臨済宗妙心寺派 天長山是照院

是照院小史

是照院由来

宗派 臨済宗妙心寺派

山号 天長山 「天長地久」に由来している。創建当時から御殿山南側斜面という事もあって、日中は燦燦と日が当たることから「天は長く是れを照らす」という意味から寺号を是照院としたものと思われる

本尊 釈迦牟尼佛

開山 石院祖薀禅師(せきいんそおん) 平林寺の世代

開基 是照院月江宗清居士

中興開基 松平右京太夫輝貞公

開創 寛文三年(1663)※平成25年(2013)に開創三百五十年を迎えた

開山 石院祖薀 禅師

道号 石院 諱 祖薀。俗姓酒井氏。

慶長八年(1603)に生まれ、幼年より岩槻平林寺の雲峰宗怡(うんぽうそうたい)禅師、随圓宗器(ずいえんそうき)禅師に侍し、長じて妙心寺の愚堂東寔禅師、甲斐の恵林寺等に掛搭、諸方の叢林を歴参し、再び平林寺に帰参して幽巖祖岑(ゆうがんそきん)禅師に嗣法する。

萬治三年(1660)に平林寺の住持となったが、寛文三年(1663)に平林寺は岩槻から現在の野火止へ移転、本師である幽巌祖岑禅師と共にこれを成し遂げた。この年、実弟の酒井源兵衛友俊が小石川戸崎町の屋敷地を石院に寄せ、兄の隠棲の地として寺社奉行に願い出、新寺建立並びに坪数等を願の通り相済まし、山号を天長山とした。

父四郎左衛門友完の法名、是照院月江宗清居士に因んで寺号を是照院とし、開基とした

以後再び平林寺に在ったが、寛文九年三月一日に勅を奉じて妙心寺に出世する。しばらく平林寺に居した後、後席を黙雲禅宜(もくうんぜんぎ)に譲り是照院に退いた。

貞享四年(1687)正月八日に示寂する。世寿八十五歳、法嗣に黙雲禅宜、一山祖第がある。

是照院第二世には一山祖第(いっさんそてい)、三世を関霊祖関(かんれいそかん)が後席を継いだ。

『独妙禅師年譜補注』の正徳三年の条、「石院」の注に次のようにある(原漢文。龍吟社版『白隠和尚全集』第1巻89頁)。

諱は宗薀。久しく愚堂に侍し、其の蘊奥(うんのう)を究む。後に武の平林に住し、大いに宗乗を唱う。鉄堂、鉄髄、州府臨済の喝首座、濃の均首座等、師の門に出づ。師、辛辣にして当たり難し。一日、衆皆な起単す。鉄堂諌めて曰く「和尚辛厳にして、人の住まり得る無し。乞う、省みて慈を加えよ」と。師、咄して曰く「龍門千仭、豈に蝦蜆{かけん}の輩{ともがら}を留めんや」。平生垂語して曰く、「向イ通ルハ清十郎ジヤ無イカ、笠ガ能ク似タ莎笠ガ」。二十年、其の機に契う者無し。

石院宗薀は、白隠が参じた菩提樹院の頂門和尚や、宝泰寺の澄水、伊豆松崎禅海寺の鉄髄、若狭円照寺の鉄堂の師匠で、白隠より二世代上の人だから、石院の「清十郎節」のことは白隠も聞き知っていたはずである。白隠の『碧巌録秘抄』でも二箇所にこの歌がでる。

「向ひ透るは清十郎じやないか、笠がよふ似た菅がさが」は、すべての人が清十郎に見えるところ、すなわち平等無差別のところをいう。それに対して「笠が似たとて清十郎であらば、御伊勢参りは皆清十郎」は、平等無差別の否定、平等の中の差別をいう。

いま白隠が観音賛に「笠がよく似たすげがさが」とつけるのも、平等無差別に済度する観音菩薩の大慈悲のこころをいうのであろう。

高崎藩松平家との関係

関霊祖関禅師が在住していた享保六年(1721)と十年(1725)の度重なる小石川戸崎町界隈の大火によって当院は類焼した。

伽藍の復興のないまま、関霊祖関、心田禅苗の二代は間口三間、奥行二間半の仮堂にあって、弟子養成の期間もなく法系が断絶した。

その後平林寺の霊峰禅魯の法嗣石梯義亨が入寺し、桐峰祖梁の弟子江天義北が移って中興開山となり、石梯義亨の法を嗣いで平林寺法流を復興。

 

高崎藩大河内松平家の藩主大河内松平右京太夫輝貞公の援助の下、間口七間奥行五間の本堂を再興し、ついで仏間三間奥行二間 玄関二間奥行一間半、中玄関同前表裏廊下五間、庫裏七間奥行二間半、土蔵三間に二間半、表門三間に一間半、中門、霊屋二間に一間半などを造営、慈徳庵という塔頭を伴い秘仏の千手観音像を安座し、加えて稲荷疱瘡神を祀ってこれを鎮守とする。

爾来、輝貞公正輝貞公正室の長慶院殿の塔所となったのをはじめ、裏方子女の香華所として、右京太夫家高崎藩藩士の菩提寺として護持されてゆくことになり、右京太夫輝貞公が中興開基となった。

寺紋も高崎藩大河内家の家紋である高崎扇と定められている。 その後当院は平林寺の子院として、平林寺の江戸方面の寺院に対する中継所的な役割を果たすことになってゆく。

三遊亭円朝との関係

歴代の住職の中で十五世永泉玄昌禅師は、かの初代三遊亭円朝の義兄であり、円朝晩年の禅への傾倒の端緒を付けた人物として知られている。永泉玄昌の実母なかが円朝の実父初代橘家圓太郎と再婚し、産まれたのが円朝である。

円朝は、二代目三遊亭円生のもとに入門し、前座名 小円太として7歳で初高座を務めた。実母は、円朝を一時は紙屋の丁稚奉公に行かせ、芸の世界から足を洗わせようとしたのだがそれになじまず、また寺子屋にも行かずに芸の世界にのめり込んでゆくのを見て、彼の将来を悲観したという。

玄昌が谷中南泉寺の弟子となり、京都東福寺で修行、南泉寺に戻ってからは小円太と度々会ったりしたようである。暫くして南泉寺の法縁の寺である同じ谷中の無住の寺であった長安寺を看護することになり、実母と小円太とを長安寺に引き取って3人での生活を始めることになる。

そのころには小円太は長安寺の本堂でひとり本尊と向き合い、ここでもひたすらに落語の稽古を積んでいた。

そんな義理の弟の真剣な様を見るたび、玄昌も母も芸の道に進むことを認め、ついに大円朝と呼ばれるほどの人物となってゆく基礎を作った。

その後、玄昌は小石川是照院の職としての拝請を受け、当院に住職することになるのだが、就任後半年を待たずして病に倒れ、母と二人で根岸のしもたやで闘病、行年32歳という若さで示寂する。

円朝は多感な少年期に義兄玄昌から内面的な多くの影響を受け、後年、山岡鉄舟との交流に端を発し、参禅に勤しむこととなる。 玄昌が是照院に住したころには円朝も何度か足を運んだことは想像に難くない。

当院の寺紋が前述の通り高崎家扇であったのを見た円朝は自身の家紋として使うことを思いつき、高崎藩大河内家(おそらく大河内輝聲(てるな))に許可を得た。藩主から羽織を拝領し、自らの家紋として高座着に附けるようになったのである。

明治以降

大正期には、十九世劫外宗春和尚が住職に就任。布教活動を活発に行なう。特に平林寺峯尾大休老師を招いて毎月定例の坐禅会「見性会」にて講座を設け、大いに其の宗風を振るうこととなった。

宗春和尚は本堂をはじめとする諸堂再建に乗り出し、漸く昭和19年11月に本堂庫裡を新築するも、翌月の12月20日、青森県八戸方面を布教活動中に脳卒中で遷化する。更に翌昭和20年3月の東京大空襲にて新築の本堂庫裡は全て廃塵に伏し、ただ観音堂のみを残すこととなった。

追い打ちをかけるように、次期住職として嘱望されていた徒弟も同年7月に病で逝去してしまい、数年間の無住時代を経て、宗悦宗晏和尚が二十世として住職に就任する。

昭和57年、宗悦和尚により本堂を再建、ようやく今日の輪環が整う。

平成16年2月に現住職就任。永代供養「普門塔」建立、門柱建立、 境内駐車場、竹垣フェンスの整備等を行う。毎週土曜の坐禅会、町会による年末餅つき会、夏の子どもまつり、更に全国の協力寺院と共に、「お寺で婚活」吉縁会の東京事務局として活動している。

正法山 妙心寺


妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派の大本山で山号を正法山とする。開基花園天皇、開山関山慧玄(無相大師)禅師。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)とされる。 国内のる臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占め、近世に再建された三門、仏殿、法堂を中心とした七堂伽藍の周囲に47に及ぶ塔頭寺院があり、一大寺院群を形成している。

関山慧玄(無相大師)禅師

関山慧玄(かんざんえげん 建治3年(1277)~延文5年12月12日(1361)は信濃国高井郡の国人領主高梨氏で高梨高家の子として出生、後に朝廷より本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられ、また、明治天皇から無相大師と追諡された。

叔父の月谷宗忠に就き得度、1307年その師である鎌倉建長寺南浦紹明(大応国師)の下に入る。慧眼の法名を授かり、南浦寂後も鎌倉にあって物外可什、巨山志源などに参禅。 建長寺開山・蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じ、ここで宗峰妙超(大燈国師)を紹介され、京都大徳寺に遷って宗峰に師事。1329年に雲門の関字の公案で大悟し、宗峰がこれを証して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。

その後、美濃の伊深に草庵を結んで隠棲。 1337年、花園上皇は、旧室町院領仁和寺花園にあった離宮を禅苑に改めて、その寺名の命名と開山となる禅僧の推薦を宗峰に依頼、関山を推挙し、1342年に関山は妙心寺開山となった。 禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、枯淡な禅風で修禅に専念したという。『沙石集』には「本朝ならびなき禅哲なり」と称賛されている。形式に拘らず厳しく弟子を指導し、法嗣は授翁宗弼(じゅおう そうひつ)ただ一人であり、また妙心寺の伽藍整備や経営に拘泥することはなかった。 1361年12月12日、関山は旅の支度をして授翁に行脚に出るといい、「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。遺体は本山の東北の隅に葬られ、その場所が後の開山堂微笑庵となっている。遺戒は授翁が門下の雲山宗峨に成文させ、今日「無相大師遺誡」と称し読誦されている。

関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状以外にほとんど残されていない。さらに遺命して肖像を残させなかったため、今日の関山像は後世に作成された物である。

南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大燈国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応燈関」といい、現在、臨済宗はみなこの法系に属し、後に白隠慧鶴が出て、他が絶法したのに対し、現在もその法燈を伝える。



一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう

人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう

生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう



わが身をこのまま空なりと観じて、静かに坐りましょう

衆生は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう

社会を心の花園と念じて、和やかに生きましょう