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解説

坐禅儀(ざぜんぎ)とは「禅宗四部録」に収められているもので、古くは百丈清規にもその原文があったと推測されています。坐禅の最も簡単な説明文として大変重要なものなので、声に出して読んでみると、意味が全部解らずとも、必ずや得るものがあるはずです。

よくよく考えてみたら 坐禅は安楽の法門であるのに 坐禅で病になる者が多いのは心掛けが間違っているからだ
和文読みに続いて簡単な現代語訳を付けました

夫れ般若(はんにゃ)を学ぶ菩薩(ぼさつ)は、

さて、仏の智慧を学ぼうとする菩薩(=悟りを開こうと努力するひと)とは

先(ま)ず当(まさ)に大悲心を起こし,

まず最初に衆生への底抜けの愛情をもち

弘誓(ぐせい)の願(がん)を発(おこ)し,

誓いの願いを持ち

精(たけ)く三昧(ざんまい)を修し,誓って衆生を度し,

純一に一生懸命に仏の悟りの境地へ向かうための精進を続け、あらゆる人々を悟りの道へ向かわせる

一身のために独り解脱を求めざるべきのみ

自分だけが悟りに到ることを考えているのではない

乃ち諸縁を放捨(ほうじゃ)し,万事を休息(くそく)し,

つまりは、あらゆるしがらみから離れ、考えたり思い浮かべることからも一旦休んで

身心一如にして動静間(どうじょうへだて)無く,

体も心も同じように静かに落ち着き

その飲食を量(はか)って多からず少なからず,

食事の量もほどほどにして

その睡眠を調えて節せず、恣(ほしいまま)にせず。

眠ることも過不足なく程々にせよ。

坐禅せんと欲する時、閑静処に於いて厚く坐物を敷き、寛く衣帯を繋け、威儀をして斉整ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。

坐禅をする時には静かな場所で厚く座布団を敷き、着物は緩くしながらも威儀を調えて、その上で結跏趺坐をしなさい。

先ず右の足を以て左の股の上に安じ、左の足を右の股の上に安ぜよ。或いは半跏趺坐も亦た可なり。

まず、右足を左の腿の上に置き、次に左足を右の腿の上に置くこと。または半跏趺坐でも良い。

但だ左の足を以て右の足を圧すのみ。

これは左の足を右の腿の上に置くだけである。

次に右の手を以て左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、

次に右手を左の脚の上に置き、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に重ね

両手の大拇指の面を以て相抽え、徐徐として身を挙し、前後左右反復謡振し、乃ち身を正しうして端座せよ。

両手の拇指を合せて法界定印を結び、ゆっくりと体を起こし、前後左右に2~3度揺らして、体をほぐし、然る後に体を真っすぐ立ててしっかりと坐ること。

左に傾き右に側(そばだ)ち、前に躬(かが)まり後ろに仰ぐことを得ざれ。

左右どちらかに傾いたり、前に屈むような形になったり、後ろにそっくりかえるようなことにならぬようにしなさい。

腰脊、頭頂、骨節相支えて、状(かたち)、浮屠(ふと)の如くならしめよ。又た身を聳(そび)やかすこと太だ過ぎて、

腰骨から背骨、頭のてっぺんまでまっすぐにして体を支え、その形が仏塔のように真っすぐになるようにしなさい。但し、胸を反りすぎたりして

人をして気急に不安ならしむることを得ざれ。

他人が見てて息苦しそうで心配になるような坐り方をしないように気をつけなさい。

耳と肩を対し、鼻と臍と対し、舌、上の顎を支え、唇歯相著けしめんことを要せよ。

耳と肩、鼻と臍がそれぞれ真っすぐになり、下ベロは上あごにひっつけ、唇と歯が引っ付かぬように気をつけなさい。

目は須らく微しく開いて昏睡を致すことを免れるべし。

眼は必ず少し開いておき、うっかり寝てしまわぬように気をつけなさい。

若し禅定を得れば、其の力最も勝る。

禅定の境地に入ることが出来ればその効果は最高である

古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。

昔のある高徳の僧が禅定に入るときいつも目を開けていた

向の法雲の円通禅師も、亦た人の目を閉じて坐禅するを訶して、以て黒山の鬼窟と謂えり。

開封の法雲寺におられた円通禅師も目を閉じて坐る者を叱って地獄の穴倉坐禅だと罵った

蓋し深旨有り。達者これを知るべし。

これは大変意味のある言葉で道に達した人だからこそ言えることだ

身相既に定まり、気息既に調い、然る後、臍腹を寛放し、一切善悪都て思量すること莫れ。

坐相が安定し呼吸が調ったら今度は下腹をゆったりとし全てのことを思慮思案するな

念起こらば即ち覚せよ。之れを覚すれば即ち失す。

思案が起こったらすぐにこれを覚まさせるものだ 覚ませばすぐに意識が無くなってしまう

久久に縁を忘じて自ら一片となる。此れ坐禅の要術なり。

ずっと意識が無くなっていくと自然と一つのかたまりになる これが坐禅の最も大切な方法だ

竊かに謂うに坐禅は乃し安楽の法門なり。

而も人多く疾を致すは蓋し用心を善くせざるが故なり。

若し善く此の意を得れば、即ち自然に四大軽安にして精神爽利に、

正念分明にして法味神を資け、寂然として清楽ならん。

若し已に発明ある者は、謂っつ可し、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たらん。

若し未だ発明有らざる者も、亦た乃ち風に因って火を吹けば、

力を用うること多からざらん。但だ肯心を辨ぜよ。必ず相賺らざれ。

然り而して道高ければ魔盛んにして、逆順万端なり。

但だ能く正念現前せば、一切留礙すること能わず。

楞厳経、天台の止観、圭峰を修証義の如き、具さに魔事を明かす。

預め不虞に備うる者は知らずんばある可らず。

もし定を出でんと欲せば、徐々として身を動かし、

安祥として起ち、卒暴なることを得ざれ。

出定の後も、一切時中、常に方便をなし、

定力を護持すること嬰児を護するが如くせよ。即ち定力成し易からん。

夫れ禅定の一門は最も急務たり。

もし安禅静慮ならずんば、這裏に到って総に須らく茫然たるべし。

所以に道う、珠を探るには、宜しく浪を静むべし。

水を動かせば取ること応に難かるべし。

定水澄清なれば、心珠自ら現ず。

故に円覚経に云く、無礙清浄の慧は皆禅定に依って生ずと。

法華経に云く、閑処に在ってその心を修摂し、安住不動なること須弥山の如くなるべしと。

是に知んぬ、凡を超え聖を越ゆるは必ず静縁を仮り、

坐脱立亡は須らく定力に憑るべし。

一生取辨するすらなお蹉陀たらんことを恐る。

況や乃ち遷延せば何をもってか業に敵せん。

故に古人云く、もし定力無くんば、死門に甘伏し、

目を覆いて空しく帰り、宛然として流浪せんと。

幸いに諸禅友、この文を三復せば、自利利他、同じく正覚を成ぜん。

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