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禅僧伝その1

【至道庵のこと】

昭和15年に公田連太郎氏によって「至道無難禅師集」が著わされ、偶々この小石川戸崎町の地に至道庵があったとのことを知り、その旧番地を頼りに「至道庵」跡地を歩いてみた。 現在の臨済宗の法系にとってこれほど大事な旧跡地が、宗門の徒によってさえ忘れ去られている現状を見るに堪えず、自らの浅学非才を省みることなくここにその足跡を記すべきであると思い立ち、敢えて書き記すことにした。 尚、ここに記す内容の全ては前述の公田師の成果でありそれを掻い摘んで記述するに留める。向学の士は「至道無難禅師集」を手に執って熟読されたい。

【至道庵縁起】

至道庵は至道無難禅師が創建されたものであり、犬山の輝東庵、飯山の正受庵と共に天下の三庵の一つとされ、臨済宗において尊重されてている霊域であることは謂うに及ばない。 至道無難禅師は愚堂東寔禅師(ぐどうとうしょくぜんじ 愚堂国師)の法嗣(ほっす)であり、今日臨済宗各派の碩徳の中、禅師の法孫でない御方は一人も無いことは今更申すまでも無い。禅師は関が原に慶長七年に出生し、俗姓三輪刑部太郎親明といい、愚堂国師に参じ慶安二年(1649)四十七歳の時、信心銘の中の一句「至道無難 唯だ揀擇を嫌う」の話を透過し、趙州、雪竇二大老の用處を徹見なされ国師は至道無難の号と平生持っておられたその拂子とを授けられた。 承応三年(1654)、禅師五十二歳の時国師に随って江戸の金杉正燈庵(現在の下谷竜泉正燈寺)に至り、薙髪得度し、ますます辛煉苦修し、遂に国師の附囑を受けられたがやがて国師の許を禮辞し、去って麻布の桜田百姓町なる東北庵に住し、自ら至道庵主と称していらっしゃった。 禅師が始めて東北庵に住せられた年月はわかりませぬが、萬治三年(1661)禅師五十八歳の時以前にここに住していらっしゃったのは確かである。後の正受庵道鏡慧端首座がこの年に此庵で薙髪得度なされたので分かります。口碑に伝うる所によれば、この間子供に手習いを教えていらっしゃったともいい、また謡を教えていらっしゃったとも云う。首座がはじめて相見なされたときには禪師は菰を以って臥具としていらっしゃったということである。 寛文七年東北庵を改め禅河山東北寺と称するに至りましたが禪師は開山として住することを欲せず法嗣慧端首座を挙げて之を主たらしめようとなされましたが首座も又故郷信州に帰ってしまいました。そこで愚堂国師晩年の弟子に洞天慧水首座という人が三田に隠棲して聖胎を長養し、日々禅師の門を叩いて蘊奥を尽くしておられましたがこの方を招いて東北寺開山とされました。延宝二年(1674)春に小石川戸崎町に地所家屋を求めて移られました。これが戸崎町の至道庵です。この頃、彫刻師をしてご自分の肖像を彫刻せしめ、平静持っておられた杖(しゅじょう)・竹篦・法衣・鉄鉢及び愚堂国師より伝えられた拂子を弟子の丹瑞に附囑なさった。 延宝四年(1676)八月十九日この地で遷化。世壽七十四歳。禅師の全身を東北寺に埋葬した。元禄九年(1696)に東北寺は麻布より現在地の広尾に移ったのだが禅師の塔所はもとのまま麻布にあった。安永四年(1776)禅師の百年遠諱の時麻布より広尾に移されることとなり、その年十月十七日東嶺和尚が東北寺より分骨して戸崎町至道庵にも塔が建てられた。 寛文十年の秋に「即心記」を著し、同十二年秋に「自性記」を記された。延宝二年に自性記に四枚書き添え、同四年に即心記に六枚を書き添えられた。 この二冊の假名法語が禅師の主たる著作であります。 禅師より印可を受けたのは正受庵道鏡慧端首座ですがその他に祥山丹瑞庵主(至道庵二世) 光応一外庵主(谷中幻住庵) 岩融円徹庵主(極楽水の庵) 明通清鑑庵主の四庵主がありました。三世には清鑑庵主の弟子で真達祖傳庵主が就かれました。祖傳庵主の在庵中、2度の火災に遇ったのですが2度当庵を新築された。その弟子の実参宗心庵主が四世ですが、この方はすぐに遷化され、瑞門智證が庵を受け継いだ。 五世には瑞門庵主の弟子恵サン庵主が住した。恵サン庵主が遷化後、当庵に住したとある僧がここを売り払い他所へ移ろうとしておりましたのを亀戸長壽寺泰梅和尚が聞き、遠州相良の常真寺和尚が買う事に約定が整いました。

【白隱、東嶺禅師による復興とその後】

宝暦九年秋、白隱禅師75歳の時、深川臨川寺にて碧巖録を提唱されていた。そんなある日長壽寺泰梅和尚が縁あって禅師に小石川至道庵のことをお話になった。禅師はすぐさま至道庵を自らが買う旨申し出られ泰梅和尚は常真寺和尚に断りの旨を伝え禅師によって復興の一歩を踏むこととなった。宝暦十二年の三月には禅師の法嗣東嶺禅師が当庵に入られ、度々法筵を開かれ、復興に尽力された。 明和三年二月十一日に白隱禅師八十二歳にして当庵に入られその復興をお悦びになり180日の間逗留され、その間、禅関策進 円遁者 無門關 闡提毒語 臨濟録 心經頌著語等を講筵された。このときに是照院からは江天義北和尚、桂林和尚のお二人が隨喜されている。 明和五年に禪師は原の松蔭寺で遷化されたが天明三年に禅師の分骨を授与され庵内に一基の石浮図を建立した。 その後、白木屋大村氏等の援助により漸く寺内の景観も整い、また度々東嶺禅師が逗留なさって提唱された。寛政四年に東嶺禅師は近江齢仙寺にて遷化され、至道庵にも分骨された。 その後服部坂龍興寺の兼務を経て嘉永五年以来、牛込済松寺の所属となった。明治23年頃南隠全愚禅師が至道庵の荒廃しておるのを再興しようとされ、庵に住んでおりました老婆と交渉された。その老婆が死去した後、その老婆の子斉藤何某が相続し、地所を金壱百圓にて細川男爵に売り渡してしまった。ここに戸崎町の至道庵は全く廃絶してしまったのである。

室号 韜光窟

埼玉県新座市野火止の平林寺専門道場を開單

蔓延元年南多摩横山村に生まれ、明治五年西笑院にて得度、同十三年に圓覺寺洪川宗温老師に就き後に釋宗演老師に嗣法する。西笑院にて住職し後に永田宝林僧堂師家となり、また圓覺寺の宗演老師の代参を務む。明治三十四年に平林寺晉山。

当時平林寺はなかなか住職が定まらず、紛糾の末に大休老師を拝請することとなり、師の住職就任とともに修行僧が参集し在家居士も多く集まることとなった。当時妙心寺派には名古屋以東の関東地方には専門道場が無く、それを求める空気が濃厚であったため、同三十六年1月には専門道場公認の請願書を提出、十月には開單を果たし、昭和十五年までに160人余の雲衲を摂得するに至った。

明治三十九年に実父の逝去の後、平林寺鎮守の半僧坊大權現の祠堂建立の志を立てた。 明治四十一年には妙心寺にて歴住開堂を行い、五八五世となる。 昭和十二年に妙心寺派管長となり昭和十六年には臨済宗管長となる。その間十五年には僧堂師家を退き、牧牛窟敬山老師に師席を託し隠棲する。 平成十八年には平林僧堂開單百年を迎え大休老師の遺風益々盛んとなっている。専門道場としての平林寺の礎を築いた方として永く記憶されるべき禅匠である。古老によれば、師の境涯底は海のように広く、また洒脱の風を持ち合わせていたとのことである。その詩作も数多く残されている。 参照「平林寺史」

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