鏡よ鏡・いい出会いをこれからも
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いい出会いをこれからも

 
              〔障害と引換えに生きた四十年の中間報告〕

 
 私は、一九四七年六月、山梨県北巨摩郡白州町白須という甲府から長野県へぬける街道
にある、甲斐駒ケ岳のふもとの村で生まれた。生まれ落ちて一年と四ケ月はそれでも順調
に育っていた。だが、自分でそろそろ歩きはじめるという時に、私は、小児マヒというウ
イルスに神経をおかされる「病気」に出会った。
 その時の私は、四十度ぐらいの高熱に四日間ぐらい寝込み、生死の境をさまよっていた
という。医者に見せても、熱を下げる手立てをするぐらいで、他になんの手の打ちようも
ない病気である。それでも熱も下がり、元気を取り戻したはずの私は、その時、歩く力を
すでに失っていたという。私は、生きのびることと引換えに、左足に小児マヒ(ポリオ)
という障害をもつことになった。私は、熱を出す前のもとの体に戻らず、歩けなくなった
のである。
 当時はまだ、私の「病気」の病名はあまり知られていなかった。ただ、子供(小児)が
かかりやすい「病気」だったので、小児マヒといわれていたはずである。けれど、その原
因は明らかにされていなかった。しかも、田舎の病院のゆえ、この「病気」の存在さえ知
らない医者が多かったらしく、しばらく私のかかった「病気」の病名は、わからなかった
ようである。
 その頃の母は、私の降ってわいた「病気」の結果、歩けなくなった私の足に対する悩み
だけでなく、親類縁者の中にとんでもない災難をもたらした母に対する周囲の無形のそし
りに、立場をなくして、心中(しんちゅう)心休まることがなかっただろうと思う。当時
の社会状況では、こうした災難の結果、離婚させられたり、家を追い出された「嫁」がす
くなからずいて、そうした話は、私が高校生になった頃に新聞でさわがれた、サリドマイ
ド禍で奇形児が生まれた時にも伝え聞くことがあったほどである。
 その後、私がどういう経過をたどって再び歩き出せるようになったのか、細かい話は知
らないが、とりあえず、母は私の足の治療のために、私を背負って実家(現山梨市)に行
き、もらった鶏の卵を売って病院の費用や謝礼にして、山梨県内の韮崎や甲府あたりの病
院を尋ねて医者に通ったり、電気マッサージ器(いまでいう電気風呂のこと)がいいと聞
けば、その治療器を持っている家を訪ねて、私に治療を受けさせるために母もいっしょに
お風呂に入れてもらったりしたという。母、二十六歳の頃の話である。
 そうした母の(たぶん)悲しいまでの私に対する努力は、病院がよいから始まって、一
家で東京へ出てきてからも、「手足の不自由な子供を育てる親の会」の活動として、私が
高校生になるまで続けられた。そんな母の努力が、むくわれたかどうかを私は知らない。
けれど、小学校へあがってしばらくは、疲れやすく、長い距離を歩くことができず、その
たびに、私は、父や母の背中にやっかいになっていたのだが、小学校四年生頃には、それ
なりに自分で跳ね回れる脚力がついていた。
 ところが、私は、物心つきはじめる頃から、自分の小児マヒ(ポリオ)の足のことを他
人(ひと)から悪くいわれて、子供心にくやしい思いをしてきた。その度に、私は「なん
でこんな体に生んだんだ」と、母に対して子供ながらの悪たれをよくついたものだ。いま
にして思えば、なんと気の毒なことをいったのだろうと感じるが、その当時は子供心に、
時には怒りを交えて、私は母にくってかかったものだ。私から、そんな言葉を聞かされた
母は、その時、三十四歳を数えていたと思う。
 そんな私が、その頃の母の歳を超えてすでに久しい。そして、私のいまの歳、四十歳ぐ
らいになるまで、母はそれから五年や六年はたっぷりと私の泣きごとを聞かされていた。
ともすると、私の母に対する場合は、もっと長かったかも知れない──。
 自分の体に刻まれた障害というしるしに対する私のいきどおりは、私が二十を過ぎても
根本的になくならなかった。しかし、私が二十を過ぎてからも、母に対してそれを出し続
けていたというのではない。私は、自分で、障害があるということは、自分が生きる上で
マイナスなことであり、それは絶望を意味すると思い込んでいただけの話である。
 いずれにしても、子供の私から悪たれをつかれるたびに、母は、私を納得させることが
できず、母に対する雑言は感情的になることはあっても、私の気のすむまでおさまること
がなかった。だから母はよけいに、私から悪たれをつかれるたびに、自分の子供に対する
引け目や説得しきれない自分自身へのもどかしさに、内心、ずいぶんと心を傷めていたの
だと思う。
 そんな母に私はよく、子供の頃、「危ない(ころぶ)から走っちゃダメ」とか、「足が
悪いんだからムリしちゃダメ」などといわれていた。障害を人生の負目と考えた母が、私
に示した心づかいとはうらはらに、私は母から「足が悪いんだ」と言われるたびに、「自
分の足は他人(ひと)よりも劣っている」と、負目や劣等感を私の心の中に育てていたの
である。
 そして、この負目や劣等感に対する反発が、不幸にも、私の母や周囲の人への反発とな
っていたと、いまでは思う。だから、母の私に対する心づかいがどんなにすばらしいもの
であったといっても、母が、私の障害に直面した時に、私の中に先入観として「負目や劣
等感」を育てたことを、いまでも私は残念に思っている。母や周囲の人に影響を受けた、
こうした先入観から私が脱皮するまでに費やした時間の長さを考えてみると、そこは、ど
うしてもひとことこだわってしまう部分である。これまでの私の心は、そうした結論に出
会うために、絶えずさまよい続けていたからである。
 もうすこし母が私に対して違ったいいかた、例えば、ずばり「おまえは死ぬかも知れな
い目にあったけれど、足の機能と引換えに生きてきたいのちをもっているのだから、障害
があろうと少しも負目に思うことはない。自分のいのちを存分に生かす生き方を自分で探
して生きて行くんだよ。母さんはいつも応援するからね」とでも、物心つく頃から、もし
私が母から聞かされていたとしたら、私は母をまるごと尊敬しただろうし、私自身、自分
の生き方を探し出すのに遠回りをしないで、もっと若い時から、ほんとうに私自身がやり
たいことをやって生きてこれたと思う。
 ちなみに、私が、こうした一切の先入観から抜け出せたのは、三十七歳から三十八歳に
かけてで、友人の障害者・遠藤滋氏と『だから人間なんだ』という本を創る過程において
である。振り返ってみると、やはり、遠回りしすぎたと思う。しかし、両親の生きた社会
状況を考えれば、それを両親に望むのは無理な話だったと言えなくもない。逆に両親は、
私をひとり歩きさせることで、私にすばらしい仲間と出会う機会をもたらし、「障害と引
換えに生きることは、少しもいのちにとってマイナスなことでもなく、むしろ、すばらし
いいのちにたって障害者は生きているんだ」と、自分から気付くきっかけを作ってくれた
とも言える。だから、その意味ではいまは、私は両親に心から感謝している。
 それだけに、私は、これまでには生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたこともある二人
に、これから先は、「いまのいのちを生かせるだけ生かしあうこと」だけを考えて生きて
ほしいと思う。だが、自分で自分のいのちを否定して生きていては、例えどんな長生きが
できたところで、ほんとうに自分のいのちを生かすことも、心から生きることを楽しむこ
ともできないのだから、私は、両親だけでなく、私のほかの家族の人や私と出会うすべて
の人にもできるならそうしてほしいと思う。これを聞かされた人が、「おせっかいだ。い
い加減にしてくれ」と思われようと──、私が出会うすべての人に伝えたい。
 「ありのままのいのちを祝福(肯定)して、やりたいことをやって、もっともっといの
ちを生かしあって生きよう!」と。
 そんなことを言っている私ですが、三年前に六年近くを共に過ごした人と別れて、ただ
いまひとり。ふたりの間に子供ができなかったことから、子供が欲しいので生活や自分の
体のことをもう少し考えて生活しないか、と言ったとたん、相手から「わたしのかってで
しょ」と言われたことが、私の中で別れる決意をする決定的引金になってしまったことが
原因です。でも、彼女と共に六年近くを過ごしてきたから、それまでの私がいのちを否定
して生きていたことに、私は気付けたのかも知れません。
 そこのところは、私が他の生き方をしたわけでも、他の生き方と較べられるわけでもな
いから、ほんとうのことはわかりません。でも、この六年に及ぶ生活が壊れる時は、二人
にとってギスギスした、みじめなもので、私も相手に対して怒りをおさえることができな
くなったけれど、この時の体験が、私にとってそのあと決定的にプラスに作用したことだ
けは事実。その意味で私は、彼女に対していまは心から感謝しています。
 私はこの先、私が障害者になれた幸運を生かして、いのちを生かしあう『農場=自然』
に根をはった、人間の社会的つながり、『ケア生活くらぶ』と『ケア生活館(社会福祉法
人)』を創っていこうとしています。この過程で、私といのちを生かしあいたいという女
性(ひと)と出会えたら、私は、改めてその女性(ひと)と生活して生きていきたい。で
も、これからの私が、はたしてどのように生きていけるのか、それはもう時間の流れにま
かせきって、私は私で、いまはこのいのち、生かせるだけ生かして生きていくことにして
います。それで、一人のまま死ぬことがあっても、また、『計画』のひとつも実現できず
にいのちの終わりを迎えたとしても、それはそれでいいと私は思っています。だからとい
って、私は自分から死に急ぐこともしないし、自分からどんないのちももう否定して生き
ることはないでしょう。
 けれど、最近、まわりの状況に不安を感じている人が、自分でも自分を暗い気分に追い
込んで生きていることが多いようですね。心が痛みます。いまの私は、微塵も不安に悩ま
されることはないし、この状況の中で未来がないとも思っていません。だから、あえて未
来に望みを託したり、見せかけの態度(虚像)や飾りもの(ブランド品)で身をかためて
手応えのない生活をしようとも思いません。
 いまはただ、自分のいのちを肯定して、このいのちに目いっぱい立って生きていけば、
その先にすべてを見いだせると思っています。だから私はいま、自分のほんとうにやりた
いことをやりながら、いろんな人とできるかぎりいのちを生かしあって生きようとしてい
ます。この一つひとつの積み重ねの上に、たぶん私はこれまで以上に、手にあまるすばら
しい時間と生活と人との出会いを体験することになるでしょう。
 でも、私は、そうしたすばらしい時間と生活と出会いを一人占めしようとは思っていま
せん。だから、あなたも私と同じように『すばらしいいのちと人との出会い』を手に入れ
ようと思うなら、あなたはあなたの方法で手に入れればいいわけだし、もし、あなたも一
人では心もとないというのであれば、自分で自分の仲間を作ればよいと思う。
 けれど、私の仲間たちと同じ方法で「ありのままのいのちを祝福(肯定)し、いのちを
生かしあう」かかわりを、これからあなたも私たちといっしょに創りたいというのであれ
ば、私は、あなたのかけがえのない仲間になりたいと思います。
                                   1987・6・26

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