新聞が出てくる有名な guajira の歌詞があります。
A mí me gusta por la mañana | 俺の楽しみゃ朝方に |
Después del café bebío | コーヒー飲んだその後で |
pasearme por la Habana | ハバナの町をぶらつくことさ。 |
con un tabaco encendío | 火のついた葉巻くわえて、 |
y sentarme yo en mi silla, | いつもの椅子に腰掛ける。 |
en mi silla o silletón | 椅子といおうか大腰掛けか・・・。 |
y comprarme un papelón | それから日刊とか呼ばれる |
de esos que llaman diario | 例の大きな紙っ切れを買うのさ。 |
y parezco un millonario, | そうすりゃ、俺も見えるだろう、 |
rico de la población | いっぱし、この町のお大尽に。 |
飯野昭夫訳 (Gran Crónica del Cante II) |
Guajira の歌詞はフラメンコには珍しく伝統的に10行詩の形をとります (濱田滋郎 『フラメンコの歴史』, p. 315)。 押韻は ABBAACCDDC だそうですが (ibid.)、 上の歌詞は ABABXCCDDC でちょっと違いますね。
さて、歌詞の内容はごく単純、午前中コーヒーを飲んだ後、 火のついた葉巻をもってハバナの町を散歩するのが好きだ、 というのが最初の4行。 それからイスに座って新聞を買う (のも好きで)、 すると俺も町の大金持ちのように見えるだろ、というのが後半です。
ここで「新聞」は diario ですが、 素直に「新聞を買う comprarme un diario」 とは言っていません。 ちょっとちゃんと見てみると、 買うのは papelón で、 これは「紙」papel に増大辞 -ón がついたものでしょうから 「でかい紙」です。 でもこれで終わりじゃない。 un papelón de esos は一つながりで、 「それらのもののひとつのでかい紙」つまり「そういった類のでかい紙のひとつ」 と言っています (文法教師お得意の言い換えをすれば uno de esos papelones)。 で、それがどういう類のものかが que llaman diario で、 que は関係代名詞ですから 「diario と呼ぶところの」 ということになるわけです。
ここで「呼ぶところの」ったって誰が、というのが問題になります。 llaman だから3人称複数形ですが、 これは具体的な「彼ら」がいるのではなくて、 誰がということをはっきりさせない言い方でしょう。 「diario と呼ばれている」 と言った方が日本語としてより自然になる、 と文法の教師だったら言うところです。 誰かがそう呼んでいる、みんながそう呼んでいるという風に考えても良い。 全体としては「新聞っていうあのでかい紙束をなにか一つ買って」 ぐらいでしょうか。
さて、ようやく僕の言いたいことを言う準備が整いました。 「新聞っていうあのでかい紙束をなにか一つ買って」 という言い方から推測できるのは、 この歌詞の「俺」は字が読めないということです。 新聞を新聞として日常的に利用している、つまり読んでいる人ならば comprarme un diario とだけ言えば済むことです。 「っていう llaman」 の3人称複数も気になります。 こんな面倒な言い方をしたのは、 guajira の形式に合わせるため、 あるいはコミカルな言い方にするため (mi silla o silletón なんかもそうかな) とかも考えられますし、 表現の効果という点からはそれだけのことでしょうが、 その効果も、読めない「シンブン」を広げて、 さあ、金持ちの旦那みたいだろ、 と言っている「俺」の姿におかしみがあるからこそ生きてくるわけです。
いや、それは「おかしみ」じゃなくてむしろ「かなしみ」だと言うのなら、 それでも良いんですが、 少なくとも押さえておきたいことは、 字が読めることが当たり前以前であるような世界とは別の世界があって、 フラメンコはそういう人々の間で歌われてきたということです。 僕が見たことのある複数の日本語訳では、 その辺があまりはっきりしないので、 ちょっと書いてみました。
2003/08/15 (2001/06/11)
KAWAKAMI Shigenobu