者として自分なりに発見できる可能性を大切にして生
きていけばいいだけではないか、と思い切れたことが何
よりも大きいことでした。
 あなたの「先入観」だよという指摘によって、それま
でわたしがイメージに描いていた「自立」=重度障害者
と健全者の間にある無数のハードルを超えていくことだ
と考えられていたことからわたし自身が抜け出せないで
いたこと、それはハードルを超えていくことという先入
観にとらわれていただけのことだったのだ、という事実
に改めて気付くことができたのでした。
 要は、先入観でしかなかったのだから、そんなものは
きれいさっぱり捨ててしまっていいわけだし、この際わ
たしはどんな先入観もきれいさっぱり捨てることにしよ
う。そしてこの先、自分がどんな状態でいてもその自分
のいのちに立って生きていることがいいと、またすばら
しいと言えること、少なくとも自分のいのちを自分から
は否定しないで生きていくことだと、わたしなりに思う
ようになったのです。               
 人が、自分のいのちに立って、そのいのちがどんなあ
らわれ方をしても否定しないで生きようとする時、実は
軽度障害者、重度障害者、あるいはまた、障害者、健全
者としてなんとなく人を分け隔ててきた壁を、はじめて
突き破っていけることになると思ったものでした。  
 そればかりか、よく人が「障害者はすばらしい」と言
う時、何かやれている障害者への賛辞にしかなっていな
いことに、少なからず反駁したい気持ちがありました。
「何もできない寝たきりの障害者はダメなのか!」と。
そのことに対しても、いのちそのものを肯定する立場に
立てば、障害者のいのち、そのほとんどが、「死」と直
面して死ぬかもしれないという時に、実は、その体の機
能と引き替えにしてでも生きることを選んで生き抜いて
きたいのちたちだったではありませんか。この事実に改
めて気付いてみれば、障害者のいのちたちのすべてが、
何とすばらしく、またいとおしいものであるかというこ
とを、感じられるようになったのです。       
 それは、寝たきりだったり、言葉がしゃべれない障害
者であったりすればするほど、いのちとしての意思その
ものだけを純粋に、まるごと表現して、生きることを選
んで生き抜いているいのちだったではありませんか。わ
たしにとって、驚きそのものでした。ヒロコはわたしに
こんなにもすばらしいことを身をもって気付かせてくれ
たのです。
 だけど、ここでは残念ながら、あなたも「しっかりし
た自分の考え」がどういうものであるかについては言い
きれていません。だから自分ではおぼろげながら気が付
いていても、その考えがどういうことであるのかはっき
りと自分で自覚していたわけではないのだと思います。
それは同様にわたしにもいえることだったのです。
 このことをはっきりさせる手助けをしてくれたのが、
安倍美知子さんだったのです。
 彼女は、『ピエロにさよなら』という本を出したあと
に書いた文章の中で、「わたしは自分のありのままの命
を肯定したい。そのためにはこの世にひとつでも否定さ
れた命があってはいけない」と書いていました。
 ありのままのいのちを肯定したいと思い続けていける
なら、肯定したいという願望にもはやとどまっている必
要など微塵もないのだから、実は、自分で自分のありの
ままのいのちを肯定してしまえばいいだけではないか。
そして同じように自分からはどんないのちも否定しなけ
ればいいだけではないか。             
 これまで障害者だけでなく、むしろ障害者以上に健全
者が、自分のありのままのいのちを否定して生きていた
から、障害者はその影響をもろに受けて、自分のありの
ままのいのちを否定するしかないところで、実は生かさ
れてきただけなのだ。そして自分からも自分のいのちを
否定して生きてしまっていたから、自分からは自分のい
のちがすばらしいと思えなかっただけであるし、また、
たとえ一時でも人から評価されたとして喜んでいても、
一人になってふと我にかえったり、年老いて一人自分に
かえったりした時、結局は自分のいのちをいいとも、す
ばらしいとも思っていなかった現実に引き戻されてしま
うだけではないか。                
 それだけでなく、人に評価されなければ自分が生かさ
れたことにならない、いいとも言えない、評価できない
というのは、自分で自分のことはいいとも言えない評価
できない、つまりは自立して自分で自分を評価する目を
持ってはいない、また自分で自分のことは生かせないと
いうことを表しているにすぎない。自分で自分のいのち
さえ生かせない人が、どうして他人のいのちを生かすこ
とができるだろう。そして、自分のいのちを否定してし
まう人が、どうして他人のいのちを肯定することができ
るだろう。
 そうだとしたら、わたしたち障害者にとって、ほかの
人たちがどうだろうとそういうことに捕らわれることな
く、これまで外に現れた自分の姿を人に比べていいとは
言えないところで、自分のいのちまでも自分から否定し
ていたこの現実を、まず自分からひっくり返さないこと
には話にならないではないか。自分で自分のいのちを否
定していることによって、また自分で自分のいのちを生
かせないでいることによって、自分を守らなければなら
ないはめに陥り、自分を守ろうとする意識に捕らわれた
その時から、実は、自分で自分の周りに分厚い壁を張り
めぐらし、その中へ自分を閉じ込めてきたわけだし、ほ
んらい誰もが持っていた自分の自由さえも自分で捨てて
きたのではないだろうか。
 それは「自立」においても、まったく同じことが言え
るのだと思います。「自由」にしても、「自立」にして
も、どこかめざすところにあるのではなくて、かって自
分でも気付かずに自分の周りに捨ててしまってきたもの
を、いのちを肯定することによって改めて自分のものと
すればいいだけのこと。それを、あるはずもない彼岸に
夢見て、どこまでもめざして追い求めていたのではない
だろうか。自分で「自由」を否定していたことに気が付
きもしないで。                  
 障害者は、「ありのままのいのちを肯定して生きる」
ことに自分で決めて、自分でも一応の覚悟はして飛び込
んでみたものの、なんのことはない、自分はいままでど
うりここにいる。けれど、わたしたち障害者はここで自
分のいのちを生き抜くことから、限りない「自由」の世
界を手に入れることができるのだ。そういう世界の片隅
に、ヒロコは、自分でも気付かないところで足をふみ入
れていたのだと言えます。はじめにわたしがヒロコの文
章を読んで感じた「ヒロコはいまの世界を突き破って、
向こう側に足をふみ入れているな」という言葉の中で言
いたかったことは、実はこのことなのです。     
 しかし、これだけのことに思い至るまでに、わたしに
しても、遠藤さんにしても「ずいぶん遠回りもしていた
し、時間もかけてしまったな」というのが正直なところ
でした。「もっと早く気付いていたらこんな回り道は二
人ともしなくてすんだのに──」と、少しは残念な思い
もしてしまいました。               
 わたしたち二人がこんな議論をしながら書いていった
ものが、『だから人間なんだ』に書いた文章だったので
す。あなたの文章『ヒロコからのメッセージ』は、わた
しにとって一つの重要なきっかけになったのです。  
 
 だから、『ヒロコからのメッセージ』を、わたしは他
の誰よりもまず「わたしへのメッセージ」として受け止
めました。

3 出会いの中で

 まだわたしがヒロコと直接会う前に、わたしの中でこ
んな経過をたどってわたしはあなたに出会い、それで、
遠藤さんの分も含めて、真理ちゃんの案内であなたを訪
ねることになったのです。
 それは、1985年4月11日のことでした。この日わ
たしは、車で真理ちゃんを家まで迎えにいき、そして真
理ちゃんの案内であなたの病院を訪ねました。街にはま
だ桜の花が咲き乱れていて、春の息吹が街中にあふれて
いました。けれど、曇りがちの空は、わたしと真理ちゃ
んが病院へ着く頃には雨になってしまいました。
 この時のわたしは、実はヒロコに対して、養護学校の
卒業の記念に発行された新聞に載っていたあなたの写真
を見て、先入観を持っていました。だから、あなたに会
うまでは、どんな子なんだろうと少し心配でした。けれ
ど、面会時間がきて、わたしが会ったあなたはそんな心
配をいっぺんに吹きとばしてくれました。
 しばらくあなたと真理ちゃんが話をしてから、真理ち
ゃんに紹介されてわたしと話をしだしたヒロコは、ひと
みをキラキラさせていました。わたしはあなたのおでこ
に指で文字を書いて、あなたにわたしや遠藤さんからの
メッセージを伝えようと夢中になっていました。これま
で体験したことのない、不思議な空間に引きずり込まれ
るような気分になりながら──。          
 わたしは、あなたに伝えておきたいことや、あなたの
文章をこれから作る本に収録したいというわたしと遠藤
さんの意向を言葉にして、その文字をあなたのおでこに
指で書き綴ったものでした。それは、わたしにとって、
驚きに満ちたうれしい出会いでした。そして、またたく
間に2時間が過ぎていきました。          

 
ヒロコヘ(1)
     1985・4・20

はだかのいのちを
みつけたあなたの
心に扉はもういらない
いのちをはだかにして
生きるからだに
鎖はもういらない

手をさしのべて
あるいてごらん
心をはだかにして
自分のカラから
とびだしてごらん

あなたが
あなたのいのちを
祝福するように
あなたの仲間も
あなたのいのちを
祝福するだろう   

 
心はいつもふるさとへ
        1985・6・7    

背中のいたみが        
体中をおそうとき       
ヒロコの心にひろがったのは  
不安とさびしさだけだったのか 
               
どんな時間を         
過ごしてきたのだろう     
ふるさとの花に似た      
詩画集の花に心を       
なぐさめられたと語るヒロコは 
               
ふるさとをはなれて──    
心はいつもふるさとへ
ベットのうえで        
思いをつのらせていたのだろうか

 
かなしみに涙
   1985・6・18

かなしみに涙
流さないこと
えがおでいられるってこと
それだから
ヒロコはヒロコでいるんだね
かなしみに涙
ながすのがあたりまえと
思うのもおかしな話さ
けれどヒロコのいのちそのものが
ふみにじられた時
ひょっとするとからだは正直に
反応してきたのかも知れないね

だとしたら人に認められることで
人は生かされるのではなく
自分で生かしたいと生きるから
生きてくるんだということを
思いおこしてほしい
ヒロコの心を人に        
認めてほしいとヒロコが
心を砕いてきたのなら      
もうそんなことはやめて     
結果をこれ以上考えたり
結果にわずらわされないで    
まず自分がやりたいことをやり  
言いたいことを言う自分を    
大切にしてほしい        
                
まわりの人に
わかる感覚があるなら      
わかってもらえるし       
わかる感覚をもとうとしない人には
どんなに言っても        
わかってもらえないのだから── 
                
ヒロコはヒロコで
自分を生かしあえる世界を    
これからは           
作っていけばいいだけなのだから 

 
ヒロコへ(2) 1985・7・6

この世界でひとつの
いのちのすばらしさに立つヒロコへ

あなたより少しだけ長く生きてきた
いのちの一人として
障害をもって生きる
おなじいのちの一人として
あなたに伝えたい

わたしはあなたのいのちを
ありのままのあなたを祝福していると
あなたがどんな状況にあっても
あなたのいのちのすべてを
あなたの人生のすべてを
わたしは祝福していくと

わたしはいのちをすばらしく生きる
だからあなたも
いのちをすばらしく
せいいっぱい生きぬいてほしいと

 
ヒロコからのメッセージ
            1985・9・23    
                
あなたのメッセージ
2年おくれで受け取りました
                
あなたの言葉でわたしは     
わたしのありのままのいのち
自分で祝福して         
生きていけばいいと       
思い切ることができました    

あなたのいのちに出会えて    
わたしはうれしさでいっぱいです 
光も音も閉ざした空間に     
生きてきたあなたのいのち    
わたしはわたしで受け止めましょう
                
これからはあなたも
自分から自分のいのちを生かして 
心を自由にはばたかせて     
生きてほしい
あなたは改めて自分の
光も音も取り戻したのだから

 
ヒロコへ(3)
     1985・11・1

はたちになるあなたのはなむけに
贈る言葉を気どれないから
わたしの心のモットーを伝えます

ほんとうのうれしさを知るために
ほんとうのかなしさを知るために
うれしい時には笑顔にみちた
よろこびの声をあげ
かなしい時には涙の川を
ながすのもいいもんだ

だからいのちにすなおになって
あなたは自分の時間をうたえ
あなたは自分のいのちをうたえ
あなたは自分の未来をうたえ
そしてなによりあなたは  
ありのままの自分をうたえ 
             
はたちからの旅立ちに   
ひとこと言っておきたい
あなたへ「おめでとう」と 

 
ヒロコへ(4)
     1985・12・26  
            
いてついた体の中で   
かぼそいいのちの火を
もやしつづけていた   
ヒロコよ きみは    
冬の寒さをつきやぶって 
もえいでるいのちのように
きみのいのちをもやせ  
            
気がついてみたら    
一人の孤独な世界で
もとめづづけていた
ヒロコよ きみの
メッセージは受けとったから
伝えようきみの心に
わたしのいのちの思いを

目の前のいのちを
いいとは言えないでいた自分を
やぶりすててみたら
ヒロコよ ここが
夢にも思わなかった
いのちを肯定しあう人の
自由に生きる大地

人に気がねすることも
自分に気がねすることも
いらないのだから
ヒロコよ きみは
自分のいのちをもやし
いのちの赴くままに
生きぬいていけ

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